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T. A. Z. The Temporary Autonomous Zone(一時的自律ゾーン), Ontological Anarchy(存在論的アナーキー), Poetic Terrorism(詩的テロリズム) Hakim Bey(ハキム・ベイ) 箕輪 裕 訳<span class="deco" style="font-size:medium;">

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日本語訳への序文 Preface for Japanese Translation

 この本は、10年以上の昔に書かれたものである。世界は、その後変わった。そのため、わたしはもはや、『TAZ』の中で表現された理念のいくつかに同意することができなくなってしまっている。
 1987年から91年にかけてのコミュニズムの崩壊によって、イデオロギーの時代としての20世紀はその終わりを迎えた──それにより、2進法的な権力の世界もまた、終焉したのである。「社会的なもの」(すでに救いようもなく辱められ、堕落してはいたが)という偉大なる19世紀の理念は、自己を偽って無に帰した──しかしその瞬間に、イデオロギー的デモクラシーの「自由な」「西側世界」もまた、その終わりを迎えたのである。今や我々は、勝ち誇った「資本」、グローバルなネオリベラリズムという単一の世界、保護貿易主義的「国家」の武装解除、グローバルな労働とデモクラシーとのすべての「取り引き」の破棄、市場のエクスタシー、「歴史の終わり」、商品フェティシズムと空想的な疎外とに基づいた普遍的モノカルチャーの中で生きているのである。この5年間、「資本」それ自体は見る影もなく変容し、すべての現存する「通貨」の90%以上が生産物(つまりは富)とは無関係となってしまっているのだが、しかしそれはまさに、利ざや稼ぎと通貨交換──事実上、ヴァーチャルな通貨──に基づきつつも、未だに「現実世界」における権力として現れているのである。すなわち通貨は、純粋なスピリチュアリティのグノーシス主義的な天国に「存在」しながら、未だにすべての被造物を支配しているということなのだ──これは、神でさえ成し得なかったことである。
 この本『TAZ』は、「あれか/これかのポリティックス」、つまり「ブルジョア革命」と「社会主義革命」──「スペクタクル」の世界──との間の偽りの二分法を拒絶することから著されており、それゆえ、「あの」革命自体への批評を成すものであった。しかしながら、この二重の虚偽という古風な弁証法は、今や1人の「偉大な」勝利主義者の嘘によって乗り越えられてしまっている── すなわち、歴史自体の絶対性が、最も卑小な存在の中に──つまり「通貨」の中に──自己を見い出したわけである。「自由」と「平等」という2つの革命は両者とも、ついに通貨の同時性・瞬間性という巨大な静止状態、通貨の「存在」の中で消去されてしまった。反対・対立のない世界において、「第三の道」、つまり「あれか/これか」などということがどうしてあり得よう? 「第二の」世界が存在しないがために、「第三世界」もまた存在することができないのである ──あるのは、ただ1つの世界、資本の普遍的世界だけである。
 この普遍化という瞬間、社会主義と「歴史自体」とが、「純粋な銀行」とハイパー高利貸しという「遅すぎた(トゥー・レイト)資本主義」のサイバーグノーシス主義的な夢の機械へと消散してしまう瞬間──まさにその瞬間に、「あの」革命の灰の中から、不死鳥のように何かが再生されねばならない。その新しい形態とは、以下のものである──すなわち、歴史の「ロジック」のおかげで、それは自由と平等という2つの革命を総合し、そして同時に、「資本」の不可分の単一性へ抵抗するという自身の本性を見出すことで、それらを超越するであろう。それは、革命的な差異をもとにして、モノカルチャーの永遠の単調さに異を唱えるであろうし、それは「資本」を現前の蜂起的なリアリティー──「経験主義的な自由」──から無限に切り離すことに反対するだろう。メキシコ、チアパスのサパティスタ民族解放軍(EZLN)は、企業がらみの啓蒙という恐ろしい重圧、意識の地球規模のマクドナルド化/ディズニー化、そして「日常生活」を人類の膨大な消耗の中へと最終的に貧困化することに抵抗する、ポスト千年王国的な謀反の火蓋を切った。「ネオ・リベラリズム」が、すべてのセクターを消耗へと捨て去りつつ「諸々のゾーンのプロレタリア化」を押し進めるにつれて、チアパス的な謀反は広まり、枝分かれし、同盟を結び、そしてより完全な意識を求めて闘うことであろう。「都市のサパティズム」は、そこかしこ、あらゆるところで展開し、抵抗とレジスタンスのふさわしい形態へと到達するであろう──アメリカでも、ヨーロッパでも、そして日本でも(これは、三極世界が自身のマージナルなゾーンを「世界資本」による消耗から救済できないが故に、真実なのである──そして時には、その「周辺」がきわめて広範となり得るのだ)。
 わたしは、未だに「一時的」で蜂起的な形態が展開する可能性を信じたいと思っているし、まだ「自律性(オートノミー)」にも信を置いている──そしてわたしは、「ゾーン」という言葉が今も有効であると確信している。しかしわたしは、「一時的自律ゾーン」の概念のうち、その手続き上の主張を再コンテクスト化したいと思うのである。この意味において、TAZは、虚像の中に私物化されてしまった歴史を──その行動に携わる個々人が、個々人のために──奪還する行為となる。ここでは、「経験的な自由」の直接的な拡大の中での、そして同時に「古い社会の殻の内部での新しい社会の核心を築く」ことの一形態としての、「革命的な欲求」という概念が有効なのだ。TAZのゲリラ的側面は、「目隠しされた資本の円形刑務所(パノプティコン)」への抵抗の手段としてはまったく適切なものである。だがTAZに今必要なのは、自らを反対者、否定者として肯定するその禁断症状(拒絶の身振り)を乗り越えることなのだ。それは戦略的には、他の革命的な差異との相互関係を連合するプロセス(リゾーム的な複雑性)を通じた組織的な形態──その自発性においても──として、一時的にそして恒久的に実現され得るだろう。この意味で諸々のTAZは、たった今再生したばかりの不死鳥が姿を現す多様なしるしなのである。
 もしあなたがこの本を、ここに概説した観点から読むならば、これらのセクションは新しい世界状況に適合させるために「リライト」されねばならないが、それらは依然として何らかの価値を有している、ということを覚えておいて欲しい。わたしはあなたが、そうした価値を見いだし、歴史の変遷にによって幾分かは蝕まれてしまっているこのテクストの翻訳を補正して読まれんことを願う。

ハキム・ベイ


1996年11月20日