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『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論((ベンヤミンの言う意味での「批評」である。まえがきでも触れたように,「芸術批評」あるいは「目覚めた歴史」というベンヤミンの方法,すなわち炎の比喩が結ぶ事実内容と真理内容の関係を意識している。ストリートの人類学は,その意味で芸術人類学であり,批評人類学であるはずである。芸術作品が現存する必然性は,この必然性を証明する批評行為によって達成される。不完全な言語としての芸術作品を完成させるのが批評である。芸術作品は批評を待っている。必然的に現存して

関根康正

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 本書の各章は,言うまでもないが,研究会の席上での発表と同じではない。各人の発表時の思考と3年半にわたる共同研究会の積み重ねとの交差によって実を結んだそれぞれの成果である。つまり各章は,それぞれの研究会メンバーの総括の意味がすでに込められている。最後に置かれる結章としての本章は,総括という名を名乗るが,本書に収められた各章を統合するという意味での総括ではないことは,予め断っておかなければならない。多人数のメンバーを擁した研究会であり,多岐にわたる各章の意図を受け取って的確に総合することは今少し後にしたいと考える。時間的制約のなかでの安易な総括の総括を今は避け,「ストリートの人類学」をめぐる研究会で折角出てきたいろいろな芽をそのままが開かれた形でもうしばらく伸びるのを見届けたい。そのために各章の成果を寝かす期間を設け,全員でじっくり多角的に味わって行きたい。主宰者ひとりの見解で,この時点でまとめあげてしまうことはかえって豊かな実を摘む行為になりかねないからである。したがって,本章は,本書の論文執筆者が共同研究会で発表した内容に学びつつ,まずもって共同研究を推進した者としての私自身の思考の総括であることを強調しておきたい。まとめるのではなく,膨らんできた議論のアリーナに私の総括的展望を投げ入れるのである。
 まえがきに記したとおり,幸い2006 年度から研究会の同じメンバーが参加した形で、4年間にわたる海外学術調査のための科学研究費補助金を得ているので,研究はさらに継続していける。各人のフィールドワークの進展とともに更なる研究の展開深化が期待できる。2009 年度で科研の調査研究を終えたところで,本書をさらに拡充した形で成果報告書を世に問えることになろう。


 現代世界に追いついていかなければならない「ストリートの人類学」は,そのための未踏の研究領域として設定された。私自身,これをどこまで追究できるかと模索し,格闘している。いろいろな研究上の出会いの過程を経て俎上に載せられることになったこのテーマは,探究する必要が緊急にあるとの確信は揺るがないし深まるばかりだ。その衝迫が支えなのである。
 本書のような報告書を踏み台にして,特に若い研究者が今後も各自の研究のなかでこのテーマを最前線の感覚と確実なフィールドワークによって展開していってもらいたいと切に思っている。そのために,本研究自体が問題視しているネオリベラリズムの奔流に,若い研究者を急激に巻き込み,過度に無用な競争にさらしたり,不安定な職場条件において研究を強いるようなことは止めなければならない。短期の資金提供でなく長期的な生活の安定化と研究環境の保証が枢要である。関係者の緊急にして適切な方向転換をお願いしておきたい。すでに多くの指摘があるように,理工系学問の偏重と人文学や社会科学の軽視が見られる近年の傾向は,研究費の配分の問題よりも安定性の高い研究者のポスト数の確保の問題として是正解決されなければならない。人文学・社会科学系の学問は,事実として人間社会にとっての実学であることを,本研究は身を持って示していきたいと思っているが,是非耳を傾けてもらいたい。大袈裟でなく,社会が分断解体しつつあるのである。私たちの研究はそれに歯止めをかけようというのだ。社会が解体してしまったならば,理工系の学問が力を発揮する場は存立しえないのである。社会は自然に与えられ続けるものでもないし,だからといって偏狭なナショナリストのように上から強権発動と洗脳教育によって強引に囲い込んで保持できるものでもない。そうではなくて,人が生きられる場が確保されさえすれば,そこには社会の健全な共同性が内発的に立ち上がるのである。社会の基本を作る,そういう場のあり方を探究している のが,人文社会系の学問である。大量の資金は要しないが,まっとうな研究には何より も時間がかかることを明記してもらいたい。若い研究者が論文数の生産に追われるので なく,若いときに挑戦的な時代の枢要な課題にじっくり取り組み始められるように安定 した研究の場と生活の保証を用意していかなければならない。


 「ストリートの人類学」という本研究はまさに今述べた生きられる場の探究である。それは容易なテーマではない。しかし,尻込みせずに取り組みたい。そのためにも,取り組む課題の未踏性を確かめておくことは大事だ。その感触を得るために,下に2つの文章を抜粋して紹介しておきたい。1つは加藤典洋の新聞コラムからで,「文学とは何か?」という問いに今日的に答えることの困難さが描かれている。もう1つは,NHKの『視点・論点』での「見えない群衆」と題する港千尋の話からである(港 2007)。生きられる場としてのストリートの探究の光景もこんな風になるのではないかとの印象で,総括の冒頭に少し長すぎるが予兆的に引用させてもらう。そこから,現代状況への「棒立ち」の必然と,その乗り越えの工夫の必要性が課題として見えてくる。また,「待機する群衆」はどこで待機しているのだろうか。広義のストリートなのではないだろうか。

 文学とは,この2冊(筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』,穂村弘『短歌の友人』)の教える「生の1回性」の感覚ではないだろうか。ただ,この間の社会の基盤の激変によってこれをヴィヴィッドに呼び出し,これに素朴に応対することが困難になった。「たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう」(今橋愛)。穂村はこんな若い歌人の歌をあげ,この歌は「殆ど棒立ちという印象」だが,その「過剰な棒立ち感」にいまは「奇妙な切実さや緊迫感」が宿っている,と言う。「棒立ち」とは想いと「うた」のあいだにレベル差がないこと。その背後では世界観が素朴化し,「自己意識そのものがフラット化している」。穂村によれば,「生の1回性」の感覚は先鋭な歌人たちのもとでこの「棒立ち」化を通じ,何とか「生き延び」ようとしている。……〈中略〉……彼(東浩紀)は,彼もまた,むろん文学とは「生の1回性」の感覚に基づくと言っている。ただ,従来の文学的な(自然主義的)イデオロギーを信じている限り,もうその生の1回性の感覚(文学)は回復できないと言う。自分の先行者である大塚英志は,まんが・アニメ的リアリズムでもって一時従来の純文学との対決を試みた(笙野頼子との純文学論争)。しかし大塚自身が「文学」の「生の1回性」をイデオロギーとして信じている分,まだそれでは不徹底である。そこから1歩進め,物語内の読解ではなく,物語外の関係性を含んだ環境的な読解へと進み,ゲーム的リアリズムともいうべき第3の読解のレベルを作り出さなければ今の広義の文学で起こっている「生の1回性」をめぐる先鋭な試みは取り出せない。これが東の言っていることである。むろん彼は,自分では,こうは言わない。「棒立ち」の姿勢つまりキャラクターとしての姿勢を崩さないいまの彼にそれは不可能である。(加藤典洋「文芸時評:生の1回性の感覚」『朝日新聞』 2008 年2月 27 日)

 少なくともベルリンの壁が崩壊するまで,群衆現象はマスメディアと切り離すことの出来ない関係にありました。権力は群衆の中から生まれ,また群衆は権力との緊張関係の中に存在するものですが,その関係をとりもつものとしてマスメディアが,影響力をもってきたのは歴史が教えるところです。……この 20 年間,特に 21 世紀に入ってから私たちは次々と新しい種類のメディアを手に入れることになりました。……それらとともに情報の配信技術も高度化し,映像や音楽をどこでも受信するだけでなく,個人がさまざまな情報を配信することも日常的なことになりました。……家や家庭といった特定の場所に固定されることから解放されています。……その一方で,超小型化したコンピュータが,人間社会のいたるところに入り込み,……そのことがもたらす効率や安全の旗印と引き換えに,私たちが非常に厳しい管理と監視の社会に生きなければならないとしたらどうでしょうか。……私はポスト産業社会ならぬ,ポスト情報化社会に,この地球全体が入りつつあることを実感するのです。そしてこのことが今日の群衆に,新たな性格を与え始めているように思えるのです。その 1 つは,疑似群衆の増大と名付けることが出来るでしょう。……実空間で互いに隔離されているのに,情報空間では互いに影響を与えられる具体的な関係をもっている擬似的な群衆が,実在の群衆を凌駕してしまうという現実です。……もう 1 つは非決定性の増大と呼ぶことが出来ると思います。かつてないほどの多くの情報チャンネルを持った個人は,意思の決定を先延ばしにする傾向があります。……歴史上さまざまな群衆が記録されてきましたが,私はポスト情報化社会を形成する最大の群衆は,目に見えないのではないかと思います。これをひとことで表すならば,待機する群衆と言えるかと思います。……地球上のどこにいても,情報システムを通じてつながっている群衆は,常に何かを待っている。たとえば労働の場において,非正社員や移民労働者の問題が指摘されていますが,それは見かたを変えると,常に待機することを余儀なくされるひとびとが増大している……待つ群衆がいかなる力を潜在させているのか,それが見えてくるかどうかは,芸術にとっても政治にとっても,無視の出来ないテーマになろうかと思っています。(港千尋「見えない群衆」『視点・論点』2007年7月17日放送)


1 ストリートの人類学の目標の画定──脱ネオリベラリズムのための人類学再考

 ストリートの人類学は,「都市の( of であり in である)人類学」ではあるが、「都市人類学」の部分をなすようなプロジェクトではない。「都市の人類学」研究者セタ・ロウは,編著『都市を理論化する』( Theorizing the City )』( Low 2005 (1999))という読本(論文集成)の序論で、こう述べる。人類学的都市研究は、都市とは何かという都市の本質主義を検討するのではなく,都市現象として現れている社会関係・象徴・政治経済などに関心を向けていくものであるとする*1。この見方に私は基本的に同意する。この意味での都市の人類学も,ストリートの人類学も,優れて現代社会全体の人類学そのものを探究するものである。歴史的に遡っても都市は,そして都市のストリートは,各時代の社会全体のあり方を敏感に先端的に反映し体現する場であったろう。その見方に同感するので,再びロウを少し長いが引用させてもらう。

 都市を理論化することは,我々が生きるこの変化するポスト工業化の・発展した,資本主義的・ポストモダン的な世界を理解するのに不可欠の役割を担っている。日常生活実践の場としての都市は,こうしたマクロな過程と,人間的な経験の織り方(肌理,組織)や編み方(合成)との連関に関して様々な洞察を与えてくれる。都市は,これらの連関を研究できる唯一の場であるというのではなく,都市においてこそ,(人間的なもの産出とともに)こうした連関過程が集中的に生起しており,そのことがもっとも良く理解されうるのである。こうして本書で描きだされる「都市」とは,1個の抽象概念の表すものではなく,都市民族誌によって描き出される都市生活や日常的実践の文化的,社会政治的顕現の研究の焦点化した場所のことなのである」( Low 2005 (1999): 2)。


 阿部年晴はこうした都市民族誌の視点とその重要性を,もっと大きな人類史のスケールで,もっと方法意識的で鋭角的に,しかももっと早くに指摘していた(阿部 1989)。関根の主宰した前回の民博共同研究「〈都市的なるもの〉とは何か?」の探究(関根 2004a)も,阿部の理論化ないし方法的自覚から照射すれば,その試みの位置もなおさら明確化できる。阿部は都市と都市的なものとを,都市的世界と非都市的世界という 2つの異なる原理に根ざす社会のあり方の比較(都市の脱親和化の方法)の視野の中で,区別する。その手続きによって,都市的なるものは非都市的世界にも存在することを見通す視座が与えられ,妖術的なものと都市的なるものとのとの相応性を明らかにする。妖術は非都市的世界の都市的なるものを体現し,他方,膨張する現代都市の様相の内に権力中枢と交易の結節という世俗的理解だけに留まらない,専門分化の小宇宙を通じた人工環境への過剰適応状況,言うなれば都市の変化のデーモンに取り付かれた都市世界には,再度宗教や呪術からのアプローチが可能であり必要であると説く。領域国家,市場経済,技術的思考は変化のデーモンを増殖させている。それは非都市的人間にはまさに妖術的なものに見える光景群である。この現実分析の考察の後に阿部はこのように述べて,都市のデーモンの幻惑の足下を見つめる都市民族誌の明確な目的と方向性を示す。

 これらはすべて,栄光であれ悲惨であれ,都市の力のあらわれである。だが幻惑する過剰な光景から目をそらすとき,小宇宙とシステムのすきまに,そして何よりも人々の日常生活に,非都市的人間は,力ない薄暮や草木のそだたない荒地をみて目をみはるだろう。この不毛と豊穣はおなじ楯の異なる面である。民族誌的都市論は,日常生活をこのような全体的構図のなかでみなければならない。都市はコミュニティのそとに,社会的機能の集積の場として成立した。コミュニティの日常生活からみれば,それはもともと外的なものであった。生活物質を後背地に依存していたように,都市の生活は,基層的文化をも後背地から継承したのである。その後都市は文化の後背地を都市空間の内部にとりこんだ。それは都市の内部で基層的な文化をうみだす相対的に自律的なコミュニティであった。ところがこんにち,国家 と市場経済と一体化した都市は,自己の内外で,自己存立の要件である文化的後背地を変質させ失いつつある(阿部1989: 52)。


 本研究における都市への注目,そこでのストリート空間への注目の理由は,ここに良く述べられている。本書ではそのことが阿部論文において後背地論からの眼差しで改めて考察展開されている。そのポイントとは,通常言う意味以上の,阿部氏のような文化概念の長波的理解に基づく鋭角的な意味を込めて「文化(宗教)論的転回」を経た民族誌的方法の実践の要請であると,受け取れる*2。したがって,ここでの私たちの試みであるストリートの人類学には,そのことを踏まえた積極的な目論見を語り出せる。その目論見とは,現代社会についての〈境界の人類学〉に真正面から取り組むことであり,日常生活に照準を合わせた下からの民族誌記述を,社会の全体性の中で(まさに「小宇宙とシステムのすきまに」)徹底することである。それは自ずとネオリベラリズムと闘う現代人類学の要請の中心点を射抜くものとなろう。というのも,人類学は近・現代社会批評として,そもそも境界現象の記述を中心に置く学問であるとの認識が私にはもともとあるからであり,それは人類学者の間である程度共有されたものでもあろう。したがって,ストリートの人類学は,人類学の中枢部に位置する境界の人類学の,そのまた核心に迫る試みと言える。
 ストリートという,交通や移動を引き起こす差異・境界を時空間的に体現している場を,議論の対象に意識的に据え,そこでのフィールドワークとそれに基づく理論的議論を通じて,上記の研究意図の達成を試みた。ベンヤミンのパサージュをめぐる論にも似て,ストリートを「対象」であると同時に「方法」であるとした本研究の,ここに提示される総括は,依然として仮説的なもの(仮説的推論abduction の意味で)*3ではあるが,境界の人類学を深化させるために思い切って前進した地点を示そうと思う。
 それは,後述するように境界論における「ベルクソン的・ドゥルーズ的転回」とでも呼ぶべき議論となる。「潜在的なるもの」を前提にした,運動的で,生成的な視点をストリートの検討から導き出し,現代社会を席巻する思潮である近代主義の新展開としてのネオリベラリズムへの異議申し立てを行うものである。その舞台としてストリートはふさわしい。近代主義の精神,それを体現する近代主義的空間では死を宣告され排除されるストリート*4が,それ故に「抵抗」拠点として期待できる場になる。
 ここで,大澤真幸の,量子力学の宇宙と資本主義の相似性を基盤にアガンベンを触媒にした興味深い議論「独裁という名の民主主義」(大澤2007)を参照しておこう。マルクス主義において革命後になぜ真の民主主義の樹立と言わずに「プロレタリアート独裁」なのか,と問いを提出し,それに対して次のように答えてみせる。人民の統一性という民主主義の基盤(私たちが取り出すべき良い面:関根注釈)を阻む力を有する資本主義(剰余価値というアンバランスをもちこむもの)に抗しながら,しかしナチズムのようにユダヤ人という「統一的なドイツ人民」の敵を創出しないやり方,むしろその排除された他者を民主的な意志の代表(社会的な普遍性に代理人)とみなす「プロレタリアート独裁」という独特の民主主義の基本構想を立てる必要があったと述べる。資本主義体制にも,またそれに対峙して立てられた「民主主義の一形態としてのファシズム」にも抗するものとして,「人民」の共同性,統一性にではなく,それがむしろ排除した他者に基礎づけられた独特の民主主義としての「プロレタリアート独裁」を提示する。
この論を引用したのは,「プロレタリアート独裁」と同じ理論的位置に,流動破綻をもたらすネオリベラリズムという高度資本主義(流動性と再帰性だけを高め,アンバランスに「高度均質化」を進めるネオリベラリズム*5に対して,それへの表面的対抗して出てくる防御的ブロック化としての各種ナショナリズムや新たなレイシズム(ホーム中心主義者のゲイティッド・コミュニティと排除されたストリートに近いアンダークラスとの差別的分離)に陥らないで,抵抗克服していくものとして,「ストリート独裁」を据えたいのである。これは人に注目すれば「プレカリアート独裁」とか「サバルタン独裁」と言ってもいっこうに構わないが,ここでは社会空間の縁辺という物理的な場にこだわっておこう。生きるには場(レジス・ドブレならば,トランスミッションを可能にする,歴史的文化的な蓄積を持った具体的な物と人の配備と組織=〈物象化された組織〉と呼ぶもの(ドブレ 1999, 2000, 2001; 西垣・石田2000)が必要であることの強調が,コミュニケーション中心に偏る現代ではとりわけ重要であるから。非−コミュニケーションないしトランスミッションの場を考察するために(ここで,更にキットラーのメディア論(キットラー2006(1986))を想起するのも的外れではないだろう)。
 もちろんそれはストリートのロマン化なのではない。むしろ逆であって,蒙昧に安易にロマン化したホームに向かう主流に対して,鬼気迫るストリート的な現実を差し出すことが目論見である。人間の生の本源あるいは剥き出しの生(アガンベンのビオスに回収できない他者としてのゾーエーに当たるもの(アガンベン 2003))に感応呼応するストリート性を差し出さねばならいほどに,現代は追い込まれたと言うべきであろうか。ストリートをロマン化している余地(特権的外部)など,もうないのである。
 もう1度言うと,ストリートの人類学は,脱ネオリベラリズムを標榜し,知らぬ間に自分が自分で首を絞めていくような自己監査文化(audit cultures)*6の檻の中に現実生活を閉じこめていく主流傾向に歯止めをかける意図を有している*7。そこにこの人類学的研究の社会的コミットメントの要諦があると自認している。
 したがって,本書は,リスク管理のプライヴァタイゼーションを,すなわち自己責任を語り,それを実践できることをナイーブに信じている人に対しては,その狭い妄想・幻想に反省を迫るものである。真の自己責任ではなく,形式化に堕し逆に無責任を呼び込む説明責任(アカウンタビリティ)のディメリット(まやかし)は,責任が自分にかからないようにリスクを先取りする説明を限りなく肥大させかねない。そのことがまた新たな危険を対象化しリスク化していくという高度化を推し進める*8。責任をとるための説明ではなく責任を回避するための言い訳的説明,つまり先取り説明が跋扈するのである(患者の様態の先行きについて説明はするが,その際にけして確実な言葉では言わない医者の姿を思い起こせばよいし,もっと最悪なのが縦割り世界と保身共同体に身をやつす官僚の言語であろう)。しかも,その自己監査文化の趨勢について行けない者を半人前として排除差別する。こうした横並びの官僚化が組織を蝕み,新自由主義の荒廃した不自由として広く深く私たちの日常に浸潤してきている。蒙昧にも嬉々としてその方向に邁進する者が組織には必ずいるものだから,やっかいである。そういう者の首をもまた絞めているのに気づかない。事態はきわめてやっかいで不穏である。
 私たちの研究プロジェクトは,説明責任を果たしながら自己決定,自己責任を負っていくことを求められる社会の有する問題性を正面に据えたい。この問題の探究は,そうした社会の求めに明らかに応答できないで篩いから落とされる人々の産出を阻むということに留まらず,それが広く私たち自身を息苦しくしている現実なのだということをあぶり出すことにある。できないことをできていると勘違いしている勝ち組意識が,蒙昧なものであり克服されるべき標的である。説明責任による透明性の向上という,一見社会の浄化に見えてしまうオーディット・カルチャーは,それゆえにその導入を阻止できず,次々と普及浸透していく。その結果は,底なし沼の自縄自縛であることは明らかである。明らかであっても反論できない,この歯がゆい現実の展開を,なんとか相対化することが,目標になる。
 オーディット・カルチャーに疑問も抱かず,嬉々として取り組む者には,たとえば,内部存在論としてのメルロ=ポンティの哲学(『知覚の現象学』)に是非耳を傾けてほしい (メルロ=ポンティ1982)。曰く,「〈見えるもの=知覚〉には,〈見えないもの=ゲシュタルト〉の意味が描き込まれている」,また「人間にとって存在は見えない側面を含んだ厚みをもって現れる」。このような奥行きが人間と世界にはあるのである。
 先取りの責任回避で手足を縛られ,閉じられ重くなった自己では,社会は構築できず解体していくだろう。社会は自己に固まり重くなった人間たちの自重で自壊していくことだろう。不透明で簡単には説明できない(言語化できない)他者性を含みえないような自己やホームは,閉塞していく。だから,この現代社会の主流に棹さして,人間が生きられる空間をミクロに切り開き直すことが急がれるのである。流動と自立との間で引き裂かれながらも説明責任主体であることを辛うじて維持し,どうにかホームを保守している者は,そのわずかな恒常性にしがみつくようにますます防御的排他的にならざるをえない。にもかかわらず,現実社会の実相はネオリベラリズムの作り出す自由化という名の流動性と再帰性を激化させるのであるから,オーディット・カルチャーとはまさに手の込んだダブルバインド状況(主体の自立化と主体の流動化の 2 つの命令の間で)を私たちに強いるものなのである。実際には気弱なホーム守護者たちが手近なナショナリズムや排他的なコミュニティに引き寄せられる理がここにあるし,それができない者は散り散りに蹴散らされるし,それすらしらけて見える者,あるいは関われば土壺にはまることが分かる者は引きこもるしかない。
 重ねて言うが,このようなネオリベラリズムの跋扈する社会での,対象化しにくい巧妙な差別と閉塞を,「ストリートの人類学」は明るみに出す意図を明確に持っている。この現代社会で生きられる人間を救い出すために考察する研究は増えてきている。たとえば,社会学と精神分析の間で仕事をする樫原愛子は著書『ネオリベラリズムの精神分析』を世に問うた。ここで,その好著の第 2 章「再帰性のもつ問題」で,きわめて簡潔に取り組みの方向性を見極めるための基礎的整理をしてくれていて,参考になる(樫原 2007)。その重要なポイントは,ギデンズやベックが言うように,省察としての自己再帰性と暴走している社会的(制度的)再帰性との区別を自覚的に行い,マクドナルド的主体に人間を非創造的に縮減してしまうような暴走を,良き自己再帰性を探究することで歯止めをかけることだという点である(Giddens 1991; Beck 1986; Beck, Giddens and Lash 1994)。そのときに社会的再帰性が伝統よりも良いという前提も単純には首肯してはならない。伝統が単なる反省なき固定的な継承物と決めつけるのは安易である。実は1回1回作り上げてきたものの堆積ではないのか,ローカリティとはそういうものではないか,それはアルジュン・アパドゥライの近代性を問い直す仕事の主張のポイントでもあった(アパドゥライ 2004; Appadurai 1996)。伝統もまた再帰性を経て作られていたである。その意味で埋め込まれた固定的な伝統と脱埋め込みの流動的な近代との二元論は理論的に相対化される必要がある。
 そのような固定か流動かの二元論ではなく,日常的な生活世界が保ってきたはずの,正常な自己再帰性の空間を再評価し,現代において確保することが肝要である。そのための要点をこれまでの議論を整理する形で、3点記したい。いずれも現代の生活現場では言い出しにくくなっていることであるが。だからあえてここに述べる。

  1. 人間は自身が生きられる場について,そう簡単に「説明責任」は果たせないというあたりまえの事実に立ち返ること。
  2. 人間は危険(danger)とともに生きているのが常態であったし,あると覚悟すること,つまり有責性を外在化させ,当事者に問いすぎないことでリスク( risk )社会化に歯止めをかけること。
  3. 規則ルールは現場に即応して生成的であるときのみ健全で人間が生きられる場を開拓できるものであること。

 改めてこのような基準点を据え直すことによって,説明責任の履行とリスク化の増大との負のスパイラルに私たちを閉じこめるような,上からの自己点検命令という間接支配的な抑圧政策に抗する方向性だけはまず確認することができるだろう。そして 3)に関わるが,自己責任と外在要因の折り合い,危険とリスクとの折り合いをほどほどに止めるようなまともさを社会が取り戻すには,いつでもどこでも通用するような一般論で思考していては絶対にかなわないことが,重要である。そうしていてはネオリベラリズムの檻から脱出できない。そうではなく,ミクロな生活現場で具体的に身体をもって責任と危険とリスクの折り合いをもたらす解決策を探ることをはずしてはならない。このことが真に肝要である(本書の磯田和秀論文は,「道草」をめぐって,道草を日常実践の中に取り戻すこと論じ,ここでの志と共有するものがある)。
 このミクロな実践は,まさに,アパドゥライが『さまよえる近代』において明確に議論していた,具体的なマテリアルとコンテクストを踏まえたローカリティとネイバーフッド(近接,近隣)の絶えざる生産過程のことである*9。つまり,ローカル・ノレッジやストリート・ノレッジが果たしてきた役割こそが,固有の現実に即したその場に固有の解決策なのである。排他的な「高度均質化」に抗する道は,そうした固有の場を拠点にしなければ拓かれてこない。ついでに公共の場からの葛藤の追放が非人格的な官僚化への後戻りをもたらすとの,セネットの警句を思い起こしておくのも重要だろう(セネット1975; 1991)。しかしあくまでも葛藤は平均化した公共空間においてもはや想定されるべきではなく,ミクロな固有の場において実践されるものとして学ぶのである。


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*1:Fox (1971; 1977),Jackson (1985),Gulick (1989)などの都市人類学の先行レビューにおいては,都市における(in)よりも都市の(of)人類学が強調されてきた傾向があったが,この区別は Gulick の言うように,「微妙なことでも細事にこだわるようなものではない」のであると,Low は整理している。都市の人類学は of であってもそこだけに限定され得ない in において全体社会が考察されることになるのである。

*2:この点は,詳細にしかも説得的に文化地理学者フィリップ・クラングによって行われた,経済と文化との組み合った関係の議論でバランス良く補足できる(Crang 1997)。クラングは,研究の力点の経済から文化への移行が 1990 年をはさんでネオリベラリズムの展開と並行して強まったことが多くの識者によって指摘されていることを引く。地理学ではこの時期にモラル・ジオグラフィーズが経済地理学を凌駕していくという。構造主義的転回というもう少し長い歴史を有するものこそ,本来のカルチュラル・スタディーズの登場と言うべきだが,いわゆるカルチュラル・スタディーズの流布が世界的に起きるのがこの時期である。しかし,カルチュラル・スタディーズの流行,一般化は,本来のそれの有していた民族誌的方法を矮小化する傾向を生み出し,言説中心の戯れに零落する傾向が生じさせて,浅薄な意味での文化への移行に批判もあがることになった。ここでの文化論的転回は,浅薄な意味次元の文化移行を明確に拒否しており,阿部に学び,人類史における文化の存在意義という深い歴史的射程をもった意味での文化からの現代社会再考の必要性を訴えるために,用いられていることを確認したい。文化人類学とカルチュラル・スタディーズとの交差に関しての適確なレビューに,(小田2006)がある。

*3:アリストテレス以来の概念,そしてプラグマティズムの元祖 C. S. パースが重視した概念 abduction は,日本では川喜田二郎が早くに著書『発想法』(川喜田1967: 4–6)において,野外科学すなわち人類学的フィールドワークの中心的役割に据えている。川喜田はこのキーワードを上山春平から聴いたとし,また上山春平の『弁証法の系譜』(上山1963)の 6 章に特に負っていると記している。

*4:たとえば,ブラジルの前近代の都市空間と近代主義の典型的な成果ブラジリアの都市空間との比較検討した(Holston 2005)において,近代的都市におけるストリートの死が論理的に考察されている。

*5:樫村愛子は著書『ネオリベリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか』(樫村2007)の冒頭でネオリベラリズムの時代の特徴を再帰性と恒常性をキーワードにして簡潔に説明している。

*6:マリリン・ストラザーンが編集した『監査文化―説明責任・倫理と学界にについての人類学的研究』(Strathern ed. 2000)は,自らが巻き込まれた現代社会の再帰的な人類学的研究として突出した成果である。これは,ヨーロッパ社会人類学学会(European Association of Social Anthropologists)のコンフェレンス(Conditions of Work, Conditions for Thought)とワークショップ(Auditing Anthropology: the New Accountabilities)での議論をもとにした論文集で,近年のネオリベラリズム的な改革を人類学がどのように見るかという論考や,人類学にとって「アカウンタビリティ」といった倫理がどのように作用するかを問う論考が収められている。日本の人類学界では春日直樹が鋭く反応し興味深い展開をしている(春日 2007)。監査(Audit)とは,もともと民間企業が適正な活動を行なっているかどうかを利害関係者に説明するための証明手続きを指していた。近年の行政改革という名のネオリベラリズム的施策では,公共支出の適正化を図るため,この民間部門における監査の手法が公共部門へと導入されてきている。民間企業のように競争に晒し,効率性を高めることが目指されているとするのだ。この方向は高等教育や研究機関にも及び,監査報告を支えるアカウンタビリティ(説明責任)という倫理的命題を導入することで,業績評価等の自己点検システムを導入するようになっている。これが,社会全体を覆い始める監査文化なるものの成立過程なのである。ここには,狭隘なる近代の科学主義ないし合理主義が貫徹していることを見るのは容易だし,誰にでも分かる言葉や数字で説明できないものは存在の場を失うという短絡した成果主義によって,今や組織はそれ自身の存立基盤をじっくり育てる猶予となる時空を縮小・枯渇させられてきている。その枯渇過程に巣くっているのが,自らの自己点検については先延ばしにし,責任をとらない官僚システムであることもまた良く知られ,空しい自己点検によって人心の荒廃に拍車をかけている。だから,監査文化とは闘うべき対象を意識化するために否定的に名付けられたものなのである。

*7:たとえば,白石嘉治・大野英士編『ネオリベ現代生活批判序説』(白石・大野編2005)などに,私たちの試みに重なるネオリベ傾向の独走への憂慮が容易に見て取れる。この新評論から出版された本の中身の紹介文を引用させてもらう。「2005.9.11 の衆院総選挙は,自民党の地滑り的勝利で終わった。比例制のマジックによる錯覚勝利にすぎないにもかかわらず,小泉政権は“郵政民営化が支持された国民投票”などと公言している。しかし,「郵政民営化」をはじめとする小泉政権の「改革」の中身と終着点を,私たちは本当に理解しているだろうか? たしかに「官」の非効率や不正をなくすためにできる限り民間に委ねようという主張は説得力をもつ。だが小泉流民営化論を基礎づけているのは,市場の万能を唱えるネオリベラリズム新自由主義)の教義であり,それは「市場の原理に従って儲けることができた者だけが生き残る」ことに行き着く。言うまでもなく「民営化」はとうの昔に始まっていた。電電公社=通信,国鉄=交通,大学=教育等々。年金も渦中にある。では,次は医療だろうか? その次は軍事? さらにその先には……こうして公共部門が削られ,市場に委ねられてゆくことで生きてゆけなくなったとしたら,その人は「生きなくてよい者」なのだろうか? 仕事を失い,食べられなくなった時,「市場の原理なのだからやむを得ない」などと納得するだろうか?「市場」に,ある人間が「生き残るべきか否か」を委ねてよいはずがない。小泉政権の「改革」の根底にはネオリベラリズムがあり,その終着点には生の統治がある。本書では,「埼玉大非常勤講師大量解雇事件」を出発点に,たとえば「大学」そのものを「公共空間」として捉えることのできないわれわれの“ネオリベ化した感性”が問い直される。4人の思想家・活動家(入江公康樫村愛子矢部史郎・岡山茂)へのインタヴューによって,ネオリベ的現況がさまざまな角度から浮き彫りにされる。医療,教育,交通,通信=生の普遍的な条件としての公共性が毀損されつつある現在,その毀損への抵抗がいかに可能かを考え,行動しなければならない」(新評論のweb サイトより)。

*8:危険とリスクの相違については,佐古輝人が『畏怖する近代―社会学入門』において,分かりやすく説明している。「ふつうリスクという語は危険(danger)とほとんど同義のように使われている。人はそれを安全(security)と対極にあるものとして捉えようとする。しかしルーマンの指摘によれば,リスクの反対概念は安全ではない。リスクの対極にあるのは,危険である。安全を,望まない結果がもたらされる可能性のない状態,危険を,望まない結果についての責任が当事者ではなく,当事者に外在する非人間的要因に割り当てられている状態,リスクを,望まない結果についての責任が当事者のあいだで分配されなければならない状態としてみると,このことはわかりやすい」(佐古2006: 147)。更に「危険を認識しリスクに置き換えることは危険を減少させるのではなく,以前には考慮する必要のなかった新しい危険を生み出してゆくのだから」(佐古 2006: 148)。

*9:特に,Appadurai (1996: Ch. 9),アパドゥライ(2004: 第 9 章)に詳しい。