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保育に人がやってくる 「沈没家族」共同保育の試み 加納穂子十沈没家族


共同保育「沈没家族」概略

 加納穂子さんは子ども(土くん)を産みましたが結婚もしくは父親との同居という選択をしませんでした。いわゆるシングルマザーです。だからといって別のパートナーと2人で育てるわけでも1人で頑張るわけでも、実家に戻ってでもなくビラを撒きだしました。「一緒に子育てしませんか?」集まった人々で彼女が夜、専門学校に行く間ローテーションを組み、子どもと一緒にいることにしました。各人の入りたい、入れる範囲で。お金はもらえるはずもありませんが晩御飯は食べられるという条件。少しずつではあれ関わる人も増え、月1度の会議・パーティーも結構な賑わい。何度か行った旅行、合宿も毎回10数人加参加しております。遊んでばかりいるとも言えますが、非嫡出子を巡る法・制度状況その他に関する学習・討論会も行われました。加納さんの学校卒業後もこれ迄の関係を持続していこうということになりました。ここには参加者の希望と「自分のやりたいことをやれる時間がないと子どもとも向き合えない」という母の思いとがクロスしております。


加納土

 加納穂子以外の母子・父子との出会いもうまれ、現在では母子2組プラス数名での共同生活(各個室あり)という展開に至りました。機関紙「沈没家族」を月1から隔月にて発行。参加者、一緒に遊ぶ人を募集すると同時にご意見ご批判等も期待しております。

機関誌『沈没家族』

 これは「家族」なのか? 「運動」なのか? 何なのか? 参加者は一体何を考えているのか? 垣間見える希望とは? 飲びとは? 不安、困難は如何様に?


 鼎談 沈没した家族はどこへいくのか

鼎談参加者
 加納徳子
 高橋ライチ:メグ(娘)と共同保育に参加。現在、加納親子と他数名で共同生活中。
 吉岡マコ:友人。古着屋「楽々ハウス」、道場「ロックンロールハイスクール」主宰。


 以前はホコちやんとは手紙の交換程度の仲だったんだけど去年の秋に道端でホコちゃんにばったり会って、話するようになったんだよね。私はあのとき学校がいやでノイローゼ気味で登校拒否になってて毅悪だったんだけどホコちゃんと再会してから保育に来たり、ここに来る人と交流したりしてすごいラクになって、ああ世の中まだ捨てたもんじゃないなぁと思えるようになったよ。


吉岡マコ

 そんでここにいるホコちゃんとライチさんとは一緒にいて楽しいとかわくわくするとかラクっていうのがあるんだけど、それだけじゃなくて2人に共感する部分が沢山あって今日はそういうのもふくめて色々とトークしたい。


 湧いてくるなにか

 保育者会議ってこうなんとなく始まるじゃん。誰かが号令かけたりじゃなくて。なんとなく湧いてくるというかんじ。それっていいなあと思って。現代人って何か目標を先に設定しちゃってそれに向かって進んでいくというのが多いじゃない? だけどホコちゃん見てるとそういうんじゃなくってなんか知らないけど湧いてくるっていうかんじ。
 そうだね、湧いてくるってかんじだね。いい言葉だね。「湧いてくる」……。
 そうそう。で、それって会議だけじゃなくってあらゆることについて言えることでさ、自然にそうできるのってすごいいいなあ。あまりにもそうじゃない人が多すぎると思って。
 まあそれはいいとして、共同保育だってもともとはなにか理論とか目標とかがあったんじゃなくてやっばり湧いてきたものなんだよね。それを実践できてるっていうのはスゴイ事だと思う。

 なんでこんなことになったんでしょうね。でもやっぱり、自分の中から湧いてくるときは、全然もう、すごく自然なものじゃない? だから最初の時点ではこんないろんな人が面白がってくれると思ってなかった。もうとにかく、自分の思いだけでチラシをつくって撒いていただけだから。こんなに人が来てくれて有難いと思うよ。
 共同保育の試みに対して眉をひそめる人っている?
 うーん、割と始めてしまうとそうでもない。ていうか、最初保育園とかけっこうドキドキしたのね。何か最初のうちは保育園の人に言われることをいちいち何か否定されてるようにとってしまったりした時期もあったから。でもそうじゃなくて、こういうことが自分にとって大事なんだっていうことを説明したうえで、家でも保育園でも土が快適に過ごせるようにするにはどうしたらいいかっていうのをちゃんと話した。割とこっちがちゃんと楽しくやってるとそんなに批判的なことは言われないような気がするけど、どうかなあ。


 自分が「自由」とか「解放されてる」ということ

 この間ライチさんが「人が子どもを産もうと決めたときに、結婚か独りぼっちで頑張るかしか思いつかなくて、妥協して結婚を選んでしまう、というんじゃなくって、共同保育という形態を子育ての選択肢として選ぶことができるということをいろんな人に知ってほしい」というようなことを書いてたじゃない?(機関紙「沈没家族」3号)私はそれにすごく共感していて、そういう考え方とか、自分の生き方はどっかに納まるっていう形ではなくて自分で選択、創造するという形で決めていくんだっていう考え方がいまだに常識になってないのってなんかヘン! と思ってるんだ。でもそういう私も最初はムカついてるばっかりでそれを充分に実践できるようになったのは最近のこと。だからホコちゃん見ててすっごい自由にみえてずっと前から羨ましいって思ってたな。「ホコちゃんって人はなんて解放された人なんだろう」って感じてた。
 うーん。どうなんだろう。自分ではあんまりそういう風には思わないんだけどなあ。
 なんか前もそんなこと言ってた人いたよね。ホコちゃんが「そうでもない。ここ数年だよー」とか言ってて。だんだん高校のころの話とかを聞いて……けっこう鬱屈した高校生活……。
 ああそうそう! 鬱屈してたもん、高校のとき。中学、高校……。小学校の時とかも。
 へぇー。何にムカついてたの?
 んー……なんかやっぱりすごく自分が自由じゃないと思ったのかな。
 それはその高校のなかにいるから?
 っていうか、うんそうだね。高校のなかにいて……うぅわからん、なんか喋れんわ……。
 じゃあ高校辞めるときって引き留める人とかいた? 高校ぐらいは出とかないと……とか。
 うーん。あ、おばあちゃんは言ってたなあ。
 「高校ぐらいは出ときなさい」みたいな価値観ってさあ、さっきの「妥協して結婚する」みたいなのにつながるよねえ。多分うちの母親も、高校途中でやめると言ったらそう言っただろうし、あと、子どもも、結婚しないで産むと言ったら絶対「籍ぐらいは入れなさい」とか言っただろうと思うの。同じ文脈からでてる言葉でしょう。
 結婚の場合は、子どもがいると子どもが可哀想とかいうのもでてくるからねー。
 でもそういう意識化されてない親の要求というか「そういうもんだ」というのにうっかり応えちゃうとかまんまとはまってしまう人が多いんじゃないかな。だからホコちゃんはこう自分のなかから湧いてくるものに忠実だったんだと思う。


 自分が何を求めているかを探すというのは一生やっでいかなくてはいけない営み

 自分の生き方とか、暮らし方、子どもの育て方とかもやっぱり「自分はここまで」とか「こうしたい」とか1人1人あるはずなのに、それを考える時間ってあんまりないじゃん。だから結婚とかしちやったんだけど。(笑)


鼎談風景

 ホコちゃんに会って、「そうだ、共同保育だよ」とか「コレだ!」と一瞬思っちやったんたけど、やっぱり自分には全然違うっていうか。自分かここで一緒に暮らしてて、メグも週に2日誰か保育入ってください、とは思えないし、思わなくていいんだってことをこっちに来てから気がついた。
 結婚生活は自分には合わなかった。それで共同保育これいいなあと思ったけど、それでも自分はやっぱり違って、自分には自分だけの「こういうのがいいんだ」っていうのが必ずあるはずなのに。ついつい良さそうなものに会うと「コレだ!」と思ってしまう。思考のパターンが……。
 そうだよね。じぶんのやり方って、どっかにもともとあるものじゃなくって、自分で創っていくもんなのにね。そんなの常識のはずなのにね。ついついどこかに探そうとしてしまうよね。
 そう。在るわけじゃなくって。「自分か何を求めてるか」っていうのは本当は死ぬまでやっていかなきやいけない営みのはずなのに。


 別にいいこととか特別なことをしてるわけじゃない

(rの友人。現在r、hと共同生活中) 共同保育とか、言葉で説明するとなんかスゴイものであるかのように聞こえるんだけど、なかに入ってしまえば何てことない世界じゃん。話だけ聞いてたときはなんか特別な世界のようにみえてた。でも一緒に暮らしてみたら別にねえ、ホコちやんだってただの気持ちのいい人じゃんってかんじで。
 だから同じ保育園でそういう共同保育とかをやってる人がいるっていうのはすごい大きいかもしれない。加納さんっていう人が同じクラスにいて、そこのうちではいろんな人が土君をみてるらしいっていうのを身近に感じるっていうことは重要だと思う。
 そうだね。やっぱ小さいときって自分で選べないじやん。だから自分の周りにあるものが正しいっていうか、そういうもんだって思い込んじやうよね。ダーウィンっているじゃん。ダーウィンって、丁度こどもが生まれた頃に富士壷の研究を家でやってて、富士壷飼って観察とかしてたんだって。で、その子どもは父親っていうのは富士壷の研究をしてる人って思い込んでて、小学校の友達に「きみのパパの富士壷はどう?」とか聞いたりしたらしいよ。(笑)だから土とかも……。
 「君んとこ今目誰来んの?」とか。(笑)「最近週何回?」とか。(笑)楽しいねそれ。でもどの辺で気付いていくんだろうねー。
 保育園の運動会とかで、ほかのコはパパとママが応援にきてたりしてて、土の場合はなんかいっぱい人がきてて、どう思ってるかなぁ。
 勝った! とか。(笑)


 土の自立

 土は父親っていう概念はもってるのかなぁ。
 彼(父親)のことは特別な人だとは思ってるんだろうけどそれがパパっていうのにつながるかどうかはわかんないね。
 ホコちゃんのことは絶対に「ママ」っていう特権的な存在として見てるよね。
 うん。やっぱ、離れないって思ってるし……でも最近なんか自分の領域っていうのが出来始めている。前は多分土がわけわかんないうちに私が出かけてしまって、一応説明してるけどまだピンときてなくて、そして残ってる人(保育に来てる人)と遊ぶっていうかんじだったけど。自立心が芽生えてきたっていうか。だからガンコなところはすごいガンコだしねー。きまぐれだけど頑固だし爆発するしね、あと几帳面なところもあるしね、なんかよくわからないね。(笑)だからもう土がなんか「コレがやりたいっ!」って思ったらもう誰にも土を止められないっていうかんじで……おそろしいヒトだ。(笑)
 なんか感動的だね。
 あんなエネルギーのある人とかあんまり見ないよねえ。
 まあエネルギーの質にも依るんだろうなあ。でもね私もすごい感動したの。上の原時代(註・共同生活を始める前に2人で暮らしていたアパート)に、ある日、保育園に行く前に突然「ズボンもパンツもはかない」って言い出したの。言い出したらきかないんだよ本当に。なだめてもすかしてもだめで。「置いてくよ」と言って私がバタンとドアを閉めたら「土も行くー!」ってわんわん泣いてて、で「パンツはこうか」と言ったら「いやだ!」(笑)もうジャンプしたりころげまわったりして、ほんとねっころがりながらちゃんと跳ねてるんだよ。ねっころがりながら跳ねて泣いてて、もう見とれてしまって、「ああ、そこまでやるならもういいや」と思って、ま、別に考えてみれば保育園行くのにパンツをどうしてもはかなきやいけないって決まりはないしな(笑)とか思って。
 そもそもなんで保育園行くのにパンツはかなくちやいけないんだっけ、とこっちが考え直させられる。(笑)
 でも保育園行ったらちゃんとはいてたけどね。自分で判断して。……自転車をフルチンで乗りたかったのかなあ。(笑)


 土とホコちゃんのコミュニケーション

 それはきっとホコちゃんが母親だから土もそういうふうにできるんだろうね。私だったら、親が怖くてそこまでできなかったと思う。すごい怒られちゃったりして。
 いやワシも怒ってんだよ。怒ってんだけど、全然なんか通用しないんだもん。怖くないのかなあワシの怒り方。
 きっと怖くんあいんだよ……いや、ちがうかなうーん、きっと信頼関係だな、わかんないけど。この人ならわかってくれるとか思ってるんじゃない? どうせ分かってもらえないだろなと思う相手にはさあ、諦めちゃってそんな満身のちからを込めて表現したりとかはしないんじゃないかな。
 ホコちゃんてさあ、土にこうなってほしいとか期待みたいなのってあんまりなくない? 土を見てて面白いみたいなかんじ。
 そうだね面白いね。
 例えば、さっき話してた土の自立とか、分化の第1段階というか、そういう変化があって、でもそれはホコちゃんが「そうなってほしい」とか思ってたわけじゃないじゃん。
 うん。見てたらそうなってた。
 それっていいなあ。親って子どもに期待しがちじゃん。


 親と子

 子どもが親の面倒をみなきやいけないとかって、親の世代だと常識なのかな。ライチさんは子どもに面倒みてもらおうとかって思う?
 思わない。象のように死期を察知して、ひっそり潔く消えていくよ。(笑)でもうちの親は「面倒みてもらえないなら子どもを産んだ意味がない」とか言っちやうような人で。自分の人生を全うするとかそういうのはエゴイスティックでよくないって価値観。
 まあ分かりあえないっていう前提でつきあえば相手の価値観を考慮して話を進められるけどね、身内だとついつい分かり合いたくて、でもダメで傷ついちゃう。払は自分ですごい誇りをもってやってることなのに、例えばタトゥーとかほんとは親にも見せたくてうずうずしてたんだけど、でもやっぱりそういうのはわかってもらえなくてもどかしいっていうのがあった。……でもね、父親とは最近すこし分かりあえてるような気がしてて。入れ墨発覚の時も、絶賛はしてくれなかったけど(母も動揺してたし)でも好きなようにやるのが一番だとか言ってくれて、それにもすごいびっくりした。嬉しかったけど。ほんと少し前までは父とは全然□をきかなかったし、用事あっても母を通してってかんじだったし、それに妹と女3人で悪者にしてたしね。(笑)だから今こういうかんじになれてすごいびっくりしてる。この前なんか父がアメリカに行って、ポストカードがうちに届いて、「お土産を買ったので頃合をみて遊びにきてください」とか書いてあって、なんだか友達みたいじゃない? なんかいいなあと……だから私も子どもを産んだら、やっぱ母っていうのは特権的な存在としてあるかもしれないけど、ある程度子どもが精神的に自立したら友達みたいになりたい。
 私は自分の母親と分かりあえないっていう反面、執着もあって、とても絶縁状態にはなれない。メグとも一生つきあっていきたいと思うしね。それこそ友達みたいに。葉書とか書いてねえ。「頃合をみて遊びにきてください」なんて。母親であると同時に1人の個人として、つきあっていきたい。
 やっぱ大きくなってからも会いたいよね。
 会いたいよね、やっぱり。


 自分達がなにをやってるかってことよりもなにをやりたいかっていうか、やりたいようにやるっていうか……

 今日は色々話しだけど、なんか、共同保育とかって、外から見てる人は、なんかしら理論とか理想像とかがあって、それに向かってがんばってやってるというように錯覚しがちじゃない? で、今日話してて改めて、実際はそうじゃないってわかった。
 うん。それは全くナシでやってるから。湧いてきて……でも最初の頃、共同保育って言ってるけど、これってホントに共同保育なのかなあとか不安になった時期があって、自分達がやってること、コレは一体なんなんだ、みたいな。「共同保育について考えよう!」みたいなテーマを1回つくったことがあったんだけど、結局自分達がやってることが何なのかとか、そんなことを考えるよりも、とりあえず、自分達が何をやりたいのかっていうか、やりたいようにやるっていうか、それによってでてくるものはあるし、と思って。共同保育じゃなくたっていいし……。でも一瞬不安になった時期があったよ。今はちがうけど。
 へー。

1997・3・11 北新宿にて