マネの新しさ 山中哲夫

PDFで読む


 バタイユはそのすぐれたマネ論の冒頭を次のような書き出しではじめている──くマネの名が絵画史の中でもつ意味は別格である。マネは単にきわめて偉大な画家であるばかりではない、彼は彼以前の画家たちとはっきりと断絶したのである。彼はわれわれが生きている時代を開いた。〉(宮川淳訳)*1確かにマネの絵画はそれまでのどんな絵画とも異なっていた。彼の絵はドラクロワよりもピカソに近いところに位置している。真に「近代絵画」と呼ぶにふさわしい絵画が彼とともにはじまった。彼とともに、主導権がはっきりと絵画それ自体に移った。画家も観衆も二次的存在となったのである。画家の主体は作品のなかに消滅し、見る観衆は逆に作品から〈凝視められる〉存在となったのである。レアリスムが大きく変貌を遂げようとしていたのである。
 1863年の官展はとりわけ審査がきびしく、出品5000点のうち2783点もの作品が落選した。類例のない大量落選であった。前回(1861年)には1289人の画家が受け入れられたのにたいして、今回の入選者は988人にとどまった。ヨンキント、アルピニー、シャントルイユといった年長者も同じ憂き目に遭った。街中に画家たちの不満の声が谺した。デモ隊が組織された。これが当時の皇帝ナポレオン3世の耳に入った。皇帝は落選展を開いたらどうかと示唆した。この気紛れの思いつきが、エドゥワール・マネという無名の画家をパリ全市に知らしめる契機となった。
 これより前、彼は銅版の腐蝕をいつもの職人に頼むため、シテ島の裁判所近くを歩いていたとき、20歳くらいの娘を見かけた。化粧をしない美しい顔、くっきりとしたからだの線、しなやかな手足、赤毛に近い金髪、特にその大きな褐色の目が画家をとらえた。彼はモデルになってくれるよう頼んだ。女優志願の、モンマルトルの丘に生まれた貧しい娘は、すぐに承諾した。名前をヴィクトリーヌ・ムーランといった。彼女をモデルにしてマネが描いた『草上の昼食』(当時は俗に「水浴」と呼ばれた)は落選展に展示され、すさまじいスキャンダルを巻き起こした。理由はその「猥褻性」にあった。当世風の衣服をまとった男2人のなかに、裸の女がいることがブルジョワの顰蹙を買ったのである。ヴィクトリーヌ・ムーランはこれ以上裸になれないほど裸だと言われた。群集はマネの絵を見るためだけに展覧会に殺到した。
 何がこれほどまでに第二帝政期の紳士淑女を刺激し、興奮させたのだろうか。それはマネが表わした人物像の特異なレアリスムのためであった。『草上の昼食』には古典的な下敷きがあった。テーマはジョルジョーネの『田園の奏楽』から、構図はラファエロの『パリスの審判』をマルカントニオ・ライモンディが銅版画に直したものから借りてきたものであった。着衣の男性のなかに裸体の女性がいるのはけしからん、と言うのであれば、ジョルジョーネの作品でもそれは同じことである。マネのスキャンダルは、その人物が当時の人間そのままに,きわめて風俗的に描かれていたことに由来する。そこにはいかなる神話的虚構も施されていなかった。しかもそのポーズ、特に顎に手を当ててこちらを見ている裸の女のポーズがきわめて自然で、むしろポーズを取らないポーズ、制作のためのポーズを終えてくつろいだひとときの姿態そのままといった──しかもそれが裸の、その上実物大の──そのようなあるがままの姿が相当に衝撃的であったと思われる。さらにその裸をことさら強調するかのような、強烈な明暗のコントラスト。裸の女は全身に照明を受けて光り輝いている。この明るい色調もまた、いままで見たことのないものであった。
 マネのスキャンダルは次の1865年の官展に出品された『オランピア』(1863年)によって最高潮に達した。『草上の昼食』騒動に懲りたためかどうか分からないが、審査員はこの作品を人選させた。しかし『オランピア』は絵画史上最大のスキャンダルを巻き起こす結果となった。各紙はこぞって非難した。その口吻には何やら憎悪に似たものすら感じられる。〈このような絵は暴動を引き起こすおそれがある〉(『レポック』誌、〈この黄色い腹のオダリスクは何者か、どこから連れてこられたのか分からないオランピアを表わすこの卑しいモデルは何者か〉(『ラルチスト』紙)、〈彼は……自ら『オランピア』と名づけたこの滑稽な被造物の前に官展の入場者たちを群がらせ、殆どスキャンダラスな笑いを引き起こすことに成功する〉(『ル・コンスティテュショネル』紙)、〈誰もかつて自分の目でこのような、これ以上シニックな効果をもつ見世物を見たことがない。雌のゴリラといったこのオランピアは……〉(『ル・グラン・ジュルナル』紙)、〈マネ氏のことは抛っておこう。嘲笑が彼の絵を裁いたのだ〉(『ル・プチ・ジュルナル』紙)、く群集は死体置場につめかけるように、マネ氏の腐敗した『オランピア』の前につめかける。これほど堕落した芸術は非難するにも値しない〉(『ラ・プレス』紙)等々。出産を間近にひかえた婦人と良家の子女はよろしく避けて通るべしといった忠告もなされた。はじめはABC順に展示されてあったこの絵も、あまりの騒動のため、ついにどんな愚作も掛けられたことのないような、一番最後の部屋の扉の上の暗い壁に掛け直されたが、それでも群集は押し寄せて、警備員を配さなければならない羽目になった。これほど非難が集中した絵画は他にはない。やがて40年後にルーヴル美術館入りになろうなどとは誰が想像し得たろう。ゴーチエも、『オランピア』はいかなる観点からも説明不可能だと断言した*2。「草上の昼食」のときにはこれを支持したクールベですら、今度は”風呂上がりのスペードの女王だ”と非難した。
 しかし『オランピア』は前作同様、これも古典的絵画を下敷きにしたものであった。ティツィアーノ『ウルビノのヴィーナス』のパロディと言っても言いすぎではないほどよく似ているのである。背景の画面構成、両足の組み方(「オランピア」では平面性を強調するためにやや平行に近くなっているが)、右手の腕環、枕やベッドの端が形づくる三角形とその色彩──これはティツィアーノをそのまま踏襲している。異なっている点は次の6点で、まさにここにスキャンダルの原因があると言ってもよい。?優雅なロングヘアー→現代的なショートカット ?髪飾り→耳に挟んだ本物の花飾り ?素足→素足に部屋履き ?うずくまる犬→起き上がった猫?遠景のうしろ向きの下女→前景の花束を持ってくる黒人女 ?オランピアの首に巻かれた黒いリボン──このように、神話的世界を出発点として出来上がった作品は、たんなるオダリスクを越えて、現代の娼婦を赤裸々に描いたまったく新しいものと変わった。オランピアの首の黒いリボンは、好色なブルジョワ紳士に捧げられた贈り物のリボンのようで、このリボンの紐を解く者は、おそらく黒人女が持ってきた花束の贈り主であろう──そのような連想を当時の人々に起こさせるほど、この部屋は第二帝政期の見慣れた娼婦の部屋そっくりであり、横たわるオランピアは神話的存在どころか、前回の「草上の昼食」で顔馴染みの、誰にでもそれと分かる、あの成り上がりの淫売モデル(と言われていた)、ヴィクトリーヌ・ムーランその人であった。“オランピア”という名はまさしくそのような女を呼ぶときの、よく知られた隠語であった*3
 取り澄ましたブルジョワ社会の、その奥に隠された下卑たエロチスムは、神話的な、あるいはアカデミックな体裁を必要とした。『オランピア』と同じ時期に発表され、大成功をおさめたカバネルの『ヴィーナスの誕生』はその代表的なものであった。尻の大きさを強調した18世紀ロココ風のスカート、クリノリーヌの欺瞞に見られる通り、優雅、上品を装いながら、実はそこにあからさまな性的欲望が渦巻いていた。ブーシェなどの18世紀のギャラントな風俗画の流行もそのひとつの表われであろう。マネのオランピアの肢体のあざやかさ、そのくっきりと浮び上がった裸体の明るさは、また観衆に当時流布していたポルノグラフィックな娼婦の写真(名刺代りに使われていた)を連想させもしたろう*4
 しかし観衆がいきり立ったのは、このようになにからなにまで1863年当時の娼婦そっくりに描かれていたためばかりではない。確かにそのシーツの白さは情事以外のものを思い起こさせないほど生々しく、異様ですらあるが、彼らが衝撃を受けたのは、さらにオランピアの、その挑むような眼差しのためでもあった。「挑発的」なのではない、「挑戦的」なのである。ブルジョワの安手のモラルの下に隠されている低俗なエロチスムを、彼女の目は白日の下にあばいてみせているのだ。この女を前にして、彼らはどこにも逃げ場がない。裸にされているのはむしろ観衆の紳士だちなのだ。横たわっていたウルビノのヴィーナスがゆっくりと身を起こし、顔を真正面に向け、その冷たくよそよそしい眼差しで観衆を見下ろしたとき、彼女は偽善の裏側を知りつくした第二帝政期のヴィーナス=娼婦へと変身したのである。また同時に、うずくまっていた犬もおもむろに身を起こし、この動きそのものによって、犬はボードレール的な轟惑の黒猫へと姿を変えたのである。
 『オランピア』騒動の社会的な意味は以上のようなものであったが、しかしこの絵画の価値は、もっと別の面にある。この作品の技法上の問題こそが、マネを現代絵画へと近づけたのである。クールベは『オランピア』を否定して、いみじくもこう言った──“風呂上がりのスペードの女王”。なるほどトランプの絵柄を思わせるほどの単純化がそこでは行われている。単純化は相反する2種類の技法によって成し遂げられる。すなわち、「平塗り」「輪郭線」と「タッチ」である。明暗法を破棄し、色調の微妙な変化のみによって立体感を出し、中間色(ハーフ・トーン)は使われていない。オランピアの肉体はどこまでも平面的に描かれながら、その肌のみずみずしい感触は少しも損なわれていない。不思議なリアリティである。さらに遠近法を無視し、奥行を否定している。また一方で、紙に包まれた花束によく表われているように、斬新なタッチを駆使して花々の存在感を見事に引き出している。(マネのタッチは〈奇蹟的な〉と呼ばれる)また絵画全体を包むすぐれた色調や色階は、彼がコロリストとして一流であったことを証明するばかりでなく、また現代絵画に一歩足を踏み入れたことを示すものでもある。(モチーフおよび形態を無視して、その色彩だけを抽出するならば、この絵は抽象画としても見事なハーモニーを醸し出すだろう)例えば黒人女の肌の色合とミルク色がかった淡いローズのドレスの色との配合の妙、花束を構成する白、青、赤、緑のトーンの新鮮な美しさ(青はそれだけ拡大して見るとむしろ灰色に近い)、バックの暗緑色に浮ぶ2人の人物の色合、そして極めつけは、ポイントとして使われたオランピアの首のリボンの黒。このような画面の平面化、単純化、中間色を捨てた色調の強烈さと調和は、誤解を恐れずにあえて言えば、これは絵画の意匠化、デザイン化に近いものである。マネはここにおいて明白に伝統絵画と手を切った。『オランピア』は当時のブルジョワ社会の否定であったが、また同時に西洋絵画400年の否定でもあった。静物は副次的存在であることをやめ、人物と同じ価値をもつものとしてその存在を主張しはじめる。黒人女の花束のそれぞれの花が、オランピアの目と同じほどの生命力をもって光り輝いている。ゴーチエが「オランピア」はどんな観点からも説明不可能と言ったのは正しかった。これは従来の絵画の概念を越えたものであった。具象と抽象とがせめぎ合う 、不安な均衡の上に成り立った、レアリスムを越えた新しい絵画であった。
 ボードレールがこの絵についてなにも語っていないのは惜しまれる。実は制作当時、マネに官展出品をさかんに勧めたのはこのボードレールであった。しかし彼は病に冒され、美術批評は終りに近づいていた。彼は母国フランスを憎悪してベルギーに逃れる。ボードレールの代りに、勇ましくこの絵を支持したのはゾラであった。マネを擁護するということにある種の計算がなかったわけではあるまい。美術批評家としてジャーナリズムにデビューしたばかりのゾラにとって、パリ中がその絵で持ちきりのマネを,熱烈に賞賛し、全面的に支持することは、自らの存在をアピールするのに絶好の口実であった。もちろん,審美的にマネを支持するに足るだけのものを彼はマネの絵から読み取っていた。マネの絵の新しさは絶対的であり、これから自らが小説において実現してゆこうとする、自然主義的文学表現のヒントをもそこに見出していた。『オランピア』についてソラが語っていること、またのちの『笛吹きの少年』(1866)について言っていることは、当時としてはきわめて前衛的なものであって、誰ひとりとして理解した者はいなかった。しかし、印象派以降の絵画の流れを知っているわれわれから見るならば、これらの評はまことに正鵠を得たものであり、かつ、ゾラの自然主義文学の出発点と言っても過言ではないだろう。(ゾラの自然主義文学の価値は現代生活のその描き方にあった)

〈最初の一瞥でまず見分けられるのは、絵のなかの2つの色調[オランピア・花束──黒人女・背景]、たがいに際立たせ合う強烈な2つの色調だけである。細部は消えてしまっている。若い娘の顔をよく眺めてもらいたい。唇は細い2本の薔薇色の線である。目は数本の黒い輪郭線に還元される。花束を見てもらいたい。それもどうか、近くから。薔薇色や青や緑のプレートである。すべてが単純化されている。もし現実感を取り戻したいとお望みなら、数歩、うしろへ退かなければいけない。〉
                

(『19世紀評論』誌 1867年1月号)*5

〈当代の風景画の一大家は『笛吹きの少年』はまるで“衣装店の看板”と変わらないと言っているが、もし彼の言うのが、この若い楽士の制服が流行のファッション画に見られるような単純な様式で描かれている、ということなら、私は彼の言うことに賛成する。〉 
     

(同)*6


 はじめに引用したバタイユの言葉にもあったように、マネはそれまでの絵画を一新した。絵画が明るくなった。技法が新しくなった。題材が現代風なものに変った。「マネ以前」「マネ以後」という表現が可能になったのである。あれほど“革命家”を自負していたクールベの絵ですら、マネに比べれば、古臭く、田舎じみて、暗すぎる。「革命」と呼ぶに真に値するものはマネの絵のみである。しかし皮肉なことにこの“革命家”は革命を好まず、官展入選と有名になることだけを望んでいた中産階級の都会人であった。マネの悲劇はここにある。

*1:ジョルジュ・バタイユ「沈黙の絵画」二見書房、 1975, p.15.

*2:同書、 p.85.

*3:Manet 1832-1883,Editions de la Réunion des musées nationaux,1983,p.181.

*4:id., p. 179.

*5:Zola, Man Salon Manet, Gamier−Flammarion, 1970. p. 109.

*6:id., p. 110.