ナショナリズムを根源から拒否しうる価値の創造へ──尖閣=釣魚諸島をめぐる問題が示すもの 小倉利丸

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 尖閣=釣魚諸島における海上保安庁の警備艇への中国漁船衝突事件は、両国の排外主義的なナショナリズムを刺激してしまった。在日特権を許さない市民の会在特会)のような右派「市民運動」が急速に動員力を高め、その動員力が圧倒的に わたしたちのそれを上回っている。 11月に横浜で開催されたAPEC首脳会合に対するデモは、9団体4000人と報じられたが、そのうち最大の動員は、右派系市民運動の2700人だった。私たち、「いらない!APEC」横浜民衆フォーラムが500名だから、動員力では大きな差がついてしまったというのが現実だ。この右派系市民運動の動員は、ここ数年の在特会の外国人排斥運動と尖閣=釣魚諸島問題におけるマスメディアと国会の与野党揃っての中国非難と菅政権の弱腰外交批判 キャンペーンの相乗効果だ。逆に、私たちの側は、排外主義的なナショナリズムに対する的確な批判によって反論しきれておらず、日中どちらの主張が正しいのか、という二者択一の罠を避けきれていない。したがって、ナショナリズムに代わる新 たな民衆的なアイデンティティの創造に失敗してきたという私たちの側にある問題にも目を向けなければならないと思う。
 わたしは、かつて、在特会のようなインターネットを利用した右翼の外国人排斥運動は、見た目ほど大きな動員力はもたないのではないかと 楽観視していたが、こうした私の予想は外れたと感じている。右派「市民運動」は、伝統的な街宣車右翼とは違って、大衆動員を念頭においた組織づくりのなかで、市民運動としてのスタイルをとっており、その量的な拡がりを無視できなくなったマスメディアが、かれらの運動を市民運動として取り上げるようになったことで、ある種の市民権を得始めた。乳母車を押してデモに参加する若い母親などの写真がニュースで報じられていることに端的に示されているように、メディアが一定の肯定的な評価を与えはじめてもいる。学生運動や労働運動を自らの経験としてきたことのない若いメディアの記者たちが増えている一方で、ポスト団塊の世代がマスメディアの支配層を形成して、新自由主義の急先鋒となっている。メディア・ナショナリズムは拉致問題の報道以降顕著になってきたことで今に始まったことではないとはいえ、ここ最近の状況は、個別の拉致問題を超えて、あらゆる分野において、ナショナリズムに優越的な地位を与えるような傾向が顕著になってきた。
 同時に、いわゆる批判的な「知識人」もまたその姿が見えなくなっている。大学の教員や研究者が社会運動や市民運動に登場したり、一緒に運動の担い手として関わるケースは減り続けているのではないか。たしかに、NGOやNPOに関わる「大学人」は少なくないが、 その多くは、政策提言の域を出ることなく、研究者や専門家としての協力や第三者的 な関与であって、市民として、あるいは一個人としての関わり、言い換えれば、アカデミズムにおける知の評価基準にとらわれることのない価値判断に基づいた政治への積極的な発言や参加が目立たなくなってきたように思う。体制そのものを根本的に否定するラディカルな思想もまた、現実の運動との接点を失い、行き場を見失っているようにみえる。 国策と産学官連携に大きく傾斜したアカデミック・ナショナリズムとでもいいうるような象牙の塔は、研究業績のグローバルスタンダード化のなかで、左派やリベラルな研究者の参入を巧みに排除してきた。小中高校の学校現場が右傾化し、管理強化が進んできた流れが大学にもみられるようになった。書店から左派的な雑誌や書籍が姿を消し、ネットの言論も排外主義的で感情的な心情に支配され、私たちの情報コミュニケーション環境そのものが、左派的な存在を不可視化してしまった。
 排外主義的なナショナリズムに次第に多くの「普通の」市民が実感として共感しはじめているのは、なぜなのだろうか。戦後の日本のナショ ナリズムを支えてきたのは、経済ナショナリズムだった。戦後復興から先進国へと登りつめるサクセスス トーリーは、アジアの「経済大国」の実現を通じてアジアで最初の先進国となることで、「日本人」としてのアイデンティティを再構築した。 かつての植民地は独立したとはいえ、経済的には日本に従属する位置につくことによって、「日本人」の 民族的優越心が満たされてきた。「日本経済」の優位性は「日本人」の優位性の証しとみなす言説がごく当たり前のように語られてきたが、こうした言説には、とくにアジアへの優越意識あるいは蔑視が言外に込められており、その裏返しとして欧米先進国への抜き難い劣等感がみられ、このことが、先進国化への異常なほどの執着という「国民的」な集団心理を生み出してきた。
 今世紀に入って、中国、韓国、インドといったアジアの新興国が日本経済を追い上げ、日本の戦後ナショナリズムの中核を占めてきた経済的な優位は大きく損なわれ、戦後のナショナリズムが大きな危機に直面し始めた。最近の排外主義的ナショナリズムは、この戦後ナショナリズムの危機の表出であり、大衆の苛立ちの表れともいえる。強い日本への不可能な欲望にとらえられたナショナリズムは、その強さの証しとして、日本で暮らす移住者たちをターゲットにして攻撃するという無定見な代償行為に陥る一方で、政府に対して、不可能な力の行使による解決への圧力を強めているように見える。大衆の排外主義的で人種差別的な熱狂に政治家たちが選挙目当てに迎合している様は、ファシズムといったいどこが違うのだろうか。
 尖閣=釣魚をめぐる問題は、軍事的な解決という自殺行為の選択をしないとすれば、これまで同様、ある種の宙吊り状態を継続する以外にない。しかし、そうであっても、2つの点で、政府は、今回の事件を契機に安全保障の質的転換につなげようという、転んでもタダでは起きない事態が伏在していることに注目した い。1つは、 日米同盟の強化である。アジアにおける経済的な覇権を握るだけの力量を持ち始めた中国を封じ込めつつ、中国市場の開放を求める点で、日米同盟の強化に今回の事件をフルに利用するだろう。とりわけ米国は尖閣=釣魚問題における日本の世論の反中国感情を利用して、民主党内部の慎重派を押さえ込み、在日米軍への日本政府の支持を自民党政権以上に強固なものにする口実として利用するだろうし、民主党はこれに抵抗できないだろう。もう1つの、より重要な問題は、尖閣=釣魚 諸島が属するとされている沖縄におけるナショナリズムへの影響である。本土の世論に比べて、沖縄のメディアの報道はまだ冷静な傾向を維持しているようにみえるが、沖縄の漁船の漁業活動保護の必要から、沖縄が日本に安全保障においてこれま で以上の依存を余儀なくされるようになっている。このことは、沖縄の米軍基地の必要性を肯定する世論形成に拍車をかけるだけでなく、ヤマトとの差異としての沖縄のアイデンティティよりも「日本の沖縄」というアイデンティティ感情をよりいっそう浸透させるイデオロギー効果を発揮するかもしれない。歴史的に見 れば、日中関係の中で翻弄されてきた沖縄の中でかろうじて生きてきた、日本のナショナリズムを相対化するようなアイデンティティが、今また、中国の脅威から日本への依存を深めるなかで、大きく掘り崩されるかもしれないし、このことを日本の政府が密かに望んでもいるだろうことは想像に難くない。  
 言うまでもなく、私たちの喫緊の課題は、排外主義的なナショナリズムの大衆的な心情そのものを無化しうるような民衆のアイデンティティの創造である。ナショナリズムが、国民国家が必然とする国境や資本の利益から自由ではありえないとすれば、根源からナショナリズムを拒否しうる価値の創造に挑戦するという課題を避けてはならないだろうと思う。

(おぐらとしまる/ピープルズ・プラン研究所運営委員)