T. A. Z. The Temporary Autonomous Zone(一時的自律ゾーン), Ontological Anarchy(存在論的アナーキー), Poetic Terrorism(詩的テロリズム) Hakim Bey(ハキム・ベイ) 箕輪 裕 訳<span class="deco" style="font-size:medium;">

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野性の子どもたち Wild Children

 満月の不可解な光の小道──「I」[わたし]で始まるある「国家」の5月中旬の真夜中のこと、それはあまりに2次元的であるため、地形を備えているなどとは到底言うことができない──それらの光線があまりに差し迫っていてかつ具体的であるため、言葉で思考するには、あなたはそれに陰影を書き込まざるを得ないのだ。
 野性の子どもたちへは、〈手紙〉を書いても無駄である。彼らはイメージで思考するのだ──散文は彼らにとって、完全に会得され身に付いたためしのない暗号のようなものであり、それは、我々にとってもそれが決して完全には信頼されていないことと同様である。
 あなたは彼らに〈関して〉書くだろう、銀の鎖を喪失した他の者たちが後を追えるように。あるいは彼らの〈ために〉書くだろう、物語象徴とを作り上げることは、あなた自身の旧石器時代の記憶への誘惑のプロセスなのであり、解放への野蛮な誘惑であるのだから(カオスとしての混沌がそれを理解している)。
 この空想世界の人種もしくは「第三の性」、〈野性の子どもたち(アンファン・ソヴァージュ)〉のために、空想と「イマジネーション」は今でも未分化のままである。それは抑制の効かない遊戯であって、それがすなわち、我々の「アート」の、そしてすべての人類のもっともすばらしいエロスの源泉となるものなのだ。
 枯れることのない様式の源、官能的な貯蔵庫としての無秩序を内に含み込むことは、我々の異質でオカルト的な文明の原則であり、我々の陰謀の美意識であり、我々の気違いじみたスパイ行為なのである──これは、ある種のアーティストの、あるいは10歳または13歳の子どもの行為である(それを直視しよう)。
 それ自身の浄化された感覚によって、美しい快楽という燦爛たる魔術へと売り渡された子どもたちは、リアリティー自体の本性における何か凶暴で汚らしいものを反映している。すなわち、彼らは生来の存在論的アナーキストであり、カオスの天使なのだ──彼らの身振りと体臭は、彼らの周囲に存在のジャングルを、つまり蛇、忍者の武器、亀、未来のシャーマニズム、大混乱、小水、亡霊、太陽光、自慰、鳥の巣、卵とを完備した洞察の原始林をまき散らす──破壊的な顕現あるいは創造を、月光を薄切りにするには充分なほどに脆くしかし鋭利である奇怪なアンティック彫刻の形にまとめ上げるには力不足な、それらの「低水準」に住む不平屋の大人たち( groan-ups )に対する、愉快な侵略なのである。
 未だに、それらの劣等で取るに足りない次元の居留者たちは、自分が「野性の子どもたち」の運命を操っていると本当に信じ込んでいる──そして〈ここでは〉、そのような悪徳の信念が、偶然の出来事の実体の大部分を実際に作り上げているのだ。
 それらの野蛮な逃亡者たち、あるいは二流のゲリラたちを指図するよりも、むしろ災いに満ちた彼らの宿命を〈分け合う〉ことを実際に望む者、そして、大切に育むことと解放とが〈同じ行為〉であることを理解し得る者たちだけが──彼らは大概アーティストであり、アナーキストであり、倒錯者であり、異教徒であり、(お互いに分離していると同様、世界からも隔たった)バンドなのであって、あるいはそれらは、大人たちがその仮面の後ろからわけの判らないことを言っているときに、その視線を食卓越しに凍り付かせる野性の子どもの力としてのみ出会うことが可能なものである。
 ハーレーのチョッパーに乗るには幼すぎる──平坦な寂れた町の放校された者、ブレイクダンサー、やっと髭が生えはじめた詩人たち──ランボーとマウグリ[狼に育てられた子ども、『ジャングル・ブック』の主人公の名前]という流星花火から落ちてくる百万もの火花──そのけばけばしい爆弾がポリモーファスな愛の小型版であるか細いテロリストたち、そして大衆文化の屑同然の破片──耳にピアスすることを夢みるパンクの銃砲保持者たち、青灰色の埃の中、売春婦の立つ「貧民」街を音もなく進むアミニストの自転車乗りたち──季節外れのジプシーのすばしっこいスリ、微笑みながら横目を使う、権力のトーテムの泥棒たち、小銭とそして凄い刃のついたナイフ──我々は、それらをあらゆるところに嗅ぎつける──我々は、自らの〈光明と喜び〉( lux et gaudium )という背徳と、彼らのまったく従順な堕落との交換を公にするものである。
 だから、これを覚えておくことだ。つまり、我々の〈実現〉、我々の解放は、〈彼らのそれ〉次第なのだ、ということを──それは、我々が「家族(ファミリー)」、つまり陳腐な未来のために人質をとっている「愛の守銭奴たち」や、あるいは冗漫な「実用性」の地平線の下に沈むべく我々すべてを訓練している「国家」を猿真似するからではない──断じて違う──それは、〈我々と彼ら〉、つまり乱暴な者たちはそれぞれがお互いのイメージなのであり、官能性、破戒、幻影という柵で囲まれた場所の境界を示す銀の鎖によって結び合わされ、触れ合っているからなのである。

 我々は同じ敵を分かち合い、そして意気揚々と逃げ出す方法も同じものである。つまりそれは、狼たちと彼らの子どもたちのスペクトルの光輝によって力を与えられた、狂乱した、脅迫観念的な〈遊戯〉なのだ。