分断化する社会と生の保障 斎藤純一


I  社会の分断化

 近代の政治思想は、国民社会をセキュリティの単位として位置づけながら、そのセキュリティの幅をしだいに拡張してきた。近代初期においては、社会契約論の思想に見られるように、生の保障の力点は物的な安全( phisical security )に置かれていた。その後、「生の保障」が国家安全保障( national security )に加え「社会保障」( social security )の次元をしだいに厚くしていったことは、たとえばM・フーコーが「死の権力」から「生の権力」への権力のモードの変容──「死なせるか生きるままにしておという旧い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた」( Foucault 1976: p.181 )──に沿って描きだしたとおりである。生−権力は、個々人の生命と集合体(社会体)の生命との間に、前者を増強することによって後者を増強するという緊密な連関をつくりだした。 生−権力にもとづく集合的なセキュリティは、ほぼ19世紀末以降社会国家=福祉国家の形成・発展とともに拡充され、20世紀の50年代から70年代半ばにかけてほぼその頂点に達したと見てよいだろう。
 生−権力による集合的セキュリティの拡充・深化というこの趨勢は、現在もなお続いていると見ることができるだろうか。それともこの20年ほどの間に決定的な変化が生じていると見るべきだろうか。1970年代末以降とくに英米圏に見られるように、雇用保障・社会保障は著しく後退し、とくに社会の底辺層からは生の保障が大幅に解除されつつある。人びとを1つの社会に纏め上げ、統合するという思想は明らかに後退しはじめているように見える。むしろ、「アンダークラス」、「Bチーム」、「3分の1社会」(「3分の2社会」の残余)、 その他何であれ、「余計者」というスティグマをもって表象される人びとからなる「非−社会」ないしは「反−社会」を社会の外部につくりだす機制が強まりつつあると言えるだろう。社会を脱−統合化し、それを分解することを肯定する「排除」( exclusion )の論理の台頭である。
 近年、日本でも不平等が拡大し、社会階層が固定化され、再生産されつつあることを指摘する論考が現われているが( 佐藤 2000 )、注目したいのは、「排除」は経済的不平等や社会的格差の拡大とは相対的に異なった問題の位相を示しているという点である。それは、 1つの社会の内部に生じている格差の拡大というよりもむしろ、生の空間のあからさまな「隔離」( segregation )あるいは社会的空間の「分断」( division ) としてとらえられるべきであるように思われる。排除という問題が重要なのは、社会統合という理念が、もはや達成すべき目標とは見なされなくなりつつあることを示しているからである。今日力を得ているネオ・リベラリズムの言説は、社会の分断、さらには「1つの社会」という観念そのものの終わりをむしろ積極的に肯定しているように思われる。集合的なセキュリティの後退に焦点を合わせながら、国民全体を対象とする社会統合の機制が、選択的な内包と排除の機制に取って代わられつつある社会の変容を大づかみに明らかにすることが小論の課題である。


Ⅱ 「社会的なもの」と集合的なセキュリティ

 「社会的なもの」という観念と「生/生命」という観念との間には不可分の結びつきがある。ここでは、この結びつきを重視し、それが惹き起こした統治の変容を際立たせた H・アーレント と M・フーコー の議論に即して、「社会的なもの」の空間の特徴をとらえてみたい。アーレントは、「社会的なもの」の台頭のうちに公共的=政治的空間の決定的な凋落を見たが、その際彼女は社会を「生命過程そのものが公的な仕方で組織された」領域としてとらえた( Arendt 1958: p. 46 )。同様にフーコーにとっても、社会とは「生命の問題が歴史上はじめて政治の問題に反映される」( Foucault 1976: p. 182 ) 時代、つまり「生物学的近代」に姿を現わす観念であった。
 アーレントフーコーは、第1に、「社会的なもの」を集合的な生命が「政治」の主題となる領域としてとらえる。生−権力はまさに「住民=人口」という集合的な生命・身体の観念の成立を想定し、その維持・増強を目的とするものである。社会とは「生命過程の「集合的主体」」( Arendt 1958: p. 256 )であり、「社会体」( le corps social )とは「生命を経営・管理する権力」( Foucault 1976: p. 179 )がそのなかで作動する空間にほかならない。第2に、「社会的なもの」は、正常なものという規範が支配する領域であるという見方も両者に共通する。両者が問題化しようとしたのは、正常とされる規範がそれに従った「行動」の反復を通じて再生産、強化されていくという機制である。両者が重視するのは「正常なもの」に適合するよう自らの生を組織化させる力、つまり規律化=正常化の力である。第3に、社会は、その成員に互いを一体のものとして表象させる集合的なアイデンティティの空間でもある。アーレントフーコーは、「社会的なもの」の領域を国民国家の空間と重なり合うものとして位置づけた。個々の身体・生命は集合的な身体・生命に包含・包摂され、個々の生命は集合的な生命(人口全体)をどのように増強しうるのか、あるいはそれをどのように損なうのかという視点から眺められるようになる。
 アーレントフーコーに、こうした「社会的なもの」における排除の問題に対する視線がなかったわけではけっしてない。むしろ、彼女たちは、緊密な社会統合がどのような排除や周辺化と並行して進められたかに対して、最も鋭敏といってよい問題感覚を示した思想家であるといってもよい。生−権力が、その否定的な位相においては、集合的な生命の増強に貢献しない者、その健康を損なう者、「他者にとって一種の生物学的な危険であるような人間」( Foucault 1976: p. 181 )を「死のなかへと廃棄する」権力でもあることをフーコーは強調した。アーレントもまた、「社会の他者としてその外に放逐される「パーリア」の存在に強い関心をもち、「社会的なもの」における「有用性」という尺度がつねに無用な者=「余計者」というカテゴリー──「絶滅」の潜在的な対象──を産出することに注意を喚起した。
 「有用かつ従順」という「社会的なもの」の尺度が過去のものとなったわけではなく、そのかぎり「社会的なもの」の生−権力がもつ排除のヴェクトルを剔出するアーレントフーコー批判はなおも有効である。しかし、彼らの批判は、主として、行為や自由の実践を抑圧する集合的な統治の過剰、人びとの根底的な差異を正常とされる幅に圧縮する集合的アイデンティティの過剰に向けられていた。個人の生から自立性を奪い、集合的なものへの依存を強いる権力への批判、いいかえれば、「社会統合の過剰」に照準する批判は、アー レントやフーコーのみならず、50年代から70年代にかけての社会批判に一般に見られる特徴であるが、それは、今日における排除と内包の機制を適切にとらえることはできないように思われる。なぜなら、現代の排除は、社会の統合 の強化ではなく社会そのものの分断化と並行して生じているからである。おそらく、1970年代以前と80年代以降とを分ける1つの規準は、同化、画一化、均質化、同調圧力といった社会のコンフォーミズムの機制に照準する批判の有効性が相対的に失われ、差異化や多様化という逆の動きのなかに分断化や排除の機制がどのように組み込まれているかをとらえる視点が不可欠になってきたということである。現代の排除は、多文化性( multiculturality )をはじめとする差異の承認の動きのもとで進行しているのである。社会という集合的な空間をめぐって現在生じている根底的な変容を3つの点に手短かにまとめてみよう。
 第1に、国民を1つのユニットとする集合的セキュリティは、雇用保障においても社会保障においても後退する。生の保障は脱−社会化し、むしろ個人がそれぞれ の「自己責任」において獲得すべきものと見なされる。生−権力は、国民という集合的身体に一様に向けられるのではなく、社会層に応じてはっきりと差異化される。とりわけ最底辺からは人びとを積極的に「生きさせる」力そのものが引き揚げられつつある。第2に、統治のあり方も脱−集合化する。正常な型に適応する従順さではなく、新しい事柄を始めるイニシァティヴが称揚され、それとともに自らを積極的に他から差異化=差別化していくことが求められる。能動的な自己統治にもとづく生の自律が謳われ、統治の過剰による依存の増大という批判はその有効性を失いつつある。第3に、「社会全体」という観念がその自明性を失う。一体のものと見なされてきた「われわれ」の空間に深い亀裂が走り、住民=人口の分断が事実上承認されていく。自らを、また互いを不可分の社会の一員とみなす集合的な表象は多くの人びとにとってすでにリアルなものではなくなっている。人びとが生きる空間は、国民社会のなかに収斂するものではなくなると同時に、他方では互いに接点を失い隔離の様相を深めつつあるのである。
 不可分の「実在」として表象されてきた社会の解体を、集合的なセキュリティの後退 という側面から眺めてみよう。


Ⅲ  集合的なセキュリティの後退

 集合的な生の保障は、19世紀の最後の4半世紀以降、「社会保険」の制度化とともに国民をその主要なユニットとするものへとしだいに発展してきた。 それは、「見 知らぬ人びと」の間に非人称の連帯を形成し、それを維持する制度として存続してきた。この制度を支えるのは、成員が互いのリスクを引き受け、保障のコストを分かち合うという「リスクの集合化」の考え方である。そして、それが説得力をもつためには、誰もが皆同じような種類のリスクにほぼ等しく曝されているという想定が成り立つ必要があ る。リスクはランダムで予見不可能であるという想定が維持されるかぎりで、リスクの集合化=保障の社会化というシステムは安定したものでありうる。
 この「未知による連帯」( 立岩 2000: 211ページ ) はいま重大な挑戦に曝されいる。ランダムかつ予見不可能というリスクを対称なものと思わせる条件がまさに失われようとしているからである。たとえば、遺伝子診断の技術の発達は、将来を被ってきた「無知のヴェール」を引き裂き、それぞれの個人が生来かかえるリスクの違いを明らかにする。リスクが個人ごとに差異化されていくならば、それを集合化する理由は乏しくなり、リスクの非対称性についての情報の増大は、「より個人主義的でより決定論的な社会の見方」(Rosanvallon 2000: p.19 )を導いていく。高リスクと見られる人びとにとっては、私的な保険市場が彼/彼女たちの「逆選択」を回避しようとする以上、 もっぱら公的な社会保険のみが拠り所となっていく。他方、低リスクの人びとにとっては、社会保険の集合的な枠組みにとどまる理由は見いだしがたくなる。合理的なエゴイストとして判断し、行動するかぎり、社会保険から退出し、自らの属する「リスク階級」に見合った私的な保険を購入する方がより有利になるからである。リスクの脱−集合化は、公的な保障にとどまらざるをえない人びととそれを超えてより手厚い保障にアクセスできる人びとを階層的に分化させていく。
 ここ20年ほどの社会保障改革には、人びとの垂直的な次元での連帯が失われ、所得再分配の効果が弱まる傾向が表れている(税制においてもこの間所得再分配の思想ははっきりと後退し、累進制は大幅に緩められた)。社会保障システムに対してマジョリティの支持を繋ぎとめておくために──あるいは福祉に依存する人びとへの「下向き」のルサンチマンを緩和するために──、資源が底辺層から引き上げられ、それが中間層に振り向けられていくという「福祉国家の中流階層化」の傾向である( 藤村 1998: 14-16ページ )。生の保障がそれを最も必要とする人びとから剥脱されてきているという事実は、生−権力が人口 (国民)全体の包摂・増強というラインからはっきりと逸れてきていることを示している。
 このような社会の分極化の傾向は、雇用保障の領域にも看取することができる。 いわゆる雇用リストラの増大は、「社会的なもの」(社会保障)と「経済的なもの」(経済成長)が相互を支え合うという、ケインズ主義的な福祉−国民国家 の枠 組 み の崩壊 を端 的 に示 して い る (Jessop 1993: pp. 16-21)。「社会的なもの」は「経済的なもの」から切り離され、前者は後者を事後的に補完するものに切り詰められつつある。失業者等に対するセイフティネットの必要を説く議論の多くは、労働市場からの人びとの排除を正当化し、それを支持する役割を果たしている( Rosanvallon 2000: pp. 60f )。所得保障や生活保護という仕方で最低限の生活保障が社会的に用意されるならば、企業としては制約のない解雇の自由を手 にすることができる。セイフティネット論の多くは、労働市場の柔軟化、雇用の流動化という言説と実質的にタイ・アップしつつ、雇用の保障というよりもむしろ解雇の自由のための論拠を提供している。
 「経済的なもの」から「社会的なもの」を完全に外部化しようとする傾向は、正規雇用を非正規雇用(パートタイム労働、派遣労働等)に切り替えようとする動きにも見いだすことができる。労働市場からの排除が増大するとともに、労働市場そのものが二重化しつつあるのである(「デュアリズム」あるいは「レイバー・ディバイド」と呼ばれる事態)。正規雇用と非正規雇用との間には、たんなる格差というよりも分断というべき溝がつくられつつある。2つの労働市場はいわば「分離均衡」の状態にあり、一方の労働市場には明確な「低技能・低賃金均衡」の特徴が見られる( Esping-Andersen 1999: p. 5 )。すべての成員に生涯にわたる仕事を保障しようとする完全雇用の考えは、雇用移動の形式的な機会のみを保障する雇用の流動化の考えに席を譲りつつある。社会保障と雇用保障の領域で集合的なセキュリティが著しく後退してきている事情を眺めてきた。こうした集合的なものの後退(脱−社会化)は統治の変容とどのように連動しているのだろうか。
 ネオ・リベラリズムや「第三の道」の思想において能動的な自己統治が強調される文脈は、セキュリティの脱−集合化、脱−社会化という文脈と重なっている。つまり、絶えず能動的に新しいリスクを引き受けていくことなしには十全なセキュリティは得られないということを強調する文脈である。生涯を通してアクティヴたらざるをえなくなるのは、アクティヴであることをやめても十全な生の保障がえられるという条件が失われるからである。こうした文脈に沿う仕方で、A・ギデンズは次のように語っている。「経済的な生計の資を直接支給することではなく、あらゆる場面で人的資本に投資することが統治=政府にとっての指針である。私たちは福祉国家に代えて、活力のある福祉社会のコンテクストで作用する社会的な投資国家( social investment state )を据える」( Giddens 1998: pp. 117f )。「社会的な投資国家」を「福祉国家」から分ける規準は受動性・依存性に対置される能動性・自立性の涵養であり、それにはリスクを積極的に引き受けていく態度の促進も当然含まれる(自己統治を促す統治は、一見したところ、個人の能動性・自発性に対しても、また諸個人の差異化・多様化に対してもけっして敵対的ではない ように見える)。
 能動的に行為しなければならない、あらゆる依存性から距離をとらなければならないという命法は、失業者に対する処遇の変化により明確に看取することができる。英米圏における近年の失業者対策の特徴は、N・ローズらによれば、「能動性テスト」( activity test )を活用するシステムにある。そこでは、失業給付は、どのように振舞うかにかかわりのない無条件の社会的権利ではもはやなく、能動的な「求職 者」であることを実際のパフォーマンスによって証すかぎりで得られる条件づきの給付に変わっている。失業者の統治は、もはや失業者とその家族の生活を一時的に保護することを目的とするだけではない。それは、「失業者が労働市場に戻るのを妨げ、彼らを社会的なネットワークや社会的な責務から疎外している障害を表すような彼ら自身の態度、感情、振舞い、性向に働きかける」( Dean 1995: p. 572 )。失業者は、自らを改善し、自己統治の主体となる用意があるかどうかを「能動性テスト」によって試されるのである。
 能動的な自己統治の促進を通じて、失業者に労働市場に復帰するよう促し、依存の長期化や再生産を阻止しようとすることそれ自体は、批判すべき事柄ではないかもしれない。しかし、「能動性テスト」の効果は、それによってふるい落とされる人びとにとってはきわめて否定的なものである。このテストは、能動的たろうとしない、あるいは能動的たりえないとされる人びとをマークし、「余計者」のカテゴリーをいわば制度的につくりだす機能をもっている。再挑戦のための機会が形式的には提供されているとすれば、その機会をも活かすことのできない人びとは、今度は文字通りの「余計者」として──もはや「労働予備軍」としてですらなく──カ テゴリー化されることになる。重要なのは、「余計者」として労働市場から排除されることが、このシステムでは他ならぬ当人の責任に帰されるということである。彼らが、労働市場に再び参入しえないのは、もっぱら彼ら自身の矯正しがたい個人的な資質や性向のせいであると解釈される。長期的な失業とそれによって惹き起こされる排除の問題は、こうした解釈のコードを通じて、「社会問題」であることをやめ個人化され、私化されていく。それは、自己統治の行為主体たりえなかったことが招いた個人的な不幸( misfortune )であり、不正義( injustice )を問うべき要素は何もない、という仕方で。 自己責任というレトリックの広範な浸透は、排除という問題を個人化し、したがってそれを脱−政治化するコンテクストをつくりだしているのである。


Ⅳ 排除と「アンダークラス」

 自らを「人的資本」として証示しえない人びとは、彼/彼女たちを再訓練し、社会に復帰させようとする後見的・教育的な圧力に曝されることもなくなるだろう。速度と柔軟性が求められるような「高度な」自己統治は社会のすべてのメンバーにはもはや要求されない。「隈無く生命を取り込む」こと、あらゆる人びとを社会のなかに包摂することはもはや生−権力にとっての「最高の機能」とは見なされないのである( Foucault 1976: pp. 182f )。社会から排除される人びとは、どのような境遇に置かれ、どのような処遇を受けることになるのだろうか。 彼らが余儀なくされる「アンダークラス」の境遇が他の社会層とどのように異なるかを次の3点にわたって指摘してみたい。
 まず確認できるのは、彼/彼女たちは、訓練や矯正がほどこされるべき個々の人間とはもはや見なされないということである。彼らは、1人1人の個人としてよりも、ある集団に属するものとして一括して表象される。とはいっても、彼ら自身の間に、共通のアイデンティティや相互を繋ぐ連帯のメディアがあるわけでは必ずしもない。階級をはじめ、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、障碍、年齢などに拠る社会集団と「アンダークラス」が異なる点があるとすれば、それは、 彼女たちの生の境遇の原因を何らかの共通の制度的・文化的な抑圧に求めることを著しく困難にする条件があるということである。それは、社会から排除された人びとはその排除に対して自ら責任を負っており、彼女/彼らがいわば「生きるにまかせるべき」境遇へと追いやられていることに対して社会には責任はないと語る言、そのヘゲモニーのもとでは、彼らは、自らと社会との間の深刻な不適合は自らの境遇の帰結ではなく原因であるという見方を内面化することを強いられる。第2に、彼らに対する集合的表象は、経済的に「余計」であるというスティグマのみならず道徳的な特徴を色濃く帯びている。この場合の道徳は、日々の市民生活にかかわる道徳、つまり清潔である、約束を守ることができる、アルコールに依存していない、麻薬その他の薬物に染まってない等々によって、「社会生活をまともに送れる」( civil )か 「否 」( uncivil )かを判断する道徳である。そうした civility をそなえているかどうかの判断が強化されるとき、それにそぐわない振舞いや生活習慣には、非秩序、さらには反秩序の傾向すら読み込まれることになる。第3に、彼らは、社会秩序に対する潜在的な脅威としても取り扱われることになる。貧困であることおよび “civility” を欠いていることは、暗黙のうちに「準犯罪的」( quasi-criminal )であることと結び合わされる。彼らは、社会秩序、公序良俗、公共の安寧等々をそれから防衛しなければならない「秩序の他者」と見なされる。つまり、彼らは社会の安全にとってのリスクとして位置づけられ、リスク管理──いまやできるだけ低いコストでその危険性を制御することが求められる──の視線をもって眺められるのである。
 アメリカでは、現在、フィラデルフィアに匹敵する人口(約160万)が刑務所のなかにいる。近年の刑務所が、フーコーが『監視することと処罰すること──監獄の誕生』(1975年)で描いたような規律権力の典型的な施設ではなくなり、無規律でアナーキーな空間に変化してきているという事実が広く知られるようになってきた。刑務所は、すでに規律の施設ではなくなっているとすれば、いま実質的にいかなる機能を果たしているのだろうか。この問いに対して、トーマス・ダンは次のような示唆を20世紀の実例から引きだしている。「強制収容所、近代の流刑植民地、四囲を厳しく監視されるゲットー、隔離された「ホームランド」、そして或るカテゴリーの人びとの組織的な破壊、通常の言葉で言い換えればジェノサイド」( Dumm 1996: pp. 125f )。刑務所は、社会に復帰する人びとのための場所ではもはやなく、逆に、社会から追放された人びとを収容する隔離の空間、もっと言えば「棄民」の場所に変わっているというのである。


Ⅴ 生の空間の隔離

 このように人びとが生きる空間には大きな懸隔が生じてきているが、 留意しなければならないのは、そうした隔たりがもはや縮められるべきものとしてではなく、むしろさらに拡大されるべきものとして考えられているという点である。異質なものが互いに交差することのないよう積極的に距離を設定するという隔離( segregation )の思想は、少なくともアメリカやヨーロッパの大都市では、現実の建築・居住環境にまで浸透している( Iris Young 2000: pp. 196-235 )。
 「居住地の隔離」において、先に触れた最底辺のゲットーの対極に位置するのが 「ゲイティド・コミュニティ」( gated community )、さまざまなセキュリティの装置やサーヴィスによって物的な安全を保障された居住地である。それはすでに一部の特権的な富裕層だけのものではなくなり、そこに住む人びとの数はアメリカで400万 か ら800万にのぼると推計されている( Bickford 2000: p.358 )。住む場所も、働く場所も、買い物をする場所も、子どもたちの通う学校も、その他生活のあらゆるシーンを異にするとき、私たちは、自らの視界に入るこ とのない他者の存在を文字通り無視し、彼らが直面する問題を黙殺することができる。居住空間、生の空間の「浄化」によって、私たちの「間」( in-between )にある共通世界は狭隘かつ等質な空間へと収縮する。他方、私たちの視界から追放される他者は、彼/彼女たちとの間のコミュニケーションが失われるか、きわめて稀なものになる以上、より固定的な表象をもってとらえられることになるだろう。そうした他者との接触は、不快なもの、煩わしいもの、危険なものとして否定的に考えられていくはずである。
 このような社会の分極化と生活空間の隔離を眼の前にするとき、結社やコミュニティへの参加・コミットメントを強調することははたしてどのような意味をもつだろうか。N・ローズは、近年のイギリスにおいて、人びとが帰属感をいだく空間が、「社会」という抽象的で非人称のものから、より具体的で人称的な関係性をもった「コミュニティ」へと移ってきていることを重視している( Rose 1999: pp. 167f )。この場合の「コミュニティ」には、家族や近隣・地域の集団だけではなく、職場、宗教、ライフスタイル、価値観や信条をともにするアソシエーションも含まれる。人びとが、それぞれ複数のコミュニティや結社に多元的に関わりながら自らの生を豊かにしていくという姿は、国民国家におけるより一元的でより排他的なアイデンティティのあり方と対比すれば望ましいかもしれない。そして、市民 が自らにとって身近な空間に関心をもち、そこに活発にコミットしていくことは、 市民社会論者や共同体論者の多くにとっては、その主張に沿った歓迎すべき事態である。「自己統治」=「自治」は、ネオ・リベラリズムだけでなく共同体主義に とっても鍵概念の1つであり、新しい統治は、市民社会の次元にさまざまに形成される多元的な自己統治=自治を積極的に促進する( Dean 1999: p. 207 )。だが、そうしたコミュニティの活性化は生活空間の隔離とけっして矛盾する動きではない。さまざまな自治的な空間の形成は生の空間の断片化・階層化と十分に両立する。結社やコミュニティは私的なもの、排他的なものでもありうる。結社やコミュニティが公共的な経験を可能にするとはかぎらず、アソシエーションに積極的に参加する私生活主義( associational privatism )はすでに広範な現象となっている ( Young, Iris 2000: p. 162 )。
 以上見てきたように、人びとが生きる空間は物理的にも精神的にも隔離の様相を呈し、「社会全体」あるいは「われわれ」という集合的なアイデンティティの基盤は明らかに脆弱なものになっている。それは、一方では、国民国家への過剰な同一化を抑止する条件であるかもしれないが、他方では、国民国家と歴史的に結びついてきた集合的な生の保障の枠組みの解体をも助長するものである。見知らぬ者たちの間の連帯、非人称の強制的な社会的連帯は、国民社会という1つに統合された空間の存在を想定してきた。それは、成員の間で財や資源の再分配がおこなわれる社会正義の空間でもあり、実際、これまでの正義論は、再分配の規準をめぐって互いに立場を異にする場合も、一致してこの空間を安定したものと考えてきた。社会正義は、見知らぬ他者を「われわれの一員」と見なす集合的なアイデンティティの機制が存在することを暗黙の前提としてきたのである。しかし、そうした機制は明らかに失われてきている。一方では、国民国家を自らの生を十分に保障してくれ るセキュリティ・ユニットとは考えない人びとが増え、他方では、再分配の恵みを享受する人びとが以前にもまして負担の不公平感やあからさまなルサンチマンの感情に曝されるようになっている。
 社会の分断化に対して当然のように提起される対応は、国民統合としての社会統合を再び強化することである。そうした再統合を説く言説──しばしば国民共同体の「再想像」( re-imagination )として提起される──の問題は、差異化・多元化を分断化・断片化と乱暴に重ね合わせたうえで──「共通善」の解体、「国益」の破壊、社会「連帯」の破壊等々──、集合的アイデンティティを強化すればそうした分断は克服されうるかのように語る点にある。こうした対応が性急になされるとすれば、それは「国民の他者」を産出する暴力を反復せざるをえないのはあらためていうまでもないだろう。
 もはや詳しく論じるだけの余裕はないが、いま必要なのは、「生の保障」を奪われた人びとをアテンションの範囲から放逐し、「見棄てられた境遇」( Ver-lassenheit )に放置し、むしろ彼/彼女たちの置かれている場所からできるだけ距離を取ろうとする隔離の思想を「野蛮」( uncivil )と定義しなおし、他者との交渉を断ち切るの拒み、「生の保障」をできるだけ共有することを「文明的」=「市民的」( civil )として再定義していくアプローチである。「ゲイティド・コミュニティ」の生活には暴力死への恐怖が貼りつき、能動的な自己統治は将来の生存基盤そのものへの不安によって駆りたてられている。そうした不穏な生をこそ “uncivil” であるととらえ返すことが、迂遠であるが、<生の自由>を可能にする<生の保障>──非共約的なものの展開をうながす共約的なもの(たとえばA・センのいう “basic capabilities” )──を人びとの間に達成していくための途であるように思われる。


〔引用文献〕

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(さいとう・じゅんいち 横浜国立大学教授)