スペクタクルを盲目にする 木下誠

 光と闇、白と黒、さまざまな声と沈黙のみで作られ、いっさいの映像を欠いた最初の映画『サドのための絶叫』から、既存の映画やニュース映像、テレビ番組やコマーシャル・フィルム、コミックスや写真などを転用した映像にかぶせてドゥボールの声だけが響く最後の映画『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを(イン・ギルム・イムス・ノクテ・エト・コンスミムール・イグニ)』まで、ドゥボールは一貫してスペクタクルと戦った。われわれの世界と日常生活の細部に浸透し、われわれの意識と生き方のすべてを捕らえているスペクタクルと。「スペクタクル」とは、「生」の複雑で統一的な連関を断片的で単純化された「イメージ」に還元し、逆転した「生」を自律的に運動させるものであり、今やそれは、われわれの「社会そのもの」、「社会の一部」、社会の「統合の道具」とまでなってしまった。その「スペクタクル」と、ドゥボールは映画を通して、ではなく、映画というものを根底的に批判し、破壊することによって戦ったのだ。
 まず始めに、彼は、映画から映像を剥ぎ取ることによって、観客が映像に幸福に浸り、赤ん坊のように映像のなすがままになっている状態を壊そうとした。『サドのための絶叫』に映像がないのは、明るい光の中で、観客が観客であることをやめ、自分たちの姿を凝視するためだ。また、暗闇と沈黙の中で、われわれが内心の声に耳を澄まし、自分自身と対話するためだ。そうして、「討論」が生まれる。スペクタクルによって世界を支配する偽りの体制とは何か、スペクタクルに浸された自分たちの貧しい生とは何か、そして、いかにしてそれらを打破すべきか、という討論が。
 こうして、最初に映像剥奪の儀式を行った後、ドゥボールは、次に、スペクタクルの言語そのものを転用し、その社会の武器を奪い取り、それを逆に差し向けて、スペクタクルとの公私にわたる戦いを開始する。『分離の批判』や『スペクタクルの社会』などの作品は、どれも、アリス・ドゥボールの言うように、われわれの見る世界の「鏡」だ。われわれはそこに、スペクタクルに捕らわれた自らの姿を見出す。そこでは、われわれは「観客」ではない。スクリーンの上にわれわれが見るものは、自分自身と切り離された映像ではなく、世界の惨禍の映像を観客として見ているわれわれ自身の姿であり、そこでは、逆に、われわれ自身がわれわれによって見られているのだ。
 その「鏡」の裏面に、スペクタクルの中では決して見ることのできないドゥボールの生がある。サン=ジェルマン=デ=プレでの彼の青春、彼の仲間、投獄された者、冒険の中で死んだ者や狂った者、パリでの夜の彷徨、ミュンヒェンヴェネツィアでのシチュアシオニストの大会、ヨーロッパの旅、アリスとのシャンポーでの生活……スペクタクルの眼差しには決して見ることができないこのドゥボールの生が、「鏡」の裏からわれわれの眼の裏に照射されている。一晩中、街をさ迷い歩いた後の、夜明けの光のように……。
 われわれが朝、目覚める時、あるいは赤ん坊が生まれて初めて眼を見開く時、そこにはスペクタクルはまだない。ドゥボールの映画の真っ白な画面と真っ黒な画面は、われわれが眼を開く瞬間の記憶であり、スペクタクルを盲目にする何度ものチャンスなのだ。