読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

両義性の実存的絵画論──前期メルロ=ポンティにおける 「セザンヌ」 の意味──横山奈那

現象学バルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品と同じように、不断の辛苦である──同じ種類の注意と驚異とをもって、同じような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれいずる状態において捉えようとする同じ意志によって。こうした関係のもとで、現象学現代思想の努力と合流するのである。( PP .xvi )


 メルロ=ポンティ( Maunce Merleau-Pony, 1908-1961 )は、前期の主著『知覚の現象学』の現象学と芸術作品との類縁性について言及するこの箇所で、バルザックプルースト、ヴァレリーといった小説家や詩人と共に、ただ1人画家であるセザンヌ ( Paul Cézanne, 1839-1906 )の名前を挙げている。彼は、この著作が出版された同じ年に「セザンヌの疑惑」と題された論文も発表しているが、この論文は、彼が特定の画家についてまとめた唯一のものである。このことからも、容易に彼のセザンヌへの関心を推測できるが、中期の「間接的言語と沈黙の声」や遺稿「眼と精神」にもこの画家についての叙述が見られることから、生涯にわたって、この関心が保たれていたと言える。では、なぜメルロ=ポンティは、セザンヌに言及し続けたのだろうか。そこで、本稿では主に「セザンヌの疑惑」を参照しつつ、前期メルロ=ポンティにおける「セザンヌ」の意味について考察していきたい。


第1章 両義性の哲学

 ガリー・ブラン・マディソンは、著書『メルロ=ポンティ現象学──意識の限界の追求』において、二者択一を避けるセザンヌの姿勢こそが、メルロ=ポンティセザンヌに意味を見出す理由であると指摘している。そして、 メルロ=ポンティにおけるセザンヌの絵画の意義は、 そのものとして存在する物かあるいは自然か、それともその物についての 「主観的」 印象か、 または、 実在論か観念論かという明日なアンチノミーから脱する試みにあると述べている*1。ここで想起されるのは、メルロ=ポンティの「両義性( Ambiguïté )」 の概念だろう。そこで、まず両義性の概念について検討してみることにする。
 初期の著作、『行動の構造』や『知覚の現象学』が刊行された後、それらは「両義性の哲学」と特徴付けられたが、そのように論評した有名な人物として、アルフォンス・ドゥ・ヴァーレンスが挙げられる。彼は、メルロ=ポンティの思想において、両義性という概念が重要な位置を占めると考え、これを肯定的に捉えていた。彼は『行動の構造』 の前書きに載せた文章の中で*2、現代の諸学説は人間を「世界内存在」と定義し、これを安易に繰り返しているけれども、このテーゼは、明らかに、人間の実存そのものを、〈対自か即自か〉という二者択一を離れて理解するように命じるものであると述べている。そして、人間を、物、あるいは、純粋意識のいずれか一方であるとすると人間が世界にあることをやめてしまうことについて言及している。その理由は次のように説明される。物は他の物と並存し、地平を持たないので、他の物を超越することはない。これに対し、世界は物のなかではなく、物の地平に存在する。そのため、人間を物だとすると、地平を持てないので、 世界のなかに存在することができなくなる。また、純粋意識は、含蓄も障害物も曖昧さもなく、一切を自己の眼前に繰り広げる〈眼差し〉である。しかし、その概念はわれわれにとって〈現実〉経験の典型をなずはずのく抵抗〉とか〈参与〉 の観念に反する。そのため、人間を純粋意識だとすると、現実の経験に反する眼差しが与えられるので、世界のなかにあることができなくなる。このように、物か純粋意識か、あるいは、対自か即自かといった二者択一から離れることを挙げながら、ヴァーレンスは「両義性」の説明を行なっている。
 このような両義性の思考を可能にするのは、メルロ=ポンティの「身体−主体」の理論である。物体である機械的身体と精神との厳しい二分法であるデカルト主義に対する批判として論じられるこの理論は、我々が身体的存在でありながら、主観性を併せ持つものであると主張する。私の身体は、他の事物と全く同じ資格で、ものとして世界の内に存在しており、その意味で、私の身体は客体である。だが、私が事物を知覚し、認識しようとする時、私は私の身体なしに、それをなしえない。それゆえ、私は身体として、世界を知覚し、認識する。その時、私の身体は主体である。したがって、私の身体は、主体であり、かつ、客体でもあることになる。これは、心身問題において、メルロ=ポンティ二元論を避けつつも、純粋な一元論をとるわけではなしと言われる所以となっている。
 メルロ=ポンティは、身体は心的構造に統合されている限りで身体であるので、心身二元論でのように身体を下位にすると、それと同時に身体性が奪われてしまうと考えた。また、心身を一元論で捉えようとすると、絶対的な統合や統一の理想は常に挫折し、部分が全体と軋轢をおこし、心身の二元性が現われるとした。以上の点から、心身の二元性は、2つの契機として否定しがたいが、二元論が主張するように、精神と身体が対立しているとは言えず、それらの二者択一を語ることもできなくなるとし、「私の身体」を両義性の最終的な根拠にした。
 このような両義性の思考は、ある種の矛盾をはらんでいる。その矛盾は、最初にメルロ=ポンティの思想を「両義性の哲学」と形容したアルキエによって、早い段階から指摘されている*3アルキエによれば、この思想は、「あらゆるものを意識の対象とする観念論と意識を即自的な世界の客観的な展開過程のうちに挿入する実在論との二者択一」*4を、「科学的説明と哲学的反省との二者択一」*5を、あるいは「科学の客観主義と歴史から切り離された形式的意識の主観主義との対立」*6を、一挙に乗り越えようと試みているけれども、「ときに経験的であったり、総合的であったり、直接的な所与に訴えたり、諸矛盾を弁証法的に解決したりと、二重になっており、それゆえに曖昧である」*7とされる。Ambiguïté は、両義性とも曖昧とも訳される語であるが、ここでアルキエは、メルロ=ポンティの両義的な思考は、 曖昧なものであると指摘し、ヴァーレンスとは反対にこの思想に対して批判的であった。
 この点について、後にメルロ=ポンティは、「哲学をたたえて」という講演の中で次のように語っている。

哲学者が哲学者として認められるのは、〈明証性〉( évidence )に対する眼と、く両義性〉( ambiguïté )に対する感覚とを不可分にあわせもつことによってです。もっとも、彼が両義性を受動的に受け取るだけであれば、その両義性は〈曖昧〉( équivoque )と呼ばれます。しかし、もっとも偉大な人たちにあっては、両義性は主題となるのであり、確実性を脅かすどころか、その確立に寄与します。したがって、悪い意味での両義性と、よい意味での両義性とを区別する必要がありましよう。 ( EP10 )


 メルロ=ポンティは、精神でも自然でも、即自でも対自でも、客観でも主観でも、物でも意識でもない、そういう二項対立の手前にある、ある矛盾する2つの契機の動的な錯綜を「両義性」と呼んだ。確かに、二元論を否定しながらも、2つの契機の二元性を否定しない態度は、アルキエが述べたように、曖昧に見える。しかし、それは、有限性と無限性、内面性と外面性の単なる混淆である悪しき両義性とは分けられるべきものであるとメルロ=ポンティは反論するのである。
 両義性が曖昧であると称されるのは、もともと対立概念であるものが受け継いできた哲学的な意味を括弧に入れて、同じ言葉を用いながら説明を行なうことが、困難だからである。つまり、従来の思考を超えた概念を説明するために用いられる用語が、二元論で用いられる語として浸透しているがゆえに、このような事態が生じるのだと考えられる。それについて、ヴァーレンスも、「この哲学の最大の難題は、知覚の両義性についての理論とそれを書くということの可能性の両立だ」*8と述べている。
 前述のマディソンの指摘は、これを乗り越えるために、あるいは、その具体例として、メルロ=ポンティセザンヌを持ち出したことを示唆するものである。次章では、セザンヌの二者択一を逃れる態度がどのようなものなのかを検討していくことにしよう。


第2章 セザンヌの態度

 「セザンヌの疑惑」で独自の理論を展開するにあたり、メルロ=ポンティは、画家であり、詩人であり、また芸術理論家であったエミール・ベルナール( Emile Bernard, 1968-1941 ) が記したセザンヌとの対話をひも解き*9、「感覚か知性か、見る画家か考える画家か、自然かコンポジションか、原始主義か伝統か、というような二者択一」( SNS18 )を免れようとする画家の態度に着目する。このような態度は、セザンヌ技法を追及する際のコメントから垣間見ることができるが、作品中に表現されている技法にも、この態度が反映されていると言う。このようなセザンヌの態度を明らかにする技法メルロ=ポンティは次のように説明している。
 初期のセザンヌロマン主義的な荒々しい主題を暗い色調で描いていた。その当時、描かれた「略奪」や「虐殺」などの絵は、夢を描いたもので、感情によって生まれ、感情を喚起することを目的としていた。その後、ピサロと出会って自然を観察し、冷静に画面を作ることを学び、自己の画風を見出していく。そして、彼の描くものも夢から自然へと変化する。この頃、細かいタッチを重層させる点描の手法を取り入れるが、彼がこの手法から学んだのは、色を際立たせるために補色をコントラストとして使うことと、限定された7色の絵の具を隣り合わせることによって、1つの色を構成する効果を作り出すことであった。
 印象派はこの2つによって、光の中での色相を表現し、色彩を震えるものにすることに成功したけれども、セザンヌは、印象主義の点描だけを使って描く方法が、形態感覚の欠如を招くとしてこれを嫌い、自然を前にして美術館にある古典的な作品のような構築された絵画を描くことを追及するようになった。その際、印象派が色彩分割や点描によって放棄することになったオブジェのはっきりとした輪郭を描き出すため、セザンヌは、印象派の採用したプリズムの7色ではなく、 6つの赤、5つの青、3つの緑、1つの黒を使用する。だが、このとき、 セザンヌ印象派が目指した光の効果そのものを捨ててしまおうとはしなかった。だから、彼は色彩分割を放棄したが、その代わりに絵の具を混ぜ合わせる比率を段階的に変え、オブジェに対して色彩のニュアンスづけを行い、オブジェの形と受ける光にあわせて、配色を行なった( SNS15-17 )。
 メルロ=ポンティは、その姿勢を「自然をモデルにする印象派の美学から離れずに、オブジェそのものに立ち戻ろうとした」( SNS17 )と述ベているが、セザンヌ技法を論じる際に、彼が注意を傾けるのは、この印象派の光の感覚を伝える方法と、オブジェの物質的な存在感を実現する方法、この2つを両立する全く新しい技法を創作しようとする「不可能な企て」に対してなのである。メルロ=ポンティは、ベルナールに倣って、これを隠喩的に「セザンヌの自殺( le suicide de Cézanne )」と呼んだ。
 この「自殺」という語は、ベルナールの「ポール・セザンヌの方法」と題された論文に、ただ1度しか登場しない。それは「不完全性」という節の中で、次のような形で登場する。

1つの死すべき自然は、100回の仕事を、1つの肖像画は、150回の仕事を、彼(セザンヌ)に要求した。そして、彼がその仕事を済ませたとき、それらは少しも到達したイメージを表現してはいなかった。彼のシステムには、自殺の原因があった。彼の研究した方法は、人間の持つさまざまな可能性を超えていたし、死すべき二義性を含んでいたし、また、常にすばやく表現されてきた、完全な特性による総合とは反対のものだったからである。したがって、セザンヌの過ちのすべては、彼が認識したとおりに判断するというよりはむしろ、彼が感じたとおりに判断することに起因する*10


 ベルナールは、セザンヌの作品の不完全性が、目的の無益さと、諸々の手段の複雑さにあるとした上で、そうした性質は、セザンヌの探求した方法にあると述べている。彼によれば、理論的で実践的な観察に基づく表現を構築しようとするセザンヌの目的は無益であり、それを表そうとして探求された方法の複雑さは作品を完全なものにしない。それ故、ベルナールは「自殺」という語を用いたのだ。彼は、相反する2つのことを同時に実現しようとすることが不可能だと考えていた。それは、乗り越えようとしたはずの二義性を引きずっていることや、 既存の方法を使わずに、それを総合したものを作り上げる困難さにあるとしている。そして、その原因を、セザンヌが、認識にではなく、感覚に依拠し、捉えたものを表現しようとしたことにあるとしている。
 このように使用された「自殺」という語を、メルロ=ポンティは、具体例と結び付ける。それは、過去の技法を放棄することによって、表現する方法を失っている状態であるにもかかわらず、カンバスに自然を表現しようと試みたこととして説明される。ベルナールから見れば、過去の技法の放棄は表現手段を絶つことであり、まるで自らの生命を絶つ行為のように感じられたのだが、メルロ=ポンティから見れば、それは別の意味をもつのである。なるほど、印象派の方法からも絵画の伝統的技法からも一線を画するため、それらの表現手段を放棄しているのに、それらが生み出す効果を併せ持った絵画を作り上げようとする企ては、不可能なものであり、ベルナールが言うように自殺行為であるように思われる。これについては、メルロ=ポンティ自身も、控えめに「セザンヌの絵は1つの矛盾であろう」( SNS17 )と語っている。しかし、このような印象派か古典絵画の伝統かという2つのうちのどちらでもなく、その2つの特性を引き継いだものを構築させようとする「セザンヌの自殺」と呼ばれる姿勢から、メルロ=ポンティは積極的な意味を見出だす。それは、二者択一を免れようとする態度、すなわち、両義的な態度である*11


第3章 セザンヌ技法

 ベルナールに「自殺」と言わしめた両義的態度の末に生み出された表現は、1887年に彼の描いたサントヴィクトワール山の風景画に見て取れるだろう。この作品は、茶色と木々の緑という暖色と寒色とのコントラストで成り立っており、黒い輪郭線は存在しない*12セザンヌが輪郭線を描こうとしなかったことは、「面と面が互いに接する場合、新印象派の人々が境界線に用し招黒い線をわれわれは全力をあげて排斥しなければならない」*13と述べていることからもわかるが、彼の作品の中には、黒い筋のように見えるものがある。これは一見すると郭線のように思われるけれども、実際には、晩年のセザンヌが行った、対象の影を描き、それを色によって勢いよくはみ出させて塗りつぶすという描き方によって生じた影であった*14セザンヌの探求は、彼自身の「デッサンと色彩とはもはや分けることができない。色を塗るにつれて、デッサンが出来上がり、色彩が調和していくにつれて、デッサンは正確になる。色彩が豊かになる時、形も充実する」*15という言葉からも明らかなように、「形」を否定するわけではないが、「色」による表現効果を生み出そうとする試みと結び付いている*16
 両義的な態度が最も顕著に現われるのは、「デフォルマシオン( déformations )」と呼ばれる遠近法においてであるとメルロ=ポンティは指摘する。この技法は、例えば、テーブルの上に置かれた皿やコップを横から見た光景を描く際に、登場する。本来、それは楕円形で表されるものだが、この技法を使用すると、その両端を拡大し、膨らませた形で描かれる。また、ギュスタヴ・ジェフロワの肖像画では、仕事机が遠近法の法則に反して画面の下部にまで広げているが、これもデフォルマシオンの事例である*17。これらの実例からもわかるように、デフォルマシオンルネサンス以降主流であった、数学的な精神に基づいて、2次元のカンバスに奥行き( la profondeur )をプラスした3次元を表現する遠近法とは異なったものであると考えられるが、メルロ=ポンティはその点に着目する。だが、この2つの遠近法の差異を指摘する前に、セザンヌが自らの技法についてどのように考えていたのかについて、ベルナールの著作などを参照しながら、言及していこう。
 晩年のセザンヌは、ずっと描き続けてきたサント・ヴィクトワール山を顧慮しながら、1896年に次のように述べている。

この山はわれわれから遠く離れた良い素材です。この山自身は、十分にどつしりとしています。美術学校でも、もちろん、遠近法は教えます。しかし、人はこれまで深さが垂直的な面と水平的な面との相互の接触から生まれるということを見落としていたのです。そして、これがまさに遠近法なのです。私はこのことを努力の果てに発見しました。私は諸々の面を塗りますが、それは、私が見もしないことをやっているわけではないからです*18


 自らが語るように、セザンヌは眼差しで捉えたものを描こうとした。そして、そのための手段として遠近法を用いた。それは、自らの視覚によって捉えた光景を描き出そうとする試みであったと言い換えることができる。ベルナールが指摘するところによると、「彼(セザンヌ)にとって芸術とは、あくまでも、『光学的な視覚』、つまり技法につきる」ものであった*19。そして、光学を追求するというのは「論理的な視覚」つまり「非合理的なもののない視覚」を作り上げることであった。セザンヌが述べる論理的で非合理的なもののない視覚とは、例えばデヵルトが指摘するような対象の像が反転して網膜に反射し、その像がわれわれの視覚として与えられるといった科学的なものではない*20。つまり、視覚の生理学的な機能の仕組みではない。どんなに科学が視覚の起こり方を説明することに長けていくとしても、われわれには視覚の構造は見えたりしないものである。それゆえ、見るという行為は、自分自身が行なってみるしかない事態であり続けるが、セザンヌが追及したのは、まさにこの行なってみるしかない行為によって、実際に私たちが目にしているオブジェを描くことであり、それを光との関係、色彩によって表現することであったと言えるだろう。「自然に基づいて描くこと、それは対象を模写することではなく、感覚(サンサンシオン)を実現(リアリゼ)することなのだ」*21という言葉にセザンヌが託したのは、このことではなかっただろうか。
 また、ここに古典的な遠近法との違いが見出せるだろう。つまり、見たままを表現しようとしたセザンヌが、人間一般の視覚を重視したとするならば、幾何学的に構成された画面上の広がりを描き出そうとする古典的な絵画の遠近法は、制度として確立された規則に重きを置いたと考えられるのである。その時、それは、優劣ではなく、比重の問題であるだろう。実際、セザンヌは、古典的な遠近法を否定したわけではなかったし、それらの研究を怠ることはなかった。そのセザンヌは「自然は球体、円錐体、円筒体として取り扱わなければならない。そのすべてが透視図法(遠近法)に従い、物体と平面の前後左右が中心の1点に集中されるべきである」*22としている。ここで彼が言う「物体と平面の前後左右が中心の1点に集中されるべきである」という指摘は、透視図法の理論と類似しているように思われるが、メルロ=ポンティはこの2つの違いを明確に主張している。そこで、次章では、メルロ=ポンティの視点に立ち返って、セザンヌの遠近法についての論述から、この2つの相違について考察してみることにする。


第4章 メルロ=ポンテイにおける「奥行き」と「遠近法」

ベルナールは、 セザンヌ技法を古典主義などの過去の構成とは違っているものの、秩序ある構成、あるいは、理論として評価している。そのベルナールとの会話で、巨匠をどう思うかと質問された時、セザンヌは「良いものです」と答えた後、「けれども、私は結局、巨匠よりも自然に向かうようになりました。自分の視覚を手に入れなければならないからです」*23と続けている。ベルナールは、そのようにセザンヌが述べた理由を、「彼らは現実を想像力と想像力に伴う抽象で置換えようとしている」*24からだと述べている。さらに、そのことについて言及するメルロ=ポンティは「想像上のものは奥行きを欠いており、視点を変えようとするわれわれの観察にのってこない」( PP374 )と説明している。このように指摘される時、想像上のものは、現実、あるいは、実在するものと対になっている。だから、想像上のものというのは、実際の視覚で捉えられるものとは異なっているという意味で使われている。ここで示唆されているのは、実際に見えている光景と巨匠が描き出した風景の間に差異があるということだろう。その差は何に由来するのだろうか。
 古典的遠近法の起源は、15世紀のフィレンツェの建築家ブルネレスキによるサン・ジョバンニ礼拝堂の板絵まで遡るが、やがて広く流布されるこのルネサンス期に創案された「透視図法」は、画家の視点から絵画内部の消失点に向かって世界と空間を裂き開くものである*25。視点という主観の眼は、世界を超えた彼方の消失点、世界を下に見る理想の点に向かっていく。その際、タブローは主観と客の間に立ち現われている。この時の画家の視点は、画面の焦点である消失点に対して、眺望点と呼ぶことができるが、これは不動の1点として固定されている。また、それは、固定された1つの点としての身体に還元できるが、そのようなカンバスの手前に隠されている画家の視点が、対極にあるタブローに向かっていく構造は、見るものとしての主観が、対極である客観に向かうという構造であると言ってよい。つまり、透視図法では、主観、客観に対応するそれぞれの極を設定し、その間にある空間の開けを想定するわけであるが、この構造は、 近代の主観・客観という構図をとる認識の理論と照応している。その時、タブローとして浮かび上がる空間の開けは、世界と対応している。このことをセザンヌは「彼ら(巨匠たち)はタブローを作ろうとしていたが、私は自然の断片を作ろうとしている」( SNS26 ) と語っている。
 このような透視図法は、西洋近代哲学における認識の構造を象徴してしていると言うことができる。それは、また、画家の視点である主体の視点から、対象世界である客観を認識する構図でもあり、さらに、それは、同時に、主体が客観的思考に従って、対象という客体を描くことであるとも言える。同様のことをスラットマンはデカルトの名前を挙げながら、次のように指摘する。「ルネサンスの諸々の絵画は、精神のヴィジョンについての卓越した例証である。それは、自然の写しではなく、精神の眼によって解釈された成果なのである。デカルトに従えば、見ることは身体的現象であるよりも、思考の形式であるのだ」*26彼女のこの指摘から、2つのことを読み取ることができるだろう。1つは、メルロ=ポンティが透視図法をデカルト的な思考と同等のものとして取り扱っていることであり、もう1つは非運動的で、俯瞰的な眺望点である画家の視点を、精神の眼に擬えて表現するルネサンスの絵画は、思考の形式を表現したものだということである。そして、そこからは、透視図法を採用した画家たちが、遠近法を思考形式と見倣していたのに対し、メルロ=ポンティが見ることを身体的現象と捉えていたということを引き出すことができる。
 以上のような透視図法に対するメルロ=ポンティの理解は、晩年、デカルト以来の近代幾何学的な空間概念に否定的であったことからも実証できるだろう。ここで重要なのは、デカルトが透視図法によって遠近法的空間を開示したということである。それゆえに、スラットマンはデカルトを例示したのだが、そのデカルトの空間に関する考えは、ユークリッド幾何学に基づいた、暫定的に直角に交わる3つの軸を全体として空間を科学的に捉えるというものであった。ルネサンスの遠近法に従って世界を見るということを、空間の中に身を置くのではなく、空間を客観的に俯瞰することと理解するメルロ=ポンティは、このような試みを過ちとした上で、「デカルトの過ちは、空間をいかなる本当の厚みも持つことなしに、すべての拠点、すべての潜在性、すべての奥行きを超える全く肯定的存在に仕立て上げたことであった」( OE48 )と述ベる。なぜなら、奥行きは我々の身体から諸事物へと測れるものであり、私はこの身体を離れることができないからである。
 メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』の中で、奥行きが見えるということを経験主義、主知主義ともに否定するとし、その理由を両学説が奥行きを「横から見た幅( la larger considérée de profil )」( PP295 )と同一視するからだとした。経験主義者であれば、奥行きを見るために、自分の位置を、同じ対象を横から見る観察者の位置に移せば、このような事態が可能になる。また、主知主義者であれば、偏在する思惟主観を導入し、この主観に奥行きの経験を綜合させれば、このような事態が可能になるからである。経験主義者にとって、私のパースペクティブ上にあるものは、横からの観察者にとっては、幅という次元において並置されているにすぎない。他方、主知主義者は、視座となる身体を持たないから、思惟主が偏在する空間においては奥行きも幅も高さも全く等価な次元となる。これは、どちらも想定された主体が客体である対象を眺めるという図式に従っており、また、身体の運動によって変化する視点を持たないため、客観的思考に基づいていると指摘できる。
 しかし、メルロ=ポンティは、そうした客観的思考の持つ偏見を捨てて、世界が生のままで現われる始元的経験を見直させるものこそ「奥行き」であると考えた。というのも、奥行きは、ものにではなくパースペクテイブに属し、ものから引き出されず、ものと私との間の解くことのできない絆であって、その意味であらゆる次元の中で「最も〈実存的〉なもの」( PP296 ) だからである。ここで実存的と言っているのは、奥行きが、私によって決定され、身体の可動性という特徴ゆえに、絶えず変化する可能性を持つからである。
 セザンヌは「頭を動かすと物も動いて見える」( SNS17-18 )と言っているが、通常、身体を移動させれば、 パースペクティブも変化するのであり、当然、眼に見えている光景も変わる。先に、古典的遠近法は固定された視点に基づいて構成されていると指摘したが、メルロ=ポンティは、身体の動きによって変わるヴィジョンを描かない絵画は、現実を正確に表現しているとは言えず、「想像」に従って描いているにすぎないと考えた。だから、「感覚は、もし判断力が、絶えずものの外見を立て直していなければ、物を転覆させ、現に見られるようにさまざまな錯覚をたえず生み出すのだ」( SNS17-18 )といわれるようなヴィジョンを、デフォルマシオンによって表現しようとしたセザンヌに着目し、これを「生きた遠近法」( SNS23 ) といって評価したのである。
 『知覚の現象学』 において、メルロ=ポンティは、身体によって世界に内属した知覚主体(世界内存在)は、自らの視座を放棄することができないから、奥行きは私のパーススペクティブに属した次元であり、この主体はおのれのパースペクティブ上に現われているものを志向的に保持しているとしていた。だからこそ、彼はセザンヌデフォルマシオンを殊更取り上げるのだが、「眼と精神」では、さらに次のように述べている。

空間はもはや『屈折光学』において言われるように、私の視覚の第3の証人が見るような、つまり視覚を再構築し、 視覚の上空を飛行する幾何学者が見るような対象の関係の束なのではない。空間は空間性のゼロの点や階段のように私から出発して測られるものである。私は空間の外包しているものに従って空間を見るのではなく、私は空間を内部から生きるのであり、私はそこに含まれるのだ。結局、世界は私の周りにあるのであって、私の前にあるのではない。( OE54 )

 彼は、対象を俯瞰的に見みること、すなわち、上空飛行的思考によって捉えることで生じる奥行きだけが、正確であるとデカルトが考えたことに対して、疑問を投げかけた。「セザンヌの疑惑」や『知覚の現象学』でセザンヌの遠近法に触れる時は、ベルナールの理論的な説明に従い、セザンヌ技法を中心に論じているが、「眼と精神」では、遠近法は空間の生理学的・網膜的な説明であるデカルト批判を通じて、「存在」を浮き彫りにするものと解されており、そこには相違がある。しかし、両者は、ルネサンス以降の絵画にみられる透視図法を客観的思考として批判しているという点では同じである。したがって、メルロ=ポンテイは一貫して自然な視覚の法則としての遠近法に関心を持ち、奥行きの概念を身体との関わりによって捉えようとしたと言えるだろう。そのようなメルロ=ポンティが、セザンヌの遠近法を、特にデフオルマシオンを取り上げるのは、デカルト以来の幾何学的空間概念ではない、視覚に従った遠近法を確立したからであり、それが西洋近代哲学における主観・客観図式を逸脱するからなのだ。
 このように見てみると、透視図法との比較を行いながら、メルロ=ポンティは2つのアプローチから主観・客観概念を批判したとまとめることができるだろう。1つは、透視図法の構造、言い換えれば、規則という観点からであり、もう1つは、透視図法を確立するために背後に存在した思想の枠組みという観点からである。それは、前者が後者に収斂されることから、同一のものであると言ってよいかもしれない。ひとはよくセザンヌのうちに近代の古典的な遠近法の破壊をみる。ここに、メルロ=ポンティは、近代の認識ではない自らが展開する新しい哲学、すなわち、私とものあるいは世界との関係は私の身体の知覚経験に基づくという思想との共通項を見出すのである。
 ここであらためてマディソンの意見に戻って考えると、ものについての「主観的印象」を主観とし、「もの」 あるいは「自然」を客観として、対比させることから逃れようとする姿勢が、二者択一を免れようとするセザンヌの態度やデフォルマシオンの考察を通じて、両義性の概念と結びついていることがわかるだろう。つまり、透視図法において視点として1つの点に還元される身体は、デフォルマシオンにおいて可動的なものとして扱われているが、それは主観・客観図式とその二者択一を超える両義性の概念に対応しているのだ。このように、二者択一を避けるセザンヌの姿勢は、遠近法の議論を通じて、西洋近代哲学の認識論批判として登場した「両義性」 の概念に結び付けられるのである。


第5章 セザンヌの疑惑

 だが、 メルロ=ポンティにとって積極的な意味を持つとされるセザンヌの二者択ーを避けた技法は、当時、なかなか受け入れられなかった。例えば、ユイスマンスは、セザンヌ技法の斬新さは視覚の障害によると指摘した*27。 また、当時の批判として、「彼は平面を分ける芸術と距離の幻影を与えることに失敗した。彼のやせた知識は彼を裏切ったのである」という技法の失敗を指摘するものから、「酔っ払った汲み取り屋の絵」( SNS13 )といった暴言まであった。このような批判にさらされて、セザンヌ自身は自らの絵画に疑念を抱き続けることになった。セザンヌは、絵画を自らの世界とし、自分の存在の方法にしながら、描き続けてきたにもかかわらず、この天職を疑わしく思うことがあった。そして、「年を取るにつれて、彼は、自分の絵画の新しさは眼の乱れの産物ではないか、自分の全生涯は、何かある欠陥の上に築かれたのではないか、と自問する」( SNS13 )のである。彼は、ユイスマンスが指摘したように自分の絵の新しさは眼の障害なのではないかと疑うようになり、「私には諸面が重なって見え、ときどき直線が垂れ下がっているように思われる」*28とベルナールに語っている。これはデフォルマシオンのことを述べているのだが、ベルナールはこれらの欠点はセザンヌがわざとやった粗雑さだと信じていた。しかし、セザンヌがこのように語る時、彼は自らの視覚の欠点として嘆いていたことは確かである。なぜならば、セザンヌはこの理由によって、自らの絵が評価されないのだと考えていたからである。だが、セザンヌの絵画の欠点と考えられていたもの、まさにその斬新さによって、彼の絵 は死の直前から評価されだすのだ*29
 「彼は自分に価値があるという証拠を他者と他者による同意に求めざるをえなかった。彼が自分の筆の下で生まれてくる絵に疑問を抱き、他人がキャンパスに 投げかける眼差しを盗み見したのもそのためである。彼が制作を止めなかったのもそのためである」( SNS33 )とあるように、セザンヌは自らの新しい試みを推し進めようとする姿勢とそれが正いものであるかどうかを確かめるための手がかりである批評家たちの反応に無関心ではいられなかった。セザンヌがこうした自分の絵画研究への疑惑を持ち続けなければならなかった理由を、メルロ=ポンティは「芸術家は、人間がはじめて言葉を発した時のように、作品を発するのである。それが叫び以外のものとなるかどうかもわからないのに」( SNS25 )と述べている。ここでは、芸術家の作り出した作品が、すべての人に理解されるような作品になるかどうか、それを作り出した当人である芸術家にとっても解らないものだということ、作品が理解されるには時間が必要だということが示唆されている。もし、自分の絵が評価されなくてもいいと考えていたならば、セザンヌがここまで疑いを抱くこともなかっただろう。しかし、彼は自らの絵を「美術館で見られる芸術のような確固としたもの」( SNS17 )にすることを欲していた。だからこそ、彼は批評家たちの意見に耳を傾けたのである。そして、それゆえに疑惑を持ち続けたのである。
 セザンヌの絵画は眼の障害の産物であると考えられていたが、同じように視覚の異常が作品に影響していると考えられていた画家としてエル・グレコが挙げられる。そのグレコについてメルロ=ポンティは『行動の構造』の中で次のように語っている。

よくいわれるように、例えばグレコに視覚の異常が仮定されるが、だからとい って彼の絵における人物の身体の形や、したがってさまざま機勢の様式 に、「生理学的説明」が許されるということにはならない。不治の身体的特殊性も、それがわれわれの経験全体に統合されるならば、もはや、われわれの中で〈原因〉という資格をもつものではなくなる。彼の場合も、視覚の異常は、彼という〈芸術家〉を媒介として、ある普遍的意義を獲得し、彼が人間の存在の「映射」の1つを知覚する機会となるのである。( SC219 )


 グレコが細い身体を描いたのは、乱視が原因であったという指摘があろが*30メルロ=ポンティは、グレコのこうした絵画の特徴が乱視という身体的な特殊性だけによって説明されることに疑問を投げかける。だが、そういった身体的特殊性は不治のものなので、それを持ったまま、グレコは世界を見なければならない。したがって、その特殊性は知覚経験に統合されていくことになる。それは、そのような作品を生み出す、原因としてではなく、むしろ必然的と思われるようなものとして捉えられるという。そして、「仮定されたグレコの障害も、外部から課せられた特殊事情としてではなく、むしろ彼の存在の必然的な表現と思われるほど深く、彼の考え方、 生き方に統合された」( SC219 )と考えられるにいたるのである。
 同様のことがセザンヌにも当てはまる。メルロ=ポンティは、セザンヌの「遺伝」や「影響」と彼の人生における偶発的な事件は、作品と全く無関係だとは言えないとした上で、次のように主張する。

生が作品を説明しないことは確かだが、生と作品とが通じ合っていることも確かなのである。実情は作られるべき作品が、このような生を要求したということなのだ。( SNS26 )


 作品を理解するためにセザンヌの眼には障害があったとすること、つまり生理学的説明を与えることは、ユイスマンスをはじめとする多くの批評家たちがやってきたことである。また、セザンヌの幼い頃からの友人であったゾラは、セザンヌは分裂病的気質であったと語っているが( SNS14 )、そこから着想を得て、分裂病的気質 が作品に影響を与えたとすることも可能である。しかし、メルロ=ポンティはそのような立場をとらない。それとは反対に、作品がセザンヌの眼の障害や分裂病的気質といった身体的特殊性を要求したのだと指摘する。そして、彼は作品が芸術家の人生を要求し、そのために作品の上に作者の生が開かれていると考えた。
 以上のようなことから、セザンヌとグレコとの間に類似性を見出せるが、この2人を比較させようとする試みは、既にモーリス・ドニによって指摘されている。その際、ドニは「エル・グレコがティッィアーノの完璧さに倦んで、自然主義と想像力に磨きをかけたのに対し、セザンヌは終焉を迎えていた自然主義とロマン主義への反動として、粗削りで理知的な総合の中に己の感受性を発したのであった」*31と述べ、2人の違いに力点をいているのに対し、メルロ=ポンティが両者について語る場合は、2人の共通点がクローズアップされると言えるだろう。
 さらに、「セザンヌの疑惑」の後半で、メルロ=ポンティレオナルド・ダ・ヴィンチに触れるが、それはフロイトの「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」とヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』を引用し、彼の絵画の分析ではなく彼の生の方に焦点を当てたものだった。そこでは、彼の作品である絵画については 一切触れられていない。そして、レオナルドの人生について、精神分析学的解釈の叙述を行なった後で、次のように述べるが、それも作品が芸術家の生を要求するためなのである。

 1人の作者の生が、われわれに何1つ教えてくれないということも、われわれがそれを読み解くすべを知っていればそこにいっさいが見出せるだろうというのも、同様に真実なのであって、それというのも、その生は、作品の上に 開かれているからだ。 ( SNS32 )


 このように、メルロ=ポンティは、作品と生は個別に独立してしゝるのではなく、相互補完的に通じており、生は作品によって要求されると考えていた。しかし、それは 出来上がった作品の解釈のために、生を理由として後付けしているとも言えるだろう。だからこそ、メルロ=ポンティ自身も、「われわれが読み解くすべを知ってい るならば」 と条件を限定するのである。
 では、なぜ、メルロ=ポンティは作品と生を結び付けようとするのか。それは、画家という個人が実存であるということに由来するように思われる。このように述べるとき、実存とは何であるかが問題になるだろう。キルケゴールサルトルは、然々のものである以前に、事実的に今−ここに存在し、他の何ものとも置換不可能なかけがえのないものを実存と呼んだ。つまり、個的で具体的なあり方をした有限な人間の主体的存在形態を実存と呼んだ。しかし、メルロ=ポンティがこの言葉を使用するとき、それは身体と結び付けられ、身体的実存と言われる。これは彼の主体に対する考えと関係している。彼によれば、主体というのは、知覚の主体であり、現象野を生きている主体のことであるが、それは自己の身体である。これは、主知主義や経験主義によって抽象された客観的存在としての身体ではなく、われわれが生き、経験しているままの現象学的身体である。そして、この身体 は、誰の身体でもない置換え不可能な私自身の身体のことを指す。身体的実存と彼が言う時、知覚主体とLての身体を携えているという点が強調されている。
 私は、自らの身体を世界の中に置き、世界やそこにあるものと関係を結んでいる。つまり、身体的実存である私は世界内存在であるわけだが、このことは画家においても例外ではない。1人の画家が、知覚の主体として身体を持ち、それによって捉えた世界を表現するという作業は、世界内存在である「私」が、絵を 描くとことと置き換え可能である。セザンヌデフォルマシオンという技法で表現し ようと試みたのは、まさに、身体的実存が捉えた世界だったわけであるが、そのような身体的実存が描くのであれば、特定の人物の生や身体的特殊性が作品に影響したとしても不思議ではない。そして、身体的特殊性が疑惑を抱かせたのであるから、その疑惑の根拠を身体的実存に求めてもよいだろう。
 また、メルロ=ポンティにとって、身体的実存は両義的な存在である。なぜなら、人間はさまざまな決定や判断を下すという意識的なレベルで生きているが、それらの決定や判断は知覚的経験の中から引き出されるものだと考えられるからである。つまり、人間は感覚的であると同時に、意識的、あるいは知的に生きるのであるが、これをメルロ=ポンティは意識の両義性と言い、身体的実存を両義的だとする。そLて、この意識の両義性が、『知覚の現象学』第2部 第2章の「空間」について扱った章を締めくくるに当たって言及されることを見過ごしてはならな いだろう。それは、頭を動かすと見ている光景が変化することから「錯覚」と呼ばれるヴィジョン論じる際に登場し、そのような知覚を捉える根拠として挙げられている。というのも、われわれが物を知覚する場合、感覚的レベルでの情報と、それに対して自らが抱く思考とを厳密に分けることができないからであり、その意味 で意識が両義的だからである。
 これは、感覚と知性を分離しようとしなかったセザンヌの二者択一を避ける姿勢とも一致する。このような姿勢からセザンヌデフォルマシオンという技法を生み出した。彼はそれによつて実際の視覚が捉えた身体的現象を描き出そうと試みた。しかし、それが当時の観衆に受け入れられなかったため、セザンヌは疑惑を抱くこととなった。それは可動的な身体に依拠する画風があまりにも革新的だったからであるが、メルロ=ポンティは、 ここから、意識の両義性、ひいては、身体的実存が両義的であることを導き出す。そして、このような考察を経て、セザンヌの疑惑もまた両義性の問題へと繋がっていくのである。


第6章 自然

 疑惑を抱き続けたセザンヌが描きだそうとしたもの、それは自然である。セザンヌにとって自然とは、絵画のモチーフであった。彼はギャスケに「自然はいつも同じだけれども、自然の中で私たちが眼にするものは、すべて変わっていく。私たちの芸術は、自然がもろもろの要素とともに震えながら持続する様を、あらゆる変化を示すその概観を描き出さなくてはならない。芸術は、私たちに自然の永遠性を味わわせなければならないのです」*32と語っている。セザンヌが自然と言う時、それは自らの眼差しで捉えられる光景のことである。そして、ここで自然は、私の身体との関係で語られ、やがて眼に見える世界という意味合いを帯びてくる。
 晩年、メルロ=ポンティは、自然を主題とLた著作に取り組んでいた。この著作 は、彼の突然の死によって完成することはなかったが、その一部をなすはずだった「眼と精神」の中にもこの概念が登場する。そこで、彼の自然についての考えを明らかにするために、「眼と精神」についてサルトルが語った証言を見てみよう。

「自然」 という言葉は、私には、われわれの物理・化学的認識の総体を想い起こさせた。……私は、彼(メルロ=ポンティ)の考える自然が、感覚的世界、われわれが物や動物に出会ったり、自分自身の身体や他人の身体に出会ったりする「思い切り広範な」世界だということを忘れていたのだ*33


自然を研究の対象にすると聞くと、自然科学を想起し、その分野である物理や化学が思い浮かぶというのはサルトルに限らず、他の人にも十分に起こることである。そして、そのように考える人たちにとって、自然の研究は、自然現象の一般法則を見出すことが目的だということになるだろう。しかし、メルロ=ポンティの考える自然というのは、そういったものではない。それは、私が生きていく上で展開され ていく私ともの、私と世界との関わり方にまつわると言っていいだろう。そして、その研究は「見ること」によってなされるのである。
 メルロ=ポンティが「セザンヌの疑惑」で述べる自然の概念も基本的に、「眼と精神」についてサルトルが指摘するものと同じであると言える。それは次の箇所からも明らかになるだろう。

わたしたちが生きているのは、人間が築き上げた事物の環境であり、わたしたちは道具に囲まれ、家、街路、都市のうちに生きている。そして、多くの場合、わたしたちはこれらを人間の活動を通じてしか見ないのであり、これが人間の行動が作用する場所となるのである。私たちは、これらすべてが必然的に存在するものであり、揺るがすことができないものだと考えることに慣れている。セザンヌの絵は、この習慣を宙吊りにして、人間が立っている非人間的な自然の土台をあらわにする。( SNS21-22 )


メルロ=ポンティは、セザンヌの二者択一を回避する姿勢と同じょうに「混沌と秩序」も、「感覚と思考」も対立させようとはしなかった。そのメルロ=ポンティが分けたもの、それは「知覚された事物の自発的な秩序」と「人間の観念と科学の秩序」である。「非人間的な自然」とは、人間の観念や科学の秩序に従って成される自然ではないということであり、知覚された事物の自発的な秩序に従った自然を意味している。とするならば、すでに「構成された人間性」のもとで、身体的なものとして前提されている「非人間的な自然」、もし、世界に最初に存在した人間がいたならば、その人間が見たであろう「自然的世界」がセザンヌの絵には描かれているが、それを描くにあたって、セザンヌは彼のやり方で、人間の習慣を「宙吊り」にすることによって、科学的構成に基づく先入見にまだ侵されていない「生きた世界」の風景を描写しようとしたのである、と言うことができるだろう。
 「私たちは事物を知覚する。私たちは事物について考える。私たちは事物の間に繋ぎ止められている。そして、人間が科学を形成するのはこの『自然』の土台の上なのである。セザンヌが描きたかったのはこの原初的な世界である」( SNS15 )と述べられる際の「自然」という概念は、サルトルが指摘するように、「人工」と対比されるような自然だけでなく、それらを含みながら、科学や観念によって人為的に構成される前にある感覚的世界であり、原初的な世界である。したがって、セザンヌは自らの知覚を用いながら、この事物の揺藍である外見の震えを、つまり、この世界の最も原初的な光景を目撃しているのだということができる。「人間が存在する以前の先行的な世界」*34というのは、このような自然に満たされた原初的な世界なのである。
 では、 1人の画家の個人的な経験に基づく感覚を通じて描かれた絵に表現されているものが原初的世界であると言えるのはなぜなのだろうか。このような問いは次のように言い換えられる。画家が持つ感覚は、画家以外の人間が持つ感覚とは違うのだろうか。もし、違うならば、それはどのように違うのだろうか。どうして、画家だけが原初的世界を見ることができるのか。そして、なぜ、人はその作品を理解できるのだろうか。メルロ=ポンティによれば、原初的世界は、本来、だれもが見ることができるものである。しかし、人間の観念と科学の秩序によって獲得されたさまざまなものがこれを妨げている。身体的実存である画家は、それらが生じる前に遡って、自然を見ることができるため、原初的世界を捉えることができ、これを絵に描きその作品によって人々に喚起する。そのため、作品を理解することが可能なのだと考えるのである。
 メルロ=ポンティは、セザンヌの二者択一を回避する姿勢を述べる際に、「魂と身体、思考と視覚を対立させても意味がない。セザンヌはこうした対立する観念が生まれる原初的な経験、私たちにこうした念を分離できないものとして与える 原初的な経験に立ち戻っているのである」(SNS2ー)と語っている。そこからは、セザンヌが原初的知覚による体験に立ち戻って、存在の立ち現れである原初的世界としての自然を描こうと試みていることがわかる。そして、「画家がいなければ、それぞれの人に分類された意識の生の内に閉じ込められたままだったはずのもの、すなわち事物の揺藍である外見の震えを、画家は捉え、これを見えるようにする」( SNS21 )のである。メルロ=ポンティセザンヌによって描かれる自然として考えていることは、二者択一の思考を捨て去ることによって初めて顕在化するような「存在の根源的な立ち現れ」であり、それと出会うためには、身体的実存が、デカルトや近代西洋哲学における認識論などの過去の思想や科学などの、人間によって構成された様々な憶見を持たない両義的な存在であることが必要なのである*35


結びにかえて

 メルロ=ポンティは精神と物体、内部と外部、存在と現象といった伝統的な二元論を両義性という概念によって乗り越えようと試みていた。そのようなメルロ=ポンティにとって、二者択一から脱しているセザンヌの作品は、両義性の概念を体現したものとして捉えられるために重要な意義を持っている。メルロ=ポンティ現象学セザンヌの理論との間には多くの類似点が見られる。しかし、このようなセザンヌ解釈は、ティリエットに「現象学的主題が絵画の解釈を誘導したのだろう」*36と評される如く、本来のセザンヌの絵画に対する解釈を歪め」現象学的な解釈を与えているにすぎないとは言えないだろうか。 確かに、メルロ=ポンティのこのような解釈は、ベルナールの意見を踏まえているが、そういった要素を持っていることは否定できない。それは、これまで見てきたように、セザンヌを、両義性、身体的実存、遠近法による近代哲学批判などを通して、メルロ=ポンティが自分の現象学と重ね合わせていたことからもわかる。それ故、ティリエットは、セザンヌは1人の画家というよりも、「無自覚の現象学者」*37として扱われていると述べたのだ。
 しかし、セザンヌを「無自覚な現象学者」としたのは、メルロ=ポンティであり、哲学的理論との類似性が見出せたからこそ、セザンヌを研究したのではないだろうか。ジョンソンは、メルロ=ポンティセザンヌに興味を抱いた理由を3つ挙げている。それは、セザンヌの絵を愛好したこと、セザンヌが画家としての已に疑惑を抱いていたこと、セザンヌの作品を現象学的であるとみなすことが可能だということである*38。この指摘は、一方で、愛好したセザンヌの絵が、メルロ=ポンティに対して疑惑を通じて見られる身体的実存や両義性などを引き出したと読むことができ、もう一方で、メルロ=ポンティ現象学的な理論を持っていたから、その理論を重ねあわすことができるセザンヌの絵を愛好したということもできる。おそらく、この2つは不可分なものだろう。それは、作品と生との関係と同じである。さらに敷衍すれば、そのような二者択一を超えた作品を作り出すセザンヌの困難を、両義性の概念を記述する自らの困難と重ね合わせたとは言えないだろうか。このように見てみると、前期メルロ=ポンティの絵画論は、「両義性の実存的現象学」と称されるのに擬えて、「両義性の実存的絵画論」であったと言える。その際、実存的と呼ばれるのは、サルトルキルケゴールが使用する意味とは違い、あくまでも身体的なものであることに、注意を向けなければならない。メルロ= ポンティの前期絵画論の中心を担ったセザンヌという画家は、単に哲学的思考を素描するような例として挙げられたのではなく、両義性の哲学を体現した画家として取り扱われたのだが、ここに、前期メルロ=ポンティにおける「セザンヌ」の意味が見出せるだろう。


【略号】
メルロ=ポンティの著作などからの引用は、 以下のような略号と共に頁数を記し、本文中に挿入する。
SC: La structure du comportement, Paris, P.U.F.,1942. 『行動の構造』
PP: Phénoménologie de la perception, Paris, Gallimard, 1945.『知覚の現象学
SNS: Sens et non-sens, Paris, Gallimard, 1996. 『意味と無意味J』
EP: Éloge de la philosophie, Paris, Gallimard, 1953.「哲学をたたえて 」
OE: L'œil et l'esprit, paris, Gallimard, 1964. 『眼と精神』

*1:Gary Brent Madison, La phénoménologie de Merleau-Ponty: Une recherche des limiters de la conscience, Paris, Klincksieck, 1973, p.92. 加藤精司「表現から存在へ──メルロ=ポンティの絵画論から」『理想』 526号、1977、97ページにも、同様の指摘がある。また、 セザンヌの二者択一にメルロ=ポ ンテイが重要性を見出したことを指摘したものとしては、Véronique M. Fóti ,"The dimension of color", in Galen A. Johnson, ed., The Merleau-Ponty Aesthetics Reader. Philosophy and Painting, Evanston, Northwewtern U.P., 1993, p. 307もある。

*2:ドゥ・ ヴァーレンスは『行動の構造』の前書きを、後に『両義性の哲学──モーリス・メルロ=ポンティ実存主義』の序文に転用している。 Cf. Alponse de Waelhens, Une philosophie de L'ambiguité; L'existentialisme de Maurice Merleau-Ponty, Louvain, Nauwelaert, 1968.

*3:「両義性の哲学」 という形容の最初の事例は、 Ferdinand Alquié, "Une philosofhie de l'ambiguguité", Fontaine, 1947, no.51, pp.47-70に見られる。また、アルキエの論文については、X・ティリェット『メルロ=ポンティ──あるいは人間の尺度』木田 元・篠憲二 訳、大修館書店、1973, 第3章 参照。

*4:Alquié, op. cit, p. 58.

*5:Ibid.

*6:Ibid., p.50.

*7:Ibid., p.52.

*8:de Waelhens, p. 52.

*9:ベルナールは、1891年ないし92年にセザンヌについての短いエッセイを『現代人叢響』シリーズで出版している。彼は1904年2月にエクスを訪れ、セザンヌと対面した。その時、しばらくエクスに滞在し、セザンヌと会話する機会を持った。後に、その時の様子を『回想のセザンヌ」(1907年)として発表した。ベルナールがエクスを離れた後も、2人は文通などで交流しており、ベルナールの資料は、セザンヌ研究にとって、重要な位置を占める。しかし、晩年のベルナールの著作は、ルネサンスへの回帰を理想とする自らの芸術理論に引き寄せて論述される傾向にあり、その点に注意を払わなければならない。なお、「セザンヌの疑惑」は初期論文集『意味と無意味』に収められているが、そこではメルロ=ポンティがベルナールのどの文献を参照したかについては、明記されていない。しかし、『知覚の現象学』の文献表に、Emile Bernard, "La Méthode de Cézanne. Exposé critiqu", Mercure de France, 1920, no. 521, pp. 289-318が挙げられていることから、これを参照したところ、「セザンヌの疑惑」にもこの文献の影響が確認できる。

*10:Ibid., p.63., SNS26.

*11:ウィリアムスは、 セザンヌの自殺的な態度と二者択一の関係から、セザンヌの芸術的企てとメルロ=ポンテイの現象学の間に平行関係があることを指摘したが、彼はそれを両義性の概念まで敷衍することはなかった。 Forrest Williams, "Cézanne, Phenomenology, and Merleau-ponty", in Johnson ed., op. cit, pp. 172-173.

*12:La Montague Saint-Victore vue de Bibémus, ver 1887.

*13:Bernard, "Souvenirs sur Paul Cézanne" (Mercure de France), in P.M. Doran ed., Conversationes avec Cézanne, Macula, Paris, 1978, P.59.

*14:Cf. Ibid.「セザンヌの描き方は、いたって独特で、普通の方法とは全く異なり、非常に複雑だった。まず影から始め、その上から勢いよくはみ出させて塗るのだ。」

*15:Ibid., p. 63., SNS26.

*16:前田はこれを「絵画記号」としての「色斑」の発見と述べている。前田英樹セザンヌ 画家のメチェ』青土社、2000、55ページ以下。

*17:大津留は、これを「ひずみ」と言い換えている。彼によれば、「セザンヌにおけるデフォルマシオンは、物を故意に壊したり、分解したりしたものではなく、したがって、デフォルマシオンという言葉自体がそもそも適切ではないような出来事を指している」とされる。大津留直「ただ〝在る” こととただ〝見る”こと──セザンヌにおける〝自然” との関係──」『現代思想』2001、202ページ。

*18:Goetz Adriani, Paul Cézanne, Aqurelle, Kohn, Du Mont, 1990, p. 67.

*19:Bernard, "Letter à sa mème (1904/2/5)", in Doran ed., op. cit., p. 24.

*20:Cf. Descrtes, "De la dioptrique", (Euvres philosophiques 1618-1637, Tome I, F. Alquié ed., Paris, Garnier Frères, 1963, pp. 686-699.

*21:Bernard, "Paul Cézanne" (L'Occident),ed., op. cit, p. 35.

*22:Bernard, "Souvenirs", in Doran ed., op. cit., p.63., Cézanne, "Lettres à Emile Bernard (avril à juin 1904)" , in Doran ed., op. cit, p.27.

*23:Bernard, "Conversation avec Cézanne" ,in Doran ed., op. cit, p.163.

*24:Ibid.

*25:遠近法については、辻茂『遠近法の誕生──ルネサンスの芸術家と科学』、朝日新聞社、1995を 夢照Lた。

*26:Jenny Slatmans, L'expression au-delà de la représentation: sur l'aisthêsis et l'esthétique chez Merleau-Ponty, Leuven, 2003, p.73.

*27:J.-K. Huysmans, Certains, Paris, G. Crès, 1929, pp.38-40.

*28:Bernard, "Souvenirs", in Doran ed., op.cit, p. 78.

*29:セザンヌの死の2年前、1904年のサロン・ドートンヌ ( le Salon d'automne )で彼の個展が行なわれている。

*30:SC219, cité par Merleau-Ponty, J. Cassou, Le Greco, Paris, Rieder, 1931, p. 35.

*31:Maurce Denis, "Cézanne" ( extrait de Théories ), in Doran ed., op.. cit., p. 169.

*32:Joachim Gasquet, "Ce qu'il m'a dit..." ( extrait de Cézanne ), in Doran ed., op. cit., p. 108.

*33:jean Paul Sartre, "Merleau-ponty", Situation Ⅳ, Paris, gallimard, 1964, p. 271.

*34:「人間が存在する以前の先行的な世界」という引用を、メルロ=ポンティセザンヌ研究者ノヴォトニーから引いている。小川侃「見えることの構造──セザンヌをめぐる構造論的・現象学的省察──」『哲学研究』567号、京都大学、1999、21ページ。

*35:ティリェット、前掲書、 101ページ、参照。

*36:同書、214ページ。

*37:同書、215ページ。

*38:Galen A .Johnson,"Phenomenology and painting: Cézanne's Doubut", in Johnson ed., op. cit., p. 5.