読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

公共性と自由/セキュリティ──社会的連帯の理由をめぐって 斎藤純一

 「公共性と自由」ということに関してお話ししたいと思います。
 公共性をどういうふうにとらえるか。私は、2つの基本的な次元を区別している。だいたい公共
性というと、「共通の」「共約的な」というふうにいくわけですが、もう1つ、むしろ非共約的であるからこそ公共の場が必要になるという考え方があります。これは、ハンナ・アーレントが言ったことですけど、「私」と「他者」が異なっていること、「私」と「他者」のあいだに、「私」が所有し得ない価値の厚さかあり、むしろこれが重要だというわけです。その場合の複数性というのは、リベラリズムのいう複数性とは違って、単にリベラルな多元性、他者が他のようにあろうとする、他のように生きているということに対する象徴ではなくて、実際に「私」が、「私」とは違った価値を生きている人に出会い、その価値にさらされる中で──一種のクロスオーバーです──「私」自身の中に価値の変動が生じるという、1つの他者との交渉を、アーレントの場合には強調しています。
 そういう意味で、アーレントの言葉を使えば、公共性というものは、異なった価値のあいだの common meeting Found 、出会う場所である、非共約的なものが互いにクロスオーバーする空間である。おそらく、こうした非共約性を核として、公共性を特徴づけたのは、ハンナ・アーレントだけだと思いますけれども、リチャード・ローティも、裏返して読めば、こういうふうに読むことができる。
 ローティは、他者に加える暴力をできるだけ最小のものにしていく次元に、公共性を記述するべきであるというふうに主張しましたけれども、他方で、それぞれの人が私的な creation 、自己創造を行うということを強調するわけです。そうすると、私的な自己創造と自己創造とが出会うような、そうした空間を、彼自身もどこかで考えているというふうにみることかできるのではないか。
 アーレントの言葉だと、このクロスオーバーの空間というのは「現われ( appearance )」の空間というふうに考えられます。「私」の言葉や行為によって、「他者」に「現われ」ることかできる。そのための条件としては、なんらかのかたちで「私」に対する表象、集団的な特性によって「私」をステレオタイプな眼差しで眼差す、そうした枠組みが、ある程度緩むということが、その条件になっている。
 その「現われ」の空間を強調すると、現代の社会というのは、むしろ過剰に「現われ」すぎているのではないか。報道すれば、報道することによって情報を売り渡していく。生きることが、同時に多彩な「現われ」となっていくのではないかというご指摘が、当然あると思います。
 ただ、アーレントの言葉でいえば、普通、「現われ」ていくのは、「私」を含む who という局面ではなく、むしろ part の次元です。たとえばどういう組織に属しているか、どういう消費行動をしているか、あるいはどういったDNA上の特性をもっているか、どういうふうな身体の状況にあるのか。しかし、少なくとも「私」は who として「他者」に「現われ」る。そして、「私」の言葉や声に対して、「他者」はその応答を返すというふうな「現われ」とは異なっているというふうに、いちおう考えることができるのではないか。
 もう1つは、共約的な次元のほうで、1つは、それぞれによる価値の追求を等しく制約するルールの設定という、リベラリズムに対抗するような項目です。もう1つは、これがきょうの「セキュリティ」の内容になるわけですけれども、どのような価値を追求するのであれ、誰もが達成し得てしかるべき価値の実現、すなわち「生の保障」という項目です。この公共性は、ア一レントのいう公共性とは違って、誰であれ.等しく達成し得てしかるべき、そういう価値を定義し、それを実現していくという次元にかかわっていると思います。
 その共約的な価値をどういうふうに表現するか。たとえばジョン・ロールズは primary social goods という言葉を使いますが、いちばん有望なのは、いまのところはアマルティア・センの basic capability の概念ではないかと思います。ただし、通文化的に、上からリスト化していくという作業をしていくと、 basic capabiljty か normal pability になり、文化を離れたところから、あるいは社会的なコンセプトを誰れたところから、共約的な価値を規定することになる。そして、そういう基準にそぐわないところを、人間のレベルに達していないというかたちで描くような、エスノセントリックな様相すら含んでしまうということがある。
 ですから、何が共約的な価値を構成するのかは、それぞれの社会における、ある人々が被っていて、自分自身が甘んじている capability のはずである。何が「私」が生きていくうえで痛切に必要としているものなのか、どのような機能の達成を、「私」はいまのところなし得ていないのかという、どちらかといえば欠けているものを当事者か定義していく。それに対して、公共的な議論が反論していくというかたちで定義していくべきだろうと思います。
 いずれにしても、公共性の思想というのは、[私」とは異なった環境、境遇において、「私」とは異なった生を生きている「他者」とのあいだ、 in between を設定している。その他者への関心をつくり出し、維持していくということが条件になるわけですけれども、現代社会の社会秩序の転換の仕方というのは、むしろその距離、隔たりを設定している。明らかに、そういう方向に変化を見せてきているのではないかというふうに考えざるを得ない。それを、カッコつきですけれども、「セキュリティ化」という言葉で表現しました。この場合のセキュリティは、 secure という広い意味ではなくて、むしろ治安管理という意昧でのセキJュリティを意味しています。
 どういうふうな、歴史l上の転換期にあるのかというのを、ごく乱暴にいえば、初期の近代においては、トマス・ホッブズは『リバイアサン』で、基本的には「他者」か「私」に加える暴力からの安全、あるいはその暴力が偏在していることへの恐怖の感情からの解放を、社会秩序を立ち上げるべきモティーフとしていました。
 それが、時代か下るにつれて、18世紀半ば以降、フーコ−が注目するようなポリツァイの権力が出てくる。これは、国民の集合的な身体と生命を増強しようとする、そういう security の権力が登場してくる。1875年から1975年くらいまでは、生命の増強の時代が続きます。社会保障のシステムがドイツにおいて立ち上がってきて、オイルショックぐらいまでは社会保障を中心とした生命の増強のシステムである「生−権力」が、曲がりなりにも構築されてきます。
 それが、前世紀最後の四半世紀あたりから後退していき、社会保障が停滞していく。あるいは逆に後退の方向を示し始めている。それに対して上昇してくるのが、治安管理という意昧での security になってくるのではないか。特に、 social security の後退と physical security の復活という変化は、並行的現象と捉えることができるだろうと思います。
 いま気になるのは、何を、私たちのインセキュリティとしての源泉として押さえるかという点ですけれども、18紀以降の近代の政治思想を眺めますと、「他者」の暴力が強調されたあとは、国家が人々に対して加えてくる、さまざまな恣意的な権力の発効、とりわけ国家テロリズムを含む暴力、これがインセキュリティの源泉として深くとらえられる。それが、モンテスキューなどの権力制限論を導いている。最近では、ジュディス・シュクラーという人がいますけれども、やはり20世紀の経験をふまえたときには、最大のインセキュリティの源泉は、市場でも他者でもなくて、国家であった、組織的な殺戮を行ったのは、公権力であったと述べています。そして、恐怖のリベラリズムというのは、そういう恐怖に立つ限りは、国家の権力の制限ということに、やはり関心を示しています。
 あるいは、ヘーゲルマルクスという流れの中では、市場がインセキュリティの源泉として位置づけられる。ヘーゲルは、『法の哲学』で、市場はやがて均衡を回復するかもしれないけれども、その均衡を回復するまでのあいだ、ある特定の人々が、その特殊的な福祉を剥奪される可能性がある、と述べている。それに対してはポリツァイが──国家の行政部分ですけれども──、その特殊的な福祉を権利として扱う必要かあるとして、社会権の発動を『法の哲学』の中で述べています。
 ところか現在は、どういうわけか、国家とか市場かもたらすインセキュリティにくらべると、非常にプリミティブな、「他者」が私たちにもたらすインセキュリティが、再び強調される傾向があり、そういうことが実際の言説としても、煽られてもいるだろうということがあると思います。
 おそらく昨今のことですけれども、こうしてみると、秩序のあり方というのが、国民統合とか社会統合に基づくインテグレーションとか、インクルージョンによって秩序を保つというよりは、むしろ分断・隔離を予見とした秩序形成に明らかに変っているのではないか。1つの社会の内部でも、片方で安全なコミュニティかあり、片方でゲットーがある。
 たとえば、ロサンジェルスの都市計画は、都市計画そのものによって、ゲットーのインセキュリティが他に及ばないような都市という構造をとりつつある。あるいはニューヨークにおいても、車高規制をめぐらせて、バスやトラックかある地域には入っていかないようになっている。そういうように物理的に、人々が生きる空間のゾーニングが進んできているだろうと思います。
 実は、もう1つの社会の内部だけてはなくて、グローバルな世界の中ででも、社会と社会とのあいだのギャップを広げていくというセキュリティが作られてきている。EUの中では自由な交通を認めていくとしても、EU自体は、エントリーをできるだけ制限して、先ほど出口さんの話で問題として出てきたメンバーシップで、クラブ財をできるだけ限定していくという方向を強めている。
 それだけではなくて、援助の仕方においても、かつては、やがては支援の必要かなくなるような長期的な展望に立ったブロモーションかあったとすれば、知的あるいは情報的なインフラの整備があったとすれば、いまは、アマルティア・センの言葉ですが、プロモーションというよりはプロテクンョン、一時的な方法の援助の仕方に変っている。しかも、難民を外に出すのではなくて、問題が起きた域内に封じ込めた上で、そこに一時的な支援を行っていく。「新しい人道主義」といわれるような、非常にコストのかからない援助の仕方に変ってきている。
 そういうことが、1つの社会においても、複数の社会においても起こり、バリバールの言葉を使えば、「安全な」空間と「安全を要する」空間との隔離というのか、決然と行われてきているのではないかと思われます。そういう意味では、経済的、社会的、政治的な排除か互いに連動していくことを前提とした秩序の形成が進んでいる。セイフティネットと治安管理が同時に整備されるわけです。私はあまりセイフティネットという言葉は好きじゃなくて、これはハイエクが『自由の条件』の中で引いている言葉です。ハイエクは、事後的な救済をはかる最低限のセイフティネットは認めるわけですね。
 最後にお話ししたいのは、国民の統合、社会統合は自明なものではない、この私たちの社会、国民社会とか、ナショナル・ソサエティ、あるいはバリバールの言葉を使えば「国民社会国家」というのが、「私」にとっての生の拠り所という意味を失いつつある、ということです。
 Überlebenseinheit、つまり国民社会か「私」にとっての生の拠り所であるという感覚そのものが失せてきている。その実際のしるしとしては、ほんとうにそういう感覚を表しているのかどうかわかりませんけど、たとえば国民年金の未納者/滞納者の割合か4割に到達している。そういう意味では、国民的なセイフティネットに対する信頼がガタガタと崩れてきていて、自分がその国民の1人というふうに考える感覚がますます希薄になっている。
 では、それをどういうふうに変えていくのか。1つは、ヨーロッパの右翼が典型ですが、むしろ国民統合を大切にした上で、社会保障を守ろうとするようなやり方。もう1つは、国民統合に依拠しない仕方で、いかに生の保障の仕組みを考えていくのか。既に実態としてそうなっていますけれども、社会保障に関するクラブ財は、ナショナリティでは仕切られていないということですね。難民条約は、永住市民をはじめとして、一定年数の居往者であり、合法的な滞在者であれば、その社会的な権利は享受することができる、と定めています。いかにそういう枠組みを実施していくか。
 あとは、国際社会全体を、連帯のユニットに準じたものに、どういうふうに構成しなおしていくことができるのか。国連開発計画という機関は、北が南の開発援助をすることによって、国際社会のセキュリティを補完するという意味合いをもっていますし、非常に穿った見方をすれば、南のインセキュリティを北が分離しなから管理するという発想に進んでいくかもしれない。
 ただ、全体としては、たとえば知的財産権について、南からのアクセスか疎外されていて、HIVエイズの発症を抑える薬が、知的財産権のゆえに非常に高価なものになっている。薬を、私的な財ではなくて、国際社会における公共財として捉えかえしていこうというような提言を、たとえばブッシュがしていて、それな引こ兄るべき方向はあると思います。