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サイバーシティのロボット Robots in the Cybercity 毛利嘉孝

1. 『ブレードランナー』という問題

 リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』は、公開から20年以上たっているにもかかわらず、今でも批評の対象に挙げられるカルト的な作品である。この作品は、今日のロボットと都市、そして人間の関係を考えるうえでもやはり示唆に富んでいる映画であるので、ここでも議論の出発点として取りあげてみよう。
 『ブレードランナー』の舞台は、2019年のロサンゼルス。酸性雨が降り続け、退廃的な繁栄と廃墟が共存する都市は、多国籍企業によって支配されている。多くのSF映画が、これまで宇宙をテーマにしていたのに対して、この『ブレードランナー』は徹底的に都市をその舞台としている。このために、この映画は、その後の都市計画、デザイン、映像表現の想像力の源泉として機能してきた。
 この映画の特異性は、3つの雑種性(ハイフリディティ)から構成されている。1つは時間の雑種性である。この時間の雑種性は、「近未来」という奇妙な時間軸を空間に導入したことによって生み出されている。それは、過去と未来が現在の中で混在している時間である。この時間は、未来でありながらどこかノスタルジックであり、それゆえ私たちが今経験している「未来」という不思議な時間の経験を喚起したのだ。
 もう1つは空間の文化的雑種性である。「強力ワカモト」の広告。日本そばの屋台。怪しげな中国風の薬局やペットショップ。様々な言語が飛び交い、けばけばしいネオンに彩られた空間は、ロサンゼルスでありながら、どこか東アジアの都市風でもある。それは単に予定調和的な空間ではない。言語の雑種性は、しばしば深刻なディスコミュニケーションをもたらし、人々はお互いの素性をほとんど知ることがない。それは、雑種的な空間であるが、融合よりもむしろ衝突の空間である。
 最後の雑種性は、生物と機械の雑種性である。ペットショップで売られる爬虫類の多くは精巧な人工品である。そして、何よりも重要なのは、ハリソン・フォード演ずる主人公のデッカードや他の登場人物よりもはるかに人間らしい「レプリカント」と呼ばれる人造ロボットである。この雑種性の重要なポイントは、あまりにも雑種化が進んでいるために、もはやお互い見分けがつかなくなってしまっている。
 この3つの雑種性は、物語の多義性を構成する。映画そのもののストーリーは物語の伝統的な構造に沿っている。地球の植民地である火星で過酷な労働に従事させられている4人のレプリカントが脱走し、地球に戻ってくる。元ブレードランナーデッカードは、この4人を捕まえることを命じられるのだが、その過程の中でレプリカントの持っている人間らしさに魅せられ、恋に落ちてしまう。
 しかし、人間とレプリカントの雑種性は、表面上は典型的なラブロマンスに見えるこの物語を根本から揺るがしてしまう。最後まで映画を見終わると、私たちは、デッカードがそもそも人間だったのか、あるいは人間側でふるまってきた登場人物がそもそも伝統的な意味において人間だったのかどうかということに自信が持てなくなるのだ。そもそも、人間であるということはどういうことだったのか。人間とレプリカントを分けるものとはなにか?
 映画『ブレードランナー』の原作は、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。『ブレードランナー』は、映画化に際し、エンターテイメントのために物語を単純化し、原作が持っていた哲学的問題を後退させたとされている。しかし、映画にもやはり人間とロボットとの関係のある認識論的転回の痕跡を見ることができる。そしてこの転回は、私たちが今日人間と機械、ロボットと都市を考えるうえでも無視できないものである。
 ところで、『ブレードランナー』はその直後に発表されるウィリアム・ギブソンのSF小説『ニューロマンサー』などと並んで、80年代の「サイバーパンク」と呼ばれる動向の中心的な作品と目されている。
 サイバーパンクの1つの特徴的な様態は、人間と機械の雑種化であるとともに、物理的な都市空間と非物理的な情報空間の雑種化としてとらえられるべきだろう。サイバーパンクの舞台であるサイバースペースは、ネットワークの中に構築されるヴァーチャルな空間であるが、それは恒常的ヒューマン・インターフェイスに接続されている。それはいわば脳内の記憶や活動の外部化された場なのである。『ニューロマンサー』の登場人物は、ネットワークにジャックインし、サイバースペースの中を駆け巡る。
 物語としてはいささか陳腐な『ニューロマンサー』を時代を象徴する作品に仕立て上げたのは、何よりもその未来ヴィジョンである。そこでは身体や思考といった物質的な存在が、データや情報のように非物質的な存在と交換可能なもの、相互に浸透していくものとして扱われていたのである。
 このサイバーパンクの予言的なヴィジョンは、90年代になるとインターネットの急速な拡大 という事態によって一気に現実化していく。インターネットは、自己生成型の巨大なデータベースだ。このデータベースが従来型のデータベースと異なるのは、データベースの構築が集中型でなく分散型であり、絶えずインタフェースを通じて開放されており、参加者によって更新されていることである。この結果、データベースの情報の精度は落ちるものの、情報量は飛躍的に向上する。
 インターネットで情報を検索していると、奇妙な感覚にとらわれる。それは情報の集積であるが、その自己生成能力のために「生きた」情報という感覚が与えられるのである。そもそもインターネットに氾濫している情報は、コンピュータや機械の情報なのだろうか、それとも人間の情報なのだろうか。それは、単に機械を介在した人間の情報と呼ぶべきなのだろうか。それ以上のものだろうか。
 エドワード・ソジャは、都市のいたるところに情報やデータが偏在しているポストモ ダン都市のあり方を「現実的かつ想像的な場所 Real and Imagined Places 」と呼んだ。そこで、都市は単に物質的なものではなく、非物質的な情報やデータ、記憶などが不可避に絶えず書き込まれ、メ ディアと相互に浸透しているある特徴的な空間としてとらえなおされたのである。
 『ブレードランナー』やサイバーパンク的な都市の認識論は、人間と機械の関係のある反転を示している。以下、都市とロボットの関係を考えるためにこの反転を考察してみよう。ここで手がかりにするのはデヴィッド・ハーヴェイの批判的地理学におけるレプリカント論である。ここでレプリカントは現代に特有の「労働」のモデルとして扱われている。この検討を通じて、人間と機械、都市とロボットの将来的な関係について考えてみたい。


2. フォーディズム体制下の労働者とロボット

 地理学者のデヴィッド・ハーヴェイは、地理学だけではなく広く人文社会学に影響を与えたその著作『ポストモダニティの条件』*1の中で、ヴィム・ ベンダースの『ベルリン・天使の詩』と並んで、『ブレードランナー』を都市におけるポストモ ダン的文化の時間と空間のあり方を象徴的に示したものとして分析している。
 ハーヴェイは、もともと政治経済学な批判的地理学の大御所の1人であるが、空間のポストモダン的編成の考察に当たり、その対象を、大幅に映画や美術、建築のような文化事象の分析にシフトさせている。『ポストモダニティの条件』はその成果の結実といっていい。
 ハーヴェイの議論は、フランスの批判的経済学であるレギュラシオン学派を継承した、ある1つの前提に立っている。その前提とは、1970年代の中ごろを境にして、それまで近代的な空間編成を決定づけていた近代的資本主義の生産関係が質的に変容し、ポストモダン的な生産関係が支配的な様式になってきたという前提である。映画という文化、メディア産業の領域がハーヴェイの分析の中で特に焦点をあてられていること自体、この生産様式の変容とも対応している。
 ハーヴェイの議論に従えば、その生産関係の変化は、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの変化として特徴づけられる。フォーディズムとは、よく知られているとおり、自動車会社フォードが1914年に日給5ドル、1日8時間労働を導入したところに始まる。これは、生産の発展という観点からはオートメーションによる分業体制の確立と大量生産に対応している。このことによって、労働者は断片化された単純労働に従事するようになり、非熟練労働者の多くが安い労働力として編入された。
 しかし、フォーディズムが導入したのは単なる生産様式だけではない。大量生産は同時に、商品を販売する対象となる消費者も同時に必要とした。そして、それは同時に新しい生活様式ももたらしたのである。
 フォーディズム体制下で働く労働者は、生産者であると同時に自分たちが生産した商品の最初の消費者であることを期待された。組合や労働契約に基づく安定した雇用関係、終身雇用制、日曜祝日などレジャー時間の確保、ローン制度などの社会制度。こうした制度は、一方で労働運動や組合運動の成果でありつつも、同時に資本の側も必要としたものだったのである。いわば労使関係の合意形成といった概念そのものが、フォーディズム体制の産物だったいえるかもしれない。
 自動車、電化製品などの工場生産を労働の規範とするフォーディズム体制において、機械とは人間の外部に存在し、しばしば鋭く対立するものだった。その典型的なイメージは、1936年のチャップリンの映画『モダン・タイムズ』の中で見ることができる。
 『モダン・タイムズ』の舞台は、何を生産しているのかよく分からない工場である。登場人物は朝から夕方までひたすら単調な作業に従事している。その作業は、人間ではなく機械のリズムによって支配されている。機械のリズムから少しでも遅れるとすぐに作業がたまってしまう。生産性を挙げるために生産管理者が行うのは、ベルトコンベアーの速度を上げることである。
 チャップリンは、ベルトコンベアーから流れてくる部品のナットを締める担当なのだが、あまりにも単調な作業を繰り返しすぎたために、作業が身体化され、休憩時間でも勝手に手がナットを締るような動きをしてしまう。あたかも機械による完全な身体の支配が行われているかのようである。
 ベルトコンベアーの前の人間は、徹底的にロボットに、よく知られる比喩を用いれば「組織の歯車になる」ことを要求されるのだ。あるいは、こういってもいいだろう。ロボットは、ある意味で理想的な労働者の姿である。単調で反復的な仕事を不平もいわずに淡々とこなす労働者。この労働者は個性を持つことよりも没個性であることを要求される。
 しかし、これは否定的な側面だけではない。「組織の歯車」であることは単なる批判や自嘲ではなく、しばしば、フォーディズム的な生産においては労働の美学として、積極的に労働者によって支持され、肯定的な意味を持って登場する。ここで重要な概念は、反復性、同 一性、そして永続性である。


3. ポスト・フォーディズム生産体制とレプリカント

 ハーヴェイの議論では、今日ではフォーディズム的な生産様式が後退し、ポスト・フォーディズム的生産様式が支配的な生産様式になりつつあるという。では、ポスト・フォーディズム的な生産様式はどのような特徴を持っているのだろうか。
 フォーディズム的生産様式のモデルとなるのが自動車工場のような製造業だったのに対して、ポスト・フォーディズム的な生産様式の支配的な産業は、情報やサービス、メディア産業、金融業など非物質的な産業である。こうした非物質産業の現場では、かつての自動車工場のような場で生産が行われるわけではない。
 労働の中心的な空間は、閉じられた工場やオフィスではなく、都市の一部であり、電話やインターネットなど電子的な空間(つまりは開かれた空間)である。この新しい生産様式の主役になるのは、均質な一国内の労働者ではなく、様々な異質な、分断された労働者からなる多国籍企業である。
 この新しい生産の様式は、伝統的な製造業の質も変容させてしまう。例えば、ユニクロやベネトンのようなファッション・ブランドはもはや伝統的な意味での生産を国内ではほとんど行っていない。デザインやマーケティンク、商品開発や広告、そして流通を国内で行い、生産は労働力の安い海外に移転させてしまっている。
 フォーディズムとの関係で言えば、自動車産業も例外ではない。例えば、トヨタのかんばん方式、ジャスト・イン・タイムなどの生産様式は、大量生産の時代の過剰在庫を解消するものだが、巨大なオートメーション工場の代わりに、徹底的に断片化された生産現場を情報ネットワークによってグローバルな規模で接続することによって可能となったものである。
 こうした生産組織と労働力の流動化は、国内の労働力も再編する。この労働力の一層の断片化・流動化によって、労働力の中心は、正規労働者から徐々に契約社員やパートタイム労働者、派遣社員などに取って代わられる。ここで重要なのは、「フレキシビリティ」という概念である。労働者の時間は、パートタイム労働や派遣労働において可能な限り断片化され、資本のニーズにあわせて柔軟かつ迅速に再編されるようになるのである。
 『ブレードランナー』の議論に戻ろう。ハーヴェイによれば、『ブレードランナー』に登場するレプリカントは、こうしたポスト・フォーディズム的な生産に対応するために必要な特質をすべて備えた完璧な見本である。レプリカントには、人間と同じような、場合によっては人間以上の運動能力と知性が与えられている。そ れは人間の究極のシミュレーションなのだ。
 しかし、彼らが何らかの形で秩序を脅かすかもしれないという懸念のために、レプリカントには4年間の寿命しか与えられない。レプリカントたちが、ロサンゼルスに舞い戻ってくるのは、そのプログラムを変更すべく製造元であるタイレル・コーポレーションに忍び込むためである。
 4年の寿命という設定は、今日の労働者のフレキシビリティのあり方を象徴的に示している。フォーディズム的生産とは異なり、ポスト・フォーディズム的生産様式において、労働力とはもはや再生産されるものではなく、使い捨てられ、その後は破棄されるものとして扱われるのである。
 レプリカントに、限定的ではあれ、感情が与えられていることにも注意を払うべきだろう。ポスト・フォーディズム的な生産様式においては、労働の場で人間はロボットのように感情を押し殺すことを期待されない。なによりもこの生産様式の基本的な労働は、コミュニケーションである。コンビニエンス・ストアからファース ト・フードにいたるまで、多くのパー トタイム労働において、笑顔や丁重な対応、人あたりのよさや好感度、つまり広義のコミュニケーション能力は最大の商品である。
 あるいは、情報産業やメディア、出版産業において、コミュニケーション能力は、労働者にとって何よりも重要な価値である。連帯感、友情、信頼といった感情を土台とした価値が労働者、労働力、生産関係の根幹を形成するのである。現在の労働者は、フォーディズム的生産の工場のように没個性的であることよりも、より感情的に豊かで個性的であることを強要されるのである。
 したがって、人間とレプリカントは対立するものではない。レプリカントは懸命に人間を真似ようとし、人間以上に人間であるべく懸命の努力をする。『ブレードランナー』においてレプリカントを追いかけるデッカードが、無益な暴力や殺人に辟易しており、本来敵対するはずのレプリカントにしばしば助けられ、奇妙な友情を取り結ぶのも、ポスト・フォーディズム体制下においては、人間もレプリカントも多国籍資本の圧倒的な権力の下に包摂されてしまっているという点ではまったく同じ立場を共有しているからである。
 レプリカントは人間のシミュレーションであるが、人間もまたレプリカントのシミュレーションになり、どちらがオリジナルであり、どちらがコピーであるのか判然としなくなる。


4. 機械都市からサイバー都市へ

 都市歴史家のクリスティーヌ・ボイヤーは、『サイバーシティ』*2の中で、都市計画のモデルが機械からコンピュータへと変容していることを指摘している。
 19世紀から20世紀にかけて形成された近代都市は、なによりも人工物の象徴だった。ボードレールをはじめとする詩人やモホリ・ナジのような芸術家たちの 多くが、都市の人工性、機械やテクノロジーとの結びつきを称揚した。ジョージ・ジンメルのような社会学者は、都市生活によって形成される独特の近代的経験を、その過剰な刺激と経験の断片化として描き出した。ブリッツ・ラングの歴史的映画『メトロポリス』を想起するまでもなく、近代都市は機械、そしてフォーディズ ム的工場のアナロジーとして表象されたのである。
 ボイヤーは、歴史学者のミシェル・フーコーを想起しながら、近代都市=機械都市は、様々な囲い込みの建築空間から構成されていたことを指摘している。この囲い込みの空間とは、精神病院、刑務所、工場、軍隊、学校、家族といった単位である。フーコーの議論によれば、人々の身体はこうした囲い込みの空間によって規律訓練され、〈従順な〉近代的身体と変容させられる。
 しかし、今日ではこうした囲い込みの空間は相互に浸透しており、もはや閉じられた空間であり続けることができない。ボイヤーは、ジル・ドゥルーズの「規律社会から管理社会へ」という議論を引用しながらこのように主張する。もはや、都市空間は規律訓練された労働者からなる秩序のある計画的な場ではなく、コンピュータ・ネットワークのグローバルなフローの空間として特徴づけられるようになるというのである。機械都市が、様々な囲い込みの空間を通じて権力を浸透させていくのに対し、この新しいサイバー都市では、権力は完全に断片化し、分散化している。こうしたサイバー空間では、もはやどこにいるのかはあまり重要ではなくなり、移動が生活の中心的な営為になる。携帯電話をはじめとする様々な移動体技術が支配的なテクノロジーとなるのである。
 このサイバー都市を背景に置いたときに、『ブレードランナー』におけるレプリカントは、たしかに1つのポスト・フォーディズム的なロボットの形態ではあるが、それはまだ萌芽にすぎず、かつての近代都市を引きずっている感もぬぐえない。『ブレードランナー』が発表された1982年には、情報化社会のイメージはコンピュータ・ネットワークの発展が支配的であり、携帯電話の普及がもたらす移動性の向上や、そのインフラとなる情報ネットワークのユビキタス化についてはほとんど関心が払われていなかった。
 今日のサイバーシティでは、これまでにないほどに、労働者の時間と空間、そして身体は分断され、分割されつつある。パートタイム労働やインターネットを通じた企業や労働の提供などを例として想起したい。こうしたこの20年間の変化を振り返ったときに、レプリカントさえ古い労働の形態に見えてくる。
 この時代に、私たちはどのようなロボットの像を描くことができるのか。それは依然として人間の形象をとる必要があるのだろうか。あるいは、映画『マトリックス』の登場人物のように自在にその身体を変容させる、「フレキシブル」な身体を身につけていくのだろうか。


毛利嘉孝( Yoshitaka Mouri )

1963年3月21日生。1986年京都大学経済学部経済学科卒業、その後広告会社に勤務、広告制作、イベント制作、営業企画などに関わった後英国留学。1995年ロンドン大学・ゴールドスミス・カレッジ、メディア・コミュケーションMA取得、2000年同大学社会学PhD取得。1998年九州大学大学院比較社会文化研究科助手、1999年九州大学大学院比較社会文化研究科助教授を経て、現在九州大学大学院比較社会文化研究院助教授、2002年9月〜2003年9月 ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ客員研究員、2003年4月〜2004年3月東京大学社会情報研究所助教授(併任)。主著に『文化=政治:グローバリゼーション時代の空間氾濫』月曜社刊など。

*1: D. ハーヴェイ、吉原直樹訳: ポストモダニティの条件. 青木書店、1999.

*2: C. ボイヤー、毛利嘉孝訳: “サイバーシティという想像的な現実の世界: 電子コミュニケーション時代の都市”、10+1、no .7. pp.92-108. 1996.