「愛」と「成長」のダークサイド  あるいは夢想家になることの必要について 小倉利丸

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はじめに──新自由主義批判を超える課題としての「成長」批判

 経済成長と呼ばれているものが、そのものとして実在するわけではない。経済成長と呼びうるなにものかは実在しないが、これを実在するかのようにして人びとに信じさせる仕掛けは確実に存在する。経済成長に実在の地位を与えてきたのは、この概念に普遍性を付与することを通じて資本主義という人類史のごくわずかの期間を占めているにすぎない歴史社会を、普遍的な存在にしようとするある種のイデオロギーが作用しているからである。概念の実在への問いは、哲学史における普遍論争を彷彿とさせるところがあるが、社会的な概念に普遍性を与えようとする抽象化の問題を、形而上学の文脈で解釈することは適当ではないだろう。むしろ、実在しない経済成長なるものを実在するかのようにして構築する理論こそが問題にされるべきであるが、そのなかでも有力な仕掛けは、経済統計であり支配的な経済理論であろう。数値やテクスト、数式それ自体が実在の社会そのものなわけではないということを忘れるべきではない。さらに、日常生活における実感が経済成長をあたかも実在のものであるかのように経験させる。しかし同時に、実感や経験を疑い、こうした世界理解に対して徹底した批判を加えてきた理論やライフスタイルを含む別の世界理解もまた存在しつづけてきたことを軽視してはならない。このように、世界理解をめぐる対立は、それ自体が実践と理論における闘争の主題でありつづけてきた。
 経済成長は、GDP(国内総生産)の変化を指標として判断されるという考え方は、さまざまな批判がありながらもいまだに支配的な理解であるのは間違いない。市場経済における生産・消費活動が毎年どのくらい増加するかが実質GDPを成長の尺度とする考え方の基本にある。物価の変動を考慮せず時価で評価する名目GDPは、GDPを経済力とみなして国別比較をする上で便利な指標として、国際競争のランク付けでもっともよく用いられる。日本は中国に抜かれて世界3位、1人当たりGDPは世界17位といった数字が内閣府から報道発表されれば、これが多くの人びとの「経済成長」についての実感を形成することになる。国家間の経済競争によってGDPがランクアップするといった単純な数値による比較は、競争の指標として受け入れられやすい。こうして、資本の経済活動を拡大することによって、成長率でより高い数値を獲得することがグローバルな国家間競争を支配することになる。市場での資本の投資・生産活動の拡大が、国別、1人当たりのGDPの増加に寄与することになるから、市場経済の活性化、政府による「成長戦略」が何にもまして最優先の課題となる経済を政府が統制するのか、それとも資本の自由に委ねるのか、どちらが好ましいのかは、GDPの拡大にどちらがより有効に作用するのかで決まる。しかし、これらの数字は、格差・貧困の存在も経済ナショナリズムがもたらす国家間の政治的軍事的な摩擦や紛争も示すことはない。経済が人びとの生存の基本的条件を保障することに責任を負うシステムであるとすれば、あきらかにGDPを指標とした競争や評価は、意味がない。問題は、この無意味な指標が現実の経済を動かす力を持ってしまっている点にある。
 これまでも私は、反グローバリズム運動の基本的なスタンスとしての「新自由主義批判」は必要条件ではあっても十分条件ではないと、繰り返し指摘してきた。言うまでもないが、新自由主義が、市場原理主義とも呼ばれるように政府による規制を排除する結果として、競争力で大企業に劣るが、地域にとっては必要なコミュニティの小企業を淘汰したり、公共部門の民営化によって人びとの必要最低限の生存コストを高めるなど、多くの問題をもたらしたことは明らかである。だから、反グローバリズム運動の戦術として、あるいは、政策批判として、新自由主義にターゲットを絞った対抗運動を組織することは、けっして無意味でも的外れでもない。しかし、資本主義の経済システムを与件として、市場経済に依存する財政構造をもつ政府が市場を適切にコントロールすることがどのようにして可能なのか、という問題は残る。また、新自由主義の弊害を除去しつつも資本主義的な市場の構造を維持しつづけることが経済を人びとの生存を保障することに責任を負う社会制度とするうえで最適の選択といえるかどうか、という問題は残される。とくに、資本主義の搾取*1がもたらす構造的な矛盾に原因がある場合には、資本主義の1つのモデルにすぎない新自由主義批判にすべてを委ねることはできず、新自由主義であるか否かにかかわらず、資本主義そのものにそもそもの原因があるものとみなければならない。本稿の主題である「成長」あるいは「発展」への批判は、資本主義が歴史的な社会として誕生して以降、この社会が本質的に持たざるをえない「宿命」的な属性への批判を回避することがあってはならないだろう。


国家による市場統制は新自由主義より好ましいとはかぎらない

 資本主義の成長や発展に伴う弊害は、市場の自由競争だけでなく、政府によってもたらされる場合がある。たとえば、戦争経済に端的に示されているように、市場経済が国家的な統制によってむしろ活性化され、武力紛争を助長することは、歴史的な経験としてよく知られている。市場原理主義者が批判の矛先を向けてきたケインズ主義は、この側面の資本主義を代表している。
 20世紀の資本主義の支配的な経済モデルは、社会主義との対抗戦略として、社会主義よりも高い生産力と繁栄を目指してきた。2つの世界大戦の時期から戦後の冷戦に至る時期、とくに、1970年代までは、ケインズ主義が支配的だったが、この時代は同時に世界大戦、朝鮮戦争ベトナム戦争の時代であり、これらの戦争を支えるドルを基軸とする国際通貨体制を前提として先進諸国が高度成長を享受した。先進国の「豊かな社会」は、経済冷戦の帰結であり、第三世界の戦争と表裏の関係にある。戦争なき「豊かな社会」は不可能であったことを忘れるべきではない。ところが、ケインズ主義を新自由主義に対するオルタナティブとして相対的に好ましいシステムであるという主張は、国内の繁栄が対外的な危機という代価によってのみ可能であったことが忘れられている。軍事支出もまた公共投資であるということを都合よく忘れて、ケインズ主義を平和的な経済の前提で論じることは、経済学主義的な思い込み以外のなにものでもない。  
 20世紀後半の植民地の解放と「社会主義」圏の拡大を伴う第三世界の自立化とともに、先進国の高度成長は国際通貨体制の危機を伴って終焉を迎えた。不況期の公共支出によって景気回復を促すケインズ主義のシナリオが破綻した結果、80年代以降、先進国は「小さな政府」=新自由主義へとある種の先祖帰り(アダム・スミスや古典派経済学が理想的な経済モデルとみなした自由競争市場の復興)の道を選んだ。市場経済は最適な資源配分のシステムとしてもっとも効率的であり、経済成長に最適な技術選択を行いうるシステムであるという新自由主義の考え方は、たんなる信念ではなく、科学としての経済学によってその根拠を与えられてきたし、そのことは今に至るまで変わっていない*2。そして、この新自由主義もまた、安全保障の分野を小さな政府がもっぱら担うべき義務とすることによって、財政における軍事支出を擁護してきた。
 むしろ、80年代の冷戦の激化は、市場経済か計画経済か、という論争を「豊かさ」のメタファとしての経済成長を尺度として、大衆を巻き込む体制選択問題として、資本主義の支配層によって巧みに仕掛けられたある種の文化戦争でもあった。繁栄とは市場経済にもとづく所得の増大であり、自由とは市場における消費財の選択肢の多様性であり、言論の自由とは議会制民主主義における政治的選択の多様性であるという文化戦争のアリーナが設定されることによって、西側諸国はイデオロギー闘争の主導権を握り、社会主義圏を西側の資本主義世界市場に統合することに、とりあえずは成功した。資本は社会主義圏を市場として獲得することによって、成長の新たな原資を手に入れたが、多くの民衆は、約束された繁栄も自由も手に入れることができたとはいえない。繁栄を手に入れられなかった人びとは、彼ら自身が競争の敗者とされてその責任を自ら引き受けることを強いられた。


資本規模に合わせて市場を拡大する

 しかし、80年代以降の新自由主義は、たんなる先祖返りではないということを強調しておくことも必要だ。それは、植民地なき資本主義中枢諸国の慢性的に過剰化した資本が公共領域に新たな市場を見出したこと(いわゆる民営化) 、ヘッジファンドの台頭や土地の証券化などの金融自由化によって、資金調達と通貨調整の制度そのものが市場化(証券化)されたことを通じて、 金融領域を新たなマネーゲームの市場としたこと、いわゆる「脱工業化」を情報コミュニケーション分野の拡大として達成することを通じて知識・コミュニケーション領域を市場化したこと、そして右に述べた社会主義圏の解体*3によって新たな市場の創出をもたらしたこと、以上のような新たな特徴をもつものだった。
 こうして、80年代を通じて、内包的外延的な新たな市場創出を通じたグローバル資本主義の登場は、資本の規模にあわせて世界規模で市場を地理的産業構造的に拡大すると同時に、公共領域を市場に組み込み、市場の拡大によって過剰資本を処理しようとしたという点で、新たな資本蓄積様式に基づくものだった。これは、過剰資本を景気循環のプロセスを通じて処理することがもはや不可能なまでに肥大化してしまったことを示してもいた。しかも、資本蓄積は有機的構成の高度化(省力化技術の導入による利潤の獲得)をもたらすという資本主義に一般的にみられる特徴に規定されていた。有機的構成の高度化による相対的剰余価値の生産は、19世紀の資本主義にとっては経済発展の資本主義的優位の証とみなされたが、これは、〈労働力〉が希少で階級闘争による制約が大きいという条件のもとで機械化による労働者排除=効率性向上という人口=階級構成の特殊性を前提としていたからこそ言い得たことだった。しかし、〈労働力〉供給が慢性的に過剰となっている非西欧世界が市場に統合されたグローバル資本主義においてはこの同じ資本蓄積のメカニズムが作用し続けることによって、有機的構成高度化による経済成長は失業の増大を解決できないという大きなジレンマを背負い込むことになる。


〈労働力〉としての人間の資本への統合

 〈労働力〉は資本にとってはコストである。したがって、個々の資本にとっては、〈労働力〉の単位当たりの産出量を増大させられるような技術(労働生産性向上技術)の採用へのインセンティブを持つ。〈労働力〉はフレキシブルな存在であり、機械のように、その能力をあらかじめ固定できない。階級闘争状態にある場合と労資協調状態にある場合とでは、〈労働力〉の発揮度、資本への従属度は大きく異なる。機械技術は、この〈労働力〉のフレキシビリティを資本に有利な条件で固定化するものとして導入される。そして、こうした技術は、一国の人口が資本の下で生産しうる生産物の増大をもたらすから、GDPのように、商品の生産額で計られた社会の富の増大をもたらすものとして社会の支配的な価値観によって肯定的に評価される。こうして、労働節約型の技術への投資こそが社会の発展であるという価値観に支えられて、資本の〈労働力〉吸収力は一貫して低下し、失業圧力は強まりつづけてきた。
 他方で、資本間競争は、コスト削減圧力として作用するので、賃金コスト引き下げと労働節約型技術の導入を促す。〈労働力〉を市場に供給する圧力と〈労働力〉を排除しようとする圧力という相反する力が、労働市場にはつねに共存する。市場の価格競争は、労働節約型の技術を先進的で革新的な技術として評価し、こうした技術の開発競争に基づく技術観をもたらし、これを普遍的な科学技術の進歩として人びとの価値観の一部を構成する要素とすることによって、〈労働力〉の排除を受け入れさせてきた。科学の普遍性が技術として社会的な機能に組み込まれ、この科学技術の自然科学的な「正しさ」が社会の「正しさ」として理解されることを通じて、歴史的社会は生成から崩壊へと向かう歴史的な存在であるのではなく、普遍的な存在へとみずからの永遠性を担保しようとしてきた。
 資本主義的な経済成長に不可欠な市場の拡大は、人びとを自給的な生産手段(そのもっとも重要なものが土地であった)から切り離して自給の基盤を奪い、生活をますます市場に依存させると同時に、 資本が必要とする〈労働力をより一層多く労働市場に供給する。資本が供給する生活手段市場の規模拡大は、生産手段市場の拡大を促し、こうした市場拡大のための資本の投資資金を金融システムが媒介する。全般的な市場拡大は、人びとの生活を市場に巻き込みながら生存の基盤を市場のシステムに統合してゆく。言い換えれば、労働市場にますます多くの人口が供給され また賃金を所得とする「消費者」がますます生活の必要を市場に依存するようになることを通じて、人びとの生活は、資本の供給する商品の使用価値と資本のもとでの労働過程の経験に支配されるようになる。生活と労働は賃金(所得)という貨幣的な条件によって媒介され、両者の内的な結びつきは脆弱なものになる。労働の意味は資本によって与えられ、生活の質は所得の大きさに規定された生活手段市場 の選択肢の幅によって規定される。いずれも主導権は資本に握られ、労働者は「自己の喪失」という深刻なアンデンティティの危機をつねに抱え込むことになり、これが資本との闘争を支える情念の生成と結びつく。〈労働力〉商品化の拡大が、市場の拡大=成長を支えるという問題は、たんなる貨幣的な問題を超えて人びとのライフスタイルの実存と関わる問題となる。
 資本にとって賃金は、他人の労働能力を自己の目的のために自由に利用する権利の代価であり、権力的服従の代価を意味する。このことを前提として、より多くの人びとが〈労働力〉を供給し、賃金としての「所得」を得ることはその「所得」が消費市場の需要となって資本に還流することが前提であり、貯蓄に回された場合には、信用制度を介して投資資金として融通されて資本に投資の資金として供給されて資本に還流する貨幣循環の一部に組み込まれている。「所得」の代償に労働者が引き渡す〈労働力〉は資本の価値増殖そのものの担い手となって、資本の運動に統合される資本の一要素となる。資本はこのような運動を繰り返しながら資本蓄積=利潤を実現すること目的とするのであって、人びとの生存に責任をもつことはない。人間は〈労動力〉となるかぎりにおいて資本にとって意味ある存在なのであって、人間としての生存に資本が責任を持つなどということは、市場経済に内在的な規範としては、ありえない 。
 したがって、利潤率を最大化する資本の行動は、人びとに生存可能な所得を保障し、「自然失業率」(この概念自身は、失業率の傾向的な上昇を正当化するものでしかないのだが)以下に失業率を抑える結果をもたらすとはかぎらない。むしろ失業の圧力は、資本にとっては、賃金を押し下げる効果を持つ。他方で、失業率の上昇は、消費市場の拡大を抑制するから、消費需要に対してはマイナスの効果をもたらす。しかし、これは、閉鎖経済という資本主義の現実とは何ら関わりのない理論モデル上でのことであって資本主義の歴史的な過程は、複数の国民経済市場や植民地との間の貿易を資本蓄積の不可欠な要素として組み込むことによって、国内市場が失業率の圧力で消費需要の押し上げが困難であっても、輸出や対外投資によって、国外の市場を獲得することができれば、資本過剰は緩和されるようなメカニズムを備えている。より所得の高い地域との貿易は、資本にとっては効率的に利潤を獲得できる条件となる。あるいは、所得が低くても、人口が多い地域であれば、薄利多売の効果を発揮することが可能だ。国内の貧困層や失業人口は、賃金コスト引き下げ要因として利用される一方で、資本が国内に投資先を見出せずに過剰になるとしても、過剰資本のはけ口を国外に市場を見出そうとして侵出する過程(植民地主義、帝国主義にかぎらず、国家の軍事力や政治的な影響力が自国資本の対外侵出を支える力となることは言うまでもない)は、資本主義の歴史においてごく当 たり前に存在してきた。こうした環境を維持しながら資本は「成長」を続け、この意味での「成長」が経済成長として正当化されてきた。そうであるとすれば、資本の成長=経済成長は、角度を変えてみれば、貧困と国家の外交・軍事の力を必須の条件としているともいえるのである。
 経済成長は資本の成長でしかない以上(資本主義を前提とするかぎり、これ以外の成長の選択肢は存在できない)、貧困を解決することも紛争を終わらせる力もそれ自体にはない。にもかかわらず、経済成長に囚われるのは資本ばかりか、むしろ大多数の大衆でもある。経済成長への批判でもっとも大きな難問は、経済成長=繁栄を肯定する強固な大衆的な観念が再生産されつづけている点である。なぜ成長=繁栄という物語から人びとは解き放たれがたいのだろうか?*4


成長を肯定する価値観の再生産

 右に述べたように、なぜ経済成長が大衆的な基盤をもって支持されつづけるのか、このような大衆的な支持をどのようにしたら覆せるのかを考える上で、資本が生産する商品の使用価値および、〈労働力〉再生産過程を担う「消費」として現れる日常生活の質的な側面への注目は不可欠である。人びとが「成長」を実感するのは、まさにかれらの生活を通してだからである。「成長」を肯定する価値観は、資本の側にあっては、利潤を獲得するための資本の行動を肯定する価値観として構築される。他方で、〈労働力〉の売り手である労働者の側にあっては、資本の「成長」価値観に同調できるような価値意識が構成される必要がある。「経済成長」を肯定する価値観が利害を異にする2つの階級によって共有されることによって、普遍性を獲得する。国家はこの階級横断的な成長を肯定する価値意識を基盤として、 経済政策を策定することになり、「成長」は「国民的」な共同利害の位置を獲得することになる。労資ともに、「成長」という基本前提のなかで、所得配分をめぐる 「闘争」を展開する。景気が回復し資本の利潤率も回復すれば賃金水準を引き上げるべきだという主張に典型的に示されているように、「成長」あっての賃上げや待遇改善という意識は、労働運動側が基本的に抱くものだろう。〈労働力〉としての身体構成が人びとを労働市場へと媒介する条件となるが、この条件を認めてしまえば、資本蓄積の自動機械が作動して、人びとの生活を資本主義的な消費財市場に依存させることになり、これが生活の実体を形成することになる。これは、物質的な条件だけでなく人びとの精神的な条件をも構成するから、人びとの生活意識は資本の価値規範に従属することになり、「成長」という観念を払拭することができなくなる。GDPのような単純化された数値を基準にした競争意識がこうした観念を人びとの意識に根付かせることになる。このことが、政治的な意識や投票行動 に影響し、国民国家の「成長」政策を支えることになると同時に、「成長」を基礎とした「国民意識」を再生産することにもなる。
 労働者にとって「成長」とは、第1に、所得の実質的な増加として実感され、この所得によって購買される商品の消費によって日々営まれる生活過程が労働者にとって「昨日よりも豊かな生活」として観念されるような理解が恒常的に労働者の意識を捉える。この観念は、「自分の所得が増えた」ということよりも、「自分の所得は増えていないが、成長が実現されている」という理解、言い換えれば競争における敗者が内面化する「成長」を肯定する観念によって支えられ、敗者をさらなる競争へと駆り立てるように作用するところが重要なのだ。敗北や貧困を自己責任としつつ、「成長」への希望を抱くように世界のあり方が理解されて「成長」を拒否することを困難にする価値観が再生産される点に注目する必要がある。利潤と賃金の相反関係のなかで労働者への所得配分を有利に導こうとする労働運動が「成長」の観念の枠組みを前提とした闘争となるように階級闘争のアリーナが設定される。資本と労働者との間の所得配分がどのような分割線を引こうとも、労働者が生活過程において「昨日よりも豊かな生活」を実感できるような仕掛けがあり、価値増殖を前提とした所得の再配分という要求の枠組みが唯一の選択肢として提示され、これを受け入れるように心理的に迫られる(もちろん、「迫られる」という感覚は必ずしも抱かれないのだが)。
 したがって、積極的に「成長」を拒否する論理は、このような前提条件からは導きようがない。労資の階級を横断して資本の利害に即して「国民的合意」として構成されてきた「成長」の価値意識に対して、「成長」が資本の価値増殖に寄与するのみであって、社会的な不平等、貧困や紛争を解決する経済的な基礎を構築しないという現実を体現する対抗的な価値意識が、いかにして具体的な表現を獲得することができるのか、という課題は、〈労働力〉の再生産に組み込まれた日常生活を構成する価値意識としての 「成長」を異化すること、言い換えれば資本が消費過程を通じて与える「幸福」とか「希望」、その裏面にある競争とその敗者意識からみずからを解き放つような資本の理解を超えた生存を実在化するような集団的な闘争が重要な条件をなす。「成長」に対する拒否は長期にわたって徐々に価値として形成されるものであって、この過程のなかでしか拒否の向こう側に存在する「成長」とはまったく異なるパラダイムに基づく「なんらかの社会」の具体的な姿は創造しえない。多くの人びとにとって「成長」という概念そのものが無意味となり、辞書から消え去るか古語として化石化することは、「成長」に抗う民衆の運動を通じてしか実現できない。誰にもこうした「成長」の向こう側にあるものをあらかじめ描いて見せることなどできないのだ。できない、ということは不可能を意味するのではなく、逆に、 実践が向かうべき向こう側を指し示す潜勢態なのである。


「成長」と「愛」

 「成長」という観念は市場経済の物質主義的で金銭欲にとらわれた「繁栄」として現れるとしても、このような物質欲がそのままの形で大衆の意識において肯定されるわけではないという点が、経済成長の観念の強靭さを理解する上で重要なことである。市場経済は、たんなる貨幣的な欲望をむき出しにするのではなく、「幸福」とか「希望」 といった観念を味方につける。幸福それ自体とか希望それ自体は存在しえない。だから、これらは、さまざまな商品の消費を通して実現しうるものであるという、市場経済のある種の「物語」が構築される。
 「成長」や「繁栄」は個人のレベルでは、「幸福」や将来への「希望」として感得されるものであり、そして、この「幸福」「希望」は、人びとの私的な人間関係のなかで実現可能なものとなるべきこととして、人びとの人生の実感を構成するものでなければならなかった。しかしこれらはいずれもそれ自体では、対象化可能なものではないから、これらを目に見えるもの、触れることのできるものなど、五感で実感できるものを通じて具体化される以外になく、市場が供給する商品がこうした役割を担うように、使用価値の意味が構築される。そして、「成長=繁栄」を「幸福」「希望」に媒介する感情の基盤に、人間関係における「愛」が位置する。「幸福」や「希望」が自己の感情であるのに対して「愛」には、他者との関係を規定する感情としての要素が含まれるために、人間関係に固有の影響をもつ。具体的にいえば、「愛」もまた愛それ自体としては存在しえず、その具体的な制度化が家族関係に配当されるということ、しかも家族関係は同時に、〈労働力〉再生産を担う資本主義に必須の制度でもあることによって、「愛」という観念は、資本主義経済のイデオロギー作用をまとうことになる。「幸福」「希望」「愛」の観念が商品広告に溢れていることにみられるように、これらの観念は、商品の使用価値の意味を構成するものとして、その売り手(つまり資本)によって意識的に生産される。言い換えれば、「幸福」「希望」「愛」の観念は、生活手段としての商品の使用価値の一要素であり、したがって、資本の生産過程のなかで生産されるものなのである。
 家族と「愛」の結びつきは資本主義に特有なものだ。資本主義における家族は、伝統社会の家族制生産様式のような確固とした物質的な基盤を持つことがなく、たんなる観念的な結びつきのなかでもっぱら〈労働力〉としての人口の再生産を担う。近代家族にとって「愛」は、それなくしては家族が存続しえない必須の紐帯なのである。このような機能を担う「愛」という観念は、消費市場における欲望を刺激する基本的な条件を構成する。したがって、資本主義的な「成長」への批判には、親密な人びとの間に形成される「愛」の観念への批判が不可欠なのである。家族愛、恋人同士の恋愛感情といった否定しがたい実感として刷り込まれた「愛」は、形を変えた資本への愛、市場経済的な 富への愛であり、それは、権力政治の側面からみれば、国家への愛であり、ナショナリズムにたいする精神的な基盤をなす。 「愛」は一方で性に係留され、他方で政治的・経済的権力に係留されるなかできわめて私的な感情のようにして個人の内面から自生するかのように感じられるが「愛」は社会の必要によって構築される個人の感情である。これらの愛に普遍的な価値を与える役割を担うのは、今に至るまで宗教である。キリスト教でもイスラム教でもあるいは、天皇教でも何であってもよいが、これらの神は、資本の僕(しもべ)でしかなく、これらの背後にあって、文字通りの意味で神的な存在の地位にあるのはいうまでもなく資本である。同時に人びとは実在の曖昧な「愛」についての不安をつねに無意識のなかに持つ。貨幣的な富は、この不安を根本的には解決することなどできないが、「愛」を形あるものとして提示するための手段にはなりうるのだ、と消費者をそそのかすのである。家族であれ、恋人であれ、あるいは性産業の恋愛サービスであれ、愛情の絆の証として、市場は多様な商品を供給する。こうした市場の機能は、遊びでもなければ娯楽やレジャーという概念につきまとう「一時的な気晴らし」でもなく、それ自体が、資本主義が意図した「愛」であり「幸福」であって、人びとが繁栄への「希望」を実感する仕掛けなのである。この仕掛けに乗れるかどうかは、市場における消費者になれるかどうかにかかっている。消費者の力は所得=貨幣の額に依存する。こうしてふたたび「所得」と「成長」の話題に戻ってくることになる。


資本主義的人間からの解放へ

 どのような社会であれ、人間であることの根源的な意味あるいは存在理由を、その社会の再生産にとって必須となる要件に沿って形成する。このようにして形成された人間的な存在理由は、 社会の普遍性を公理のように「当たり前」なことであると構成員に思わせ、こうした社会を否定することや覆そうとする行為や主張を、理論や思想以前のところで生理的に拒絶させようとする。こうして資本主義が与件とされれば、社会が「成長」すること、資本主義あるいは市場経済が最適な社会の「成長」のための機構であることなど、本稿の主題である「成長」もまた公理の地位を得ることになる。「成長」は、人びとの日常の生活そのものを支える人間関係と物質的精神的な経験に基づく直感的に感得しうる回路を通じて内面化されることが必要になる。資本と賃金制度を変えようのない唯一不可欠の経済制度とみなしたり、家族と呼ばれている親族組織は、あたかも人類史全体を通じて変わることのないものであるかのようにみなしたり、人びとの生は、これらの制度を与件としながら「成長」を前提として世代的に継承されることも当然であるとして、説明を要する以前の事柄となることによって 、人びとの生活そのものとなる。資本主義が生み出す「幸福」や「希望」、「愛」といった観念とその物質化が、これらの制度や社会関係にまとわりつき、別の形がありうるという可能性にすら思い至らない。現代の世界では、資本と国家の存在を欠いた経済システムをイメージすらできないなかで、人びとの生活実感が構築される。資本と国家は「幸福」や「希望」の観念やその物質的な条件(所得と生活手段)を独占した上で、人びとに「幸福」や「希望」を与えうる唯一の存在として登場する。これを欺瞞ということはたやすいが、このような資本と国家の仕掛けそのものを覆すことは、人びとの想像力の問題であり、物理的な力に関わる問題はその後についてくるものだ。想像力がたんなる観念や表象に還元されるのであれば、それらは、資本と国家が支配するこの世界のなかで、学問とか芸術などと呼ばれて、それなりの場所を与えられるだけのことだ。どのようにラディカルな言説も、どのように新鮮で驚きに満ちた表現も、それらが社会のなかで人びとの生存の基盤として具体化されることなく生かされれば、想像力は社会の創造力に転化されることを阻止されて、生殺しにされる。学問、真理、科学を疑うこと、芸術や文化の表象が与える快楽に感応する自己の感性を意識的に拒否すること、神として名指しされるありとあらゆる超越的な存在を拒否するだけでなく、神とはみずからも呼ぶことはないが、実は、神々のなかの神として君臨する存在に気づくことだ。資本と国家の絶対性に抗うということは、容易なことではない。日々の生活の中に深く埋め込まれ、私たちの行動や無意識の断片のなかにあまねく組み込まれている資本と国家のコードを解体するには、資本と国家が構築した「私」を疑うことができる別の「私」(複数形)を構築することが必要なのだ。「成長」への批判とは、この意味で、経済政策の批判や制度批判を必要条件とするもののそれだけでは十分ではない。これらに加えて、人びとの日常を支配する「成長」という実在しようのない観念そのものが人びとの生にとって意味をなさないものになるような、民衆の共同作業としての想像力/創造力を構築することなのだと思う。この意味で民衆の運動はプラグマティズムである以上に夢想家の資質を獲得することが大切なのである。

(おぐら としまる/ピープルズ・プラン研究所運営委員)

*1:ここでいう「搾取」とは、マルクス主義でいうところの剰余労働の搾取に限定されない。剰余労働の搾取は、「搾取」の一部である。資本蓄積のために人間を〈労働力〉として動員する構造のなかで、貨幣の支払い対象であるかないかにかかわらず、人間の行為が資本蓄積に直接・間接に寄与する労働となることを通じて、マルクスが「自己の喪失」と呼んだような状態に置かれること、そしてこの「自己の喪失」を埋め合わせるように「自己」が労働する身体として再構成されることを通じて、「自己」が資本に統合されることそのものが人間に対する資本による「搾取」と定義することが必要である。したがって、問題は剰余労働に限定されない。必要労働もまた搾取的な労働であり、抽象的人間労働だけが問題なのではなく使用価値形成労働としての具体的有用労働そのものもまた搾取的労働である。詳しくは、拙稿「自己の喪失としての労働──剰余労働=搾取論を超えて」『経済理論』2010年10月参照。

*2:支配的な経済学の教科書で、「市場の失敗」に必ず言及されるが、失敗を市場の本質とはみなさない 。市場は最適な資源配分と技術選択を行うことができる、ということがむしろ市場の本質であり、政府はこうした市場本来の性質を実現できるように行動すべきだということを前提としている 。本質的に市場は資源の最適な配分などできないし、最適な技術選択も行えない。マルクスのいわゆる経済学に関わるテクストは「政治経済学批判」として、資本主義経済とその思想への批判的な分析であっても 、マルクスは、支配的な経済学に代替する経済学を構築しようと考えたことはなかった。

*3:自壊というよりもむしろ冷戦という「戦争」、すなわちハリウッド映画、ポピュラー音楽、抽象表現主義による社会主義リアリズムの堀り崩しなど、いわゆる「文化冷戦」を含むライフスタイルや文化的価値、「豊かさ」の観念をめぐるイデオロギーの闘争に「社会主義」圏が有効な闘いを組織できなかった結果である。

*4:いわゆる「 トリクルダウン 」の仮説は、経済成長によって低所得層がより高い所得を得るか、失業人口の減少が実現可能だとしているが、有機的構成高度化が進むなかで、単位当たりの資本投資による労働需要への効果はますます限定的になり、なおかつ生産拠点のグローバル化によって、労働市場の国際競争圧力は大きく、経済成長が貧困の削減につながる余地はますます小さくなっている。