もっと暗闇を!──グローバル資本主義批判から原発批判への道を探る 小倉利丸

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原発を推進したグローバル資本主義

 首都圏では、原発による電力供給の不可欠性の証拠として企業や財界によって計画停電が利用される一方で、反原 発、脱原発の運動のなかからは、原発なしでも十分電力需要は充たせるとして、計画停電は原発推進のためのある種のプロパガンダだという批判がある。もちろん、日本の国内の電力需給だけをとれば、たしかに原発なしでも需要をまかなえる可能性はかなり高いといっていい。しかし、グローバル資本主義の構造を視野に入れたとき、問題の構成 はもっとやっかいなものになる。


 図は、昨年の『エネルギー白書』からとってきた地域別の1人当たりの電力エネルギー消費量のデータである。常識でもわかることだが、欧米、あるいはOECDの先進国 の消費量は、貧困国が多い第三世界の諸国、諸地域と比べて圧倒的に大きい。 他方で、中国、インドなど人口の多い「新興国」が急成長するなかで、新興国のエネルギー消費量は急激に増えている。歴史的に構築された「豊かさ」を唯一の「豊かさ」とみなして、先進国並みの所得とライフスタイルを自画自賛する先進国の政府や資本の価値観は、資本の投資や国際機関による経済援助の基本的性格を規定し、それが第三世界の経済開発の理想モデルを形成してきた。グローバル資本主義こそが、貧困の克服を、エネルギー消費の増大を伴うことを大前提とするようなライフスタイルと経済構造によって達成すべきものだということを資本蓄積の構造に組み込んできたのである。こうした構造が、エネルギーの潤沢な消費こそが「豊かさ」の象徴であるというイデオロギーを生み出してきた。しかし、これは歴史的にみれば、安価な資源の収奪を可能とする植民地主義と帝国主義の結果であって、これをもって「人類の進歩」とするのは近代文明のイデオロギーなのだということを想起する必要がある。
 第三世界の支配層にとっても、「進歩」や「豊かさ」について、先進国並みの生産活動とライフスタイルにおけるエネルギー消費の実現以外に、代替的な理念があるわけではない。「新興国」が先進国並みを目指して急成長するなかで、日本を含む先進国の政府・資本は、エネルギー資源をめぐる国際的な市場競争の激化にさらされるのは避けられないと予測して、原発への依存の強化を含めて「エネルギー安全保障」の確立を模索しようとしてきた。したがっ て、原発への依存は、グローバル資本主義の化石燃料も含むエネルギー需給全体の構造のなかで、先進国が生産と消 費において、「新興国」の追い上げと対抗して、自らのヘゲモニーを維持して「新興国」市場を支配下に置く世界戦 略の一環として捉えておく必要がある。言い換えれば、原発がいかにリスクが大きいものであっても、資本の選択は、 グローバルな市場における自らの利潤に関わるリスクにもっぱら関心があるということだろう。これは原発推進の一面であって、国際政治の観点からみれば、原発は核開発と一体のものとして軍事安全保障の重要な手段である。核の平和利用は核の軍事的な転用の将来的な可能性を排除できない。このことが政治的軍事的に持つ意味は大きいから、「国策」としての核開発の位置は、他のエネルギー開発とは質的に異なるものになる。原発開発=核開発は、この国の戦後経済復興と「先進国」化が、資本と国家の利益のために民衆の生存を犠牲にする典型のひとつでもある。
 一般に、エネルギー供給の制約は、確実に経済の国際競争力を低下させる。 この間の財界からの原発推進発言*1は、現在の需給関係ではなく近い将来の「成長」への制約となることへの危惧をも念頭においている。自由に潤沢に安価に利用できる電力なしには、グローバル資本主義の競争のなかで、日本の多国籍資本の競争力低下は避けられないという危機感がある。競争力の低下は、先進国相互だけでなく「新興国」の追い上げのなかで、また、新興国市場の獲得をめぐっても熾烈になっている。これまでの歴史的な教訓をふまえれば、エネルギー資源も含む資源需給の世界的な逼迫と国際的な競争の激化は、国際関係の緊張を招く危険性をはらんできた*2。経済の危機が政治の危機と連動し、資源の確保のために軍事力が動員され、国家安全保障を強化する政策が突出する。資本による先進国のライフスタイルや「豊かさ」と国家の安全保障とは表裏一体の構造をもつ。今私たちに必要なのは、こうした成長への危機、国際競争に敗北する危機に対して、成長や競争から降りることの価値を対置することだ*3。そうでないかぎり、経済、政治、軍事の国際紛争の泥沼に足を踏み入れ、 資本と国家の延命のために民衆の生存が犠牲になるような構造にますますはまり込むことになる。
 先の図にあるように、グローバルな視点にたてば、また、 先進国の中産階級のエネルギー消費を基準にとれば、世界規模でエネルギーは「足りていない」のだ。そしてこのような状態のなかでエネルギー消費の拡大を伴う成長の競争が資源の制約と環境の破壊、そして資源をめぐる軍事的な紛争という生存への不安定をもたらす一方で、原発推進を正当化する基盤的な構造を作り上げてきた。この国の50年代、60年代の近代化のなかでの電源開発原発が導入されたことを想起すれば、このことはわかりやすい。しかし、実は「足りていない」のではなく、私たちの消費の構造が先進国化するなかで、 「足りていない」状態を人工的に作りだし、市場に依存しなければ生存できない環境を強いることで、第三世界の貧困を生み出してきたのだ。こうした観点から議論を組み立てなおし、社会を再設計しなおさなければならない、という教訓を私たちは福島原発の事故から学ぶ必要があるのではないだろうか。
 反グローバリズムの運動は、人間を犠牲にして利潤を第一とする経済に対する抵抗運動として新自由主義を批判し てきた*4。また、世界の60数億の人びとが先進国並みのライフスタイルを実現するなどということは、資源の制約からみても、気候変動の現状からみても、また、貧困地域の低賃金労働力あっての先進国の「豊かさ」という収奪の構造からみても、選択肢とすべきではない、ということも指摘されてきた。そして、こうした資本と国家が与える「夢」によって人びとを競争に駆り立てる構造そのものを覆すことがなければ、貧困も紛争も環境の問題も解決できないということを繰り返し主張してきた。こうしたスタンスは今回の原発の問題でも重要な課題なのであって、反グローバリズムの主張と反原発の主張は構造的に1つのことがら、グローバル資本主義がもたらす「豊かさ」に基づく生存の危機を栄養源として増殖し続ける資本の構造(「これを国家が財政と軍事力で下支えするのだが)と不可分だということである。もしこのように視野をグローバル資本主義の矛盾にまで拡げたとき、「電力不足」なる事態は別 の意味をもつことになる。


「暗闇の思想」を蘇らせよう

 かつて、1970年代の半ばに、松下竜一は、九州電力による豊前火力発電所の建設阻止の闘いのなかで「あえて大げさにいえば、『暗闇の思想』ということを、このころ考え始めている」と述べた。松下は、この暗闇の思想を「比喩ではない。文字通りの暗闇である」とまで釘を刺し、「きっかけは電力である。原子力をも含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている」と書いた。30年以上を経たいま、再び「暗闇の思想」を想起することが必要になっているのではないだろうか。
 原発推進派が、原発なしでは電力が不足するという主張にたいして、「電力不足はない」という主張だけが、反原 発の運動がとりうる主張なのではない、ということをこの「暗闇の思想」は教えてくれている。しかし、松下のように、電力の供給不足になることを受け入れ「暗闇」を選択するような強靭な思想は、現在の反原発運動の中からは大きな声として登場していないのではないか。
 電力の十分な供給なしには経済成長は破綻するという政府と電力会社の宣伝は、原発の建設に限ったことではなく、 むしろ火力発電所をめぐる電源開発に対する地元住民の激しい反対闘争のなかで、すでに、推進派が描いてきた住民懐柔のプロパガンダの1つの核心をなしていた。松下が豊前火力の建設反対闘争をたたかい、各地で反火力の運動が広がった70年代当時、温暖化やCO2排出といった問題は、まだまったく議論にはなっていなかった。火力反対の 基調は、喘息などの健康被害をもたらす亜硫酸ガスや窒素酸化物などによる空気汚染と温排水による海洋環境の破壊などの公害への反対闘争であり、巨大開発による地方の暮らしの破壊に対する抵抗闘争だった。松下は「暗闇の思想」について次のように書いている。

「電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつづつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。年10パーセントの高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内では解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、『だが電力は絶対必要なのだから』という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに……誰かの健康を害してしか成り立たなぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと」


 高度成長の熱気にこの列島の住民たちが虜になり、エネルギーの浪費を可能とする生活こそが豊かさの証であるとして肯定していた最中に、電源開発現地の住民たちは、この都市生活文化の犠牲になりつつも、新しい思想の創造を 模索していた。「今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめて、いましばらく鎮静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう」と松下は考えたのだ。火力であれば「今ある公害を始末する」見通しは、当時であっても不可能ではなかった。
 しかし、いま私たちが直面している原発による「健康を害してしか成り立たぬような文化生活」から脱する見通しは、「いましばらく」というような時間軸ではとうていその処理は間に合わない、万単位の年月を要するものであって、深刻さは、格段に大きなものになっている。皮肉にもその結果、環境への多くの深刻な被害は、放射能汚染にくらべれば大したものではないような感覚に襲われ、基準値の数万倍などという報道が頻発するなかで数倍程度の数値は軽視されてしまう異常な感覚が蔓延しているのではないか。異常で巨大な事故を物差しにして、これまで問われてきたはずの重要な出来事のすべてがたいしたことはない、ということで済まされ、そして、さらに、こうした論理が、 福島で起きたようなことは起きない程度の事故ならすべてが「たいしたことはない」ということで、3・11以前にくらべてよりいっそう容認されてしまうような傾向はないだろうか?
 松下は次のようにも書いている。

「いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、『暗闇の思想』があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話が打ち破られねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。」


 日本経済全体の繁栄のためには電力こそが絶対であり、「一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬというおそるべき論理」は今に至るまでもっとも強固な支配層の信念でありつづけてきた。零細な豆腐屋を生業にしながら、労働運動とも政治運動とも無縁だった松下が、手探りで火電反対闘争を通じて獲得した「暗闇の思想」は、福島原発の事故を経て、いま私たちがもう1度真剣に受け止めてみるだけの価値のある思想ではないか。再度私たちは、かつての火力反対闘争やダム反対闘争が提起した電源開発への疑問の根源に遡ってみる必要がありはしないか。


電源開発の歴史

電源開発の歴史は、民衆を犠牲にした資本と国家の経済成長の歴史そのものだ。戦前であれば、植民地から強制連行されてきた朝鮮人労働者の存在抜きにはダム建設や炭鉱を語ることができないように、問題はこの国の近代化そのものの本質に関わっている。ダム建設で水没を強いられた山村であれ、火力発電によってもたらされた空気汚染にともなう都市住民の健康被害であれ、あるいは、これらの開発がもたらしてきた犠牲や民衆の抵抗闘争の歴史を視野にいれたとき、原発への依存を止める代わりとして火力や水力を使えばよいというような単純な話ではない。こうしたエネルギー開発の歴史と現状がどのような力によってもたらされてきたのか、という歴史認識と社会認識を棚上げにした自然エネルギーへの転換の政策的主張は、原発の廃炉もエネルギー過剰消費の経済構造も根底から問うことをしない。そうではなくて、社会再設計に向けて、資本と国家への懐疑を内在させた思想を構築する必要がある。ビジネスチャンスや新たな投資機会として自然エネルギーや再生可能エネルギーを論じることは、この社会システムの歴史的な経緯を視野に入れたとき、選択肢になるのだろうか。CO2排出権取引によって温暖化対策が市場化された経緯をふまえると、私は疑問に思う。
 開発と成長を疑う地方民衆の素朴な生活実感は、政府、財界、電力産業が一貫してもっとも恐れてきた思想であり文化であった。戦後の高度成長のなかで、おおよそ1960年代までのあいだに、日本の地方の農産漁村は徹底した解体化の過程に組み込まれ、自立的な経済基盤を奪われる一方で、都市の流動的な労働力の供給のみが期待される存在になった。出稼ぎによらなければ生活を維持できず、若年労働力が組織的大量に都市の工場労働力として動員され、地方は経済的な意味だけでなく、文化的にも社会的にも解体され中央の財政的支援に依存する従属的構造が形成された。にもかかわらず、地方が都市部の「豊かさ」を支えたのである。東京は、食料、水、エネルギーなどの生存の基本資源を自給できず地方に依存しながら地方を搾取し続けた。電源開発はこうした中央と地方の搾取を構造化するインフラとして機能しているにもかかわらず、その一方で、電源立地への交付金などを通じて、この搾取の構造を糊塗するという欺瞞をその本質としている。自民党の保守政権は、この欺瞞的なシステムのなかで地方への富の再分配のヘゲモニーを握って、金で地方を買収してきたのだ。搾取者があたかも慈善家のような素振りで、自らが搾取で得た金を搾取された者たちに与える仕組みがこの国の戦後の成長の本質だ。
 松下は必ずしもこのようには論じているわけではないが、彼の「暗闇の思想」は暗闇の反権力、反資本を直感的に捉えている。電源開発とは、光と闇との闘争における光による闇の支配を意味し、それは同時に闇の側に追い込まれた民衆の自立と自由の時間/空間に対する攻撃なのである。私たちは、この意味で光を求めてはならない。プラグを抜き、光から闇を解放する思想を求めなければならない。
 原発の停止から廃炉を要求する運動が、火力発電も含む従来の発電設備の再開や、自然エネルギーへの転換によって電力不足への対応を主張することによって、電力不足キャンペーンに対抗しようとするとき、はたしてそこには電源開発のこうした歴史認識をどこまでふまえているといえるだろうか?「暗闇の思想」に拮抗しうるような思想をどれほど見出せるだろうか?「原発に依存しない経済成長の可能性」という誘惑の多いスタンスは、はたして、 エネルギーを過剰に消費しながら達成されて、原発を増殖させることを促してきたこの国の経済の根本的な構造を不問に付すことになりはしないか?


近代文明と資本を撃つ「暗闇」

私たちはなぜ「暗闇」を恐れるのだろうか? 近代文明は、「暗闇」を光で被うことにある種の脅迫神経症と言っても過言ではないほどに執着してきた。いったいそれは何を意味しているのだろうか? 光の文明、言い換えれば闇を嫌う文明は闇の何を恐れているのか? 人間の長い歴史のなかで、闇をもたらす夜は、休息であり親密な時間、言い換えれば支配者の介入から自由となる時間を意味していた。夜とは、支配者者の視線を遮り、自己が自由を得て活動する時間を含意していたし、今でもそうだといえる。
 24時間フル稼働する煌々と明かりをつけた工場は、工業化による富の象徴であり、24時間営業のコンビニやファミレスは、ポスト工業化社会の消費生活の豊かさの象徴であり、時差を越えてネットで接続された世界中の金融市場は、バーチャルな空間から取引の終わりを意味する夜を駆逐してしまった*5。資本は、地球上の光の場所を追い求めてグローバルな生産と流通のネットワークを構築しようとしてきた。近代文明は陽が沈まない帝国を目指してきたとすれば、この光の植民地主義に対して私たちが暗闇の世界をもって立ち向かうということは、正当な抵抗のありかたなのではないか。
 暗闇とは、資本に価値増殖を断念させ人びとに自由をもたらす空間の基本的な条件である。闇夜に生きる者たちと は、昼の光がもたらすその明るさのなかに秘められた資本の死の欲望を見抜き、この光が必ずもたらす影を見出す。私たちは、暗闇の闘士となれるだろうか?

付記:松下竜一『暗闇の思想を』は教養文庫版から引用した。
 本稿の一部に私のブログに掲載した文章を用いた。

(おぐらとしまる/本誌編集委員)

*1:たとえば 、全国経済同友会は4月14日に「緊急復興アピール」を出し、そのなかで次のように述べた。「専門家による慎重かつ迅速な安全性の検証や防災対策を十分の行った上で、提起点検を終えた原子炉については早期に運転を再開していくとともに、3基が停止している柏崎刈羽原子力発電所についても、準備が整った原子炉から逐次運転再開を図るなど、電力供給の確保に向けて最大限の努力を行っていただきたい」。さらに福岡経済同友会は、5月31日に玄海原発の再開を意図して「九州おける電力安定供給確保の緊急アピール」を出し、早期の運転再開を「再度強くアピールするものである」と述べた。また、経産省の外郭団体でもある日本エネルギー経済研究所は、6月13日付けで「原子力発電の再稼動の有無に関する2012年度までの電力需給分析」を公表し「エネルギーベストミックスの観点から、安全性の確保を最重点課題としつつ、原子力発電の再稼動問題を真摯に検討することがわが国にとって喫緊の課題となる」と再稼働の必要を提言している。この提言への批判については、小倉利丸「原発再稼働の経済分析への批判──日本エネルギー経済研究所の原発再稼働提言を批判する」参照。

*2:例えば、70年代の石油危機は、中東の植民地からの独立から多国籍石油資本の資源支配に対する「資源ナショナリズム」の高揚という政治情勢と不可分であった。ポスト冷戦期からテロとの戦争にいたる時期は、同時に旧社会主義圏のグローバル資本主義への統合と「新興国」の台頭による世界経済ヘゲモニー地殻変動の時代として、資源需給の逼迫と国際関係の緊張をもたらしてきた。いずれの時期にあっても日本は原発への依存を強めようとする傾向を強めた。

*3:小倉利丸「『愛』と『成長』のダークサイド、あるいは夢想家になることの必要について」『季刊・ピープルズプラン』53号所収、参照。

*4:小倉利丸『抵抗の主体とその思想』、インパクト出版会、2010年、参照。

*5:小倉利丸「グーグル的なるものについて情報空間の植民地主義」『現代思想』2011年1月号参照。