日常的抵抗論 第2章 原初的紐帯と想像の共同体

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1.差異の連続体と「原初的紐帯」

 前章で、文化の異種混淆性に注目するときに重要なのは「境界や起源に先行する異種混淆性」という視点だと述べたが、そのような異種混淆性が具体的にどのようなことなのかを、「民族」というまとまりを例にして説明してみよう。

 「民族」というものを客観的属性によって規定される実体としてとらえる本質主義と、民族的アイデンティティを状況や利害に応じて創りだされる虚構としてとらえる反本質主義(構築主義)という2つの立場のうち、現在では構築主義の方が優勢だといえるだろう。けれども同時に、文化人類学者の多くは、民族を単なる虚構だと断ずることに躊躇しているようにみえる(たとえば、人類学者が集まって民族とは何かということで討議をした川田/福井編『民族とは何か』[川田/福井 1988]の総合討議を参照)。たしかに民族という単位は作られた虚構かもしれないが、その虚構も何らかの実体がなければ生まれないだろうし、実際に調査地で接する民族集団は、たんなる政治的理由で集結した利益集団というより、まさに原初的というべき理屈抜きの感情を喚起するものだと感じているのである。そのような言語や人種や慣習などを共有することからくる絆という感情をクリフォード・ギアツは「原初的紐帯」とよんだが、そのような「原初的紐帯」ということを認めることがかならずしも本質主義につながるわけではない。そのことを、社会言語学でいう「地域語の連鎖dialect chain」や「地域語の連続体dialect continuum」という用語から取った「差異の連鎖」ないし「差異の連続体」という用語と、哲学者のウィトゲンシュタインによる「家族的類似性」という用語をつかって考えてみたい。

 まず、「差異の連続体」ということばを使うことで、国民国家が成立して他の民族集団と明確な境界によって区分され、その内部が同質の文化で充たされているとされる「ネイション」や「エスニック・グループ」が創りだされる以前の民族的まとまりとはどのようなものだったのか、すこしは具体的なイメージをもつことができるだろう。
 ここでは、民族の客観的な弁別的属性のひとつとされている言語を例にとって、「差異の連続体」(言語の場合は「地域語の連続体」)ということを説明してみよう。よく多言語状況を説明するのに、たとえば、ケニアには44もの言語があり、ナイジェリアには400を超える言語があるなどということがある。けれども、そもそも言語は数えられるものなのだろうか。数えられるとしたら、それぞれの言語は明確に他と区別しうる実体としてあるということになる。
 ところで、フランス南部にオクシタンとよばれる地域があり、そこではオック語という言語が話されているといわれる。けれども、宮島喬氏が紹介しているL・ミシェルという社会言語学者の研究によれば、その地域のオック語は数10キロごとに異なる下位方言に分化しており、その多様さはオクシタンをひとつの言語体系とするのが困難なほどだという[宮島 1992]。しかし、標準語というものが作られていない言語はオック語に限らず、そのようにすこしづつ異なる言語が鎖のように連なっているのが普通であろう。たとえばスペイン語とポルトガル語や、スウェーデン語とノルウェー語、ドイツ語とオランダ語はそれぞれ異なる言語とされている(これらの例を出したのは、それぞれ2つの言語は互いに通じあうという点で、津軽方言と鹿児島方言ほどは異なっていないと考えられるからである)。しかし、それが異なる言語として数えられているのは、それぞれが異なる国民国家の「国語」(ネイションの標準語)として創られたからであって、それ以前に明確に分かれていたわけではない。先に紹介した『民族とは何か』の総合討議のなかで、社会言語学者の土田滋氏が指摘しているように、ドイツ語とオランダ語は、社会言語学的には、どこからドイツ語でどこからオランダ語かなどいえないような「地域語の連続体」をなしているのである[川田/福井 1988:314]。
 逆に、津軽方言や鹿児島方言などの地域語がおなじ日本語の中の方言とされるのは、その地域がたまたまおなじ国民国家に含まれ、そこに日本語というネイションの標準語が創られたからである。日本列島においても、ドイツからオランダにかけてとおなじように地域語の連続体は濃淡の変化のように少しずつ異なりながら差異の連鎖をなしている。標準語が国語として作られなければ、そこには「地域語の連続体」があるだけで、どこにも「日本語」という実体などないのである(方言についても同様で、たとえば大阪弁といっても、河内弁・泉州弁・摂津弁…というように異なる下位方言の差異の連続体があるだけで、「大阪弁」という数えられる1つの方言があるわけではない)。そして、もし日本列島で異なる複数の国民国家が成立していたならば、ドイツ語とオランダ語のように異なる複数の国語が創られただろう――旧ユーゴスラビア解体の過程で、それまでユーゴスラビア語とかセルボ=クロアチア語と呼ばれて1つの言語とされていたものから、クロアチア語セルビア語といった国語を構築することがなされたように。したがって、日本が「一民族・一言語」からなる単一民族国家だというのは、アイヌ語琉球語を無視しているからまちがっているというより、論理的に逆立ちしているのである。つまり、国民国家の成立によって国語を創りあげたから「一民族・一言語」となったということを忘れているだけだというわけである。
 さらに、民族の弁別的属性にかならずあげられる伝統文化や慣習も、言語のように近隣の地域との差異の連続体をなしていることは、言語以上に理解しやすいだろう。そしてここでも、国民国家が成立すると、地域語の連続体が「国語」によって互いに分離されたように、習俗の差異の連鎖が内部は均質で外とは明確に分離された分節へ変えられ、ネイションの伝統として創出されていったことがみられる。イギリスの歴史家のホブズボウムとレンジャーたちはそれを「伝統の発明」とよんでいる。「伝統の発明」の議論については、また第5章で取りあげるが、ひとつだけ例をあげておくと、小谷汪之氏によれば、インドのヒンドゥー社会の伝統文化とされている牛を食べないという規範は、植民地下において「牛食い人種」であるイギリス人に対する差異を強調し、道徳的に優位な文化的アイデンティティを形成しようとするヒンドゥー・ナショナリズムによって広まったもので、それまで実際に肉食をタブーとしていたのは、人口のほぼ5%のバラモン階級だけだったという[小谷 1993: 75-78]。つまり、一部にあった慣習が「ナショナルな伝統文化」とされることによって、ネイション全体へと均質にひろがっていったのである。そして、そのようなネイションの伝統の発明と均質化によって、ネイションの内部にあって牛を食べる習慣をもつハリジャンに対する差別が強まったこともたしかだろう。
 さて、ギアーツは「原初的紐帯」が、直接的な接触、血縁関係、そして慣習や言語や宗教といった与えられたものを共有しているということから生ずると述べていた。そして、それら所与のものが「差異の連続体」をなしているということをみてきた。「差異の連続体」としての言語や慣習の共有や直接的な接触による経験の共有によって生じるこの原初的紐帯は、そもそも共有するものが明確な区切りのない「差異の連続体」であることから、固定的に境界づけられた排他的なカテゴリーを創りだすものではないことが明らかになったと思う。

 そのように、境界があいまいで伸縮自在な紐帯を、互いの「家族的類似性」による親近感といいかえることができるだろう。「家族的類似性」という語はウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで用いたものである。ウィトゲンシュタインは、ある現象のすべてに対しておなじ言葉を適用しているからといってそれらに共通している要素などなく、それらの現象は互いに多くの異なったしかたで類似しているとし、それを「家族的類似性」と呼んでいる。そのような類似性を、ウィトゲンシュタインは、「ゲーム」を例にして、つぎのように説明している。

「ゲーム」と呼ばれる諸過程について、まず考察してみよう。つまり、盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々のことである。これらすべてに共通なものとは何であろうか。――「何かがそれらに共通でなくてはならない、そうでなければ、それらは〈ゲーム〉と呼ばれない」などと言ってはいけない。……それらを注視すれば、すべてに共通なものは一向に見えなくても、君にはその間の類似性や類縁性が見える。しかもその全系列が見えるだろうから。……たとえば盤ゲームを、その多様な類縁関係ともども注視せよ。ついでカード・ゲームに移れ。そこでは最初の一群との対応を数々見出すであろうが、共通の特性がいくつも姿を消して、別の共通性が現われてくる。今度は球戯に移れば、共通のものも多く残るが、またたくさんのものが失われていく。――これらすべてが「娯楽」なのか。……また、どのゲームにも勝敗があり、あるいは競技者間の競争があるのか。……球戯には勝敗があるが、子供が壁に球を投げつけてはまた受けとめているときには、この特徴は見あたらない。技倆や運がどのような役割を果たしているかを見よ。……さらに円陣ゲームを考えよ。ここに娯楽の要素はある。しかしどれほど多くの他の特性が消え失せていることであろうか。おなじようにして我々は、まだまだ多くの、別のゲーム群を見ていくことができる。類似性が姿を現わしたり、消え失せたりするのを見ることができる。/この考察の結果は次のようになる。我々は互いに重なったり、交差したりしている複雑な類似性の網の目を見ている。大まかな類似性も見れば、こまかな類似性も見るのである。/私としては、こうした類似性を特徴づけるのに「家族的類似性」という言葉にまさるものは思いつかない。というのは、家族の構成員の間に見られるさまざまな類似性、たとえば体つき、顔つき、目の色、歩きかた、気質、等々もおなじように重なり合い、交差し合っているからである。――そこで私は、「ゲーム」は一家族をなす、と言おう。[ウィトゲンシュタイン 2000:186-188、ウィトゲンシュタイン 1976:69-70]


 この「家族的類似性」は、おなじ語でよばれたり、おなじ家族の一員となったりするなど、たまたま隣接性の関係に入ったから生じる類似性といえる。家族的類似性に関して重要なことは、それによって結ばれるものすべてに共通した属性などないということ、すなわちけっして遺伝や血のつながりによって自然に生じるのではなく、他者のことばや身体の日常的な相互模倣によって生じる類似性なのである。つまり、そのような類似性があらかじめ存在しているわけではなく、全体が明確に境界づけられていることもないということ、並べてみればそこには一貫してはいないが類似性の連鎖(網の目)がたしかに感じられるが、その境界はそこでなければならないという根拠はなく、重複もしているということである。
 このような「互いに重なったり、交差したりしている複雑な類似性の網の目」としての「家族的類似性」と、先に見た「差異の連続体」という視点から、慣習や言語などを共有することによって生じる「原初的紐帯」をとらえなおすことができるだろう。すなわち、原初的紐帯とは、「差異の連続体」としての慣習や言語などを共有していることによる「家族的類似性」によって生じる親近感ないし愛着である、ということができる。
 その共有や愛着は、たまたま隣接している他者のことばや身振りを日常的に模倣し反復することによって生じるものである。そして、そのように共有されていく言語や慣習それ自体が重なり合い交差しあいながら互いに異なっているものの連鎖――差異の連続体――であるから、すべてに共通したものなど存在せず、それによってつくられる紐帯も、明確に境界づけられるような閉じたカテゴリーを形成することがなく、けっして固定されない。したがって、この原初的紐帯における愛着は、「失われた共同体」の発明(ナンシー)におけるような「失われた一体感や合一」とは関係ない。それは生活の場における、ずれや異和性を含んだ慣習や言語の共有からくる愛着であって、たとえば、新たに隠語をつくったり支配的な言語を流用して使ったりするという実践によってもつくりだされる。つまり、差異の連続体内部の要素からなる一貫しない類似性の連鎖による家族的類似性によってできるまとまりは、どこで区切るかの根拠はなくどこで切ってもいいようなものだが、にもかかわらず日常的な反復や模倣で生じる親近感や愛着によってなんとなくまとまっているようなものとなる。
 その差異の連続体がなす「境界や起源に先行する異種混淆性」を排除し、「すべてに共通する何か」を想定して、明確に境界づけられた均質で空虚な全体として創りだされたものが、ナショナリティやエスニシティということになる。けれども、それらは差異の連続体やさまざまな次元での類似性の網の目による「原初的紐帯」の受け皿にはならないだけではなく、重なりあい交叉しあいながら伸び縮みする、そういった紐帯を分断したり排除したりするものなのである。ナショナリズムは、ローカルな原初的紐帯を「地域主義」とか「分離主義」と呼んで、その排他性や偏頗性を批判し、ローカルな紐帯への愛着の忘却をうながす。そしてその忘却が進むと、今度は、郷土愛と愛国心との連続性を強調して、ナショナリズムがそのような原初的紐帯の受け皿であるかのように主張する。しかし、排他性があるのはネイションのほうであり、差異の連続体を共有するローカルな共同体どうしの結びつきは、一貫性のないなんらかの類似性をみいだすことによって、ネイションを介することなくネイションを超える――つまり、ローカル−ネイション−グローバルという包摂関係を超える――こともできる。

 このような違いを考えれば、ギアーツがいう以上に、「抽象的で空虚な均質空間」としてのネイションが、〈顔=特異性〉のある直接的な関係を起点として延長される原初的紐帯の受け皿になることはもともと無理であることがわかるだろう。ナショナリズムは、近代の個人主義が過去の共同体的な一体感や合一を破壊したという「失われた共同体」の発明と、慣習や言語の共有によるローカルな原初的紐帯と愛国心との連続性という神話を用いて、この無理を覆い隠そうとする。構築主義者は、ナショナリズムによるこの隠蔽をそのまま鵜呑みにして、原初的紐帯による共同体における一体感や合一が排他的であり、それがそのままローカル−ネイションという連続的な包摂関係において、ネイションの一体性の排他性につながっていると、転倒して考えてしまっている。問題は、「家族的類似性」によって生じる原初的紐帯とそれへの愛着に対する構築主義のそのような批判のために、そのような愛着や実感を語ることばがナショナリズムに独占されていることにある。重要なことは、そのような共同体が「発明」されたものだと暴露したり、慣習や言語の共有による原初的紐帯や愛着を否定したりすることではなく、ローカル−ネイションという連続的な包摂関係を解体することによって、そのようなローカルな紐帯への愛着を語ることが排他的で単一的な(単声的な)ナショナリズムの語りを撹乱していくことなのである。
 このように、差異の連続体をなしている言語や慣習などを共有していることからくる原初的紐帯による民族的なまとまりは、境界のはっきりしないぼんやりしたものにならざるをえない。ところが、近代のナショナリズムは、他と明確に区分された言語や伝統を創りだして外部との違いを強調するとともに、内部の差異を抹消することによって、そのような民族的まとまりの弾性を、明確に境界づけられたネイションという枠の中に閉じ込めようとする。そうして創られたネイションを、ベネディクト・アンダーソンは「想像された共同体(想像の共同体)」とよんだ。国民国家成立以降では、ネイションだけではなく、ネイションの枠組みのなかに存在するエスニック・グループにもそのことは当てはまる。すなわち、国民国家のなかのエスニック・グループもまた、明確な境界によって他と区切られた全体と、そのなかの個をいきなり結びつけるという想像のスタイルによって創られる「想像の共同体」となっているのである。
 アンダーソンは、『想像の共同体』のなかで、「ナショナリズムとは、ネイションの自意識の覚醒ではなく、もともとそこに存在しなかったネイションを創出=捏造することだ」というアーネスト・ゲルナーのことばを引きながら、ネイションが創られたものだということを強調している。その点で、この本は民族に関する虚構論、構築主義の古典的業績とされてきた。
 ただし捏造=創出されたと言っても、無から創られたということを意味しているわけではない。ナショナリズム研究者のアントニー・D・スミスがいうように、国民国家以前の、その国民(ネイション)のマジョリティとなる民族的なまとまり(スミスはそれを「エスニー」と呼んでいる)が核となって創りだされたり、フランスやアメリカ合衆国のように、普遍的な共和制的原理や領土が先行して創られた「市民的・領土的なネイション」でも歴史的・文化的なものの共有ということを「エスニックな語法」によって語ったり発明したりするのが普通である[スミス 1999]。そのことを取りあげて、アンダーソンやゲルナーを批判する意見も絶えないが、重要なことは、たとえ国民国家の成立以前の民族的まとまり(エスニー)がネイションの「起源」としてあるようにみえても、エスニーとネイションとではその構造が異なっているということなのである。構造主義は、構造が異なっていれば、内容が連続しているようにみえてもまったく異なる意味をもつものとなっていることを明らかにしたが、その意味では構造が異なっているということをもって、ネイションはそれ以前の民族的まとまりとはまったく異なるものとして創りだされたということができる。それを理解していないと、「差異の連続体」において生み出される原初的紐帯という非同一的なまとまり――すなわち、全体を通して一貫することのない家族的類似性によるまとまり――を、近代のネイションやエスニシティといった同一的な想像の共同体と混同してしまうことになるだろう。
 アンダーソンは、ネイションを「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」と定義している。この場合の「想像の」というのは、顔を合わせる直接的なつきあいの範囲を越えているという意味で使われている。しかし、アンダーソンは、ネイションの特徴が顔を合わせる直接的な関係の範囲を越えていることにあると言っているのではない。そのような意味ならば、アンダーソンもいうように、ある程度の規模をもつ共同体は、ネイションに限らず部族や氏族や村落共同体も含めて、多かれ少なかれ想像されたものである。アンダーソンは、つぎのように述べている。

実際には、日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される。ジャワの村人たちは、かれらが一度も会ったことのない人々と結びつけられている、ということをいつもよく承知していた。しかし、その絆は、かつては、個々それぞれ独自に、無限定に伸縮自在な親族関係や主従関係のネットワークとして想像された。[アンダーソン 1997: 25、Anderson 1991: 6、訳文は一部変更した]


 ここでアンダーソンが、「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」[アンダーソン 1997: 25]と述べていることは、非常に重要である。つまり、アンダーソンが論じているのは、ネイションを他の想像された共同体と区別する独特の想像のスタイルなのであり、近代のネイションが、近代以前の想像の共同体とは異なる想像のスタイルによって創りだされている――いいかえれば「構造」が異なっている――ということなのである。
 アンダーソンは、近代以前の想像された共同体の例として、王国をあげているが、王という中心によって定義される王国の想像世界では、境界はすけすけで不明瞭であり、周辺部では相互に浸透しあっていたと述べている[アンダーソン 1987:37]。つまり、ネイション以前の王国や部族などの共同体では、一度も会ったことのない人々と自分を結びつける絆は、主従関係や親族関係などの連鎖をたどって広がるネットワークとして想像されているというわけである。ところが、ネイションはそうではない。たとえば、私たちが一度も会ったことがなく、またこれからも会わないであろう人びとと自分をおなじネイション、おなじ「日本人」として結びつける絆は、親族関係や主従関係の連鎖の延長として想像されるのではない。ネイションにおいては、おなじ「国語」によっておなじ出版物を同時間に読むという経験や、あるいは教育における「民族=国民史」という歴史の恣意的な読みを通しておなじ歴史的体験をしているという空虚な均質性をあらかじめ創りだすことによって、いきなり明確に境界づけられた全体として想像されているのである。そして、この均質性の想定によって、ネイション内部でも「ネイションになりきれない」マイノリティが周縁化されるのである。近代は均質空間を構想してきたにもかかわらず、均質空間として創りだされた国民国家はなく、たえず異質なものを排除してきたということをもって、アンダーソンの「想像の共同体」論を批判する人もいるが、そのような論は、近代の「規格化」による均質性の創出ということを理解していない。フーコーがいうように、「規格化をおこなう権力は等質性を強制するが、他面それは逸脱を測定したり水準を規定したり特性を定めたり、差異を相互に調整しつつ有益にしたりを可能にすることで、個別化をおこなうのである」[フーコー 1977:187]。この序列化による個別化こそ、近代における異質性の排除や差別の特質であり、その序列における諸段階はネイションという等質的社会体への帰属の徴として序列化されている。したがって、この序列化による差別は、均質空間を構想してきたにもかかわらず残ったものではなく、均質空間を構想することによって創りだされたものなのである。
 とはいっても、アンダーソンのいう近代以前の「想像のスタイル」による王国や村落共同体のほうが近代における異質性の排除や差別よりましだったということを強調したいわけではない。ここで強調したいのは、条里空間の原理から過去の王国や村落共同体を「閉じた抑圧的な共同体」としてみてしまうと同時に、条里空間に包摂されているようにみえる現在にも存在する平滑空間におけるもうひとつの想像のスタイルを見落とすことの危険性であり、そのことが解放のイメージを過去や未来にしか求めずに現在を否定してしまうことになってしまうことの危険性なのである。


2.「想像の共同体」と想像のスタイルの区別

 アンダーソンが「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」と述べて、共同体を2つの想像のスタイルによって区別していたにもかかわらず、これまでアンダーソンの「想像の共同体」について論じる人たちの多くは、そのことをほとんど強調してこなかった。そこで、この節では、まずアンダーソンのいう2つの想像のスタイルによる区別を記号論的な用語で明確にしたうえで、そのことを軽視してきた要因が、同一的な共同体という観念の強さと、そこからくるポストモダン思想における共同体への嫌悪にあることをみていきたい。

 ネイションやその内部のエスニック・グループのように、個々人をいきなり無媒介に全体へと結びつける想像の仕方は、レトリック用語でいえば、提喩(シネクドキsynecdoche)に見られる全体−部分の包摂関係によるものといえる。構造主義的な人類学や文化記号学、カルチュラル・スタディーズでは、人やモノを記号ととらえて、その記号と記号との関係を表すときに比喩の種類を指すレトリック用語を使うことがある。その代表的な3つが、提喩、隠喩(メタファー metaphor)、換喩(メトニミー metonymy)である。そこで、その3つの説明をしておこう。

 まず、提喩(シネクドキ)とは、カテゴリーの包摂関係、すなわち種と類、個と全体の関係にもとづく比喩で、「人はパンのみに生きるにあらず」という言い方の「パン」が提喩である。ここでは「パン」は「食べ物」という全体(類別的なカテゴリー)のなかの部分(個別的な種)であるが、その個別的な種が食べ物という類別的なカテゴリー全体を表しているわけである。逆に、包摂するほうの類別的なカテゴリーが包摂される個別的な種を表す提喩の例として、「親子丼」という命名の仕方が挙げられる。これは、親子関係のなかの個別的な種である鶏肉と鶏卵の結びつきを、「親子」という類別的なカテゴリーで表しているわけである。そして、そのようなカテゴリーの包摂/被包摂関係における、類別的なカテゴリーと個別的な種との記号の結びつきを提喩的関係と呼んでいる。
 また、隠喩(メタファー)というのは、類似性による記号の結びつきを指し、換喩(メトニミー)は隣接性による記号の結びつきを指す。日本有数の記号学者だった佐藤信夫氏の用いた例を使えば、「白雪姫」が隠喩で、「赤頭巾ちゃん」が換喩である。白雪姫(プリンセス・ホワイトスノー)が「白雪」(ホワイトスノー)という名で呼ばれるのは、肌が雪のように白い王女だったからである。つまり、雪とその女の子は類似性によって結びついている。それに対して、「赤頭巾」と呼ばれる女の子は赤頭巾のように赤いから(つまり類似しているから)ではなく、いつも赤頭巾を被っているからである。その女の子に赤頭巾は〈付きもの〉なのであり、隣接性によって結びついている。この隣接性(AがBに付き物だという関係)は、現実にくっついていなくてもかまわない。たとえば、油揚げが入っているうどんを「きつねうどん」と呼ぶのは換喩によるものだが、それは油揚げが稲荷神のお使いであるきつねの大好物とされているという隣接性によっている。つまり、きつねには油揚げが〈付きもの〉なのである。
 ところで、換喩と提喩はよく混同され、部分と全体の関係における置き換えという点でおなじ比喩とされることがある。しかし、換喩の場合の「部分と全体の関係」は、たとえば「遠い海の上をいくつもの帆が走っている」という換喩において、ヨットを帆であらわすとき、部分=帆が全体=ヨットの代わりをしているといえなくはない。しかし換喩の場合には、ヨットには帆が付いているというように、部分がその全体に実際に付いているといえるような場合であるのに対して、提喩の場合は、おなじく「部分と全体の関係」といえるように思えても、それは類と種の関係であり、ヨットと船の関係のように、一義的に決められた「概念」の包摂関係である。つまり、猫と尻尾の関係は、猫に尻尾は付き物といえるように、換喩的関係であるが、それに対して、動物と猫の関係は提喩的関係となる。動物に猫は〈付きもの〉などとはいえないのだ*1


 結びつきの違いを表すこの提喩/隠喩/換喩という3つのレトリック用語を使うことによって、ネイションという「想像の共同体」を創りだす想像のスタイルにおける結びつきと、それ以外のエトニーや王国といった「想像の共同体」の想像のスタイルとの構造的な違いを明確にすることができる。
 たとえば、清水昭俊氏は、「民族」を一元的に統合するにあたって、「換喩から提喩への変換」のマジックが働くといっている。清水氏は、「民族の『われわれ』意識が成立するためには、複数の『私』が機能的関係で結ばれるだけでは不足であって、個々の『私』がこの『われわれ』の部分であると自認する必要があった。比喩の言葉で言いかえれば、自己のかかわる換喩的関係が提喩的関係に変換されることによって、『われわれ』は『私』に対する統合を達成することになる」[清水 1992: 90]という。ここで言われている換喩的関係とは、機能的関係、すなわち役割連関の関係を指している。役割連関はたしかに隣接性による関係である。たとえば、教師は生徒がいてはじめて教師となる。教師は生徒を包摂するのでもなく、生徒と類似するのでもなく、生徒と隣接性によって結びつくことではじめて教師なのである。そのことは親族関係や主従関係といった他の換喩的関係でもおなじである。
 清水氏のいう換喩的関係は親子関係や主従関係といった機能的関係に相当し、提喩的関係への変換とは、個々人をいきなり全体へ結びつける「想像」に相当する。清水氏がここで言っているのは、隣接性による換喩的関係だけでは、明確に境界づけられたカテゴリー全体(「われわれ」)とそこに包摂される個人(「私」)とのあいだの包摂関係は創りだせないということのようだ。ここで、清水氏は、「換喩から提喩への変換」のマジックを、近代のネイションに限らず民族一般の「われわれ」意識を成立させるものとしている。つまり、清水氏は、ネイションの特徴である、個人と明確に境界づけられた全体とを無媒介に結びつけるような想像のスタイルによる「想像の共同体」しかないとしているわけで、アンダーソンが指摘していた国民国家以前の王国や村落におけるもうひとつの想像のスタイルを認めていないことになる。しかし、本書で強調したいことは、この「もうひとつの想像のスタイル」を認めることが、反本質主義(構築主義)と反・反本質主義(戦略的本質主義)の不毛な対立を避けるうえでも、また、原初的紐帯をナショナリズムに回収されないためにも重要だということであった。
 ネイションのように個人と明確な境界をもつ全体とを直接的に結びつけるような「想像の共同体」における想像のスタイルを「提喩的な想像のスタイル」と呼ぶならば、もうひとつの想像のスタイルは「換喩/隠喩的な想像のスタイル」と呼ぶことができる。それは、親族関係や近隣関係や主従関係といった直接的な隣接性による換喩的なつながり起点として、それを直接的な関係をもたない者にまで、その直接性(個々の特異性=顔)ということを保持したまま延長する換喩的な想像と、言語や慣習や体験の記憶などさまざまなものから(何を共通とするかはそのつど異なりながらも)共有するものを見出すことによって、何らかの類似性による隠喩的なまとまりを作りだす隠喩的な想像とがともに働く想像のスタイルであり、そこで作り出されるまとまりは、ぼやけた全体や重複しあう境界しかないまとまりである。こう書くと、不可能に近いことのように思われるかもしれないが、それは、私たちが日常生活のなかで、会ったこともない「知り合いの知り合い」を、話などだけで自分の知り合いと感じたり、初対面の人とのあいだでなにか共通の体験を見出したときに「仲間」だと感じたりすることを指している。
 そして、この「換喩/隠喩的な想像」は、そのままウィトゲンシュタインのいう「家族的類似性」という概念に重なる。そもそも家族的関係とは隣接性による換喩的な関係性である。そこに類似性による隠喩的な関係性を見出すことによって、家族的類似性によるまとまりができる。すなわち「互いに重なったり、交差したりしている複雑な類似性の網の目」としての家族的類似性は、ある1つの換喩的な関係(たとえば親族関係の父系出自)をそれとは異なる他の換喩的な関係と、「互いに多くの異なったしかたで類似している」ということによって結びつけてできるまとまりである。そこで作られる互いに交叉したり横断したりする関係群は、次章で説明する「セミ・ラティス構造」をなしている。そして、そこでは、あらたに考案された「ゲーム」が、これまで家族的類似性によってゲームとしてまとまっていた雑多な集合のなかに、もとからあるゲームの一部とのあいだの一貫しない類似性によって入っていくように、あるいは、互いにかけ離れてひとつの共通性もないゲームどうしが「ゲーム」というまとまりのなかに位置づけられているように、新しく隣接性をもった新加入者や、互いに1度も会うことのないメンバーも、特定のメンバーとのあいだになんらかの類似性を見出したり創りだしたりすることにより、そのまとまりのなかになんとなく位置づけられて居場所をもつことができるのである。

 こうして、アンダーソンが「想像の共同体は、その想像のスタイルによって区別される」という、その区別を、「提喩的な想像による想像の共同体」と、「換喩/隠喩的な想像による想像の共同体」との区別と言いかえることができた。そして、その2つの想像の共同体では、それによって付与されるアイデンティティの構造も異なっている。ネイションやエスニシティのような近代の民族的アイデンティティは、酒井直樹氏のことばを借りれば、「種的同一性」ということができるだろう。酒井氏は、ネイション以前のアイデンティティは、親族関係や主従関係、近隣関係など、隣接性による多元的な社会関係の網目のなかに位置づけられることによる「関係性による同一性」であったとし、その違いをつぎのように述べている。

国民共同体(民族あるいは人種共同体も同様な論理によって構想される)への帰属は、身分や職業などに基づく個と個の関係を飛び越えて、個人と全体としての共同体を直接に結びつける。ひとは、共同体の全体へ無媒介的に接近しうるのでなければならない。無数の社会関係の網目のなかに位置を占める身分の束としての自己の規定ではなく、そうした身分から離れた、国民・民族・人種といった非身分的集合への帰属による規定が、近代においてひとの主体的位置を優先的に決定するようになる。近代以前では、個人はたとえば敬語の体系によって示されるように、相手との関係によってそのつど自己の同一性が限定される。親−子、兄−弟、夫−妻、主−従といった社会関係性による同一性の論理によれば、個人は同時に親でありまた子であり(子でない親は原理的に存在しえない)、人生のある時点では従であっても別の時点では主でありうるから、個人は親、子、主、従の集合に同時帰属することができる(……)から、個人の同一性の集合はたがいに排他的な関係をつくらない。これに対し、近代になって登場する同一性は排他的な種的同一性とでも呼ぶべき原理に従ったものであって、犬が同時に猫であることができないという建前がうちたてられる。だから、国民の集団はたがいに排他的な関係において自己を限定するのである。個人は特定の他者との関係によってその同一性を得るのではなく、抽象的な集合への帰属によって種的同一性を得るようになる。[酒井 1996:173-174]


 酒井氏のいう、国民的同一性を典型例とする「種的同一性」は、個と全体とを無媒介に結びつけるような抽象的な「想像の共同体」への帰属によるアイデンティティ(同一性)であり、それこそが提喩的想像によるものである。けれども、酒井氏もまた、「想像の共同体」にはその想像のタイプしかないものとしているようである。というのも、上の引用部分につけた注で、酒井氏は「ベネディクト・アンダーソンが『想像的』ということばで示したかったのは、こうした種的同一性のもつ抽象性のことであろう。関係的な同一性であっても、面と面を突き合わせることのない社会関係(アンダーソンはこうした関係を『想像的』ということばで記述しようとしているようにみえるが)を示すことはおおいにありうるからである」[酒井 1996:281]と述べているからである。
 ここでの酒井氏の議論は奇妙なものとなっている。すでに見てきたように、アンダーソンは、あらゆる共同体は、「面と面を突き合わせることのない」という意味で「想像的」な共同体であると述べていた。すなわち、酒井氏のいう「関係的な同一性」――親族関係や主従関係や近隣関係――も「想像的」でありうるとし、その上でそのような「想像的」な共同体はその想像のスタイルによって区別されるとしていたのであった。それに対して、酒井氏は、アンダーソンが「想像的」ということばで示したかったのは種的同一性による抽象性のことだと述べて、「関係的な同一性」は想像的(すなわち抽象的)ではないが、「種的同一性」は想像的=抽象的だというわけである。そして、奇妙なのは、酒井氏が「関係的な同一性」において「面と面を突き合わせることのない社会関係」による仲間意識や共同体がつくられるということになにも言及していない点である。
 酒井氏は、清水氏とおなじように、換喩/隠喩的な「もうひとつの想像のスタイル」による共同体というものを考慮していないが、清水氏が、共同体というものが(おそらく伸縮自在ですきまだらけの境界しかもたない近代以前の共同体も含めて)、すべて「提喩的な想像」によるものとしているのに対して、酒井氏は、近代以前については「関係的な同一性」についてのみ述べて、「共同体」についてはなにも述べてはいない。いいかえれば、換喩/隠喩的な想像のスタイルによる「非同一的な共同体」を「関係性による同一性」におきかえてしまっているようなのである。けれども、「非同一的な共同体」と「関係性による同一性」とは似て非なるものである。そして、あとで述べるように、どうも酒井氏は、「関係性による同一性」というものを近代の役割連関による同一性によって考えているようにみえる。
 清水氏や酒井氏がもうひとつの想像のスタイルを考慮していないのは、関係性の換喩的な連鎖からは共同体的なまとまりができないという、近代に発明された共同体のイメージからくる思い込みによるものであろう。けれどもすでに述べたように、特定の他者との関係性を想像的に延長するという換喩/隠喩的な想像のスタイルによって、すなわち、隣接性による換喩的な関係性と家族的類似性による多元的で錯綜した網の目として、もうひとつの想像の共同体としての「民族的まとまり」を創ることができるし、次章で具体的にみていくように、ネイション以前の実際の「民族的まとまり」はそのようなものだった。そのまとまりは、明確な境界によって固定されたものではなく、換喩的関係の連鎖として、いつでも新しいメンバーを加入させたり、あるいは途中で切り離したりでき、にもかかわらず、つねに他のメンバーとの家族的類似性によって、そのつどの親近性をもつまとまりとなっているのである。

 そのような共同体を想像できにくくしている理由として、すでに触れた、ポストモダン思想に含まれる「共同体」への嫌悪があげられるかもしれない(それは日本においてより顕著となっている)。つまり、個人の多様性を共同体的なまとまりが抑圧するという思い込みである。近代の思想は、前近代の「共同体」というものを個人の自律性を抑圧するものとして創りだした。このような表象は、サイードが批判したオリエンタリズムにおけるオリエントの表象と基本的にはおなじものである。前近代の共同体には個の自律がなく、そこでは個人は因習に縛られて共同体に埋没しているというわけであり、その束縛から個人を解放することが近代化とされていたのだった。それに対して、ポストモダン思想は、近代の個人の自律性という理念に異議を唱えるが、「閉じた共同体」というイメージは引き継いでしまい、共同体は個人の開かれた多元的な可能性を抑圧するものとみなしている。このような「共同体の束縛」への嫌悪による共同体への批判は、〈顔〉のある関係の直接性からくる自己への意味づけの奥行きと、それによる他者への社交性による共同性の創造と、そのような奥行きのない「空虚な均質空間」(これは人口統計や地図作成や人種の計測にみられるように、計量可能な「条理空間」といいかえられる)としてのネイションに依拠するナショナリズムとを一緒にして退け、〈顔〉のある関係性を起点として創られる共同体とそこにおける自己の深い意味づけへの要求という、それ自体正当な要求をナショナリズムのほうへと追いやってしまっている。
 そして、「関係性の換喩的な連鎖からは共同体的なまとまりができない」という思い込みは、「個人の多様性」や「アイデンティティの複数性」についてのとらえかたをも限定しているように思える。つまり、近代において創られた提喩的な想像による「共同体」によって排除されたり抑圧されたりするとされる個人の多様性、いいかえればそのような「共同体」との提喩的な結びつきによる「種的同一性」からははみ出てしまう部分をどのようにとらえているかという問題についての考察を限定してしまっている。たとえば、酒井氏による前近代の「関係的な同一性」についての説明などは、そのような例といえるだろう。そこでは、さまざまな(機能=役割的な)関係性の集合ないし束としての自己が、個々の関係性においてその役割が規定されるため、その集合には「親」という役割も「子」という役割も、あるいは「主」という役割も「従」という役割も同時に含まれており、そこには、それらの関係性から切り離された固定的な同一性などないとされていた。このように表された自己のアイデンティティの「複数性」は、けっきょく計量可能な複数性でしかなく、同一性が明確に意味づけられた役割連関に依存しているものとみなすもので、そのひとつひとつは種的同一性と同じように条理空間に位置づけられるものとなっていよう。

そして、上野千鶴子氏のつぎのような言いかたも自己のアイデンティティの複数性を「数えられるもの」とするものの例として挙げられよう。

国民という集団的アイデンティティの排他性を超えるために呼び出されるのが、他方で「世界市民」や「個人」あるいは「人間」として、という抽象的・普遍的な原理である。あらゆる国籍を超えたコスモポリタン、普遍的な世界市民という概念もまた、危険な誘惑に満ちている。それはあらゆる帰属から自由な「個人」の幻想を抱かせ、あたかも歴史の負荷が存在しないかのように人をふるまわせる。「国民」でもなく、あるいは「個人」でもなく。「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である。そうした「固有のわたし」――決して普遍性に還元された「個人」ではない――にとってどうしても受け入れることのできないのは「代表=代弁」である。[上野 1998:197-198]


 酒井氏のいう「関係性」が親族関係や主従関係などの換喩的な関係性であったのに対して、ここでの「関係性」は、ジェンダーや国籍や人種やエスニシティや階級といった「種的同一性」をもつカテゴリーへの帰属関係、すなわち提喩的な関係になっているという違いがあるが、にもかかわらず、おなじように自己というものが「関係性の集合」としてとらえられている。その違いには、酒井氏が前近代のアイデンティティについて述べているのに対して、上野氏が近現代のアイデンティティについて述べているという違いが反映しているといえるが、問題は、このように「関係性の集合」として自己をとらえてしまうと、酒井氏のいう「関係性による同一性」も提喩的な想像による種的同一性とおなじようなものとなってしまうことにある。
 上野氏が「わたし」を「国民」に還元するか、あるいは「世界市民」のような普遍的な「個人」に還元するかという二者択一を否定している点にはまったく賛同するが、「わたし」を作りあげているのは「さまざまな関係性の集合」であるというとき、その関係性が提喩的な関係として記述されており、「固有のわたし」の還元不可能性が、「わたし」は「日本人」でもあるし「女性」でもあるし「教員」でもあるが、どれかひとつには還元されないものととらえられていることには疑問を感じる。そこには、自分が帰属している複数のアイデンティティ(種的同一性)から、あたかも自由に選択したり拒否したりできるかのような主体が想定されてしまっているようにみえるからである。

 そして、酒井氏のように換喩的な関係性の集合としてとらえる場合でも、上野氏のように提喩的な関係性の集合としてとらえる場合でも、そのような関係や同一性の複数性は、それを抑圧し排除することで成り立つ「種的同一性」や「普遍的な個人」に抗するような「過剰」たりえない。それらは、「種的同一性」や「普遍的な個人」とおなじ「空虚で均質な空間」としての条理空間における計量可能な複数性だからである。重要なことは、換喩/隠喩的な想像のスタイルによる共同体を平滑空間における多様体としてとらえることにある。
 そこでは、個人を作りあげている関係性の過剰は、役割連関(機能的関係)における関係性にも、国民といったカテゴリーに個人を無媒介に結びつける提喩的な関係性にも変換しきれない「過剰性」として現われるのである。〈顔〉のある特定の他者との具体的な(現実的な)関係性は、家庭での夫婦関係や親族関係や大学での教員と学生の関係といった役割のあいだの関係にしろ、帰属する階級やジェンダーや人種のあいだの関係にしろ、そのような役割連関やカテゴリー間の関係によって規定されるものより、つねに「過剰」なもの、つねに「それ以上のもの」であろう。たとえば、教員である「わたし」は、たとえ学生の前であっても「教員」という役割のみに還元されないものだろう。そして、それは、「わたし」が妻の前では「夫」でもあるからなのではなく、あるいは、昔は「学生」でもあったからでもない。他の場面では他の役割をもっている(あるいはもっていた)からではなく、カテゴリーとしての「学生」という役割に対しては「教員」としての役割にはなれても、〈顔〉のある特定の学生のまえでは「教員という役割」ではすまないからである。それは〈顔〉のある他者が、たとえ制度上はわたしの学生であっても、たんなる「学生という役割」に還元されないのと相関している。つまり、〈顔〉のある他者との関係においては、個人はつねに役割やカテゴリーへの帰属より以上の特定の「だれそれ」として現われている。その直接的な関係の過剰性を〈顔〉と呼んできたわけである。
 誤解のないように言っておけば、〈顔〉のある関係とか直接的な関係の過剰性は、関係の深さや長さ、あるいは親密性といったものとは別のことである。役割区分によって結ばれた関係(デュルケームのいう「有機的連帯」)のほうが、いつでも切り離せる隣接性による関係(「機械的連帯」)となっている〈顔〉のある関係よりも深いと言いうる。その過剰性は、ある一つの関係の属性としての深さや長さというよりも、むしろ〈顔〉=特異性があるためにその関係にそこから逸れてしまうような他の関係が接合されてしまうために生じるようなものと言えるかもしれない。
 つまり、その過剰性は、さまざまであるが1つ1つは区別できる関係性の束や役割の集合というより、親族関係や性や主従関係などのさまざまな役割関係のコードの1つに属する特定の関係に、異なるコードによる他の関係性が交叉=横断していることに起因するものであり、その交叉においてこそ、1つ1つの関係性の特異性=〈顔〉が保持されているのである。その特異性は、1つによる関係が他の関係と交叉しているゆえに、教員/学生というコードによって他と区別された1つの関係性には還元されないと同時に、交叉する他の関係性なしに保持されることもない。そのような錯綜体においてのみ、〈顔〉という特異性が生成され維持されるというわけである。つまり、特定の他者との〈顔〉のある関係性を起点とする共同性のなかでも失われない特異性とは、そのような錯綜体としての関係の過剰性のことなのである。

 この錯綜体は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのいう「リゾーム」といいかえることができる*2ドゥルーズとガタリは、ツリー(樹木)とリゾーム(根茎)を対比させている。リゾームというのはハスや竹などの植物の地下茎を指すことばだが、ドゥルーズとガタリは、それを樹木(ツリー)とはまったく異なる「もうひとつの秩序」のありかたを表すことばとして用いた。その特徴を、ドゥルーズとガタリは、つぎのように説明している。

樹木やその根とは違って、リゾームは任意の1点を他の任意の1点に連結する。そして、その特徴の1つ1つは必ずしもおなじ性質をもつ特徴にかかわるのではなく、それぞれが実に異なった記号の体制を、さらには非・記号の状態さえ起動させる。リゾームは〈一〉にも〈多〉にも還元されない。それは一が二になったものではなく、一が直接三、四、五、等々になったものでもない。〈一〉から派生する〈多〉ではなく、〈一〉が付け加わる〈多〉(nプラス1)でもない。それは統一性(ユニテ)〔単位〕からなっているのではなく、さまざまな次元から、あるいはむしろ変動する方向からなっている。[ドゥルーズ/ガタリ 1994: 34]


 それに対して、自己やその関係の複数性や多様性を、1つ1つが区別された関係性の束とか多様な役割関係の集合としてとらえるときの「多様性」は、一義的に機能や意味が決められている〈一〉を加算した集合となっている。それをいくら「多様」と言い表しても、それは明確な全体−部分の階層的な包含関係の体系(ツリー状の階層構造)のなかに統合された多様性でしかない。いいかえれば、数えられないものを数える(計量する)ことで条里空間に位置づけられた多様性や複数性でしかない。一方、平滑空間としての日常的な生活の場で人びとが作っている関係性の1つ1つは、たとえそれが会社などの組織内の役割連関や親族関係などの換喩的関係であっても、一義的に機能が規定されているものではなく、つねにそれ以上の過剰なものである。そして、その過剰性こそが関係性をそれとは異なる次元の関係性に結びつけて、複雑な類似性の網の目としての共同性を生みだしているのである。
 上野千鶴子氏は、「国民」でも「世界市民」としての「個人」でもなく、と言っていたが、「国民」という共同体への誘惑と普遍的な「世界市民」への誘惑の両方に抗するには、「国民」という共同体に誘惑される理由が、条里空間における関係性による同一性では自己を肯定する物語をつくることがうまくできないことにあると認識すること、かといって、ただちに提喩的な想像のスタイルによる固定された共同体に安定した同一性を求める必要はなく、排他的ではない共同性を作る「換喩/隠喩的な想像のスタイル」による非同一的な共同体、すなわち「国民」や「女性」といった種的同一性を前提とすることなく、同じ場を共有しているという隣接性と話す言語や経験や境遇の類似性によってつくられる共同体が、つねに/すでにあることを認識することが必要となろう。

*1:この換喩と提喩の区別についても、佐藤信夫氏の『レトリック感覚』[佐藤 1992]を参照のこと。

*2:ドゥルーズとガタリは、非等質な空間である平滑空間を、この非計量的で中心をもたないリゾーム的多様体と一致すると述べている[ドゥルーズ/ガタリ 1994:427]。