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知覚における絵画的意味 高橋 綾

はじめに

 メルロ=ポンティはその知覚論のなかで、くりかえし知覚のなりたちを絵画になぞらえて語っている。とくにセザンヌについては、『知覚の現象学』から、『間接的言語』、『セザンヌの疑惑』といった著作を経て、『眼と精神』 にいたるまで、なんども繰り返し言及されている。
 メルロ=ポンティは、世界はわれわれの身体を起点として現れると考えた。メルロ=ボンティにとって身体とは、「世界内存在の媒体」( PP97 )であり、その身体を持って見るということは、網膜像を受容することや感覚刺激から脳が像を構成することなどではなく、まず主体が「環境内へ定着」( PP235 )し、「世界へ内属」(同)することとして考えられなければならないのである。本論文では、主に『知覚の現象学』に見いだされる、奥行きの問題、 視野の組織化による色の現出、そしてそれらをとりまとめる「協働的総体」としての身体の働きという3つの観点から、われわれが世界や事物を知覚するということがどのようなことであるかを明らかにすることを目的とする。メルロ=ポンティが、セザンヌをはじめとした画家が絵を描くというプロセスやその作品に注目するのは、それが、世界や事物を見るということにおける身体の働きを、そしてわれわれが「世界へと内属する」その仕方を、言葉ではなく、身をもって教えてくれるものだからなのである。


1 奥行きの経験

 ここではまず、身体をもって〈見ること〉の1つの手がかりとして、奥行きの問題を検討する。絵画の歴史のなかでは、2次元のものである絵画に、どうやって3次元の奥行きを生み出すかという、さまざまな工夫が重ねられ、1点透視による遠近法はその解決の1つとして生み出された。また、現代においては、われわれの立体視は、両眼の視差を脳が計算して生み出されるものであるという現代の認知科学の知見から、この脳による視差の計算を利用 して、2次元の紙のうえに3次元の「立体視」を生み出す、ランダムドットステレオグラムという装置が開発され た。*1
 しかしメルロ=ポンティは、絵画における奥行きの問題とは、こうした技法としての遠近法や両眼の視差を利用す3D画像が示すものとはまったくべつのところにある、と考える。なぜなら、知覚にとってと同様、絵画にとって重要な「奥行き」の問題とは、従来の遠近法や、現代の3D画像のようにいかに2次元からいかに3次元の視覚像を生み出すか、という問題ではないからである。メルロ=ボンティは、絵画がわれわれに明かしてくれるのは、第3の次元としての「奥行き」ではなく、事物がそこに〈在る〉ということ、世界の「深さ profondeur 」「厚み épaisseur 」の経験としての「奥行き」の経験である、と考える。
 メルロ=ポンティのいう奥行きとはどのようなものだろうか。メルロ=ポンティは「たがいに排除し合う諸経験が同時に存在すること、それらが相互に関わり合うこと、可能な過程全体がただ1回の知覚作用のうちに縮約されること、これらが奥行きの独自性をなす」( PP306 )と述べる。知覚においては事物のすべての側面が一挙に現れるわけではない。ある面がかくれつつ他の面が明らかになるという「たがいに排除し合う諸経験」を通じてしかわれわれは事物を経験することができない。しかし、事物のさまざまな面は、身体の運動の展開のなかで継起して現れ、また静止した知覚においても、隠れてしまった面は完全に知覚から欠落してしまうのではなく、すでに現れた面として、あるいはこれから現れる面として今見えている面と共に在る。このように知覚野においては、「〈共存するものの次元〉は〈継起するものの次元〉から切り離されえない。」( PP307 )

もろもろの地平の総合は本質からして時間的なものであり、・・それは時聞が経過するところの運動と融け合っているのである。もろもろの空間的地平をもつ私の知覚野をとおして、私は私の周囲の物に居合わせており、 その向こうに拡がる他のすべての風景とともに共存しているのだが、これらすべての展望は、いっしょになって唯1つの波を、世界の一瞬をかたちづくる。[他方で]もろもろの時間的地平をもっ私の知覚野をとおして、 私は私の現在に、そしてそれに先行した過去のすべてに、また未来に居合わせている。( PP381 )


 奥行きの経験とは、空間的経験であると同時に時間的な経験でもある。*2 この物のむこうに別の物があるというここ──あそこという空間のひろがりをなす事物の共存の次元は、それと同時に起こる過去──現在──未来という時間の継起の次元によって明らかになる。共存し、継起する事物の知覚をまとめ上げるのは「移行の総合 syntèse de transition 」( PP307 )の働きであり、それはばらばらのパースベクティヴ、事物の見えを結びつけるのではなく、ひとつの空間的、時間的ひろがりをもっ知覚野において、「一方から他方への〈推移〉を引き起こすような総合」(同)であって、この総合は、けっして知性による統合などではなく、それはただ「世界全体へと滑りこんでいく仕方」( PP360 )としての眼差しの運動のなかですでに実現されているものである。この眼差しの運動のなかで、共存し継起するパースベクティヴはばらばらに存在するのではなく、ひとつのものが別のものに挟めこまれ、含み込まれていくこと emboîtement ( PP307 )によって、1つの知覚となる。つまり世界の知覚は、「同時にも継時的にも互いに含みあい、解きほどき合う s'impliquent et s'expliquent ような経験の流れ」( PP325 )のなかで生まれ、空間と時間という2つの地平が嵌めこまれた「厚み」を有している。そしてわれわれはいつでも自らの身体の運動によって、この可能性の地平を探索することができる。このように奥行きとはこうした(世界に)「巻き込まれた主体 sujet engagé の可能性」( PP309 )なのである。
 以上のように、奥行きとは、「事物やその諸要素がたがいに並列している juxtaposer だけの次元」( PP306 )ではなく、それらが「互いに他を包含し合う s'envelopper 次元」(同)である。幾何学的遠近法は、この空間と時間を含み込む、つまり運動と知覚の可能性を含み込む奥行きの現れを解体し、単に諸要素の並置、並列関係に帰してしまう。それに対して、セザンヌはこの空間と時間の厚みの経験としての奥行きを表現しようとするのである。セザンヌの静物画やいくつかの肖像画においては、遠近法に逆らう変形、デフォルマシオンが行われていることが知られている。例えば、斜めからみられた皿や壷の口も楕円形にならずに円に近い形で描かれており、またテーブルの縁も、下方が大きすぎたり、一直線にならずに、テーブルクロスの左右で食い違っていたりする。遠近法の規則に従えば、円を斜めから見ると楕円に見えるはずである。しかし、実際にわれわれがそれを自分の眼差しにおい て捉える時には、その運動のなかで「楕円であることなしに、楕円のまわりを揺れ動いているある形態」( SNS19 )を捉えているはずであり、我々がテーブルのような幅広い表面を見渡す場合には、「それが次々と得るイマージュは、さまざまな異なった視点から得られるものであって、そのために表面全体はふくれあがってみえる」( SNS19 )はずなのである。セザンヌデフォルマシオンには異なった視点から見られた事物の見えが共存していることが知られているが、これは決してキュービズムがしたような、ばらばらのパースペクティヴの張り合わせではない。メルロ=ポンティは、セザンヌはむしろ知覚の本性からそのデフォルマシオンを導き出したのであり、 彼のデフォルマシオンは、 ひとつのパースベクティヴがべつのパースペクティヴに含み込まれているという時間と運動を含みこんだ知覚の「厚み」を一挙にそこに表しているのである。*3
 知覚が時間と運動を含み込んでいるからこそ、さまざまの事物の見えが共存し継起しているという奥行きの経験が成り立つのであり、この奥行きの経験は幅や高さの経験よりもいっそう根源的な経験、「知覚の中で開始されている世界の形態化 mise en forme 」*4( PM88 )の端緒なのである。知覚の厚みにおいて世界がそこに姿をあらわすというメルロ=ポンティのいう奥行きとは、事物同士のあいだの距離のことではなく、知覚の中で開始されている「世界の形態化」、知覚が含み込んでいる時間と運動において事物がその形をとりはじめる、事物がそこに「在る」という根源的な経験のことである。*5セザンヌはその絵画におけるデフォルマシオンによって、この「世界の形態化」を、絵の中に出現させることに成功した。


2 色の現出、視野の組織化

 セザンヌは色彩について「生命がやってきて、それにみなぎった瞬間、感覚を意味した瞬間、色がつくのだ。*6」と述べる。一方、メルロ=ポンティも、セザンヌに賛同しつつ、「世界が厚みをもって表現されることを望む場合は、デッサンは色彩からうまれなければならない」( OE66 )という。「空間とその中身とは一緒に追求されなければならない」のであって、「それはもはや、単に距離や線や形の問題であるにとどまらず、色の問題であるのだ。」( OE67 )以下の2章では、この色彩における世界の出現についてのメルロ=ボンティの考察を検討していく。
 ニュートン以来の色彩光学において、すべての色は光をプリズムによって分解することによって取り出されるスペクトル光の7色に由来すると考えられてきた。光が事物にあたり反射する際にその事物が吸収しないスペクトル の一部分だけが反射され、われわれの眼に飛び込む。個々の事物の色とは、この吸収されない色のスペクトルのことである。印象派はこの考えをさらに進めて、視覚には「物」は存在しない、網膜において見られているのは事物 から反射される光のスペクトルであるにすぎないとして、プリズムの7色の色の班点によってすべてを描いた。そ の意味では、印象派の絵画はニュートンによって始められたこの色彩光学、色の科学のラディカルな実践であったといえる。
 しかしメルロ=ポンティは、光学的に規定される色と、実際になにかの色が見えるということは違うと考えた。われわれは色をどのようにして見ているのか。その好例としてあげられるのが、異なった照明のもとでもある事物が同じ色をしているということを見いだすことができるという色の恒常性の経験である。
 この事物の色の恒常性はどうして生じるのだろうか。視野のさまざまな部分を1つずつ取り出す場合には、対象の固有の色と照明の色を見分けることはできない。夕方電気をつけると、部屋の中の事物は一瞬「黄色く」なったようにみえるが、しばらくするとそれぞれの事物は元の色を取り戻す。このことをメルロ=ポンティは、われわれが事物の色を知覚するときには、照明が必要であるが、実際に事物の色を見るときには、照明の色のほうは「隠れて」しまうのだと説明している。照明の光がその役割を果たすのは、知覚の「補助物 auxiliaire 」( PP357 )あるいは「媒介物 médiateur 」(同)となって、「それらがわれわれの視線を引き止めるのではなく、これを導く場合だけである」(同)と。部屋の中を視野全体として見たときには、「黄色い」照明の色はそこから他の色がはかられる色の「水準」「零度」( PP359 )*7として働き、自らは隠れる。そして視野の中のそれぞれの事物の色は、その水準からのへだたりによって、互いに対照しあい、組織化される。事物の色は、その事物だけまわりから切り取ってき て知覚されているわけではない。それはつねに「水準」としての照明、そして周囲の事物との関係、視野全体との関係で認知される。事物の色が見えてくるのは、われわれが照明に導かれ、全体的な「視覚の組織化/体制化 organisaition 」に達するときである。この組織化は異なる照明のもとで「変換」されるが、われわれはその「組織的変換」において1つの水準が別の水準に移ったとしても、全体の組織、構造の同一性から、ある事物は同じ色をしているということを見いだすことができる。これが事物の色の恒常性の経験である。
 また、この照明に導かれて起こる「視野の組織化」は、われわれに事物の固有色を明らかにするだけではない。この色の組織化、視野の色彩の全体のコントラストによってはじめて「面が可能になり、物の出現をとおして、一義的な形や位置づけがやっと可能になる。」( PP375 )それぞれの事物の形や場所の関係が明らかになり、それによって初めて、事物の大きさや距離などの「もろもろの現れの体系」( PP375 )が空間の抽象的な枠組みとしてではなく、中身を伴ったものとして現れることができる。
 絵画が彩色によって完成するといわれるのはそのためである。画家は、まるで眼差しがそうするように、それぞれの色班に対照関係をむすばせながら「組織化」し、そのなかでそれぞれの事物の固有色や形、その位置を浮かび上がらせていく。セザンヌが、「物体の形ないし輪郭は、その色彩関係に基づく対立ないし対照によって知覚されるのである」*8と述べたのはこのためであり、彼が実際に絵を描くときには、下書きのあとで、まずはじめに寒色系 の中間色だけで量 volume の外郭の暗部から彩色し始め、小さい寒色の斑点を画面全体に配置していく間、一部分ないし一物体だけを描きあげることはなかったという。*9セザンヌがある1つの事物から彩色し始めたり、1つの事物を1色で塗り分けたりすることをしないのは、知覚の中で起こり始める視野の「色の組織化」を、そして物の現れを、徐々に画布のなかに出現させていくためなのである。
 ここではじめに提起しておいた、印象派と色の関係に戻れば、画面を色の対照関係で構成すること、事物の形の知覚が色の知覚なしには成立しないと考えることはある意味で正しいが、一方でそれが印象派の限界となったということができる。印象派はたしかに色の「各部分の相互作用によって、印象の全体的な真実性を回復することになった。」( SNS16 )だがしかし、それと同時に、「雰囲気の描出や色調の分割が、物を埋没させ、物の固有の重さを消失させることになった」(同)とメルロ=ポンティは言う。一方、セザンヌにとっても、色の対照関係は重要な問題であったが、それは色の問題が、印象派の表現のなかで失われていった「物」の表現の問題に、物の「重さ」「堅固さ」「物質性」の表現の問題に関わる限りにおいて、なのである。


3 諸感覚の交流、事物の根源的な経験

 物の「重さ」「堅固さ」「物質性」を色で表現するとはどのようなことであるか。そのひとつの契機は、「シネステジー(共感覚)」といわれる現象である。心理学において、シネステジーとは、ある音を聞くとある色が見えるというような、1つの感覚が他の領域の感覚を引き起こす一種の異常現象として知られている。しかしメルロ=ポンティは、このような諸感覚が交流し、結びつきあうなかで、物が「相互感覚物 la chose intersensorielle 」( PP366 )となることが、われわれの知覚にとってはより根源的なものであると考える。
 例えばセザンヌは、色によって、事物の「重み」や「堅固さ」あるいは「奥行き」「匂い」まで描こうとする。 しかしそれらは色彩によって「暗示」されているわけではない。それは「根源的な知覚においては触覚と視覚の区別は知られていない」( SNS20 )からである。

体験された物は、さまざまの感覚所与をもととして、再発見されたり、再構成されたりするのではなく、それらの感覚所与が輝き出る中心として一気に示されるのだ。われわれは対象の奥行きや、ビロードのような触感や、やわらかさや、固さなどを見るのであり、それどころかセザンヌにいわせれば、対象の匂いまでも見るのである。もし画家が世界を表現しようと思うならば、色彩の配置が、そのなかにこの分かちえない全体を合んでいなければならない。( SNS20 )


 メルロ=ポンティによれば、物は視覚、触覚、聴覚、喚覚、味覚という諸感覚に分散して与えられるのではなく、それらはむしろ最初から「分かちえない全体」、統一性をもって経験される。*10そしてわれわれが物の統一性を経験することができるのは、「協働的総体 ensemble synergique 」( PP366 )としての身体の統一性を生きているからである。つまり身体は「並置された諸器官の総和」( PP270 )ではなく、「その全機能が世界内存在という一般的運動のなかで取り上げなおされ、たがいに結びつけられている1つの協働系」(同)として働くのである。例えば、背中や胸に感じられる亜麻や羊毛といった布地の肌触りは、それに触れていない手にも記憶され、次に手でその布地を触ったとしても、同じ手触りの同じ布地であるとすぐに思い出される。このように1つのある器官によって得ら れた触知覚はこの「協働系」としての身体を通じて「一挙に他の諸器官の言語に翻訳される」( PP366 )ことができる。
 物の知覚、経験は、この「協働系」としての身体がひとつの物に対して問いかけ、それに対して物が答えるという1つの運動、交流 communication である。この事物との交流のなかで、あたかも他人との交流においての彼、彼女の意図を察知し、理解するように、物が示す「未知の志向 intention étrangère 」( PP370 )を「捉え直し reprise 」(同)たり「完成」(同)したりするとき、われわれの身体と物は「対」(同)になる。それは、事物の分節化とわれわれの実存の分節化、われわれの身体の働きが、1つの布地の裏表のように一体となり、全くの同時に出現するような事態のことである。このとき「一切の知覚は1つの交わり communication もしくはひとつの合体 communion 」(同)であり、「私と現象のまったき共存」( PP368 )である。
 こうした事物との共存は、事物の色や大きさ、重さなどさまざまな事物の諸性質を1つずつ集めていくという形で成立するのではなく、事物がわれわれに与える導きにそって、われわれが「諸々の知覚能力の系 système 」( PP367 )としての身体を、事物の方へと集極させることによって生じるのである。物の奥行きや深みの現出も、視野の組織化における色の現出も、事物の知覚のひとつの契機ではあるが、それらの働きが、身体をもって〈見ること〉のうちで、ある事物へと方向づけられてこそ意味をもつ。この集極が最高点に達したとき、さまざまな感官の与件が1つの事物という「唯一の極へ向かって方向づけられる」( PP368 )とき、われわれはもはや「視覚にとっての実在」(同)とか「触覚にとっての実在」(同)のみではなく事物の「絶対的実在 réalité absolue 」(同)の経験に達することができる。
 林檎の「絶対的実在」の経験とは、眼差しが林檎のの向こう側へと回り込みながら、それが林檎の手触りへと翻訳され、また、林檎の赤みがかった黄色が、まだその堅く少し軽い手触りや甘酸っぱい匂いやまだ若い味わいへと 転調されていくような経験であり、そこにおいてはそうした私の身体全体の働きが林檎という1つの極に向かって収斂していき、林檎を最高の明瞭さをもって、ありありとそこに捉えているのである。
 画家が描こうとするのは、この事物の「絶対的実在」の経験である。ゆえに画家によって描かれるある物の上の色の配分は、「それだけで物が他の感官の問いに与えるであろうすべての応答を意味して」( PP368 )いなければならない。セザンヌ印象派のように色の反響のなかに物を見失うことはなかった。むしろセザンヌにとっては、メルロ=ボンティと同様に、この事物の「絶対的実在」の経験、「私と現象のまったき共存」の経験こそが先にあるのであって、この経験を色とその配置のなかに凝縮することが課題なのである。
 以上で見たように、われわれが事物を見るということは、その諸性質を把捉し、総合することではなく、事物との交流なのである。この交流のなかで、事物は「表情(表現) expression 」( PP372 )を持ち、われわれに語りかけてくる。「物と世界は、その表情が即座に理解される見慣れた顔のように、知覚的交わりに立ち現れる。」(同))物と世界の表情とは「それを構成する色と光の配列によってはじめであるものを表現する」(同)のであり、色という「物の布置 configuration 」(同)
から生まれるものである。セザンヌの絵画は、物や人の顔の「表情」そのものを描くのではなく、むしろ「物や顔の相貌をそれらの感性的布置のまったき復原によってとりもど」(同)し、色彩を通じて、われわれと事物の交流をもう1度画布の上で再開させようとする試みなのである。


おわりに

 以上で述べたように、メルロ=ポンティは、われわれに事物が与えられるときには時間の広がりや空間の広がりを含み込む知覚において「一挙に」与えられると考えた。空間や事物の奥行きが現れるのは、時間と運動を含み込んだ知覚を通してであるし、事物の色は視野全体の組織化のなかで捉えられ、それ以上に、色は事物の1つの性質としてではなく、「協働的総体」としての身体においてその事物の奥行きや手触り、匂いとともに与えられている。 世界が形をとりはじめるのは、眼差しが、時間の広がりや視野という空間の広がりを含みこみ、取りまとめつつ、 身体という「協働的総体」のなかで、ある1つの対象へと収斂していくことにおいてなのである。そしてはじめにも述べたように、これらの身体を通じてなにかを見るという経験は、われわれが世界へと定着し、内属するその仕方である。奥行きや物の形、色といったものは、この経験から切り取られた一部分にすぎず、科学的分析は、このそれぞれの部分を取り扱うことしかできない。ランダムドットステレオグラムは、立体視の「科学」「心理学」であり、印象派は光と色の「科学」である。それらはこの事物の経験の「全体」から、その一部を抽出して分析しているにすぎない。画家が絵を描くということは、この「全体」を、知覚がすでにしているように、描き出していくというこ となのである。メルロ=ポンティの『知覚の現象学』での試みは、科学的に分解、抽象され、分析の対象になる以前の生き生きとした事物の「全体」の経験を記述することであった。メルロ=ポンティにとって、セザンヌの絵画は〈見ること〉の「科学」や「心理学」ではなく、われわれの世界に内属するその仕方を明らかにしてくれる、 〈見ること〉の「現象学」の試みであったのである。絵画はそれが具象画か抽象画かに関わらず、われわれにとって根源的な世界の出現の経験を明らかにするものである。「絵画的意味」は、〈見ること〉を可能にするような身体の働きとして、われわれが眼差しをもったときからすでに存在する。このことをメルロ=ポンティは次のように語っている。

絵画と身体という2つの主題の聞に単純な類比関係を立てることが問題なのではない。どんなに僅かの知覚であれ、知覚によって開始された身体の表現の働きが、絵画や芸術に拡大されるのである。絵画的意味の領野は、 世界のなかに人聞が出現したときから、聞かれている。( PM117 )

本文中で引用されるメルロ=ポンティの文章の出典は、以下のように略記し、記号の後に原著のページ数を記す。

SC :『行動の構造』 La structure du comportement, Paris, PUF, 1942(『行動の構造』、滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1964年)

PP:『知覚の現象学』Phénoménologie de comportement, paris, Gallimard, 1945.(『知覚の現象学1 』、竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967年、『知覚の現象学2』、竹内芳郎・木田元・宮本忠雄訳、みすず書房、1974年)

SNS: 『意味と無意味』Sens et non-sens, Paris, Gallimard, 1996.(『意味と無意味』、滝浦静雄・粟津則雄・木田元・海老坂武訳、みすず書房、1983年)

PM: 『世界の散文』 La prose du monde, Paris, Gallimard, 1969.(『世界の散文』、滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1979年)

OE: 『限と精神』 L'oeil et l'esprit, Paris, Gallimard, 1964.(『眼と精神』、滝浦静雄木田元訳、みすず書房、1966年、収録)

また引用するに際しては、基本的には邦訳書の文章をそのまま使用しているが、文脈の都合上、若干訳語を変更したところがある。

*1:下條信輔、『視覚の冒険』、産業図書、1955年参照

*2:メルローポンティは『知覚の現象学』の第3部において、フッサールにならって、すべての世界の経験の根底に時間の総合があると考えている。しかしこの空間の記述においては、むしろ時間と空間は表裏一体をなしていると はいえないだろうか。メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の最後においでしたように、時間意識を空間や身体の運動と切り離して考えることは果たして適切であったかどうか、このことは次の課題として考えたい。また奥行き の経験における空間的−時間的地平の働きについては、 Sue. L. Cataldi, Emotion, Depth, and Flesh, State University of New york, 1993, p. 42~43 参照。

*3:セザンヌの作品が含み込んでいるこの知覚の厚みは、われわれがセザンヌの作品を見る際に、今度は絵画を見るわれわれの知覚によって、また繰り広げられていくということもできると思われる。このとき「制作の論理」と 「観照の論理」は同じ眼の働きを介して交錯することになるであろう。『形象という経験 絵画・意味・解釈』、三木順子著、勁草書房、2002年、84〜88頁参照。

*4:「形態 forme 」、「形態化 mettre en forme 」とはゲシュタルト心理学から導入された概念で、一般的には部分に還元できない全体、ゲシュタルト Gestalt, Gestaltung にあたる。メルロ=ポンティは、知覚とは、諸刺激の和に還元することのできないような全体的な秩序が生成することであると考えた。「形態化」とは単に形の問題にはとどまらず、この全体的な秩序の生成に関係する概念である。

*5:メルロ=ポンティは後期には、〈物がそこにある〉ということの根源的経験としての奥行きを世界の「嵩 volume 」の経験として捉える。──すべてが同時にあり、高さ、大きさ、距離がそこからの抽象でしかない全体的な「場所」の経験であり、〈物 がそこにある〉という言い方で一口に言い表される〈かさばりというもの voluminosité 〉の経験なのである。セザンヌが奥行きを追求しているとき、彼はこの〈存在の燃えひろがり〉をこそ求めているのであり、したがって奥行きは〈空間〉のあらゆる様式のなかに、〈形〉のなかにさえあるのだ。( OE65 )──「目と精神」において、「嵩」としての奥行きは、すべての見えるものを可能にしつつ、自らは見えないものにとど まるものであると言われている。ここにおいては、メルロ=ポンティ後期思想に見られる「見えるものと見えないもの」という問題系が含まれているが、それは本論文の目的をこえることになるため、ここでは扱わず、次回の課題としたい。なお、メルロ=ポンティの後期の思想における奥行きと〈肉〉の概念については L. Cataldi, 1993, p57-70 参照。

*6:Joachim Gasquet, CÉZANNE, Cynara, 1988, p. 151

*7:この「水準」の問題もまた後期の思想においては見えるものを可能にする「見えないもの」の問題へと編み直されていく。「嵩」や「水準」といった概念は、メルロ=ポンティの後期思想における絵画論の位置づけとともに、考察されなおす必要があるだろう。

*8:セザンヌの構図』、アール・ロラン著、内田園生訳、美術出版社、1972年、37頁

*9:前掲書、41頁

*10:下条氏は、従来の知覚心理学では、脳において、事物の奥行き、色、匂いや動きに反応するニューロン群が特定的に存在し、各ニューロンはバラバラのモジュールを形成すると考えられてきたが、近年の脳科学の研究によって、 じつはそれらのニューロンの神経活動は「同期」し、相互に作用して事物の特徴の統合を行っているということが 明らかになりつつある、と述べている。つまり脳においては、別々の入力を処理して「統合」するというよりも、 別々の入力に関係するニューロンが同期し、1つの事物の性質を一挙にあきらかにするような「自己組織化」が行 われているということである。メルロ=ポンティのいう事物の「全体的な」経験について、全く逆の脳科学の立場からこのような議論がされていることは興味深い。「オートノマスな脳・・知覚の現象学、脳の現象学」、下条信輔、『談』 no. 64 TASK 2000年。