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ネオリベラリズム分析の検討 ──支配的影響力の要因と「脱政治性」の観点から── 石田潤一

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序章


 今日の世界において、ネオリベラリズムは、支配的な思想潮流となっていると言って良いであろう。例えば、2010年に、 ” A Very Short Introduction ” シリーズから、一般的な概説書として Neoliberalism が刊行されていることからも、ネオリベラリズムが今日的問題であり、考察すべき対象であることが窺える*1
 ここで、ネオリベラリズムの意味するところを簡単に確認しておく。デヴィッド・ハーヴェイ( David Harvey )によれば、 ネオリベラリズムとは、「強力な私的所有権、 自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論」である*2。また、佐藤嘉幸は、次のように主張する。すなわち、「新自由主義的統治とは、古典的自由主義に見られるような自由放任に基づく統治ではなく、社会体に積極的に介入してその全局面を市場化し、それを競争で満たすような統治である」という*3。つまり、ネオリベラリズムとは、社会の諸領域を市場化し、制度的枠組を整えるが、実際の諸活動には関与せず、自由な競争に委ねるべきとする思想及びそれに基づく実践であるとされる。
 それでは、なぜネオリベラリズムは支配的になりえたのであろうか。本稿では、イデオロギーとしての(思考様式や価値体系を表す)ネオリベラリズムが、支配的になりえた要因(イデオロギー戦略や時代背景等)を考察の対象とする。ただし、ネオリベラリズムを直接検討するのではなく、上記に関する先行研究を整理・検討することを目的とする。
 整理するに当たり、本稿では、「脱政治性」を基軸とする。有賀弘らは、『政治』という著書において、自治と統治の観点から「政治」を分析し、その機能について次のように指摘する。すなわち、政治の機能とは、「異なった意見、対立する考え方や利益を調整し、協力せしめて、1つの社会としてまとめ、安定と秩序とを作り出していくことにある」*4という。本稿では、上記に示されている、 「異なった意見や対立する考え方の調整」という観点に着目し、「対立する複数の考え方を考慮せず、もしくは、そもそも複数の考え方の存在を認めず、調整を行わないこと」を「脱政治性」として捉える。
 本稿において、以上のような観点を採用するのは、この「脱政治性」こそ、ネオリベラリズムの受容を促進し、その支配的な影響力をもたらした重要な要因の1つであると考えるためである。例えば、この点については、以下のような指摘がある。
 テリー・イーグルトン( Terry Eagleton )は、サッチャー革命のイデオロギー的効果について、次のように指摘している。すなわち、サッチャリズムは、イデオロギー的価値観の大改革を目指したものであったが、ほとんどのイギリス人は、従来の社会民主主義的な考え方に今なお固執しているという*5。また、酒井隆史は、ニューライトによるヘゲモニーの掌握が、サッチャーレーガン「革命」のようにドグマティクな教義による「一撃」としてではなく、「なし崩し」 の連続によって為されたように見えると主張する。 そして,「支配的な諸々のイデオロギーはもはやほとんど論証なしであらかじめ勝ち誇っているかのようなのである」と指摘している*6
 つまり、サッチャー( Margaret Hilda Thatcher )やレーガン( Ronald Reagan )の「革命」が、価値体系の劇的な転換に成功したわけではないにもかかわらず、ネオリベラリズムは、その教義への積極的な賛同と政治的な選択を欠いたまま、半ば自明のものとして受容され、支配的になったということである。その様な受容の背景には、ネオリベラリズムを「必然的なもの」ないし「仕方がないもの」として捉える考え方がある。本稿では、以上のような受容のされ方を「脱政治性」という観点から考察する。
 また、ネオリベラリズムの受容において、以上のような傾向が認められるとすれば、ネオリベラリズムに対するイデオロギー批判のあり方も、そのような傾向に対応したものでなければ、有効なものにはならないだろう。本稿では、上記の支配的影響力の要因に関する分析を踏まえて、ネオリベラリズムに対する批判も合わせて検討することで、付随的にではあるが、有効な批判の可能性を追求したい。
 以下に、本稿の内容を簡単に示す。まず、Ⅰでは、主にハーヴェイとアンドリュー・ギャンブル( Andrew Gamble )の理論を対象に、「自由」を普遍的な価値とするネオリベラリズムのイデオロギー戦略と、それを支える時代背景としての社会民主主義や社会主義といった対抗イデオロギーの弱体化についての分析を考察する。そして、その様な戦略と時代背景の捉え方に対して、どの様な批判が展開されているかを検討する。次に、Ⅱでは、ウルリッヒ・ベック( Ulrich Beck )やピエール・ブルデュー( Pierre Bourdieu )の分析を中心に、グローバル化の諸言説と結びついたネオリベラリズムのイデオロギーである経済主義が、市場の支配とネオリベラリズムの必然性を主張していること及びそれに対する反論について考察する。また、その様な経済主義が背景となり、自由概念の中でも、「市場の自由」が強調されていることについてのハーヴェイの分析を検討する。そして、Ⅲでは、Ⅰ・Ⅱで考察の対象としたようなネオリベラリズムの脱政治的イデオロギー戦略と、ポストモダンと呼ばれる状況の親和性に関するギャンブルの主張を説明し、その上で、ネオリベラリズムポストモダンの関係性についての酒井の分析を検討する。
 尚、本稿では、ネオリベラリズムのイデオロギー的側面を考察の対象とするため、ネオリベラリズムに基づく具体的な諸政策ないし実践面については、両者の関連性を認めつつも、考察の対象外とする。



Ⅰ 自由概念の「脱政治性」


 ネオリベラリズムは、自由という抗いがたい価値を前面に押し出すことで、その主張を正当化し、脱政治的な受容を強いるというイデオロギー戦略を採用していることが指摘されている。本章では、まず、ネオリベラリズムにおける自由の強調についてのハーヴェイの指摘と、その戦略を支える時代背景としての対抗イデオロギーの弱体化について考察する。次に、その様な戦略に対する批判の試みについて検討する。


1、 「自由」という概念装置
 ハーヴェイは、特定の思考様式が支配的になるための条件について、以下のように指摘している*7

何らかの思考様式が支配的になるためには、われわれの住んでいるこの社会の中で実現可能性があると思わせるだけでなく、われわれの直感や本能、価値観や欲求に強く訴えるような概念装置が提示されなければならない。それに成功すれば、この概念装置は常識の中に深く埋め込まれ、自明で疑いのないものになる*8


 つまり、特定の思考様式が提供する概念が、常識として捉えられるに至ったとき、その思考様式は支配的になるというのである。ネオリベラリズムは、その様な概念の提示に成功したため、支配的な思想になりえたということになる。
 そして、ネオリベラリズムが「文明の中核的価値」として提示した概念こそ、「人間の尊厳や個人的自由という政治理念」であった*9。それらの概念は、実際に抗いがたい魅力を持っているため、自己決定能力を尊重するすべての人々に訴える力があり、とりわけ、アメリカを中心に伝統的に価値を認められている自由概念は、強力な正当化の装置として機能しているという*10。そこでは、自由が唯一の普遍的価値として絶対化され、他の諸価値及び諸権利は考慮されることがない。
 以上のように、抗いがたい価値としての自由を、普遍的なものとして脱政治的に受容させることが、ネオリベラリズムが支配的になりえた要因の1つである、とハーヴェイは主張している。


2、対抗イデオロギーの弱体化
 上記のイデオロギー戦略が成功するためには、自由という価値の普遍性を認めさせなければならない。ネオリベラリズムは、社会民主主義の危機と冷戦の終結という時代背景を利用して、自由の絶対化を試みる。すなわち、対抗イデオロギーが消滅し、自由主義が勝利したとされる状況に基づき、自由概念及びそれを至高の価値として尊重するネオリベラリズムを脱政治的に受容させようとするという。
 先進諸国におけるネオリベラリズムの本格的な拡大は、1970年代後半のイギリスにおける、サッチャリズムからであるとされる。このサッチャリズムは、70年代の「資本主義の危機」に対して、社会民主主義に基づく福祉国家モデルでは十分に対応できなかったことを受けて生じたものである。 ギャンブルが指摘するように、「1970年代中頃の資本主義の危機は、同時に社会民主主義の危機でもあった」*11のである。社会民主主義に対する信頼が低下したことにより、右派が社会民主主義的コンセンサスを放棄し、ニューライトによる主導権の確立が目指されるようになったということである*12。以上のように、ネオリベラリズムは、その出発点からして、もはや実効的ではないと見做された社会民主主義モデルを克服すべく登場したのであり、自らを「唯一の道」と主張していたのである。
 一方、ヨアヒム・ヒルシュ( Joachim Hirsch )は、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行という観点から、 「グローバル資本主義新自由主義的な再編成」*13を分析している。ヒルシュは、フォーディズムの危機としての70年代の「危機」が、 「社会民主主義時代」 を終わらせたため、 保守的でネオリベラルな政府が拡大したと指摘している*14
 また、ギャンブルによれば、以上のような社会民主主義の信頼低下に加えて、ソ連の解体後には、競争相手としてのマルクス主義が消滅したと考えられ、ネオリベラリズムは、より一層普遍的なものとして主張されることになったという*15。 冷戦の終結は、 しばしば「自由主義の勝利」として語られている。ギャンブルは、「自由主義の勝利」が「ぺシミスティクな時代の読み方」*16であると指摘し、 その内容について、 以下のように言及している。

リベラリズムの勝利とは、自由市場資本主義と自由民主主義がすべてであり、改善することなぞできないのであって、もしもそうした選択をしたら、人間社会は事態を悪化させることになる、ということを意味している。革命の実行者になりうる主体はすでに存在しないし、現状から将来の可能性を識別できる批判的思考ももはやない*17


 また、森政稔は、「冷戦終結後の政治勢力の分布図を思い描くとき、やはりその中心にある支配的な考え方は自由主義である」*18と指摘している。
 以上の様に、対抗イデオロギーの弱体化を受けて、「自由主義の勝利」と見做されるような状況が生じたことが、上記のネオリベラリズムのイデオロギー戦略を支える機能を果たしたと言えるだろう。


3、自由概念の絶対化批判
 では、 「自由主義の勝利」と呼ばれる時代背景を前提とする、自由概念の絶対化は、どの様に批判されているのであろうか。
 まずは、ハーヴェイによる、自由の絶対化に対する批判を考察する。ハーヴェイは、多様な正義の概念が存在する中で、「特定の正義感や権利概念だけが、 支配的な社会プロセスによって採用され依拠されてきた」*19と指摘する。そして、ネオリベラリズムにおいては、個人とその自由が強調され、平等、民主主義、社会的連帯といったあらゆる社会民主主義的な関心は切り捨てられているという*20。確かに、ネオリベラリズムが強調する「自由」及びそれに基づく権利自体は、必ずしも否定すべきものではない。しかし、自由に基づく権利は、必ずしも他の権利に優越するものではなく、まして唯一絶対の権利ではない。
 上記を踏まえ、ハーヴェイは、ネオリベラリズムの主たる権利を派生的な権利と位置づけ、それらとは全く異なる権利の概念を提起することで、ネオリベラリズムヘゲモニーに挑戦することを主張している*21。それは、以下に示す様な考え方に基づいている。

特定の権利を問い直そうとすることは、とりもなおさずそれが位置している社会の仕組みを問うことにほかならない。逆に言えば、権利や正義に関するひとつの支配的な概念から別の概念に鞍替えすることなしに、(たとえば市場交換による資本蓄積から民主主義政治と集団の連帯へと)社会の支配的仕組みを変えることは不可能だということになる*22



 また、ハーヴェイは、 「権利の正しい概念をめぐる政治闘争は、どのような可能性や別の選択肢が表明され具体化されて、その結果どんな政治経済的営みに結実するかにかかっている」*23と主張している。つまり、ハーヴェイは、ネオリベラルな権利概念とは異なる権利概念を提起することで、ネオリベラルな概念の普遍性が「虚偽」であることを暴露し、権利概念の決定を政治的選択の領域に持ち込もうとしているのである。
 更に、対抗イデオロギーが消滅し、選択肢が消滅したとする前提自体に対する批判も展開されている。ギャンブルは、資本主義の拘束の下での政治と選択肢の可能性について、次のように主張する。すなわち、個人的権利や分権化された市場といった資本主義経済の制度上の特徴は、政治が差配することのできるものを制限するが、それは、制度内に選択肢が存在しないということを意味しない。 「政治を通じて決定され、 形成される他の選択肢の可能性は広範囲にわたっている。資本主義の多くの変型、さまざまな制度的配置、多様な法体系、国家を支えるさまざまな役割、多様な文化が存在する」*24という。また、「指令経済への不信認が、平等に関する論議と、社会をどのように組織したら、その全市民に生涯を通じて完全に参加を許し、彼らの能力を最大限に発現できるかに関する論議を終了させるという考え方は、とりわけ、異常である」*25とも指摘する。ギャンブルが主張しているのは、対抗イデオロギーの消滅として語られる社会民主主義の危機や冷戦の終結は、あくまでも特定の段階ないし制度の終了であって、自由(資本)主義またはネオリベラリズムの普遍性を示すものではないということだ。ネオリベラリズムに対する多くの選択肢が、未だに存在しうるのであり、政治的に対処すべき問題がまだ残っていると言うのである*26
 例えば、デヴィッド・ヘルド( David Held )の主張は、ネオリベラリズムの国際的な戦略と見做される、いわゆる「ワシントン・コンセンサス」に代わる、実現可能な選択肢を提起しようとする試みである。ヘルドは、従来の社会民主主義的な概念及び価値観の重要性を認め、社会民主主義グローバル化した世界状況に適応させる試みを展開している*27
 上記の批判及び問題提起は、自由主義ないしネオリベラリズム以外のイデオロギーの可能性を示すものであるが、自由主義自体の問題点についての指摘も存在する。例えば、藤原保信は、今日の世界における様々な問題は、自由主義の所産として生じたものであると指摘し、 自由主義に自己修正を迫るために、 その限界と陥穽を明確にしようと試みている*28


4、小括
 本章では、まず、ネオリベラリズムが支配的思想になりえた要因として、 「自由」という概念装置を用いたと分析するハーヴェイの主張を、「脱政治性」という観点から考察した。次に、その様なイデオロギー戦略を支える時代背景として、社会民主主義の危機と冷戦の終焉という、対抗イデオロギーの弱体化が存在することを確認した。そして、その様な時代背景を利用して、自由を絶対化する戦略に対して、どの様な批判ないし抵抗が試みられているかを検討した。



Ⅱ ネオリベラリズムの経済主義


 本章では、グローバル化の諸言説と結びついた経済主義が、ネオリベラリズムの受容における「脱政治性」を生じさせる要因であるとする分析について考察する。経済主義は、「市場の自由」 を強調する言説の背景ともなっている。 そして、 経済主義に対する反論が、どの様に展開されているのかを検討する。


1、経済主義とグローバル化
 ネオリベラリズムは、グローバル化の諸言説と結びつき、市場原理の支配とネオリベラリズムへの転換の必然性を主張していることが指摘されている。
 ギャンブルは、ネオリベラリズムグローバル化の結びつきと、その普遍化戦略について、以下のように指摘する。

1970年代および80年代に、グローバル化ネオリベラリズム、そしてその固有の政策規定であるマネタリズム・規制緩和・民営化・柔軟な労働市場と強く結びつくにいたった。…共産主義国家社会主義が信任されなくなったばかりでなく、ほとんどの形の社会民主主義を含む、あらゆる形態の国家の経済介入もそうなのだ、とネオリベラリズムを信奉する多くの者は長いこと指摘してきた。…必要なのは、現代社会における経済活動を調整する唯一に実現可能な方法として、市場秩序の普遍的真理をふたたび主張することであった*29


 森もまた、社会民主主義的コンセンサスの形成と崩壊を踏まえて、進歩史観の転換という観点から、ネオリベラリズムの主張する必然性について、以下のように指摘している。

福祉国家の発展について、かつてのように社会進歩の必然の所産と見るわけにはいかなくなった。しかし、新自由主義の側が持ち出したのも、それにかわる別種の進歩信仰、すなわち資本主義の「自生的な」(国家に依存しない)発展についての進歩史観にほかならなかった。市場原理やグローバル化には逆らえないゆえにこれを唯一の指針とし、その先の思考を停止する傾向が、社会一般に広がった*30



 以上の分析で指摘されているのは、次の点である。すなわち、ネオリベラリズムは、従来の社会民主主義的及び社会主義的イデオロギーに基づく経済統制の実効性及び必要性を認めていないこと、そして、市場秩序には逆らえず、また逆らうべきではないと考えていることである。 対抗イデオロギーの弱体化という時代背景については、 先述の通りである。ここでは、グローバル化と結びつき、「経済の支配」を主張するネオリベラリズムの経済主義について考察する。
 ベックは、ネオリベラリズムと結びついた経済的グローバル化を「グローバリズム」と呼び、その性質について、以下のように指摘している*31

グローバリズムという言葉で私が意味するのは、世界市場が政治的行為を排除する、あるいは政治的行為が世界市場に置き換えられるという見解である。すなわち、世界市場の支配というイデオロギー、新自由主義のイデオロギーである。そのイデオロギーは因果関係を単一のものに還元し、経済主義的にものごとをとらえ、グローバル化の多次元性を単線的に経済というひとつの次元に切り詰めてしまう。しかも、総じてそれ以外のすべての次元(…)を語る場合でも、世界市場システムの優位というみずからの想定のもとでのみ、それに触れるにすぎない*32



 つまり、ネオリベラリズムのイデオロギーとしてのグローバリズムは、経済主義的な観点から市場の支配を主張し、政治の存在を否定ないし排除する、脱政治的な傾向を有している、とベックは分析する。まず、ベックによれば、グローバリズムは、 「一次元的思考と一次元的行動の現象形態」であり、グローバル化の複雑さを経済的次元にのみ還元し、更に、この経済的次元を、世界市場への従属が不断に拡大していくという単線的なプロセスとして捉えているとする*33。したがって、グローバリズムによれば、単線的で一元的な経済法則に従うことが不可避であり、「ひとは行動を起こすのではなく、 世界市場の法則を実現する」*34に過ぎないとされるのである。
 ブルデューはまた、ネオリベラリズムの経済主義について、次の様に指摘している*35。すなわち、ネオリベラルな世界観とは、生産力の優位を前提とする、歴史的不可避性に対する信仰に基づく世界観であるという*36。その様な経済主義的世界観は、マルクス主義的宿命論とも共通しており、「いずれの場合も、 経済主義が──政治を排除することによって──また、最大限の成長、競争力、生産性といった問い直しを許さない一連の目標を強制することによって、責任の所在を曖昧にし動員を不可能に」*37するという。つまり、ネオリベラリズムの経済主義は、政治の存在を認めず、宿命論的に機能するというのである。


2、経済主義と「市場の自由」
 ハーヴェイによれば、先述の通り、ネオリベラリズムは自由を絶対的なものとして尊重する。しかし、ネオリベラリズムが強調する「自由」とは、その思想にとって都合が良い、特定の自由概念に過ぎないという。
 ハーヴェイは、ネオリベラリズムを、資本蓄積を促進させる制度を整備することで、階級権力の再生を目指すものとして捉えている*38ネオリベラリズムが強調する「自由」とは、その様な目的に資する「市場の自由」であるという。つまり、ネオリベラリズムの文脈においては、 政治的自由と、 市場と貿易の自由とが同一視されているというのである*39
 そのような「自由」概念を強調するネオリベラリズムの下では、資本蓄積のために必要な一連の自由主義的権利、私有財産と利得に結びついた個人の権利が、他のあらゆる権利概念に優越する。そのような権利体系を促進するには、個人の責任や市場における選択の自由の保障といった、「ブルジョア道徳」が必要とされるという*40
 また、齋藤純一によれば、現代における自由は、「国家の規制」対「市場の自由」というきわめて単純な二分法に即して論じられ、前者から後者への移行が、あたかも自由の領域を拡張することであるかの様に語られているという*41。その様な自由の「拡張」は、「自由の脱政治化」と呼ぶべき傾向を帯びると指摘されている。すなわち、「ある種の社会の仕組みを所与としたうえでそのなかで享受される自由は、その社会のあり方を問題化し、別様の社会のあり方を構想する自由をおのずともたらすわけではない」*42のである。つまり、例えば、「市場の自由」が拡張した現代においては、公的保障を請求しうるような社会の仕組みを構想する自由すら、実質的には放棄されているように思われるのである*43
 以上のように、ネオリベラリズムにおいては、「市場の自由」及びそれと結びつく道徳が重視されている。その背景には、上記のような経済主義が存在するのである。すなわち、市場の秩序ないし市場の法則に従わなければならないと考えられるのであるから、市場を正常に、または効率良く機能させるために、 「市場の自由」を保障するネオリベラリズムを採用する必要がある。換言すれば、「市場の自由」と経済主義が、相互補完的にネオリベラリズムの脱政治的受容を促進しているのである。


3、経済主義に対する反論
 ネオリベラルなグローバリズムによって主張される経済主義に対して、ベックは、それが政治的なプロジェクトであることを指摘して反論する*44。すなわち、ネオリベラルなグローバリズムは、非政治的な態度を装ってはいるものの、高度に政治的な行動であるという*45。その様に、ネオリベラルなグローバリズムを批判することで、ベックが行おうとしていることは、政治的なものを形成する試み、ないしはグローバル化を政治的に形成する試みである。
 一方で、ブルデューは、ネオリベラルな「保守革命」が、その経済主義に基づく宿命論を解放のレトリックで装うことで、復古的言説が革命ないし進歩であるかの様に主張していることを暴露する*46。その様な装いの下、ブルデューが言うところの「保守革命」は、いわゆる市場法則をあらゆる人間活動の規範としようとしていると言うのである*47。つまり、「保守革命」 においては、 単にネオリベラルな経済主義の宿命性を強調するのみならず、その様な宿命に従うことが進歩であると主張することで、「保守革命」の政治的プロジェクトを二重に正当化しているということである*48
 また、経済主義に基づく「市場の自由」の拡張ないしは、「経済的なもの」の圧倒的優位に対して、齋藤は、誰にどのような自由をもたらし、また、奪ってきたのかを認識し、その認識を政治的/社会的/経済的なものの間の新しい関係性の構想へと繋げていくことの重要性を主張している。そして、その構想のためには、 「自らが享受している自由のあり方を自ら批判的に評価し、私的な問題として受けとめられている問題を公共的な問題としてとらえ返す視野をひらくこと」が不可欠であるという*49。つまり、斉藤は、公共的な観点から自由のあり方について検討することの必要性を主張しているのである。


4、小括
 本章では、まず、市場の秩序ないし市場の法則に従うことを強制する、経済主義の分析について考察し、経済主義を背景として、「市場の自由」が強調されている点について確認した。その上で、経済主義のイデオロギー及びそれに基づく「市場の自由」に対する反論を検討した。
 以上のように、?・?においては、 ネオリベラリズムの脱政治的受容を促す要因として、ネオリベラリズムの2つのイデオロギー戦略、すなわち、「自由の絶対化」と「経済主義」についての分析を考察してきたことになる。以下では、ネオリベラリズムポストモダンとの関係性についての分析を考察したい。と言うのも、ポストモダンと呼ばれる状況が、上記のイデオロギー戦略を有効に機能させる要因になったと考えるからである。



Ⅲ ポストモダンと「脱政治性」


 ポストモダンと呼ばれる状況が、ネオリベラリズムの受容を促す要因となったこと、換言すると、ネオリベラリズムが、ポストモダンの潮流を利用して支配的になったことは、しばしば指摘されることである。例えば、渋谷望は、1968年以降に始まったとされる「新たな権力ゲーム」におけるニューライトの勝利について、次のように指摘している。すなわち、新たなゲームのルールは、しばしばポストモダンと呼ばれるものであり、ニューライトの側が、ニューレフト以上にそのルールを熟知していたという*50。つまり、ニューライトは、ポストモダンという潮流を上手く捉えたことで、支配的になりえたということである。また、酒井は、ニューライトないしネオリベラリズムが、60年代後半以降の「運動」の潮流に身を委ね、その方向を向け変えた点を指摘している。つまり、左翼がポストモダンの分散的・脱中心化状況に対応できず、無力化している一方で、右翼は着々とリニューアルを果たしつつあるというのである*51
 本章では、ポストモダンネオリベラリズムに及ぼす影響、とりわけ「脱政治性」を生じさせるシニシズムないし宿命論の影響、延いては両者の関係性が、どのように分析されているかについて考察する。


1、ポストモダンと宿命
 ポストモダンネオリベラリズムの関係について、渋谷は、次の様に指摘している。すなわち、「経済活動のグローバル化を目指すネオリベラリズム言説のユートピアが〈政治的なもの〉の消滅であるとするなら、それはポストモダンとして知られるある種の言説に親和的な関係をもつ」*52という。政治的なものの消滅を志向するネオリベラリズムの言説については、上記?、?で考察した通りである。その様な言説が、ポストモダンと親和的であるというのである。渋谷は、ポストモダンを、我々のハビトゥスとして身体化されつつある「宿命の感覚」として捉えている*53ポストモダンにおける宿命について、渋谷は、以下の様に主張する。

ここ20年のポストモダンの言説が示すのは、近代のメンタリティを支えるさまざまな解放のプロジェクト──「大きな物語」──の「終焉」である。宿命論の克服が近代のメンタリティを構成するものであれば、ポストモダンという新たな時代のメンタリティにおいては、宿命は再び回帰したといえるのではないだろうか*54


 そして、渋谷にとって、「宿命の回帰」とは、「政治の無力さの証し」であり、政治の可能性を引き出すための近代的諸制度の終焉と見做されるという*55
 この点に関して、ギャンブルは、以下の様に指摘している。

政治はかつて、人間社会にその運命をコントロールする力を与えることのできる活動とみなされていた。ところが現在では、ものごとをコントロールしようとする、とりわけ政治によってものごとをコントロールしようとする人間の能力について、深刻なペシミズムが存在している。…それが反映しているのは、20世紀における自由主義と社会主義のユートピアに含まれていた政治的な希望の幻滅と、理性と進歩についての啓蒙思想の大きな物語、そしてモダニティそのものにたいする広範囲にわたるしらけ感覚である*56


 つまり、現代社会では、人間は、もはや自らの状況を支配することはできず、政治が意味を成さなくなったというペシミスティックな運命論、すなわち「政治の終焉」が広範に受け入れられているということである。ギャンブルによれば、運命論とは、別様のあり方はありえないと考えること、つまり、人間の働きかけによって変化を引き起こすことはできないと考えることを意味する*57。その様な運命論の蔓延から、状況ないし運命を支配する活動としての政治が消滅した、と主張されているのである。 「政治の終焉」として主張される状況について、ギャンブルは、次のように分析している。すなわち、現代は、 「反−政治的で非政治的な時代」だと言明されており、政治に対する不信感と軽蔑から、政治への関心も参与も低減し、政治空間が縮小しつつある。それに伴い、現状に対する選択肢の構想、及びそれを実現する可能性も縮小しているのである*58
 ポストモダンと呼ばれる状況が、以上の様な宿命論的な性質を有しているとすれば、上記Ⅰ・で考察したような、ネオリベラリズムの脱政治的受容をもたらすイデオロギー戦略と適合的であるのは、明白である。


2、ネオリベラリズムポストモダンの共犯関係
 酒井は、ポストモダンシニシズムによってもたらされる、現存のルールへの無批判な支持を、ポストモダンとニューライトの共犯関係として分析する。ポストフォーディズムの社会において、ニューライトは、システムのフレキシブル化を追求するのであるが、フレキシビリティが、 ルールの強制力までも無化してはならない。 そこで、 ニューライトは、フレキシビリティの強化とルールの強制力確保という逆説的な戦略の中で機能せざるをえなくなるという*59。 この様な状況に対して、 ポストモダニズムは、「主体の解体、 脱中心化、分散化を無批判に称賛することによって資本のポストフォーディズム的再編成にたいする
抵抗を解除」*60することで、シニシズムをフレキシビリティの脱政治的受容へと向け、ニューライトの戦略を補完したとされるのである。また、ポストモダニズムの「ルールへの無批判性」は、同時に、ルールへの軽蔑もはらんでいる*61。つまり、ポストモダニズムの「フレキシビリティの賛美、そしてルールの尊重と軽視は、民主主義、あるいは『基本的人権への嫌悪…となってあらわれ、ニューライトの台頭を準備する強力なメンタリティとなっている」*62と主張されている。
 酒井はまた、抑圧から排除へと移行する、新しい権力のダイアグラムについて分析している。すなわち、規律社会の危機に対して、支配階級は、「規律に対抗する多様化・自律化の欲求や制度化の試みを戦略的にコード化しはじめた」*63」という。つまり、規律が、「設定されたノルムへむけて諸々の力を調整する努力とむすびつき、それゆえ媒介的な性質を帯びる」のに対し、今や支配階級は、この調整への努力を省略し始めたとされる*64。20世紀型福祉国家においては、コンフリクトを不可避の条件と認め、その収斂が目指されたのであり、それは、「『抑圧』の機制を機軸にした構成=政体」*65であった。ところが、現在の「危機管理・緊急状態のポリティクス」においては、もはやコンフリクトは認められないという。

危機管理・緊急状態のポリティクスのメカニズムの機軸にあるのは「抑圧」ではなく〈排除〉である。それは「正常状態」の達成と維持を、媒介を省略して性急に、そして暴力的に実現しようと試みる。〈排除〉の機制のもとでは、コンフリクトはシステムの言語に翻訳されないのであり、コンフリクトは正当性の場に登録されないのである。敵対的な社会実践は端的に病理でありテロルとしてたちあらわれる*66


 つまり、ポストモダンの社会においては、コンフリクトが排除され、コンセンサスが回避されているのであるから、そこに本稿冒頭で言及した政治の機能が働く余地はない。そこでは、ネオリベラリズムやニューライトの福祉国家批判のように、マイノリティは不正な敵として捉えられる。社会が「内なる敵」から常に防衛されなければならないという意味で、ポストモダンの社会は、恒常的に緊急事態であるとされる*67。そして、その様に脱政治的な危機管理・緊急状態のポリティクスこそが、「ネオリベラリズムにおいては『正常な』統治のメカニズムを構成する」*68、と酒井は指摘しているのだ*69
 以上の分析から指摘できるのは、ポストモダン状況の脱政治性が、ネオリベラリズムの脱政治的イデオロギーと適合し、その受容を促進する機能を果たしたということである。


3、小括
 本章では、ポストモダンと呼ばれる状況が、ネオリベラリズムの支配を促進する要因であるという分析について考察した。まず、ポストモダンの宿命論が、上記?・?で検討したネオリベラリズムのイデオロギー戦略と親和的であることを分析した。そして、ネオリベラリズムが、ポストモダンの「ルールへの無批判性」や「コンフリクトの排除」を利用・促進しているという共犯関係についての酒井の分析を考察した。
 では、以上の様に、ネオリベラリズムポストモダンの間に、親和性ないし共犯関係が認められるとすれば、どのような批判が可能であり、また必要であろうか。
 上記の様に、 「政治の終焉」言説について分析することで、ギャンブルは、政治的なものを擁護し、政治と運命との緊張関係を探ろうと試みている。つまり、「政治の終焉」言説自体が政治的スタンスの一形態であるという矛盾を指摘し、政治が消滅したわけではないと主張しているのである。換言すると、「政治の終焉」というイデオロギーの「虚偽性」を指摘していると言えるだろう。しかし、仮にギャンブルの指摘が適切であるとしても、それによって、運命論の蔓延と政治に対する幻滅が広がっている雰囲気自体に変化はあるだろうか。


おわりに

 以上の様に、本稿では、イデオロギーとしてのネオリベラリズムが支配的になりえた要因についての分析を、「脱政治性」の観点から考察してきた。ここで、本稿の内容を簡単に整理する。?では、ネオリベラリズムが、自由を普遍的な価値として強調するという戦略を採用しており、その戦略は、対抗イデオロギーの弱体化という時代背景を利用していることを考察した。しかし、その様な戦略に対しては、自由は必ずしも至高の価値ではないということや、対抗イデオロギーは消滅したわけではないということが、批判として指摘されていた。?では、ネオリベラリズムの経済主義が、市場の支配ないし経済的必然性を主張していること、そして、経済主義に基づき、自由の中でも「市場の自由」が強調されていることを考察した。それに対して、ネオリベラリズムは、単純な経済的過程として市場の秩序に還元できるものではなく、政治的なプロジェクトであるという指摘による反論が展開されていた。そして、?では、?・?で考察した様な、ネオリベラリズムの脱政治的なイデオロギー戦略が、ポストモダンと呼ばれる状況、その中でもとりわけ宿命論の蔓延とシニシズムと親和的であるという指摘を確認した。その上で、酒井によるネオリベラリズムポストモダンとの共犯関係の分析について考察した。
 では、上記の分析を踏まえて、我々は、どの様な批判が可能であり、また求められているのか。?・?で考察したようなネオリベラリズムのイデオロギー戦略に対しては、上記の様に、その「虚偽性」を指摘するような批判が可能であり、また必要である。しかし、それだけでは不十分ではないだろうか。?で考察したような、ポストモダンと呼ばれる時代的雰囲気が、「脱政治性」を促すものであるとすれば、「虚偽性」の暴露という批判のあり方は、実効的たりえないと考えられる。と言うのも、もはや特定のイデオロギーの言説が、「真理」であるか「虚偽」であるかは、さほど重要ではないように(もしくは、両者が判別不可能であるかのように)見受けられるからである。
 本稿における検討から、ネオリベラリズムが、脱政治的なイデオロギー戦略を採用していること、ポストモダン状況の脱政治性が、その様な戦略を補完していること、そして、イデオロギーの虚偽性を指摘するだけでは不十分であることが明らかとなった。本来であれば、それらを踏まえて、イデオロギーの虚偽性を指摘するに止まらず、ポストモダン状況の脱政治性に対する批判のあり方に検討を進めるべきであるが、本稿はポストモダン状況の分析を直接の対象とするものではなく、検討を進めるための用意がない。状況として
の脱政治性が生じた原因も踏まえ、 いかにしてそれを克服するか、 という問題については、今後の課題として、引き続き探求を続けたい。


引用・参考文献

*1:M.B. Steger, R.K. Roy, Neoliberalism: A Very Short Introduction, Oxford, 2010  また、ネオリベラリズムの支配的状況について、後に考察対象とするデヴィッド・ハーヴェイは、今やネオリベラリズムは、「世界を解釈し生活し理解する常識に一体化してしまうほど、思考様式に深く浸透している」と指摘している。同じく後に考察対象とするヨアヒム・ヒルシュもまた、新自由主義的イデオロギーが、人々の思考と行動を一層制するようになっていることを指摘している。D.ハーヴェイ(渡辺治監訳) 『新自由主義その歴史的展開と現在( A Brief History of Neoliberalism ) 』作品社、2007、11ページ 。J.ヒルシュ(表弘一郎・木原滋哉・中村健吾訳) 『国家・グローバル化・帝国主義( Materialistische Staatstheorie ) 』ミネルヴァ書房、2007、203ページ

*2:D.ハーヴェイ 上掲『新自由主義──その歴史的展開と現在』10ページ

*3:佐藤嘉幸『新自由主義と権力──フーコーから現在性の哲学へ』人文書院、2009、109ページ

*4:有賀弘、阿部斉、斎藤眞『政治 個人と統合 第 2 版』東京大学出版会、1994、6 ページ

*5:T.イーグルトン (大橋洋一訳) 『イデオロギーとは何か ( IDEOLOGY: An Introduction ) 』 平凡社、 1999、84-85ページ

*6:酒井隆史『自由論──現在性の系譜学』青土社、2001、12-13ページ

*7:ここで、ハーヴェイの立ち位置を確認しておくと、地理学の立場からマルクス主義を検討している経済地理学者である。その著書『新自由主義──その歴史的展開と現在』においては、「世界的な階級権力回復のダイナミズムという観点から新自由主義の問題にアプローチ」している。詳細については、以下の文献を参照のこと。森田成也「訳者あとがき」 D.ハーヴェイ 上掲『新自由主義──その歴史的展開と現在』338-343ページ

*8:D.ハーヴェイ 上掲『新自由主義──その歴史的展開と現在』16ページ

*9:同上、16ページ

*10:同上、16-17ページ

*11:A.ギャンブル(小笠原欣幸訳) 『自由経済と強い国家 サッチャリズムの政治学( The Free Economy and the Strong State: The Politics of Thatcherism ) 』みすず書房、1990、239-240ページ

*12:同上、200-201ページ

*13:J.ヒルシュ 上掲『国家・グローバル化・帝国主義』114ページ。 ヒルシュは、 「資本主義国家に対する批判的分析を前進させてきた国家論者として知られ」 、ソ連型の国家社会主義戦略や社会民主主義型の国家改良主義戦略に代わる「ラディカルな改良主義」を提起している論者である。詳細については、以下の文献を参照のこと。木原滋哉「訳者あとがき」、J.ヒルシュ 上掲『国家・グローバル化・帝国主義』279ページ

*14:同上、190ページ

*15:A.ギャンブル(内山秀夫訳) 『政治が終わるとき?──グローバル化国民国家の運命( Politics and Fate ) 』新曜社、2002、77ページ

*16:同上、147ページ

*17:同上、146-147ページ

*18:森政稔『変貌する民主主義』筑摩書房、2008、48ページ

*19:D.ハーヴェイ(本橋哲也訳) 「ネオリベラリズムと階級権力の再生」『ネオリベラリズムとは何か( SPACES OF NEOLIBERALIZATION: Towards a Theory of Uneven Geographical Development )』青土社、2007、65ページ

*20:同上、60ページ

*21:同上、68ページ

*22:同上、65ページ

*23:同上、68ページ

*24:A.ギャンブル 上掲『政治が終わるとき?──グローバル化国民国家の運命』150ページ

*25:同上、151ページ

*26:とは言え、ネオリベラリズムに対抗するものとして提起されたイデオロギーが、実際にはネオリベラリズムの枠組に従っている危険性がある点には注意が必要である。例えば、酒井は、「第三の道」と呼ばれるネオ社会民主主義が、ネオリベラリズムパラダイムを共有していることを指摘している。 酒井隆史 上掲『自由論──現在性の系譜学』126-127ページ

*27:ヘルドが言うところの社会民主主義的な価値とは、「法による支配」 、「政治的平等」 、「民主的政治」 、「社会正義」 、「社会的連帯」 、「経済的効率性」である。D.ヘルド編(猪口孝訳)『論争 グローバリゼーション―新自由主義社会民主主義(Debating Globalization)』岩波書店、2007、28-32ページ

*28:藤原保信『自由主義の再検討』岩波書店、1993、6-7 ページ

*29:A.ギャンブル 上掲『政治が終わるとき?──グローバル化国民国家の運命』76-77ページ

*30:森政稔 上掲『変貌する民主主義』66-67ページ

*31:ベックといえば、 「リスク社会」論や「再帰的近代化」論で有名な社会学者であるが、グローバル化論争における立場としては、経済的グローバル化の深刻な変容圧力を受け止めた上で、制度を作りかえることを以って、積極的にこれに対応していこうとする「変容論者」にあたるとされている。詳細については、以下の文献を参照のこと。川野英二、中村健吾「訳者解説」 U.ベック(木前利秋・中村健吾監訳) 『グローバル化の社会学──グローバリズムの誤謬──グローバル化への応答(Was ist Globalisierung? : Irrtumer des Globalismus―Antworten auf Globalisierung) 』国文社、2005、313-314ページ

*32:U.ベック 上掲『グローバル化の社会学──グローバリズムの誤謬──グローバル化への応答』26ページ

*33:同上、224ページ

*34:同上、231ページ

*35:ブルデューは、グローバル資本主義及びそれと連動する文化帝国主義を批判し、反グローバリズムの立場をとる社会学者である。詳細については、以下の文献を参照のこと。藤本一勇「 『表象の政治』をめぐるアポリア──ポストモダンの未完のプロジェクト──」 P.ブルデュー (藤本一勇訳) 『政治──政治学から 「政治界」 の科学へ ( PROPOS SUR LE CHAMP POLITIQUE ) 』藤原書店、2003、178-179ページ

*36:P.ブルデュー加藤晴久訳) 『市場独裁主義批判( CONTRE-FEUX Propos pour server à la résistance contre l’invasion néo-libérale ) 』藤原書店、2000、89ページ

*37: 同上、89ページ

*38:D.ハーヴェイ 上掲「ネオリベラリズムと階級権力の再生」12-13ページ。渋谷望もまた、ネオリベラリズムを資本の権力回復の手段として捉えている。すなわち、ネオリベラリズムは、経営者の権力を強化する政治的手段であり、経済的合理性の結果ではなく、権力の合理性に基づくとされる。 渋谷望『ミドルクラスを問いなおす 格差社会の盲点』日本放送出版協会、2010、45ページ

*39:D.ハーヴェイ 上掲「ネオリベラリズムと階級権力の再生」10-11ページ

*40:同上、66-67ページ

*41:齋藤純一『自由』岩波書店、2005、20ページ

*42:同上、23ページ

*43:同上、23ページ

*44:ヒルシュもまた、「『グローバル化』と呼ばれるポスト・フォーディズムの貫徹はけっして自然法則的な過程ではなかった」と指摘している。つまり、「ポスト・フォーディズム型再編成の過程を経済過程の単純な『離脱』(「脱埋め込み」)として、ひいては市場の諸力の無制限な発散として理解してはけっしてならない…その様な理解は社会的現実であるというよりは、むしろ新自由主義による宣伝の決まり文句なのだ。…グローバル化は国家と政府の政治によって駆り立てられたもの」 であるという。 J.ヒルシュ 上掲『国家・グローバル化・帝国主義』132ページ、141ページ

*45:U.ベック 上掲『グローバル化の社会学──グローバリズムの誤謬──グローバル化への応答』231ページ

*46:P.ブルデュー 上掲『市場独裁主義批判』89-90ページ

*47:同上、66ページ

*48:そこでは、ネオリベラリズムに都合の良いように転換された進歩史観が採用されている。ネオリベラリズムによる進歩史観の転用については、森も先に引用した部分で指摘している。森政稔 上掲『変貌する民主主義』64-67ページ

*49:齋藤純一 上掲『自由』25ページ

*50:渋谷望『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』青土社、2003、11ページ

*51:酒井隆史 上掲『自由論──現在性の系譜学』23ページ

*52:渋谷望 上掲『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』98ページ

*53:同上、99ページ

*54:同上、100ページ

*55:同上、104ページ

*56:A.ギャンブル 上掲『政治が終わるとき?──グローバル化国民国家の運命』v−viページ

*57:同上、17ページ

*58:同上、3 ページ

*59:酒井隆史 上掲『自由論──現在性の系譜学』49ページ

*60:同上、49-50ページ

*61:同上、50ページ

*62:同上、50ページ

*63:同上、34ページ

*64:同上、35ページ

*65:同上、35ページ

*66:同上、35-36ページ

*67:同上、37ページ

*68:同上、36ページ

*69:ギャンブルが指摘しているように、 サッチャー指導下の保守党が、 従来の保守党のあり方とは異なり、教義を強調し、妥協とコンセンサスを嫌悪し、打倒すべき敵を捜し求めたということも、この傾向と 無関係ではないであろう。 A.ギャンブル 上掲『自由経済と強い国家 サッチャリズムの政治学』194-195ページ