日常的抵抗論 第7章 「物語」の連鎖と日常的抵抗論 小田亮

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1.大きな物語に抗する「小さな物語の連鎖」

 民族やネイションを比較的新しく発明されたもの、あるいは構築された虚構ととらえる構築主義は、ナショナリストたちがネイションは自然のように実在するものであり、その伝統は昔からずっと続いていると主張していることを批判してきた。つまり、ネイションが虚構であるということを暴露することによって、ナショナリズムを批判し、ナショナリズムから自由になれるという考えがそこにはあった。けれども、最近のナショナリストは、ネイションが虚構であり、物語であることを認めてしまっている*1。そのようなネイション虚構論にたつナショナリストの代表的な例が、故坂本多加雄氏である。
 坂本氏は『歴史教育を考える』という本のなかで、国民を統合するのは民族や言語や宗教などではなく、「物語の共有」だと述べ、国民形成の物語は個人の物語以上にフィクション性が高いと認めながら、つぎのようにいう。

 ベネディクト・アンダーソンは国家を「想像の共同体」と呼んだが、その意味ではまさに国家は想像上の存在でしかない。……そこで、「国民は想像の産物に過ぎない」とか「国家はフィクションでしかない」という言い方がなされることが多く、そう発言することで、国家や国民を否定したり相対化できると考える人々が登場してくる。だが、そういう人々の思い込みとは逆に、そうした「想像」が、人々の心中にありありとしたリアリティを伴って厳然と存在していることは否定できない。/少し前のことになるが、アメリカ合衆国原子爆弾を図案にした切手を発表したとき、多くの日本人が不愉快な気持ちになった。これは考えてみれば奇妙なことで、広島や長崎の原子爆弾投下は半世紀も前のことであり、しかも被爆者を身内にもたない限り、多くの人々にとって何ら関係のないことだろう。にもかかわらず、多くの人々が好ましからざるものと感じたのは、「おなじ日本人」だからという前提がすでに心の中に存在し、原爆の投下という事実が、その「おなじ日本人」としての国民の物語のなかに組み込まれているからである。(中略)/まったく関係ないはずなのに、感じてしまうリアルな実在感。偏頗であることはわかるのに、知らず知らずのうちに発揮してしまうシンパシー。こうしたものが、実は国民の意識であり、国家の存在ということの一面であろう。歴史教育は、他ならぬこのリアリティの継続のために行なわれるのである。[坂本 1998:62-63]


 「国史=ナショナル・ヒストリー」による「想像の共同体」の形成を批判する構築主義とほとんどおなじような言い回しを用いて、大きな物語としての「国民の物語=ナショナル・ヒストリー」を教育することの必要性を説く坂本氏の議論は、「ネイション虚構論」によってナショナリズムの批判ができると考えていた構築主義者の意図を無効にしてしまったわけである。
 そして、坂本氏は、大きな物語/小さな物語というポストモダン思想の用語を用いながら、「小さな物語」論への疑問と「大きな物語」の優位性をつぎのように説いている。

 ところで、人間の来歴を明らかにするものが「物語」だという点については同意しながら、それが国家レベルのものと接続することを異様に警戒する論は多い。なかでも大塚英志氏のように、「なんらかの物語を必要とすることは当然」としながらも、「恐れるのは早急に大きな物語を作ろうとすること」だと断じる議論は、ことに若い世代にかなりの影響を与えていることは否定できない。/一方で私的な生活や限られた仲間との交流、さらに仕事での人間関係を支える物語に価値を見出しながら、他方ではそうした生活や交流あるいは人間関係を支え、取り巻いている社会や国家の物語を忌避するという傾向は、どこから生まれてきたものだろうか。(中略)/確かにそうした「小さな物語」を創ることはでき、それは本人や仲間内では大切なものとなるだろう。しかし、そうした「小さな物語」がそれだけで成り立つものなのかどうかは疑問である。(中略)/たとえば、幕末から明治維新にかけて生きた人々を考えてみよう。幕末の時代に、個々の人々の「小さな物語」がそれ自体で成り立つものでないことは明らかだろう。たとえ身の回りの事項に限定して自分の生活を作りあげようとしても、大きな政治・社会・経済の変動は否応なく「小さな物語」を侵食し、完膚無きまでに破壊してしまう。(中略)/大きな物語は危険だから忌避するという態度は、戦後においてわれわれが大きな物語に遭遇しなかったことから生まれてきたものに過ぎない。(中略)/大きな危機が生じたときに、否応なしに大きな物語を考えねばならなくなるのであり、大きな物語自体が危険なのではない。大きな物語と聞いておぞましいと感じるのは、あたかも消防自動車がなければ火事は起きないと考えるような、あるいは軍隊を所持するから戦争が起きるというような、きわめて戦後的心性からくる思考である。[坂本 1998: 73-75]


 たしかに、ばらばらの「小さな物語」によって「大きな物語」に抵抗するというポストモダンの戦略は、すでに述べたように、〈顔〉のある関係からなる具体的な社会的絆を切り離してしまい、異質化の罠に陥ってしまう。しかし、それにしてもここでの坂本氏の「大きな物語/小さな物語」という用語の使い方は粗雑である。前章で触れたように、「大きな物語/小さな物語 grand récit/petit récit 」はリオタール[1986]の用語であり、「大きな物語」とは、理性や自由といった普遍的価値にもとづいた「主体の解放」や「精神の弁証法」といった筋のなかに、すべての物事を統合して意味づけるようなメタ物語を指している。つまり、それは啓蒙主義的な知を正当化する物語であって、身近な出来事を超えた戦争とか国家といった話を意味しているわけではないのである。そして、「小さな物語」もけっして私生活や仲間内の出来事を語るものではない。坂本氏は、リオタールのいう「大きな物語」と「小さな物語」を、パプリック/プライベートという二分法にそのまま重ね合わせているようにみえるが、リオタールのいう「小さな物語」はそのような二分法自体の解体を受けて、一体化された体系や首尾一貫性のない拡散したローカルな物語を指しているのである(この「ローカル」という意味は、身近な〈顔〉のあるつながりを起点とするということだが、空間的に限定されているということを意味しない)。いいかえれば、それはいかなる全体や体系のなかにも統合されない、回収を拒否した物語なのである。
 そして、坂本氏が「小さな物語」はそれだけで成り立たないといっているのは、それが国家や国民の物語という「大きな物語」によって意味づけられてはじめて意味をもつとしているからである。つまり、坂本氏のいう「小さな物語」は、全体としての「大きな物語」のなかの部分として統合された/統合されるべき物語であって、リオタールのいう、「大きな物語」という全体には統合されない物語とは正反対の意味になってしまっているのである。ようするに、坂本氏の議論にはリオタールのいう「小さな物語」は登場せず、「大きな物語」とそれに統合された諸部分しか登場しない。彼のいう大きな物語と小さな物語の関係は、あくまでツリー構造のなかの類と種の包摂関係でしかないというわけである。リオタールは、そのようなツリー構造が近代(モダン)に属するものとして、その解体を論じていたのだが。
 ついでにいえば、そのようなツリー状の包摂関係という枠組みのなかで坂本氏の議論を批判することもできよう。坂本氏の議論では、個々の人々のローカルな物語(坂本氏のいう小さな物語)はナショナルな物語(坂本氏のいう大きな物語)のなかに位置づけられてはじめて意味をもつのであり、そのことは幕末・明治維新期のような国家の変動期には身近な物語どころではなく、そこにナショナルな物語がいやおうなく侵食してくることによって明らかだというわけである。そこには、ローカルな個々の物語がナショナルな物語に包摂されているという全体-部分の包摂関係が想定されていると同時に、その物語どうしの価値は計量可能なものとされている。いいかえれば、坂本氏のいう物語は、小さな物語がひとつの大きな物語に完全に包摂されているか、無関係のままであるか(フランス人の小さな物語は日本国民の物語という大きな物語とは無関係であるとされる)というツリー構造をなし、その物語の空間は条里空間となっている。
 このような坂本氏の図式をみとめるならば、おなじような全体-部分の包摂関係が、ナショナルな物語とグローバルな物語とのあいだにも想定できるはずである。つまり、ナショナルな物語などという小さな物語を大事にできるのは、これまでわれわれがグローバルな物語という大きな物語に遭遇しなかったからというだけであって、地球の環境自体が危機に瀕している状況ではその大きな物語はナショナルな物語をいやおうなく侵食していくだろうと。もちろん、ここでグローバルな物語が個々のナショナルな物語を包摂して意味づけており、ナショナルな物語が個々のローカルな物語を包摂して意味づけているというようなツリー状の包摂関係を主張したいのではない*2。ナショナルな物語がグローバルな物語に組み込まれて侵食されるわけではないのと同様に、ローカルな物語は、たとえ危機的状況にあってもナショナルな物語に完全に組み込まれ侵食されるわけではないということを指摘したいだけである。実際、個々のローカルな物語は、ナショナルな物語という上位の階梯の物語を経ることなしに、別の国民国家に属するローカルな物語とつながりうるし、グローバルな物語ともつながるのである。そのように組み込まれたり統合されたりはしないような「語りかた」をもつ物語こそ、小さな物語と呼ぶべきものなのである。
 つまり、大きな物語/小さな物語の区別が、大きな社会や国家についての出来事を含んでいるかいないかということと無関係であり、物語る「やりかた」の違いなのである。そして、その違いは、第4章2節で取り上げたキャロル・ギリガンの「ケアの倫理」と「正義の倫理」の区別としても説明できるだろう。すなわち、ギリガンが区別している2つの倫理のうち、男性に特徴的な「正義の倫理」は、具体的な生活のなかの場面や関係性と切り離された普遍的な価値にもとづくものだという点で「大きな物語」に相当し、それに対してコンテクスト依存的で物語的な思考様式にもとづき、他者との相互依存関係のなかに自己を位置づけるような女性的な「ケアの倫理」のほうは「大きな物語」に抗する「小さな物語」に相当するといえるだろう。そして、「小さな物語」としての「ケアの倫理」の語りは、エイミーの語りがそうだったように、その対話性とコンテクスト依存性ゆえにけっして完結しないのである。
 ところで、ギリガンのこの本は、フェミニストのあいだに意見の対立を巻き起こした問題作だった*3。シクスーやイリガライの「女性的エクリチュール」論(そしてバトラーの模倣による撹乱という戦略)と同じく、本質主義的な「女性らしさ」を再生産するだけだという批判が投げかけられたのである。ギリガンの本を批判するフェミニストは、ギリガンが社会的要因を無視して、性差を固定的なものとしてしまう本質主義に陥っているという。たとえば、ポストモダン・フェミニストのロイス・マックネイは、ギリガンの仕事について、正義や権利という抽象的な概念(「一般化された他者」)から道徳発達を見る男性的な定義を、ギリガンが女性の道徳判断に特有の特徴とみるもうひとつ別の倫理、すなわちケアと人間相互の関係に基礎を置き、コンテクスト依存的で、関係性と物語(「特定の他者」)に埋め込まれている倫理に置き換えようと試みるものだと要約しながら、ギリガンが女性という観点を一般化した結果、階級や性的指向や人種やエスニシティといった他の観点を排除してしまったといい、「女性という特殊な観点が普遍的なものを表すとする一般化は、多くのフェミニストがギリガンの仕事を望ましくない本質主義へと陥らせるものと見なす、女性の道徳的アイデンティティの非歴史的で没文化的な定義に帰着してしまう」[McNay 1992: 93-94]と批判している。また、社会主義フェミニストのリン・シーガルは、もっと厳しく、『未来は女のものか』という本のなかで、ギリガンが復権しようとした女性の道徳的感受性について、つぎのように述べている。

 もし女が男とおなじくらい社会的に高く評価され、特権を享受していたなら、この道徳的感受性も消え失せるかもしれないのだ。社会的な力と自信とに欠ける人々は往々にして、対人関係では、より注意深く、よく気がつき、人を喜ばせたいと願う傾向があるのは、よく知られている事実である。こういった性質は、従属的地位にあるすべての人々に典型的に現れる特質である。……無力な人々はほとんどの社会的状況で差別と虐待に直面する。そしてそういった目に遇う機会があまりに頻繁なので、それに対処する必要から、こういう防衛的能力を身につけたのだ。[シーガル 1989:226]

 そして、『未来は女のものか』の訳者である織田元子氏は、その「訳者あとがき」で、シーガルは、ギリガンが評価している「ケアの倫理」を「社会的劣位によって発達せざるをえなかった性質にすぎない奴隷の美徳」だと言っていると要約している。しかし、ギリガンの本に出てくる女性たちが語っているケアの倫理を、社会的劣位にあって差別と虐待に直面してきたために発達せざるをえなかった「奴隷の美徳」であるとすることは、植民地化によってすべてが創られたという議論になってしまい、植民地化による影響ということをあまりにも過大に評価しすぎて、女性=奴隷をまったく無力で受動的な存在として理解してしまうことになる。シーガルのいう「奴隷の美徳」は、オリエンタリズム植民地主義におけるネイティヴの特質についての記述によく似ているが、シーガルがそれを評価しないのは、その特質が自律的な「啓蒙主義的主体」と相容れないものだからであり、その点もオリエンタリズムによく似ているのである。
 シーガルと織田氏が「奴隷の美徳」として切りすてた特質は、たしかに従属的地位に甘んじて適応したためのものといえるかもしれない。しかし、その「適応」のプロセスは「抵抗」のプロセスでもあったし、それゆえに、割りふられた「囲いこまれた空間」を関係性の広がりのある流動的な場にすることができるのである。シーガルらがそれを見逃しているのは、「大きな物語」に依拠したモノマニア的想像のせいであり、それゆえに断片的で挿話的なエイミーの完結しない「小さな物語」を「奴隷の美学」だとして否定してしまうのである。
 すでに述べたように、全体化の物語に抗するために「小さな物語」に閉じこもるというポストモダン的戦略は、一切の関係性を断ってしまうという弊害をともないがちであった。けれども、重要なことは、「小さな物語」は挿話的で完結していないがゆえに、もともと「それだけでは成り立たない」ものだということである。しかし、それは、坂本多加雄氏がいうように、「大きな物語」に統合されるべき部分(「部品」)なのだということにはならない。小さな物語は、それ自体「断片」として他の小さな物語へと連なっていき、物語の連鎖ないしネットワークをつくっていく。その「小さな物語」の連鎖(ネットワーク)は、普遍的な価値による抽象的な「大きな物語」とは違うものである(ネイションという「想像の共同体」が、換喩/隠喩的関係を延長することで想像される共同体と違うものであるように)。そして、重要なのは、身近で具体的な関係性から延ばされていく「小さな物語」の連鎖は、他者の記憶や体験をかたどるための物語のネットワークにもなっていくということである。そこでは、他者の語りを、これまで自分が近い関係性から紡いできた「小さな物語」の連鎖へとちぐはぐにつなぐことによって、共有の経験とすることができる。そのような「小さな物語」の連鎖のもつ横断性に、新たな普遍性を見出すことこそ、重要なのである。
 「小さな物語」の連鎖やネットワークがどう生成されていくのか、近い関係から延ばされていく「小さな物語」の連鎖が他者の記憶や体験を象るための物語とどのようにつながっていくのかを考えるにあたって、参考になるのが、ヨネヤマ・リサ(米山リサ)氏が「記憶の弁証法――広島」という論文[ヨネヤマ 1996]のなかで論じている「語りの余白」である。米山氏は、広島の被爆の語り部(証言者)である沼田鈴子さんの語りを取り上げ、彼女の語りの幾重にも重なる知の表層において、想起されなかったことが「記憶の空白点」として言及されていることに注目している。
 すなわち、沼田さんの語りには、戦地へ赴いた婚約者の帰りを心待ちにして出勤した朝、エノラ・ゲイ号が間近に接近していた事実を知らなかったこと、原爆投下後、片足切断の手術を受け、家族の励ましによって「生かされた」ときには、婚約者がすでに1カ月前に戦死していた事実を知らされていなかったこと、そして、証言活動をはじめた後の生き方を語るとき、「日本帝国陸軍の第五師団11聯隊が1400人もの中国人住民を虐殺したマレーシアのイロンロン村を訪れたときの様子が、おなじ時、別の場所で、『何も知らずに』南京陥落やシンガポール陥落を祝う提灯行列に参加していた、ひとりの軍国少女としての自分の過去の記憶と並置されて語られる」[ヨネヤマ 1996: 14]といった「語りの余白」があると、米山氏は指摘する。
 自己の被爆体験だけを語りがちな証言が多いなかで、沼田さんは、日本の侵略戦争や植民地加害についても語ることのできる数少ない被爆者として、マス・メディアや革新的教育者から評価されてきたという。つまり、坂本氏の言い方では、「小さな物語」を超えた「大きな物語」を語ることのできる語り部ということになるだろう。しかし、沼田さんは、坂本氏の言うような意味で、「小さな物語」を、それに一元的な意味や方向性を与える「大きな物語」のなかに位置づけているわけではない。米山氏は、沼田さんに対する、公式の歴史で削除され欠けている部分の空白を埋めてくれることへの期待に反して、「沼田のような証言者が戦争や植民地侵略の加害の歴史に言及する場合、それは明証化された知識、あるいは国民国家の歴史叙述において既に意味づけをされた過去の出来事として述べられているわけではない」と述べ、つぎのように続けている。

 想像もしていなかったエノラ・ゲイ号の接近、婚約者の予期していなかった死、国民的祝賀の背後にあった何百万人もの中国人の殺戮、といった出来事に言及する沼田の語りは、自明の現実には、これを超えた、ときには想像さえつかない複数の外部性がありうることを示唆している。そうすることによって聞き手を不安にさせ、知の完結性そのものに懐疑的な態度を促すものだといってよい。[ヨネヤマ 1996:15]


 つまり、沼田さんは、実態としての過去を再現する完結した歴史記述というものがあるという視点にたって、歴史の明証化された知識のなかの空白を埋めることでそれを完結させたのではなく、物語のなかで、「知の不在そのものに気づかなかった過去として、すなわち記憶の空白点として」[ヨネヤマ 1996: 16]語られる、「語りの余白」を付け加えたのだと、米山氏はいう。この「余白」は、意味が確定しないでぼんやりとしている周縁的な部分で、ぼんやりとしながら外部とつながっていくような部分という意味だろう。そして、この「語りの余白」こそ、さまざまな他者の記憶の語り(「複数の外部性」)とをつなぐ接合点となるのである。より正確にいえば、沼田さんの語りにおいては、自分が知らなかった「知の不在」は、他者の語りや記憶によって(ジグソー・パズルで境界線が見えなくなるように)事後的に埋められているのではなく、他者の記憶の語りとの接合点が「記憶の空白点」として見えるようにちぐはぐにつながれている。いいかえれば、他者の記憶の語りと接合された箇所が「記憶の余白」として語られているのである。たとえば、片足切断という大変な手術を受けたとき、すでに婚約者は戦死していたと語るのではなく、その戦死を知らなかったと語ることによって、その「語りの余白」は、それを知ることになった他者の語りとのつながりを示すことになる。その「余白」の存在が、沼田さんの語りを自己完結した「大きな物語」ではなく、それに抗する「小さな物語」の連鎖=ネットワークを生成していくような語りにしているというわけである。
 身近な出来事や趣味の一致した仲間と趣味だけの話をすることが「小さな物語」ではない。というより、そのような余白のない話は「物語」とも呼べないだろう。けれども、日常的で身近な出来事を語る場合でも、人と人との〈顔〉のあるつながりからなる生活の場においては、その関係性による親近性を延長する想像(それを「社交性」と呼んだのだった)によって、他者の経験の語りとの結節点としての語りの余白が生まれる。その余白やそれが示す〈顔〉のあるつながりを抑圧し排除したときに、「小さな物語」は小さく完結してしまい、「大きな物語」とおなじ構造をしたものになって、そのなかに一元的に位置づけられる「部品」となってしまうのである。そして、そのような排除は、坂本氏の議論だけではなく、沼田さんの語りを侵略戦争の加害をも語るものとする革新的なマスメディアや教育者のとらえかたにも見られることであった。沼田さんが、シンガポール陥落の提灯行列に加わっていた頃に起きていたマレーシアのイロンロン村の虐殺を知らなかったと語るとき、「日本の侵略戦争」という完結した「大きな物語」に統合されるべき部品として語っているのではなく、戦後になってイロンロン村を訪れたときに聞いた他者の記憶の語りを接合したことによる「余白」として語っているのであり、それは、婚約者の戦死を「余白」として語っているのとおなじである。婚約者の戦死が、「日本を防衛するために死んだ尊い犠牲」ということを意味する部品にはならないのと同様に、イロンロン村の虐殺も「日本の侵略加害」を意味する部品となることを拒んでいる。
 つまり、この「語りの余白」とは、自分の語りのなかに浸透している「他者の声」の徴なのである。いいかえれば、そこにはバフチンのいうポリフォニー構造がみられる。その他者の声は、自分の経験したことについての語りにおける自分の声にまで浸透していき、ひとつひとつのことばを二重化していく。「小さな物語」の連鎖やネットワークは、このような特定の他者の声との対話性によってポリフォニー構造を生みだすとともに、リゾーム的なポリフォニー構造においてつながっていくのである。そして、それこそがモノローグ的なツリー構造をもつ大きな物語となることを拒んでいるのだ。
 ネオ・ナショナリズムに反対する革新的知識人たちが、この物語の違い、すなわち「余白」となる断片――特定の他者の断片的な声――が、大きな物語に統合される部品となることを拒みつつ、他のひとつひとつのことばをも二重化していくということを理解しないうちは、「祖父たちを辱めるな」という、身近な小さな物語のようにみえる物語を喚起しようとしているナショナリズムの言説の蔓延を阻止できないだろう*4


2.奴隷たちの日常的抵抗と共同体

 織田元子氏は、ギリガンのいう「ケアの倫理」を否定的な意味で「奴隷の美学」と呼んだが、奴隷貿易によって生まれた土地から切り離されて、アメリカというまったく違った環境に置かれ、苛酷な奴隷労働という抑圧された状況に直面したアフリカ人奴隷たちは、その状況を生き抜くるために、まさに「ケアの倫理」や「野生の思考」を用いたのである。アフリカ人奴隷たちは、そこで新しい生活様式や文化を編み出さなければならなかったが、それはある意味では新しい環境への「適応」や「対応」でもあった。しかし、かれらはたんに受動的に適応したのではなく、それはそのような状況への抵抗でもあった。では、アフリカ人奴隷たちが具体的にどのように抵抗したのか、それを見ていこう。
 まず、奴隷制度の下での苛酷な抑圧に対して、かれらは、当然のことながら、実際に物理的な力を用いて血を流しながら戦った。ブラジル奥地の逃亡奴隷たちによる「黒人共和国」(キロンボ、なかでもペルナンブーコ地方のバルマーレスは、17世紀初めから1694年に滅ぼされるまで約1世紀続いた)、ジャマイカの逃亡奴隷たちによるマルーン戦争(第1次 1734年、第2次 1795年)や、唯一成功した戦いとなったハイチ革命(1791〜1804年)、アメリカ合衆国南部におけるナット・ターナーの反乱(1831年)などの奴隷の反乱などがそのような戦いの例として挙げられる。
 しかし、そのような正面からの戦い以外にも、抵抗のやりかたはあった。それが、隠れた抵抗、とらえがたい「日常的な抵抗」である。たとえば、故意に作業をゆっくりとしたりするサボタージュ、愚かさや無知や子どもっぽさを装うこと、仮病、わざと怪我をすること、盗みやちょろまかし、逃亡、自殺、中絶などである。それらは、プランテーションにおける効率や規律、生産性への抵抗であった。シドニー・ミンツは、藤本和子氏のインタビューに答えた本の『聞書アフリカン・アメリカン文化の誕生』のなかで、抵抗というものがすべて物理的な力をともなうものと考えるべきではないと述べて、つぎのように言う。

 これら[ナット・タイラーの反逆などのたたかい]のほかにも、隠れたたたかい、とらえがたいたたかいが無数にあった。わたしたちがその意味を容易には理解できない種類のたたかい――仮病、自殺、サボタージュ、人工妊娠中絶、愚鈍をよそおうこと、毒物を使うことなどによる闘争。非人間的な社会の仕組みに圧迫された絶望的な状況のなかで、なんとか正気を失わずに生き延びるため、さまざまな手段を使い、かれらはたたかった。/すべての抵抗が暴力をともなうものではなかったことは重要な点だね。非暴力の抵抗は抵抗と見なされないこともあり、それは頑固さ、無知、怠惰などという言葉で片づけられてきた。奴隷自身がそれを抵抗として意識していなかったとしても、やはりその本質からいえば、抵抗と定義されるべきたたかいもあった。

 [質問]たたかいの手段の本質はどのようなものだったといえますか。

 かれら自身の生活の形をつくりあげるのに役立つ手段をえらぶ、という意図だろうね。かれらの態度は開かれたものだったから、先祖から継承したもので保持できるものは保持しながら、同時に自らの伝統の外にあるものでも、役に立つものならどんどんとりいれた。そうした抵抗と適応の総体的なプロセスを見ることこそが、アフリカン・アメリカン文化研究の中心的な課題だといえるね。[ミンツ 2000:36]


 ミンツは、これまで抵抗とされていなかった「日常的抵抗」を「抵抗」として認めることが重要なのだという。そのような実践を「抵抗」とみなさないと、たまに起こる少数の武器を手にした抵抗者以外の大多数の奴隷たちは、ただ受動的で従順に運命に従っていたことになってしまうからである(これが「奴隷のように」などというときの奴隷のイメージであるが)。
 けれども、ミンツのように、「奴隷自身がそれを抵抗として意識していなかったとしても、やはりその本質からいえば、抵抗と定義されるべきたたかいもあった」と、本人たちが意識していないことを「抵抗」と呼ぶことには問題があるという批判は当然でてこよう。つまり、研究者が外から抵抗と解釈することは、「物言えぬサバルタン」に代わって「表象=代弁」するという、上からの権力を用いているのではないか、という批判である。そのような批判は、「だれが『抵抗』と認定する権利があるのか」という問いと結びついているが、その問いにはあらかじめ「当事者」だという答えが用意されていて、研究者がその認定の権利を独占しているのは、オリエンタリズムに見られたような「他者について書く者/書かれる他者」という力関係を温存することになるというわけである。
 しかし、そのような批判には、近代の支配システムに包摂されているのは、現地の(ネイティヴの)「当事者」だけで、研究者自身はそのような包摂からあたかも免れているという、隠されたもうひとつの前提がある。つまり、研究者自身は当事者ではないという前提である。すでに述べたように、ド・セルトーの「戦略/戦術」の区別の利点は、現にある力関係の格差を否定することなく、研究者も植民地化された地域のネイティヴとおなじ地平に立てるということにあった。世界システムの中核諸国の中産階級ないしエリートである研究者も、ある場面では、自分に固有の場所を与える「空間の分割」によって、「ある一定の場所からの一望監視という実践を可能にし、そこから投げかける視線は、自分と異質な諸力を観察し、測定し、コントロールし、したがって自分の視界のなかに『おさめ』うる対象に変えることができる」という「戦略」を用いながらも、他の場面では(言説や商品の消費者として)、「自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、外部から押しつけられた土地でなんとかやっていかざるをえない」のである。
 つまり、そのような「戦術」を用いている場面では、研究者も程度の差こそあれ当事者なのだという前提にたてば、研究者が他者の日常的実践を「抵抗」として記述することは、支配システムに包摂されたり抑圧されたりしている状況から身を離して上から認定するという権力を行使している(「戦略」を用いている)のではなく、おなじように包摂されている者どうしのあいだで、それぞれの置かれた生活の場でなんとか戦術を用いるそのやりかたの教え合いや交換をしているのだといえよう(もちろん、すべてがそういえるわけではないが)。そのような「贈与」となるために必要なのは、自分はかれらが置かれている状況と無縁の固有の場所から権力を行使する立場にいるから、その権力の行使を抑制し、かれらのエンパワーメントをすべきだという「良心的な」姿勢ではなく(それはオリエンタリズムの「啓蒙主義」とほとんど変わらない)、自分の置かれている力関係の格差を含んだ関係性の延長上に〈顔〉のある他者を置くという想像であろう。
 日常的実践として行なわれる「抵抗」は、ミンツも示唆しているように、「抵抗」と「適応」とが区別できないような、「抵抗」と「適応」が一緒になった総体的プロセスとしてある。それらは、これまでは「頑固さ、無知、怠惰などという言葉で片づけられてきた」り、せいぜい「適応」としかとらえられてこなかった。そこに明白な「抵抗の意図」や「目に見える変化や成果」が見えなかったからである。しかし、研究者がそのような日常的実践を「抵抗」とか「適応」と解釈するときに、そこに「変革の意図」を判定基準として入れるならば、人びとを、自覚した近代的啓蒙主義的主体としてみていることになるというばかりか(あとで紹介するジェームズ・C・スコットの「日常的抵抗論」はそのような難点をもっている)、抵抗や適応といった区分が明確にできるという近代理性にたった「解釈」となるだろう。
 ここで、日常的な実践を「抵抗」と呼ぶものは、それが「抵抗と適応の総合的プロセス」であり、それは、「かれら自身の生活の形をつくりあげるのに役立つ」手段ならどんなものでも選ぶという、ブリコラージュ的な「戦術」なのであって、研究者が近代理性によってあらかじめ全体的な物語を「分かっていて」、個々の行為の「結果」を全体的な物語に位置づけてその意味を「抵抗」と解釈するということではない。そのような近代理性からは見えない、〈いま・ここ〉の効果としての「ラディカルな変革」――すなわち、ツリー構造をセミ・ラティス構造に変容させること――を指して、「抵抗」と呼んでいるのである。そして、そのような「抵抗と適応の総合的プロセス」は、奴隷たちによる文化の創造でもあった。
 奴隷たちは、非人間的なプランテーションの抑圧体制のなかで、さまざまな手段を臨機応変に使ってなんとか生活の形をつくりだしていた。そこでは、抵抗がそのまま適応となっていた。たしかに、適応と区別できないような抵抗の実践は、暴力的な抑圧の体制に直接的な打撃を与えるようにはみえないかもしれない。そのような戦術は体制を維持させることになるだけだとも言われてきた。しかし、ジョン・フィスクが『抵抗の快楽』のなかで言うように、「この意見をつきつめていけば、弱者が苦しめば苦しむほど、事態は[ラディカルな変革に]好都合になるといっていることに」なるだろう。しかも、ラディカルな変革を見える形でもたらすわけではないブリコラージュ的な戦術は、すでに述べたように、ツリー状の支配構造を「かれら自身の生活の形」にあったセミ・ラティス構造に変容させていくという、真にラディカルな変容をもたらすのである。
 それに対して「来るべきラディカルな変革を遅らせるだけだ」などという、全体を見通すような想像、すべてを見通すような全体的なプランから意味づけるモノマニア的やりかたは、これまで述べてきたように、〈いま-ここ〉の生活の否定でしかない。また、それは同時に、ツリー状構造をセミ・ラティス構造に無意識のうちに(すなわち生活のために)変容させるという、〈いま-ここ〉でなされているラディカルな変革を見落としていることにもなる。
 見えにくい日常的な抵抗の典型例が、支配する側から押しつけられた「愚か者」や「子どもっぽさ」といったイメージを模倣し反復することによる「抵抗」だろう。白人たちは、奴隷たちを「従順」で「子どもっぽく」、自分の愚かさを自覚しており、自分より優れた主人たちに忠実であり、保護されていることで幸せを感じていると信じたがっていた。そのような従順な黒人奴隷を「サンボ」というが、奴隷の大多数は「サンボ」で、反乱を起こしたり逃亡したりする反抗的な奴隷(「ナット・ターナー」)は少数だというわけである。しかし、実際には、奴隷たちは多数の「サンボ」と少数の「ナット・ターナー」という2種類からなるわけではなかった。実際、ナット・ターナーは、主人の目には忠実で従順な奴隷、すなわち「サンボ」だったという。また、ハイチ革命の指導者だったトゥサン・ルヴェルチュールは、主人に忠実な奴隷として、蜂起に参加するときに自分の主人にお別れの挨拶をしている。その忠実ぶりは、けっして主人の目をごまかす偽装ではなかっただろう。奴隷たちは、自分にとって有利な状況を作って生き抜くために、臨機応変に「サンボ」にも「ナット・ターナー」にもなったのであり、どちらかが「本当の自分」であったわけではない。それに、実際問題としても、ふだんはサンボとして、自分たちの食料を作る畑を与えられてそこで農耕を覚えたり、主人の信頼をえてプランテーションの外の市場に作物を売りに出掛けられようになったりしなければ、逃亡も外での仲間作りもできないだろう。そして、そのような逃亡や反逆も、プランテーションに残った「忠実な」奴隷たちのネットワークによる支援なしには不可能だったのである。
 抑圧された状況で「生き抜く」ために、利用できるものはなんでも利用して新しい生活の形を創造していたアフリカ人奴隷たちが「先祖から継承したもの」を用いた例としては、宗教のほかにフォークロア(口頭伝承)が挙げられるだろう。奴隷たちは、日没後などに語り合ったり、子どもに話を聞かせたりするとき、アフリカ起源のアナンシ物語に代表されるトリックスター(悪知恵の働くいたずら者)の伝承をクレオール語で語り直していた。西アフリカには、ヨルバのエシュやダホメのレグバといった神や、蜘蛛やウサギの姿をしたトリックスターの物語があるが、黒人奴隷たちは、他のさまざまな話のなかでもとりわけトリックスターの物語を好んで語ったり、新しく創ったりした。たとえば、ハイチでは、蜘蛛であるアナンシを主人公としたつぎのような話が語り継がれている。

 アナンシの悪知恵にすっかり頭にきた大統領は、「アナンシよ、余は貴様の馬鹿騒ぎにはもう飽き飽きした。余に貴様の間抜け面をけっして見せるな」といって、大統領官邸からアナンシを追放しました。数日後、アナンシは大統領が街に姿を現したのをみて、頭を石灰焼き窯の扉の中に突っ込んで大統領を待ち受けました。道にいた人びとは皆大統領を見ると帽子を取ってお辞儀をしました。石灰焼窯のところに来ると、アナンシの尻が突き出ているのをみて、「私にお辞儀をしないのはだれだ。だれの尻だ」とどなりました。アナンシは窯から頭を出して、「お辞儀をしなかったのはアナンシめの尻でございます」と言いました。大統領は、「アナンシめ、お前は私を尊敬しとらん」と怒鳴ると、アナンシは、「閣下、私めは閣下の仰せのとおりに、つまりけっして私の間抜け面で閣下のお目をけがさぬようにいたしたまででございます」と言いました。大統領は「アナンシよ、お前の間抜けぶりにはほとほとあきれた。服を着ていようが裸であろうがお前を二度と見たくない」と言うと、アナンシは立ち去りました。けれども、翌日大統領が街にやってくるのを見たアナンシは、服を脱いで魚を捕る網をかぶって大統領の前に現れました。それを見て大統領は「アナンシ、余は着衣だろうが裸だろうが、お前を見たくないといったではないか」と叱りつけました。アナンシは「はい、私はあなた様を尊敬申し上げております。私は服を着てはいませんが裸のままでいるわけでもありません」と答えました。大統領は「アナンシ、今度ハイチの土の上でお前を見たら、お前は銃殺だ」と申し渡しました。そこでアナンシは、船でジャマイカに渡り、靴を一足買ってその中に砂を詰めて履いて、ハイチに戻った。船がポール・オー・フランスの港へ着くと、はしけのところに大統領が立っていました。「アナンシ、私の言ったことを忘れたか」と大統領が叫ぶと、アナンシはそれに答えて、「はい存じております、パパ。私はそれをきちんと守っております。私はジャマイカに行って靴の中に砂をつめて参りました。だから私はジャマイカの土の上を歩いているので、違反していないと存じます」。[山口 1971より]

 これとおなじような話は西アフリカにもあり、ここでは、トリックスターの相手となる登場人物は、独立後のハイチ共和国を反映して大統領となっているが、西アフリカでは王や至高神であり、また、プランテーションのなかの奴隷コミュニティでは、おそらく白人プランターが登場していただろう。ただ、これをたんに「アフリカ文化の残存」としてのみ見るべきではない。プランテーションの黒人奴隷たちは、聖書の物語やシンデレラなどのヨーロッパの民話やさまざまなアフリカの神話や神々をトリックスターの物語に作り替えており、アナンシは、アフリカン・アメリカン文化を象徴するような地位を与えられている。白人のキリスト教の神父たちからは、トリックスターであるアフリカの神々は「悪魔」として排斥されていたが、にもかかわらず(あるいはそれゆえにこそ)、プランテーションの黒人奴隷たちは、それらのトリックスターに自己を重ね合わせていったのである。
 なぜ、アナンシ物語のようなトリックスターがアフリカン・アメリカン文化で中心的地位を占めたのかといえば、ひとつには、トリックスターたちが至高神や王などの従者であり、主人に仕える奴隷とおなじような地位にあるため、自分たちをそれに重ね合わせやすいということがあっただろう。さらに、より根本的には、そこで語られるトリックスターの行為が現実の「日常的抵抗」を表すものだったからだろう。アナンシ物語を代表とするトリックスターの物語は、アフリカン・アメリカン文化では、強大な支配者である白人プランターやプランテーションの監督者の下で抑圧されつづけ、自分を「愚か者」「怠け者」であることを認識せよと教え込まれた黒人奴隷たちが、語りによる笑いのなかで、「愚か者」「怠け者」であることがそのまま「勝利者」や「賢者」となることを示してくれるものだったのである。
 先に、奴隷たちの日常的な抵抗として、白人たちが自分たちに押しつけた「愚か者」や「怠け者」という烙印や「サンボ」のイメージを利用するという「抵抗」の仕方を挙げたが、アナンシはこのような現実の抵抗のモデルとなるものだった。そのような抵抗は、「愚か者やサンボを装う」ことによる抵抗であるともいわれる。しかし、この「装う」という言い方には注意が必要だろう。内面は「ナット・ターナー」であるが、そのような「真の自己」を隠して外面は「サンボ」のふりをするという意味合いをもってしまうからである。そのような「内面」と「外面」の分裂という見方は、近代の啓蒙主義的思考が創りあげたものだろう。つまり、そこには「外面=シニフィアン」と「内面=シニフィエ」とが一致し、「外面=シニフィアン」が透明になってそのまま「内面=シニフィエ」を表すのが理想とされ、一致せずに分裂している場合は、「外面=シニフィアン」が偽なのだという思考がそこにはある。しかし、さきに述べたように、奴隷たちは生き抜くための術として、臨機応変にサンボにもナット・ターナーにもなるのであって、そのどちらかが「内面」に秘められた「真の自己」というわけではなかった。そして、アナンシ物語でも、アナンシは「内面」の「賢者」という自己を隠して「愚か者」のふりをしていたのではなく、表面的な行為(外面)そのものがアナンシの「愚かさ」と「賢さ」を同時に表していたのである。たとえば、石灰焼窯に頭を突っ込んで尻を出しているアナンシの姿は「愚か者」そのものであるが、それがそのまま大統領を「愚か者」に見せてしまう賢さとなっているわけである。そして、その行為は、大統領の言葉に「愚かなほど」忠実な行為となっていると同時に、大統領へのからかいや反抗にもなっているのである。そこには、内面と外面の区別などなく、したがって内面と外面の分裂もない。
 つまり、奴隷たちが日常的現実のなかで他者から押しつけられた「愚か者」というマイナス・イメージをもつ「サンボ」を演じなければならず、それは自己嫌悪をもたらす行為にちがいないという解釈も、近代的な人間像を基準とした解釈でしかないだろう。アナンシ物語のなかで起こっている、「愚か者」を装うことがそのまま「賢者」へと転化し、支配者である白人こそが「騙される愚か者」となるという逆転においては、それにともなう笑いがあるだけで、そのような自己嫌悪は生じなかっただろう。
 そこに見られるのは、他者が自分たちに押しつけたマイナスのイメージに対して、対抗的に別の肯定的な自己イメージを提示するのではなく、それをそのまま反復し模倣することによって、マイナス・イメージを他者に投影して自己のアイデンティティを不動のものにするという近代のアイデンティティの確立のしかたそのものを解体してしまうという抵抗のやりかたである。
 ところで、「日常的抵抗」論者の代表者であるジェームズ・C・スコット[Scott 1985]は、奴隷たちが愚鈍を装ったり「サンボ」を演じたりするように、支配された民衆による、怠惰や見せかけの同意や無知を装うこと、そらとぼけること、隠れて嘲笑することといった日常的実践を「抵抗」としてとらえ、それを「隠されたトランスクリプト hidden transcript」(権力者の眼からみえない舞台裏での語りや態度を指しており、「かげに隠された意思表明」といった意味か)と呼んでいる。スコットのいう日常的抵抗は、近代のエコノミーに包摂され、いやおうなくそれに同化させられている人びとが、かげで主人を嘲笑することに代表されるように、表面的にはそれに同意していように装いながらも、内面的にはモラル・エコノミーにもとづいてそれを拒否するという主体性を保持しているというものである。ようするに、その抵抗は、「面従腹背」ともいいかえられるものであり、「面=外面」では同意を装っているが、実は「腹=内面」では首尾一貫した同一性をもつ主体を保持しているのだということが前提とされている。けれども、すでに述べたように、そのような内面と外面の区分とそのあいだの背反は、近代の啓蒙主義的主体に特徴的なものであって、アナンシによって表される愚か者の装いは、「内面」での反抗を隠すものではなく、それ自体が抵抗となっているものだった。
 アフリカ系アメリカ人の思想家W・E・B・デュボイスは、『黒人のたましい』(1903年)のなかで、他者=マジョリティである白人の基準、ステレオタイプ化されたイメージを通して否定的にしか自分を見られないという黒人たちの意識を「二重意識」と呼んでいる。デュボイスはつぎのように言う。

 アメリカの世界――それは、黒人に真の自我意識をすこしもあたえてはくれず、自己をもう一つの世界(白人世界)の啓示を通してのみ見ることを許してくれる世界である。この二重意識、このたえず自己を他者の目によってみるという感覚、軽蔑と憐びんをたのしみながら傍観者として眺めているもう一つの世界の巻尺で自己の魂をはかっている感覚、このような感覚は、一種独特なものである。[デュボイス 1992: 15-16]


 この「二重意識」という感覚も、都市において出現しつつあった黒人エリートたちや、解放されて奴隷の共同体を離れて都市で暮らす黒人たちが、固有の場所を与えられることなしに、自分はそこから排除されている、他者の法やエコノミーの支配する世界(「他者の場所」としてのアメリカ)において、他者から与えられた否定的なアイデンティティの意味と同時に、それを否定的なものと測定する他者の基準をも内面化していったことを示している。つまり、皮肉なことに、アフリカ系アメリカ人たちが白人たちの価値基準で自分たちを見て「黒人であることを嫌悪」するようになったのは、奴隷制が廃止され、プランテーションにおける奴隷たちの共同体が解体して、アナンシ物語のようなフォークロアが衰退していってからだったといえよう*5
 その一方で、この都市で暮らすアフリカ系アメリカ人たちの二重意識の苦悩がアフリカ系アメリカ文化を生んだという言いかたもされる。たとえば、ブルースについて、音楽評論家の三井徹氏は、『黒人ブルースの現在』のなかで、それが奴隷解放後、つまり奴隷共同体の解体後の「個人」となった黒人たちによってはじめてそのような創造が可能となったと述べている。

 黒人が奴隷ではなく、アメリカ人という自由人になる。ところが自由人であるのに抑圧を受ける。そこではじめてブルースは生じはじめる。……それまでの黒人は奴隷共同体の一員であり、孤立はしていなかったのだけれども、その生活の前提が奴隷解放によってくずれ、その結果、黒人は孤立し、一本立ちした。1人のアメリカ人として、新たに独立した一個人として孤立した。……自由の身でありながら、その自由が抑圧されている。そこでブルースは生まれる。奴隷共同体にひきこもっていたときには、根本的に、ワークソングやダンスなど共同体音楽しか存在しなかった。それはやはり奴隷の音楽でしかなかった。[三井 1977:13-14]


 三井氏は、このように、奴隷共同体には個人というものがなく(したがって「二重意識」もなく)、音楽も「共同体音楽」しかなかったという。たしかに、1950〜60年代まで、奴隷共同体は、強制収容所とおなじで、その極度の抑圧が奴隷たちの人格の破壊をもたらしたという説が有力だった。この説によれば、黒人たちがその文化を開花させたのは、まがりなりにもそこから解放され、自由な個人となってからで、この個人がなおも続く抑圧に対して抗議したりその苦悩を歌ったりしたものがブルースでありジャズだったと説明される。しかし、1970年代以降のアメリカ合衆国のアフリカン・アメリカン文化の研究は、そのころ発掘されて編集された多くの解放奴隷たちのナラティヴをもとに、奴隷たちが奴隷制によるプランテーションのなかでも自主性を発揮して、アフリカからもってきたものを新しい状況に適応させ、その地で手に入る新しい要素を自分たちの生活に取り込み、自分たちの共同体や文化を創造しながら、一定の自立を達成していたということが強調されるようになっている。そして、そこでは、元奴隷たちの奴隷時代の経験と奴隷制廃止後の経験との間に明確な相違がなかったことが明らかになっている。
 奴隷制のもとでの黒人奴隷たちが人間性を奪われていた完全な犠牲者であるという仮説は、解放のための「抑圧の仮説」としての意味――これだけ悲惨な抑圧があるのだから、解放してあげなければならない――をもっていたが、それは、G・P・ローウィックが『日没から夜明けまで――アメリカ黒人奴隷制の社会史』で述べているように、エリート主義的で近代主義的な見方だろう。ローウィックは、つぎのように述べている。

 [奴隷が完全な犠牲者であったという]この仮説から導き出されるものは、奴隷にはいかなる文化も歴史もコミュニティも、また変化と発展の機会もなかったために自立することができなかったとするものである。また、それゆえ、幸いにもそこなわれることのない完全な歴史をもち、黒人を援助することのできるよりよき人間的条件を身につけた人々によって、黒人は解放されなければならなかったという見解である。[ローウィック 1986:16]


 そこには、もともと彼らのいたアフリカの地でも個人は自律していなかったし、プランテーションでもただ状況に受動的にしたがってサンボのような奴隷根性を身につけており、自立することができなかった、かれらが本当に自分たちの文化を創りだしたのは、他の人びとによって解放され、自由な個人という近代的な価値を与えられてからだという想定がある。そして、その想定のもとに、自由と自立を与えられた黒人たちはそのように扱われないということへの抗議として、普遍的な音楽文化を創造したという、近代的個人の神話による解釈がなされているわけである。けれども、この想定は、オリエンタリズムと同類のものというべきだろう。
 ただし、奴隷共同体の肯定的な評価が、奴隷制の暴力的な抑圧の残酷さや卑劣さを隠してしまうことになれば、それはまた新しい「神話」になってしまう。重要なことは、奴隷たちによる文化の創造は、かれらの自由や自立を意味するのではなく、それが過酷な抑圧にもかかわらず、開かれた共同体に支えられながらなんとかその状況を生き抜くための文化を創造していたということを意味しているということなのである。
 ところで、日常的実践における抵抗が支配的秩序の再生産にしかならないという言説は、イギリスの労働者階級の若者たちによる学校文化への反抗についてのポール・ウィリス[1996]の分析にもみられる。ウィリスは、イギリスの労働者階級の若者たちが、知的労働を女々しいものとみなし、自分のからだで稼ぐ労働を積極的に肯定するかれら固有の文化にもとづいて、知的労働と従順性のための装置としての学校に反抗し、独自のやり方で学校の規律=訓練をやり過ごすことが、従属的な肉体労働にかれら自身が進んで就いていくことにつながっていると分析してみせる。現代社会では、支配的な公式文化によって知的労働と肉体労働が区別され、肉体労働が劣位におかれるが、かれら労働者階級は、その押しつけられた規範や意味を受動的・機械的に内面化しているのではなく、それを組み変え、肉体労働の劣位という意味を逆転させ、手による労働こそ男らしい本物の労働だとする独自の意味を生みだす。けれども、まさにそのような主体的な創造、独自の意味の転倒が、既存の支配的な階級構造の維持や貫徹に寄与する結果に終わるということを示していくのである。つまり、反学校の文化から労働者階級の文化への連続性において、かれらは「まさにぎりぎりのところで上手に身をかわし、それでいて『規則=支配』をかいくぐ」りながら、「インフォーマルな世界に立てこもることでいかにもしたたかな抵抗を持続させる」[ウィリス 1996:61]のだが、彼らがたてこもるインフォーマルな世界が従属的なものとして位置づけられているゆえに、その抵抗は、自分たちの従属を結果するというのである。
 もっとも、ウィリス自身は、自分の結論はこのような悲観的な逆説ではなく、「この研究で私が示そうとしたのはこれと逆のことであり、まさにそのかぎりで、私の立場はより楽観的である。……社会を構成する人間的主体は、支配イデオロギーの受動的な担い手にとどまりえないのであり、既存の社会構造を再生産するにしても、闘争や抵抗や部分的な洞察を行なう、イデオロギーにたいする能動的な改竄者としてそうするのである」[ウィリス 1996:408-409]。けれども、〈野郎ども〉の生活誌を記述する民族誌的部分では受動的かつ能動的な改竄者としての姿を描いているが、分析の部分になると、その抵抗が既存の体制を再生産するという結論にしか読めないのもたしかである。
 ウィリスの分析が自身の楽観的な立場を裏切ってしまうのは、分析の枠組として、話し言葉に代表される「かれらの世界」における「洞察」と支配イデオロギーによるその「制約」という図式を使っているからだろう。ウィリスは、〈野郎ども〉の洞察――従順さや勤勉さや成績証明は、学校当局が言うようには生徒たちの地位を押し上げるのに役に立たないといった洞察――を評価する一方で、「個々人の日常の話言葉のなかに〈洞察〉の片鱗がきらめくことはある」が、それを歪めてしまう〈制約〉があるために、「それはうつろいやすく、ときには自己矛盾を示し、たいていは無自覚である。……話言葉に反映されるかぎりでの文化は往々にしてその生成過程を省いた最終結果だけであり、生成の根っこにあった〈洞察〉はそこでは見るも無惨な姿をさらす場合がある。さらに、時と場所が異なれば話言葉はそれだけ一貫性を失い、葛藤をはらむ文化のたがいに矛盾する側面が脈絡を欠いたままあらわれることになる」[ウィリス 1996:295]という。そこには、本来的に正しい合理的な洞察というものがあり、それが歪められて、断片的で首尾一貫しない非合理的なものとなってしまうということが前提されている。しかし、これは明らかに近代の啓蒙主義的な合理性/非合理性の二元論にもとづくものといえよう。つまり、ウィリスは、システムの戦略モデルによって、生活世界のもののやりかたである戦術を、一貫性を欠いた、歪んだものと断罪しているのである。
 しかし、この一貫性のなさや特定の「時と場所」に依存する部分性や断片性は、本来一貫していた全体的な洞察が支配的イデオロギーの生活世界への浸透によって歪んだ結果なのだろうか。そして、その歪みさえ取りのぞけば、疎外されていた主体が回復するのだろうか。それが、システムに属する啓蒙主義的な合理性/非合理性の二元論から見たかぎりの一貫性のなさや部分性という意味では、「生活世界の植民地化」によって見いだされたものと言えるが、そのことは「植民地化」以前に合理的で全体的な洞察のできる主体があったことを意味しない。それが意味するのは、合理性の男性的・ブルジョワ的・白人的定義によっては、生活世界における洞察や実践のもつ横断性を聴き取ることができないということなのである。ウィリスはそれを聴き取りながら、その分析では、啓蒙主義的な合理性/非合理性の二元論にもとづいて、それを抵抗と服従の循環のなかに押し込めてしまっている。
 ウィリスが洞察の断片性や臨機応変性を歪みと取ってしまったのは、民衆的なものや民衆文化が、バトラーとは逆に(いくぶんかクリステヴァに似て)、支配的イデオロギーの外部にある固有の空間や固有の文化的コードといった実体的なものとしてとらえてしまって、「もののやりかた」としてあるということをとらえそこなったせいだといえよう。ウィリスは、労働者階級の若者たちが、その反抗によって自分たちに固有の空間としての階級文化を防衛しているかのように述べる。そのために、肉体労働の表す男性的なものに価値をおくという、労働者階級に固有の文化的コードによって、抵抗が従属を生むという逆説的循環を招くとするわけだが、そのようなコードは固定されたものではなく、その時その場に応じて表明されるものである。ミシェル・ド・セルトー[1987]の言いかたを借りれば、民衆的なものとは、その文化的コードそのものにあるのではなく、コードの使いかた、「活用」の独特のやりかたにあるのだ。たとえば、〈野郎ども〉は、学校というコンテクストでは体を使って働くことが学校の権威への反抗になるからそのコードを用いるけれども、工場というコンテクストにおいては、肉体労働である仕事に情熱を注ぎ、個人生活のもっとも私的な部分さえも労働力を支出するために投じようとする順応的な生徒たち(〈耳っ子〉)とは違って、〈野郎ども〉は「労働に生きがいを求めることを最小限に抑制しようとする」[ウィリス 1996:260]。つまり、かれらは、固有の文化的コードといったものにこだわらずに、時と場合に応じて一つのコードから別のコードへと移動していくのである。そして、そのやりかたこそ、日常的実践にみられる「独特のやりかた」なのだといえよう。

*1:ここで取り上げる故坂本多加雄氏以外にも、たとえば佐伯啓思氏もつぎのように述べて、ナショナル・アイデンティティが創られたフィクションであることを認めている。「確かなアイデンティティなどというものがはたしてありうるのかどうかという問題は常についてまわるし、カルチュラル・スタディーズ論者がしばしば主張するように、ナショナル・アイデンティティなどという観念は常に「作り出されたもの」だといっておいてもさしつかえない。だが、ここで確認しておきたいことは、たとえ「作り出されたもの」であるとしても、そのような「フィクション」を想定できないとすれば、国際社会で確かな立場を取ることもできなくなってしまう、ということなのである。」[佐伯 2001:74]このように、ネイションを「虚構」とするナショナリズムは、それが他のフィクションより優位にたつ重要なものだと主張するものである。

*2:ネイション虚構論に立つナショナリストは、ネイションや国家の特権性を、国民国家が、類−種−個という包摂関係の中間項である「種」のなかの最も上位の階梯のものであることに求める場合が多い。たとえば、佐伯啓思氏は、家族という「われわれ」がその外にあるコミュニティや企業や学校という集団を前提とし、企業やコミュニティの集団意識はその外部にある国家といういっそう抽象的な「われわれ」意識を前提とし、国家という「われわれ」の意識はその外部にある「世界」や「人類」という「われわれ」意識によって限定されていると述べた後、「国家意識」(ナショナル・アイデンティティ)の特権性をつぎのように述べている。「ところが「国家意識」がいささか特異な位置に置かれるのは、まさにその点においてである。つまりその先がない、言い換えれば「世界」や「人類」を相対化するものが存在しないからなのである。「世界」や「人類」という「われわれ」意識を確固としたものとするその外部は存在しないのである。それゆえ「世界市民」や「人類」の意識はきわめて希薄なままに放置されるしかない。「世界市民」や「人類」という次元で、人々は「われわれ」意識を構想し、まして実感することはきわめて困難なのだ。その結果として、事実上、国家が「われわれ」意識の最も重要な結節点とならざるをえない。[佐伯 2001:283-284]」この議論は、人類―中間集団―個人という「類−種−個」のツリー状の包摂関係を想定して、その中間集団のなかで、国家が最も上位だという「事実」に、国家の特異性を求める議論であるが、たとえば企業という中間集団の「われわれ」意識が多国籍企業においては、国家に包摂されないなど、そのさまざまな中間集団をツリー状の包摂関係のなかに一義的に位置づけることが実際には困難であることからも、この議論の苦しさは明白だろう。また、「文明の衝突」論における文明圏や「帝国」論といった最近の議論では、国民国家から中間集団の最上位のものという位置を奪ってしまっている。そのときに、「文明」ではアイデンティティが希薄だという議論を持ち出しても、それは、原初的紐帯の受け皿になるには「国家」は抽象的でアイデンティティ意識をもつには希薄すぎるという議論の反復でしかない。

*3:ギリガンのいう「ケアの倫理」は、前章で紹介したように、シクスーが、「女性は他者の存在を認める」から「今日、エクリチュールは女のものである」[シクスー 1993:144]と言っていることにも通じている。

*4:上野千鶴子氏の「『記憶』の政治学」という論考[1998]は、実証史学的な「反省史」から被害者のオーラル・ヒストリーへの転換という視点から、この問題点に接近しているようにみえる点で貴重なものだろう(次章で触れる問題点はあっても)。ただ、その「被害者のオーラル・ヒストリー」に「加害者のオーラル・ヒストリー」をどのようにつなげていくかが問われているように思う。ここでは、そのようなつなげかたの一例として、次章で触れる大岡昇平氏の『レイテ戦記』を挙げておくにとどめておこう。

*5:デュボイスのいう「二重意識」は、他のようにも解釈できる。たとえば、鈴木慎一郎氏は、ジャマイカのレゲエでは、「あらゆる境界を越えた人間どうしの愛について高らかに歌いつつ、いっぽうで、階級や人種や居住区や宗教やジェンダーの境界線をはっきりとひきたが」ると指摘し、「こうした日一貫性」がデュボイスのいう「二重意識」と関係があるのではないかといい、「ジャマイカの黒人系は、近代市民社会の普遍的な人間としてどこかの国民になりたい、そしてその国民主体になりたい、という欲望と、それから黒人にかんする否定的なイメージ、つまり『ジャマイカでは黒人は国民の完全な主体にはなりえないのだ』というエリート社会からのイメージとの、二重性において自己意識をもつことになった」[鈴木慎 2000:32]と述べつつ、「ジャマイカ人の文化的自画像……が、アイロニーに満ちた二重意識の産物ではありながらも、それをポジティヴにとらえ返すことのできる可能性が開けている」[鈴木慎 2000:40]と述べている。鈴木氏の言っていることはよく分からないところもあるが、国民化されかつ周縁化されるマイノリティは、普遍的な市民であることと国民主体であることとが一致しうるマジョリティとは違って、「二重意識」において自己形成せざるをえないのであり、国民化=周縁化以前に戻れない以上、「それをポジティヴにとらえ返す」可能性こそが重要になるということには賛同したい。そして、その可能性は、「アイロニーに満ちた二重意識」に苦悩する黒人やマイノリティというとらえかたから、その二重性をバフチンのいう「二声性」によるパロディにみちた快楽をともなう実践としてとらえなおすことによってひらかれるのではないか。