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もしインターネットが世界を変えるとしたら7 粉川哲夫

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オリジナルテクスト


テクノロジーと「純粋」自然

 テクノロジーと「純粋」自然 ニューヨークのチェルシーのレストランで朝方、蒸気の立ちのぼる街路を見ながら食事をしていたら、寒い冬の路上で踊っている女性の姿が見えた。ガラスで仕切られているレストランの室内からは、彼女がいるあたりの音はぼんやりとしか聞こえず、彼女の身ぶりは車や街の物音に感応しながら動いているように見えた。それは、どことなく、マース・カニングハム舞踏団の舞台の雰囲気を思い出させた。
 しばらくしてわたしは、この女性が、精神の病に冒されていることを知るのだが、それはわたしにとってはむしろ意外なことだった。外見からして、彼女はプロの舞踏家にも、趣味のダンサーにも見えなかったが、その身ぶりは、あまりに街の空間的構成とリズムに溶けあっており、おそらく東京では「異常」と思えたことが極めてあたりまえのことに思えたからである。

 ニューヨークでは、凡庸でないことがあたりまえであり、凡庸なことはおよそ存在することすらできないといったような趣がある。だから、東京では排斥されかねない癖の強い人間が、ニューヨークではのびのびと暮らすことができる。マース・カニングハム舞踏団の音楽を受け持つ小杉武久は、東京では、異次元の星から逃げてきた亡命者のような隠者生活をしているが、ニューヨークで会う彼は、見違えるほど生き生きした、「健康な」地球人になりかわる。
 これは、逆に考えると、大変なことだ。ニューヨークでは、「異常」が「普通」なので、この街では「異常」をひけらかしても、それ自体は全く表現としての新しさもユニークさも持ちえない。並でないはずの個性が、あたりまえに見えるのだから、そこから質的な飛躍を試みなければ、凡庸な表現の繰り返しにすぎなくなる。

 マース・カニングハムの舞踏哲学が、「カニングハムは歩いたり、立ったり、跳んだりするという普通の動きのすべてを舞踏とみなすことができると提唱した」というような恐ろしく凡庸なテーゼで矮小化されたことがある。一見、カニングハムの踊りにはそのような気配が感じられらくもない。しかし、それは、コンヴェンショナルなダンス観を異化する意味では有効であっても、カニングハムのダンス自体は、決して「あるがまま」の日常的身ぶりで出来上がっているわけではない。
 ジョン・ケージは、かつて、「あるがままの現実」とは、「在るのではなく、成るのだ、つまり動き、変化する」のだと言ったことがある。表現は、それが「自然」に近づけば近づくほど、ある種の技術やテクノロジーを必要とするのであって、その意味では、人工的と思われがちなエレクトロニクスが、生身の肉体よりも「自然」な状況を生み出すことがある。たとえば小杉武久は、マース・カニングハム舞踏団の舞台で、エフェクターを初めとするさまざまな電子装置を使って音を出すが、その音は、機械とは無縁であり、かぎりなく大地や生命や細胞の有機的な動きと一体化している。

 ブライアン・V・パークによると、人間の身体の最も「自然」な状態は、宇宙船の無重力状態のなかで作られるという。この状態を彼は、「フロジストン」と呼ぶのだが、そのとき、人の姿勢は、安楽椅子に深く腰掛け、足をやや上方に傾けるくらい仰向けになった状態になる。パークは、ここから、まず、日常生活のなかでこの「フロジストン」状態を可能にする椅子を設計し、さらにそれをとりまく室内空間、建築をデザインする。
 この「フロジストン」の環境のなかでは、人は、仰向けに寝そべった状態が「普通」になるから、当然、生活のスタイルも、いまわたしたちが平均的に行なっているものとははるかにゆったりしたものになり、興奮や忙しさよりも、瞑想やくつろぎが日常生活の常態となる。
 おもしろいのは、パークによると、この「フロジストン・チェアー」に腰を下ろし、その揺れに身をまかせているときに、体が感じる20ヘルツ以下のサイクルをもった揺れが、おそらく、新しい「音楽」の帯域になるのではないかという。それは、当然、聴く「音楽」ではなく、体で感じ、そして見る「音楽」である。

 ダンスと音楽との関係は、おそらくこのような段階において、たがいに一体化し、おたがいに相手を必要としなくなるだろう。身ぶることが超低周波の「音楽」を生み出し、またその逆に、気流のような音場を作ることが、身体をかぎりなく「自然」に浮遊させ、ウエイヴさせるような「ダンス」を現出させるのである。
 しかしながら、ここで考えなければならないのは、ダンスと音楽がこの段階まで達するために、宇宙船の内部のように、高度なテクノロジーによって周到に準備された条件を必要とする点である。 ハイテクノロジーの諸装置は、一面では現代科学の成果であるが、他面では、現代人が感覚的にいかに鈍くなっているかということを示している。森に住む者でなくても、誰しもが身につけていたはずの超低周波の揺れと音への感覚が失われてしまい、それは、とてつもない技術を動員しなければ回復できないのだから。

 ニューヨークのような都市の場合も、それがヘルシーであったがゆえに新しい表現を可能にしたのではなかった。それは、むしろ、人々の身体を空間的・時間的に拘束する、「騒音」に満ちた、うさんくさい路地やあやしげな場所にめぐまれていたからこそ可能になったのであり、文明やテクノロジーの逆説的帰結にほかならなかった。言いかえれば、モダンな表現は、自動車、鉄筋コンクリートのビルディング、電気モータといったモダン・テクノロジーの産物によって鈍化された感覚を再活性化するものとして現われたということである。

 いまや、街路によって成り立つ都市(ストリートシティ)が新しい表現にとっての逆説的な条件である時代は終わりつつあるように思われる。実際、「フロジストン・スペース」は都市空間のなかではなく、宇宙船のなかで最も理想的に作られる。ポストモダニズムの表現にとって都市は無用になり、その分だけ都市はモダニズムの価値観からして「住みやすい」「ヘルシー」な場所になろうとしているように見える。
 とすれば、未来の身体表現は、都市を意識するよりも、電子の網の目が無限に広がるサイバースペースのような「身体なき場所」を参照点(レフェレンス)とするようになるにちがいない。それは、人間が決して身体を捨てることができないかぎりにおいて、「ヴァーチャル・スペース」としてのみ可能である。
 ところで、瞑想や禅も、身体を「解脱」させる技術に専念してきた。「ヴァーチャル・スペース」は決して電子テクノロジーの独壇場ではない。しかし、わたしは、そのような身体的な「解脱」の技術についても、テクノロジーと社会の歴史条件の変化のなかで考えたいと思う。すなわち、電子テクノロジーや遺伝子工学のような身体の内奥に介入する技術が昂進するからこそ、「解脱」や「悟り」の技術がクローズアップされるということである。
 その意味では、ダンスもまた、人間の身体がテクノロジーによって極限まで侵食されることによって再生されるのであり、ストリートシティを越えてサイバーシティへ、さらには遺伝子のなかのミクロシティを参照点として動き、揺れ、跳ぶことになる。