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魔法使いの肖像──サルトル『ユダヤ人問題についての考察』についての考察── 永野潤


自由への恐怖

 初期の著作『自我の超越』において、サルトルは、「自我」が、「反省」において実体化してとらえられた意識であると主張する。自我とは意識を実体化したその「結果」であり、意識とは本来「非反省」的なもので、非人称的なものである。そして、サルトルは、この非反省性的意識の自発性について「怪物的な自由 liberté monstreuse 」と表現する [ TE80/81 ] 。意識は、自分をも越えていく運動であり、固定した「自我」ではなく、刻々と自分自身を否定し、超越していく運動である。そして、サルトル哲学における自由とは、そうした、自分をも越えていくような自由のことである。われわれはかつて、サルトルの言う意識の自由が、実は「狂気」をはらんだ、いや狂気にもとづいたものであることを論じた*1
 ところで、「自我」とは、そうした狂気としての「怪物的な自由」を隠蔽するために作られるのだ、とサルトルは言う。『自我の超越』の結論部分で、サルトルは次のように述べている。

実際、おそらく自我の本質的な機能は、理論的なものであるよりもむしろ実践的なものであろう。(……)自我の本質的な役割は、意識に意識自身の自発性*2〔=自由〕を隠蔽するところにあるだろう。[ TE81/81 ]


 われわれが意識を実体化してとらえてしまうのは、われわれが、怪物的な自由を隠蔽し、それを悪魔祓いするためなのである。
 こうした枠組みは、1946年に発表されたサルトルの小著『ユダヤ人問題についての考察』(以下『ユダヤ人』と略)にも見られる。サルトルは、反ユダヤ主義者についてこう言っている。

 〔反ユダヤ主義者は〕どうして一体、誤った論理の方を選ぶことが出来るのだろうか。それは、人間に、不浸透性に対する郷愁 nostalgie de l'imperméablité があるからである。(……)石の永続性 permanence de la pierre にひかれる人々がある。重厚で、不可入的でありたいと望み、変化を望まない。変化などしたら、どこに連れて行かれるかわからないではないか。それは、根源的な自己への恐怖であり、真理への恐怖である。[ RQJ20-1/16 ]
 以上で、われわれは、完全に、反ユダヤ主義者を理解出来たように思う。それは、恐怖にとらわれた男である。それも、ユダヤ人に対してではなく、自分自身に対して、自覚に対して、自分の自由に対して、自分の本能に対して、自分の責任に対して、孤独に対して、変化に対して、社会に対して、世界に対して、恐怖を抱いているのである。[ RQJ62/60-1 ]


 自由とは、変化・運動であり、それはわれわれを不安、恐怖に陥れる。それを抑えるために、われわれは「不浸透性」「石の永続性」に憧れる。そして、不安をおさえるために、ユダヤ人が利用される。ユダヤ人を差別することによって、いわばその反作用によって、「所有者としての」「本物のフランス人」という自覚が生まれる。ユダヤ人は何も所有しない、不安定な存在だ、としておいて、翻って、自分達は「彼ら」と違って「伝統」「国家」「土地」そうしたものと結びついた確固とした存在なのだ、と安心するわけである。反ユダヤ主義者は、自分の中にある不安定な部分を、他者としてのユダヤ人に投影し排除することで、「確固とした自分」を獲得しようとしている。他者差別は自己恐怖の裏返しである。


情念」としての反ユダヤ主義

 ところで、「穏健な」反ユダヤ主義者は、落ち着き払った調子で、「わたしは、なにも、ユダヤ人を毛嫌いしているわけではありません。ただ、これこれの理由により、国家活動における彼等の領域が、制限されていた方がいいと思うだけなのです。[ RQJ11-2/5-6 ]」などと主張する。これは1つの「意見 opinion 」なのであり、人はどのような「意見」を持とうと自由だ、というわけである。だが、サルトルは、反ユダヤ主義者のそうした「意見」が、「意見」や「思想」ではなく、むしろ「情念 passion 」なのだと言う。

 反ユダヤ主義は(……)たとえ、うわべは理性的論証によって表現されても、実は身体的変化まで伴いかねないものなのである。ある人々は、一緒に寝ていた女から、自分はユダヤ人だといわれると、急に、不能になってしまう。ある種の人々は、中国人や、黒人に対する嫌悪と同様、ユダヤ人に対する嫌悪がある。しかし、この反発は、身体から生まれるものではない。なぜなら、ユダヤ人の女を、その人種さえ知らなければ、平気で愛することが出来るのであるから。この反発は、むしろ、精神から身体へと進むのである。それは、魂のアンガージュマンなのである。ただ、それが非常に深く、非常に全体的 total であるため、生理的にまで拡がるのであり、ちょうどヒステリーと同様なことが起るわけである。[ RQJ11-12/6 ]


 反ユダヤ主義者の男性が、女性から「実は自分はユダヤ人だ」と言われたとたん、不能になってしまう。この場合、不能という身体的な現象は、純粋な生理的現象としてはとらえられない。それは、彼の「世界との関係」の仕方によって規定され、それをいわば表現している。反ユダヤ主義者は、「反ユダヤ主義的身体」として存在する、と言ってもいい。
 身体化するまでに深いものでありながら、にもかかわらず、この反ユダヤ主義という「世界との関係」は、反ユダヤ主義者による「自由な選択」の結果だ、とサルトルは言う。

 反ユダヤ主義は、自己の自由で全体的な選択 choix libre et total の結果であり、単に、ユダヤ人に対してだけでなく、人類一般に対して、歴史と社会に対して、その人のとる1つの総括的な態度 attitude globale である。それは同時に情念 passion でも、世界観 conception du monde でもある。[ RQJ18-9/14-5 ]


 つまり、「自由から逃避する態度」である反ユダヤ主義という態度そのものが、「自由に選択された態度」だ、というわけである。重要なのは、自由に選択された態度が、「全体的」total なものだ、ということである。その意味で、それは自由に選択された単なる意見とは根本的に違うものである。

 反ユダヤ主義は、ユダヤ人に対する単なる「意見」ではなく、反ユダヤ主義者の人格全体 personne entière をアンガジェする。(……)それは、1つの思考の方法であり、世界観である。[ RQJ38-9/35 ]


 逆に言えば、反ユダヤ主義を単なる「意見」としてとらえることは、それを「全体的」なものとしてはとらえないということである。その場合、反ユダヤ主義は、個人に外から付け加わる(したがって取り外し可能な)「要素」でしかないことになる。
 この問題は、人格を、分解不能な「全体 tout 」としてとらえるのか、あるいは、独立したばらばらな要素の「総和 somme 」としてとらえるのか、という立場(これ自体もわれわれが選択する全体的な態度である)にわれわれを導く。サルトルは、前者を「総合的精神 esprit synthétique 」、後者を「分析的精神 esprit analytique 」と呼ぶ。サルトルによると、「分析的精神」は次のような思考である。

 われわれは大革命以来、個々の物体を、分析的精神によって考察するように、すなわち単純な要素 élément に分析出来る化合物として考えるように馴らされてしまっている。われわれは、人格や性格をモザイク〔寄せ石細工〕として見る。モザイクにおいては、個々の石は他の石と共存しているが、この共存 coexistence は個々の石の本質になんら影響を与えないのである。[ RQJ8/2 ]


 分析的精神は、反ユダヤ主義を、ちょうどモザイクのピース(石)のように、反ユダヤ主義者の人格から取り外し可能な「要素」としてとらえる。サルトルはそれに反対し、「総合的精神」に基づき、反ユダヤ主義者を「全体」としてとらえようとするのである。


総合と分析

 「総合的 synthétique 」と「分析的 analytique 」の対比、あるいは「全体 totalité ( tout ) 」と「総和 somme 」の対比は、サルトル哲学において初期からしばしば見られるものである*3
 例えば、前期の主著『存在と無』(1943年)では、サルトルは緒論「存在の探求」において「対自存在」と「即自存在」の概念を導入した後、第1部「無の問題」の冒頭において、「2つの存在領域のあいだに関係をうち立てる」という課題をたてる。そして、この関係が「総合的関係 rapport synthétique 」であることを示唆する。

 ある関係の両項をまず分離しておいて、しかるのちにそれらを結び合わせるのは、不都合である。関係は総合である rapport est synthèse 。したがって分析 analyse のもろもろの結果 résultas は、この総合のもろもろの契機 moments と重なりあうことができないでろう。もともと孤立して存在するように出来ていないものを、孤立させて考えることが、抽象することである、とラポルト氏は言う。反対に、具体的なものとは、それだけで存在しうる1つの全体 totalité である。[ EN37/I61-2 ]強調引用者)


 具体的なもの、すなわち「総合的全体」とは何か。それは、「世界の中の人間」である。

 具体的なものは、ただ総合的な全体 totalité synthétique としてのみありうるのであり、意識も現象も、ともにそれの契機をなすにすぎない。具体的なものとは、世界のなかの人間である。しかもそれは、たとえばハイデッガーが《世界-内-存在》と呼んでいるような、世界と人間とのあの特殊な結びつきをもった「世界のなかの人間」である。 [ EN37-8/I62 ]


 一方、抽象的なもの、とは、分析の「結果」としての「要素」である。しかし、「要素」の総和を作り上げたとしても、全体を再構成することはできない。

 抽象された諸要素の総和 sommation もしくは編成によっては、具体的なものを回復するわけにはいかない。それはちょうど、スピノザの体系において、様態を無限に総和しても実体に到達することができないのと同様である。[ EN38/I62 ]


 またサルトルは、『存在と無』第4部で、自らが提唱する「実存的精神分析 psychanalyse existentielle 」の原理は「人間は1つの全体 totalité であって、1つの集合 collection ではない」ということだ、と言う[ EN656/III305 ]。実存的精神分析は、「世界に面しておこなわれ、世界のなかにおける身構えの選択」である「根源的選択」を規定するものである[ EN657/III308 ]。
 したがって、反ユダヤ主義を、「自己の自由で全体的な選択 choix libre et total の結果」として描写する『ユダヤ人』は、反ユダヤ主義者についての実存的精神分析である*4


民主主義者の分析的精神

 1945年10月に創刊された雑誌『現代』の巻頭に掲げられた「創刊の辞」においても、サルトルは、「総合的精神」と「分析的精神」を対比している。サルトルは、「全体的人間観」にもとづく「総合的人間学」 anthropologie synthétique を提唱し、「分析的精神」を、ブルジョアジーを特徴付けるものとして批判している。
 分析的精神は、「全体」としての「人格」を要素の総和に還元してしまうが、同時に、「全体」としての「社会」を、要素としての個人の総和に還元する。

 一切が分析された。人々は同じ調子で、空気や水をその元素に分解し、精神をそれを構成するさまざまの印象の総和 somme に、社会をそれを作る個人の総和 somme に分解した。全体 ensembles は消失した。全体とはもはや偶然的結合による抽象的な総和 sommations abstraites にすぎなくなった。現実は、分解 décomposition の最終項のなかにのがれ去った。[ SII17/13 ]強調引用者)


 分析的精神は、全体としての人格を、社会を構成する要素としての個人に還元するわけである。そして、要素(分解の最終項)としての「個人」は、酸素原子が、どんな原子と化合しても変化しない構造を持つのと同じく、常に変化しない「本質」を持っている。
 サルトルは、分析的精神が考える「個人」を、グリーンピースの缶詰のなかのグリーンピースに例える。

 分析的精神の考えるような社会では、個人は分解できない固い粒子であり、人間性の乗り物であって、グリーンピースの缶詰のなかの1粒のグリーンピースのように存在する。まんまるで、自分を閉ざし、他と連絡がない。[ SII18/13 ]


 分析的精神によると、個人は、「自己同一」 identique à lui-même なものである。また、諸個人は、「人間の本質」 essence d’homme を分かち持つ限り「平等」 égaux である [ SII18/13 ] 。こうして、分析的精神にもとづくブルジョアジーは、旧体制社会の基礎であった、人間の「本性の差異」 différences de nature を否定し、「普遍性の神話」 mythe de l’universel を作り上げた [ SII18/14 ] 。それに対して、サルトルはこう言う。

 われわれは分析精神を排して総合的な現実感を求める。そうしてその原理は、1つの全体 tout はその何たるを問わず、各部分の総和 somme と本性において異なる、ということである。[ SII22/16]


 『ユダヤ人』にもどれば、分析的精神の持ち主は、反ユダヤ主義者という1人の人間を前にして、その人間を「要素の総和」に還元すると同時に「要素としての個人」に還元することになる。しかし、それは、ユダヤ人という1人の人間を前にした場合も同じである。彼らは、1人のユダヤ人を、単なる要素としての「個人」に、つまり「人権と市民権の抽象的・普遍的主体としての人間」 [ RQJ68/65-6 ] に還元する。「ユダヤ人」はいない。抽象的「人間」がいるだけである。彼らは、ユダヤ人たちを、宗教・家族・民族的共同体から引き離し、各個人が、モザイクのピースや缶詰の中のグリーンピースのような「孤独な個体」として「たった独り、はなればなれの状態で存在する」ようにする。具体的にはそれは、「同化政策」となる [ RQJ67/65 ] 。彼らはそれが「平等」であり、ユダヤ人問題の解消だ、というわけである。分析的精神の持ち主とは、すなわち「民主主義者 démocrate 」である。

 〔民主主義者は〕18世紀において、決定的に、分析精神を選んでしまった。彼等には、歴史が現す具体的な総合を見る目がない。彼等は、ユダヤ人も、アラビア人も、黒人も、ブルジョワも、労働者も知らない。知っているのは、古今東西、常に変らない人間というものだけである。彼等は、すべての集団を、個別の要素 éléments individuels に分解してしまう。彼等にとって、肉体 corps physique は細胞の総和 somme であり、社会 corps social は個人の総和 somme である。 [ RQJ65-6/63 ]

反ユダヤ主義者の総合的精神

 言うまでもなく、反ユダヤ主義者は、分析的精神のそうした「平等主義」とまったく反対の立場にたつ。したがって、反ユダヤ主義者は、「総合的精神」の持ち主なのである。反ユダヤ主義者は、ユダヤ人を「全体」としてとらえる。(反ユダヤ主義によれば)「ユダヤ人は、どこからどこまで悪人で、どこからどこまでユダヤ人 [ RQJ39/35 ] 」である。

 反ユダヤ主義者の持ち出す原則を、今、抽象的な命題で言いあらわそうとすれば、次のようなことになろう。即ち、全体は、部分の総和 somme より多く、且つそれと異るものである。全体は、それを構成する各部分の深奥な意味と性格を規定するものである。(……)各個人は、分解不能な全体であって、それが、その勇気、その高邁さ、その考え方、笑い方、飲み方、食べ方を持っているというわけである。
 これは、反ユダヤ主義者が、世界を理解するのに、総合の精神 esprit de synthèse をもってすることを選んだことを示している。この総合の精神こそ、彼に、自分が、フランス全体と、わかち難い統一を形づくっていると考えさせてくれる。 [ RQJ39-40 ]


 たとえば、反ユダヤ主義者が、ユダヤ人の「吝嗇」を非難したとする。民主主義者にとっては、「吝嗇」とは、人格から分離しうる単なる「要素」にすぎない。したがって、民主主義者は、反ユダヤ主義者に「ケチでないユダヤ人もいるし、ケチなキリスト教徒もいるではないか」と答える。だが、反ユダヤ主義者はそんなことでは説得されない。

 反ユダヤ主義者の言いたかったのは、「ユダヤ的」吝嗇というものの存在である。すなわち、ユダヤ的人格にほかならない、1つの総合的全体 totalité synthétique に影響された吝嗇である。 [ RQJ66/64 ]


 そして、反ユダヤ主義者にとって、分析的精神こそ、ユダヤ的なものなのである。反ユダヤ主義者は、「総合の精神」の名において「イスラエルの全く分析的・批判的知性をやり玉にあげる [ RQJ39-40/36-7 ] 」。
 『ユダヤ人問題』において、サルトルは反ユダヤ主義者を徹底的に批判するのであるが、このように、「総合的精神」を選び「分析的精神」を批判するという点では、サルトルの立場は反ユダヤ主義者と一致している。実際、サルトルは、社会を、孤立した細胞の総和 somme de molécules と考えることを否定し、生物的・物理的・社会的現象を「総合的精神によって理解すべきである」と考える点では、「反ユダヤ主義者と同意見である」 [ RQJ71/69 ] と言う。
 しかし、共通点はそこまでである。サルトルが選ぶ「総合的精神」は、状況 situation にかかわる、という点で、反ユダヤ主義の「総合的精神」とはまったく異なったものなのである。

 われわれにとって、人間は、なによりも「状況にある」 en situation 存在として定義される。これは、人間が、その生理的、経済的、政治的、文化的、その他彼の状況によって総合的全体 tout synthétique を形づくっていることを意味する。人間を、その状況から区別することは出来ない。 [ RQJ72/69-70 ]


 サルトルは、分析的精神の「普遍性の神話」に反対し、人間たちの間の「差異」を認める。しかし、その「差異」は、反ユダヤ主義者が認める「差異」とは違う。サルトルが認める差異とは、状況による差異である。

 人間の差異は、その状況が互いに異なることと、自己についてなされる選択の違いによって、起こって来るのである。 [ RQJ72/69-70 ]


 またサルトルは、ユダヤ人をグリーンピースのようなばらばらな個人に孤立させる民主主義者に反対し、ユダヤ人どうしの「結合」を認める。しかし、その「結合」は、反ユダヤ主義者が認める「結合」とは違い、状況による結合である。

 イスラエルの息子たちを結び付けているのはその過去でも、その宗教でも、その土地でもない。もし、彼らを結びつけるきずながあるとしたら、もし、彼らすべてが、ユダヤ人という名を持つに値するとしたら、それは、ユダヤ人としての共通の状況を持っているからである。 [ RQJ81/79 ]
 ユダヤ人をユダヤ人たらしてめているものは、その具体的な状況であり、彼をほかのユダヤ人たちと結び付けているのは、状況の一致なのである。 [ RQJ176/180 ]


 したがって、問題は、反ユダヤ主義的な総合的精神は、サルトルが選ぶ、状況にかかわる総合的精神と、どのように区別されるのか、ということになる。そのことを、身体という問題に即してみてみることにしよう。


総合的全体としての身体

 サルトルは、身体を「総合的全体」としてとらえる。それに対して、分析的精神は身体を「要素の総和」に還元してしまうことになる。サルトルは、1939年に発表された「顔」という短文の中で、人間の「顔」を要素の総和に還元する「心理学者」の身体観を描写しているが、それは、まさに「分析的精神」による身体観である。

 彼ら心理学者は、惰性的なものに取り囲まれていないと落ち着かない。人間を機械仕掛けの人形に、そして人の顔を自動仮面にしてしまった。(……)被験者の顔面神経を、低圧の電流を用いて巧妙に刺激するのだ。両唇の接合部がわずかに持ち上がる。こうして被験者は微笑むというわけだ。こうしたこと全ては、疑いの余地のないことで、実験報告書も、計算も写真もちゃんと揃っている。だから、表情の動きとは小さな機械的振動の総和 somme であるという証明がなされたわけである。[ V560-1/126]


 サルトルはこれに反論して、人間の「顔」は分解できない全体だ、と言う。

 人間の顔付というのは分解ができない indécomposable 。怒った男の怒りが鎮まるところを見てみよう。唇はゆるみ、微笑が、水滴の重く垂れ下がるように、このくらい表情のしたの方にじわっと広がってくる。局所的攪乱だと言われるか? それらの攪乱の総和 somme を出そうとお考えなのか? なるほど動いたのは唇だけだ。しかしそれだけで、顔全体 tout le visage が微笑んだではないか。 [ V561/127-8 ]


 だが、この小文でサルトルは、分析的精神による身体観を退けながらも、「全体」としての身体について、きわめて辛らつな描写を繰り広げている。そこで鍵となっているのは、「魔術」という言葉である。サルトルは、「顔」が、魔術的な物体なのだ、と言う。

 顔は、単に1つの事物であるに過ぎぬものでも、まず最初に1つの事物であるわけでもない。骨や頭蓋骨、小立像に兎の肢、こうした惰性的物体 objets inertes 、その沈黙のしきたりの中で錆びついているが、それでも精神の特性たる力を帯びている物体、これを人は魔術的と名づけるが、顔とはそういうものだ。自然の物神なのである。 [ V561/127 ]


 ここで言われているように、「魔術的」とは、「精神の特性を帯びた物体」のことであるが、これは、精神と物体の「総合」である。そして、ここで描かれているいわば「魔術的総合」としての身体は、『ユダヤ人』で描かれている「反ユダヤ主義的な総合」と密接な関係を持っているのである。

 顔の社会とは、即ち魔法使いの社会なのだ。戦争や不正、われわれの暗い激情、サディズムや恐怖政治、こうしたものを理解するには、われわれが身体という奴隷の上に載せて、あるいは時として激怒の時代には、槍の穂先に掲げて街中を練り歩く、顔というあの丸い偶像にまで立ち帰る必要がある。 [ V560/125-6 ]


 とサルトルは言うが、いうまでもなく、反ユダヤ主義は「われわれの暗い激情」の1つであろう。したがって、「魔法使いの社会」とは、「反ユダヤ主義の社会」でもある。


善の原理と悪の原理

 反ユダヤ主義は、ユダヤ人の身体を「全体」としてとらえる。たとえば、反ユダヤ主義者は「ユダヤ人をかぎ分ける」とか「ユダヤ人に対して勘を働かせる」などというが、それは、彼らが、ユダヤ人の身体を「ゲシュタルト」としてとらえている、ということである [ RQJ76/74 ] 。「人種 race 」についてのさまざまな理論が存在するが、そうしたものは「ユダヤ人が、不可分の一全体 totalite indecomposable であることを予想する」 [ RQJ75/73-4 ]*5。しかしサルトルは、人種理論における「全体」のことを「直観に訴える混合的全体 totalité syncrétique 」 [ RQJ76/74 ]と呼んで、「総合的全体 totalité synthétique 」と対比している。シンクレティズム syncrétisme とは、異質なものを混合・融合させる思考だが、ここで「混合」されているのは、ユダヤ人の「身体」と「精神」である。人種についての言説は、ある特徴をもった「ユダヤ的身体」の実在を認め、そこに、「ユダヤ的精神」が実在的に結びついている、とする。「人種」とは「肉体的性格と、知的・精神的特徴のごたまぜ pêle-mêle 」[RQJ73/71]であり、いわば魔術的な概念なのである。「魔術的世界」においては、物体と精神が混ざりあっている。そして、反ユダヤ主義が、ユダヤ的身体と結びつけるユダヤ的精神とは、「悪」である。

 ユダヤ人はあらゆる場合に、たとえ、そのために、自分自身が破滅しても「悪を行う faire le mal 」という、形而上学的原理を認めるならば、すべては明らかになる。この原理は、すぐ気がつくように、魔術的なものである。すなわち、一方では、1つの本質 essence に関するものであり、実在的な形であって、ユダヤ人がどうしようとそれを変えることは出来ない。火が燃えるのをやめられないのと同じである。ところが、それだけではユダヤ人を憎むわけにはいかない。地震とか、ブドウアブラムシを憎むことは出来ない。そこで憎むために、この本質に自由を与えることにするのである。 [ RQJ45-6/42 ]


 つまり、ユダヤ的本質とは、一方で、「火」や「地震」や「虫」と同様の、惰性的物体の性格が与えられる。しかも、他方でそれは、「自由」を、すなわち精神の性格が与えられるのである。ところが、ユダヤ人に与えられる自由は、用心深く制限されている。それは、「悪をなすには自由だが、善をなすには自由ではない」という、「奇妙な自由 étrange liberté 」 [ RQJ46/43 ]である。この、奇妙な自由は、「本質に先だってそれを形成するのではなく、完全に本質に支配され、その本質の非理性的な1性質でしかなく、しかも自由であることはあるといったもの」である*6。そしてサルトルは、この奇妙な存在とは、結局「悪魔」なのだ、と言う。

 私の知っている限りでは、こんな風に完全に自由で、しかも悪に結び付けられている存在というのは、たった1つしかない。それは悪の権化、悪魔そのものである。かくしてユダヤ人は、悪霊の同類となる。 [ RQJ46/43 ]


 反ユダヤ主義者は、物体と精神(自由)の「混合」によって「悪魔」を作り上げる。むろん、そうした魔術的な「物体と自由の混合的全体」とは、「状況における自由という総合的全体」としての人間とは似て非なるものである。 ここで注目すべきなのは、物体と「混合」されることによって、いわば自由が退化させられ、無害化されているということに注意しなくてはならない。「自由」は、「悪」の本質を維持するために、ひそかに召喚されているのだが、ただしこの「自由」はあらかじめ去勢されている。つまり、「悪魔」とは、実体化され(そしてそのことによって無害化された)自由なのである。
 以上のように、反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の身体と精神を、魔術的な全体としてとらえる。しかし同時に、彼らは、自分たちの身体と精神の結びつきをも、逆の仕方で、魔術的な全体として構成するのだといえる。
 彼らは、自らの身体を誇りに思い、身体に「非理性的な価値」を結びつける。「しとやかさ、高貴さ、活発さ」などのそうした「価値」は、「生物的な価値 valeur biologique 」 [ RQJ145/150 ]である。「生物学的」というこの言葉は、まさに身体と精神の魔術的な「混合」を形容する言葉であるといっていいだろう。サルトルは、「人種」という観念が、それらの生物学的価値によって成り立っていると言う。

 われわれが上品であると認める人々の何気ないしぐさ、ある時代の流行を特徴付ける快活さ「陽気さ」、イタリアのファシストたちの獰猛な態度、女たちの優雅さなど、これら生物学的行為は、すべて、身体の貴族趣味を表現することをねらったものである。 [ RQJ146/150 ]


 こうして、反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の身体を「悪」、自分たちの身体を「善」として構成し、「マニ教二元論」を作り上げる [ RQJ47/44 ] 。
 ところで、サルトルは、反ユダヤ主義者における精神と身体の「混合」が、フランスの大地との「魔術的な融即」の関係に由来する、と言う。

 〔アーリア人にとっては〕身体は、フランスの大地の果実である。すでに彼らに、その大地と文化を楽しむことを約束してくれたのと同じ魔術的で深い融即 participation magique et profonde が、彼らにそれを所有させてくれるのである。 [ RQJ144/149 ]


 反ユダヤ主義者たちと、彼らの土地との関係は、「領有 possesion 」という「魔術的な関係 rapport magique 」に基づいた所有形態であると言われる [ RQJ27/22-23 ] 。サルトルは、この魔術的な所有関係を「神秘的融即」という語を用いて説明している [ RQJ75/73-4 ]*7

 〔領有においては〕所有される事物とその所有者が、誠に神秘的な融即 participation mystique のきずなによって結ばれている。反ユダヤ主義者は、正に土地財産の詩人とでも言うべきである。 [ RQJ27/23 ]

悪魔と自我

 反ユダヤ主義者は、物体と精神(自由)の「混合」によって「悪魔」を作り上げるが、悪魔には、いわば退化させられ、無害化された「奇妙な自由」が与えられるのだ、と言われていた。ところで、『自我の超越』において、サルトルは、それとまったく同じメカニズムで作り出される「魔術的な物体」について論じている。それが、「自我」である。興味深いのは、「自我」は、恐るべき自由を隠蔽するために作り出されるわけだが、その自由に、ほかならぬ自由が与えられる、ということなのである。

 意識は、自分自身の自発性を対象 objet としての自我のなかに投影し、その自我に絶対に必要な創造力を、その自我に賦与するのである。ただ、その自発性は、1つの対象のなかにあらわされ、実体化されたものであるから、折衷的な退化した自発性 spontanéité batarde dégradée となってしまうが、でもそれは、受動的になりながらもその創造力を、魔術的に magiquement 保持している。そこから自我の概念のふかい非合理性が生まれてくるのだ。 [ TE63-4/63 ]


 「自我」は、自由を悪魔祓いするためにつくりだされるのだが、われわれは、自由を去勢するために、ほかならぬ自由の力をひそかに召喚しているのである。ただし、その「自由」は、あらかじめ退化させられ、去勢されたものなのである。
 サルトルは、そうした「意識の自発性の退化」の例として、身振りをあげている。身振りにおける身体は「魔術的な物体」である(われわれは、小文「顔」においてサルトルが似たような説明をしていたのをすでに見た)のだが、そこで、自由が退化させられている、とサルトルは言う。

 表情たっぷりで気の利いた身振り mimique は、その話し手の《体験》 Erlebnis を、その意味の一切、その色合いの一切、その新鮮さの一切をこめて、私たちに示してくれるものだが、しかし、そうして示された話し手の《体験》は、退化した dégradé もの、つまり受動的な passif ものとなっているのだ。 [ TE64/64 ]


 つまり、身振りする身体とは、「物体」と、「退化した自発性(自由)」の「混合」されたものである。それは「世界のなかの物体でありながらも意識の自発性 spontanéité の記憶のようなものもとどめている魔術的な諸物体」である [ TE64/64 ] 。そしてサルトルは、そうした魔術的な物体としての諸身体の関係が、「融即」的なものだ、と言うのである。

 それゆえ、人間は人間にたいして、いつでも1個の魔法使い sorcier なのだ。実際、一方が他方を自発的に創造するような2つの受動態のあいだのこうした詩的関係こそは、魔法の基礎そのものであり、《融即》 participation *8の深い意味である。 [ TE64/64 ]


 こうして、「融即」にもとづいた、自由を恐れる人間たちの共同体が生み出される。反ユダヤ主義者たちの共同体も、その1つである。

 〔反ユダヤ主義者は〕あらゆる種類の孤独を嫌う。天才の孤独も、暗殺者の孤独もともに恐れる。彼は、群集の中のひとりなのである。(……)反ユダヤ主義者になったのも、それが独りではなれない主義だからである。「わたしは、ユダヤ人が嫌いだ」という言葉は、グループを作って言われる言葉である。それを口にすることは、ある伝統に、ある共同体、とるに足らぬ人々の伝統と共同体に結びつくことなのである。 [ RQJ25/21 ]


 先にみたように、サルトルは、ブルジョワジー(民主主義者)の分析的精神における、人間の孤立化・分断を批判していた。しかし同時に、反ユダヤ主義におけるこのような「融即」にもとづいた共同性も、サルトルの批判の対象であった。こうした共同性とは異なった共同性がいかにして可能か、ということは、その後のサルトル思想の中心的なテーマとなっていくのである。
 


略号

TE: La Transcendance de l'ego, Vrin, 1985(1936)/竹内芳郎訳「自我の超越」、『自我の超越 情動論素描』人文書院、2000年

V: ≪Visages≫, in M.Contat et M.Rybalka, Les Ecrits de Sartre, Gallimard, 1970(1939)/石崎晴己訳「顔」、『実存主義とは何か』、人文書院、1996年

EN: L'Être et le néant, Gallimard, 1943/松浪信三郎訳『存在と無』、人文書院、1956〜60年、I〜III

PTM:≪Présentation des Temps modernes≫ ,in Situation II, Gallimard, 1948(1945)/伊吹武彦訳「「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞」、『シチュアシオンII』、人文書院、1964年

RQJ: Réflexions sur la question juive, Gallimard, 1985(1946)/安堂信也訳『ユダヤ人』、岩波新書、1956年

※訳文は基本的には邦訳を使用しましたが、文脈にあわせて、訳文、訳語をかなり変えさせていただきました。

*1:永野潤「断崖に立つサルトル―─自由と狂気についての素描―─」『現象学年報』第11号、日本現象学会、1996年

*2:『自我の超越』では、自由に代わって「自発性spontanéité」の語が多く使われている。

*3:後期の主著である『弁証法的理性批判』では、それは「弁証法的理性」と「分析的理性」の対立という主要テーマとなる。

*4:『ユダヤ人』は、当初「反ユダヤ主義者の肖像」とういタイトルで雑誌連載された。

*5:分析的精神における身体観のもとでは、実は「人種」という観念自体がなりたたない。したがって、科学的言説の形をとった人種理論のようなものは、結局「原始的確信に着せられた、うすっぺらな科学の衣装[RQJ43-4/40]」にすぎない。

*6:つまりここには、「自由(実存)が本質に先立つ」のではなく、「本質が自由(実存)に先立つ」という「転倒」がある。

*7:レヴィ=ブリュルが念頭におかれているであろうが、『ユダヤ人』の中にレヴィ=ブリュルに対する直接の言及はない。また、『ユダヤ人』邦訳では、participationは「干与」と訳されている。

*8:「自我の超越」邦訳では「分有」と訳されている。