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「第三の道」と社会の変容 ──社会民主主義の「思想」的危機をめぐって─ 齋藤純一

はじめに

 1990年代後半、ヨー口ッパでは社会民主主義を標榜する政党が相次いで政権に復帰するという動きが見られた。96年イ夕リアの 「オリーブの木」政権、97年イギリスのブレア政権、同年フランスのジョスパン政権、 98年ドイツのシュレーダー政権などがそうである。社会民主主義あるいは中道左派は、それ以来比較的安定 した力を示し──たとえばイギリスのニュー・レイバーは2001年総選挙でも保守党に圧勝した──、70年代末から続いたネオリべラリズムの時代に終止符を打ったかのようにも見える。しかし、このように社会民主主義が政権を取り戻したということは、それが思想的にも再生したということを意味するだろうか*1
 周知のように、T・ブレアやG・シュレーダーの掲げる「第三の道」あるいは「新しい中道」がサッチャーやコールの時代のネオリべラリズムとどれほど異なっているかについては、すでに多くの疑念が提起されている。そのなかには、「第三の道」は偽装したネオリベラリズムに過ぎないという辛疎な見方すら含まれている ( Callinicos 2001: 10 )。ブレアとシュレーダーは、1999年6月「第三の道/新しい中道──ヨー口ッパ社会民主主義の前進の道」と題する共同文書を連名で発表したが( Blair and Schöder 1999 )、この文書に見られる一連の主張──結果の平等から機会の平等へ、「大きな政府」に対する批判、権利は必ず責任を伴うという主張、経済的な競争力の強化のための「柔軟化」──にネオリベ ラリズムとの明確な違いを見いだすのはけっして容易ではない。「第三の道」や「新しい中道」は、はたしてネオリベラリズムに抗しうるだけの対抗的な思想を保持しえているだろうか。社会民主主義の試金石が社会的・経済的格差の拡大を容認せず、それをできるかぎり縮小していくことにあるとすれば、「第三の道」や「新しい中道」はそうした方向性をなおも堅持しえているだろうか。
 もとより、 ヨー口ッパにおけるさまざまな社会民主主義をひとくくりに論じることはできない。ここでは、イギリスの「第三の道」に考察を限定したいと思う。というのも、T・ブレアやA・ギデンズは伝統的な社会民主主義との違いをはっきりと打ちだそうとしており、そこに社会民主主義がいま思想的にどのように再定義されようとしているかをより明確に看て取ることができるからである*2。その際、小論では、ブレア政権の政策がサッチャー政権のそれとどのように異なるかを立ち入って検討することはできない*3。ここではむしろ、「第三の道」が、どのような方向にむけて統治を再編しようとしているかについて、その特微を大づかみに明らかにすることに課題を限定したいと思う。というのも、サ ッチャリズムからニュー・ レイバーへと繋がる「統治の変容」は、ヨーロッパでは19世紀の最後の四半世紀か20世紀の最後の四半世紀までほぼ1世紀にわたって続い てきた「1つの国民社会」( one national society )という観念から急激にリアリティが失われるより根底的な「社会の変容」と並行する仕方で生じているように思われるからである。L・レブィタスの見方を用いれば、それは「1つの社会」が「3分2の社会」と「3分の1社会」にはっきりと分断されていくような変化である( Levitas 1996 )。
 小論ではまず「第三の道」の基本的な主張を確認し(第1節)、次いで「統治の変容」の特微を明らかにする(第2節)。さらに「第三の道」が強調する「コミ ユニティ」に触れながら、そうした選択的な内包がどのような排除をともなうかを検討する(第3節)。 最後に、社会保障がいかなる方向にむけて再編されようとしているかを検討したうえで、「第三の道」による社会民主主義の再定義がどのような効果をもっているかに言及することにしたい。


1 「第三の道」の輪郭

 T・ブレアは、1998年に、「第三の道──新世紀に向けての 新しい政治」というパンフレッ卜をフェビアン協会から公刊した( Blair 1998 )。それによれば、「第三の道」とは、「自由主義」と「民主社会主義」を、それぞれの難点──市場を偏重するネオリベラリズム が惹き起こしてきた社会の分極化、犯罪の増大、教育の失敗、生産性の低下など、そして国家を中心に据える旧来の社会民主主義が招いてきた財政の肥大、過度の集権や官擦主義など──を克服しつつ総合し、それによって社会民主主義をさらに「近代化=更新」しょうとする立場である(ギデンズにおいても、「第三の道」は「旧い社会民主主義ネオリベラリズムという2つの道を乗り越える試み」( Giddens 1998: 26/55 )として定義される)。ブレアはさらに、「価値の平等」「機会の均等」「貢任」「コミュニティ」を「第三の道」が重視すべき価値として挙げている。これらの価値がいかなる意味合いを含んでいるかについて逐一検討を加える余裕はないが、少なくとも、「コミュニティ」を除く3つの価値──「価値の平等」はほぼJ・口ールズのいう「能力に開かれたキャリア」( career open to talents )を意味する──が、従来ネオリベラリズムによっても標榜されてきた価値であることは疑いないように思われる。ネオリベラリズムとの違いについてはしばらく措くとして、「第三の道」が旧来の社会民主主義からどのように自らを区別しようとしているかを、最もその違いが浮き彫りになる社会保障の位置づけに即して見てみよう。
 ギデンズは自らの掲げる「積極的福祉」( positive welfare )の指針を次のように描いている。「個人ならびに非政府組織が、富を創造する積極的福祉の主役である。……経済的な生計の資を直接支給するのではなく、あらゆる場面で人的資本( human capital )に投資することが統治=政府の指針である。私たちは福祉国家に代えて、活力のある福祉社会のコンテクストで作用する社会的な投資( social investment state )を据える。……現行のトップダウンの給付方式は、分権化された給付方式に改編されるべきである。もっと一般的に言えば、福祉給付方式の再編を、市民社会を積極的に進展させるプログラムとかみ合わせる必要を認識すべきである」( Giddens 1998: 117f/195-197 )。
 この文章にも見られるように、「第三の道」は、既存の福祉国家から次のような点で差異化をはかろうとしている。まず、「第三の道」は、福社国家の集権的な構造を打破し、「市民社会」の多様なアク夕ーの力を積極的に活用しようとする。とりわけ、「コミュニティ」を活性化することが「積極的な福祉」の鍵をにぎっていることが強調される。「第三の道」は、国家を社会保障の主役の座から降ろし、個人やコミュニテイによる多種多様なセキュリティの追求を「後押しする力」( enabling force )として国家を位置づけていく。「進歩的な政冶にとって大きな課題は、活発なコミュニティやヴォランタリーな組織を擁護し、そしてそれらが、必要ならばパートナーを組んで新しいニーズに対応できるよう成長を促すために、国家を後押し機関として活用していくことである」( Blair 1998: 11ページ )。
 第2に、「第三の道」は、福祉国家のもとで形成されてきた「依存文化」を脱却する必要性を強調する。社会保障は人びとの受動性を助長することをやめ、リスクを積極的に引き受けようとする能動的な態度を涵養するものに再編されなければならない。ギデンズによれば、「活力のある市民社会」とは、「「責任あるリスク・テイカー」からなる社会( Giddens 1998: 65/116 )にほかならない。たとえば、失業給付は職探しを実際に行っていることを条件とするものでなければならず、もはや無条件の権利であるべきではない。「新しい政治の第1のモットーは、責任をともなわない権利は存在しないと言いうるだろう。……失業手当には、積極的に職探しをする義務がともなわなければならない。福祉制度が能動的な求職活動を妨げないようにすることが政府=統治の責務である」( Giddens 1998:65/116 )。
 第3に、福祉国家に代わるべき国家は、「人的資本」を育成すべ き「投資国家」である。そこでは、社会的投資に値するとされる者への教育・職業訓練が重視され、人びとは能動的に、おそらくは生涯にわたって自己を「人的資本」として開発していくことが求められる(高齢者も自らを「人的資本」として積極的に再定義しなければならない)。そしてどの程度「人的資本」を形成しえているかをたえず評価に爆さなければならない。「どの分野においても監視と検査が重要な役割を果たしている。それらは水準を向上させるインセンティブとしても、また政府の介入を適切なレヴェルとする手段としても機能するからである」( Blair 1998: 22ページ )。
 こうしてみると、「第三の道」が描く新しい社会保障は、「ワークフェア」の原理を積極的に組み込んだ「ウェルフェア」という特微を色濃く帯びていることがわかる。「第三の道」のいう「労働へといたる福祉」( welfare-to-work )は、いわば福祉を再生産する福祉( welfare-to-welfare )から最大限の距離を達成すべく、人びとがつねに「就労可能性」( employability )を高めていくことを強く要請する福祉レジームなのである。たしかに、「第三の道」は、社会保障を「最低限の福祉セイフティネット」── 経済的に排除された人びとに対する事後的な、労働へのインセンティブを損なわないよう低く仰えられた救済──には切り詰めないという点でネオリベラリズムとの違いを強調する( Giddens 1998: 46/87 )*4。「社会的投資国家」は、人びとの就労可能性を高め、社会的な排除と積極的に闘う──長期的な失業者をうみださない──ために教育や職業訓練の機会を拡充する、というのである。しかしながら、現実にブレア政権がとっている政策がそうした教育・職業訓練の機会の拡充という方向に必ずしも沿うものではなく、むしろ失業者に対する労働の強制という側面をもっていることが指摘されている(宮本 2001 )。次節では、失業者に対してどのような統治がおこなわれているかにも触れながら、国家の福社への依存を可能なかぎり回避しようとする「第三の道」のプログラムがこれまでの統治のあり方をどのように変えているかという点に光を当てることにしたい。


2 統治の変容──自己統治の強調

 「第三の道」は、市民社会の次元における個人やコミュニティの自己統治=自治( self-government )を促進することを求める。国家の統治は、集権的なもの・直接的なものであることをやめ、そうした自己統治を可能にし、推し進める "enabling force" に徹しなければならない。M・ディーンの適切な表現を用いれば、国家の統治は、「再帰的な統治」( a reflexive government )、つまり個人やコミュニティの自己統治を積極的に促すような統治に転じなければならない( Dean 1999: 176-197 )。これまで統治の客体とされてきた者を統治の主体へと転じていくそうした柔軟な統治は、人びとの能動性や自発性に対しても、また個人やコミュニティの差異化や多様化に対してもけっして敵対的ではないように見える。そのかぎりでそれは、自発的な行為を妨げ、依存的なメンタリティを助長する集権的な統治という福祉国家に対する批判をかわすことができるようにも見える。
 そうした新しい統治は、諸個人を、自発的に選択をおこない、その結果に対し自ら責任を引き受ける、自由な選択と自己貢任の行為主体として描きだす。それは、すでに確立された「正常な」 規範に 順応するような従順な主体の像とはたしかに異なっている。自己統治の主体は、たんに一時的に有用な人材にとどまってはならず、自己という「人的資本」を自らの手で弛みなく開発していく、継続的な意欲の担い手でなければならない。そしてそのためには、すでに獲得されている安全性の外にでて、新しい事柄を始めるというリスクを引き受けねばならない。自己統治のエイジェントには、変化を恐れずむしろそれを先取りし、新規に事柄を開始する精神、つまり「起業する精神」( entreprenuership )が求められるわけである。新しい始まりやイニシァティヴの強調という点のみを見れば、それがH・アーレン卜のいう行為( action )の特微をそなえていることはたしかである(もっとも、そうした能動性は、現在設定されている「正常性」を批判的に問い返すという意味での政治性をほとんど含んではいないが。
 「社会的な投資国家」を従来の福祉国家から分かつのは、受動性・依存性に対置されたこのような能動性・自立性の要求である。それは、失業者に対する処遇の変化に明瞭に看取することができる。イギリスにおける近年の失業者に対する統治は、N・ローズによれば、「能動性テスト」( activity test )──これは旧来の福祉(生活保護)における「資力調査」( means test )と対比されている──の活用によって特微づけられる。失業給付は、どのように振舞うかにかかわりのない無条件の権利(社会権)ではもはやなく、能動的な「求職者」( job-seeker )であることを実際のパフォーマンスによって証すかぎりで得られる条件づきの手当に変わっている(若年失業者について言えば、18歳から24歳のすべての失業者は4か月間にわたり個人アドヴァイザーの指導のもとで求職活動をおこない、就職に失敗した場合には、賃金補助を受けた民間企業への暫定的な就労、環境団体や非営利組織への就労、職業教育という選択肢のなかから1つを選択しなければならず、いずれをもまともな理由なく拒絶する場合には失業手当の給付が中断される( 宮本 2001 )。
 失業者に対する統治は、もはや失業者とその家族の生活を一時的に保護することを目的とするにとどまらない。それ は、「失業者が労働市場に戻るのを妨げ、彼らを社会的なネッ卜ワークや社会的な責務から疎外している障害を表すような彼ら自身の能度、感情、振舞い、性向に働きかける( Dean 1995: 572 )。失業者は、たえず就労可能性を高めようとする自己統治の主体となる用意があるかどうか、そしてそもそも自らを改善しようとする願望や意欲をそなえているかどうかを「能動性テスト」によって試されるわけである。英米圏では、失業者のみならず一般に福祉給付を受ける人びと、つまり、依存のリスクが高いと見なされる人びとに対する統治も、教育的かつ懲罰的な特微を非常に色濃く帯びつつ ある。" workfare "に倣って、要保護児童扶助( AFDC )の受給者に子供を学校に通わせることを義務づける" learnfare "さらには離婚を抑制するために婚咽の維持に報奨金を与える" wedfare " なるものが制度化されているところすら見られるようになっている( Rosanvallon: 102 )自己統治を「後押し」し、さらに促進しようとする統治は、その能力において劣ると見なされる人びとに対しては、生のス夕イルに深く介入する後見的な権力としての相貌をはっきりと見せるわけである。
 問題は、「能動性テスト」が、自己統治の意欲や能力に欠けるとされる人びとをいわは制度的にマークする効果をもっていると、いうことにある。労働市場に参入・復帰するために再挑戦あるい再々挑戦の機会がある程度提供されているとすれば、そうした機会をも活かすことのできない人びとは、今度は文字通りの「余計者」と見なされることになる。こうした解釈のコードを通じて「余計者」であることは他ならぬ当人の責任に帰されていく。彼/彼女たちが、労働市場に(再び)参入しえないのは、もっばら彼/彼女たち自身の矯正しがたい個人的な資質や性向のせいである、と。失業──とりわけ長期的な失業──の問題は、「社会問題」であることをやめ個人化され、私化されることになる。問題は、社会の関係から個人の内部──本質主義的にとらえられる個人の「資質」──へと移し代えられるのである。
 かりに「能動性テスト」が成功裡に作用し、失業者が労働市場に(再び)参入しうるとして、それが安定性( job-security )をそなえた正規雇用の市場であるという保証はまったくはない。「能動性テスト」を活用する教育・職業訓練が、いわゆる「デュアリズム」( duelism )──正規雇用と非正規雇用との分離均衡──の様相を深めつつある労働市場の分断をくつがえすだけの効果をもちえないことは明らかであり、むしろ、ネオリベラリズムがこれまで描し進めてきた「労働市場の柔軟化」(「雇用の流動化」)を補完し、さらにはそれを促進していく機能をはたしていると見ることもできる。ギデンズ自身、すべての人びとが安定した職業に就くことが不可能であることを認め、労働市場から締めだされている人びとを非営利的な活動によって構成される「社会経済」( the social economy )の領域に組み込むという仕方で「内包する」ことの必要性を訴えているが( Giddens 1998: 127/212 )、それはすでに「アウトロー文化」の肥大化を阻止するというネガティブな文脈を帯びている。
 M・ディーン によれば、能動的な自己統治を促す続冶は、互いに異なりながらも密接に結びついた2つのテクノロジーに依拠するものである。1つは、行為や社会参加の能力を高める「行為主体のテクノロジー」であり、もう1つは、そうした能力を計算可能なもの・比較可能なものにする 「パフォーマンスのテクノロジー」である( Dean 1999: 173 )。能動的な行為主体は、さまざまな──自己評価を含む──評価システムにその成果を補足され、その査定に服するという側面においては受動的である。M・フーコーが、かつて規律権力の要諦として示した、「個々人が掌握される当の関係を個人の内的な機構が生みだす仕掛け」は、自己統治の主体にもほぼ完全に当てはまる。それがある程度規律の主体と異なるのは次の2つの点においてである。1つは、「正常化」が1度限りのものではなくなっているという点である。求められる「正常性」はつねに変化するのであり、その変化に速やかに適応できるよう、自己の秩序をつねに流動的な状熊にとどめておくことが要求される。もう1つのよ り重要な点は、そうした速度と柔軟性が求められるような「高度な」自己統治は社会のすべてのメンバーにはもはや要求されない、ということである。とりわけ、自らを社会的投資に値する「人的資本」として証示しえない人びとは、規律という意味での統治の埒外に置かれることになる。


3 コミュニティと社会的排除

 すでに触れたように「第三の道」は、「コミュニティ」の活性化を強く主張する。実際、ブレアは、「国家」と「家族」を強調したサッチャーを意識しつつ、「コミュニティ」というレトリックを多用している。N・口ーズも指摘するように、「コミュニティ」は、「社会」という言葉がもつ抽象性や非人称性とも対比されながら、より具体的で人称的な、より「自然な」愛着や関与が可能となる関係性を指す言葉として広く受け容れられつつある( Rose 1999: 167f )。この場合のコミュニティには、家族や近隣・地域の集団だけではなく、宗教、価値観、道徳的信条などを共有する広い意味でのアソシエーションも含まれる。ギデンズも、そうした新しいコミュニティのあり方──「同じような関心をもつ人びとが「生涯にわたる旅」のもとに集う」( Giddens 1998: 80/141 )に着目している。
 人びとが、それぞれ複数のコミュ二ティやアソシエーションに多元的に関わりながら自らの生を豊にしていくという姿は、福祉国家におけるより一元的なアイデンティティと対比すれば望ましいようにも見える。市民が自らにとって身近な関係性(社会の「見知らぬ他者」ならぬ具体的な他者たち)に関心を寄せ、そこに積極的にコミッ卜していくという傾向は、市民社会論者や共同体論者の多くにとっては、その主張に沿った歓迎すべき事態でもある。N・ローズによれば、「第三の道」を支えている思想は「アドヴァンスト・リベラリズム」( advanced liberalism )と呼びうるものであり、それはネオリベラリズムから(少なくとち相対的に)区別される特微をそなえている。それは、ネオリベラリズムのように「人的資本」の弛みない開発と市場での制約のない競争を強調するだけでなく、同時に自らの「コミュニティ」とのかかわりにおける排他的ではない倫理性を強調する点にある( Rose 1999: 166 )。「アドヴァンスト・リベラリズム」には、その意味で、コミュ夕リアニズムの思想の中心的な要素が含まれてもいる。「もし規律が個人化し、正常化するものであり、生−権力が集合化し、社会化するものであるとすれば、倫理性を帯びた政治( ethico-politics )は、責任ある自己統治のみならず同時に自己自身への責務と他者に対する自らの責務との間の関係性のために必要な自己テクニックにかかわる」( Rose 1999: 188 )。
 もとよりこのような他者へのコミットメントは非常に選択的なものであり、「見知らぬ他者」にまで及ぶものではない。「アドヴァンスト・リベラリズム」の思想は、人びとの関心の対象を「社会」から「コミュニティ」に移す役割を果たすのであり、「コミュニティ」が多元的に形成され、そのなかで「コミュニティ・ケア」「コミュニティ・セイフティ」といった活動が積極的におこなわれるとしても、それは、社会全体の分断化・階層化と十分に両立しうるものである。I・ヤングが述べるように、アソシエーションに積極的に参加する私生活主義( associational privatism )がすでに広範に見られる現象であるとすれば(Iris Young: 162 )、「コミュニティ」の活性化は、「第三の道」が指針の1つに掲げる「社会的排除」との闘いに貢献するとはかぎらないのである。
 「第三の道」は、「犯罪と無秩序に対する個人の責任」をかつての社会民主主義のようには軽視せず、「犯罪の原因に厳しい統治」だけではなく、犯罪そのものに厳しい統治を主張する( Blair 1998: 18 )。このように治安管理を強調する点において、ブレアの率いるニュー・レイバーは、「法と秩序」の回復を正面に掲げたサッチャリズムとほとんど変わらない。「第三の道」は、自己統治を促す統治とは異なった統治を、つまり犯罪を含む秩序の攪乱というリスクを徹底的に管理しようとする統治をも要求するのであり、国家に求められる統治の力点は、福祉( social security )から治安( public security )へと明確に移動することになる*5。やや皮肉な言い方をすれば、「第三の道」は、社会的排除に抗する 「内包」( inclusion )の戦略──すでに見た教育と職業訓練の拡充──がけっして十分には成功しないことを予期しているわけである。先に触れた「能動性テスト」に落後する人びとはどのような境遇におかれるにことになるのだろうか。
 まず指摘できるのは、彼らは、訓練や矯正がほどこされるべき個々の主体とはもはや見なされないということである。社会(労働市場)への参入・復帰を妨げている原因を除き去る試みはもはや無益であると見なされているからである。彼らは、個々の診断と「魂の改良」( M・フーコー )を要する1人1人の個人としてよりも、ある種の集団に属するものとして一括して表象される。とはいっても、彼ら自身の間に、共通のアイデンティティや相互を繋ぐ連帯のメディアがあるわけでは必ずしもない。階級をはじめ、人種、ジェンダー、セクシュアリティー、障碍、 年齢などに拠る社会集団とそうした「アンダークラス」──この言葉によって経済的、社会的にそしておそらくは政治的にも排除された人びとの境遇を指しておく──が決定的に異なる点があるとすれば、それは、彼らの境遇の原因を何らかの共通の制度的・文化的な抑圧に求めることを著しく困難にする脈略が設定されているということである。排除された人びとはその排除に対して自ら貢任を負っているとされるのであり、彼/彼女 たちは、自らと社会との深刻な不適合は自らの(育ってきた)境遇の帰結ではなく、その原因であるという見方を内面化することを余儀なくされるのである。
 第2に、彼らは、互いに孤立しているにもかかわらず、外部からは一体のものとして表象される。それが、経済的に「余計」であるというスティグマのみならず道徳的な特微を色濃く帯びたものであることが重要である。この場合の道徳は、 日々の「生活の質」にかかわる日常道徳である。つまり、清潔である、約束を守ることができる、アルコールに倣存していない、麻薬その他の薬物に染まっていな い等々によって、「社会生活をまともにおくれる」( civil ) か「否」( uncivil )かを識別する道徳である。そうした" civility "をそなえているかどうかの判断が強化されるとき、それにそぐわない振舞いや生活習慣には、非秩序、さらには反秩序の傾向すら読み込まれることになる。 「アンダークラス」は" incivilityes "によって充たされた反社会的な空間としても表象されることになる。
 第3に、彼らは、いま述べたように、社会秩序に対する潜在的な脅威としても取り扱われることになる。貧困であることは暗黙のうちに「準犯罪的」( quasi-criminal )であることと結びつけられる。彼らは、社会秩序、公序良俗、公共の安寧等々をそれから防衛しなければならない「秩序の他者」として位置づけられる。つまり、彼らは社会の安全にとってのリスクとしてとらえられ、リスク管理 ──いまやできるだけ低いコストでその危険性を制御することが求 められる──の視線をもつて眺められるのである。このように「アンダークラス」において、経済的な貧困、道徳的な「市民性」の欠如、そして滞在的な犯罪性は互いに緊密に結び合わされることになるのである。
 こうして人びとが現在生きる空間には深い亀裂が生じているが、注意を要するのは、そうした隔たりが埋められるべきものとしてではなく、むしろ、さらに拡げられるべきものとする考え方が広く浸透しはじめているということである。異質なものが互いに交差することのないよう積極的に距離を設定する考え方を「隔離」( segregation )の思想と呼ぶとすれば、それはすでに、少なくともヨー口ッパ やアメリカの大都市では、現実の建築・居住撮境にまで浸透している( Iris Young: 196-235, Bickdord 2000 )。いわゆる「ゲイティド・コミュニティ」──さまざまなセキュリティの装置やサーヴィスによって物的な安全を得ようとするコミュニティ──も、すでに一部の特権的な富裕層だけのものではなくなっている( Bickford: 358 )。生活/生の空間のこのような分断化は、社会民主主義がこれまで重視してきた「社会的連帯」、とりわけ階層間の垂直的な次元での連帯にどのように関係しているだろうか。


4 セキュリティの脱−社会化

 社会民主主義の思想は、「社会」という空間がリアリティをもって人びとに受けとめられるかどうかに大きく依存している。言いかえれば、それが「社会」を再分配のためのユニットとして描くことができるのは、人びとが「1つの統合された国民社会」( a single integrated national society )の一員として自らを了解する場合だけである。
 ごくラフに見取り図を描けば、19世紀の最後の四半世紀以降ほぼ1世紀にわたって、「セキュリティの集合化」あるいは「セキュリティの社会化」と呼びうる事態が進展してきた。この時期から、近代初期の物理的な安全( phsical security )に加えて、国民の安全保障( national security )と社会保障( social security )が大幅に拡充され、国家はこの2つの分かちがたく結びついたセキュリティのほぼ独占的な担い手として自らを位置づけるようになった。国民国家としての福祉国家は、セキュリティの最大の供給者であり、その成員は、福祉国家を自らにとっての「サバイバル・ユニット」( N・エリアス)──自らの生の保障がもっぱらそこにかかっていると感受される空間──と見なしてきた(生の保障は、最終的には、家族やコミュニ ティよりもむしろ国家によって与えられる、という見方の形成)。「セキュリティの集合化」は社会保険を核心とする社会保障の制度によって具体化=現実化されるが、それは「見知らぬ人びと」の間に形成される非人称の連帯のシステム──税や保険を再分配の資源とするという意味では強制的な連帯のシステム──という特微をもっている。社会保障は、「われわれの一員」という集合的なアイデンティティを涵養し、また少なくとも部分的にはそうしたアイデンティティによって支えられてきたといえる。
 20世紀の最後の四半世紀以降、このような「セキュリティの集合化」は疑問に付され、むしろ「セキュリティの脱−集合化」──個人化や「コミュニティ」化──が現実に進んでいる。医療保険や年金保険などの領域に看取することができるのは、私的な保険によって自らのリスクをカヴァーしようとする動きである(この点で、遺伝子診断の技術の発達はリスクの個人化をさらに促していくはずである。 誰もが同じようなリスクにほぼ等しく曝されているという「未知ゆえの連帯」(立岩真也)はその根拠を掘り崩されることになるだろう)。この動きに並行しているのは、言うまでもなく、公的な保障を最低限のものに縮減していこうとする動きであり、翻ってそうした動きは、公的なセキュリティにとどまらざるをえない階層とそれを超えて十全なセキュリティにアクセスしうる階層とをはっきり分化させていくことになる。
 「セキュリティの脱−集合化」は、とりわけ社会的連帯を支えてきた階層間の垂直的な連帯を掘り崩していく。 垂直的な次元での社会的連帯の解体は、税制において累進制が大幅に緩められるなど、再分配の思想がはっきりと後退している事態にもあらわれている ( 諸富 2001 )。社会保障システムにマジョリティの支持を繋ぎとめておくために──あるいは福祉に依存する人びとへの「下向き」のルサンチマンを抑制するために──、資源が社会の底辺層から引き揚げられるという事態も、社会全体を再配分のユニットとして位置づける思想の衰退を映しだしている。いまや、中流階級の不満を最小のものに仰えるという条件を充たすことなしには、非人称の強制的な連帯を維持することはきわめて困難になっている(その背景には、ますます少なくなる正規の労働者がますます増大する非正規の労働者の社会保障のコストを負担せざるをえなくなりつつあるという事情もある)。いずれにしても、生の保障がそれを最も必要とする人びとから奪われてきているという事実は、M・フーコーのいう「生−権力」が人口(国民)全体の包摂・増強というラインからはっきりと逸れてきていることを示している。
 こうしてセキュリティが脱−社会化されることによって、社会という空間からリアリテイが失われ、そのことによってまたセキュリティの私化が進むというデフレ・スパイラルが生じている。見知らぬ他者を「われわれの一員」と見なす集合的なァイデンティティ、言いかえれば、「反−個人主義」の要素をある程度帯びざるをえない社会的シティズンシップは、急速に衰えつつある。社会保障の枠組みを立て直すために再び「われわれの一員」というアイデンティティを強化しようとする議論もあらわれているが( Rosanvallon 2000 )、「社会的なもの」( the social )と「経済的なもの」( the economic )との間に大きなズレが生じ、しかもそれが日々拡がりつつあるグローバリゼーションの条件のもとでは、国民の集合的アイデンティティを再建しようとするプログラムは大きな困難に出会わざるをえないだろう。

 社会民主主義の「社会」がそのリアリティを大きく失い、「社会」という生/生命の保障の枠組みがもはや自明のものではなくなってきている事情を見てきた。このような社会の自明性の喪失という観点からすれば、「第三の道」は、「社会民主主義の近代化=更新」を表しているというよりもむしろその「退潮」あるいは「変質」を表していると見ることができるだろう。現在拡がりつつある不平等や 格差はもはや1つの社会の内部の出来事としてではなく、むしろ社会そのものの分断として生じている。先に挙げた「3分の2社会」と「3分の1社会」という表現は、その比率は正確ではないとしても、そうした社会そのものの分断化を正確に言い当てているように思われる。2つの社会はいわば互いの外部に位置しており、両者はもはや" social security "によって結びつくことをやめ、逆に" public security "によって隔てられつつある。言うまでもなく、この2つの社会が完全に隔てられていくとするのはあまりにも観念的な見方であり、実際には、さまさまな「内包」の戦略によって両者を架橋する試みがおこなわれるだろう。しかし、そうした「内包」はつねに「排除」の機制を前提とするきわめて選択的なものであり、「われわれ」という社会的=国民的な表象が弱まっていくことは避けられないだろう。
 ほぼ1世紀にわたる歴史を経て、「国民的なもの」に依拠する「社会的なもの」は明らかにその終焉に向かっているように見える。社会民主主義は、ナショナリズムに訴えることによってかつての社会的=国民的連帯を再興するという途をとることなく自らを再生しようとするのであれば、セキュリティの脱−社会化──セキュリティの私化、セキュリティの階層化、そしてある人びとからのセキュリティの剥奪──が現在どのような事柄を惹き起こしつつあるのかを理解しながら*6、セキュリティをあらためて社会化する──もはや国民化することではない──ことにどのような合理的な理由があるかを明らかにしていくほかはないだろう。


文献

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*1:野田( 2001)は、福祉国家の危機と社会民主主義の危機とを分け、後者の危機を「政権の危機」「運動の危機」「思想の危機」にさらに分節化している。小論か関心をもつのはもっぽ「思想の危機」の位相である。

*2:ブレアとギデンズにはもとより無視できない違い──たとえば「家族の絆」を強調するか民主的な「純粋な関係性」( pure relationship )を家族に求めるかという違い──もあるが、ここでは両者の共通性を重視する。

*3:近藤( 2000 )は、サッチャリズムとニュー・レイバーは、「国家中心性」を相対化するという方向性を共有しながらも、それを徹底した民営化による「国家の縮小」によって追求するか、それともコミュニティの活性化や分権化の推進など「国家の改革」によって達成しようとするか という点で大きな違いがあると論じている。

*4:ギデンズによれば、社会民主主義か抗すべき福祉は事後的な救済にとどまってはならず、「可能性の再分配]( redistribution of possibilities )──ライフ・チャンスの再分配──を追求するものでなければならない( Giddens 1998: 101 )。

*5:治安管理の権力が台頭し、それがどのような技法で“ insecurity "を統治しようとしているかについては、とくに酒井( 2001 )を参照されたい。

*6:社会が分断化するにつれ、セキュリティは暴力(暴力死)からの物的な安全という旧来の意味──ホッブズ的な意味合い──に回帰しつつある。ホッブズの「自然状態」のメタファーが再び適切に響くような局面が現実に生じているのである。