ポルノグラフィの誕生――近代の性器的セクシュアリティ―― 小田亮


1.はじめに

 この小論で扱うのは、性の歴史において、ポルノグラフィの介入が、セクシュアリティの様相をどのように変えたのかという「問い」である。議論の出発点には、歴史的・人類学的に見たポルノグラフィの特性はオナニズムと切り離して考えることができないという直観めいた確信がある。従来のポルノグラフィの議論には、皆が了解しているはずのその「使用目的」が抜け落ちていたのではないか。この小論で採用するポルノグラフィの「定義」は、次のようなものである。ポルノグラフィとは、「男の自慰のためのイメージを提供する性的描写、とりわけ女の性的身体の描写・表現」である。この定義によって、ポルノグラフィは、歴史的にも人類学的にも、近代社会の特殊な性のあり方と結び付いているということが示唆されるだろう。近代以前にも、日本の春画のようにポルノグラフィに見えるものはあったが、それらは自慰のためのものではなかった(つまり、この小論でのポルノグラフィの定義からすれば、それらはポルノグラフィではない)。自慰がこれほど盛んとなり、そのためのポルノグラフィが商品として出回るようになったのは近現代になってからなのである。
 この小論で示したいのは、近代における自慰の「問題化」とポルノグラフィによる自慰の一般化がセクシュアリティを性器中心のあり方へと局所化していったということ、そのような性器的(男根的)セクシュアリティの絶対化が、男の全身的な性感と受動的な性的快楽の認知を阻害していること、そして、ポルノグラフィは男根的セクシュアリティの幻想を維持する働きをしていると同時に、ポルノグラフィの中の女の社会的人格喪失に自分の性欲を同調させるという特殊な形で男たちに受動的な性的快楽を与えているのではないかという仮説である。


2.「自慰する少年」の発見

 金塚貞文氏は、その著書『オナニスムの秩序』の中で、「自慰がそれとして際立せられたのは、キリスト教のおかげであると言っていい。言い換えれば、それは、禁圧されることによってはじめてそれとして顕在化されたのである」[金塚 1982:3]と述べている。そして、自慰に寛容なトロブリアド社会には自慰を指す語がなく、「ペニスを手でいじる」とか「膣に手を入れる」といった言い方で示されるだけであるというマリノフスキーの報告を引いているが、禁止によって徴づけられることがなければ、単にそのように描写される性的行為のひとつにすぎない。ただ、自慰をという行為をはっきりした概念として際立たせることにキリスト教が一役も二役もかったことは事実としても、金塚氏も言うように、自慰への禁圧が一般化され強化されたのはずっと後のことであり、自慰の「問題化」は、近代においてはじめて明確になされたと考えたほうが良いだろう。その「問題化」は、医学による「病理としての自慰」という形で現れた。自慰を単なる道徳的な罪としてではなく病理として明確に規定したのは、スイスの医師ティソーが18世紀中頃に刊行した『オナニズムについて』である。これは啓蒙書として当時のベスト・セラーとなり、ヴォルテールやディドロ、カントらが引用する権威ある本として1905年まで版を重ねた本だが、その中でティソーは、自慰が全身の衰弱だけではなく、記憶や感情を無くし、反省もできなくなるといった精神の破壊を招く病理であるとしている。
 このような医学的(世俗的)な自慰有害説の背景には、金塚氏も言うように、再生産のための倹約・禁欲を旨とする「資本主義の精神」がある。自慰が悪とされるのは、再生産に用いるべき資源である精液を大量に浪費するからなのである。ともあれ、自慰有害説はひろく受け入れられ、子供たちの健康のためにその挙動を細かく監視するという防止策が採られ、性器を摩擦する恐れのある遊びや衣服が注意深く避けられるようになる。そして、そのような躾による自慰防止以外に、物理的に自慰を防止する器具(貞操帯のような金属製のコルセット)まで作られたのである(図参照)。男根を強調するペニス・ケースに似ている[cf. 伴田 1988:78-9]この自慰防止器具や、さまざまな自慰防止策は、むしろ、否応なしに「性器」(とりわけ男根)という局部を意識させるという役目を果してしまったのではないだろうか。
 このような近代での自慰の問題化は、性のあり方全体にもその効果を及ぼさずにはいない。では、その効果とはどのようなものであるのか。結論を先取りすれば、それは、「性器的セクシュアリティの絶対化」と言い表すことができる。
 性器的セクシュアリティという語は、フロイトから借りたものである(フロイトの用語としては「性器性欲」と訳されることが多い)。フロイトの発生論的なセクシュアリティ論(性欲論)は、簡単に言えば、おしゃぶりや排便の快感に見られるような子供の性器的でないセクシュアリティ(幼児性欲)が、成人になるにつれて性器へと局所化されて性器的なセクシュアリティ(性器性欲)へと規格化されるというものである。このフロイトの性欲論の意義は、性器性欲以外の、性器に局所化されないセクシュアリティがあることを指摘して、セクシュアリティ=性欲の概念をひろげたことにあると言われるが、同時に、性器的ではないセクシュアリティを「幼児」に限定したこと、そして「正常」な成人は性器性欲以外のセクシュアリティを放棄することで性器性欲を獲得するとしたこと(それゆえ、幼児期の口唇と肛門から成人の性器への性感帯の移行というこの発達論において、成人の全身的な性感帯は無視され、口唇や肛門の性感帯に固執することは退行的異常性欲とされる)などは、西欧近代の「性器的セクシュアリティの絶対化」という時代の枠組を反映したものとも言えるだろう。
 むろん、このような性器的性欲の獲得へというセクシュアリティの発達そのものは近代だけに限られるものではないかもしれない。ただ、成人において性器の結合のみが絶対視されるような性器中心主義とも言うべき観念が支配している性器的セクシュアリティのあり方は特殊なものと言えるだろう。そのことを理解しやすくするめに、そうではない性器的セクシュアリティのあり方を示す事例を見ていくことにしよう。取り上げるのは、よく引用されるインド東部・ムリア族の若者宿(ゴトゥル)における性である。

 ムリア社会では、夕方からゴトゥルと呼ばれる若者宿に集まり、歌や踊りで遊び、夜には男女がペアになってオイルを互いの体に塗りつけ愛撫し合い、双方が合意すればセックスまで進む。若者宿は子供たちが性交渉を学ぶ場所となっている。一晩毎にペアの相手を変え、取り残される者や排他的なペアが出ないようにしている。年少の男の子には、年上の女の子が性交と快楽の得方を教えるのだが、いきなり性器を挿入させず、各段階を追ってゆっくりと導く。最初の晩は性器の結合はせずに、互いに相手の全身を探り、性器を含めてどこをどう触ればどのように反応するのかを確かめ合う。そこでは、挿入それ自体は、快感を得る一連の各段階の1つの過程にすぎず、それほど大きな決定的なものとは見なされない。イニシアティブをとるのは女の子である。もてる男ともてない男はやはりいるが(男の子は年上の女の子に気にいられるように何時間もかけて髪をカールさせ羽根飾りをつける)、このシステムは競争を排除しているのである。そして、この若者宿でのカップルがそのまま結婚へとつながるわけではなく、結婚の多くは両方の家の親同士の取り決めによって決まる[ウェザーフォード 1989:65-69]。


 このような事例が近代以前の社会の典型的なものだと主張したいのではないし、またこれが理想的だと言いたいのでもない。ただ、このような風習において、性器による性交は性行為の一過程に過ぎず、必ずしも最終目的ともされていない点に注目したいのである。ここでは、少年は性器を含めた全身的な愛撫とそれに対する相手の反応を介して性器性欲(性器的セクシュアリティ)の回路を形作ること、また地域の同世代の異性の殆どと性行為をしているために、男の間で「性器的性交」を競争することが無意味なものになっているということ、さらに性行為が「性器の体験」として殊更に強調されることなく、男性においてもオイル・マッサージや愛撫による全身的な性感帯が否定されずに、セクシュアリティが「性器性欲」を絶対視するようなものとはなっていないように見える。
 一方、西欧近代の青少年が最初に出会う性器性欲の回路形成の契機は「自慰」であり、それによってしか性器性欲の回路を形作ることができないようになっている。自慰が契機となっているというのは、それが禁止によって徴付けられていた18〜19世紀の場合でも、その禁止から解放されて、ポルノグラフィのイメージを性的対象とする自慰が一般化された現代の場合でも同じことである。あたかもアメリカの禁酒法時代にむしろ飲酒の習慣が一般化しアルコール依存症が増加したのに類似して、自慰の禁止こそが、自慰による性器性欲の回路の形成を促進させたのであり、そのように形成された男性の性器性欲は、あたかも「自分の男根からひとりでに涌き出て抑えることができないもの」とされるようになる。つまり、男性のセクシュアリティの能動性と攻撃性が過度に強調される。
 ポルノグラフィは、この抑えることのできない男根的性欲のための性的対象を提供するものとして誕生する。自慰の禁圧が頂点に達したヴィクトリア朝時代にポルノグラフィ小説が最初の全盛期を迎え、その後、自慰がその有害説から解放されるにつれ、写真やビデオなどの複製技術によるポルノグラフィが大量に消費されるようになる。こうして現代の男性の最初の性的対象は、自慰のためにポルノグラフィが提供するイメージとなり、その後の現実の性交おいても頭の中のポルノグラフィのイメージと性交するという、「性交の自慰化」も起こってくる。


3.「男らしさ」の不安

 性行為が性器の体験として局所化され、ヴァギナへのペニスの挿入のみを絶対視されるとともに、近代以降において、男性の間で挿入=達成を互いに競い合う攻撃的・能動的な性の自由競争による「業績主義」が生まれる。この「男らしさ」を賭けた業績主義的競争においては、身体そのものを刺激し合うことによる性的快楽や、女性に気にいられるかどうかよりも、性器の体験としての挿入を達成したかどうかが重要視される。たとえデート・レイプのような暴力的な性交であっても、それは「業績」として男性の間で評価され、羨みの対象となる。
 このような性器の体験としての性交(ペニスの挿入)に成功することを「競争」する達成=業績主義によって追い立てられる男性には、相手に身をゆだねるといった受動的な性は許されない。植島啓司氏が上野千鶴子氏との対談で強調しているように、「究極的には、快感というのは受身のもの」[上野 1991:165]であることを、現代の男性たちも身体的には知っているのであろう。例えば、ソープランドの「泡踊り」と呼ばれる性的サーヴィスは、まさに全身を愛撫される受動的な快楽を売りものにしている。これが、男性たちに受け入れられたのは、その快楽によるものではなかっただろうか。けれども、そのことを認めてしまうと、能動性による男らしさに反してしまう。そのために、「泡踊り」の場合も、ペニスの挿入の安価な代替物と意味づけたり、金を支払って奉仕させるという支配の形態を採ってはじめて許されるものとなるし、また、自分を「患者」や「幼児」のような完全な受動態に置いて性的快楽を得る「看護婦プレイ」や「赤ちゃんプレイ」なども、知られることが恥であるゆえに隠れて行われる。
 渡辺恒夫氏は、近代以前では未開社会でも文明社会でも、男が着飾ることや受動性のエロスを受け入れる機会が用意されていたのに、近代では女だけに着飾ることが許されているために、着飾る女に羨望を抱き女装する男は「おぞましい倒錯者」として異常視されるという事実、言い換えれば、近代では異性装が男にのみ禁じられているという事実に注目して、近代化の過程とは「かつて両性に属していた《美》という性質が、女性へと《専門化》してゆく過程である」[渡辺 1986:121]と述べる。そして、その過程を《近代文明における男性の身体の脱エロス化》と呼び、その理由を、渡辺氏は、伝統社会から近代資本主義社会への移行の中で、男性が自分自身を《……である》という《存在》のうちに見ることから、《……を持つ》という《所有》のうちに自分自身を確認するように変化したことに求めている。男は、自分の社会的価値を、自分の身体装飾によって表すことから、自分の所有している女(妻・娘)の身体装飾によって表すことへと変えたのだというわけである。
 このことは、「見る男/見られる女」という男女の非対称性が近代になってから強められたことを意味するが、同時に、それは、男性が受動的なエロスを享受することを抑圧するようになったことを意味している。近代社会での、能動性・攻撃性の競争によって作られる「男らしさ」は、「女らしさ」よりはるかに不安定なものとなる。それは、男性の変性者や異性装者などの「男らしさ」の放棄を望む者のほうが、女性の変性願望者よりはるかに多いことにも現れている。それは、男性本来の「女性羨望」というより、受動的なエロスの享受への願望が、近代社会では、受動的なエロスの享受を許されている女性への羨望という形で現れるといったほうが良い。その羨望が「おぞましい」とされるのは、能動性の競争ゲームから降りて、受動的なエロスに身を委ねたり、異性装や女性的とされている活動をする男たちが出てくることによって、近代社会を支える能動性の競争ゲームに実は性的快楽なんてないことの暴露になるからであろう。そこで、そのようなゲームそのものを脅威にさらすような者は、そのゲームを守るために「おぞましいもの」(「異常者」「変態」)とされ、社会から排除される。その排除への恐怖から、このゲームはますます強迫的なものとなり、男の受動的なエロスへの願望は、男たち自身にとっても見えにくいものとなっている。
 男性の「受動性」の抑圧は、女性的なエロスとしての受動的・全身的なエロスからの男の排除という形だけではなく(受動性が女性的とされるのはこの排除の結果でもあるのだが)、「幼児性」からの男の排除という形でも見られる。例えば、近代社会以降、人前で辺り構わず「泣くこと」は子供(や女性)には許されるが男にはそのような「子供っぽい」ことは許されない。ホイジンガの『中世の秋』にも書かれているように、中世においては男が感情を高ぶらせて泣くことは奇異なこととはされていなかったのだが、近代の男性は、人目を憚ることなく「泣きじゃくる」という快楽から排除されているのである。
 精神医学者の福島章氏は、『幼児化の時代』の中で、幼児性への「退行」が、社会変容に脆いという硬直した過剰適応の弊害を防ぎ、創造性の源ともなると指摘して、大人でありながらも幼児化することの意味を強調し、そのための幼児化の機会として、「眠り」などともに「性」を挙げている。つまり、大人の性的な快楽による恍惚(エクスタシー)なども、乳児が母親の乳房から得る快楽のリバイバルであるという点では、「性」は、大人が幼児化する契機としての本質的な重要性をもつのだと言う。ところが、現代社会では、かならずしも性が子どもがえり(幼児化)に有効に働いておらず、性が「おとな化」していると述べる。福島氏は、そのような性の「おとな化」(言い換えれば性器化)を、『ハイト・リポート 男性版』での現代アメリカの男性たちの性の実態についてのシェアー・ハイトによるつぎのような分析にみている。すなわち、「男性たちは、有能性や攻撃性を男らしさだと考えている。性的にも、強くたくましく、女性をオーガズムに導く能力を第一に考え、やさしさとか情緒などは、むしろ女性的な属性とみなして軽視する」、「性とは性交のことだと考えている」、「愛する女性とともにベッドに横たわり、単に抱き合うだけでも温かくすばらしいものではないかという感覚はなかなか理解できず、『それだけでは男ではない!』という思いこみが強い」。
 このような現代男性の攻撃的・競争的な男根的セクシュアリティは、受動的・依存的な口唇的あるいは全身的セクシュアリティの抑圧によるものである。フロイトの性欲論においても、このような口唇的・全身的なセクシュアリティは、男女とも持っているものであるが、この抑圧によって「男らしさ」という性アイデンティティを作っている男性にとって、それらのセクシュアリティは「男らしさ」と両立しないもの、すなわち「女性的」あるいは「幼児的」なものとされる。
 もちろん、そのような抑圧が男性から快楽を奪っているからといって、性アイデンティティを捨てて女性化すればいいとか、性器的セクシュアリティを捨てて幼児的セクシュアリティに戻ればいいいうわけではない。問題は、男の性アイデンティティの獲得と受動的なセクシュアリティの享受とが本当に両立しないものなのかということである。近代以前には、両立の可能性があったことを示唆しておいたが、性器的なセクシュアリティの維持のために機能しているとされるポルノグラフィの快楽も、受動的なセクシュアリティによるものではないだろうか。
 つまり、性器的セクシュアリティによる快楽だと思われているポルノグラフィによる性的快楽も、性的快楽の本質がそうであるように、受動的な性による快楽なのであろう。それがそう思われていないのは、ポルノグラフィの快楽が男に屈服させられ従順となった女の肉体を見る快楽、言い換えれば男の支配欲と攻撃性を満足させる快楽であると語られるように、性器的セクシュアリティの言説に「翻訳」されてしまうからである。
 男の性的快楽もまた受動的なものだと言う説は、性器的=男根的セクシュアリティの言説が流通しているところでは受け入れられにくいかもしれない。しかし、もし男たちの性的快楽が相手を屈服させることによるといった能動性・攻撃性をもつものなら、なぜSMプレイや赤ちゃんプレイといった受動的な性の快楽を商品化した性風俗に、社会において支配的な地位にある男たちが金を払うのかが分からなくなる。彼らは、攻撃的・能動的な性では性的快楽が得られないから、社会では認められていない男の受動的な性を「買う」のであろう。また、次から次へと大勢の女性と性的関係を持つような男たち(女性であれば「多淫症」とされるが男性の場合は「病理」とされない)や攻撃的・暴力的な性を好む男たち、言い換えれば、性器的=男根的セクシュアリティの規範に過度に忠実な男たちの中には、セックスで充分な性的快楽を得られない男たちが多いという研究もある。性的快楽の欠如の代償として大勢の女性との性関係という能動性や暴力的な性行為という攻撃性を発揮しているとも言えるわけだが、このことは、逆に言えば、能動性や攻撃性によっては受動的である性的快楽は得られないということを示している。
 それは少数の「特殊」な男たちだけに当てはまることではない。男たちが受動的なエロスの享受を必要としていることは、性的快楽の本質が受動性にあるならば、明白であるように思える。男たちも実際には受動的な性的快楽を得ているはずなのだ。そして、それを与えているのがアダルト・ヴィデオをはじめとするポルノグラフィなのではないだろうか。男たちが性的快楽を本当に男たちが奪われてしまっているのなら、いくらそこに「男らしさ」という性アイデンティティが賭けられているからといって、男根的なセクシュアリティの神話が長く保たれることなどなかっただろう。要するに、ポルノグラフィは、性器的セクシュアリティの神話を維持するという機能を果しながら、その裏では、近代における正統的な性器的セクシュアリティに反するような受動的な性的快楽を男たちに提供していると考えることは突飛なことではない。


4.ポルノを前にした受動的快楽

 フェミニストである船橋邦子氏は、ポルノグラフィを「女と男の性描写」としてではなく「女の身体を“モノ化”し、女の人格から切り離した肉体の描写」[船橋 1988:246]として捉えている。だが、現代のポルノグラフィの中の女たちが「人格」を持たない“モノ化”された肉体として登場しているかと言えば、そうではない。むしろ、必ずと言って良いほど、彼女たちには「社会的人格」が付与されている。つまり、娼婦のような顔や名前のない肉体としてではなく、顔や名前や職業・身分といった「人格」をもつ女性として描かれているのである。『PLAYBOY』誌の売り物である「プレイメイト」の写真を、PLAYBOY帝国の統帥であるヒュー・ヘフナー社長は、「娼婦のように写すな」と命じていたというが、そのプレイメイトの写真には、キャプション(名前・体のサイズ・意見や趣味などについてのインタビュー)が必ず添えられていたし、1970年代に日本でブームになった篠山紀信氏による『GORO』誌の「激写」では、裸の写真の前にモデルの女の子の着衣の写真が置かれていた。そのような「人格」の付与は、それ以降のビニ本やアダルト・ヴィデオといったポルノグラフィにおいて踏襲されている。それらの中でも、女性は女子大生であるとか人妻だとか、あるいは女教師や看護婦、OLといった「社会的人格」を与えられ、キャプションやインタヴューが付けられているのである。
 確かに、それらの「社会的人格」は「記号」にすぎない。キャプションやインタヴューに表れる「人格」や「意見」も、おそらく業界の男性によって作られた紋切り型のものであり、アイドル・タレントの芸名を組み合わせたような「名前」が付けられている。それらは、要するに、セーラー服を着せれば「女子高生」という社会的人格が付与されるといった類いのものでしかない。こんなものを「人格」と呼べば、人格から切り離された肉体の表現としてのポルノグラフィに反対する人々は、私たちの言う「人格」とはそんなものではないと言うかもしれない。しかし、現実の現代社会での社会的人格もまた、そのような「記号」や「制服」や「紋切り型の意見」によって作られたものではないだろうか。
 しかし、誤解されないように急いで付け加えて置けば、ポルノグラフィの中の女に人格が付与されているからといって、それらの女たちが“モノ化”されていないと言いたいのではない。逆に、これらの社会的人格は“モノ化”する過程を描くポルノグラフィにとって、その“モノ化”の前提条件として付与されたものである。つまり、ポルノグラフィを見る者は、何を見るのかと言えば、単なる裸の肉体ではなく、女の社会的人格の喪失の過程(=変容の過程)を見ている。その社会的人格の喪失を描くためにはあらかじめ前提として社会的人格を付与しておく必要があるというわけなのである。
 つまり、アダルト・ヴィデオには、女の子たちへのインタヴューがなぜ付いているのか、またなぜ「女教師もの」「看護婦もの」といったジャンルがあるのかと言えば、それらの「社会的人格」の喪失の過程をセックス・シーンとして描くためというわけである。その社会的人格がゼロになった状態を“モノ”と呼ぶならば、ポルノグラフィは、確かに女の“モノ化”の過程を描いているのである。
 では、なぜポルノグラフィは女性の社会的人格の喪失(“モノ化”)を執拗に描くのだろうか。それは、フェミニストの言うように、女の人格を無視し肉体をモノのように縛り切り刻むことによって、女に対する支配を確立する快感を味わうためなのだろうか。本当に、受動的な性的快楽なしの支配欲や所有欲の快感だけで、男はこうもポルノグラフィを見続けることができるだろうか。
 実際のポルノグラフィにおいて、女の社会的人格の喪失がどのように描かれているかを考えてみよう。アダルト・ヴィデオには、女以外に男が登場している。画面の外にいるカメラマンや監督も画面の中にいる男優も(アダルト・ヴィデオではこの区別は曖昧であるが)、女優の「記号」的な社会的人格が、性的な羞恥やエクスタシー、従順さによって喪失していくように働きかける。それは、恥辱を与え人格を奪うという、紋切り型の筋書きであり、しかも登場する男の社会的人格は変容することや喪失することはないように描かれている。そのため、男にとって女に辱めを与え屈服させることが快感なのだというようにも見える。そして、男自身もそのように思い、フェミニストもそのことを批判する。しかし、それを見ている男は、そこに登場する男たちに自分を同一化させ、女を屈服させているという快感を得ているのではおそらくない。
 例えば、アダルト・ヴィデオには女の自慰シーンが頻繁に出てくる。アダルト・ヴィデオというものを世間に広く知らしめたのは、1981年から製作されて劇場公開もされた『ドキュメント・ザ・オナニー』シリーズ(代々木忠監督)だったというのも示唆的である。女が自慰している姿態を見て、男はなぜ性的興奮を得るのか。そこに女の発情という社会的人格の喪失、言い換えれば「変容」を見ているという意味では、自分をカメラマンに同一化していると言えるかもしれない。しかし、それを見ながら自分も自慰している男は、カメラマンに同一化しているとは言い難い。また、男自身やフェミニストが考えるように、女の発情によって男の攻撃性や能動性が誘発されるのではおそらくない。女の変容=発情によって、それを見ている男の変容=発情が誘発されているのである。言い換えれば、見ている男は、画面の中の女に自分を同一化しているのであり、画面の中の女の変容=人格喪失は自分の人格喪失の「隠喩」となっているのである。
 そして、アダルト・ヴィデオを見る男たちが画面の中の女に同一化しようとしていることは、自慰シーンだけではなく、男女のセックス・シーンについても言えるだろう。見ている男は、画面の女の人格の喪失と変容を見ているのであり、そのことによってその変容する身体に自分を同調させて、受動的な快楽を得ているのではないか。おそらく、このことは実際の性交においても当てはまるのであって、女性もそれを知っているからエクスタシーの演技をするのであろう。受動性の快楽を直接得ることから疎外されている男は、女のエクスタシーの演技を通じてしか受動性の快楽を得ることができないようになっているのだ。アダルト・ヴィデオでエロティックなのは、女の裸でも性器でも性器的な性交でもなく、器具によるものであれ男の奉仕あるいは男からの辱めによるものであれ、女の変容なのであり、それへの同調によって性的興奮を得ているのである。近代以降に強められた「見る男/見られる女」という非対称的関係は、言説化されるレベルでは「男の能動性/女の受動性」という非対称性と対応するものとなっているが、実際の快楽のレベルでは「女の演技を見ることを介する受動的快楽/自分の演技を介する受動的快楽」という非対称性になっているのである。
 ところで、小浜逸郎氏は、男がポルノグラフィに魅かれるのは女性が体現している受動性・受容性に対する憧れにあるとする G・ホロヴィッツと M・カウフマンの説に対して、「見てきたようなこじつけ物語」だと言い、「ごく普通に考えればわかることだが、男がポルノグラフィーを求める理由を見いだすために、それは多型的性愛(ここではそのなかの受動的な性愛)への退行を意味しているなどと『解釈』するような思考のアクロバットを演じる必要などまったくない。なぜならば、大方のポルノグラフィー(を求める欲望)において表現されているのは、健全な男性の、異性愛的な性欲の現実的挫折と、その果てに積み上げられる過剰な性的観念の発展以外の何ものでもないからである」[小浜 1990]と述べている。つまり、現実に女性と性交できないから、その欲望をポルノで満たしているというわけである。しかし、これはポルノグラフィのもたらす快楽を相当見くびった意見だろう。小浜氏は自分でも言っているようにアダルト・ヴィデオを見て何の快楽も感じないのだろうが、それは氏が多くの女性たちと同様に、ポルノグラフィの見方に精通していないからにほかならないだろう。ポルノグラフィを見るという行為は、小浜氏が示唆しているような、本能や異性愛的欲望だけで成り立つわけではなく、それには鍛錬が必要なのである! その鍛錬がないと、ポルノグラフィの中の女性の受動的な快楽に自分を同一化して見ることができず、現実の性交のつまらない代替行為としか捉えられないのである。
 小浜氏のように、女性の受動的快楽に自分の欲望を同一化しようとするというポルノグラフィの見方を男たち自身が理解できない理由には、アダルト・ヴィデオにおいては、それを見る男の快楽が受動的なものだということは隠蔽されるということが挙げられよう。女性のマスタベーション・シーンや女性が主導権をもつシーンを挟みつつも、最後は女にとって男のペニスの挿入が一番快感を得るというように描かれていて(たいてい最後は男が主導権をもつ正常位となっている)、最後の「目的」は挿入を経た射精であると強調される。つまり、男の快楽は挿入と射精という能動性にあり、アダルト・ヴィデオを見て自慰している現在の快楽はその代替行為にすぎないというメッセージが付けられるために、ポルノグラフィを前にした男の受動的な快楽は気づかれにくいものとなっているのである。


5.ポルノグラフィと性幻想

 ポルノグラフィにも「見方」がある。男たちも受動的な快楽をポルノグラフィから得ているのであり、それは、ポルノグラフィの中の女の社会的人格の喪失=変容に自分の性欲を同調させることによって実現されると述べてきた。つまり、ポルノグラフィの「見方」とは、同調によって画像の中の女の人格喪失=変容を自己の変容とするということである。男たちの自慰のために作られたポルノグラフィを見て育つ男たちにとって、ポルノグラフィをそのように見ることはさほど困難なことではない。男たちにとって困難なのは、それを自己変容と認めること、つまり、抑圧され隠蔽されている男の快楽の受動性を認めることのほうである。一方、女たちにとって、ポルノグラフィの中の男あるいは女の変容(=人格喪失)に同調するという「見方」をすることには困難がともなうように見える。アダルト・ヴィデオなどのポルノグラフィの中の男はエクスタシーや羞恥による社会的人格の喪失をほとんど見せないし、女の人格喪失や肉体的苦痛の表現に対して、見ている自分の性欲を「同調」させる以前に、男が男のために一方的に作ったポルノグラフィとして嫌悪感を表出することが多いからである。
 女性にとってポルノグラフィに触れる機会は事実上制限されている。そのために、ポルノグラフィの見方を学習することがない。女性もまたポルノグラフィを見れば性的に興奮するということは実験的にも確かめられているという。けれども、実験などで確かめられている生理学的なレベルでの性的興奮がかならずしも性欲のレベルとして直ちに発現されるわけではない。女性の場合にポルノグラフィを視ることによる興奮が性欲の発現へとつながりにくいのは、生理学的性差によるというより、男性の性欲はコントロールできないが、性欲をコントロールできない女性は正常ではなく「娼婦」であるという、根強く残っている性欲の「二重基準」によるものか、あるいは、ポルノグラフィは女性蔑視であるというフェミニスト的な問題意識によるものであろう。
 けれども、ポルノグラフィ的な性表現によって性欲を発現させるのは男性に限られたことではない。女性たちも、自慰や性交のときに自分の性欲を発現させるために自分の頭の中に思い浮かべる性幻想(性的なファンタジー)では、ポルノグラフィ的な社会的人格の喪失と呼べるような状態を想像することがあるという[河野 1990 など]。つまり、無理やりに強姦されるとか複数の見知らぬ男との性交といったことを想像しながら、性交したり自慰をしたりしている。現実に身体的な危害が加わる恐れのない想像の中でなら、女性は自己の“もの化”や社会的人格の喪失によって性的快楽を高めているのである。
 このことは、社会的に規定された自己を失うという社会的人格の喪失が受動的な性的快楽のひとつの極であることを考えれば不思議はない。しかし、ポルノグラフィに反対するフェミニストの中には、このような社会的人格喪失の性幻想を、男たちの作ったポルノグラフィの反映であり、さらに、女の性欲を女のジェンダー・アイデンティティに反するものとする社会にあって、女たちが自分の性欲を恥じてセックスに罪悪感を持たされているために、自分がセックスを求めているのではなくて無理やり強制されるという空想によってその罪悪感を感じなくてすむようにしているのだと解釈する者もいる[例えば、東京・強姦救援センター連続講座編 1990 など]。そして、「女はいつだってこんな空想や願望を拒否できる」[同書:19-20]のだと言う。
 ここには、男女間の奇妙なすれ違いと一致とがある。つまり、女が反ポルノグラフィの立場をとるときに自分自身の社会的人格の喪失の性幻想を拒否しようとする一方で、男は自分自身の社会的人格喪失の性幻想を相変わらず抑圧しているというようにすれ違っており、そして、男の性欲は攻撃的でポルノグラフィを見るだけで抑制が効かなくなるようなものだという点では奇妙に一致しているのである。また、性欲の「二重基準」に反対する女性たちは、能動的な性欲を求めるようになるだろう。しかし、女性の場合はそれによって社会的人格の喪失による受動的なエロスを手放すことにはつながらない。逆説的ではあるが、女性の能動的な性欲の追求は、現在の性欲の「二重基準」からして、女性の社会的人格の喪失を意味するからである。一方、女性の性欲を認めつつある男性の意識の中には「二重基準」が根強く残っている。つまり、それを当然のこととして認めるのではなく、たいていの女は淫乱になれる「娼婦」なのだという形で受け止めているからである。そして、ポルノグラフィに反対するフェミニストにも、受動的なエロスや社会的人格の喪失によって描かれるポルノグラフィの中の女たちを、男たちの強姦願望に利用され搾取された「娼婦」と見なしてしまう恐れがないとは言えない。
 このすれ違いと一致とを断ち切るには、性的快楽には、男女の別なく、幼児性欲にも似た受動性と社会的人格喪失という特徴があることを積極的に認める必要があるのではないだろうか。それによって、女性が自己の社会的人格の喪失を空想する性幻想によって性的快楽を高めているのは男性社会の願望の反映でも罪悪感への言い訳でもなく当然のことであり、むしろ不思議なのは、男たちは自分自身の人格喪失を想像することはめったになく、女たちの人格喪失を通して性的快楽を高めているという、男たちの屈折した性幻想のほうであることに気付くようになる。その屈折の生成と隠蔽こそ、ポルノグラフィの効果なのだか、ポルノグラフィに反対するフェミニストも、そのようなフェミニストを耶揄する男たちも、男の性的快楽もまた受動的なものであることを認めず、むしろ抑圧してしまっているのである。
 フェミニストの反ポルノグラフィ論や運動(法的規制を求める場合でも嫌ポルノグラフィ運動でも)に根拠があるとすれば、男性が自分の個室で1人でポルノグラフィを見る行為が女性全般に被害を与えるという「社会的効果」に求めなければならない。たとえフェミニストや女性たちの多数がそれに嫌悪を感じようと、その嫌悪や痛みはポルノグラフィを見て性的快楽を得ることそのものを止めさせる根拠にはならないからである。だからこそ、ポルノグラフィに反対するフェミニストは、ポルノグラフィには性暴力を助長し、女性を仕事の能力や知性ではなく性的対象としてしか見ない意識を育てることで、女性の社会参加の機会均等を否定するような社会的効果があると言う。確かに、ポルノグラフィが性犯罪を助長することとが立証されるなら、性犯罪の恐怖から女性の夜の1人歩きなどの行為が制限されると言えよう。また、セクシュアル・ハラスメントを含めた性犯罪に対する法があれば充分ではないかという意見に対しては、ポルノグラフィによって促される興味本位の性意識によって、女性が訴えにくい状況が作られていると反論することはできる。そして、それらの女性の活動の制限は性差別である。となれば、ポルノグラフィなど見たこともないすべての女性がその被害者であるゆえに、女性なら誰でもポルノグラフィを訴えることができる。
 ただし、肝腎の前提である、ポルノグラフィが性犯罪を助長しているということが立証されているとは言いがたい。そのような認識は、男の攻撃的な男根的セクシュアリティのイデオロギーを認めてしまうものであり、男はポルノグラフィからむしろ受動的なエロスをこっそりと受け取っているのだと述べてきたが、 1970年と1986年にアメリカで出された専門家の委員会の2つの『報告書』(1970年「猥褻とポルノに関する大統領諮問委員会」の報告書と1980年「ポルノに関する司法長官委員会」の報告書)が、一方はポルノグラフィと性犯罪との関連を否定してポルノグラフィの解禁を勧告しているのに対して、他方は、性犯罪との関連を指摘して規制を促していることからも、その関連は立証されていないとするのが公平というものだろう。
 繰り返せば、男性が女性に不快感や嫌悪感を与えるつもりはなかったという「意図」によってセクハラなどの性差別を免責されないのと同様に、女性がポルノグラフィを見て感じる嫌悪や痛みは、それが性差別であることの根拠にはならない。法的規制ではなく言論活動によってポルノグラフィを無くしていこうとする場合でも、男がポルノグラフィによって性的快楽を得たいという願望(たとえ、そのような男性が少数しか残っていない状況になっても)への抑圧になっては何にもならない。「ポルノは理論でレイプは実践」という根拠の希薄なスローガンの下で、ポルノグラフィが女性の自由な活動を制限している性差別だということを立証しないまま、批判の声を大勢の声にすることでポルノグラフィに反対することは、女装者などの少数者を矯正しようという抑圧の仕組みと何ら変わらないものになってしまうだろう。


参照文献

ウェザーフォード、J・M
 1989 『ファーストフード・ラブ』(沢田博訳) 廣済堂出版

上野 千鶴子
 1991 『性愛論』 河出書房新社

金塚 貞文
 1982 『オナニスムの秩序』 みすず書房

河野 貴代美
 1990 『性幻想』 学陽書房

小浜 逸郎
 1990 『男はどこにいるのか』 草思社

東京・強姦救援センター連続講座
 1990 『レイプ・クライシス』 学陽書房

伴田 良輔
 1988 『独身者の科学』 河出書房新社河出文庫

福島 章
 1982 『幼児化の時代』 光文社

モア・リポート班編
 1986 『モア・リポート』 集英社(集英社文庫)

モア編集部編
 1990 『モア・リポートNOW』 集英社

渡辺 恒夫
 1986 『脱男性の時代』 勁草書房