もしインターネットが世界を変えるとしたら6 粉川哲夫

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オリジナルテクスト


電子と身体のはざまで


 常識的なウォーホル観によれば、ウォーホルにとって、1回的なものよりも反復的なものこそが「芸術」である。大量生産の商品と「芸術」との差異はなく、したがって「将来のギャラリーはデパートである」。
 芸術家とは、創造的なエネルギーや「気」が充満した「主体」ではなく、記号や符号としての物が交換される場=通過点にすぎない。ウォーホルは、実際、「自分が機械でありたい」と語っている。
 しかし、ウォーホルで常識化したポップ・イメージや「機械」については、いま一度考えなおす必要がある。そもそも、「わたしはコマーシャル・アーティストである」というウォーホルの口癖にしても、この「コマーシャル」は、「商業的」という意味ではなく、「交換的」という意味に解されなければなるまい。
 脱近代の観点からすれば、芸術作品が、さまざまな流れや線の〈結節点〉であり、芸術がその意味での「交換」であるという考えは、決して目新しいものではないが、さまざまな線が流れ込むチャンネルがマス・メディアや商品の流通回路であるとすれば、アーティストが「コマーシャル」なのはほとんど自明である。
 これは、身体性を欠いたウォーホル、「自分が機械でありたい」と言ったウォーホルの転向であろうか? そうではないだろう。
 ウォーホルが作った映像に、彼が電話をかけていて、とりとめもない「反復的」な会話をしたあげく、彼が受話器を置くと、いきなり彼の首がポロンとテーブルに落ちてしまうというのがあった。こうした映像や、彼が意図的にマス・メディアで取ったアンドロイド的なポーズのために、彼の言う「機械」は、運動を始めると自動運動をくり返すマシーンのようなものとしてとらえられがちである。
 しかし、ウォーホルにとって、「機械」とは反復作用のメカニズムではなかったし、彼の絵は、決して「機械的」に作られるものでもなかった。彼は、あるとき、インタヴュアーに、「なぜポラロイドカメラを使うのか」と尋ねられると、「手で描くよりも楽だからさ」と答えた。
 これは、世界の有名人を含むさまざまな顔を「乱作」した時期のウォーホル批判の材料によく使われる。だが、制作が楽であるかどうかは、作品の質とは無関係である。おそらく、ピカソのような作家にとっては、カメラを操作するよりもブラッシを走らせる方がはるかに「楽」であったろう。
 問題は、そんなことではなくて、そういう言い方でウォーホルが言おうとした、物への関わり方であり、彼が「機械」になろうとしたやり方である。 「機械」は、通常、身体に対する〈距離〉を作り出す装置として考えられやすい。が、これは、19世紀に普遍化した歯車・蒸気機械のイメージでしかない。ウォーホルは、というよりも20世紀の人間は、そのような機械よりもラジオやテレビ、さらにはコンピュータなどの電子機械に慣れ親しんでいる。


 電子機械と歯車・蒸気機械との本質的な違いは、後者が身体と物との関係を間接的にし、距離を作り出すのに対して、前者は、むしろ、身体と物との距離をかぎりなく縮め、ある程度まで両者を「一体化」させる点である。
 むろん、現実には、電子機械も、まだ、歯車・蒸気機械のテロス(究極目的)で用いられていることが少なくないが、電子機械が芸術にとって意味があるのは、それが電子のテロスにしたがって使われるときである。
 子供時代からラジオに淫し、生涯テレビを愛したウォーホルにとって、機械とは、まず電子機械であった。ポラロイドカメラもボレックスも、彼にとっては、物の「虚構」や「複製」を作り出してくれる機械、対象から距離をとってくれる機械ではなくて、むしろ、物へ接近させ、物と一体化させる機械であった。
 今日、ウォーホルがポラロイドカメラをにぎってやたらにシャッターを切っている姿を映像で見ることが出来るが、それを見ると、シャッターを押す彼の興味が記録などにはないことがわかる。それは、彼にとっては、コミュニケーションのためのメディアであった。
 それゆえ、彼は、電子機械以前の機械も、電子機械のテロスで用いた。彼が最も多用したシルクスクリーンも、複製の機械ではなく、物のとの近さを生み出す装置だった。  ここでは、また、「複製」という観念も別の観点から考えなおす必要がある。それは、通常、「オリジナル」に対してある種の距離をもった「複製」を作り出すことと考えられる。しかし、そのような意味での複製は、複製の技術が高度化するにつれて意味をなさなくなった。ましてウォーホルにおいては、それは基礎的な前提である。
 ヴィデオ映像にとって、「オリジナル」とは、映像の単なる素材にすぎない。そして、その映像は、かぎりなく複製されるのだから、もはや「複製」の「復」は意味がないのである。
 複製は、いまや、物へ近づく一つの方法と解されなければならない。物のなかにもぐり込むことによって、あるいは物を自己の身体に埋め込むことによって物に近づく方法もあれば、物をなぞらえることによって物に近づく方法もある。
 そうだとすれば、問題は、ウォーホルがなぜそのうような方法を彼の主要な手法とし、また、晩年において、その方法を変えようとしたかである。
 今日、ウォーホルの中期の、シルクスクリーンを使った作品は、当初もっていたような〈うさんくささ〉をもっておらず、ましてスキャンダラスではない。それらは、Tシャツの絵柄や室内インテリアに最適であり、20世紀末の物たちのなかに埋没してしまった。それらは、いまや「自然」に返ったのである。
 それは、ウォーホルが50年代に先取りした「機械」技術が、普遍化したことと無関係ではない。ウォーホルにとってのシルクスクリーン+ポラロイドや撮影機などの「機械」は、いまやカラーコピーと8ミリビデオとして大衆化した。「複製」の技術は、もはや、物への接近の技術にはなりえない。というよりも、「複製」を逆手に取るやり方では、物に近づくことが出来ない。
 現代は、ポスト・マスメディアの時代であり、「主体」がエイズ=身体すなわち「外部」に溶け出し、「内部」に「外部」をかかえた形のぎりぎりの〈地平身体〉として復活する時代である。
 このようなコンテキストのなかでは、「もともとあった」と考えられてきた「自然的」な物と電子的に再構成・構築された物との差異は消滅する。身体は、「内部」と「外部」との境界を失い、「外部」(細菌・ドラッグ・情報・電子的刺激・・・)を「内部」に取込み、また「外部」へむかってかぎりなく融け出して行く。
 また、このような時代には、「創造性」は、近代から引きずってきた《距離》を逆手に取るよりも、この距離そのものをなくそうとするプロセスのなかにしか物への接近の道はない。


 アンディ・ウォーホルの絵は、全盛期のそれを「デジタル」的とすれば、晩年になって「アナログ」的な要素をとりもどすと言えなくもない。たとえば1986年の「迷彩 自由の女神」では、依然としてシルクスクリーンで謄写・投射された写真映像を下地にしてはいるものの、その上にかけられた色は、いわばディジタル単位で機械的に操作し、ズラし込める度合をはるかに越えた複雑な身体的偶然性にあふれている。
 1940年代末にカーネギー・インスティテュート・オブ・テクノロジーに在学していたころ、ウォーホルは、まだ、あのポップ・リアリズム的な〈複製性〉の強いスタイルを用いてはいなかった。
 しかし、だからといって、晩年のウォーホルが初期の「素朴」なスタイルに復帰したと考えるのは誤りなのである。むしろ、彼は、そういう形で自分の初期のスタイルのとらえなおしをしたと考えた方がよいだろうと思う。
 むろん、1人の作家にとって、若い時代の作品と晩年の作品とのあいだに一貫性がある必要はさらさらない。だが、作家自身がそこに一貫性を見出そうとすることによって、初期の作品にまつわりついてしまった既存の意味を更新することは出来るし、その権利はある。また、そのことによって、その作家の作品のすべてのコンヴェンショナルな意味に根底的な疑問符が付されるということもありえるのである。
ところで、晩年のウォーホルのスタイルに大きな変化が見られるのは、ジャン=ミッシェル・バスキアおよびフランチェスコ・クレメンテとの合作からである。とりわけバスキアとのコラボレイションにおいてその変化が著しい。ウォーホル自身、バスキアとの仕事には非常に前向きだったようだ。
 おもしろいのは、1984年のバスキアとの合作を見ると、一見、ウォーホルがバスキアの世界にのみこまれたかのように見えるが、同時に、そこから初期のウォーホルの作品とのつながりが浮び上がってくることである。
 バスキアとの出会いでウォーホルが見出したもの、それは、自分の絵の〈グラフィティ性〉である。


 1980年代の初めごろから次第に日の目を見るようになるグラフィティ・アートは、美術史的には、《コラージュ》と《デコラージュ》の総合であり、また、身体論的・メディア論的には、都市と室内、マス・コミュニケーションとヴァナキュラーなチャンネルとの境界を取り去った。
 グラフィティ・アートを構成する《コラージュ》とは、既存の物に対してズレを作ることであり、《デコラージュ》は、ズレを作りながら、さらに隠蔽し、脱構築する。
 アートを初めとして、音楽ではディック・ヘブディッジが「カットゥン・ミックス」と呼んだダブからハウスミュージックを含むサウンド・アクション、さらには、空き家占拠(スクウォティング)や自由ラジオに到るまで、1980年代から1990年代にかけての文化的なアクションのあらゆる領域に、こうした〈グラフィティ〉の要素を発見することが出来るが、この〈グラフィティ性〉の本質を一語で表わす語としては、おそらく、「パリンセスト」(PALINSCESTO)という言葉が最適だろう。
 「パリンセスト」とは、もともとは、すでに使用された羊皮紙の古い文字を消して上書きすることを意味するイタリア語であるが、1970年代後半にイタリアで展開した自由ラジオ運動のなかで次第に使われ始め、フェリクス・ガタリにも影響を与えたフランコ・ベラルディ(ビフォ)によって方向づけられた概念である。
 すなわち、70年代の自由ラジオは、それ自体が既存の電波帯に上書きされたグラフィティであるが、「パリンセスト」としてのラジオ局は、あらかじめプログラムされた番組を放送するのではなく、聴取者が電話や訪問によっていつでも番組に「上書き」出来るようにしていた。こうして、イタリアの自由ラジオ局とりわけボローニャのラディオ・アリチェは、既存の放送に対してズレ・批判的距離を作るだけでなく、自己の放送の内部にも二重三重のズレと位相をはさみ込んだのである。
 ウンベルト・エーコは、こうした70年代のイタリアの運動(アウトノミア運動)の強い影響を受けながら『薔薇の名前』を書き上げたが、その技法をみずから「パリンセスト」と呼んでいる。いまここでエーコ論を展開する余裕はないが、エーコにとって記号論もまた、「パリンセスト」の1つの方法だったのである。つまりそれは、シニフィアンの水平的なズレを問題にする「科学」ではなくて、むしろ既存のもののなかに生ける〈裂け目〉を作りだし、そこに「内部」と「外部」とを包摂してしまう技術なのである。


 ウォーホルをグラフィティ・アートとして見るとき、その中期の作品の多くは、デコラージュよりもコラージュに、パリンセスト的というよりも水平化された記号論的ズレの設定に力点を置いている。
 マス・メディアやマス・マーケットによってもはや「物」として定着しているマス・イメージやマス・プロダクツに対してズレを生み出すこと。そのズレは、当然、マス・メディア的・マス・プロダクション的システムの〈自己脱属領化作用〉のなかでやがては修正され、システム化される。ポップアートは、こうして、ポップなものを逆手に取ったアートから、文字通りポップな、ポピュラーでトレンディなアートになりかわる。
 これに対して、80年代のグラフィティ・アートは、一面で、水平化された記号論の「応用」としてのコラージュ化を継承しながら、他方で、そのコラージュ性を脱構築する。ウォーホルにおいてはコラージュされたイメージが「キャンベル」のスープ罐であるか「マリリン・モンロー」の顔であるかが依然として問題であったのに対して、〈脱ポップアート〉としてのグラフィティ・アートにおいては、そうしたシニフィアン的ズレはいささかも問題ではない。
 しかし、それにもかかわらず、そこには〈脱レフェレンシャル〉 な〈距離〉が仕組まれているのであり、さもなければそれはグラフィティ・アートではない。
 バスキアやキース・ヘリングのように、街路をキャンバスとして活動を開始したアーティストにとっては、そうした〈距離〉は、当初は、そのアクションのなかでほとんど自動的に与えられるものだった。すでに構築された場(地下鉄のボディやビルの壁等々)に、予期せぬ環境(警官、管理人、観衆等々)のもとで、何かをすることが、すでに記号論的ズレを作り出すからである。
 だが、落書としてのグラフィティが「アート」としてギャラリーや美術館に招き入れられたとき、それは、1つの危機に直面した。すなわち、グラフィティは、「粗雑な」抽象的表現主義の系列に身を落すか、あるいは、何らかの仕方でグラフィティ・アートとしての方向を進めるかという転機である。
 この点で、『アポカリプス』と題された画集(1988年)に収められたキース・ヘリングの晩年の作品は示唆的である。ここでヘリングは、白地に赤・青・緑などの比較的あざやかな色彩のフィギャーを描き、その上に太めの黒い線で「なぐり書き」をしている。
 この「なぐり書き」は、落書的な重ね書きであると同時に、ドロウウィングのなかに裂け目を作る。その裂け目は、ときとして、闇の世界に通じているかのように見えることもある。
 バスキアにおいては、こうした闇に通底する黒は、すでに、彼がグラフィティ・アーティストとして認められ始めた1980年代初めの作品にも現れている。バスキアの場合、そうした黒は、必ずしもヘリングのような文字通りの「裂け目」の形を取らない。むしろそれは、最初から絵の場全体としてあり、バスキアは、そうした黒を露出させるために別の色を重ね書きしているかのようである。言いかえれば、ヘリングにおいては、闇は、ドロウイングによって導き入れられるのだが、バスキアにおいては、まず闇しかなく、それを〈隠蔽〉するためにドロウイングするかのようである。
 ところで、黒地の上に何かを乗せたのではなくて、むしろ黒を隠蔽するため、あるいは黒をにじみ出させるために何かを描くバスキアの「後期」の1つのスタイルは、おもしろいことに、晩年のウォーホルによって、より鋭い形で使われている。たとえば1986年の「迷彩 セルフ・ポートレート」である。
 このシリーズ作品は、決して黒地の上に、シルクスクリーンで謄写・投射されたウォーホルの顔写真と赤や暗緑色が「落書的」に重ね描きされているのではない。この一連の絵は、むしろ、黒こそがすべてである(したがって、それは「地」ではない)ような場(従って表現すべき色としてはもはや黒しかない)をウォーホルの顔写真と赤(他のヴァージョンでは暗緑色等)で「落書」しているのである。これは、同年の「6つのセルフレポート」や、それ以前の「セルフレポート」と決定的に異なっている。  色彩の「原現象」としての黒=闇の異化としてしか存在しない絵画とは、1つの究極である。
 ポップアーティストとしてのウォーホルにとって、黒は、自明の色でしかなかった。それは、ただの「無」でしかなかった。
 キース・ヘリングやジャン=ミッシェル・バスキアらにとって、黒は、彼らを否応なくグラフィティ・アーティストにする色であった。というのも、1980年代になると、それまで街でゲリラ的に落書を描いていた彼らの前に、地下鉄駅が落書用の黒い紙を用意するようになったからである。
 その意味では、ポップアーティストにとっても、グラフィティアーティストにとっても、黒はどこかで決着をつけなくてはならない色だったのであり、ウォーホルもバスキアも、黒との闘いのなかで死を迎えた。