レヴィナスにおける還元の問い  小手川正二郎


はじめに

 いわゆる「ブリタニカ論文」( Ⅸ, 237-349 )執筆にあたって、フッサールハイデガーと超越論的還元の意義をめぐって重大な論争をし、2人の共同作業は挫折に終わった。その翌年(1928 年)から2人の下で学び始めたレヴィナスは、両者の争点であった「還元の出発点」という問いを自らの課題として受け止め、やがてそれを〈他者〉という全く新たな次元で考えていくことになる。この意味でレヴィナスの哲学は、現象学的還元論の徹底化という側面を有している。本論は、レヴィナスフッサールにおける「還元の無動機性」を自らの「問い」とし(第1節、第2節)、フッサールの諸前提を綿密な形で問題化することで還元の動機を〈他者〉という問題次元に位置づけたと解釈する(第3節)。そして、絶えずフッサールに立ち戻って還元の動機を探求し続けることで、レヴィナスが「還元の動機」をめぐる問題のうちに何をもたらしたのか(第4節)、それがいかなる意義を有しているのかを検討する(第5節, 結び)。


1. 還元の出発点

 超越論的還元は、自然的態度における無批判的な存在定立──意識も意識に与えられる対象も現実的に存在しているとする一般定立──を宙吊りにすることで、「何かが何かとして現出していると」(「意味」)それ自体の検討を可能にする、現象学の「根本的で普遍的な方法」( I, 60 )であった。『イデーンⅠ』(1913年)でフッサールは、還元を自然的態度から超越論的態度への移行ないし態度変更と定義し、自然的態度を還元の「必然的な出発点」( der notwendige Ausgang )とする一方で、「自然的世界の所与性に関するどんな懐疑や否認も自然的態度のなす一般定立にはいかなる変更も及ぼすことがない」( Ⅲ/1, 61 )と明言している*1。それゆえ「あとがき」(1930年)では、「自然的生はその〈自然さ〉のうちで生き続けているために、超越論的態度へと移行するいかなる動機( Motive )も持たず、したがって現象学的還元を介して超越論的自己省察を遂行するいかなる動機も持たない」( Ⅴ, 153 )という還元の無動機性が指摘されている。しかし少なくとも『イデーンⅠ』では、フッサールは一般定立に対しても「懐疑を試みる」可能性、すなわち一般定立を「括弧に入れ」、「使用しないことができる」というわれわれの「自由」に触れるだけで、このような無動機性を立ち入って検討しようとはしない( Ⅲ/1, 61-64 )。これは『イデーンⅠ』が、超越論的現象学を厳密な学として基礎づけることを目的とし、還元をその学問性の前提としていたことに由来している*2
 これに対してハイデガーは、還元によって分離される超越論的自我と自然的・人間的自我の区別と同一性を問題化することで学的方法としての還元に疑問を投げかけた( Ⅸ, 602 )。そして彼は「還元の出発点」である存在者(「現存在」)の存在の仕方に注目することで*3、還元を存在者から「存在の意味」を目指す現存在自身の内的可能性として捉え直す*4。しかし、このようにして超越論的自我と人間的自我との区別を廃棄したために、ハイデガーはその後還元について明示的には考察しなくなる*5


2. 還元の問い

 ハイデガーの絶大な影響下にありながら、『イデーンⅠ』のフッサールを最重要視し、現象学的還元を「われわれが真に具体的な人間に回帰するのを助けてくれる方法」( TP209/202 )と評価するレヴィナスは、どのようにして2人の対立を「問い」として引き受けたのだろうか。1930年に公刊された『フッサール現象学の直観理論』(以下『直観理論』と略記)をもとに見ていこう。
 この著作は、よく言われるような「フッサール現象学の紹介」にとどまるものではない。レヴィナスは、ハイデガー的問題関心を引き継ぐ形でフッサール現象学に課せられる本質的な問題を見てとり、いくつかの点に関してはフッサールに疑問を呈している。なかでも本書を通じて一貫して主張されるのが、フッサールにおける「理論的なものの優位」が、現象学を認識論的問題次元に閉じ込めてしまっているというものだ。
 フッサールは、諸対象を即自的に存在するものとして受け入れる自然的態度の素朴さを還元によって克服することで、対象の所与性( Gegebenheit )がいかにして構成されるのかという構成分析の次元を開いた。レヴィナスによれば、このこと自体は、フッサールの出発点である学的認識論の範囲にとどまっている*6。しかし、そのような構成分析の問題次元を開くことで、フッサールは「対象性が存在するということは、何を意味するのか」( Was das besage, das Gegenstandlichkeit sei )という諸対象の存在の意味を問う次元、すなわち「存在論」の次元を開いた( TP176/171 )。しかもその際、『イデーンⅠ』では、判断作用や表象作用だけでなく、非理論的諸作用もまた、それ固有の存在論的構造を有した諸対象を構成すると考えられる( Ⅲ/1、 272 )。そうして価値や実践といった存在についても「意識における諸対象の構成の研究を押し進めながらそうした諸々の存在様式を解明する」ことが可能となった( TP190/185 )。レヴィナスは、認識論的次元から存在論的次元へのこのような移行をフッサール哲学の必然的展開として最重要視するが、最終的にはフッサールが「ドクサ的定立」という理論的秩序に属する措定の可能性をあらゆる定立の中核に据えることで*7、自身が開いた豊かな存在概念を再び理論的・認識論的問題次元に狭めてしまったと批判する。「この哲学者〔フッサール〕にとっては、存在するものとしての対象にわれわれが接近しうるのは、われわれが対象を理論的に認識する限りにおいてなのである。〔 … 〕この拘束が、意識のすべての作用は「客観化作用」であり存在者を構成するという主張の効力と重要性を減少させているように思われる」( TP192-193/186 )。
 このような主張は、理論的認識の優位に対するハイデガーの一連の批判を受け継いだものであり( TP174/169 )、その主張自体は後年まで維持されるものの(cf. AA58/89)、そこにレヴィナスの独創性を見出すことはできない。重要なのは、彼がフッサールにおけるこの「理論的なものの優位」を還元の無動機性の問題と結びつけていることである。

われわれが還元を遂行するように促されるのは、われわれが還元をなしうるからであり、還元がわれわれに新しい認識領野を開示するからである。そしてわれわれを還元と哲学的直観に導く自由と推進力は、それだけでは自由に関して、また理論を駆り立てるもの( stimulants )に関して何も新しいものを提示しない。というのは、理論が第一次的なものとして理解されているからである。( TP222/215 )


 ここでレヴィナスは正確に、『イデーンⅠ』における理論的なものの優位が還元の動機という問いを抑制していることを明らかにしている。逆に考えれば、フッサールが構成分析という認識論的(理論的)な立場にとどまる限り、彼に還元の動機の説明を要求するのは的外れだと言うことができる*8。ただしその場合でもレヴィナスは、おそらく2つの理由によって還元の動機を求め続けるだろう。第1に「人間の自然的態度は単に理論的な態度ではなく、人間の世界は単に科学的探究の対象ではない」がゆえに、一般定立を括弧に入れ、使用しないことができるという「理論の自由」によって還元を説明するなら、還元もそれによって可能となる現象学もわれわれの具体的生から離れてしまう( TP203/196-197 )。これは事物的な対象に対して「手許のもの」( Zuhandenes )、つまり「〜のため」( Wozu )という指示連関( Verweisung )を有した道具的存在者を第一次的なものとみなしたハイデガーフッサール批判を思い起こさせる*9
 もちろんレヴィナスは、具体的生を持ち出すことで、フッサールが批判したような人間学主義ないし相対主義に与しているのではない。「歴史の自然主義的理解から引き出される、似たような諸論拠で武装した懐疑論に対しては、『論理学研究』第1巻における〔…〕フッサールの諸論拠が勝利を収める」( TP221/213 )からだ*10。問題は、還元を理論的な動機によってのみ説明しようとするなら、それ自体がある種の懐疑論であるような「懐疑の試み」をなすことができるという「理論の自由」を前提とせざるをえず*11、われわれにとって還元は、ひいては哲学は、必然的なものではなくなってしまうということにある。これが2つ目の理由である。フッサールは「理論そのものを自己に与えるように、理論の自由を自己に与える」( TP222/215 )のだが、理論の自由それ自体は何によって保証されるのか。
 フッサールにおいて還元は学的必然性を有してはいるが、それが「理論の自由」に基づいて遂行される限り、存在論的必然性をもたない。言い換えれば、還元がなぜ「ほかならぬ私」において遂行されねばならないかという問いが原理的に抜け落ちてしまっている。これこそ、レヴィナスフッサールハイデガーから引き継いだ「還元の問い」であった。レヴィナスはこの還元の問いを倫理的ないし実践的な動機や歴史的な目的論によってではなく、フッサール現象学のある種の「徹底化」を通じて考察していくことになる*12


3. 還元と〈他者〉

 フッサールの言う理論の自由を第一次的なものとみなす限り、「還元の動機」について問うことはできないという『直観理論』での主張は、『全体性と無限』(1961年)で初めて、理論の自由、哲学の自発性それ自体の問い直しへと移行する。注意しなくてはならないのは、レヴィナスは理論の自由を倫理学的ないし実践的観点から根拠づけようとはしないということである。というのも、このような外部からの根拠づけは、あらゆる学の基礎づけとしての超越論的現象学の全般性を破綻させてしまうものでしかなく、『イデーンⅠ』におけるフッサールの還元の動機に対する沈黙を正当化する言明とはなりえても、それを批判するものとはなりえないからだ。あくまで哲学者たらんとするレヴィナスは、理論の自由を問い直す可能性(更なる還元の可能性)を、逆説的にも理論それ自身のうちに孕まれた自由の徹底化、批判能力の徹底化のうちに見出していく。

a. 制限された自由
 この点を考えるにあたり、われわれはフッサールの理論の自由が「制限された自由」であったことを思い起こす必要がある。『イデーンⅠ』でフッサールは、あらゆる定立に対するエポケー適用の「全き自由」を語ることで、自然的態度の変更が「原理的に」可能であることを示した( §31 )直後に、学問の領分を保持するため、すぐさまそのような自由を制限してしまう( §32 )。

というのは、もしもそのエポケーが、およそそれがそうでありうるほどにまで包括的( umfassend )なものであるならば、その時には、いかなる定立ないし、いかなる判断もみな、全き自由において変様せられ、判定されうるいかなる対象性もみな、括弧に入れられうるわけであるから、変様されない判断のためにはもはや何らの区域も残されないことになってしまい、ましてや何らかの学問のためにも、もはや何らの区域も残されないことになってしまうだろうからである。( Ⅲ/1, 65 )


 フッサールがこのような制限をかけたのは、あらゆる定立に対して懐疑を試みることができるという自由が学問的確実性を保持することなく、単なる懐疑論に陥るのを予防するためであった。

b. 徹底化された自由
 われわれはここでフッサールが避けようとしていた懐疑論が、レヴィナスの言う「享受」( jouissance )と正確に対応するものであると考える。享受とは(種の保存や生命の維持のためといった)外在的な目的を有さずに、自らが欲求するものを自己のうちに取り込み(内在化し)、「味わうこと」である。生きるための手段であったかもしれない食べることは、それ自体が味わわれる目的となり、さらにはこの食べることの追求(調理、農業、労働など)までもが目的と化し、その都度味わわれるという連鎖を紡ぐ。レヴィナスはこのような自動的な連関に、外的なものを自己の内に回収し、自己を肯定し続ける自足・自由の典型的な形を見て取り( TI113/153 )、享受をあらゆる自由(理論の自由、実践の自由など)の本質に据える。
 懐疑を試みることができるという自由をひたすら行使し続ける理論は、様々な対象に対して懐疑を試みるうちに、いかなる確実性も引き出すことなく、そのような懐疑の試みそれ自体のうちに充足してしまう。懐疑の試み自体が味わわれる糧となることで、学問的には何ももたらすことがない空虚な享受の際限なき可能性が理論のうちに、理論を通して開かれるのだ。フッサールは、まさにこのような自己充足した懐疑論を避けんがために、エポケーの自由を制限したのである。
 しかし、注意せねばならないのは、このような「制限」によっては、理論が空虚な享受に陥ってしまう危険が本質的には避けられていないということである。というのも、理論の自由(エポケーの自由)の制限それ自体も別種の理論の自由(学の自律性)によってなされている以上、このもう1つの自由がある種の独断ないし空虚な享受に陥ってしまっている危険性は残り続けるし、それによって制限された理論は、この危険性に対して根本的に盲目となってしまうからだ。
 レヴィナスは、フッサールによって学の自律性を保持するためにかけられた制限を破るまでに、つまり理論の自由それ自体を疑問視するまでにエポケーの自由を推し進めることで、自らの理論自体が空虚な享受に陥る危険をあえて冒しつつ、享受とは別の方向性を理論それ自身のうちに見出そうとする。ここにこそ、レヴィナスの徹底化された「批判への志向」が存する。自由の条件を問い続ける「批判」( critique )の徹底的遂行は、理論の自由によっては語りえない地点へと至ることになる。

理論は存在の知解、つまり存在論においても批判への注意を払う。理論は独断論を、そして独断論の自発性の素朴な恣意を暴き、存在論的行使における自由を問い直す。そのとき理論は、自らの自由の行使における恣意的独断の起源へ不断に遡行するように、自由を行使する。このような遡行それ自体も存在論的歩み、自由の行使、理論でなければならないとすると、無限退行に陥ることになろう。こうして、理論が有する批判への志向は理論を理論自身と存在論の彼方にまで導くことになる。( TI33/46 )


 理論の自由それ自体を括弧にいれ、自由の条件を遡行しその「起源」に至るまで、懐疑の試みが持つ自由、すなわち「批判」を徹底化させること。このような道程はフッサールの「制限された自由」を越えることで、理論自体のうちに充足する空虚な享受に陥る危険性を常に有しているが、しかしそこにのみ空虚な享受を内的に克服する唯一の可能性が存する。レヴィナスは、哲学に内在するこの「批判」の可能性を救い出し、そこに哲学の自律性、自由それ自体を問い直す可能性を見て取る。

c. 自由の出処

 自然的態度が1つの完全に自足した態度であったことに鑑みるなら、還元とはこうした自足の根底的な問い直しとして理解されうる。より厳密に言えば、還元とは、懐疑を試みることができるという自由がいかなる目的や制限にも縛られることなく徹底的に遂行されることで、その過程に充足し切ってしまうことなく自由の出処へと目を向け変えさせられてしまう(あるいはむしろ、目を向け変えさせられて初めて自足していた状態(自然的態度)が問題化される)という事態を意味している。フッサール自身による無前提性の要求の徹底化を通じて開かれた、この自由の出処という問題次元こそ、一切の動機をもたないように見える還元の「出処」として問題化されるべきものであったはずだ。ただしフッサールにおいては、還元の成果である超越論的次元と還元の出処とが同一視されていたため、還元の無動機性が矛盾となって残り続けた。これに対してレヴィナスは、フッサールの無前提性の要求を更に推し進め、懐疑を試み続ける理論の自由それ自体が問い直される地点として還元の出処を問題化することで、還元の無動機性の構造を解明しようとする。
 「〈同〉の問い直しが〈同〉の自我中心的自発性においてなされることはありえない。それは〈他〉によってなされる。〈他者〉の現前によって私の自発性がこのように問い直されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ」( TI33/46 )。自由・自足は、〈他者〉との直接的な出会いによってのみ問い直されうる。ここで「直接的」というのは、いかなる地平や了解も媒介とせずに、直面しているという事態を意味している*13。先行了解や認識地平を通じた主題化に供することなく出会ってしまうがゆえに、われわれの自由・自足を根底的に問い直すもの、それがレヴィナスの言う〈他者〉なのである。理論の自由に対する〈他者〉のこの絶対的先行性ゆえに、還元においては、思考はすでに〈他者〉へと根本的に方向づけられている。それゆえ、思考する自我は自由によってではなく、〈他者〉によって思考させられていることになる。このような必然性をレヴィナスは、「実存は自由を余儀なくされているのではなく、自由として任命される」( TI83/113 )、「注意(〜へと向かうこと attention )は〔…〕本質的に〈他者〉の呼びかけ( appel )に応答するものである」( TI102/138 )といった言い方で表現しようとする。還元においては、思考は他者からの呼びかけに「応答する」という形でしかなされえず、この〈他者〉への唯一的な応答( reponse )に私が私たる所以、「ほかならぬ私」が思考せねばならないという「責任」( responsabilite )が見出される。誰も私の代わりに思考することはできないし、誰もこの責任から私を赦免しえない。この「回避することができない」責任が、「ほかならぬ私」という思考の担い手の「特異性」( singularite )をなす( TI275/365 )。こうした責任や「ほかならぬ私」という特異性を必然的に伴う〈他者〉との関係は、その都度達成・解消される享受の連関とは根底的に異なる。というのも、ここで出会われる〈他者〉は、思考の担い手たる〈私〉の自由に対して絶対的に先行しており、それゆえ享受の対象として内在化されることが決してないからだ。
 こうして還元の出処が、思考の自由に絶対的に先行する〈他者〉という形で問題化される。「思考ならびに自由は、〔…〕〈他者〉に対する顧慮からわれわれに到来する」( TI108/147 )。「還元」は〈他者〉への唯一的な「応答可能性」(応答しないことができないという責任)を担った〈私〉において思考が始まってしまうこと、「始まらねばならない」こととして解釈される。フッサールの還元が還元をなす自由それ自体を問題化しなかったのに対して、レヴィナスはまさにそれを問題化し、〈他者〉による私の自由の根底的な「問い直し」とそれによる「ほかならぬ私」の召喚( appel )に還元の真の意味を見出したのである。


4. 還元と隔時性

 還元の出処を問うということは、現象学的還元それ自体に孕まれたより徹底した還元の可能性であった。レヴィナスは、フッサールにおいてさえも無批判的に前提とされているもの(理論の自由、哲学の自律性)の条件をさらに問うことで、フッサールの還元をより徹底的に還元したのだと言えよう。こうした徹底化を通じて、具体的には、あらゆる有意味性の基盤に「何かが何かとして現出していること」(「意味」)を置き、理性による直観(「直接的に見ること」)において対象が「原的にありありと与えられていること」に、その明証性を見出すフッサールの合理主義( Ⅲ/1,326 )の更なる掘り下げが試みられる。それは、「ありありと与えられる」( leibhaftgegeben )というフッサールの表現の内に、何かが何か同定可能なものとして(志向的統一として)与えられているというフッサール的な「意味」に先行する「強迫」( obsession )を見出すことでなされる( DEHH227/334 )。
 フッサール的な理論の自由は、何かを何かとして「引き受ける」( assumer )。「引き受ける」という様態においては、あらゆる経験が前もって「〜として」という現出構造のうちで何らか予見され承諾されている( AA160/237-238 )。逆に言えば、「引き受ける」ことにおいては、「与えられなくてもよい」可能性が常に確保されている。「与えられる」(それを対象とする)かどうかは、思考の自由に任されているというわけだ。しかし、 leibhaft gegeben の受動性を文字通り受け取るのなら、このような「与えられなくてもよい」という可能性は二次的な可能性にとどまる。レヴィナスは「与えられる」( gegeben )の受動性を「引き受ける」ことに先行する、「与えられざるをえない」という極度の受動性、「被る」( subir )こととして捉える。引き受けるに先立って、一方的に被ること、これが現出としての意味に先行する、意味の「意味性」( signifiance )であり、有無を言わさず思考を目覚めさせる「強迫」なのである。「強迫」は、現出としての「意味」に先立つという点で「志向性よりもいっそう切迫した関係の直線性」( rectitude )として位置づけられる( DEHH229/337 )。
 なにものかが「何かあるもの」として引き受けられるよりも前に、つまり所与が所与として与えられるよりも前に、思考はなにものかを被ってしまっていたと考えなくてはならない。思考はそれが自由に思考しているときには、つねになにものかを被ってしまっており、このなにものかに絶対的に遅れている。それゆえ、思考は、思考している「今」と連続した時間を遡ってこのなにものかを1つの起源として探究するという可能性を原理的に欠いている。それゆえこのなにものかは起源に先立つ起源ならざるもの、「無起源」( anarchie )としてしか思考しえないわけだが、しかしこうした「起源に先立つもの」、「無起源」としてしか思考しえない「何か」という表現もまた「言葉の乱用」( abus du langage )と言わざるをえない(HA74/121)。なぜなら「何か」( quelque chose )とは、すでに何か存在するもの、何か現出するもの、つまり「引き受けうる」( assumable )ものを意味しているのだから。これに対して、
「被る」とは逆説的にも「引き受けることのできない受動性」( passivit inassumable )を、1度も「意味」として現出したことのない「現象ならざるもの」との何らかの接触を意味している。このようにしてレヴィナスは、フッサールにおける「意味」よりも、より近く先行している事態をフッサール自身の leibhaft gegeben という表現に見出すことで、フッサール的な「意味」に先行する「無起源」の「意味性」( signifiance )という問題次元を提起する。そしてこの「意味性」こそが、フッサール的な「意味」を可能にし、それを方向づける( 方向/意味 sens を与える)のだと言う。
 重要なのは、このような「無起源」なるものが、その定義上、思考との連続性・同時間性を欠いているということである。思考が自らを起動させたものに本質的に遅れており、〈他者〉と〈私〉との間には乗り越え不可能なずれが、つまり思考している今ないし同時間性に回収できない隔たりが孕まれているというこのような事態をレヴィナスは「隔時性」( diachronie )と呼ぶ。これは、自然的態度における超越論的還元の生起についてのよりよい表現となりうる。自然的態度に没入している者にとって、自然的態度はその本質上、自然的態度として現れることはない。自然的態度を自然的態度として意識し思考するのは、何らか超越論的態度に移行した後にのみ可能だからである。自らの態度を自然的態度として意識するのは、それゆえつねに還元の後であり、この事後性は本質的に埋めがたいものだ。この事後性は還元の出処が思考との連続性を根本的に欠いていることに由来する。人が能動的に還元を行おうとするとき、根底的に受動的な次元ですでに還元はなされてしまっているのであり、そのような還元の動機は自然的態度においても、超越論的問題構成のうちにも現れることはない。というのも自然的世界のうちには、それを超克するようなものが現れることはありえないし、超越論的態度は、まさに還元によってのみ可能となるからだ。こうして、還元の真の動機は1度も現出したことのない「無起源」、被ることしかできない〈他者〉の「強迫」という形でしか問題化しえないことが明らかとなる。


5. 還元の二義性

 これまでレヴィナスが『イデーンⅠ』におけるフッサールの理論の自由を問題化するなかで、独自の仕方で「還元の動機」を問題化させていった過程を追ってきたが、そのような問題化はある程度まで、フッサール自身の還元論等によって指し示され、なかんずく遂行されていたものでもある*14レヴィナスもまた躊躇せずこのことを認め、フッサールに絶えず立ち戻りつつ問題の深化を試みている。
 その際レヴィナスは、フッサール自身の還元に2つの可能性が含まれていることを強調する( EN97/124-125 )。レヴィナスによればフッサールにおける還元は、一方ではあくまで「劣った認識からより完全な認識への移行」にとどまっている。そこでは世界や存在者に関する明証の「不十全性」が還元の動機とされる。こうした不足(欲求)から生じる還元は本質的に表面的なものにとどまり、還元の動機(目的)がその研究領野のうちにあらかじめ見定められてしまうことによってその動機(目的)の解消に専念し、理論のうちで自足する危険性に無自覚であり続ける。「あたかも奇跡でもおこったかのようにフッサールは還元を決意するのだが、この還元を動機づけているのは、素朴な認識にはらまれた矛盾の顕在化にすぎない。〔 … 〕ヨーロッパ精神の危機は西欧の科学をみまった危機のひとつにすぎないことになる」(強調引用者、 EN97/124 )。
 他方で還元は、確実性と不確実性の判定にのみ気をとられ理論のうちで自足してしまう自由に絶えず動揺をもたらし、そういった自由を根底的に刷新するものでもありうる。ここにおいて今度は leibhaft gegeben のもう1つの要素、すなわち leibhaft にレヴィナスは注目する。レヴィナスによれば、この語は「直接的に見ること」としての理性に対して「誇張的に」( emphatiquement )付加されている( DI46/52 )。「誇張」( emphase )とは、レヴィナスが、絶えず基礎を探求しようとし続ける建築学的方法に対置する仕方であり( DI141/173 )、この場合「原的に与えられること」としての明証のうちにおいてなお「目覚めていること」、明証が自己充足することを絶えず「警戒する」という「過剰」を意味している。対象が原的に与えられているなかでも、そのような明証のうちで眠り込むことなく覚醒しているような状態、これが「ありありと」という語が誇張的に示す「覚醒( vigilance )としての理性」である。そのとき還元は「確実性を危うくする不確実性の発見」ではなく、存在の認識の様相としての確実性/不確実性という水準を越えた「精神の覚醒」を意味することになる。「〈還元〉とは、〈同〉の同一性を統御する規範と対照をなす思惟の合理性《意味の意味性》がそこで浮かび上がるような覚醒になるだろう」( DI43/49 )。「ありありとしていること」( Leibhaftigkeit )は、フッサールにおいては「ここで今」( hic et nunc )( III/1, 327 )という現前性を意味していたが、レヴィナスはこれを現在において決して現出することのない「無起源的なもの」に強迫された(取り憑かれた obsédé )合理性の過剰(「覚醒」)と解釈することで、そこに〈他者〉への方向性が生じる必然性を示そうしたのだ。こうしてレヴィナスは、還元の二義性について語ることで、還元の出処を探求するなかで見出された、フッサール的還元の更なる還元可能性を何とか言明しようとしたのである。


結び

 このように、レヴィナスフッサールのうちに還元の2つの可能性、つまり不十全性を克服し続けようとする理論の建築学的可能性と、明証の自己充足を絶えず警戒することで〈他者〉へ向かう思考の可能性とを見出した。両者は根本的に異なる方向性ではあるが、決して対立する方向性ではない。事実、レヴィナスも計算や比較を通じた厳密さの探求が〈他者〉へ向かう思考と同時的に生起することを認めている( TI234/311 )*15。ただし、前者は決して〈他者〉を自らの計算可能性のうちに取り込むことはできない。〈他者〉が、つねに還元の現れざる動機としてしか示されない以上、理論の自由はこの現れざる動機への絶えざる遡求を通じてしかその正当性を証示しえず、その限りで、この〈他者〉によって理論の「厳密さ」が求められていると考えねばならないからだ。
 〈他者〉によって厳密さが求められると言うことで、理論を何か究極的な原因へ目的づけること、現象学を何か外在的な目的に従属させることが問題となっているのではない。というのも〈他者〉とは、何かある特定の目的に収斂するものではないからだ。還元の動機が無起源的なものとしてしか思考しえない以上、われわれは具体的な場面でその都度、還元の動機との乗り越えがたい隔時性を語っていくしかない。そしてそれが「言葉の乱用」によってしか語りえない以上、そのような語りは絶えず批判され、「語り直され」なくてはならない。常に起源を探究しようとする考古学(起源学 archéologie )としての合理主義に対して、レヴィナスの合理主義は「無起源的」で主題化不可能な〈他者〉に関わるがゆえに、絶えず別の仕方で語り直すことを要求される「終わりなき批判」( AA76/116 )でなくてはならないのだ。
このように、レヴィナスによる「還元の動機」の探求、そしてそれを通じた「哲学の始まり」の探求は、通常言われるような意味での倫理的ないし実践的な諸要請(例えば哲学が現実において有効性をもたねばならないといった要請)に由来するものではない。そういった要請の重要性に気を配りながらも、そこに孕まれる諸々の危険性(例えば、哲学を専門分化された諸学の1つとして道具化する危険性)に注意し続けなければならない。レヴィナスは哲学を倫理学に従属させたのでも、哲学に先行する1つの倫理学を構築したのでもない*16。彼が「還元の動機」ないし〈他者〉を探求せんとしたのは、あくまで哲学が有する批判の必然性によって、そして何よりフッサール現象学の徹底化によってであったことを銘記しなくてはなるまい。
 以上のような粗描が許されるなら、フッサールの「厳密さ」とレヴィナスの「厳密さ」の比較検討がわれわれの課題として残されることになろう。というのも、すでに見たように( 3.b )、レヴィナス自身の言説はそれ自体つねに空虚な享受に陥る危険を冒しており、レヴィナスの哲学を語るわれわれ自身もこの危険に足を踏み入れてしまっている以上、この点に自覚的であるためには言説の何らかの「厳密さ」を追い求めなくてはならないからである。それゆえ、より具体的に言うのならレヴィナスにおける「終わりなき批判」としての合理主義が、「無限の課題としての哲学」( VI, 73 )という形で展開されることになるフッサールの合理主義といかなる共通点と差異を有しているのかが問題化されねばなるまい。つまるところ、われわれの問題系においては、両者における「理性」の「意味」が問われることになるだろう*17


凡例・参考文献

 レヴィナスの著作の引用には略号を用い、邦訳を参照しつつ拙訳を提示したので、原著頁数の後に邦訳頁数を付した。

TP   La théorie de l’intuition dans la phénoménologie de Husserl, Félix Alcan, 1930. 佐藤真理人・桑野耕三訳『フッサール現象学の直観理論』、法政大学出版局、1991年。

DEHH   En découvrant l’existence avec Husserl et Heidegger, ( 1. éd. 1949 ) Vrin, 1988. 佐藤真理人ほか訳『実存の発見』、法政大学出版局、1996年。

TI   Totalitè et infini, M. Nijhoff, 1961.( livre de poche )合田正人訳『全体性と無限』、国文社、2006年。

HA   Humanisme de l’autre homme, Fata morgana, 1972. 小林康夫訳『他者のユマニスム』、風の薔薇、1990年。

AA   Autrement qu’étre ou au-delà de l’essence, M. Nijhoff, 1974.(livre de poche) 合田正人訳『存在の彼方へ』、講談社、1999年。

DI   De Dieu qui vient à l’idée, (1. éd. 1982) Vrin, 1998. 内田樹訳『観念に到来する神について』、国文社、1997年。

EI   Éthique et infini, Fayard, 1982.(livre de poche) 原田佳彦訳『倫理と無限』、朝日出版社、1985年。

EN   Entre nous, Grasset, 1991.(livre de poche) 合田正人・谷口博史訳『われわれのあいだで』、法政大学出版局、1993`年。

斎藤慶典 [2000]:『思考の臨界』、勁草書房

田口茂 [2005]:「覚醒する理性――レヴィナスフッサールにおける認識と「倫理」――」、『フランス哲学思想研究』第10号。

吉川孝 [2005]:「哲学の始まりと終わり――現象学的還元の動機をめぐって――」、『フッサール研究』第33号。

*1:下線は強調に用いる。引用文中の下線強調は、断りのない限り原著者自身によるものである。

*2:フッサールにおける還元の動機をめぐる叙述の変化については、吉川孝 [2005] を参照。

*3:Martin Heidegger, Prolegomena zur Geschichte des Zeitbegriffs: Gesamtausgabe 20, Vittorio Klostermann,1979, S. 152.

*4:ハイデガーは、フッサール自身が「超越論的還元は、これまでの生活経験すべてを完全に乗り越える一種の生活形式全体の変更( Änderung der ganzen Lebensform )である」(IX, 276)と述べていたことに立ち戻り、この「乗り越え」は跳び越えではなく「向上」( Ascencenz )であり、「内在的( immanent )であり続ける」がゆえに、「人間がそのなかでまさに自己自身に至るような人間的可能性」( menschliche Möglichkeit )として超越論的還元を考えなくてはならないと主張している( IX, 276-277 )。

*5:このことは、ハイデガーにおいて「還元」に相当する事態が問題にならなくなったことを意味するのではない。この点については斎藤慶典 [2000],  142-144 頁参照。「還元」をめぐるハイデガーレヴィナスの差異については、改めて論じなくてはならない。

*6:レヴィナスは、そのような認識論的関心が哲学を(科学の反省としての)認識論とみなす 19世紀後半のドイツ哲学(ヴントやジグヴァルトといった心理学的な哲学者たちと、マールブルク学派やヴィンデルバントといった新カント派の哲学者たち双方)に由来するものであり、フッサール自身がそうした哲学観から自由になっていないことがあると述べている( TP16-17/11-12 )

*7:「〔 … 〕可能性、蓋然性、非存在等々は、ドクサ的定立を加えられることができ、したがってそれと同時に、特有の「対象化」を施されることができる。ただし、推測、疑問、拒否、肯定等々の「中で」「生きている」間は、われわれは、何らのドクサ的根元定立をも遂行せず、しかしそれでいてむろん、別の「定立」を遂行する。〔 … 〕だが常にわれわれは、それぞれの場合に対応するドクサ的根元定立を、遂行することができる。この種の現象学的事況の本質には、それらのうちに含まれている潜在的定立を顕在化させうるという理念的な可能性が、根ざしている」( III/1, 257-258 )。

*8:ただしその後のフッサールは、「認識倫理的」な観点から還元の動機を歴史的ないし目的論的に位置づけようとすることになる。この点についての詳細は、吉川 [2005]を参照。

*9:『存在と時間』第15節などを参照。

*10:フッサールは『論理学研究』( XVIII, 159 )以来、従来の人間学が「ひとりよがりの自明性」、つまり「一般的人間的なものについての主張のような、はなはだ疑わしい主張」( ibid., 156 )を有するがゆえに、どれも懐疑論相対主義に陥らざるをえないとし、これを退けてきた。

*11:フッサールはこの〔還元の動機という〕問題を、素朴な態度の「存在定立」を中和化してそれにまなざしを向けるわれわれの自由について語ることによって解決する。ところで、問題となっている自由は、懐疑の類似物である理論の自由である」( TP222/215 )

*12:『全体性と無限』以前には、彼はこの問題を「意識の始まり」(『実存から実存者へ』)、「思考の始まり」(「自我と全体性」)の問題として考えている( cf. EN24/22)

*13:レヴィナスが「顔」( visage )と呼ぶのは、この何ものも介さずわれわれに迫って来る仕方( facon )である( TI43/59 )。

*14:フッサールの還元論の変貌をレヴィナスの理性論と関連づけて論じた重要な論考として田口茂 [2005]を参照。

*15:比較可能性や計算可能性といった形で考えられる哲学は、〈他者〉による強迫に居合わせる「第三者」という問題系のうちで検討されねばならない( AA246/349 を参照)。

*16:レヴィナスは、次のように明確に述べている。「私に課せられた仕事は、倫理学を構築することにあるのではない。私はただ倫理の意味を探究しようとしているだけだ」( EI85/125 )。

*17:本稿は、筆者が日本学術振興会特別研究員として文部科学省科学研究費(特別研究員奨励費)の交付を受けて行った研究成果の一部である。本稿の基となった第66回フッサール研究会個人研究発表の発表時や発表前後に貴重なご質問・ご意見を賜った諸氏、とりわけ斎藤慶典教授、堀江聡教授、村上靖彦准教授、吉川孝氏、身体論研究会の方々に深謝いたします。