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「その名」を公共圏に記しつづけよ! 高祖岩三郎

what we do is 'writing', and that's what's always been.
Phase 2

I see that society is using what they can use (standard English) to define their own history. I use what I use to define mine.I build a letter Like a weapon.
Rammellsee (1)


前書き──地下鉄という舞台

 まさにこのニューヨークで発生し、決定的なモメンタムをつかみ世界各地に広がったが、当地では首都交通局( Metropolitan Transit Authority )との激しい闘争のすえ、地下鉄という主要な舞台を失い、そこから撤退せざるをえなかったこの歴史をなぞることには、どうしても一抹の悲しみが伴う。今回あらためてマンハッタン、ブロンクス、ブルックリン、クイーンズの4区を自転車でまわり、写真を撮りつつその状況を見聞し、あらためてかつての全盛が偲ばれる思いである。現在、地下鉄車両内で見かけるのは、 scratchiti と呼ばれる文字どおり「ひっかきキズ」を中心とする方法だが、技術的な難しさのため表現性に限界があり、その実践者の努力に敬意を表す以上、今のところ積極的に言えることはない。街中でどこでも多くみかけるのは、throw-up スタイルと呼ばれる──手早い技でオーガニックなレタリングを構成し、それを12色で色分けする(イラスト番号44、47、52、77)──タイプで、より手間のかかる wild スタイル──流動的なレタリングの動きに建築的構築性を複雑に絡ませ、さらに具象表現を発展させる(イラスト番号85、89、51、30)は日常的にはなかなか見つからないが、人通りの少ない廃屋や工場街あるいは hall of Fame のような指定区域(イラスト番号14、7、8、16)にはまとまって存在していた(2)。それらの多くは読解は困難だが、どうしてこんな所にこんなものがあるのだと訝しく思わせるほど、いろいろな意味で質が高い。ともかく、いまだこれを信じて積極的にやり続けている青少年たちがいるということは、感動的である。彼らは過去築かれたいくつかの方法論をまっとうに踏襲し発展させようとしている。実作の現場にこそ出会えなかったが、その情熱と苦闘を想起しつつ、以下この賛辞を書きついでいきたい。
 私が初めて当地の地下鉄に乗ったのは1979年の暮れであった。当時それはまさに出来事に満ちあふれる「最も恐いが最も魅力的な」舞台であった。日本から来た人間にとって、一応、西洋的な.要素も含む外国だが、ヨーロッパ的な格式がないどころか、それをはるかに通り越して、世界中の土着性が生の匂いをたてているような巷、その匂いの発信源はここにありといった地下空間であった。ことに極寒の頃、暖かい車両内は世界各地から来た下層労働者の体臭が強く臭った。それを嗅ぐこと自体が世界とのエロチックな交感のようでもあった。また夜半こそは「特等」だった。12時以降それも郊外から中心部に向かう諸線に乗ることは、あえて恐喝してもらいに行くような愚行であったが、それでもついついパーティーに長居しすぎたりで何度もそれをしでかした。そこを寝台とするホームレスのおじさん、おばさんたちや夜遊びの Boom Box をもった B boys たちに混じって、折々恐い人たちが現れ、運が悪い時は、その時の持ち金に応じて支払いをせねばならなかったが、そんな時間帯に警察官はどういうわけかほとんど現れなかった。その代わりに Guardian Angels と呼ばれる──当時からそのような体質が内在的にあったのだろうが、今ではリーダーが完全に右傾化したといわれる──マイノリティーの少年たちの多民族的自警団が、赤いベレー帽に黒シャツ姿で現れると救われたような気がしたものだ。当時、夜中の地下鉄の旅は、まさにソル・ユリック原作、ウォター・ヒル監督の映画『 Warriors 』(1979年)で見事に描かれているように、数々の異人や怪物だちと邂逅せざるをえないホメロス叙事詩的な行幸であった(3)。そしてそれこそがわが「 writers 」たちが選んだ表舞台だったのだ。彼らの作品は、そこに常にあり、そうでなければ鉄とコンクリートのみの冷たい車両と構内建築空間を、何か限りない親しみと怪物性を同時にもった「得体の知れない生きもの」にしていた。しかしまさに「 Warriors 」のようなギャング団のメンバーたちにとって──地下鉄がそれを貫通して走っている──諸地域の「縄張り」というものが、超えがたい境界としてあったとすれば、「 writers 」たちにとっては、地下鉄こそが、そしてそこにエアゾール・スプレーで「その名」を記す行為こそが、生まれ
た時から彼らの存在自体に刻まれてきた人種・階級・ジェンダーの境界を超えて世界との「交流」を実現する唯一の方途であったのだ。そしてそれは誰から教わったものでもない、彼ら自身による彼ら自身のための創造行為であった。
 彼らは自らが創った理想的なキャラクターの「あだ名( epithet )」を独特のレタリングの技で地下鉄車両に記し、それぞれの線の運行経路を使って各地の青少年に向けて発信し、その「見事さ」「技」を競いあいながら彼ら自身の多元文化的コミュニティーを構築していった。そんな方法で、彼らは大人たちがそれを主張し始めるはるか以前に、実質的にポストコロニアル状況を実現してしまったのだ。その歴史は、一方で権力との壮絶な闘争の歴史であり、また他方で「アート(界)」の排除と包摂の二重拘束に対する難しい駆け引きの歴史でもあった。その二方向の「敵」との関係をふまえつつ、当事者たちが writing あるいは aerosol art と呼んだこの「文化革命」についてふり返ってみよう。


WRITING小史

 1つの文化的趨勢が命名される歴史は、その当事者の意向を必ずしも反映するものではない。たとえば、かなり初期からの実践者で、いくつもの writing スタイルを開発し、その中心的イデオローグとも館が看做されている Phase 2 は強調している。「グラフィティとは壁にいたずら書きをする( scribbling )ことだが、俺はいたずら書きはしていない」(4)。しかしこの歴史もいつからかメディアの慣習に従
ってグラフィティと呼ばれるようになり、また当事者たちのあるグループも、それを容認するようになって行った(5)。そして今日グローバルに流通するこの名称は非可逆的であり、その一般的機能を覆すことに積極的な意味はない。しかし以下に明らかになってゆくだろうように、その方法的特殊性からいって、また初期の当事者の意向からして、ニューヨークで発展した特殊タイプ──エアゾール・スプレーで、公共圈に、独特のレタリングでみずから「構築した名前」を記し、それを中心に表象を拡大していく行為──については、これをあえて writing と呼ぶことが妥当であると考える。
 この「 writing 」あるいは「 Aerosol Art 」の歴史を調べると、ほぼ以下のようになる。まず興味深いことに、発祥は「1968年」の次の年である1969年と推定される。まさにベトナム戦争の最中、10代(12歳から15歳)の黒人とプエルトリコ人青少年を中心に始まった。つまりニクソンがさかんにベトナムを空爆してしる最中、彼らは自分たちが「bombing 」と呼ぶ行為で、公共圏にメッセージを記し始めていた。この年たとえば Coco 144 らはウエスト・ハーレムの壁に政治的スローガン(たとえば Free Puerto Rico そして Buy Black などと)を書いていた。ニューヨークの都市計画は、悪名高きロバート・モーゼスのハイウェイ・プランに代表されるが、それは特権階級の利を重んじその地域を迂回するように、独自の豊かさを持って繁栄していた様々なマイノリティーの居住地域に高速道路を貫通させ、灰色の壁だらけにしてしまっていた。その意味では、そのような地域に育った少年少女たちが、当然の抵抗として、みずからの環境をみずからで美化しようとしていたともいえる。その壁の「美化行為」が影響力をもち、交通機関としては、まずバスに広がり、それから地下鉄に転移していった。地下鉄の各線に自分の選んだ名前を記し、それをメッセージとして各地に伝播することを考案したのは Taki 183 と自称する writer だったという。そして本格的な「作品」としては、 Top Cat らが、マンハッタンの西側を北端のワシントン・ハイツを起点に、ハーレムを通りビジネス街の南端まで走り、さらにブルックリンに向かう No.1 ラインで開始する。当初は少数の例外をのぞいて、ほとんど黒人とラテン系の文化として始まったが、1975年から1981年ころには、様々な人種の少年少女を含む2万5000人ほどの実作者たちがニュヨークで活動していたという。そしてその後ニューヨークの全盛がすぎていくと同時に、1980年代の後半には、まさに世界各地の都市のマイノリテー文化に伝播し、グローバルな若者文化となっていった。 ある意味では1968年の世代が、自己権利を主張して抵抗運動を組織している間に、この若い世代の青少年たちは「権利主張」以前に、自己の存在論的要請に従って「直接行動」に入っていたといえる。すでに示唆したように、彼らの数限りない美点の1つは、そのマルチ・カルチュラル性にあった。たとえば女性 writer の1人 Lady Pink がいうように「この文化の強い点は、実に様々な年齢、信条、ジェンダー、体型の成員を巻き込んできたことだ」(6)。その上、大作に関しては、個人主義的な表現行為とは異なり、年長のリーダーを中心にグループを組織し工房のような生産体制ををとっていた。年長者は年少者を熱心に教育し、自分達が発展させた「スタイル」を伝承していった。つまり彼らは、それ以前には想像さえしえなかったようなコミュニティーを創設することに成功したのだ。そしてそれは彼ら自身の切迫した要請、白人中心の社会の抑圧からも、親たちの文化の慣習からも自由に、そしてさらに地元を仕切るギャング団(たとえば Ebony Dukes や The brotherhood of Hoodlums など)の縄張りを超えて生きていきたい、という切実な欲求と同時進行していたのだ(7)。
 彼らの表現行為の当初の対象は、自分たちに似た各地の Writer であった。気に入った writings に出会うと、彼らはそのイミテーションを描き、その横に自分の作品(=サイン)を記して賞賛のコメント行為とした。そんな交流が次第にエスカレートし表現自体が複合的に発展していく。サイズが拡大していく。いくつものスタイルが開発され、それらはどんどん複雑化し、仲間うち(=競合者)あるいは識者以外には読解不能のものとなっていく。また絵画的表象の側面もどんどん発展していく。そんな中で彼らの観客は、いうまでもなく2通りできてくる。仲間うちそして一般の乗客である。一般の乗客の中でも判断が分かれてくる。この「文化」は意外に早くから、暗黙の内に、多くのアーティストや文化人に影響を与え始めていた。他方ニューヨーク市当局と首都交通局MTAは、一貫してこれを違法な公共物汚損( vandalism )=犯罪と定義し、その行為を一方的に阻止し、その作品を消し去ろうとしてきた。リンゼー、ビーム、コッチという3代の市長が、これを率先して指令した。1973年以降、市は毎年1000万ドルを作品抹消に使った。 Writers たちはいくつかの組織をつくり何度か市と掛合い、たとえば彼らが市の文化事業に参加するというような調停案を出したが、それらはすべて破綻した。ことにコッチの弾圧は徹底していて、地下鉄車両の倉庫に、鋭い歯がついたレーザー・フェンスを設置し、番犬を放ち、電子探知機を装備し、警察隊を増強して各線の警備にあたらせた。また buff というシステムでケミカルを使った車両の洗浄を行い作品群を全て消去してしまった。1980年代には、この弾圧に総額で1億5000万ドルの資金を導入したという。そして奇しくも社会主義圏崩壊と同じ1989年、MTAは「落書きなき地下鉄」の勝利宣言を行った。よく知られているように、その後、ディンケンズを経て、ジュリアー二に至り、このジェントリフィケーションと呼ばれる文化/経済的弾圧は、さらにエスカレートしていく。不動産業者との合作により貧困階級をいくつものブロックから追い出し、ニューヨークを、ことにマンハッタンを、地方の金持ちや外国資本の投資の対象にしていく。結局、市は市民の数億ドルもの税金を使い、ジェントリフィケーションを行ったが、それにも関わらず、ではなく、まさにそのために、ホームレスの人口を増加させていったのだ。
 地下鉄という主要舞台を失ったあと、ほとんどの writers たちは壁を対象とする行為に集中する。しかしかつて有名だった実践者の多くは、ある時点で消え去っていく。その中でも有力な( FuturaRammellzee など)数人は、キャンバスに向かい、アート界に入っていく。しかし結局、アート界に残るものは少なく、外国に移住して継続したり、インターネットやその他各種デザインにジャンル変えしていく。最近ではアート界からもデザイン界からも独自に、 writers たちの作品を売り、公共的ディスプレーや各種デザインの仕事を斡旋するプロダクション・システムも存在しているが、それは彼らが生き延びる上で当然必要なシステムであろう(8)。他方MTAによって破壊された作品の中のいくつかは、写真情報としてアーカイブスに記録され、1990年代のインターネットの発展で伝播していく(9)。初めにいったように、それでも多くの若者たちが、先人たちにならい、現実の壁に向かって実践している。そしてそれは、微妙にアートやデザインと関係を持ちながらも、そのどちらにもカテゴリーとして吸収されることなく、グラフィティだろうと writing だろうと、ともかくそれ固有の名称で呼ばれつつ存続している。そしてそれこそが最も重要なことであろう。


WRITING 方法論

 writing とは何か? この視覚的にダイナミックで複雑な表象世界の軸にあるものは何か? それは壁画のような説話性か? あるいはタテカンのようなスローガン性か? デザイン的クールさか? ランダムないたずら書きか? それらすべてをかねそなえているそれを、何故 writing と呼ぶのが妥当なのか?
 その軸にあるものは、あくまでも「言葉の構築と伝達」であるように思われる。名を記すこと、習字的な表現性、および言葉の変形操作である。Phase 2 によると、この文化には、4つの中心的テーマが存在する。(1)名前の中心性 (2)言語を構築すること、創造すること、あるいは言葉の視覚的・音声的鋳造 (3)国家と消費文化に対抗するアイデンティティーを構築すること (4)先祖から受け継がれたスピリチュアルな伝統によって、文化的抵抗が強化されるというマイナー文化特有の思想──以上の4項である(10)。重要なのは、まず自己命名である。自分の理想の人格とそのイメージに則したあだ名( epithet )を考案する、という行為である。それは社会から「与えられた名ではない名」を自ら構築する、ということである。この自己命名の文化は、ブルース、ジャズ、レゲエ、ラップ、あるいはブレイク・ダンスなどにも広く見られる現象だが、そこにアフリカやその他のプリミティヴな文化におけるいわゆるトーテミズムあるいはアニミズム信仰との関連や伝統を見る人もいる。つまり自己賞賛の名( praise name )としてのあだ名( epithet )の儀礼的力への信仰と、1人の人間がその複数の関係性に応じて複数の名を持つ西アフリカ社会の習慣が伝統として生きている、という考えだ。あるいはさらにそれに加えて、奴隷解放以後、北部へ移住したグループが、無理に与えられた過去の名を捨てて、自己命名を行い、新たな生活へと出発した歴史が繰り返されている、という解釈も存在する。ともかく、ここではっきり言えるのは、ここには奴隷の末裔であるアフロ・アメリカンをはじめとするマイノリティーが、西洋文化の支配の中で「言語」と「名前」を既に奪われているという事実があり、それを起点として、彼らが西洋の支配的文化に対して自律性( autonomy )を勝ちとる闘争としてこれが実践されているということだろう。
 writing における命名行為については、Riff という writer がそれを開花したとされている。まず彼の Riff という名前自体(『 Warriors 』ではたまたまハーレムで活動する最も強力なギャング団の名前)が、ジャズやブルースにおける即興演奏を意味しているが、彼1人で Boss、Cash、 Pod'、Craz Worm、Fudge などの幾多の「クール」な名を創り、それらを作品として記していた。そしてそれらを仲間たちにも、作品行為の文脈で記すことを許した。そして仲間たちもまた、彼への賞賛を表す行為として、それらを使ったといわれている。この興味深い逸話が示唆しているのは、これらの名前は、近代西洋社会のアートや文学における作者名のように、単なる個人に帰属する作品の指標( index )ではなく、より本質的に「名前自体」、あるいは「 Logo 」のようなものなのだ、ということである(11)。
 たいへん神秘的で複雑巧緻な視覚表象(=絵画)を築き、アート界でも畏怖されていた Rammellzee は、もっとも意識的に名前=言語=レタリングを発展させた人物の1人だが、この ramm-ell-zee という名前の構築には Five percenters というブラック・モスレム系一派の思想の影響があるといわれている。この文字構成は、いくつもの意味の層で成り立っている。Ramm は、まず Raameses つまりエジプトの太陽神の息子のことだが、Ram というパーティクルは、ブラツク・モスレムのコミュニティーでは、Raham という聖名であり、また同時に打ちたたくこと、前進運動、または wild スタイルにおいてよく使われる矢印を意味する。Ell は、挺、高度、増進を意味する。Zee は、ぺージを読むパターンを意味する。つまりこの名前の小宇宙には、すでに言葉とその起源についての、またそれを読むことについての、1つの見事な詩が宿っている。そして無論、アフリカン・アメリカンのスラングの伝統やラップ音楽との類似/対応関係という意味でも、その詩は十全に音声的でもあるのだ。彼は Tag Master Killers (TMK)というグループを組織し集団製作によるレタリング・スタイルを探究し、まず iconoclastic-panzenrizm というスタイルを発展させ、さらにそこから Gothic Futurism あるいは Alpha's Bet という様式の確立で、自分のスタイルを完成させたといっている(12)。
 writing の視覚表象世界構築の軸には、あくまでもこのような「名前=言語構築」が介在している。だからこそれは writingと呼ばれるのが妥当なのだ。そこから、その他のスローガンやメッセージに移行し、他者のコメント的介入が起こり、絵画的な構築などが始まる。作品が地下鉄車両や壁という公共空間に記されることもあり、またこのような他の writers たちの介入を歓迎することもあり、1つの「作品」の境界は曖昧である。そこでさらに「その名」の logo を中心として配し、それを中継点としてネットワーク状に拡大していくことの必然性が出てくる。その視覚的な質の獲得については、Phase 2 が指摘している(3)カテゴリーの「消費文化に対抗するアイデンティティーを構築する」という点が重要だろう。たとえば、writers たちは、世界中の様々な雑誌を売っている本屋に入り浸り、雑誌群をむさぼるように研究していたといわれる。彼らにとって、純粋芸術/ファッション/コミック/広告というような階層的カテゴリーはほとんど意味がなかった。彼らは、まず資本主義的消費文化において最も影響力を誇ってきた広告文化の世界に対して、ういういしい感性をもった少年少女として、その視覚的インパクトを最も正直に感受しつつ、しかしそれを換骨奪胎あるいは脱構築し自分のものに作り替える、という作業を貫徹した。そしてこの文脈で、出発点となり軸ともなったのが、「消費文化」における Logo の力を、彼ら自身の想像力で自らの思想に合致した「抵抗の Logo 」に変換していく、という作業であった。
 このようを名前と文字の構築に向けた彼らの強烈な意志と情熱を見ると、そこには、名前=言語というものが主体を形成し位置づけるアクティヴな変換装置=力であるという深い信念がある。あるいは、writers たちの照応にしたがって、ヨルバ族の鉄の神オグンにちなんでいえば、この文化の軸には「言葉鍛冶( wordsmith )」という側面が強く存在する。これは同時に奪われた名前を奪還し、他者の言葉の中で、自らの言葉を創る戦いでもあった。そしてその時、鉄を鋳造する鍛冶屋=
オグンが象徴的次元で彼らの守護神として存在していたともいえる。Rammllzee は「文字とは戦争の武器である」と主張している。そこには「言葉=文字の身体」というものを最重視し、それ自身生きている文字、性格をもった文字、説話をもった文字の構築を目指しつつ、意識的にアフリカ主義的伝統を復活させようという意志があった。そしてそのアフリカが現実のアフリカというよりも、彼らが勝ち取るべき理想あるいは思想としてのアフリカであったことはいうまでもない。そして同時に、そこには彼らの歴史も刻まれていた。そこには過去と未来の時間性が同居していた。
 アイヴァー・ミラーは彼の大変すぐれた研究書『エアゾール・キングダム』の中で、 writers の実践のなかに「地下鉄」と「鉄道」と「オグンの伝統」という現実的な歴史と神話的な次元を貫く関係性を発見している(13)。まず多くの writers の父親が、地下鉄関係の肉体労働者であったという事実がある。そして writers が育ったブロンクスやブルックリンの多くの地区には、地下鉄車両の巨大車庫があり、幼少の頃からそこで遊んでいたということがある。そしてさらに重要なのは、初期の writers の多くが、1870年代のヒーロー的黒人鉄道労働者、John Henry の説話を好んで表象していた、という事実がある(ちなみにアメリカの鉄道の発展には、中国系やアイルランド系移民が盛んに肉体労働者として従事する以前は、ほとんどアフリカン・アメリカンが携わっていた時期があるという)。そしてアフリカ回帰主義の神話的なシンボルの1つとして様々な領域で──たとえば日本でも一部で有名な前衛ジャズ・ドラム奏者ミルフォード・グレーヴスが開発した総合的武術ヤラにおいてのように──語られてきたのが、ヨルバ族の鉄の神オグンである。writers と地下鉄の関係はむしろ激しい戦いの場であった。地下鉄構内で何人かが事故死し、また警官に射殺された者もいた。そして鉄道とアフリカン・アメリカの関係は、まさに酷使された労働と激しい階級闘争であった。しかし同時に「鉄道」=「地下鉄」には、まず生活環境自体からきた親近性が存在していただろうし、また象徴的・神話的な次元で「鉄」という記号を通して「力の象徴」にも繋がっていたというのが、ミラーの解釈学である(14)。そしてそれが Phase 2 が指摘している(4)の文化的抵抗におけるスピリチュアルな伝統の重要性でもあろう。 警備の厳しい夜の地下鉄車庫に入り込み、漆黒の暗闇の中で、巨大な地下鉄の身体に向かった、自分の体より大きい文字=イメージを記していく作業は生易しいものではない。ニューヨークの冬は厳しく、夏はまた暑い。製作の難しさ以前に、高電圧の配線がはり巡らされた環境を動き回ることは命がけであり、また捕まれば間違いなく刑務所行きである。またスプレー・ペイントは、コントロールしやすいものではなく、その上まったく体にいいものではない。writers は家でスケッチブックに下書きをして、それをもって現場に出かけていった。何度も失敗した挙げ句にやっと、そのスケッチのプランを現場で満足に実現出来るようになったという。
 そんな苦闘はいったい何のために為されたのか? それはあくまでも、自分のメッセージと技の妙を仲間と競合し、コミュニティーを創っていくため、そしてその文化を一般にアピールするためであった。それ以上でも以下でもなかった。むしろアート界やデザイン界のプロモーションをまったく拒絶した wraiters も多くいたのである。少なくとも彼らは当初、アート界に進出しようとは全く考えていなかった。スプレー・ペイントという方法や外の壁を相手にするという意味で、ディエゴ・リベラやシケイロスなど、1930年代メキシコの壁画の伝統/影響/関係をこの文化の発生に見る向きもある。しかし writing に限っていえば、それは「絵画が外に飛び出した」ものではない。それはファイン・アートともデザインとも何の関係もなかった。それは彼らが、自分達自身のために為した「文化革命」以上でも以下でもなかった。


アートの二重拘束と WRITING (あるいはグラフィティ)の自律性

 1980年代に入ると、アートの世界が盛んに writers たちの動員を開始する。前衛的なアーティストのグループ Co-lab が組織した Times Square Show (1980)を皮切りに、大小の美術館や画廊が動き出す。またハーレムに Fashion Moda という画廊が創設され、地元のアーティストたちを紹介し始め、そこに当然 writers たちも関わっていく。Mudd Culb や Negril などの前衛的クラブ・シーンもこれにならっていく。Futuraキース・ヘリングが共同企画で、writers たちと彼らに類似した「グラフィティ的」絵描きたちの合同展を企画する。同時にメディアも盛んにこの文化に言及し始める。ここまでは初期の新鮮で生産的な交流の例である。しかし結局、この文化がアートに完全に吸収されることはなく、またその実践者たちが、アーティストとなってめでたく終わることもなかった。
 われわれは通常グラフィティ文化と同一視される画家たち──キース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキア、ケニー・シャーフ──と writers たちの違いをはっきり認識すべきである。キース・ヘリングは writers たちをもっとも評価し、彼らから多くを学び、また彼らにつくした人物の1人で、多くの writers たちが彼に愛情をもっていたという。しかし彼はあくまでも絵描きであった。彼は美術学校の学生時代、writing に触発され、駅員に許可をとった上で、地下鉄駅構内のまだ広告が張られていない地のままの黒いボードにチョークで描き始めたが、地下鉄車両にエアゾールで描くことは決してなかった。しかしその行為が彼を「地下鉄のグラフィティ・アーティスト」に仕立てていった。彼はあくまでも「外に飛び出した絵描き」であった。ジャン・ミシェル・バスキアは、よく知られているようにマイノリティー出身で Samo というあだ名で、writing をやっていた時期もあったが、画廊がついてからは、その過去をあまり語りたがらなかったという。彼は絵描きに転向したもと writrer であった。そのあたり、アート界と関わりながらもけっして現場を捨てなかった Daze や FuturaRammellzee とは違っている。ケニー・シャーフについては、何もいう必要はない。
 結局ニューヨークのアート界、美術館と画廊は、最終的に writing と writers に影響を受けた「グラフィティ的な芸術家たち」をプロモートすることに専心していたのであって、writing と writers 自体を究極的に評価し巻き込むことはなかった。ホイットニーやブルックリン美術館などの大きな美術館展においては、writers たちはシンポジウムに呼ばれはしたが、作品自体が展示されるケースはほとんどなかった。結局ヘリング、バスキア、シャーフ中心で終始した。その意味で、writers たちは、アート界によって、あらかじめ排除されつつ、適度に使用されたのだ。
 1980年代初頭は、ニューヨークのアート界で、クレメント・グリーンバーグの思想に代表されるアメリカ的伝統の単一主義的歴史主義に対して、いくつものスタイルが百花線乱的にあらわれた時期であった。日本でニュー・ペインティングと呼ばれたヨーロッパ系の絵画から、アメリカのフェミニストたちの新しいコンセプチュアリズムから、ネオ・ジェオまで、多少前後しながらも、ほとんど同時に起こっていた。同時に投資という側面では、ヨーロッパの美術館やコレクターが集中的にニューヨークで買い物を始め、グッゲンハイム美術館がヨーロッパに進出し始める。つまり今日ではあたりまえとなった「アートのグローバリゼーション」の開始であった。日本の美術資本もこれに習って、画商や投資家たちが進出し、その挙げ句、全ての地方美術館がはっきりした根拠もなく、何人もの同一の欧米有名アーティスト作品を収録することになる。つまりオイル・ショックからの復活以降、アート界の資本の活性化の中で、先進国の画廊界は新たな投資の対象を必要としていたということだ。そのような文脈で、ある種のスタイル的/イデオロギー的多義性の一項として「グラフィティ的なもの」は注目を集めたのだ。結局そのことによって同時に、writers の文化もグローバルな注目を集心るようになったのであれば、それを一面的に悪く評価することも出来ないかもしれない。ただしこのアート・ブームは、皮肉にもニューヨーク市のジェントリフィケーションと相補的に進行していたのだ(実際コレクターの多くはニューヨークを牛耳る不動産業者であったし、今でもそうである)。そしてそのようなアート界の趨勢は、writers と writing に対する市の弾圧を積極的に抑止することはなかった。それがアート界と呼ばれるものの政治的限界である。
 有名な話だが、アンディー・ウォーホールはすでに60年代に「将来15分間は万人が有名になる」と言った。そしてウォーホール自身「将来15分間のみ有名になった大衆」が創ったかのように、アメリカ的伝統である「グリーンバーグ的な絵画平面」を土台に、あらゆるマス・イメージを──実は「あらゆる」ではないが、そのような仕草で──無原則に、かつきわめて「表面的に引用」していく。彼は日常会話においても、すべてに対してきわめてニュートラルに great ! という肯定的判断を下していたという。彼は古典的な西洋男性のイメージからあくまでも遠く離れた感受性とスタイルで、ハリウッド的スター文化もファッション的文化もアンダーグラウンド文化も分け隔てなく肯定していった。作品以外の彼の多くの偉業には、たとえばマルチ・メディア共同工房 Factory の設立があり、ロック・バンド、ベルベット・アンダーグラウンドのプロデュースがあり、またグラビア誌 Interview の創設があった。昨今ウォーホールについては、そのゲイ的要素も含めて様々な解釈の試みが進んでいるが、少なくとも西洋男性中心主義的主体の脱構築という側面では、そのラディカリズムは徹底したものであった(15)。それはことにアメリカ現代美術の彼以前の世代、あるいは幾分かは彼以降の世代の男性アーティストたちをみても判然としている。ただし80年代前半の美術界の資本の活性化の時期以降、この無原則主義(=脱属領化)は、再属領化として機能しはじめたようにみえる。彼は好んで、ヘリングやバスキアなどと共同で展覧会をやり、若い世代の新しい動向をサポートしたが、他方グッゲンハイム美術館の世界資本との合作に積極的な参加していった。その意味で、彼の無原則的肯定主義は、アート界の資本の論理自体に限りなく同化し、ネオ・リベラリズム的世界の文化的蒙徴となったのである。
 writers たちが80年代初頭以降、アート界で多少とも評価され始めたことは、資本とメディアの観点からみれば、ウォーホールの15分の予言に則した出来事かもしれない。それは資本とメディアの包摂力の拡張という事実そのものであった。しかし writers の文化自体の観点から見れば、そのようなことに全く意味はない。それはそもそも、そのようなメカニズムに関わることに全く関心を持たずに出発していた。また結果的にアート界に完全に包摂されることなく、自律性を保ちつつ、ある意味では自己実現し、(ニューヨークの文脈では)ある意味で衰退していった。writings が「暗黙の内に」アート的絵画に大きなインパクトをあたえ、また「暗黙の内に」グラフィック・デザイン、ことにフォント文化の活性化に大きなインパクトを与えたことは、ゆるがせない事実である。しかしそれが認知されることはほとんどなかった。writing は今後も微妙にアートやデザインと関わっていくだろう。しかし writing は、あくまでもアートではない、デザインでもない、それは writing (あるいはグラフィティ)である。またそれは「エクリチュール」でもなく、また「書くこと」でもない。それはあくまでも writing (あるいはグラフィティ)である。その意味でこそ、それは最終的に勝利したと言える。
 世界中の若者よ、「その名」を公共圏に記し続けよ!

















(1)当エッセーを書くにあたって、以下の書物と映像作品を参照した。
 Ivor L. Miller, Aerosol Kingdom, Jackson: University Press of Mississipi,2001
 Norman Mailer, The Faith of Grraffiti, New York: praeger, 1974.
 Norman Mailer, Watching My Name Go, London: Mathews Miller Dunber Ltd.
 Martha Cooper and Henry Chalfant, Subway Art, New York: Henry Holt and Company, LLC, 1984.
 A film, "Style Wars", directed by Tony Silver, 1983.
 エピグラフとして使った Phase 2 と Rammellzee の言葉は、ともに L. Miller の研究書から借用した。前者は20ぺージ、後者は86ぺージより。

(2)より正確にいうと、その他、地元の商店が近所の青少年を雇って宣伝用に描かせる場合も存在する。その例はたとえば、イラスト番号1。

(3)この『 Warriors 』とホメロス/叙事詩の類推は柄谷行人氏によるものである。

(4)Ivor L. Miller の本、19ぺージより。

(5)United Graffiti Artists は、1974年に、Jack Pelsinger によって、結成されたグループだが、首都交通局との交渉において積極的な役割を果たしてゆく。

(6)Ivor L. Millerの本、20ぺージより。

(7)彼らの多くが、実際ギャング団と複雑/微妙な関係を持っていた。たとえば有名な元ギャング団の Bam は、Afrika Bambaataa's Zulu Nation というブレーク・ダンサーやDJや writers を含む複合ジャンルのグループを創り、文化振興につくしている。これは今でも活動を行っている。

(8)たとえば TATS CRU, INC. http://www.tatscru.com

(9)http://www.nycsubway.org
http://www.graffiti.org
http://www.futura2000.com
http://www.atl49st.com/index.html
http://www.eiresol.com
http://www.zulunation.com

(10)Ivor L. Miller の本を参照。

(11)Norman Mailr The Faith of Graffiti において、"Like a logo … it is not my name, but the Name".と言っている。

(12)Rammellzee の作品については、http://www.gothicfuturism.com を参照せよ。

(13)同上、Ivor L. Miller の本。

(14)確かにアフリカン・アメリカン音楽においても鉄道や地下鉄は、特権的な地位があるように思われる。数限りないカントリー・ブルースの曲(私の好みで言えば、エリザベス・コッテンの「フレイト・トレイン」)が鉄道歌であり、また地下鉄でいえば、ハーレム・ルネッサンスの象徴であるデューク・エリントンの Take the A Train をはじめ、ラスト・ポエッツの On the Subway があり、またジェイムス・ブラウンの Nighttrain、そして同じ歌のパブリック・エネミーのヴァージョンもある。

(15)Pop Up Queer Warhol, edited by Doyle, Flatley, and Munoz,(Durham and London: Duke University Press, Press, 1996)

(こうそいわさぶろう・翻訳家)