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もしインターネットが世界を変えるとしたら8 粉川哲夫

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オリジナルテクスト

ラジオアート
 《ラジオ・アート》という言葉をよく耳にするようになったのは1980年代の終りごろからだった。それ以前にも、「アートとしてのラジオ」という言い方はあったし、歴史をさかのぼれば、未来派のマリネッティらは、1933年に「ラディオフォニック未来派演劇」というマニフェストを発表し、ラジオをアートの装置として使用することを提起している。
 しかし、さまざまなアート・フォームのなかの1つのフォームとしてラジオが使われるのではなく、もっとトータルな〈アンブレラ・コンセプト〉として《ラジオ・アート》というコンセプトが使われるようになったのは、わたしの知るかぎりでは、近年のことではないかと思う。
 1990年8月12〜18日にアイルランドのダブリンでAMARC( Association Mondiale des Radiodiffuserus Communautaires 、コミュニティ・ラジオ放送世界連盟) の呼びかけで開かれた「国際ラジオ・アート・フェスティヴァル」の呼びかけ文で、ブルース・ジラールドは、ラジオ・アートを次のように定義している。
 「ラジオ・アートは、新しいラジオの使用様式である。伝統的にラジオは、ラジオ表現のために言葉や音楽を用いてきた。それに対してラジオ・アートにおいては、サウンドが、創造的で、しばしば共有的な表現過程のなかで用いられる。ラジオ・アーティストは、自然のサウンドと作られたサウンドとの両方に関わる。それは、複合的でリアリスティックなサウンドスケープから、言葉、音楽、自然の、あるいはひずみのある作られたサウンドをミックスした”コラージュ”にまたがるた高度に実験的なアートの形式と素材なのである。」
 が、このかぎりでは、《ラジオ・アート》はまださまざまなアートのなかの1つでるという残滓をのこしている。が、その後急速に《ラジオ・アート》はもう1歩先に行きはじめた。
 1992年3月、カナダのバンフ・センター・フォー・ジ・アーツのウォルター・フィリプス・ギャラリーが主催した「ラジオを考えなおす――アート・サウンド・送信」というイヴェント(講演、パフォーマンス、インスタレーション、ワークショップなどから成るこの催しは、いまでは『 Radio rethink art, sound and transmission 』( Eds. :Daina Augaitis & Dan Lander, 1994 ) という本のなかにドキュメントされている)に招かれた際、その展示を見たり、「ラジオ・アーティスト」たちと交流するなかで感じたのは、そのことだった。
 そもそもわたしが招待されたステイタスにしてからが、自由ラジオの「ラジオ・アーティスト」というものであり、FMの送信機を作り、アンテナを張り、そのプロセスを見せながらその装置を使って「観客」とともにトークやパフォーマンスをやるという、「アート」としてはいささかワイルドなアクションまでもが、《ラジオ・アート》に含まれてしまうのである。
 ウォルター・フィリップス・ギャラリーの展示スペースには、チーフ・キュレイターのダイナ・オウガイティスとゲスト・キュレイターのダン・ランダーのオーガナイズのもとで、4点のインスタレイションが展示されていたが、どれもみな狭義の「ラジオ」を超えていた。
 とりわけパトリック・レディの『ラジオと豆』は、「ラディオ」をその語の本来の意味、つまり「ラディエイション」などの「ラディオ」(放射)に引き戻してとらえ、ヴィデオ・モニターから放射される電磁波が、そのすぐそばにつるされた豆の苗に作用するプロセスを見せようとするものである。
 クリストフ・ミニョーンの『口を開きなさい――オリジナルなものの脱文節化と陥穽のテクノロジー』も、普通の意味の「ラジオ」との関係よりも、むしろマルチメディア的なインスタレイションである。会場の「懺悔ボックス」に入り、ひざまずくと、向かいの格子のなかのコンピュータ・スクリーンに、「あなたは何を懺悔しますか?」という文字が現れる。そこで、たとえば、「わたしは海賊放送をするという罪を犯しました」と「告白」すると、装置はその声を読んで、スクリーンにその「回答」を出す。また、このインスタレイションは、このギャラリー内に仮置されたラジオ放送局とリンクされて、リスナーが「ラジオ懺悔」をするというライブ・パフォーマンスの形でも何度かインスタレイトされた。
 このように、「ラジオ」の外側から「ラジオ」概念を超える試みがなされる一方で、「ラジオ」の内側から「ラジオ」を超える試みも多数なされた。「ラジオを考えなおす」というこのイヴェントの開始と同時に、会場には「ラディア(RADIA)」(ちなみに未来派の先に宣言は別名 Radia を呼ばれた)という出力10Wのラジオ局が開設されたが、この局は、普通のラジオ局のような情報伝達装置としてよりも、このイヴェントを異化し、活気づけ、そしてまた、3次元的な身体的リアリティとは別のリアリティ・スペースを創出する装置としても機能した。
 1ヶ月以上にわたって続けられたイヴェントなので、わたしはその一部にしか立ち会うことができなかったが、ヴァンクーヴァーのウェスタン・フロントのディレクターでもあるハンク・ブルは、彼の『インドのファウスト』で、ゲーテの『ファウスト』第1部にもとづく身ぶりと声による身体的アクションを会場でライブ・パフォーマンスとして提示する一方で、そのサウンドとボイスをラジオ送信し、電話、FAX、スロースキャンのテレビ電話で入ってくる外部のリアクションに応答して、さらに自己の身体アクションを広げていくという重層的なパフォーマンスを展開したのが評判になっていた。
 コレット・アーバンの『イッツ・オン・ユア・ヘッド』は、耳をおおう形になったラジオ付きの帽子をかぶった七人のパフォーマーがバンフ・センターの広大な敷地内に散らばり、「ラディア」から放送される音と声に対してそれぞれが、独自のパフォーマンスをやるというものである。この場合おもしろいのは、七箇所で行なわれるこのライブ・パフォーマンスを同時に見ることができる者はいないという中心の否定であり、また、「観客」がラジオを聴きながらパフォーマンスを見ていると、そこに自分とは全く異質の、あるいは同質のアクションが発見できるという多中心的な状況が創出された点である。
 リタ・マッキウ、ロベール・ラシーヌ、ヒルデガルト・ウェスターカンプらの、あらかじめ録音されたサウンド・声をもちいた「作品」のなかで光っていたのは、ヒルデガルト・ウェスターカンプの『バンフを聴きながら――ある訪問者の肖像』である。  これは、明らかにR・マリー・シェーファーのサウンド・スケープの影響下に、DATで採集した会場周辺の音を聴かせた。この場合、ギャラリーでこの音を聴くことによって一瞬、外部と内部の障壁がはずれるめまいのような経験をすることができるだけでなく、「ラディア」を通じて聞える音をポータブルラジオで聴きながらギャラリーの外に出て行くと、見なれた場内のたたずまいが、一瞬、それまでとは別の姿で見えてくることが非常におもしろい。
 重要なことは、この催しによって、ラジオがこの20年間に気づきはじめ、すでに暗黙のうちに実践しはじめていたことを理論的にも実践的にも明確にしたことである。 アート以外のレベルにおいても、ラジオは、フェリクス・ガタリがすでに「スキゾ分析」の器官として分析した70年代イタリアの自由ラジオにおいて、従来の「伝達装置」としてのラジオの殻を脱皮した。80年代には自由ラジオのアイデアがイタリアから全ヨーロッパに広まった。ノイズ・ミュージックは自由ラジオなしには決してポピュラーなものにはならなかっただろう。すでに存在したアメリカの小ラジオ局から生まれたスクラッチとラップミュージックも、この動きに呼応していると考えてよい。だから、ダブリンで開かれた先述の「ラジオ・アート・フェティヴァル」は、さまざまなラジオ実験が一通り出そろった時点での最初の総括でもあるのである。
 『世界の調律』で知られるR・マリー・シェーファーは、「ラジオは、それが発明される以前から存在した。風のなかに、夢のなかに、見えないヴォイスがあるときはいつも存在したのである」と言っているが、彼はすでに、ブルス・デイヴィスとともに、人の住まない場所の風や雨、鳥や動物の叫び声をそのまま放送する『野性ラジオ』という実験を行なっている。それは、自然のサウンドスケープの企画されない出来事を編集せずに都市の中心部に向けて送信する」試みであった(シェーファー「ラディカルなラジオ」『サウンド・バイ・アーティスツ』所収)。
 ラジオ・トランスミッションを、単なる伝達装置としてではなく、いわばマトゥラーナ=バレーラ流の「構造的カップリング」の装置として用いる実験は、わたし自身、バンフ・センターやヴァンクーヴァーのウェスタン・フロントにおける『ポリモーファス・ラジオ』でも試みたことだし、下北沢のラジオホームランでもくりかえし行なったことだが、バンフ・センターで1989年に「ラジオ・フリー・バンフ」という海賊局を開局したコリン・グリフィスの『オープン・チャンネル・ラジオ』も、同じ系列に属する。グリフィスは、ラジオ送信から「スタジオ」を一切撤廃し、送信入力を2本の電話回線に直結することによって、「局」を完全に脱中心化した。
 1991年3月にオンタリオ州のロンドンのCHRW局が開いたラジオ・シンポジウムで、ラジオ・アーティストのジュリア・ロクティヴは、ラジオとは、「1つの局がもう1つの局に溶け込む突然変異のプロセス」であり、さらには、「マルチ身体化のプロセス」であると言っている。わたしの経験では、ラジオとは、本質的に、《起源》と境界を消去する方法とプロセスではないかと思う。
 いずれにしても、問題は、定義ではなく、アクションである。そしてその意味では、前述の「ラジオを考えなおす――アート・サウンド・送信」シンポジウムでクロード・シュロイヤーが言っているように、「ラジオ・アートとは、定義の必要でないタームである」ということも確かなのである。
 ハンク・ブルは、早くからラジオ・アートの分野で活躍してきたが、1992年秋、武蔵野美術大学、京都大学西部講堂、北トピアなどでいくつかのラジオ・アートを披露した。今回彼が披露したのは、1991年に「ヴァン・ゴッホTV」で知られるポントン・ユーロピアン・アート・ラブのベンジャミン・ハイデルスベルガーらと行なったヴィデオフォン(テレビ電話)によるアートで、彼はいまテレクラではやりの日本製のテレビ電話機とFAXを使い、実にしなやかなやり方で1つの空間を「グローバル」にして見せた。
 ハンクがまずどこかにFAXを送る。すると、次々にどこからともなくFAXが入ってくる。ハンブルクからも、ニューヨークからも、ラトビアのリガからも。ハンクは、それらのうちのいくつかをまたどこかへ送りなおし、それから壁に貼る。共通のはテーマは「植物」で、どのFAXにも樹木や花の図柄が見える。
 同じことをテレビ電話でやる。武蔵野美術大学でやったときのは、その映像を液晶ヴィジョンで大きなスクリーンに投射したので、画像がいままさに海外から届くさまが見えた。ふだんは空虚に孤立した階段教室の空間が急に沢山の「窓」をもつ。ここでは、近代主義的な「作者」は意味をもたないし、造形芸術的な「作品」も存在しない。アートの「実体」は「作品」ではなく「場」となり、すべての「いま・ここ」が時間の屈折のなかでつかのまアート・アクションを生起させる。
 1991年、ハンク・ブルのウェスタン・フロントを基点にして開催された「テレコム 91」のときは、その期間中に湾岸戦争が起こり、たまたまアンマンからこのプロジェクトに参加していたアーティストは、ホテルの窓にテレビ電話のレンズを向け、緊迫する街の様子を送ってきたという。ここでは、政治とアート、日常と非日常といった境界も消え失せるわけだ。
 おもしろいのは、こうしたラジオ・アートのイヴェントで終始イニシアチヴを取っているのがカナダであることだ。ラジオに限らず、電子メディアの実験や考察は、イニスやマクルーハンの例をみるまでもなく、カナダが突出しているし、グレン・グールドは、すでに1960年代にラジオをアート・メディアとして使う実験を行なっている。これは、「いまここ」の世界がいつもネイティヴとは感じられないカナダのある種の「非場所」性と関係があるのかもしれない。
 ただし、「非場所」とはユートピアの原義であり、ネイティヴな意識の欠如は、ネイティヴなものがつねに変革されつづけているからだという能動性に転換することも可能である。ラファエル・ロンカリオによれば、「オールタナティヴ」とは、マージナルなという意味ではなくて、alter + native であり、つまりはネイティヴなものを変革するという意味である。おそらく、通信衛星やインターネットの時代、グローバルでポリモーファスなメディアの時代には、この解釈がますます有効性をもつだろう。
 フランセス・ダイソンは、「ラジオを考えなおす――アート・サウンド・送信」で発表した「ラジオ・ヴォイスの系譜学」のなかで、鋭い指摘をし、聴衆を興奮させた。彼女は言う――「西欧形而上学の内的なヴォイスと西欧テクノロジーのラジオ・ヴォイスとは、同じ強制力を共有している――われわれを<彼の>[男性名詞としてのヴォイス・声]の現前で包むこと」。これは、ジャック・デリダが『声と現象』を書いたとき、彼が言うべくして言わなかったことである。
 ラジオにおいて、一貫して男性の声が優位を占め、また予定外のノイズが避けられ、編集されてきたことを指摘しながら、ダイソンは、ラジオにおいて外的・身体的なヴォイスではなく、あくまでも内的なヴォイスが優先されていることを引き出す。他方、身体性の消去は、西欧形而上学の究極のテロス(究極目的)であり、そこから近代のテクノロジーが生まれたわけであるから、次のように言うことができるだろう。「身体の剥奪は、ラジオと形而上学の必然的な目標である。というのも、身体は、ノイズ、つまり〈真理〉の送信を妨害するものを代表しているからである」。
 ジョン・ケージは、1937年、ボニー・バードがオーガナイズしたシアトルのアーツ・ソサエティの集まりで、歴史的な講演をした。それは、今日、有名な『沈黙』の冒頭に「音楽の未来――クレド」として収められているが、興味深いことは、この、「わたしはノイズの使用を信ずる。われわれがどこにいようとも、われわれが聞くものの大半はノイズなのだ」で始まる音と音楽への最も根底的な再考察は、同じ時期(正確には1935年)に、このシアトルから西へ地球を3分の1周した西南ドイツのフライブルクでマルチン・ハイデッガーが開始した再考察――すなわち、西欧の思考とテクノロジーの本質を「現前の形而上学」として脱構築する再考察――と完全に呼応しあっていたことである。
 ヴォイス――ノイズ――サイレンスへのケージの考察が、電気/電子テクノロジーのインパクトのなかで進められたことは、ケージ自身が認めているところだが、考えてみると、ハイデッガーの思考においても、そのようなテクノロジーとりわけラジオが重要なインパクトになっているような気がする。思考とは、ハイデッガーによれば、「存在の声なき声」に「同調」する「存在の声に従順なる思考」である(『形而上学とは何か』、『哲学とは何か』)。その際、ラジオは、むろん、あるがままのラジオではないし、また、ラジオが別の使われ方をした際のラジオでもないだろう。ハイデッガーにとって、ラジオは単なる思考の通路にすぎない。
 しかし、ラジオから始まった思考は、それがラジオに連れもどされることによってその本来的な機能を発揮することもあるだろう。今日、メディア・テクノロジーとの関連でハイデッガーが頻繁に引用されるのは偶然ではないが、ここで、ハイデッガーを彼にとっての最も「原初的」なテクノロジーに引きもどしてとらえなおすことは決して無駄ではないと思うのだ。
 ラジオアートは、こうしてラジオ・メディアをポストモダン・テクノロジーの先端部分に位置づける試みとして現代アートのホットな部分に躍り出てきたわけであるが、このことは、必ずしも、たとえばかつてポップアートがひとつの明確なテリトリーとして光り輝いたような仕方で世界のアートシーンに浮上しつつあるということを意味しない。それは、むしろ、ポリモーファスなポストモダン・テクノロジーにとって当然のあり方であり、そこでは出来事は集約や統合としてよりも、分散や無関心な同時進行の形態で進むのである。
 言い換えれば、これは、事態が、ハキム・ベイが言った――無数の「一時的な自律ゾーン」( T.A.Z.=Temporal Autonomous Zone ) としてのみ活気づくということであり、まさにある種の「ワールド・ワイブ・ウェブ」( WWW )、世界規模の蜘蛛の巣 を放浪しつづけなければならないということである。しかし、それは、インターネットの WWW サイトをちょっと遍歴してみればわかるように、全体としての把握や論評を決して約束しない無窮の放浪、放浪のための放浪であり、可能なのは、1つの T.A.Z. へのたまたまの滞在を語ることでしかない。
 1994年2月、わたしは、ヴァンクーヴァーのウェスタン・フロントのアーティスト・イン・レジデンスとして招かれ、ヴァンクーヴァー、モントリオール、トロントの三か所にラジオとテレビの T.A.Z. を構築する試みを行なった。端的に言えば、それは、音声と映像の送信機を不法に設定し、使用するという電波のスクウォッタリングであるが、一旦そのような装置=メディアが作られると、それが、ただちに「一時的な自律ゾーン」として輝き出すの目のあたりにすることができたのは、ラジオアートの諸実験を蓄積したウェスタン・フロント、バンフ・センター・フォー・ジ・アーツ、インター・アクセスといったトポロジカルな具体的な場、WWW の通路としての wimsey のようなサイバースペース、そして、折しもこの時点でにわかに活気づいてきた「ラント」( rant )というサウンド・ポエトリー(音響詩)の変種等々のおかげである。
 誰呼ぶとなく「NTVプロジェクト」( Network TV / Non-TV / New TV ? )と名づけられたこの試みは、これらの場に集まる人々のフィジカルなコミュニケーション・ウェブと、wimsey の Mosaic サーバーに流された情報によって拡がり、T.A.Z. としての装置=メディアが使われた。
 ある夜、たまたまウェスタン・フロントの近くの「ヴィデオ・イン」アート・スペースで「放送」( NTV はもはや「放送」――ブロード(広く)+カスト(投げる)――ではなかった)に「共鳴」(もはや「視聴」という言葉も使えない)あるいは「構造的カップリング」した「ラント」の詩人たちが、4、5人なだれ込んできて、マイクのまえで詩を詠んだこともあった。
 このとき、それまで映像と音声を送信していたNTVは、映像を「声なき声」のインターフェースと化した「ラジオ」に成り変わった。会場にはビデオプロジェクターで詩人たちの姿が映されていたが、それは、映像としてよりも音像として機能した。「ラジオ」と「テレビ」のモダンな差異は消滅し、「ラジオ」ももはや「ラジオ」ではなくなったのである。