スペクタクルの支配とメディア文化 The Domination of the Spectacle and the Media-Culture 亘明志


要旨

 現代のメディア文化において、視覚的要素、とりわけスペクタクルか重要な位置を占めることはいうまでもない。このスペクタクルを、単に「見世物」という限られた意味ではなく、現代社会を構成する基本的な原理として考察したのか、ギ一・ドゥボールの『スペクタクルの社会』である。ドゥボールはアカデミックな研究者ではない。レトリスムを標榜する前衛的な映像作家として出発し、都市を中心にさまざまな芸術活動、政治活動を行い、「漂流」「転用」あるいは「状況の構築」といった実践的な概念を作り出していく。こうしてドゥボールは、現代社会を批判的に把握するキー概念として、「スペクタクル」という概念に到達するが、その背景には膨大な実践かあるだけに、語義の詮索だけでは十分ではない。そこで、現代のメディア文化をとらえる1つの視点として、①ドゥボールの「スペクタクル」という概念はいかにして形成されたのか、②現代社会を「スペクタクルの支配」ととらえたときに切り開かれる問題系はどのようなものか、③「スペクタクル」の概念をめぐって提起されるあらたな課題はどのようなものか、について考察した。


はじめに

 ゴダールの「カラビニエ」という作品の中に、次のようなエピソードかある。
 2人の兄弟か徴兵令状を受け取る。戦争に行くことをためらう兄弟だが、外国に行って精神が豊かになり、そのうえ世界の富か何でも思いのままに手に入るという話を聞いて、母と妹が心を動かし、2人は戦争に行く。戦争で多くの手柄を立てて、1人は戦利品を持参して帰ってくる。戦利品は、凱旋門、エッフェル塔、ピラミッド、自由の女神、それからエリザベス・テイラーブリジット・バルドーといった女優の写真まである。これら「戦利品」の絵葉書や写真をカバンにいっぱい詰めて、2人は意気揚々と帰ってくるのである。世界があたかもスペクタクルによって構成されてでもいるかのように。
 戦争を描いた映画作品は数多いが、2つの類型に分けられる。戦争を勇ましいものとして描き、美化する映画と、戦争の残酷さを描いて反戦を訴える映画とである。ゴダールの「カラビニエ」はどちらにも属さない。
 戦争をリアルに描くことで、戦争の残酷さを際立たせようとする反戦映画は、確かに、見る者に戦争への嫌悪感や忌避したいという気持ちを抱かせる。しかし、リアルに戦争を描けば描くほど、生と死が隣り合わせになっている戦争は非日常的な緊張感を持ったものに見えてくるというパラドックスに陥る。戦争のリアルな描写は、日常の場からは何か「聖なる空間」と感じてしまいかねないのである。
 これに対して、ゴダ一ルは「カラビニエ」において、徹底して戦争の愚かしさを、1つの寓話として描いた。戦利品としての絵葉書や写真、表象としてのスペクタクルを手に入れるだけで、世界を所有したかのように錯覚することは、戦争のカリカチュアになっている。しかし、それは現実とは無関係のフィクションにすぎないのだろうか。寓話とは、そこに何がしかの真実か含まれているからこそ寓話ではないのだろうか。もしかすると、ゴダールの「カラビニエ」に登場する兄弟たちだけが愚かなのではなく、現代社会がスペクタクルによって支配されるメディア社会に変質してしまっているのではないのか。
 ゴダールの「カラビニエ」は1963年の作品であるが、1950年代後半から1960年代にかけて、(政治的および芸術的)実践と理論において、スペクタクルの問題を徹底的に追及した人物がいる。ギー・ドゥボールである。彼は前衛的な映像作家として出発するが、しだいにスペクタクル批判の政治的実践に軸足を移す。彼にとってスペクタクルとは、単なる「見世物」という意味ではない。それは、現代社会の構成原理でもあるのだ。その理論は1967年に『スペクタクルの社会』に結実し、当時の学生たちに大きな影響を与え、フランス5月革命を思想的な面で準備したとも言われる。彼の提起したスペクタクルという概念は、いまもって現代におけるメディア文化を考える際の参照点になっている。
 そこで本稿では、ギー・ドゥボールのスペクタクルという概念がどのようにして形成され、それが現代のメディア文化の分析にとってどのような意味があるのか、について考えてみたい。


1.ギー・ドゥボールとシチュアシオニスト

 ギー・ドゥボールは1931年12月28日、パリで生まれた。
 父マルシアル・ドゥボールはパリの薬局店の息子で、薬剤師をめざし大学で学んでいるときにポートレット・ロッシと出会って結婚し、2人の間にギー・ドゥボ一ルが誕生、父マルシアルはギー・ドゥボ一ルの誕生後すぐに結核にかかり、ギ一が4歳のときに死去する。
 父の死後、ギー・ドゥボ一ルは、南仏のポーおよびカンヌで高枝時代までを過ごす。1951年、18歳のときにカンヌ映画祭で上映されたイジドール・イズーレトリスム映画「涎と永遠についての概論」を観て衝撃を受ける。ドゥボールはバカロレア取得後、パリに出てパリ大学法学部に登録するが、大学には行かず、イズーらのレトリスム運動に参加する。レトリスムとは、「芸術作品」の徹底的な破壊を推し進め、言語を文字と叫びにまで、映像をフィルムの上の傷と模様にまで解体する前衛芸術運動である。
 1952年にはレトリスムの手法を採り入れた映像のない映画「サドのための絶叫」を製作・上映する。同時に、この年、ドゥボールは、イジド一ル・イズーの神秘主義的傾向に反対して、レトリスト左派を糾合し、レトリスト・インターナショナルを結成する。ドゥボールは、機関誌『アンテルナシオナル・レトリスト』や『ポトラッチ』誌上で、芸術・映画・政治に関する批判的文章を多数執早する一方、パリの町を「漂流」しつつ都市の隠れたネットワ一クを探索する。
 1957年には、ドゥボールらのレトリスト・インターナショナルは、イタリアで日常生活批判としての前哨芸術運動を展開していた〈イマジニスト・バウハウスのための国際運動〉のアスガー・ヨルンらのグループやイギリスの(ロンドン心理地理学委員会〉のメンバーらとともに、〈シチュアシオニスト・インターナショナル〉(SI)を結成する。その後、運動体としてのSIかドゥボールの活動拠点となる。
 このSI結成大会でドゥポールは基調報告「状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告」を行う。この報告の中には、「状況の構築」(スペクタクルの支配を批判する異化的時空間を社会のなかに積極的に構築すること)、「統一的都市計画」(日常生活の舞台装置を具体的に変革し、人々の情動や行動様式と相互に影響しあう総合芸術としての都市計画)、「心理地理学」(地理的諸環境が諸個人の情動的な行動様式に対して直接働きかけてくる、その正確な法則と厳密な効果の研究)、「転用」(状況の構築や統一的都市計画のための実践的方法論)、労働の拒否と「遊び」の称揚、専門的芸術家の廃棄、スペクタクル原理の批判としての「非−介入」など、その後のSIの中心的理念がすでに語られていた。翌1958年にはSIの機関誌『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第1号が発刊される(同誌は1969年の第12号まで続く)。
 1960年代前半、SIは除名等により「芸術至上主義」派を一掃するとともに、カストリアディスらの新左翼運動〈社会主義か野蛮か〉などの革命的諸潮流との連携を強め、オランダでの核シェルター暴露運動やスペインの反フランコ闘争などにも積極的に関わっていく。また、1965年のアルジェリアでのブーメディエンのクーデター、ロスアンゼルスのワッツ暴動、67年の中国文化大革命などに際して、次々と政治的パンフレットを発行する。SIの主張は、既存の社会主義運動を乗り越え、「労働者評議会」の直接民主主義に依拠する徹底した評議会社会主義であった。
 1966年、ストラスブール大学でシチュアシオニストの影響を受けた学生らがフランス全学連(UNEF)に反乱を起こす。SIのムスターファ・ハヤティはパンフレット『学生生活の貧困』を執筆し、先進資本主義社会における学生層の疎外についての批判と反乱の必然性を訴える。このバンフレットはフランスの多くの学生に読まれるとともに、多くの言語にも翻訳され、68年5月革命を理論的に準備するものとなった。

 このようなシチュアシオニストの理論と運動を踏まえつつドゥポールの思考を集約した「スペクタクルの社会』か1967年に出版される。
 1968年1月、シチュアシオニストの強い影響を受けたルネ・リーゼルらがパリ大学ナンテール分校で〈怒れる者たち〉を結成、構内私服警官追放、授業介入、大学本部棟占拠などの行動を起こす、5月、フランス5月革命。ドゥボールらはさまざまなバリケード闘争に参加、〈怒れる者たち〉とSIは共同の委員会を結成し、ソルボンヌ占拠において中心的役割を担う。
 5月革命の終結とともに、ドゥボールらSIの主要メンバーはベルギーのブリュッセルに亡命するが、シチュアシオニストの闘争スタイルは、欧米の反体制派の中で注目されるようになり、多くの自称シチュアシオニストを生むことになった。しかし、このようなSIの大衆化は、観客的な周辺メンバーや実践活動を行わずに抽象的議論にのみ終始するメンバ一の増大を招き、SIの活動は停滞を余儀なくされる,結局、ドゥボールはSIのスペクタクル化を批判し、1972年には自らSIを解体するに至る。
 1972年以降のドゥボールは、長編映画「スペクタクルの社会」の製作に没頭する。この作品は、既存のさまざまな映画の映像の転用とドゥボールによる同名の著書からのコメントによって構成されているが、1974年に公開されるや、映画界、マスコミで激しい議論を巻き起こした。これに対して、ドゥボールは短編映画「映画『スペクタクルの社会』に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁」を製作し、1975年10月に完成、上映する。
 その後、ドゥボールは、自身の名があまりにも有名になりスペクタクル的に注目されることに対して、自らを強く防衛するようになる。
 1988年、ドゥボールは『スペクタクルの社会に関する注解』を出版した。この著で、ドゥボールは1980年代の資本主義の「統合されたスペクタクル」を批判するが、これは翌年のソ連の崩壊を予告するものでもあった。
 ドゥボールは、「アルコール性神経炎」のため身体の自由が利かなくなるが、1994年11月30日、自己の意思に反して病院でさまざまな治療を施されることを拒否して、自らに向けて拳銃を発射し、命を絶った。


2、スペクタクルの支配

 高度資本主義社会に閔するさまざまな理論の中でも、ドゥボールの『スベクタクルの社会』[Debord 1967=2003] ほど特異な位置を占める書物はないだろう。それは一方で原理的な思考を展開したものでありなから、他方では、初版出版当時のフランス5月革命前後、世界的な学生叛乱という時代状況の刻印を色濃く受けている。
 『スペクタクルの社会』はその構成や記述の仕方においても特異である。全体は「I 完成した分離」に始まり、「Ⅱ スペクタクルとしての商品」以下、「Ⅸ 物質化されたイデオロギー」まで、9つのパートから構成されている。9つのパートに分けられた目次構成を見ると、体系的理論を志向しているように思えるか、しかし全体は221の断章から構成されていて、安易なスペクタクル的マニュアル化を徹底して拒絶している。
 にもかかわらず、各断章は現実から遊離するのではなく、多くの人々によってさまざまなコンテクストに引用=転用されてもきた。
 『スペクタクルの社会』のキー概念である「スペクタクル」とは、単に権力やマスメディアか大衆を操作するために用いる「見世物」という意味に限定されるものではない。スペクタクルとは、表象に支配された近代社会の基本的な構成原理である。近代社会においては、人間の生の全体がスペクタクル化されてしまう。
 ドゥボールは、マルクスの「資本論」の冒頭を転用して、スペクタクル社会を次のように定式化する。「近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。」[Debord 1967=2003:14]。
 このように、スペクタクルとは、近代社会を根底的なところから特徴づける構成原理である。しかし、スペクタクルの社会がその具体的相貌を見せてくるのは、マスメディアが急速に発達し、消費と余暇が主役の座を占めるようになった大量消費社会の到来以降である。では、欧米でスペクタクルの社会が誕生したのはいつごろだろうか? ドゥボールによると、「スペクタクルの社会」が出版された1967年の40年前、すなわち1920年代末頃にはスペクタクルの社会に入ったと見られる[ Debord=2000:12 ]。
 スペクタクルの社会では、モノとしての商品よりもむしろ情報やサービスのような形のない商品が主力となる。モノとしての商品から切り離されたイメージが人びとの生を支配し決定していくことになるのである。スペクタクルは「世界の領土を正確に覆う地図である」(断章31[Debord 1967=2003:29])。われわれから逃げ去ったもが、その威力を伴って、われわれの前に示され見せられるのである。
 スペクタクルは、生を断片化するとともに「一般的な統一性」という疑似的な救済を提示する。それは人びとに徹底した受動性と孤立を強いることと引き換えに、幻想的な統合を与えるのである。しかし、だからといってスペクタクルと現実か単純に対立するというわけではない。
 この点、スペクタクルという概念は、誤解されやすいものだったといえよう。スペクタクルが「外観」や「表象」のみを意味するのだとすれば、本来の「実体」や「現前」の堕落形態としてスペクタクルが想定されることになる。そうだとすると、本来の生とその疎外といった伝統的な西洋形而l上学の図式の枠内でスペクタクルを考えるにすぎない。そこでは、疎外からいかにして本来の生、を「回復するかが問題になるだろう。しかし、ドゥポールは本来的なものの堕落形態としてスペクタクルを考えていたわけではない,スペクタクルは表象であると同時に現実でもあって、いわぱ二重化されているのである,「現実はスベクククルのなかに生起し、スペクタクルは現実である」(断章8[ Debord 1967=2003:17 ])。
 こうしてスペクタクルの支配は社会の細部に至るまで貫徹するが、それは社会体制の違いによらない。ただ、支配の形態に関しては「集中したスペクタクル」と「拡散したスペクタクル」という2つのタイプかある。ソ連や中国あるいはナチス・ドイツのような中央集権的官僚主義国家は、集中したスペクタクルという形態を取り、大衆には選択の余地か残されていない。これに対してアメリカ合衆国や西欧諸国のような先進資本主義国歌では、拡散したスペクタクルとなる。そこでは互いに矛盾した主張がスペクタクルの舞台の上でひしめいている。
 『スペクタクルの社会』出版の約20年後、ドゥボールは『スペクタクルの社会についての注解』[Debord 1988=2000 ]を出版する。そこではスペクタクルの基本的な理論図式には修正を加えず、20年間のスペクタクル現象の変容を踏まえて、1点だけ追加する。すなわち、集中したスペクタクルと拡散したスペクタクルは「統合されたスペクタクル」という単一のスヘクタクルに収斂したという点である。その結果、スペクタクルの支配が完全に社会を覆い尽くし、メディアの過剰を通して、すべての歴史認識を消去する。そして伺よりも,スペクタクルの支配の完成がつい最近のことであるにもかかわらず、そのことを忘却させるのである。
 では、このようなスペクタクルの支配から、どのようにすれば脱出できるのか?『スペクタクルの社会』では必ずしも明確に書かれていないし、後に出版された『スベクタクルの社会についての注解』ではいっそうペシミスティックな色彩が強くなっている。
 言葉の上だけで、スペクタクルを批判することはたやすい。しかし、それはスペクタクルにからめとられてしまう。ドゥボールには、スペクタクルに対する批判がスペクタクル的になってしまうことへの強い警戒があったのだろう。
 『スペクタクルの社会』を出版するまでにドッボ一ルらのシチュアシオニストたちが鍛え上げてきた実践戦略によるならば、スペクタクルを解体することが可能なのは、「転用」や「漂流」といった実践活動によって切り開かれる「状況の構築」によってである。転用や漂流は、理論的権威とは正反対のものであって、従来のコンテクストから切り離された断片であり、反−イデオロギーの流動的言語である、『スペクタクルの社会』およびその後のドゥポールの理論展開の大きな特徴は、最後までこの実践の契機を手放さなかった点にあると言えるだろう。


3、スペクタクルと政治

 ドゥボールの『スペクタクルの社会』の日本語訳か最初に出版されたのは1993年である。原著か出版された1967年から実に26年経過している,都市空間に注目し、日常生活批判を重視したアンリ・ルフェ一ブルの諸著作が日本ではすでに1960年代から訳され、またボードリヤールの消費社会論が1970年代には盛んに紹介され逸早く翻訳されていたことを思うと奇異な感を受ける。
 確かに、ドゥボールは、『スペクタクルの社会』の引用=転用からうかがい知ることができるように.マルクスルカーチの影響を受けている.しかし、この本の意義は、むしろ従来のマルクス主義では扱われてこなかった消費社会としての資本主義批判を展開したところにある。ドゥボールは講壇マルクス主義者ではなかったし、大学アカデミズムに軸足を置いてはいなかった。その活動の中心は、映画を中心としたアヴァンギャルド芸術運動にあった。シチュアシオニストやドゥボ一ルの名前はしばしば聞かれたにもかかわらず、日本での本格的紹介や翻訳がこれほど遅れたのは、ドゥボールか従来の労働運動やオーソドックスなアカデミズムの流れからは外れた位置にいたことが大きいだろうし、だからこそ先駆的な問題提起ができたのだともいえる。
 ドゥボールの著作は時代を先取りするような形で登場している。『スペクタクルの社会』が出版された1967年の翌年にはフランス5月革命が起きた、5月革命では政治権力の奪取やブルジョア的支配体聊の転覆には至らなかったが、従来の労働運動に見られた物理的要求ではなく、資本と労働の管理体制それ自体に異議申し立てをした点が新しかった。そのとき、学生たちが好んで読んでいたのがシチュアシオニストのパンフレットであり、ドゥボールの『スペクタクルの社会』であった。
 ナンテールやソルボンヌ、あるいはパリの街頭の壁には、「スペクタクル的商品社会を打倒せよ!」「決して労働するな」「君たちの欲望を現実と見なせ」「通りの舗石をはぐことは都市計画破壊の手始めである」といった『スペクタクルの社会』やシチュアシオニストから転用された言葉が書かれていた、また、ソルポンヌ占拠においてもシチュアシオニストは〈怒れる者たち〉というグルーブを結成し、占拠の中心メンバーとして活動した。そこで彼らが主張したことは、闘争における指導−被指導の関係を産み出す代理制を拒否し、直接民主主義を徹底して貫徹することであった。
 また、1988年には『スペクタクルの社会についての注解』を出版するが、この本は新たな予言をもたらした。すなわち、翌年からのソ連と東欧社会主義諸国の崩壊である。『注解』によるならば、これは西側資本主義国の勝利を意味するというよりも「統合されたスペクタクル」への収斂によるものであって、スペクタクルの支配の完成を意味している。
 ドゥボールの主要な著作が翻訳され、日本においても「スペクタクルの支配」を検討する条件か整った現在、社会学において問題にすべき課題は何か? 日本でも新たな視覚からドゥボールを取り上げた著作が登場している(たとえば、小倉利丸 [1992]、酒井隆史[2001] など)が、その課題の1つは、スペクタクルとフーコーの権力概念との照合だろう。
 ドゥボ一ルとフ一コ一の両者は、生前は不幸なすれ違いに終わったようだ。フーコーは『監獄の誕生』[ Foucault 1975=1977 ] の中で「われわれの社会はスペクタクルの社会ではなく、監視の社会である」と述べて、現代社会の分析用具としてのスペクタクル概念を否定しているかにみえる。確かに、スペクタクルという語を皮相的に用いることは危うい。しかし、クレーリー[ Crary 1992=1997:38 ] が指摘しているように、監視とスペクタクルを二項対立のもとでとらえることは、2つの権力形式の効果が一致しうることを見逃すことになる。

フーコーは、人間主体かいかにして、制度的統制や行動科学的研究という形式でりえられる観察の対象となったかを情け容赦もなく強調する。だが彼は、視覚それ自身をある種の規律[の対象〕、あるいは作業=労働の様態の誕生を見逃しているのだ [ Crary 1992=1997;38 ]。

 クレーリ一が問題にしたのは19世紀前半における「視覚の近代化」であった。しかし、スペクタクルがその相貌をあらわにする20世紀後半の先進資本主義社会、とりわけ冷戦終結後の「統合されたスペクタクル」においては、権力形式とその効果に関して監視との符合がいっそう明白になってくる,いまや至る所に監視かある。それゆえ、監視の過剰に対して、操作といぅ目標達成かますます乖離してしまうのだ。ドゥボール [Debord 1988=2000 ] はこれを「管理支配の収益率が低下したと分析している.「統計されたスペクタクル」か支配する社会は、スペクタクルの支配の完成ではあるか、それ故にこそ脆弱な社会ともざえるのである。
 この点は.フ一コーの「生政治」を批判的に継承しつつ「例外状態|としての強制収容所を思考したアガンベン「 Agamben 1996=2000 ]とも響きあうのであって、スペクタクル概念は新たな読解に向けて聞かれているのである。


文献

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Agamben,G. 1998 《 Le cinema de Guy Debord 》(1995) , in Image et mémoire, Paris, Hoëbeke, pp.65-76.=2002  高桑和己訳「ギー・ドゥポ一ルの映画」『文藝別冊 ゴダール 新たなる全貌』 pp.212-221, 河出書房新社

Crary,J. 1992 Techniques of the Observer : On Vision and Modernity in the Nineteenth Century, The MIT Press, October Books.=1997 遠藤知巳訳『観察者の系譜−視覚空間の変容とモダニティ』十月社

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Debord,G. 1967 La Sosiètè du spectacle, Buchet-Chastel,=1971 Champ Libre,=1992 Gallimard=1996 Gallimard coll. Folio.=1993 木下誠訳『スペクタクルの社会』、平凡社=2003 木下誠訳『スペクタクルの社会』筑摩書房(ちくま学芸文庫

Debord,G. 1978 ovuvres cinématographiques complétes, Champ Libre.=1994 Gallimard.=1999 木下誠訳『映画に反対して−ドゥポール映画作品全集』(上.・下)現代思潮社

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江口幹 1977『評議会社会主義の思想』三一書房

Fouault,M 1975 Surveiller et punir : Naissance du la prison.Paris : Gallimed=1977 田村俶 訳『監獄の誕生−監視と処罰』新潮社

布野修司 「都市計画の幻想」『アンテルナシオ ナル・シテュアシオニスト3 武装のための教育』インパクト出版会

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伊田久美子 1998 男の「遊び」と女の労働−フェミニズムから見たシチュアシオニスト」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 孤立の技術』インパクト出版会

池田浩士 「西ドイツのシチュアシオニストたち」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト3 武装のための教育』ィンパクト出版会

木下誠 1993「訳者解題 付「シチュアシオニスト・インターナショナル」の歴史」『スペクタクルの社会』(ドゥボール)平凡社=筑摩書房(ちくま学芸文庫

木下誠 1993「「転用」としての闘争−シチュアシオニストと68年」『アンテルナシオナル・シチュアンオニスト1 状況の構築へ』インパクト出版会

木下誠 1995a「ドゥボールを媒介するソレルス」『ユリイカ』8月号、青土社

木下誠 1995b「代理なき運動−シチュアシオニスト・インターナショナルの逆説」『月刊フォーラム』9月号 フォーラム90s.

木下誠 1995c「「思考の映画」から「状況の映画」ヘ−J.L.ゴダールとG.E.ドゥボール」『現代思想』 10月臨時増刊号・総特集〈ゴダールの神話〉、青土社

木下誠 1995d「「起源」の「物語」−『回想録』におけるドゥボールの表象の戦略」『季刊aala』Ⅲ、日本アジア・アフリカ作家会議

木下誠 2000「秘密言語の共同体」『現代思想』5月号 特集〈スペクタクル社会青土社

コバヤシ、コリン 1995 「新たな状況を構築するアクティヴなアートは可能なのか」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト2 迷宮としての世界』インパクト出版会

栗原幸雄 1998『同時代的体験の時代−堀田善衛の想い出に」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト5 スペクタクルの政治』ィンパクト出版会

小倉利丸 1992『アシッド・キャピタリズム』青弓社

小倉利丸 1994「いま現在の運動へ連なるラディカリズム」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト1 状況の構築へ』インパクト出版会

酒井隆史 2001『自由論』青土社

杉村昌昭 1994「サルトル、ガタリ、シチュアシオニスト」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト1 状況の構築へ』インパクト出版会

田崎英明 2000「ポストフォーディズムのもとでの革命に忠実であるために−非生産的な労働をめぐる覚え書き」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト6 1つの時代の始まり』インパクト出版会

上野俊哉 1996「シチュアシオンーポッブの政治学」作品社

上野俊哉 1998「シチュアシオニストを斜めから見ること『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト4 孤立の技術』インバクト出版会

鵜飼哲 1998「〈ここ〉と〈よそ〉−シチュアシオニストと第三世界の革命」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト5 スペクタクルの政治』インパクト出版会

吉見俊哉 2000「祝祭、スペクタクル、日常文化の政治学」『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト6 1つの時代の始まり』インパクト出版会


付記

 本稿は長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所の2003年度特別研究助成基づく研究成果の一部である。