社会正義のために経済の「破綻」を恐れてはならない──原発事故から学ぶべきこと── 小倉利丸

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原発推進の力学

 福島第一原子力発電所のメルトダウン事故は、これまで国政レベルではほとんど論争にすらならなかった原発の安全性をめぐる論争を、やっとのことで喚起させるきっかけとなった。建設現地の住民たちによる反対運動はどこの原発でもみられたし、今でもそうである。しかし、こうした地域の反対運動や不安感情に対して、歴代政府がとってきたのは、過疎地帯の雇用と財政難につけこんだ原発誘致による補助金という名の買収のシステムであり、反対する住民へのありとあらゆる嫌がらせや暗黙の抑圧、言論の封殺だった。地元のマスコミは、大スポンサーである電力会社に批判的な記事を載せることへの自主規制が働き、反対運動の報道は軽視されつづけてきた。しかし、どこの地域でも、地元の人々の原発への不安と原発への反対の声が消えることはなかった。
 原発推進の「世論」の根強さは、草の根の異論を封殺することにはじまり、国家レベルの「国策」としての仕掛けによって、日本中を覆った。政府、議会や電力業界だけでなく、研究者もマスコミも労働組合もみな原発推進の一翼を担う仕組みのなかに統合されてきた。原発の稼働が不可避的に生み出してきた被曝労働の現実は隠されてしまった。こうした推進の力は、平和利用のイデオロギーと金の力だ。
 チェルノブイリ事故とその後の伊方原発での出力調整実験をきっかけとして起きた、歴史的にもっとも大きな反原発、脱原発運動は、特筆すべきだが、それとても、国政レベルでの原発の是非にまで至ることはできなかったのではないか。こうした国策としての原発推進と世論の作られた傾向を背景に、各地で闘われた原発差止め訴訟でも、裁判所は原告の主張をことごとく退けた。(例外は、志賀原発差し止め訴訟一審判決のみ)繰り返された裁判敗訴にもかかわらず、それでもなお原発差し止め訴訟が各地で継続されてきたこと、そこには原告たちの敗北に屈しない強い闘志を支えた意志と問題意識の重さを私は強調したい。他方で、核の平和利用への幻想は、この国の反核運動をも巻き込んできた。核兵器廃絶の運動は原発反対運動と結びつくことはまれだった。歴史に「もし」を持ち込むことは禁句だが、あえて言えば、もし反核運動とこの運動をになってきた革新諸政党がその当初から広島・長崎への原爆投下やその後の核開発競争と核の平和利用との間にある切り離し得ない関係を見据えて、平和利用の欺瞞を運動のなかで明確に批判していれば、この国にこれほど多くの原発が建設されるようなことはなかったのではないか。反原発、脱原発を視野にいれた反核平和運動への転換の契機は何度もあったはずだ。


●利益は取るがリスクと責任取らない?

 原発をめぐる課題は複雑な外観をもつが、取り組まなければならない課題は決して複雑ではない。福島第一原発が引き起こした事故を終息させること、避難を余儀なくされた人々や放射性物質の汚染による被害に対する補償を行うこと、遠い将来まで見通して汚染による人と環境への影響を徹底して阻止すること、そして、膨大な放射性廃棄物の処理を適切に実施すること、これらのことは、原発の是非がどうあれ、必ず実施しなければならない大事業である。この大事業への責任は国策として原発を推進した国と電力会社にあるだけでなく、原発から利益を得た受益者の責任でもある。電力会社だけではなく、企業も私たち市民もある種の「受益者」であることを免れない。そうであるとすれば、受益者もまたこの大きな被害に対して応分の負担をする義務があるのではないか。また、国策として原発を推進してきた政権を選んだ有権者にも応分の責任がある。
 原発は火力、水力、その他の再生可能エネルギーと比べてランニングコストが小さいというのは、重大な事故や廃棄物処理などのリスクに関わるコストを除外しているから、見かけのコストが低く見積もられるためである。すべての原発は、今回の福島第一原発で起きたような事故の可能性をふまえて、事故のリスクを回避できなかった場合の修復措置に必要と見込まれるコストを電気料金に加算すれば原発=安価な発電という等式は成り立たない。事故当初、枝野官房長官が「ただちに健康に害はない」という発言を繰り返したが、これは「ただちに健康に被害がないから今何かあっても保障はしないし、将来何かあったとしても補償しない」という意味だと私は解釈した。低線量被曝から汚染された食料や土壌にいたるまで政府の甘い基準設定は、科学の体裁をとっているが、財政上のコストや将来の訴訟を意識してのことであって、人々の健康を配慮してのこととはとうていいえない。
 私が言いたいのは、制御が究極的には不可能な原発技術を目先の利益のために選択し、実際にその利益を得てきた受益者や有権者は、その利益だけを取るべきではなく、リスクに対する責任も負わなければならないということだ。利益は取るが、リスクが現実のものとなったときには「リスクの責任は自分にはない」と逃げることがなぜ許されるか? 現在の財界の基本的な姿勢は「原発による低コストの発電の利益をよこせ、しかしリスクへの責任は東電と国にあり、われわれはその責任をとる必要はないし、リスクに伴うコストは支払わない」というものだ。もちろん財界はこうした本音をそのまま表明することはない。かれらは、たいてい次のように言う。原発による電力の安定的で安価な供給が滞れば、エネルギーコストの増加や生産活動に支障をきたし、国際競争力を失い、日本経済の成長に支障をきたす。経済成長を阻害することになれば、雇用状況は悪化し、税収は減る。原発を動かさなければ日本はもっと貧乏になるし、東日本震災や原発事故の復旧に必要な財源も確保できなくなる、それでもいいのか? という恫喝である。私たちの答えは「それでもいい」でなければならない。しかし、こうした財界の愛国心に訴えるかのような恫喝は、現実の資本の行動と一致していない。増税や労働コストの上昇、環境規制の強化などがあれば、かれらはさっさと海外に移転するし、国内の原発建設が困難になれば輸出で稼ぐことをためらわない。このような「経済」の道理に私たちは付き合うべきではないのだ。有権者として都市の「受益者」としてとるべき責任とは、原発を廃炉にするための政治選択と生存を犠牲にする経済への断固とした拒否だ。
 もし、受益者も有権者もその責任を目に見える形で負うことを回避するとすれば、原発の犠牲を強いられた福島や近隣諸県の人々や原発の現場で被曝労働を余儀なくされている下請けの労働者たちが、そのすべてのコストを自ら支払うことにならざるをえない。そうなれば、被害の最大の当事者たちの経済的精神的身体的損害は「ない」ことにされてしまう。このようなことは、これまでの多くの公害、労災などの経験が教えてくれていることである。これは、最悪の選択肢だ。被害者がリスクとコストを負うことと電力会社、政府、電力消費者、有権者がリスクとコストを負うこととの間には明らかなトレードオフがある。今、福島原発事故問題は、このリスクとコストを被害者に押し付ける醜悪な力学に陥りつつあるように見える。
 原発現地の住民や福島県の県民もまた「受益者」ではないか、政権を選んだ有権者ではないか、そうであればかれらにも責任があるのではないか、という反論があるに違いない。しかし負わされるリスクと犠牲の大きさは、その責任と明らかに不釣り合いであるということを自覚する必要がある。


●社会的不正義の経済からの決別を

 私たちには、経済成長とエネルギー消費の受益者としての既得権を保持したまま、被害者を救済したり、何百年、いや何千年、何万年も続く核廃棄物の処理もするのだ、といった都合のよい選択肢はありえない、と自覚する必要がある。既存の経済や「豊かさ」を断念して全力で犠牲者の救済と事後処理に取り組むことを選択するかどうかが問われているのである。もしこの選択肢をとらないのであれば、今現在の犠牲者ばかりでなく将来の犠牲者をも見棄てる選択肢をとるのだ、ということを肝に銘じなければならない。
 戦後日本の経済成長は、このような残酷な結果をもたらす危険性と背中合わせだったのだ、ということを今こそはっきりと自覚する必要がある。言い換えれば、将来にわたり日本は、先進国であろうとしたり、企業の利益と国際競争力のために人々の生存を犠牲にするような社会から決別することが必要なのだ。こうなれば、経済はますます「成長」から程遠くなるに違いないし、福祉や社会保障はさらに崩壊し、多くの人々は路頭に迷い、過酷な避難所生活が日本中に蔓延するかもしれない。そうであっても、あらゆる資源を原発の被害からの復興のために傾注する努力をおろそかにすれば、責任転嫁のモラルハザードが蔓延して社会そのものを根本から崩壊させることを阻止することの方が人々の生存に寄与すると私は考える。
 社会的正義のためにあえて既存経済の破綻の道を選ぶという過酷な選択だけが、生存のための経済へと転換する唯一の手がかりである。このことがもたらす経済的な損失は、人々の生存の損失を意味するとは限らないのである。経済を資本の利益に焦点をあわせたり、国家利益に従属させるのではない「経済」というものがありうるのだ。また、いかに「日本経済」なるものが破綻しても、コミュニティの力が人々の生存を維持させつづけることはありうるのである。こうした新たな経済の再設計にチャレンジする強い創造力を持つことが、私たちに問われている。事実、「国民経済」が破綻しても民衆レベルの自立的自治的な経済がむしろ生存の経済として機能する例は決してすくなくない。(破綻したアルゼンチン経済、パレスチナの難民キャンプの経済、第三世界のスラムの経済、先進国の都市下層の経済は、国家と資本から自立していればいるほど自己統治の潜勢力を保持できたといえる)
 人類200万年におよぶ歴史から私たちは学ぶことがたくさんあるはずだ。資本と国家の経済や私たちの豊かさの時代を特権視すべきではなく、この長い歴史のなかの一瞬にすぎないことを肝に銘じるべきだ。この「豊かさ」の悪夢から目を覚まさなければならない。この一瞬の「豊かさ」のために、数十万年におよぶ取り返しのつかない自然と人間への罪を犯したことを反省すべきである。私たちの社会を人類史のあるべき軌道へと修正する潜勢力を私たちは獲得できるはずだという希望を捨てるべきではない。それは、私たちが享受してきた「豊かさ」から自由になることから始まる。このことは間違いないことであって、その覚悟をすべき時なのである。(月刊社会民主に執筆したものに若干の加筆)



社会正義と経済の破綻をめぐるQ&A


  このQ&Aはほとんど何の役にもたたないが、せっかくなので、とりあえず公表してしまう。前回のブログをめぐる対話?です。


──ブログにあなたが書いた議論は、かなり乱暴な話ですね、原発事故対処を最優先にするなら、経済の破綻を恐れるな、と言うけど、そもそも原発を止めたからといって、経済が破綻するの? 事実、今年の夏も電力不足が政府や電力会社から言われて、原発の速やかな稼動という方向に世論を誘導しようとしたけど、失敗した。あなたの議論は、ラディカルなようにみえて、実は推進派の危機感を煽る戦術に嵌っているんじゃないか?

●でも、既存の経済温存じゃあ、ダメなんですね。円高と財政危機のなかで、原発対策は全体の経済や財政の動向、あるいは電力会社の経営との兼ね合いのなかで、つまり、金とのバランスのなかでなんとかしよう、こういう発想がそもそも間違っている。原発の対策、福島原発の事故処理と廃炉に必要な費用は、未だに算定不可能な莫大なレベル。だって、そうでしょ? 海洋と河川汚染、土壌汚染、地下水の汚染、農林水産業に関連して、食料となる部分についてすら網羅的な検査ができていないが、さらに工業用原料となるものはどれほど調査されているのだろうか? 肝心の人間についてはもそう。どれだけの健康上の被害があるのか、調査も不十分で不明なんです。いくら金があっても足りない状態ではないですか?これらに十分な資金を投じれば、財政は当然のこと経済のこれまでの基本的な枠組は壊れる。壊れざるをえない、いや崩してでもなんとかしないといけない、と思うんです。崩壊するのは、既存の枠組です。資本主義経済には、制度化された公式の経済と人々がコミュニティレベルで(サイバースペースのコミュニティも含みますが)関わる経済がある。壊れるのは前者です。日本の近代化の記憶でも、明治期の自由民権運動米騒動、敗戦後の闇市、京都のウトロ、山谷や釜ケ崎、三里塚など自然発生的な対抗的なコミュニティの潜勢力が顕在化した例は決して少なくない。家事労働とかのシャドウワーク地下経済もそうだ。スクウォッタやレント・ストライキとかも必要になるかもしれない。汚染への不安や危機に政府が対応できないから、みな自己防衛をはじめてますよね。他方で、地下経済のプロでもあるやくざとか、シャドウワークを国策に転用するボランティアの心理的強制とかの搾取と闘うことなしには、僕が言うような意味のコミュニティの自治は成り立たない。またコミュニティっていうのは町内会自治とか、他者を歓待できない身内の排外主義的でナショナリズム的な自衛とも闘わないといけないから、容易じゃない。このことは、今年の夏も電力不足にならなかった、という議論とは別のレベルです。

──でもね、公式の経済が崩壊したら、ますます事故の処理とか復興とかは困難になるでしょ?

●さあねえ。それもある種の巧妙な恫喝だよね。なにはなくても経済復興とか日本経済の復活とかいわれるけど、それって、言い換えれば、なにはなくても資本がまず儲けなきゃ話にならないってことだろ。この儲けがあって、次にそれを復興とか事故処理に分配しようっていうことでしょ? でも、儲けを分配する段になると分配を渋るっていうことになるんじゃないか。逆に分配のルールを先に作る(ようするに増税とか企業に不利な財政政策)っていうのは合意できない。政府も財界もトリクルダウンの発想を持ち出すのだが、これって金持ちが儲かるところでそれ以上にはいかない。ねずみ講とどっちもどっちだ。増税はだれも嫌う。資本が嫌うのは、儲けが減り、財政の仕組みを通じて貧乏人に再分配されて投資を支援するインフラ投資に回らないだろうと思っているからだ。人はどーでもいいからコンクリートに金を回してほしいということだ。コンクリートのための復興ってありうえるか? でも、日本のすべての企業は、その儲けをすべて原発事故対処のためにつぎ込まないと間に合わないんじゃないか。企業の社会的責任っていうけど、利益を何のために使うか、ということが問われている。これまで原発の推進してきた財界だから、ぼくは懐疑的だけどね。本気で事故対策に取り組むとは思えない。そうした経済は破綻したほうがいい。ぼくらが増税を嫌うのは、とられた税金の使い方に皆納得できないからだし、課税が不公平だからだ。政府や日銀が保有する米国債を売っ払ってでも金を工面するっていうことが本当は必要だと思うけど、日米同盟や米国財政を支える方が福島原発の犠牲に対処するより大切なんだろうな、とつい思ってしまう。日本政府保有の米国債を復興資金に回すとかになれば、グローバルな経済は大きく破綻の方向に向かうかもしれないね。制度化された経済は、機械だからいつかは壊れる。そういう時期にきている。ところが、政府も財界も発想は真逆で、復興需要で壊れかけの機械=経済を浮揚させようという。これって他人の不幸で儲けるっていう発想だろ?

──どうしてそうネガティブになれるんですかねえ。だから左翼は暗いって言われるのだと思うが。

●おまえの方が暗いだろ。原発とその事故処理に前向きになろうって言ってるんだぜ。それを迂回して、ともかく日本経済の競争力を復興させるのが先、っていうのは「罠」だよ。アトミックサンシャインなダークな罠。

──あともう一1つ疑問っていうか、あなたって貧困の文化みたいなものをどこかで素晴らしいものみたいに思ってません? 実際にギリギリで暮らしている人たちにとってはとんでもない辛い状況だとおもう。経済が上向いて雇用も増える、社会保障や福祉にも金が回るような状況を忌み嫌うというのは、インテリの観念論でしょ。しかも論理もテキトーで破綻しているのはあなたの考えの方だと思うが。

●ぼくのことをインテリって言う奴に出会ったのは久しぶりだ。論理は破綻しないといけないんだ。ピッチもまとも合わせられない踊れない音しか出せないDJに論理的整合性で文句を言われる筋合いはないぜ。でも、論理が破綻するのは経済の破綻同様、そうしないと新しいものは生まれないってことだ。ぼくはインテリではないが、あえて言えば、ダダイストの経済学者って言われたい。ぼくの議論は、観念論ではない、唯物論者に向かって観念論というのは、喧嘩売ってるようなもんなんだぜ。僕のは唯物論的な妄想だよ。お行儀のよい理屈は、かならず公式の制度の枠組に縛られて結果として危機を支配的な制度の強化に利用するような結論にしか達しないんだ。...言い訳がましいかな(呟く)。前にも言ったけど、原発が引き起こした被害は計算も予測も不能なほど莫大だということを知るべきだ。誰も正確な数字を出せていないというだけではない、政府も財界も正直な数字を出したがっていない。出したら最後、今ある経済の枠組を根底から再構築しないといけないだろうし、企業の既存の価値観やシステムもリセット必至だろう。これは、数字や金だけの問題ではない、政治も文化も関わる社会全体のリセットという問題だ。原発がなくても電力は足りているからそれでいいっていう発想が、原発を容認してきた文化や経済や政治を反省しないまま、つまり今あるシステムの延長で議論されるのには我慢ならない。前にこのブログで書いたけど、グローバルな視点でみれば、電力は足りていないし。60数億の人たちがみな日本や先進国並に電力やエネルギーを消費するような贅沢をすればね。その上で、貧困層の苦境をぼくは知らないわけではないと思っている。しかし、そうであっても、なおかつ彼らの中にしかこの社会の可能性はのこされていないんだ。セレブなライフスタイルにどんな可能性があるっていうんだよ。おまえ本当はセレブに憧れてんのか?理論は破綻してるっていう話からそれたな...

──議論すり替えてる気がしないでもないが、そもそも俺のDJのこととかどーでもいい話が...

●ステージが違うんだよ。4つ打ちの温いパーティにおまえが(ここで録音切れる)

インタビューア:DJ daRa
場所:T市某所