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A Scanner darkly 統合されたスペクタクルと秘密の支配 酒井隆史

権力は何も創造しない。それは取り込む ( co-opt ) のだ ( internationale situationste /10 ) 。

それに死者だって、感情があればの話だけど、生者に利用されて悪い気はするまい。理解はできなくても、見ることはできる死者。こいつらは、おれたちのカメラなんだ ( Philip K. Dick ) 。

 ロサンジェルスはオレンジ郡保安官局の捜査官、フレッド(コードネーム)は、覆面麻薬関連の秘密警察官( undercover cop )である。彼は実際には誰に扮して秘密操作をおこなっているのか、警察内でも把握されていない。というのも覆面捜査官には、メモリ・バンクにさまざまな人間の数百万におよぶ人相が蓄積され、その断片化され目まぐるしく組み合わせを変容させるイメージがレンズを通して投射されることで顔の可視性を低く維持するスーツを支給されている。つまりそれを着用すると彼の顔はもやがかかったように漠然となり、もはや同定不能になるというのである。電子的にであるが文字どおり覆面をしているわけである*1
 スーツをぬいだフレッドはヒツピー風の身なりでろくでもないジャンキー生活を送るロバート・アークターとして、他の堕落した若い麻薬常習者たちと生活をともにしている。巷に爆発的にはびこる、脳を破壊し「緩やかな死(スロウ・デス)」へと常習者を導く「物質D」と呼ばれる「合成ドラッグ」の供給源をつきとめるためである。他のドラッグと異なり供給源は1つしかないはずだ、とアークターは見込みをたてている。物質Dは化学合成されたもののようであり(としか明かされていない)、その工場は1つだろう。連邦政府の実験によると、化学式を知っていて、工場を作るだけの技術力があれば作るのは簡単である。しかし、それも理論上の話であり、現実に作るとなるとコストは莫大なのである。しかし物質Dが人気なのは、それが他が市場競争に参入できないほど安価だから。販売網もきわめて広い。麻薬消費都市の近くに1つは拠点があるはずだ。にもかかわらず、いまだに1度もあげられていない。それはおそらく、この供給組織は地方や国のレヴェルでの法執行機関の上層部にまで食い込んでおり、その実態を示唆する情報が発見されるやもみ消されているからだ、と見なされている。このように秘密捜査官は、権力機関と非合法機関の癒着する状況のなかで活動しているわけであり、それは彼の活動を混乱させる──行動の理由、追求目標の曖昧さ──理由の1つである。
 逮捕するまでもない取るにたらない末端の常習者連中は見逃し・泳がしておいて、そこからさらにさかのぼって、供給源にまでいたることが、ひとまずアークターが下された任務である。しかし彼は、ジャンキーたちと生活を送るなかで、自分が追っている当の人間たちに徐々に似ていってしまう。物質Dの常用者になり脳が破壊されていくなかで、観察者は被観察者、警察官は犯罪者と見分けがつかなくなっていくのである。ある日、フレッドは上司からのある命令を受ける。それはアークターを監視せよ、というもの。フレッドは早速、自分の家に盗聴器や監視カメラを仕掛け、モニターや録画・録音器材を備えた、近隣のアパートに秘密裏に設置された監視所で自らを監視し始める。この奇妙な状況がアークターの脳の疲弊を加速させてしまった。フレッドは自らを監視するなかで、犯罪者と警察者というアイデンティティの分裂を自らの内に現実に刻み込んでしまい、人格を崩壊させていくのである。このストーリーには先があり、彼が自分が1つの手がかりにしていたつもりの末端の売人の女性は実は彼を監視するFBIの覆面捜査官であり、さらに彼は自らのドラッグによる人格崩壊も込みでエージェントとして働かされることになる。つまり彼は、もっとも深刻に精神を破壊された人間のみが迎えられる、だが裏でドラッグを栽培しているフロント組織らしいある更正施設におとりとして投入されるのである。実質上、死者となりつつも、エージェント/生きた監視カメラとして活用されるわけである。


1〈支配の利潤率の低下〉

 P・K・ディックによるこの自ら破滅していく覆面捜査官を主人公にした小説、『暗闇のスキャナー( A Scanner Darkly )』の出版された1977年は、秘密工作( covert action )が、アメリカ合州国において国内の犯罪捜査・取り締まり活動において日常的に活用されるようになった時代である。とりわけ麻薬捜査における覆面作戦は、従来の街頭の個別のチンケな売人相手中心から、組織のネットワーク全体を網にかけることに重点をおく方向へとシフトした。この著作は、作者の意図からもドラッグ小説として読まれているわけであるが、同時に登場人物の形容する(当時からすれば)近未来のアメリカ、すなわち「警察ファシスト国家」の支配の作動をテクノロジー的・制度的な面と、それが主体に与える効果の面から作成された地図であると見なしうるだろう。
 監視する自分を監視することによって自己を崩壊させてしまったアークターの姿からもたらしうる(少なくとも彼自身の身に起こった現象についての)結論の1つを1988年のギィ・ドゥボールの『「スペクタクルの社会」への注解』(以下『注解』)*2におけるギィ・ドゥボールの言葉を用いて、こうまとめることができないだろうか。「支配の利潤率の低下」──周知のように、マルクスによれば、「利潤率の傾向的低下」は資本蓄積そのものから結果する資本蓄積の衝動に対立する否定的効果である。資本蓄積は大規模になるにつれ、労働生産性の上昇と相対的剰余価値を生産する技術革命に依存するのであり、そのかぎりで平均的な社会的資本の平均的な有機的構成(資本の可変部分──労働力の価値──と不変部分──生産諸手段の価値──との比率)は不断に上昇する傾向にある。それによって、投下総資本の比率のなかでの剰余価値あるいは利潤の割合は低下する。唯一価値を創造するはずの「生きた労働」は「死んだ労働」に支配され、それによって、資本蓄積の衝動に根ざす資本の行動は、価値の源泉を自ら食い尽くしていくわけである。まさに「支配の利潤率の低下」がもたらされるのは、おそらくこの「転用」先である『資本論』における「利潤率の傾向的低下」がシステムの完成によるものであったように、ドゥボールによれば、「あらゆるものの絶対的管理(コントロール)への野心によって導かれ」ることで、監視が「自らの発展が生んだ困難に出会う」( XXX p. 81 )地点にまで高次化されて、のことである。
 ドゥボールは、67年に刊行された『スペクタクルの社会』以降、1970年代から進行したスペクタクル社会の高次化と強度の増大が、西側の「分散されたスペクタクル社会」と東側の「集中されたスペクタクル」という2つの「継起的でありかつ競合する」スペクタクルの形態の統合を帰結し、「統合されたスペクタクル社会」へいたるという。そこでは、基本的に『スペクタクルの社会』やシチュアシオニストの諸テキストで見られるような革命的展望はまったく影をひそめてしまい、暗い悲観的な色が濃くなっている。たしかにそこでは、「祝祭」「漂流」「生の復権」などといったかつて有効であったオルタナティヴはもはやすっかり取り込み( co-opt )されてしまった、という認識が前提にあるように思われる。しかし統合されたスペクタクルの「完全性」の認識は、同時に、その「脆さ」の認識につながっている。「現状を指摘するにとどめる」という『注解』の思惑は、『資本論』でのマルクスの資本の運動に内在した分析が、ひとまずシステムをあたかも自律的運動体として扱うことで、そのシステムに内在する根底的矛盾を取り出すことで、闘争へのはるかに広い展望を開こうとした営みにも似ているといえないだろうか。ドゥボールは次のように言う。統合されたスペクタクルは、その絶対的管理の野心をどこまでも追求しようとしているのであるが、それはまた、自らのその妄想的野心ゆえに自分のなかに矛盾を生みだし、かつ深刻化させてしまう、とされている。絶対的な次元へと管理・統制が上昇しようとし、それを完成へと導き、その極端にまで行き着こうとしなければ、監視による支配の事態ははるかに危険なものとなるだろう、そうドゥボールは言う。支配の利潤率の低下をもたらす絶対的管理は、いわば自らの外部を消去しながら、自分の自律した複雑性とそれによる重みを支えきれなくなる。ドゥボールはこのように言う。
 「支配がほとんど社会空間総体にまで拡がり、その結果、支配の人員と手段が両方とも増加すると、どの手段も、今や、目的となることを熱望し、そうなるべく活動する。監視は自らをスパイし、自分に対して謀略をたくらむ」( p. 84 ) 。まさに、アークターが自分自身を監視し、また、女性捜査官によって監視されていたように、である。今や社会は、秘密工作・謀略のネットワークを全面的に張り巡らせることによってのみ維持される。
 こうした「支配の利潤率の低下」なる現象は次のような形でもあらわれる。ドゥボールがあげるのは、蓄積される一方の大量の個人情報とそれを分析するために必要な時間と諜報部員のあいだがつりあわない、という矛盾である。「データの量は絶えず集約されることを要請する。その多くは償却されるだろうし、解読するにはいまだ長すぎるのだ」( p. 81 )。ドゥボールによれば、監視( surveillance )と操作( manipulation )とは、必ずしも同義ではなく、監視の強度が上昇し、データの量が膨大になるにつれ、肝心の操作という目標の達成が困難になる。それで、大成長の見込めない同産業部門の企業の競争のように、それは利潤のシェアを争い合う。一方を発展させると、他方は損をするというのである*3
 また、こうした争いはゲームでもある、とドゥボールは言う。ライヴァルをどう出し抜くか、無力化するか、のゲーム。監視、セキュリティ、捜査を取り扱う私企業もあるし、多国籍企業ももちろん自分専用の諜報部を持っている。また中規模程度のドメスティクな企業も、それぞれ国家レヴェル、あるいは国際レヴェルで、各々固有の利害を追求して策略を練る。こうした諸々の組織は、工ージェントを操りながら、各々独立した利害を追求しあうわけである。ドゥボールが挙げるように、原子力部門のグループは石油部門のグループと、両者ともに同じ国家が所有しているものであれ対立するだろう。ある産業のセキュリティ・サーヴィスは、足元のサボタージュの脅威と闘いながら、ライヴァル企業を窮地に追いやるためにそれを組織することもある。「こうしてこれらの組織のそれぞれが、国家理性の執行部の周囲にすべて微妙なかたちで糾合しながらも、自分自身の思惑のヘゲモニーを追求する。……思惑は同定可能な中枢部とともに失われる」( p. 82 )。システムは完成へ導かれると同時に、その存在を安定させるはずの中心を見失っていく、というわけである。「既存の秩序のための数多くの陰謀がほとんどあらゆる場所でもつれあい衝突しあう。秘密ネットワークや秘密の発行物あるいは秘密活動が経済、政治、文化のあらゆる部門に急速に統合されるにともなってはるかに濃密になっていくにつれて」( p. 83 )。ちょうど、映画『エネミー・オブ・アメリカ』で、国家安全保障局(NSA)に追われる「文民」2人組が追尾を回避することができたのは、NSAとFBIの組織の差異を逆手にとって、それらのあいだの摩擦を最大限に高めることによってであったことを思い出せばいいだろう。
 「あらゆる、社会生活の領域で、監視、惰報操作、セキュリティ活動の溶解の度合いがますます上昇していく」[強調引用者]。それによって、謀略はほとんどおおっぴろげのものとなる。「腐敗」はもはやバナルなものとして蔓延する。ドゥボールが言うには、68年以来、社会はもはや愛されようとすることをやめた。そうした夢はもはや捨てられねばらなない。それは恐怖されることを好むようになるのだ。そして、もはや無垢なるものであることを装わない社会において、謀略がオープンなものになるにつれ──統合されたスペクタクルの1つの特徴は「秘密の支配」である──、各々のエージェンシーは互いに干渉しあい、悩ませあうようになる。「こうしたプロの陰謀者/(共謀者たちは、理由を知ることなく互いにスパイしあうし、ときに互いを確実に知ることなく共同行動する。誰が誰を観察するのか? 誰のために? 本当のところは? 」。かくして誰もがエージェントとなり、互いに共謀し合うが、結局そこから意味は蒸発してしまう。監視者はもはや自分が何をしているのか、何のために行動しているのか、総体的なパースペクティヴを喪失してしまうのである。まさにアークター捜査官のように、である。「自分が騙されているのではないか、操作されているのではないか、誰も確信が持てないし、また操り手も戦略が成功したかどうか理解する場合もめったにない」。そして全体のパースペクティヴ、中心を欠き、統御できない肥大化する秩序を抱えたままのシステムを束ね、作動させるのは「恐怖」に他ならない。こうしてシステムは、裡に軋轢を──致死的かもしれない──はらみながら、「脆い完成」をみることになる。監視せよ、そして監視者を監視せよ、監視者の監視者を監視せよ……しかしどうして? 社会はつねに危険に脅かされていて防衛しなければならないから。しかしどんな? 監視や虚偽によって防衛されるべき空間は、こうした鏡映的関係によってその内実を問う批判をあらかじめ封じることによって自律した存在になっていく。
 ドゥボールのいう「支配の利潤率の低下」がもたらされるのは、システムが自らを「情動であふれた社会的摩擦の場」から抽象し、円環として閉じようと努力をするからだ。ドゥボールがいうように、社会が「統合されたスペクタクル」の段階にいたるにつれ、「ここ200年あまり批判や変革に開かれてきた社会」は終わった( XIII p.21 )。統合的スペクタクルの特徴はスペクタクル社会の「完成」である。しかしそれは、批判の欠落によってのみまとまる脆い完成体である。脆い完成体これがドゥボールの『注解』でのスペクタクル論のすべての鍵である。


2 秘密と欺瞞:アンダーカヴァー・コップ

 ところで、この『注解』で奇異にも見えるため目を惹くのが、ドゥボールが統合されたスペクタクルの特徴としてあげる1項目であり、それは先述した「一般化した秘密」である。ドゥボールによれば秘密はスペクタクルの背後に存在し、「スペクタクルが陳列/提示するあらゆるものの決定的補完物」、そして「そのもっとも重要な作用」である、とまでされる。「われわれの社会は秘密の上に構築されている」。それは統合されたスペクタクルの社会を構造的な「腐敗」──システムだから「腐敗」ですらない──が覆いつくしている、ということでもある。この『注解』では、このスペクタクル社会における秘密の作用にかなり力点が置かれている*4。いわば統合されたスペクタクルの過剰な視覚的明るみのなかで、同時に、暗い澱みが蔓延する、と言えばいいだろうか。まさにフレッドのぼんやりとした顔は、スペクタクル社会における「秘密」のアレゴリーたりうるかもしれない。
 ではそのアークターの事例へと帰ってみよう。77年からさらに、秘密工作はもはや犯罪捜査において日常化し凡庸なものとなる*5。88年には、秘密捜査員(アンダーカヴァー)の手法の急速な拡大とその背景にある監視の変容(「新しい監視( new surveillance )」という言葉がそれによって広まった)に幅広い研究者たちの注目を向けたある著作はこう述べている。「ここ10年で、アメリカ合州国における覆面工作は、大きく変貌を遂げた。それは規模において拡大し、新たな形態をまとっている」( Marx 1988 p. 1 )。まず量、規模については、移民帰化局、国税庁のような法執行機関から林野部のような非−法執行機関にいたるまでに裾野も広がりつつあるといわれる。たとえば「もっとも権威ある強力なアメリカの法執行機関」FBIでは、それまで秘密工作は日常的に用いるにはあまりにリスキーであり、コスト高である、と認識されていたが、エドガー・フーヴァーの死後、まもなく、72年にFBIは覆面エージェントを活用し始める。FBIのCIA化? もはや秘密捜査は「アメリカの法執行の兵器庫のなかの突出しかつ洗練した一部となった」。FBIの秘密工作活動への予算の要求額も、最初にそれがなされた77年の100万ドルから84年には約1200万ドルヘと跳ね上がっている( p.5 )。量的拡大は質的変容をともなっている。マークスによれば、その第1の特徴は標的の拡大、多様化である。大雑把にいって、それは社会のほとんど総体にまで、対象を拡大した。それはホワイトカラーの犯罪にまで標的を拡張させ、そのため、企業の重役、銀行家、小売りやサーヴィス業の人々、労働組合の指導者、判事や警官、検察官を含む公務員などにまで網の目が広がるのである。また先述したように、70年代終わりから麻薬取締局は逮捕の数よりも、質を重視し始める。つまり、街路での売買よりもより大規模の供給網により注意をはらうようになる。また、貿易違反の疑惑のある外国企業、ハイテク、軍事装備の輸出なども標的に含まれるようになる。さらにプロ野球も秘密操作の対象となり、ファンを装った捜査官の監視にファンはさらされるようになった( p.8 )。
 第2の特徴。それは目標の拡大である。というより、目標は「制限なし/目標に開かれたもの( open-end )」となる傾向にある。伝統的にみて、かつての秘密操作の範囲は比較的制限されていた。つまりその目標はある限定された範囲で以前に犯された犯罪を犯したのではないか、と信じるにたる理由がある特定の人物あるいは複数の人物を逮捕するためのものであった。ということは捜査は、犯罪という出来事のあとで事後的におこなわれたのである。だが今や、彼/女たちは、そうした物理的因果性の作用する外の平面に働きかける傾向にある。これについては、FBIによる「史上最大の産業スパイ事件」の1つ、シリコンヴァレー作戦、コードネーム「アブスキャム」*6の事例は参考になる。78年からFBIはある捜査を開始した。FBIは Abdul Enterprises Ltd. なる架空の会社を創作し、捜査官はアラブ人実業家などに扮し、選び出された役人に特別の恩恵とひきかえに金やそれ以外の報酬を与えた。ヴィデオに撮られた会合によって、1人の上院議員と4人の下院議員が収賄と共同謀議を含む嫌疑で起訴され有罪判決を受ける。この事例が重要なのは、それが目標を途中で変更したことである。もともと盗まれた芸術作品と有価証券への探索ではじまった捜査は、途中で目標を変更し、政治腐敗の捜査として終了した。上院調査委員の1人はこう述べている。「アブスキャムは事実上、地理的範囲において無限定である。捜査されるべき人物、捜査されるべき犯罪行為についても……それは事実上以下のことについてのライセンスとして機能した。複数の特別捜査官に虚偽の身分を名乗ること、虚偽のビジネス・フロントを作ること、そしてそれによってどのような犯罪活動がこの国中で認めうるのか、あるいは発展されうるのか、を見いだすことについての」( p.9 )。 
 ここでマークスは広大な海で大網と優良な餌でおこなわれる釣りとたとえている。どんな魚が釣れるかどうかはわからない。しかし餌を放っておけば何かはひっかかる。しかも人は知らないあいだに、餌に、つまりエージェントにされることもある。このアブスキャムの例では、まったく知らない間にスパイにされた人物が重要な役割を担うことになるが、こうした事例は増大しつつあるのである。「法執行作戦の一部であることを知らない密告者/情報屋( informer )の活用は増えているが、それは新しい秘密捜査モデルの重要なファクターである」( p.10 )。これは犯罪が生じてから反応する古典的な犯罪捜査のみならず、従来のより照準を絞り込んだ覆面工作と明確に対照される。マークスはこう述べている。「 ”彼は不正であるか” という問いは、”彼は不正を犯しうるか?” という問いにとって変わるだろう。ランダムな高潔度テストに等しい作戦もある。進行中の犯罪活動への介入というより、明確な容疑の土台から離れて、犯罪活動を作り出すための努力がここにあるのだ」( p.11 )。
 ゲイリー・マークスはこの動向を、アメリカの建国の理念が許容する警察活動からの決定的離反を示している、と指摘しているが、そもそも秘密工作・覆面警察的手法はヨーロッパ、とりわけフランスで開発されたものである。つまり日本の警察制度も近代化において重大な影響を被った大陸的ポリツァイの伝統の方にふさわしい手法なのだ。フーコーの『監獄の誕生』でも、規律権力を構成していた当時の権力装置の複合体、つまり司法装置と監獄の装置のあいだを秘密警察官あるいは「密告者(たれこみや)」が循環していた*7。しかし、マークスによれば、合州国における秘密工作的手法の拡大は、逆に国際的インパクトを及ぼしている。これは、1つにはかつての秘密工作との質的変容を示唆しているといえるだろう。つまりかつての単独の逮捕をおこなう孤独な捜査官という典型的な秘密工作員モデルは、「複雑なテクノロジー、組織的フロント、多人数の逮捕を含む、高度に協力的な活動チームによる活動がとってかわっている」。グローバリゼーションの裏面で進んでいる、アンダーグラウンド経済のグローバリゼーションに対応しながら、それは、国際的なチームによるものとなるだろう。「協力捜査やモデル、資源、指導の供給を介して、合州国は秘密/おとり的捜査活動を世界中に浸透させている」( p.15 )。それによって、皮肉にもヨーロッパはアメリカ的洗練を施された秘密工作活動を再導入しているのである。
 秘密工作の特徴をゲイリー・マークスは、公然活動/秘密活動、欺瞞的/非欺瞞的の2つの対立軸を設定して次のように整理している。

1、公然活動+非欺瞞的:おおかたの警察活動。たとえば制服警によるパトロール。

2、公然活動+欺瞞的:警察の身分が知られている人物による策略。コロンボ刑事が被疑者に対してよく使うような──証拠が見つかった振りをして証拠となる行動をさせるなど──トリック。あるいは警察の遍在を見せかけるためのテクニック。たとえばモニターも録画もしていない見せかけだけのヴィデオ・カメラ。

3、非公然活動+非欺瞞的:受動的監視。隠されているカメラ、送信機、テープレコーダー。捜査員による尾行。デモ集会などでの発言の傍聴など。

4、非公然活動+欺瞞的:秘密捜査。

 秘密捜査とは、秘密活動でありかつ欺瞞を行使することである。そしてこの特徴によって、現在のその活動には、従来の監視が、微妙だが決定的な変貌を遂げていることを明瞭に読みとれる。彼らが活動するのは、もはや従来の可視性/現実の平面ではない。それが秘密であり非公然の活動であることの含意である。そして彼らが欺瞞するのは「不在の効果」をもたらすためである。つまり、出来事の進行の外に立つのではなく、監視者たちは自ら出来事の進行に巻き込まれることによって、いわば時間を逆転させ、現実の空間自体を歪曲する奇妙な要素として作用するのである。まさにドゥボールのいう「監視、情報操作、セキュリティ活動の溶解」であり、監視はこの溶解によって、その素朴さを喪失している。まさに時間・空間感覚を喪失し人格崩壊へといたるアークターの不幸はここからはじまるともいえないだろうか*8。たとえば、ある人間がいて、犯罪の意図をいだき、犯罪をおこなう。刑事警察はこの行為の連鎖を逆向きにたどっていく。刑事ドラマでよく見られるように、出来事の後の現場、すなわちゼロ地点から足で稼ぐ骨折り仕事で、人的・物的痕跡をたどりながら時間を遡っていき、犯罪者にたどり着き、そして逮捕となるのである。たしかにその論理からすれば「事件は現場で起きている」のであって「会議室で起きているのではない」。
 他方、秘密工作にはこの論理は当てはまらない。アンダーカヴァー・コップたちは出来事が起きるのを待っていないのであるから。「捜査は犯罪行為の以前あるいはその最中に進行中ということもありうる。それは犯罪者からはじまり、その後に犯罪の証拠書類の提出ということになることもある。犯罪者の発見と犯罪と逮捕はほとんど同時に起きるかもしれない」( p.12 )。秘密捜査官たちはつつましく世界の外から(つまり「市民生活の」外から)、事後的にやってくるのではない。彼/彼女たちは、世界の中核に忍び込み、原因と結果の因果的時系列を自ら撹乱する特異点として作用をはじめ、犯罪空間と非犯罪空間という外部と内部の境界を溶解させ、またその溶解を促進させるのである。その「欺瞞」は、もはや真理という参照点から飛翔をはじめている。ジャン・ボードリヤールの77年のあの著名な論文タイトルは「シミュラークルの歳差運動」であった*9。歳差運動とは天文学用語で、因果秩序の原理的可逆性を示唆している。いわばそこでは結果が原因に先行するのである。とすれば覆面捜査の1つの特性はここでボードリヤールシミュラークルと呼んでいるものによく馴染む。シミュラークルにおいては、「地図が領土に先行する……地図そのものが領土を生み出す」のであり、いわば会議室が犯罪を生み出すのである。会議室で案出されたモデルは、まさに犯罪という出来事の「磁場」をつくりだす。ボードリヤールのいうように、「事実にはそれがたどるべき道筋はなく、事実はモデルとモデルの交点で生まれ、1度にすべてのモデルからたったひとつの事実を生むことさえ可能だ」(訳23ページ)。秘密捜査官が特異点として振る舞うことで描き出される新たな平面。警察活動を介して徹底的に「抽象された」新たな実在の平面と呼ぶべきだろう。「捏造」「欺瞞」の位相もそれによって、はっきりと変容する。ギィ・ドゥボールがかつて述べたように、「……スベクタクルの具体的存在様態とは抽象化にほかならない……」(テーゼ p.29:30 )が、「スペクタクルと実際の社会活動とを抽象的に対立させることはできない。この二極化はそれ自体、二重化されている、現実を転倒するスペクタクルは現実に生産されている。同時に、生きた現実のなかにもスペクタクルの凝視が物質的に浸透し、現実は、スペクタクル的な秩序に積極的な指示を与えることによって、己の裡にその秩序を再び取り込むのである……現実に逆転された世界では、真は偽りの契機である」(テーゼ9:訳16−17ページ)。


3 「捏造の世界化と世界の捏造化」:内−植民地化と統合されたスペクタクル

 とはいえこうしたドゥボールの67年のヴィジョンが徹底して実現するのは、社会が統合されたスペクタクルの段階へと到達してのことである。88年のドゥボールによれば、現段階で振り返ってみると、67年の段階ではスペクタクルによる社会の掌握はそれほど明確に達成されたものではなかったのである。「この間に、この[へーゲルの逆転の]原理はあらゆる特定の領域に、例外なしに浸食した」( XVII p. 50 )。アンセルム・ヤッペはドゥボールを「古い時代の最後の声であると同時に新しい時代の最初の声」として形容したが( Yappe 1999 )、ここでドゥボールは「新しい時代」へと完全に足を踏み込んだようにも見える。かつて集中されたスペクタクルは粗野であった。「社会の縁辺の大部分はそれを逃れた」。拡散されたスペクタクルとなると、逃れうる部分は小さい。だが今では逃れうる部分は「存在しない」。
 『注解』においては、統合されたスペクタクルにおいて、拡散したスペクタクルに集中されたスペクタクルのテクノロジーがいかに変形されて機能しているか、すなわち統治テクノロジーとしてのスペクタクルの分析に主要な力点がおかれているかのようだ。92年の緒言ではこう述べられている。「いまや、統合されたスペクタクルの統一的実践が ”世界を経済的に変化させた” と同時に、「知覚を警察的に変化させた」(訳7ページ、強調原作者)。ドゥボールも指摘しているように、この指摘は、『スペクタクルの社会」のテーゼ105における集中的スペクタクルの分析の修正である。「……スターリニズムはもはやイデオロギーは武器ではなく、1個の目的である。もはや意義を唱えられることもない嘘が常軌を逸した威力をふるう。現実も目的も、同じような全体主義的なイデオロギーのなかに解消される。それが言うことのすべてが、存在するすべてである。……ここで物質化されたイデオロギーは、供給過剰の段階に到達した資本主義のように、世界を経済的に変化させはしなかった。ただ、それは知覚を警察的に変化させたのである」(108−9ページ)[強調引用者]。つまり、

・「世界を経済的に変化させた」=拡散されたスペクタクルの要素
・「知覚を警察的に変化させた」=集中されたスペクタクルの要素

 この2つの分岐していた要素が統合的スペクタクルにおいて融合した状況を、「知覚の警察化」の方に力点をおいて分析したものであると整理できるだろう。秘密警察、秘密工作など、「一般化された秘密」の特徴記述に力が割かれているのも、それが、統合されたスペクタクルの社会が、かつては東側の政治体制が得意とした(とされた)の支配テクノロジーを中核に備えはじめたという状況と見ることもできるだろう。
 だが92年の緒言が付け加えるように「この場合の警察とはそれ自体、完全に新たなものとなった警察である」(7ページ)。ドゥボールは『注解」では次のように言っている。「集中した側面を見るならば、その指導的中心は今や隠されたものとなってしまった」。それ以上の言及はないが、集中と同時に進行する、脱中心化とその背景にあるハイテク化がここで示唆されているとも考えられるだろう。集中的スペクタクルの拡散的スペクタクルに統合されて被った変貌がこのドゥボールの言葉から銘記されるべきなのである。
 集中されたスペクタクルを代表するのはロシア、かつてのドイツである。そして拡散されたスペクタクルを代表するのがアメリカ。ドゥボールは統合されたスペクタクルのパイオニアはフランスとイタリアである、とドゥボールは言う。そしてこの「新たな形態の台頭」をこれらの国に共有された多くの特徴に帰属させている。しかし統合されたスペクタクル社会への転換というドゥボールの時代認識の変遷は、とくにイタリアの経験が大きな範型を構成していると言っていいだろう(「イタリアは世界全体の矛盾を集約している」)。1979年、ギィ・ドゥボールは『スペクタクルの社会』のイタリア語版 第4版の序文にこう書いたのだった。

 この本が必要としなかったまさにその当のものを附記することが、スペクタクル社会にはできた。つまりより重く説得力ある事例を。われわれは捏造( falsification )がより高密度になり、あらゆる日常生活の土台の次元でふきだまっているじめじめしたもやのような、もっとも微細な事象の構造になり果てているのを見てきた( Debord 1982 p. 96 )。


 テロリズムを契機にした「緊急事態」が、「捏造の世界化、世界の捏造化」を完成させ、社会の新しい段階への移行を一挙に可能たらしめた。統合されたスペクタクル、左右の政治家、官僚、企業家、マフィア、メディア、警察、テロリストなどが内部に矛盾をはらみながらも一体となって、「既存の秩序」維持のために共謀する。「人間と自然の諸力を技術的、かつ、”警察的管理” によって絶対的統制へといたりしめよう」とする権力の思惑の途上で。言われるように「何も変わらないためにはすべて変わらねばならない」のである。権力は緊急事態のなかで、もはや「反駁できない」欺瞞のテクノロジーを「もっとも高度に展開した地点で反省する機会を得た」。つまりそこでは権力はスペクタクルを高密度に動員することで、「真実」との結びつきをもはや考慮しないで作動する技術を完全に会得したのである。そのとき国家は嘘をつくが、「あまりに完全に真理や真実らしさとのそのコンフリクト含みの結びつきを忘却したために、結びつきそれ自体が抹消され刻々と取り替えられる」。ドゥボールはこうも述べている。「それは信じられるように意図されてはいない」。ディスプレイ上で点滅する情報は、「後になったら忘れ去られるべく意図されている」、と。情報メディアはこうして欺瞞の装置として完成する。信じられるべく意図されてないのだから、もはやそこでの情報には「反駁の余地はない」。そして『注解』ではこのことが「世論を消滅させた」としている。もちろん「世論」なるものが消滅し、圧政が敷かれたのではなく、むしろそれはメディアの操作によるシミュレーションとして抽象化することで人々は「世論」がある気にさせられた上で(「結びつきそれ白体が取り替えられる」)抹殺されたのである*10
 ドゥボールはすでにイタリア語版序文で「工業生産の性質そのものにおいても統治技術においても、スペクタクルの力の利用が惹き起こしつつあった実質的変化」を論じているが、『注解』はフォーディズムからポストフォーディズム段階へと移行しつつある工業生産*11の性質の変容との結びつきで統治技術の変容を追尾したと見なしうる。それはたとえば、次のような見解に示唆されている。

 プロモーション/管理のネットワークが知らないうちに監視/情報操作のネットワークヘと流れ込む……( XXVIII p. 74 )。

 秘密組織と影響行使( influence )のネットワ ークのいたるところでの膨張は、国家が生産の指導にヘゲモニー的役割を果たす時代、あらゆる商品の需要がスペクタクルな情報/プロモーション──流通の形態もまたそれに適応しなければならない──が達成する集中化に厳密に依存する時代において、経済的事象を収益性あるかたちで運営するための新たな条件による強制的な要求への応答である( XXVI p. 69 )。


 グローバル化によって企業はほとんど全方位的に競争をおこなわねばならないが、そのためには情報テクノロジーを活用して、情報収集活動を、拡散させると同時に高度な集中によって管理することが必要となる。その要請に対応しながら、現在膨張する一方の信用調査産業──住民のデータをあらゆる場所からかき集めて巨大データベース産業となっている──においては、監視テクノロジーや情報テクノロジーの発展とともに、軍事・警察的諜報活動と商業的情報収集、情報操作、監視活動が、メビウスの輪のように通底しあい、そしてその互いの特性を溶解させている。たとえばフランスのピックアップ社という信用調査会社は、グローバルな企業間競争が要請するスパイ活動を組織し、25ヶ国に情報提供者のネットワークを形成した。この会社は、当該国出身のジャーナリストや調査員などを使い、現地企業のテクノロジー開発を監視させ、情報収集し売り込もうとしている。ポール・ヴィリリオはこうした例を眺めながら、情報革命とは「全面的密告革命」であるとしている( Virilio, 訳82ページ)。また、アメリカの最大の巨大クレジット会社TRWは、そもそも先端兵器や諜報機器の分野で主導的な位置を占めていたもとは秘密主義的色彩の強かった企業である。さらにアメリカでは地下組織、準地下組織の合法すれすれ、あるいは非合法に監視装置を開発・販売したり個人情報を収集し売買する情報再販業者「スーパービューロー」と呼ばれる企業が増殖している。それらは、公式の(CIAの大幅な協力を得ていた実質上の)「国内諜報活動支援機関」であった法執行援助局(LEAA)の資金大盤振舞によって生まれたという事実は興味深いし、また、その産業には元警察官、CIA、軍人などが多く参入している点もここの文脈で重要である( Rothfeder 1992 )。
 また「プロモーション/管理のネットワークと監視/情報操作のネットワークの流れ込み」という点を、もう少し異なる視点から捉え返してみたい。「イタリア語版序文」と同様に、70年代終わりのイタリアの状況に触発され介入する意図をもって書かれたもう1つのテキスト、多くの部分でドゥボールのそれと共振しあっているポール・ヴィリリオの79年の『民衆的防衛とエコロジi的闘争」をはじめとする議論を1つの補助線としてみよう。ヴィリリオはドゥボール自身も挙げていた「統合されたスペクタクル」の1つの特徴、「テクノロジーの発展」というポイントを軸に考察しているとも言えるからだ。
 抑止の論理とその背景にある運搬・情報テクノロジーの高次化の支配によって(これは予防の論理ともつながってくる)戦争/平和の区別が消失したという認識を前提に、彼はすでに70年代の多国籍企業の支配の進展にともなって台頭したリバタリアニズムやそれを理論的背景にしたネオリベラルたちによる「最小国家」の提起を、「速度体制のヒエラルキーの解体」による「政治的領野のミニチュア化」として把握していた。つまりネオリベラリズムは──核抑止というコンテクストと接合しながら──社会総体を軍事力に差し向ける手続きである兵站学による社会の支配を深化させ完成へと導くのである。この「政治的領野のミニチュア化」は、ドゥボールのいう「操造の完成」の1つの内実を示唆しているようにも思われる。ヴィリリオによれば、最小国家の「最小」はある意味で欺瞞的である。それは「速度」という変数による世界像の劇的な変容を見ないかぎりで「最小」なのだから。ヴィリリオによる次の指摘は重要である。

 リベラリズムはつねに自由の幻想を移動性/流動性の幻想に等置してきた。かつてニクソン大統領は簡単に言ってのけた。わが国は近隣諸国に対して決して帝国主義的野心など持ち合わせていない、ただ世界に新しい生活様式を提供したいだけなのだ、と。これは自由市場を信奉するエコノミストたちのいう〈最小国家〉がすでに繰り返している類の光学的幻想の一例である。この国家が最小に見えうるとしたら、その帝国が不動の領土的身体のそれでなく、つねに積極的だが不可視で秘密のコミュニケーションの身体の、中心化されミニチュア化された管理の帝国であるかぎりのことだ( Virilio 1979 pp. 89-90 強調原作者)。


 これがネオリベラリズムを現代の主要な統治術たらしめている「政治−技術的」前提である。ネオリベラリズムをただ単に経済学の問題のみならず倫理学の問題に帰してしまうことの大きな問題はこれだ。ヴィリリオはこうも述べている。空間はネオリベラリズムの統治術においては地理のなかにではなく、司令室、多国籍企業のオフィス、管理棟などのような「エレクトロニクス」のなかにミニチュア化されているのである。「ジスカールデスタン大統領やバール首相が最近はじめた構造改革のすべての意味がここにある。つまり公共サーヴィスの概念がメディアから消失したことの。産業マネージメントが軍事エンジニアに委ねられ、……国家は国営企業への信頼を拒絶することでかつては公共利益や公共善のためにあったものに「収益性」なる観念を押しつけた」( Virilio 1979 p. 86 )。ヴィリリオは続ける。「こうして彼らは国家の所有物を、経営/搾取にかんしては銀行と独占体の手に、規律と抑圧にかんしては国防軍( armee territorilale )の手に委ねたのである。ラテンアメリカのモデルにしたがって」つまり自由化・既成緩和の可能性の条件としての社会総体の軍事化。ヴィリリオは1973年のNATOが提示したプランとその「近代社会の挑戦についての委員会」に注目している。ヴィリリオによればその目標は「人間と商品の循環をあまねく精密に計画化すること( planification )」であるヴィリリオはモロ誘拐事件への78年のNATOの直接介入をこのプランの延長上にみている。ヴィリリオによればこのNATOのブランは、それによって「空間的連続体においていまだ文民と軍人に分かたれたものを完全に兵站的なものに仕立て上げる」ことにある。

・国家/公共サーヴィス──[分解/消失]プロモーション/管理ネットワーク≒銀行
・独占体──監視/情報操作のネットワーク≒国防軍

 この双方のネットワークが相互に「流れ込む」のである。ヴィリリオは、こうした軍事組織による世界総体のモニタリングと、ネオリベラル的社会再編の先鞭を切り開いた日米欧三極委員会による「民主主義の統治能力報告」に「奇妙な一致」を見いだしているが、この点はきわめて重要だ。ヴィリリオにおいては、絶対的脱局域化と軍事化・技術−兵姑化とが表裏一体のプロセスである、ということは強く認識されるべきであろう。「脱局域化は局域化よりもより土地を占めるが、それは全体主義的様式でそれを占める」。絶対的ルーツレス状況は絶対的隷属と裏腹なのである。公共サーヴィスという観念においては「伝達は根本的なものではない」とヴィリリオはいうが、いずれにせよそれはかつての──土地や生産用具を武器に変えて支配層に対峙した農民のような──民衆的抵抗と同じく「場所( locale )」に基礎をおいている。ネーションという範囲で生産された富を国家や地方政府が配分するプロセスには、歴史的に確立された社会・経済・政治的諸勢力が参与し、そこでは「紛争−交渉」の過程という「政治的なもの」の残滓がいまだ棲息しえたであろう。ネーションの人間・情報・物資を銀行・独占体あるいは多国籍企業と軍隊が分担して運営・管理するというリストラクチュアリングは、こうした「場所」に根ざすコントロールのメカニズムを回避することが目標とされている。グローバルに循環する資本、秘密裏に移送される情報、国民の知ることなく決定される世界規模の政治−軍事的権力、経済的取り決め(MAIやWTOをめぐる批判を見てみよう)などなど。こう見ると統合的スペクタクルの段階の社会とは、きわめてフレキシブルな総動員体制であるとも見てとれるのではないだろうか。「それは文民社会総体を軍事的セキュリティのもとに、あるいは言い換えればいわゆる軍事裁判/軍事的正義( justice militaire )のもとに追いやることだ」( p.73 )。
 後にヴィリリオは『純粋戦争( Pure Wer )』において、福祉国家からポスト福祉国家へのプロセスを「内−植民地化」( endo-colonization )として位置づけている。「最小−国家が意味するのは、思うに、貧困化です。より正確には内−植民地化です」( Virilio/Lotrenger 1997 p.98 )。ヴィリリオから言わせるなら、現代はおそらくもはや「植民地主義」「帝国主義」の時代ではない。世界の征服の拡張の時代、それは「外−植民地化( exo-colonization )」の時代である。それに対して、今は「強度と内植民地化」──新しい〈帝国〉?──の時代である。「人が植民地化するのは自分のところの住民だけです。人は自分の国の文民経済を低成長に追いやるのです」。この内植民地化がもっとも典型的にあらわれるのは(とりわけ当時の軍事独裁の)多くのラテンアメリカ諸国であり、当時の東欧諸国である。その経済的低成長と軍事組織の突出を思い出せばよい。だがまたレーガニズムもアメリカヘの内植民地化の適用である、とヴィリリオは言う*12。まさに東西冷戦後にはっきりとあらわれたように、そこで軍隊と警察は融合し合って一種の「超内務警察」のような機能へと転換していく。ここでヴィリリオ福祉国家と内植民地化の国家、すなわち「運命−国家」(「不可避性の国家」とも言い換えられる──核の不可避性、テクノロジーの不可避性など)を時間の2つのあり方を参照しながら比較対照している(「ヨーロッパに、そしてある程度アメリカにも60年代に存在した福祉国家は、合州国において運命−国家と私が呼ぶものにとってかわっています」)。このヴィリリオの区分でいえば、「最大国家」たる福祉国家とは、外延的・歴史的時間で特徴づけられる時間性を有している。それは時間と空間の展望のうちに書き込まれており、歴史を持続として捉える国家である。たしかに福祉国家において人は、進歩的歴史観とパラレルな個人の漸進的発展の持続のうちにあると想像できる。ところが運命−国家はまったく違う。それを特徴づける時間は、内包的/強度としての時間・緊急事態の時間である。延々と繰り返される競争と勝ち負け、そして消費の快楽の時間。個人主義的快楽とセラピーとあとはポリスによる管理。「捏造の世界化/世界の捏造化」という統合されたスペクタクルの完成はこうして達成されるのではないだろうか。つまり、快楽とポリス的管理のあいだはメディアによるスペクタクルが埋める。持続の喪失は人々から反省する時間を剥奪し、その上で、反省に類する行為は、メディアの情報循環が私たちの外部で勝手にやってくれる。「反駁可能性」はあらかじめ先取りされ上演される──喧嘩したり同意したりディベートしたり告白したり、など──ことによって、「反駁不可能性」は支配する。反省とは1つにはメディアの循環とは異質な時間性に基づく「対話」であるだろう。「もはやアゴラは存在せず、一般的な共同体も存在しない……仲介的団体や自律的機関の成員だけから構成される共同体、サロンやカフェ、一企業のみの労働者に限定された共同体すら存在しない」( VII p.19 )。こうして人は「騙されやすく」なるどころか「騙される」ことにも不感症になり、新しい〈出来事〉を創造する契機を失っていく。「歴史の消滅とともに民主主義も消滅する」と『注解』は指摘している。忘れられるべく、しかし何かに参加した気になるべく──たとえば「イエス」のキーの一押し──、提示されるメディアのスペクタクルの目まぐるしい点滅は、持続あるいは歴史と同時に、民主主義を忘却させる。かつて2人組の哲学者たちが述べたように、「コミュニケーションは過剰だが、そこには創造が欠けている」。


4 権力は握造する──不在への愛/恐怖のエコロジー

 ミシェル・フーコーは75年に「現代はスペクタクル社会ではない」(『監獄の誕生』)と決然と言い放ち、自身の統治テクノロジー論に着手した。周知のように、フーコーはパノプティシズムを、シチュアシオニストたちのスペクタクルという問題系の対立概念として提示したわけである。ここでのフーコーの問題意識は、従来、欺購、歪曲という「人間」の実定性を前提とする間題系に結びつきの強かった権力というコンセプトを用いる際の力点をそれと真理、あるいは生産の結びつきの方へと移動させることにあった。臣民の視線を中心の見世物的示威に集中させることで、威嚇、あるいはより一般的にいって囮/欺瞞として作用していた王権的権力の特性を前近代のものと位置づけ、不可視の眼差しの監視のもとでの主体の積極的生産こそが近代に支配的な権力行使様態としたのである。スペクタクルとパノプティシズム、この対照は、ドゥボールの『注解』がいわば「捏造/欺瞞としての権力の統治テクノロジーの一覧」とでもいうべき相貌を呈していることを見るとますます明らかになるようにも見える。
 しかしフーコー自身も強調している点だが、ベンサムのパノプティシズムには、スペクタクルの、あるいは「欺瞞」の次元が不可避に存在している。つまりパノプティコンが有効に機能するためには、中央の監視塔に具体的に人が存在している必要は必ずしもない。というよりむしろ、そこはベンサムのいうように「完全な暗闇( utterly dark spot )」でなければならず、そこに人が存在するかどうかがつねに不確定であるがゆえに──ランプがちらちらとすることが眼差しの存在を示唆する、被監視者は監視の眼差しにとりつかれてしまう。しかも、そこに人がいることを具体的に知ってしまえば、恐怖は消えてしまうのである。それをミラン・ボゾヴィッチは、ベンサムパノプティコンについてのテキストを解説しながら「想像的非実体の現実的効果」と呼び、神の効果に類比させている。つまり人が神を愛するのは、不在であるがゆえにであり、それは不在であることによって人に効力を及ぼす。ボゾヴィッチはベンサムが亡霊/幽霊( spectre )に怯えていた、という事例を引き合いに出している。化け物、吸血鬼、悪魔などと同じく、亡霊は、ベンサムの存在論においては同様に想像的非実体と規定できる神と同機能を果たしている。ベンサムにおいて神は、「この宇宙の主体による想像力におけるフィクション」であり、非実体なのだ。しかし神と同じく亡霊は、非実体であるにもかかわらず、ではなく、であるがゆえに現実に効力を及ぼす。ベンサムは亡霊の存在を信じていない、だがにもかかわらず、ベンサム自身が述懐するように、彼はそれを一生のあいだ、病的にまで恐怖した。もちろん、これはベンサムのみならず、私たちの日常によくある経験である。今や、本気で亡霊を信じている者などかぎられているはずである。しかし、われわれはたいがい皆、亡霊を恐怖する。よくあることだが、いわゆる「霊体験」がある亡霊の信者よりも非信者の方が、より亡霊の影に怯えるものである。しかも、恐怖を祓いのけようとして亡霊の存在を否定すればするほど、恐怖の強度は増すばかりのようでもある。「われわれはもっとも耐え難いことは、亡霊の存在をうまく否定し去ることができることではないか、とすら言いうる」( Božovič )。とすればわれわれは、恐怖によって亡霊を愛していると言えるのではないか。
 恐怖とはむしろこのように、非実体を存在させる作用を果たす感情である。ドゥボールは「支配の利潤率の低下」という現象について、次のように述べている。「結局のところ、その主要な矛盾は、それが不在の実体、すなわち社会を転覆させようとしていると想定されているものにスパイし、侵入し、圧力をかけている、というところにある」[強調原作者]。かつての東西対立の時代、スペクタクルの2つの主要な機能によって分割されていた時代よりもはるかに、統合されたスペクタクルの時代は「不在」の度合いは高くなった。しかし、それであるがゆえに、この亡霊はどこまでも果てしなく増殖し続けている。恐怖は高じている。危機は「汎−危機( omnicrisis )」となった。その恐怖こそが、人に「不在の実体」を恐怖することで愛させる/しがみつかせるものなのだ。しかもそれを妨害する/不可能にする〈他者〉による危機がつねに煽られ恐怖することで、かろうじて「現在の幸福」とされるものを確信し、それにしがみつくわけだ。

 かつて、人が共謀したのは既存の秩序に対立してのことであった。だが今では、既成の秩序のために共謀することが、新しい流行の職業である。スペクタクルの支配のもとで、人々は共謀する。既成の秩序を維持し、それのみが幸福と呼ぶシロモノを防衛するために( XXVIV p.74 )。


 先述したように、ドゥボールは現在の社会が愛されることをやめ恐怖されることを好むようになる、と言う。なるほどポスト福祉国家の時代の社会は、公共サーヴィスで「国民」のほぼ総体の「同意あるいは「正統性」を確保しようとは必ずしもしなくてすむ(社会科学における「正統性」についての議論が、今、後退してしまったのはその反映だ)。「商品に反対する」行動や思想はもはや「情報操作/偽情報( disinformation )」としてあらかじめ嘲笑のもとに退けらわているのだから。「統合されたスペクタクルの最大の野心は秘密工作員を革命家へ、革命家を秘密工作員に転換させること」( IV p. 11 )であるとして、これをもっと一般的なレヴェルで言えば、システムの批判者をシステムの共謀者、システムの共謀者をシステムの批判者とすること、システムの防衛者に仕立て上げることで、真の批刈をあらかじめ「拡散的( divergent )」批判に置き換える。だからこそ「第三の道」系(?)のクリントン、ブレア、シュレーダーは、イ々リア首相の口から「社会主義」という言葉がでるや失笑し退けた。それは「既存の秩序」に疑惑を持たれることを懸命に回避し、忠誠をあらためて誓った身ぶりなのである。統合されたスペクタクルの社会は、恐怖を盾にわれわれを競って競争に駆り立て、人はシステムヘの忠誠を自ら証立てるべく「共謀者」あるいは「密告者」へし自ら変貌していく。何が幸福かはもはや資本主義のみが決定するものであるのだから、既存のシステムに愛されなくなったらもはや待つのは死の深淵のみである*13
 ドゥボールは『注解』で頻繁に用いられるようになった(今でもそうなのか分からないが)「情報操作」というコンセプトの作用を分析している。それはもともと社会主義圏で公式に用いられていた用語であり、それが輸入されて欧米で日常的に使用されるようになったらしいが、手短にいうと、特定の言説を敵対するまたは競合する権力が流した意図的に握造されたデマであるとフレーミングするための記号である。ドゥボールによれば、そのコンセプトを活用するのは、経済的あるいは政治的権威を一片でも分かち持っている人々が、既存の秩序を維持するために、である。たしかにちょうど『注解』と同時期に公刊された元軍人によって書かれた情報操作についての警告書は、かつての反植民地運動や当時の反原発運動の主張をソ連による情報の歪曲を被ったものと退けている( Deacon 1986-1988 )。ドゥボールによれば「情報操作」なるコンセプトは「つねに反撃的役割を負っている」。したがって情報操作は、「公式の真理に対立する」ものであるが、ここで重要なのは、「情報操作」が単に「公式の事実」と対立する「ストレートな虚偽」ではない、ということである。そうではなく「偽情報は不可避にある程度の真理を含んでいる。だがそれは狡猜な敵が慎重に操作しているものでもある」。では「狡猜な敵」とは誰か? 近過去の東西対立の記憶のおかげで、いまだ統合されたスペクタクルの資本主義は、「官僚主義的全体主義の資本主義が根本的な敵でありつづけている」と信じることができる。社会改革の「危険な情熱」である。まさに、資本主義の根本的な欠陥を指摘し、消費社会の快楽、自由市場、緊縮財政、社会支出の削減に反対する人々は、社会主義者ならずとも全体主義的野心を有した「危険な敵」となる。とすれば要するに、情報操作とは、「この社会がその信者に与える空前の幸福を混乱させ、脅威を与えるものすべて」のことである。だからドゥボールがいうには、情報操作の境界を公的に確定すればそれは効果を減少させてしまう。むしろそれは境界を確定することによって、自らの「情報操作」性を問わなくするための否定的な操作なのであり、ゆえにそれは融通無碍で汎用性に富んでいなければならないのである。この「情報操作」というコンセプトに正確に該当する類のものは日本では見あたらないが、おおよそ、こうしたコンセプトの作動する様式は日本でも観察できる。たとえば「ソフトスターリニスト」なる無内容であるがゆえに融通無碍に振り回されたコンセプトは、スペクタクルの信者(「大衆」と想定される)の幸福を「混乱させる」スペクタクル(消費社会・豊かな社会信仰)への批判をすべて「全体主義的野心」を秘めた「危険な敵」として提示することによって信用失墜へといたらせる機能を果たした。それが反核運動とソ連の結びつさを指摘することによる反核運動への攻撃と結びついていたのも、またこの機能との類似性を直感させる。
 ところでこの「反撃」は、事実上のあらゆる攻撃を超えはじめる。ドゥボールがいうように、スペクタクルの権力は、行為のみならポ思想からも否定性をひきはがすことで、「前もって」攻撃を封じる予防的反撃をおこなっている。それはもはや攻撃という「出来事」に先立ち攻撃そのものを封じる反撃なのである。シチュアシオニストの基本的発想である、権力は何も創造せず、ただ〈出来事〉に反応し、それを取り込むことしかできないのであれば奇妙なことだ。反撃は一体何に対するものか? ヴィリリオは79年にこう述べている。「統治することは、かつてなく予−見することである。言い換えれば、より早く行き、以前に見てしまうことである」( Virilio 1979 )。
 それと対応するように、パノプティコンという形象も、自らの姿をメタモルフォーズさせつつますます亡霊じみたものになっていく。秘密工作の増殖の背景にある「新しい監視」の要請は、時間空間の壁を超えること、である( Marx pp. 217-8 )*14。それにはもっと抽象化することが必要なのだ。もちろん、現実的には「アイディアに留まった」パノプティコンはもともと抽象的な「図式」であった。「……それは理想的形式に縮約された在る権力機構の図解[であり]……、抵抗や摩擦などのあらゆる傷害をまぬがれるその作用は、建築並びに視覚的効果の純粋な仕組みとして表すことができる」( Foucault 訳 207ページ )。それをジル・ドゥルーズにしたがって「抽象機械」と呼んでもいいだろう。しかしその潜在的な抽象的〈図式〉が実現する場合には、建築・空間という具体的存在を必要とした。かつての規律権力にとって建築物とは、自らが定在するには不可欠の「素材」であった。パノプティシズムにおいては、王の崇高な身体にかわって、建築が不在の王の場を占める、というより正確にいえば、それが権力の場所を占めるのだ。建築、空間こそが中心へとやってくるのであり、それは権力それ自体である。
 パノプティコンはもともと亡霊とともに作動していたものである。建築・空間編成自体が亡霊あるいは「神」を生み出すべく構築されているのだ。ボゾヴィッチのいうように、もしパノプティコンが建築されるのを眺めれば、その過程の末尾には、建築物だけではなく、同時に想像的実体たる「神」も生み出されるだろう。とすれば、想像的非実体たる神が生産されるためには特定の編成の建築が必要となるわけである。ベンサムはこう述べている。「[中央搭の]番所は心臓であり、それがこの人口身体に生命と運動を授ける」。人口身体、「生きる実体」。パノプティコンとは、監視者の「不在の身体」に亡霊的機能を授ける彼の声と眼差しによって、生命を与えられる「生ける身体」である。ボゾヴィッチはここで興味深い指摘をおこなっている。「監視者はこの人口身体に自分自身の身体よりも密接につながっている。一方で監視者の彼自身の身体はいわば麻痺している……が他方で、ランプが生み出す眼差しと会話用チューブの助けを借りて(それは人口身体の動脈と神経を表している)、彼は人口身体を完全に統御している」( Božovič p.20 )。
 さて、こうした監視−人口身体は、具体的・物理的身体という限界を有していた。自らの身体よりも密着した身体を持つ監視者はとても肥大化したもので、これでは小回りはきかない。またその限界は、パノプティシズムの衝動である「完全を透明性」によって均したい社会的領野、貫通したい物質的身体に、もぐらの「巣穴」のような閉域を形成させ、それが不可避に孕む陰影に紛争の火種を残してしまう。しかし今や、建築・空間という物理的身体と〈魂〉は結びついている必要はない。というのも監視・情報テクノロジーの高次化によって、監視術が科学的土台を「幾何光学」から「波動光学」へと取り替えつつあるからであり、それが可能にする遠隔監視のテクノロジーによってパノプティシズムのボディは受動的光学器械から能動的光学器械へと変貌を遂げたからである。そしてそれにコンピュータ処理によって可能になった膨大なデータベースの活用がともなっている( Virilio 1998-1999 18-9ページ )。「政治的領野のミニチュア化」の前提がこれだ。そもそもその設計図や完成予想図を思い浮かべれば、パノプティコンの建築的骨組みが一種の遠近法的パースペクティヴを範型としていることが分かるだろう。だが「波動光学」を見いだしたパノプティコンはちょうどモーフィングによるイメージの自在な変容のように、従来の堅固な量塊をみるみるぐにゃりと溶解させはじめた。亡霊はとりつく身体を必ずしも必要としない。あるいは抽象的図式は具体的定在を見いださねば作動できない、ということはない。
  今や亡霊は想像的非実体であるがゆえにあらゆる場所に遍在できるし、少なくともその幻想を煽ることができる。それは〈汎−危機〉の遍在のイメージとともに煽られる恐怖によって「不在の実体」を引き寄せることで、自ら経路をあちらこちらに張り巡らしていく。覆面警察はもしかすると具体的な身体を持たないまま、この経路を訪ねてくるかもしれない。だが、もう1度確認しよう。統合されたスペクタクルの段階の社会とは、完成体だが「脆い」。それはわれわれが「不在の実体」という亡霊を恐怖し、さらに恐怖することで愛しながら引き寄せることでかろうじて浮上している「ボディ」にすぎないからである。


文献
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  • Baudrillard, J. 1981 Simuracres et simulation(竹原あき子訳『シミュラークルとシミュレーション』法政大学出版、1984年)
  • Božovič, M. 1995 Introduction: "An utterly dark spot", in Bentham, J. The Panopicon Writings, Verso.
  • Bracken, L. The Spectacle Of Secrecy, http://www.ctheory.com/r-spectacle-of-secrecy.html
  • Debord, G. 1967 La Société du Spectacle (木下誠訳『スペクタクルの社会』平凡社、1993年)──1980 The steate of spectacle. in Semiotext(e), vol. Ⅲ──1998 Comments on Society of the Spectacle, Verso
  • Deacon, R. 1986 The Truth Twisters (古関哲哉訳『情報操作』時事通信社、1988年)
  • Dick, P. K. 1977 A Scanner Darkly (山形浩生訳『暗闇のスキャナー』創元SF文庫、1999年)
  • Foucault, M 1975 Surveiller et Punir: Naissance de la prison (田村淑訳『監獄の誕生一監視と処罰」新潮社、1977年)
  • Jay, M. Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought, University of California Press
  • Lyon, D. 1994 The Electrinic Eye: The Rise of Surveillance Society, Minesota
  • Marx, G. 1988 Undercover: Police Surveillance in America, University of California Press
  • Ro, R. 1998 Have Gun Will Travel: The Spectculer Rise and Violent Fall of Death Row Records, Doubleday
  • Rothfeder, J 1992(大貫訳『狙われる個人情報──コンピュ夕ー社会の罠』ジャパン・タイムズ、1993年)
  • Virilio, P. 1978 Défense populaire et luttes écologiques, Édition Galilée. ──1998 La Bomb informatique (丸岡高弘訳『情報化爆弾』産業図書、1999年)
  • Virilio, P. /Lotringer, S. 1997 Pure War [ Revised Edition ] Autonomedia
  • Yappe, A. 1999 Guy Debord, University of California Press
  • 伊藤公雄 1993 『光の帝国/迷宮の革命──鏡のなかのイタリア』青弓社
  • 上野治男 1981 『米国の警察』良書普及会

(さかいたかし・社会学)

*1:映画版の『踊る大捜査線』では、警視庁公安部の捜査官たちはつねに顔に暗い影がオトされていて、本来、合同捜査本部でチームを組む「身内」であるはずの刑事部の警察官たちにもそのアイデンティティを明かすことはなかった。これは日本の警察において刑事警察との摩擦を引き起こしている1つの要因である公安警察の秘密主義とそれに付随するエリート主義を皮肉りながら視覚的に表現したものであるが、まさに「スキャナー・ダークリィ」としての公安警察の本性を的確に表現したものであるといえよう。

*2:執筆までにフランス語の原典を手に入れることができなかったために、英訳をもっぱら活用した。したがって引用のページ表記もすべて英訳( Debord, G. 1998, Comments of the Sosiety of the Spectacle, Verso )からである。

*3:たとえば世界中に諜報ネットワークを張り巡らせているNSAは、初期には外交官や軍部の暗号化された無線通信の解読に取り組んでいたが、60年代から、指向性無線通信と衛星による傍受技術の開発によって、その監視能力を上昇させた。しかしその処理が追いつかず、膨大なデータが活用されないまま捨てられるという状況が生じたといわれる。だが他方、情報処理速度の改善と情報連結の技術向上はこの矛盾を解消しつつある。

*4:レン・ブラッケンによる以下の評を見よ。「この本全体が明らかにもっともな理由から秘密のマントで身を包んだ男による秘密についての論文なのである」( Bracken, L. )。また、ブラッケンは『注解』のドゥボールをマキャヴェリと重ね合わせているが、これは正当であろう。さらに、『注釈』では陰謀理論が擁護されており、誤解を恐れずにいえば「陰謀理論」復権の書とも考えられるだろう。だがそれによってこの書物は「陰謀」を新たな位相から捉え返すことを促している。

*5:ちょうど70年代から学生運動の過激化に対応するかたちで日本でも警備・公安部門が加速して肥大していくが、日本では、警察の公安活動が90年代の警察法改正を境に質を変容させながらもさらに深化・拡大している。また、”民活”政権であった中曽根内閣が同時に、元内務省・警察官僚中曽根を筆頭に、官房長宮に後藤田正晴、秦野法務大臣を据えた、”警察・内務省”政権であったことも注意しよう。この時期、内閣直属の秘密警察機能は強化されている。

*6:Abdul+scam (=詐欺、おとり)のこと。

*7:フーコーが『監獄の誕生』第4部で挙げている印象的な人物フランソワ・ヴィドックは興味深い。ヴィドックはフランス警視庁創立当時の刑事であり、特捜班を創設して指揮した。だがその一見栄えあるキャリアの影では、もともとヴィドックはチンケな犯罪者にすぎなかった。彼は刑務所でつかんだ囚人たちの情報を警察に売ることで、警察官として出世の道を歩み、めざましい成果をあげながら新しい「予防的」警察テクノロジーの先駆者となる。ところが、強盗事件に荷担したとのかどで解任されたあと、彼は私立探偵社の先駆けとなった私立捜査社を設立するのであり、これは探偵小説、ハードボイルド小説という大衆文化の1ジャンルの成立を深部から支える権力編成を暗示している。また1848年の2月革命に参加して臨時政府の協力者となった。

*8:覆面工作が捜査官にもたらす心理的インパクトについては、Marx ( 1988, pp. 159-179 )を参照せよ。

*9:日本語タイトルは「シミュラークルの先行」。

*10:ブラッケンによれば現在ではモロ誘拐・暗殺事件やその背景にあるテロリズムが、「モロが自らの所属する党のメンバーによって殺害されたこと、60年代後半と70年代のイタリアの ”テロ” が極左グループヘ侵入し、それを軍事化した右翼活動家によるもの」と認められている。ドゥボールは「イタリア語版 第4版序言」で、支配層の上層へと簡単に侵入できたことを誇る赤い旅団に、当然それがかましでないか疑うべきであるとしているが(「操作者は操作されている」)、ドゥボールは『注解』では一貫してモロ誘拐・暗殺をベルルスコー二などの大物政治家もメンバーとして抱えていた秘密テロ組織言の仕業としている。モロ誘拐・暗殺をめぐる夢幻的ともいえるスペクタクルの暴威のなかで巧みに作動した数々の陰謀については、伊藤( 1993 )を参照せよ。ドゥボールは「この教訓は他の諸国が採用することになるだろう」としているが、この「緊急事態」がバナルなものになるのが統合されたスペクタクルの社会と見なすことができるだろう。また『注解』で「マフィアは現在の企業家のモデルである」とドゥボールは言うが、イタリアに典刑的に見られるマフィアなどによるアングラ経済とオーヴァーグラウンド経済の融合はまた、ドゥボールも指摘しているようにアメリカの音楽産業にもあからさまに進展している。これについてはローニン・ローによる報告を見よ( Ro 1998 )。

*11:これについてドゥボールは『注釈』で、分業の終焉について語っている。リジッドな生産からフレキシブルな生産へ。金融業者は歌手にもなり、弁護士は警察のスパイともなり、俳優は大統領になる。こうしたフレキシビリティは、しかし「パロディ的な」ものだが。「この分業の終焉はどのような本物の能力も消滅させる一般的な動きと規を一にしているだけに、いっそう歓迎される始末だ」。

*12:ヴィリリオと聞き手のシルヴェール・ロトリンガーは Pure War の97年の版では、その時点での新たな対話を付け加えているが、そこでロトリンガーは、アメリカにおいて事態が好転したかとのヴィリリオの問いに次のように答えている。「福祉国家の解体は続いています。セーフティ・ネットはほどけ続けています。人々はふんどしを引き締めています。少なくとも自分のふんどしは。でも軍事予算にはたずなを緩めるのです。その内植民地化は絶頂に達しています」( P. 165 )

*13:マークスはアメリカの文脈で、かつては否定的なものであったものが肯定的なものへと変貌した、近年における「情報提供者/密告者」の価値転換を観察している。さらに「生き残り」という名目でいかにグローバル資本主義に愛されるかを画策する巨大労働組合にせよ、愛されることはもはやシステムの重要な仕事ではなく、ほとんどわれわれのみの仕事となった。

*14:マークスによる「新しい監視」の特徴をいくつか挙げると、それはまず、距離、暗闇、物理的障害を超える/時間を超える。その記録は蓄積され、引き出され、結合され、分析され、伝達される/低い可視性、あるいは不可視性/主要な関心は予防である、などである。