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ウィルダネスとホームレスネス ――荒野・大海原、そして、家のないこと――  河野哲也

わたしたちは、外部で生きています。とはいえそれは、不在の空無において、ということではありません。私たちがどこにいようと、場は生じるのです。わたしたちの生ける身体という建築とは別の、いっさいの建築よりも以前に。 イリガライ『基本的情念』96ページ

序:ペンシルヴェニア、池袋

 「建てること、住むこと」が何であるかを知るには、「建てられないこと」「住めないこと」と対照させなければならない。
 個人的経験から始めよう。筆者が、30数年前に、短期間滞在したピッツバーグ郊外からバスで移動したときに見た風景は、それまで見たこともないものであった。乾ききった土と砂、小石、低い灌木、あとはそれらを噴き上げる風だけという沙漠が延々と地平線まで続く。人間の足では、水のある場所までたどり着けるかどうかが怪しい。その荒涼とした人間を拒絶するような自然は、あまりに神々しく、美しかった。放棄され廃墟となった安普請の家や、焼けて錆び、骨だけになった自動車は、わびさびの世界の極美であり、私を陶然とさせた。人の住まない荒野、野性動物と直 面する森林、大海原。これらがウィルダネスだ。
 豊島区立池袋西口公園。池袋の西口バスターミナルに隣接し、東京芸術劇場の前庭となる公園で、筆者の職場である大学に近い。この場所には、かつては豊島師範学校があったが、戦後すぐには闇市となり、それが撤去された後でもただの空き地のような状態がしばらく続いた。中央に噴水が作られ、東京芸術劇場の完成によってかなり雰囲気は変わった。しかし、さまざまなイベントが行われているとはいえ、全体にどこか陰った雰囲気があり、日比谷公園のように広々とした憩いの場とはなっていない。南側に大きな樹木があり、雨や日光を避けられる。そこに、家を失っている人びとが自家製の青いテントを張っている。公共の場所に、「私であること」を奪われた人びとが暮らしている。
一見すると対極にあるかのような北米の荒野と東京の公園であるが、それらは、移動のための場所、住むに適さない場所として共通している。しかし、両者の住めないことのもたらす質は大きく異なっている。家に住めないでいること (ホームレスネス)とは何か。この問いを、メルロ=ポンティの身体論を手掛かりにして、とくに、そこに暗黙に含まれている境界という概念を鍵にしながら考察してみたい。


1.身体の脆弱性

 身体の原型を卵だと仮定してみよう。あるいは、細胞でもよい。卵が卵たりえているのは、すべてが交通可能な宇宙の一部の場所に、その交通の内容と仕方に制限を加え、内部と外部を分ける境界線を引くことによってである。この境界の内部が自己と呼ばれる。境界の問題は、身体論にとって中心課題である。
メルロ=ポンティの『知覚の現象学』における幻影肢や身体図式の議論、晩年の「差異」「裂け目」「隔たり」「可逆性」といった諸概念においては、身体の境界が暗然たるテーマとなっている(Merleau-Ponty 1967, 1974, 1989)。身体の境界を問えるということは、私たちの自己が不分明な区分しか持っていないことを意味している。
 私たちは皮膚という境界をもっている。皮膚の下には肉と脂肪、骨があり、さらに下には臓器が存在する。皮膚はこれらの中身を守る役割をもっている。しかし、肉や脂肪、骨、内臓は何のためにあるのだろうか。生存のため、すなわち、自己を維持するため。では、その守るべき自己とは、身体のなかの何であるか。つまり、私の身体の本質とは何か。それは、肉や脂肪、骨、内臓のような中身ではなく、まさしく皮膚そのものであろう。私たちの本質は、皮膚がつくる境界にある。皮膚は、自己の内側を守ることによって、再帰的に自己を維持する。私たちの自己とは、この薄皮のことである。私たちの身体は、カフカの『掟の門』のように、門の背後に何もないかもしれない門である。
 だが、私たちの皮膚はもろい。熱や光などのエネルギー、有害な化学物質などに抵抗する力は十分ではない。人間はまったく裸のままですごすことなどできはしない。熱帯においてさえ、雨露をしのぐ道具が必要であり、隠れ場所が必要だ。裸体で暮らせないという私たちの根本的な傷つきやすさ、つまり脆弱性は、私たちが最初から、自分を補う存在を世界に見出さねばならないことを意味している。
 それは、私たちのいわゆる「本能」が貧弱であり、生まれた後にたくさんの学習を必要としていることと、ちょうどペアを為している。生物の身体の構造は、その生物から期待しうる性能を示す指標と言える。たとえば、昆虫の構造の固定性はその知能を制約するほど強固なものだが、人体の構造の脆弱性は、可塑性と言い換えることもできるものであり、人間の知能の大きな拡張を予言している。
人間における身体の脆弱性と「本能」の貧弱は、ジャン・ジャック・ルソーが言う完成可能性、すなわち、自然において自分に欠けているものを代補し、自然以上に高められることの現れでもある。代補の働きは、メルロ=ポンティが取り上げた、視覚障害者が使う白丈や、自動車の運転の例によく示されている。私たちの身体は白丈や自動車まで膨れ上がり、その膨張によって肉体が備えられなかった能力を手に入れる。
こうして、私たちの境界=自己は、内部の血肉によってだけではなく、世界の事物によっても支えられる。身体の不完全さを埋めるのは、しばしば人工物である。衣服と血液、白丈と骨・筋肉、クリームと免疫システムは、境界の維持にとって等価に働く。外部の事物を利用することで私たちは境界を維持する。そうして裸の自分の能力を超える。自己維持がエンハンスメントと地続きにつながってしまい、その区別が曖昧になるのは、世界に存在する代補物の能力が強力だからであり(とくにテクノロジーの産物)、そこに接続することが自己の思わぬ拡大に至るからである。
 ここでの問題は、自己の境界が拡大するという現象が何を意味するかである。それは、自己が外部の様々なものと境界を接(インターフェイス )し、内部外部の区別を越境してしまうということなのか。それとも、それらの外部のものを、生身の自己=皮膚の境界を守るための手段としたということなのか。私の境界の意味が問われている。


2.住むことの女性的前提

 家は、第2の卵である。家は、光、熱、空気、水分、生物などの物質を遮蔽する面によって成立する。遮蔽面は、家の内部と外部を隔てる境界となる。しかし、それらは完全な遮断を行うのではなく、同時的ないし継起的に、物質を選択して内部に導入するように作られている。たとえば、障子は、強度を落として室内に光を導入する。鍵の付いた扉は、鍵をもった動物と、招かれた動物のみを内部に入れる。窓はときに開かれ、外気と光が取り込まれる。家は、身体における皮膚や汗腺、口、肛門と同じような境界設定機能を果たしているように思われる。
 家は、皮膚の機能を代補しながら、人間の生身の皮膚の境界を守る。家は、自己の外殻となり、個人が個人であることを補綴する。しかしながら、家は、白丈やテニスラケット、自動車、あるいはパソコンのように、自己の身体の一部となるものではない。家は自己の身体に連動して動くということはなく、自分の身体の一部となることはない。その意味で、家はどこまでも自己の身体の外部にあり、せいぜい身体と同型であるような外部環境に他ならない。家と身体は、類比的、平行的、相互反射的であるにすぎない。
とはいえ、家は、身体を持つ者のみが必要とするのであり、純粋な精神には家は不要である。超越的な精神なるものにとっては、隠れる必要などないし、それ以前に、精神に境界などないからだ。純粋精神はホームレスであることを苦痛に思わない。
ガストン・バシュラール (Bachelard 1957)によれば、家(建築物一般ではない)の第1の機能は、世界のなかに安らげる片隅をつくり、動物に避難所を与えることである。家は、疲労や睡眠、性交、育児といった身体の脆弱性が際立つときに、とくに必要とされ、家への帰還は、身体に回復と休息の時間を与えて、生活にリズムを与える。
 避難所としての家は、自分の所有物を蓄えることを可能にし、その保全を確かにする。したがって、家は、個別化、安全、所有物の保全、さらに言えば、プライバシーといった価値を生み出す場所であり、それらを擁護する場所である (Cf. Young 1997, chap.VII; 笹沼 2008)。その意味で、家は人権の保障にとって欠かせない要件である。
 だが注意すべきは、家を建てることや家に住むことは、地球に棲むことと同一視できないことだ。現代哲学では、ときに過剰に家の価値が強調されるが、家を建て、そこに暮らすことは、地球に棲むことのように基礎的ではない。ゲイル・ワイス (Weiss 2008, pp.138-139)が指摘するように、個人のアイデンティティの陶冶のために家の必要性をあまりに強調することは、人間性について誤解を招くと同時に、倫理的に危険でさえある。地球に棲むことは、家に住むことからはっきりと区別しなければならない。
人間は移動し続けることができないのと同じほど、いやそれ以上に、同じ場所に留まり続けることはできない。私たちは、植物のように根の生えた存在ではなく、移動し、運動し、行動する動物である。内部と外部の境界が存在することについては、動物と植物に違いはないが、動物は自分で移動するところに本質的な特徴がある。
  私たち動物が移動し続ける最大の理由は、食糧獲得のためである。一か所に留まり続けることは、飢えを意味する。むしろ移動の観点から、ある特定の場所に住むということをはじめて理解できる。住む場所は、移動のなかで選択されるからだ。ここで問い質すべきは、定住が状態であり、移動がその逸脱であるという常識であり、自分の存在の根源を為すのは、故郷と呼ばれる最初の定住場所のことだとする常識である。だが、移動しない者には、そもそも故郷などない。
 移動が周期性を持ち、その行程のなかに同じ場所が選ばれているときに、「帰る」という言い方がなされる。しかし、その帰還する場所が以前とまるで違っていたならば、空間的には同一でも、「帰った」ことにはならないであろう。たとえば、日本において、故郷の親が見知らぬ他人と再婚し、多くの里子を受けいれ、家はアヴァンギャルドなものに改築され、近所の里山は温暖化のせいで熱帯風のジャングルになり、夜になれば得体のしれない獣の遠吠えが聞こえたとするならば、それは訪問する場所であっても、帰る場所であると言えるだろうか。帰る場所には、ある程度の通時的な同一性が必要とされる。故郷には、移動する者の円環的リズムを形成するために、保守的であることが要請されているのである。人はしばしば円環性・回帰性に安心を覚える。直線は恐ろしい。おそらく、本当は、宇宙は円環せず、何ひとつとして回帰することなどないからだ。円環性と帰郷とは、人間的な、いや、おそらく動物的な秩序だ。もちろん、人はどこかに帰郷する必然性などないのだが。
 フェミニズム現象学の中心的な研究者、エリザベス・グローツ(Grosz 1995; 2001; 2008)は、都市と建築に関する身体論的考察で知られる。彼女によれば、家を建てることに重要な人間的意義を見いだす哲学では、2つの前提がしばしば無視されているという。ひとつは、家を建てるには、まず、その材料を見いださねばならないことである。第2に、家を建てる場所を探さねばならないことである。このどちらもが、自然の中に分け入らねば成立しない労働である。
家を作る材料は、自然の中から見出され、丁寧に加工されねばならない。グローツは、建てるという男性的な行為に焦点を当てる哲学は、自然から建築の材料を取り出し、準備し、出来上がった家をメンテナンスするという建築行為の質料的な側面、あるいは、女性的な行為を背景に追いやってきたと主張する。
 また、家を建てるには、そのための適切な場所(サイト)をまず見つけなければならない。家の構造が作り出す遮蔽は、それが立てられる場所の自然的・生態系的特性、すなわち、気候、地形、水利、植生、動物の生態などに応じたものでなければならない。家を建てることを文化的事業と見なして重視する哲学は、相変わらず、 「男性=文化」を支える 「女性=自然」という図式の中で、後者の先在性と価値を忘れてきたのである。グローツは言う。「文化は、自然を支配し、自然の限界を変化させることによって形成されてきた。この意味において、自然とは、男性的(文化的)生産性が女性的(自然的)再生産・繁殖にとって代わり、追い越すように、文化が働きかける受動性なのである」 (Grosz 1995, p.106)。
建てて住むことが、成立するためには、まずは、棲むことに適した場所を見つけ、素材を集めねばならない(鳥の巣作りを想起せよ)。つまり、移動する存在のみが、住むことができる。植物は生えることはあっても、住むことはない。家は、移動における周期的な帰還と休息の場所である。
多くの社会では、男性の家系 (出自の系列と資産)を維持するために、女性を交換してきた。女性に不動産を相続させず、名字を夫側に代えるように命じてきた。その意味で、女性から家を奪い、女性に家を与えなかった。日本では、「女三界(さんがい、全世界のこと)に家なし」とさえ、言ってきたではないか (中世前期までは異なるが)。フェミニズムが指摘するように、家の思想はしばしば女性に敵対的だ。
 女性は移動する存在だったと言ってよい。イリガライの表現を使えば、女は「流体」だ(Irigaray 1987, pp.135-154)。イリガライは『空気の忘却:マルチン・ハイデガーにおける』という著作のなかで、ハイデガーを含めて、西洋哲学は、地水火風の四元素のうち、(土)地に特権的な地位を与え、地の剛体性を基本メタファーとした形而上学を形成してきたと批判する (Irigaray 1983, pp.9-43)。男性の形而上学は、流動的な存在、とくに空気をもっとも無視する。空気は、形がなく、境界がなく、組み立てることができない。男性の形而上学の規定にそぐわない存在だからだ。
 しかし、私たちは、空気のなかにこそ住むのであり、地・水・火のなかには住めない。どのような生物も空気を必要とする。空気が一切、動くことなく、その流動性によって、私たちの居るこの場所に森林や海から生まれる酸素を供給してくれなければ、私たちはすぐ窒息する。私たちが移動できるのは、まず空気のなか、そして次に、水のなかである。空気が媒質となっているからこそ、光が伝わり、熱が伝わり、その振動が伝わり、私たちは知覚することができる。空気は流動的存在の代表だ。この最も基底的な存在である空気は、しかし、男性的形而上学においてすっかり忘却されてきたのである。
 そして、男性は、流体である女性にこそ、家の維持を命じてきた。女性から家を奪いながら、女性を家としてきたのである。空気を土に変えようとしてきた。イリガライは述べる。「わたしはあなたの家でした。…あなたが勝手気ままにつくったわたしの身体とは別の身体を、わたしはいったい、もったことがあるでしょうか? あなたが住まいとしてわたしに望んだ皮膚とは別の皮膚を、わたしはいったい、感じたことがあるでしょうか?」(Irigaray 1989, p.67)。
 「憩いの家」、「安らぎの家」といった表現は、先の故郷のように、女性のジェンダーに基づいたイメージをもっていることは明らかである。このことは、移動することと住むことの逆説的な関係を表現していないだろうか。すなわち、移動する者こそが家を建てる基礎、すなわち、素材と場所を確保すること。そして、移動しない者は、移動する者が提供した素材と場所をもとにしながら、家を構築して、空間を遮蔽し、内部と外部を分断し、内部をテリトリーとするということである。
 「男は、自然を専有化することによってのみ、自分の世界を築いてきたのである」 (Irigaray 1983, p.23)。


3.移動とウィルダネス

 移動は大人数の集団には向かない行動である。戦争で生じる多数の難民の移動が、どのくらい困窮と混乱をもたらすかは知られていよう。大人数で住むことにはメリットがあり、それを経済学では都市の集積効果と呼ぶが、移動の場合には、逆に大人数のデメリットが目立つようになる。大人数の人間が集団を作り、維持するには、固定的な施設を必要としていることの証である。もっとも手軽な移動は、ひとり、ないし少人数での移動である。
 地球に棲むことは、固定的な家に住むことに先行する。移動しながら生活する人々は、遊牧民であれ、狩猟採集民であれ、水上生活者であれ、旅行者であれ、家をポータブルなものに限定して、広い範囲に渡って棲む。移動者の棲家は、テリトリーと呼ぶべき占有地ではなく、広大な自然のニッチだ。地球だ。移動する人びとにとっての休息の場は、衣服の延長に他ならない寝袋であり、もう少し大きい場合には、テントのような折りたためる家である。これらが移動する者の家である。資産は、貴金属や宝石、高級な衣服や装飾品、馬などの動物といった交換できる動産に限定される。あるいは、現代であれば、高級な腕時計や自動車もそうかもしれない。これらのものを軽蔑してきた哲学が、どのような通俗性と虚栄心に基づいたものであるかを自覚しよう。
 しかし、移動する人びとはどのような場所でも休息と睡眠をとるわけではない。家が極小であるからこそ、場所が慎重に選ばれねばならない。通常の家屋は、かなり強固な遮蔽面によって外部を遮断しているが、ポータブルな家の場合には、その強度が弱ければ弱いほど、遮蔽性を外部の環境から借りてくる必要がある。
人びとが移動する理由は、食料獲得と交易である。遊牧民は、家畜が牧草を食べつくさないように、気候の変動や家畜の状況にあわせながら、いくつかの専有的牧草地に、ある程度定まった周期で巡回する。食料である家畜のそのまた食料、つまり餌を確保するために、餌となる植物の生長のリズムに合わせて移動する。移動する人は、休息をとるときも、食を得るときにも、自己の環境への依存性を実感する。
移動する人びと、たとえば、遊牧や狩猟採集を生業とする人びとが出会う自然は、人間の手で制御された自然ではなく、ウィルダネスである。人間の手のついていない野性の自然を、英語では「ウィルダネス(野生・荒野、あるいは、大海原)wilderness」と呼ぶ(Abby 1995, p.315)。ウィルダネスとは、人々が移動生活のときに出会う自然である。それは、荒野、砂漠や沙漠、山岳地帯、森林である。それらの場所は、農業によって人為的にコントロールされた自然とは異なる。農業を成立させるには相当数の人数がいる。大人数によって開墾された土地やそれに隣接する土地は、自然とは呼ばれても、ウィルダネスとは決して呼ばれない。日本では海以外にほとんどウィルダネスはない。
 荒野、砂漠や沙漠、山岳地帯には人間にとっての食料となるものが乏しく、じつは、森林や海も同様である。遊牧のような家畜がいる生活の場合でも、広域を移動して、水と食料、餌を確保しなければならない。また、ウィルダネスは、野性動物が生息する場所でもある。それらの存在は、ときに人間や家畜に犠牲を要求する。それは、少しの準備不足や失敗によっても落命しかねない厳しい環境である。
ウィルダネスは、しばしば、人間の有用性の観点からは価値を認められない荒涼たる場所である。ウィルダネスは、廃墟のように剥き出しの諸存在が、美しく、神々しく、それ自身の価値を主張している場所である。ディープ・エコロジーは、人間の認識とは独立に自然そのものに価値が宿っているとする思想であるが、ウィルダネスを愛するかどうかは、その人がディープ・エコロジーを理解しているかどうか(賛成しているかどうかではなくても)の試金石となるだろう。というのも、ディープ・エコロジーでは、無意味さや空虚さ、あるいは死を人間に与える存在に対しても、価値を認めるかどうかが問われているからである。ディープ・エコロジーは、移動する者の思想であり、価値あるものとは耕されたものだとする思考法に毒された者には理解できない。
 ウィルダネスは、移動すべき場所であり、食料の不足ゆえに、長い時間、とくに大人数で留まることは困難である。もちろん、大規模に開墾すれば、荒野を農地に変えることができるだろうし、居住可能な宅地にすることもできよう。しかし、そのような集団生活ができる場所にしてしまえば、その場所はウィルダネスではなくなり、人間がテリトリーを作れば、野性動物はいなくなる。そこは、ワイルドな場所ではなく、ドメスティックな場所となる。ウィルダネスに接触するためには、人は大きな集団のなかにいることはできない。野性とは、人間の大集団性と相反する場所である。
 人が移動するのは、棲むためのよりよい場所を発見するためである。このことは、ウィルダネスのなかを移動する人びとにあっても、国境を越えてくる難民や移動労働者であっても変わりない。休息や睡眠は、よりよい生活のためのかりそめの停止である。一体、誰が、より豊かな食糧のある場所があるのに、あるいは、よりよい職を得られる場所があるのに、現在の家屋のなかに留まるであろうか。


4.機能的内破と改変環境

 移動は、個の境界を明確にする。移動によってこそ、動物の内部と外部は知覚的に分たれる。メルロ=ポンティの晩年の概念「可逆性」が含意しているのは、移動する存在こそが知覚する存在であり、その移動の境界面にこそ対象性、すなわち、外部性が生じるということだ。動くものこそが感じるものである。メルロ=ポンティが、白丈や自動車の例で示していることは、運動する身体の境界面において対象が感じられるということである。
近代哲学は、運動と知覚とをまったく異質の心的能力と考える。これは、移動する者の哲学ではない。しかし古代ギリシャには、これと異なった心の概念、すなわち、 「魂(アニマ)」が存在した。アリストテレスによれば、魂は、栄養摂取する能力、感覚する能力、思考する能力、動(運動変化)によって規定される。魂をもつものともたないものとの相違を顕著に示すものは、自発的な動(運動変化)と感覚である。自ら運動するもの、つまり動物だけが感受性をもつ。メルロ=ポンティが復権させようとしていたのは、この古代の「魂」であった。
私たちは、自分の身体運動に連動させられる事物を、自分の身体の延長とすることができる。ドーキンスによれば、動物の造作物は動物の身体の延長物であるという。つまり、クモの巣やビーバーのダム、シロアリの塚、ヤドカリの貝殻などの造作物は、それらの生物の身体器官とその行動様式の延長物であり、「延長された表現型(extended phenotype)」だというのである(Dawkins 1987)。
 しかし、このドーキンスの見解には、少し留保が必要だろう。先に述べたように、自分の身体と共に移動させ、運動させることのできる事物と、地面に据え付けられ、動かすことのできないものでは、動物にとっては意味が異なる。家・巣は、身体と同型的であるが、身体運動と連動しないがゆえに、身体の真の延長物とはならない。自己の感覚的な境界は、自動車のタイヤには延長しても、家の外壁には延長しない。
私は、身につけ、動かすことができ、それによって自己の感覚的境界さえも変化させるものを 「機能的内破物」と呼ぶことにしたい。たとえば、白丈や自動車などは、身体に身につけて運動的に使用することで、身体の内側へと取り込まれる。感覚の境界は、それらの物の外殻へと広がる。機能的内破物は、魂の一部を担うのだ。
 それに対して、身体機能を代補しながらも、すなわち、機能的には身体の延長でありながらも、あくまでそれ自体は動物身体の境界の外部に存在しつづける事物を、 「改変環境」と呼ぶことにしたい。家やビーバーのダム、シロアリの塚が改変環境であるのは、そのなかを動物が移動できる空間があるからである。
 移動するためには身軽でなければならない。私たちは、普段、自分をエンハンスしてくれるさまざまな人工物――機能的内破物と改変環境、たとえば、道具や建築物――に満ちた定住社会に暮らしている。しかし、移動の際には、改変環境は置き去りにせざるを得ず、機能的内破物の多くも持ってはいけない。私たちは、ウィルダネスのなかでは、ほとんど生身の身体に戻りながら、天蓋を天井とし、大地を床として暮らし、そのなかで小さなベッド (寝袋、テントなど)を据えられる場所を探す。繰り返すが、移動する者は、裸の自己がいかに環境に依存した存在であるかを実感する。家に住む者は、その温もりの中で自己を肥大させ、ときに、私たちの生が、自分ではままならない諸条件に制約された、傷つきやすく、腐りやすい動物の生命であることを忘却する。ウィルダネスは、存在の脂肪を引き絞り、己の脆弱性を露わにさせる。
 こうして、私は再び脆弱な身体へと戻っていく。移動とは、それらの人工物との習慣的結合を解き、脆弱な裸の自己への回帰することである。人はそうした代価を払うことによってしか移動できないし、そして、移動を通してしか、よりよい場所を見つけることができないのである。
現代においては、狩猟採集民や遊牧民の移動生活は、多くの場合、諸国家によって公認されている。カナダとアメリカのアラスカを跨いで移動するイヌイットがその一例だ。それらの人びとが、彼らの伝統的な生活形態において、よりよい食を得られる場所を求めて移動することは、確固たる権利としてすでに認められている。しかし、難民や移動労働者の場合は、事情が異なってくる。難民や移動労働者は、よりよい場所を見つけるという意図において、他のあらゆる移動する者と異ならないにもかかわらず、国境という境界によってしばしば移動と居住が制限される。
 狩猟採集民や遊牧民はポータブルな家をもって移動する。あるいは、水上生活者は、停泊も移動もできる船を我が家とする。しかし、難民や移動労働者のほとんどは、そのような生活形態を習慣としておらず、移動した先では、そのような生活形態は許されない。受け入れ国が食・職を与えない場合には、家を建てることもむずかしい。こうした場合、難民や移動労働者は、家に住めない状態 (ホームレス)へと落ち込んでいく。彼・彼女らは、伝統的な狩猟採集民や遊牧民の場合と異なり、家を剥奪されている。この違いはどこから来るのだろうか。それは、伝統的な狩猟採集民や遊牧民が、ウィルダネスのなかを移動し、他方で、難民や移動労働者は、定住社会を移動するからだ。難民や移動労働者は、改変環境に満ちた世界に移動し、それらのものに自分の身体を適合させて、ある機能を果たさねばならないとされる。


5.居住の二形態:国家と都市と身体と

 「場所」の現象学者であるエドワード・ケイシーは、居住 (dwelling)には二つの形態があることを指摘する(Casey 1993, pp.132-145; cf. Casey 2008)。ひとつは、ヘスティア的居住であり、もうひとつはヘルメス的居住である。
 ヘスティアは、ギリシャ神話におけるかまどの女神であり、家と家族的生活の中心を意味する象徴である。ヘスティア的な居住をするための建築物は、求心的であり、円的であり、自己閉鎖的である。また、ヘスティア的な居住は、かまどがそうであるように、上方へと向かって開き、垂直的方向性をもつ。天と地、精神性と身体性の二極化が示される。閉鎖性と垂直性、あるいは階層性が、ヘスティア的居住の特徴である。
 これに対して、ギリシャ神話のヘルメスは、旅人、泥棒、商業、羊飼いの守護神である。ヘルメスは、いわば、交通と移動、コミュニケーションの神である。ヘルメス的居住のための建築物は、直線的であり、水平的であり、中心をもたず、あらゆる場所が周辺的である。ケイシーによれば、建築物をこれらの形態で分類することができるが、都市の形態に関しても、この2つのパターンを見いだすことができるという。
 さらに、ケイシーに従えば、2つの居住形態は、2種類の身体行動とも関係している。ヘスティア的な居住は、ドメスティックな生活における習慣的な身体運動と記憶に結びつく。ドメスティックな生活空間における親密性と記憶可能性は、壁に囲まれた住居内部を知悉していることから可能になる。身体は環境に据え付けられる。これに対して、ヘルメス的な居住は、非習慣的で、偶発的、脱中心化した行為に結びつくが、それは、公的な空間や境界の外部の開かれた空間を移動するとき に生まれるものである。
 ケイシーは指摘していないが、時間性と空間性の配分も、ヘスティア的居住とヘルメス的居住では異なってくるだろう。居住場所が固定しているがゆえに、ヘスティア的居住では、時間性と空間性が切り離され気味になりながら、時間性の方が重んじられる。経験と知識といった精神的なものは、時間性・歴史性に結びつく。ヘルメス的居住では、時間と空間は切り離されない。場所に結びついた経験など局所的なものにすぎず、初めての場所と時間ではかつての知識は通用しない。同じ場所での同一性と変化としての歴史性は重んじられないはずである。ポータブルであること、移調可能であること、交換可能であること。これらが貴重なものの特徴である。重くて動かないものは、むしろ物質的なものの特徴であろう。
 さて、ケイシーによれば、この2つの居住形態は排他的ではなく、相補的でもある。たしかに、実際、遊牧民が交易相手として定住農民を必要としており、定住農民がある種の農作を専業とするには、商業による交換と特産物の割り振りが前提となっている。この点において、ケイシーは正しい。
 ケイシーは、いくつかの都市を2つの居住形態で分類しているが、現代社会の都市は、その2つの居住形態をともに含んだハイブリッドであると言えよう。都市のなかには、家があり、ときにヘスティア的な建造物や場所も存在する。しかし、現代の都市は、道路、鉄道、地下鉄、航空路線などさまざまな交通網で覆われ、無線有線の連絡手段が無数に存在する。商業とサービス業が中心の都市では、動かないでは、仕事ができず、食・職を得られない。都市の境界は、曖昧なままに周辺地域と接続している。都市とは、交通とコミュニケーションが行きかい、それ自身が増殖する空間であり、まさしく、ヘルメス的居住の場である。都市におけるヘスティア的居住とヘルメス的居住の混合を象徴しているのが、賃貸住宅である。それは、次の場所へと移動するための仮のニッチである。
 したがって、グローツ(Grosz 1995, p.107)も指摘するように、都市は国家とは大きく異なることに注意しよう。国家は、人びとの活動を組織し、階層化し、共同化させる。国家は、体系的で均衡的で堅牢である。
 家と国家は、しばしば身体と類比的に語られてきた。家長・王が頭であり、女・子ども・人々は胴体や手足と見なされてきた。あるいは、共和制の国民国家では、人びとが集合してひとつの身体を作り出すという比喩が存在した。そして、国境と皮膚は類比的な機能をもつことになる。
 注目すべきは、そこで国家や家に比較される身体とは、裸の身体、つまり、その境界が生身の皮膚にある身体である。これは、移動するものの身体である。ここでも、家と国家と比較して語られているのは、移動する者の身体である。家・国家と身体を類比的に語る立場は、移動する者を家・国家の素材として想定しているのだ。
 ただし、家と国家と身体の類比的関係は、いま述べたほど単純ではない。皮膚という身体的境界は、熱、光、化学物質などの透過を制限する。家の遮蔽面も同様に、さまざまな物理的作用から内部を遮断する。しかし、国境はそうではない。当然だが、国境という規約的存在者は、それ自身としては、物理的作用を防ぐことができない。国境が制限できるのは、人間とそれに伴う物流や金融である。家も人間や動物の出入りを制限できる。
 他方、人間の身体は、動物との出会いを制限することができないか、あるいはきわめて困難である。身体の境界は、家の境界と部分的に似ているが、国境とは似ていない。家の境界と国境とは部分的に似ている。したがって、国家と身体は、実は類似関係にない。国家は、身体の機能的内破物ではありえず、むしろ、家と同じく、一種の改変環境であり、身体の外部に留まる。社会はしばしば「組織されている organized 」と表現されるが、じつは社会は生物と比較できるほどには似ていな い。社会は、「有機的 organic 」、すなわち、全体が相互に調整するように設えられているとは言えないからである。
  別の観点からも、身体と国家は似ていない。身体は、自己調整的で自己目的的あるが、国家には内在的な目的がない(よって政策が必要となる)。身体は不可分割的であり、分割されれば全部分が死亡するが、国家は離散集合するだけであり、分裂して2つの国家になることも可能である。身体の欲求は全身から発しているが、国家の方向性は部分、すなわち、一部の人びとから出される。したがって、国家は身体のあり方からはまるで遠いのである。
  他方、都市と身体との関係は、まったく類比的には語られることはない。両者はそれほど似ていない。境界をもつものとしての身体と比較するには、都市はあまりに形がなく、あまりに流動的で、あまりに部分的、離散的である。都市と身体は、相似的なものではありえない。
 個人と都市の関係は接続的である。都市は、個人の身体と境界を接(インターフェイス )し、関係性の流れを作り出す。グローツは、以下の4つの身体──都市のインターフェイスを取り上げている(Grosz, 1995, p.109)。都市は、知覚的情報を方向付ける。都市は、公私の空間や地域を分割することで、家族的・性的・ 社会的関係を方向付ける。都市は、物品やサービス、情報の流通を方向付ける。都市は、社会的ルールや期待が内在化される文脈を作り出す。
 都市は、単なる場所というよりも、移動と接続を本質とする流体のようなものである。この意味で、都市は、身体自身の持つ自己の境界を越境する力、流体性に対応している。ケイシーは、次のように述べる。「ホームレスの人々が、多くの点で家と対極的である都市のなかにこそ見出されるのは、ほとんど驚くべきことではない。確かに、都市は家を含む。しかし、その要求と気晴らしの能力において、都市は、私たちをつねにストリートに出るように誘惑する。都市は、私たちを家から連れ出し、より不安定な、ときに敵対的な家庭の外の世界へと連れ出す」(Casey 1993, p.180)。
 ケイシーによるヘスティア的居住の強調に抗して、私は、ヘルメス的居住の根本性を主張したい。土地の形而上学に対して、空気の生態学が先行すべきように、固定的居住に対して、移動する棲息が先行すべきである。私たち人間は、根本的に、より良い場所を探して移動する存在だからである。都市が家から私たちを連れ出すとケイシーは言うが、それは、私たちが移動する者だからである。私たちは、皆、おそらくケニア付近から長い旅に出て、いまだに旅をしているのだ。
 移動する者、すなわち、動物は、習慣的・反復的生活に留まることはできない。習慣形成を可能にするのは、まさしく新しい環境への適応能力であり、移動する能力である。その能力は、機械的な繰り返しを動物に許しはしない。学習と記憶の能力が高い動物であればあるほど、なおさらそうである。人生は旅であるというのは、抒情的な感慨ではなく、生のリアリティである。人間身体の環境とのダイナミックな交互作用から生じる変化の可能性が脅威に思えるのは、自分自身の未来に おける変化に対して抵抗し、新しい経験に自らを開放していないときに他ならない。


6.天井も壁もない家

 さて、境界についての考察をまとめよう。国家と家は、人とその営みの流動を遮断することがある。周囲を境界によって遮蔽し、垂直的な階層空間を作ることが、国家と家の要求するヘスティア的居住である。これらの場所に比較すれば、ウィルダネスと都市には、境界がないという共通性がある。そこは、ヘルメス的居住、すなわち、移動する棲息を動物に要求する。
 身体は、この両義性に対応した存在である。ヘスティア的居住は、改変環境のなかで皮膚=自己に固着する。ヘスティア的人間は、改変環境を周囲に配置しながら、自己はかえって周囲から切り離される。それで、時間のみが自己=精神となる。これに対して、ヘルメス的居住は、機能的内破物だけを頼りに、環境のなかを生きる。ヘルメスが泥棒の神であるのは、彼が所有という制度に敵対的であることの証である。裸の人間は、自分が、天蓋と大地に依存していることを実感する。地 球は、死の宇宙空間から居住可能な場所を守ってくれている天井も壁もない家なのだ。
 ホームレスの人々は、ケイシーが言うように、都市の誘惑に負けたから家を出て、公園で暮らしているわけではない。ホームレスであれ、難民や移動労働者であれ、都市住民であれ、都市に棲息している者は、別の場所から来た移動労働者である。その移動の動機に、本質的な違いはない。食料、あるいは、(同じことであるが)職を求めて、そこに移動してきたのである。
 しかし、都市であるからこそ、ホームレスの人々は生活し続けることができる。ホームレスは、村落には留まることはできない。内部と外部の境界が明確なヘスティア的場所である村落は、移動する人間にウィルダネス以上に素早い通過を要求するからだ。移動する人が留まることができるのは、あらゆる人が多かれ少なかれ移動する人であり、それゆえに、移動が許容され、さらなる移動可能性が存在し、それ自身が移動的存在である都市だけである。
 しかし、ホームレスの人々は、都市の流動性のなかにいながら、移動できずにいる。彼・彼女らは、都市のヘルメス的居住に組み込まれないままでおり、それゆえ、食・職を得られないでいる。ホームレスに足りていないのは、都市の機能とインターフェイスすることである。そのことがはじめて、家を得ること、すなわち、へスティア的居住を可能にする。ここでも、ヘルメスはヘスティアの前提である。遊牧民・狩猟採集民は、移動すべき場所を移動し、食・職を得て、地球に棲む。ホームレスの人々は、移動すべき場所を移動できずにいて、食・職を得ることができず、個人の家にではなく、都市にヘスティア的に居住している。私たちは、移動することによって地球というホームに棲む。移動を失うことによって、それ自身が移動である都市の公的空間に住むのである。
 ここにおける最大の問題は、私たちが移動する存在であることについての認識とそれに相関する政治性である。移動は、国内では当然の権利として認められている。にもかかわらず、その基本的・自然的であるはずの人権が国境という境界を挟むと、なぜか、とたんに認められなくなる。世界人権宣言第13条によれば、「すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する」。しかし、この権利は国境を超えることはできない。その他の基本的人権、たとえば、生存権や所有権、良心の自由などは普遍的であり、国境で制限されないとされている。しかし、移動と居住の権利だけは、境界の論理に跳ね返されているのである。 ヘスティア的な垂直の力で封じ込められ、さらに、ヘルメスの庇護のもとにない人間たちは、動きがとれぬことで彼の地で家を失っていくのである。「ホームレス問題とは、誰もが使い、存在することができたはずのこの世界を私的に切り取り囲い込んだことによって生み出されたものである」(笹沼 2008, p.293 )。だとすれば、私たちは地球以外の家、あるいは、自己の身体以外の家を持つことに批判的なヘルメス的観点を失うべきではないのである。



参考文献

  • Abby, Edward (1995). 『荒野、わが故郷』野田研一訳、宝島社.
  • Casey. E. S. (1993). Getting back into place: Toward a renewedunderstanding of the place -world. 2ed. ed. Bloomington & Indianapolis: Indiana University Press. -----. (2008). 「境界線と境界地帯:環境のうちへ切り込む」小手川正二郎訳、『現代思想』2008 年12 月臨時増刊号、総特集メルロ=ポンティ:身体論の深化と拡張、pp.322-344.
  • Cataldi, S. L. and Hamrick, W. S. (eds.) (2007). Merleau -Ponty andEnvironmental Philosophy:
  • Dwelling on the Landscapes of Thought. Albany: State University of New York Press. Dawkins, R. (1987). 『延長された表現型 : 自然淘汰の単位としての遺伝子』 日高敏隆・遠藤彰・ 遠藤知二訳、紀伊國屋書店.
  • Grosz, E. (1995). Space, time, and perversion: essays on politics of bodies. NY: Routledge. -----. (2001).Architecture from the outside: essays on virtual and real space. MIT Press. -----. (2008). Chaos, territory, art: Deleuze and the framing of the earth. Columbia UP.
  • Irigaray, L. (1983). L ’oubli de l ’air : Chez Martin Heidegger. Paris : Les ?ditions de Minuit. -----. (1987). 『ひとつではない女の性』棚沢直子、小野ゆり子、中嶋公子訳、勁草書房. -----. (1989). 『基本的情念』 西川直子訳、日本エディタースクール出版部.
  • 笹沼弘志. (2008). 『ホームレスと自立/排除:路上に〈幸福を夢見る権利〉はあるか』 大月書店.
  • Young, I. M. (1997). Intersecting voices: dilemmas of genders, political philosophy, and policy. New Jersey: Princeton UP.
  • Weiss, G. (2008). Refiguring the ordinary. Bloomington: Indiana UP.

Title: Wilderness and Homelessness
Author: Tetsuya Kono