都市の歩道空間の聖化にみる 抗争場としてのストリート 南インドチェンナイ市における歩道寺院を事例に  関根 康正

 

 都市の歩道空間をめぐって,異なる利害を有する 2 つのアクターが抗争している。一方は,市行政権力であり,都市計画の実践という観点から歩道を歩行者のために維持管理する。他方に,追い立ての恐れの中で歩道を不法占拠し生活の場にするホームレスの貧困者たちがいる。前者は公空間である歩道を占拠させまいと力を行使する立場にあるし,後者はそれに抗して歩道上で生活基盤の確保に勤しむという反対の立場に生きる。本稿では,様々な歩道空間での活動なかでもきわめて明確に目を惹く実践である「歩道寺院」活動を焦点化する。この動きは50年を超える歴史があることが分かっているが,とりわけ1990年代以降急増しており,チェンナイ市の全体に拡がった一般的現象になっている。これらの歩道寺院は大方が社会的に下層の人々によって開始され建設が進められている。歩道寺院は明らかに,神の名においてその空間を聖化し,その力によって行政権力に抵抗する砦になっている。その意味で,下から歩道寺院建設も不利な境遇を生き抜く戦術としての「弱者の武器」なのである。この民族誌的事例は聖なるものという動態的な観念の醸成に関しての理論的な示唆を有している。すなわち,主流価値(支配イデオロギー)が占める社会空間の縁辺,そこは順法空間と不法空間との境界としてせり上がってきて,他者性として俗なる自己を超えた聖性を帯びる潜在性を有する。その潜在性に賭けたのが,歩道寺院建設という下からの活動であった。そこは,主流価値の限界による不在によってその存在を顕現し,実のところ主流価値に備給する故に駆逐しにくい場所になる。いわば生に対する死の隠喩にあたるヘテロトピアとなる。ヴェイコ・アントネンが指摘する事に通じるが,聖なるものという観念は,この意味で境界をめぐる認識的な次元の視点からの考察無くしてその捻れた動態を把握できない。


1 はじめに―チェンナイ市の歩道空間

 南インドの大都市でありタミル・ナードゥ州の州都のチェンナイ市は,その人口の 4分の 1 をスラム生活者が占めている。ちなみに2001年現在でチェンナイ Chennai City Corporation の人口は420万人である。このスラム人口の増大は、1990年代の経済自由化以降に急増したもので,窮乏した人々が糧を求めてニューデリー,ムンバイ,コルカタ,チェンナイなどの大都市に向かって急激に集まってきている。しかしながら,既存のスラムの許容量で吸収するには急増しすぎており,あふれた人々が路上すなわち大通りの歩道での野宿を余儀なくされる。こうして路上生活者が発生する。鶏と卵のような関係ではあるが,チェンナイ市の人々は車道の端を歩くのが普通で,歩道はほとんど歩行者用には使われないために,そこはまさに私的所有のない誰でもがアクセスできるオープンスペースとなっている。チェンナイでも,スラムは,川沿い,海岸沿い,鉄道線路沿い,高架下などの明らかな公空間の空隙に発達していく。それと同じ理由で,大通りの歩道といった道路の端という空隙に家なき人々が住み着くことになる。歩道の路上生活者はしばしばホームレスと呼ばれるが,この呼称はチェンナイにおいては不正確のそしりを免れない。というのは,彼らはだいたいにおいて家族で暮らしており,そこにはホームがあるからである。したがって,正しくはハウスレスと言うべきである。さらに,もう1点注釈すべきことがある。野宿というものが宿すイメージが第一世界のホーム住人が思うほど異常で非日常な行為ではないという点である。たとえば,インドのホーム住人たちにとって信仰行為として実践される巡礼地における野宿は当たり前であるし,6月を中心にした夏場は家の中が暑くて戸外に寝ることも良くあることである。
 チェンナイ市の歩道は様々なものが溢れかえり,本当に活気がある場所である。衣食住から経済・政治・宗教活動まで有りとあらゆる生活行動がそこには観察できる。この歩道空間という劇場において主役を演じているのは,相対的に低い社会階層の人々である。市民の手軽な足になっているオートリキシャ運転手がそうである。ある日出会ったオートリキシャ運転手はスラムに住んでいるのだが,舗装されていない歩道を指して,ここには私の木が植わっていると,これが私のパパイヤの木だと自慢げに話す。こんな風に公道の歩道に,そこが舗装される前に木を植えたりするのは普通のことと付け加える。歩道上に構えられているバス停留所のシェルターは,日陰になるし店構えのようになるので,しばしば露天商に占拠されている。歩道に設置された公衆便所は牛小屋に変身していることがよく見られる。大きな映画の看板の支柱が歩道に立ち並び,全く歩けないところもある。
 こうした歩道上に展開する諸活動の中でもとりわけ眼を惹くのが,「歩道寺院」建設というものである。ヒンドゥー教の神を祀った大小様々な祠が,都市の動脈になっている道路の際の歩道に頻繁に見られるのである。歩道には街路樹の大木が植わっていることがある。それがバニヤンや菩提樹であることも多く,そうした大木の根元に祠が作られやすい(もちろん,木が無いところに祠が作られる場合もある)。歩道寺院に祀られる神には,ガネーシャ神と地方女神が数の上で圧倒的に多い。始めは,神を表す煉瓦,神像写真が置かれただけのものが,簡素な祠へ,そして中には次節に見るように,歩道を全面的に占拠するほどの大きな寺院にまで発達していくものも出てくる。建設の発端の事情を祠の持ち主に聞くと,よく返ってくる理由が夢見である。ある晩,自分の夢のなかに○○神が現れ,その神を祀るように要請されたというものである。不法占拠に始まる歩道寺院建設であるから,自己決定を免罪する,打って付けの理由を夢見は与えてくれている。その理由が真実なのか知恵なのか,それは本人も必ずしも分からない。


2 歩道寺院の発達段階

 チェンナイ市には大小合わせて 600 余りの通常の寺院が存在する。歩道寺院がいくつあるかの正式な調査はこれまで行われていないが,私たちの2000年に行った体系的なサンプル調査では1,600の歩道寺院が市内には存在すると推計できた。こうしたパイロット調査などを踏まえて,私と共同研究者であるマドラス大学地理学教授のS. スッバイヤーとは,歩道寺院の発達段階を次のような再構成できると考える至った。その発達過程を,東京外大AA研での国際ワークショップで示されたスッバイヤーのまとめ(Subbiah 2006: 84)を参照させもらいながら説明しておきたい。


 一晩の内に社を持った寺院が生まれることもまれにあろうが,多くの場合は,それが不法占拠のかたちであるから徐々に段階を踏んで発達していく。歩道のしかるべき場所に神像写真が置かれ,そこに花輪がかけられ第1歩が踏み出される(上の写真を参照)。そしてしばらく,数日から数ヶ月の間様子見に入る。周りの人や歩行者や行政の反発やクレームがないかどうか,あるいは地域住民の支持が得られそうかどうか,みるのである。大丈夫と見ると,この初期段階から次の段階へと進める。つまり,寺院建設の基礎固めの段階である。聖地には欠かせないインド栴檀と菩提樹との組み合わせを得るために必要なものを植えることになるかも知れない。そしてあたりを水と牛糞で清める行為を毎日欠かさず行うことになろう。やがて,神像が据えられ,屋根付きの祠の外郭が建設されることになる。寺院の前には賽銭箱が置かれもするだろう。また,寺院建設者は通行人や近隣の住人や商店などから献金を募って,ヒンドゥー教徒にとって恒例の年中行事を挙行し始めるだろう。必要に応じて,寺院はさらに拡張したり装飾を増していく。そして最後の段階に至っていく。すなわち,ブラーマン司祭が毎日の礼拝(プージャー)のために雇われることになる。その頃には多くの信者を恒常的に引きつけるものとなり,それは通常の寺院と変わらないような地位を獲得していく。建設者の主観的解釈は置くとして,表に見える現象としては「サンスクリット化」がそこに認められる。こうして,寺院ではさらに様々な宗教行事が誇示的に行われるようになり,その街区は賑わいを増すことになる。ここまで来れば,もともと不法占拠であったものが公的な寺院としての揺るぎない地位を獲得することになり,その寺院所有権に確かな不動産価値が生まれる。したがって,所有者は個人であったり集団であったりするが,売買の対象にもなる。
 歩道寺院の上記のような発達段階自体が,歩道の聖化過程という本稿の主題を明確に示唆している。


3 グローバル化・経済自由化と歩道寺院の普及

 チェンナイ市の主要な目抜き通りや遠距離を結ぶ大通り(ハイウェイ)は,植民地時代の都市中心であり現在もCBDの役割を担うジョージタウンを基点に延びている。エルッカンチェリ・ハイロードがコルカタ(カルカッタ)に向けて北に延びる。西に向けてはバンガロールに至るプーナマリー・ハイロード。市内では南西に向いて走っている随一の目抜き通りのアンナ・サーライ(マウント・ロード)がタミル・ナードゥ州の南部に繋がっていく幹線道路へと接続している。
 チェンナイ市の道路システムは,上記のような大通りサーライ,中規模のテル,小路(袋小路)のサンドゥの3段階から構成されている。歩道寺院はサーライかテルの歩道に認められる。交通量や通行人の多い場所が歩道寺院の立地としては好まれるようだ。この事実は見逃せない。この15年を超えるグローバル化つまり経済自由化によってインド社会は劇的な変貌を遂げている。物,人,金,情報の流れが加速度的に速まり,インフラ・ストラクチャーからメディアまで社会環境が革命的と言えるほどに変わったのである。そして人々の生活は深く強く消費資本主義に飲み込まれていっている。
 私たちの調査では,現存する歩道寺院の3分の1がこの20年くらいの内に建設されたことが判明している。それ以上前に建設されたものも,近年になってより発達を遂げたことが伺える。ここに認められる経済自由化の展開と歩道寺院建設活動の急激な活発化とは単なる偶然の一致ではなく,因果関係があるのである。前者のもたらした変化が,歩道寺院建設の急増の土壌を提供している。この点の論証は,後述される歩道寺院の具体的な事例を通して明らかになる。歩道寺院の立地と発達過程を見ることでそのことが可能になる。立地条件としては先に書いたように基本的に通行人が多いということが重要である。交通量というフローのもたらすエネルギー無くして,歩道寺院は成り立たないし維持できない。周知のように,1990年代以降の経済自由化の潮流は,世界中でリアクションとしての宗教復興や「伝統 tradition」ないし文化的「遺産 heritage」の再興という様相を惹起している。インド社会で言えば,ヒンドゥー・ナショナリストの台頭である。歩道寺院の活動も,この潮流とそれへのリアクションを土壌にする草の根の次元でのアクションであるとみなせるのである(関根 2006)。この歩道寺院建設という一種の宗教文化復興は,社会的・経済的に不利な立場にいる人々によって主として担われている生活「事業enterprise」の1つなのである(Sekine 2006: 168–176)。この歩道寺院建設「事業」は,前近代の「伝統」(「遺産」)とポスト近代の新たな「翻訳 translation」と の間の捻れた関係性を具体的に例示している(ここでの鍵括弧付きの「伝統」ないし「遺産」と「翻訳」などの概念用法は,(Robins 1991; Corner and Harvey 1991)などによる)。このささやかな歩道寺院をめぐる現象も,タミル・ヒンドゥーの身についた宗教文化複合という「遺産」の慣性力と,現代のグローバル化の潮流において今を生きる「事業」という「翻訳」実践との交差地点において組織され現出したものと言えるのである。


4 都市計画権力と歩道寺院建設実践―生存のための交渉

 都市のインフラ・ストラクチャーの骨格を占めるハイウェイや大通り建設は近代化への過程におけるハイライトでありスペクタクルである。大通りには歩道が敷設される。それは都市計画法が定める規定に則って作られる。考えてみれば,この歩道付きの大通り建設という都市計画実践なくして歩道寺院建設というブリコラージュも起りえないわけである。ここで私が焦点化しているのは,まさに社会空間の縁辺で生起している,ルフェーブル流に言えば都市計画という「空間の表象」と生きられる身体に対応する「表象の空間」とのアイロニカルでパラドクシカルな関係現象である。この下層民衆の担う法的に逸脱した下からの空間実践は,現地タミル社会に胎蔵された宗教文化伝統というハビトゥスの存在があって可能になっている。近代法制と伝統的慣習との興味深い交差の事例である。私たちの調査結果では,この不法占拠の歩道寺院の出現を周りの近隣住民はどちらかというと排除するよりもむしろ歓迎していることがわかる。神様が近くにあって日常の礼拝に便利というのである。調査から,歩道寺院の祭神の60%はガネーシャ神であることが分かった(次いで地方女神)。ガネーシャ神は,タミル人の間で最も人気のある始まりと成功の神であり,物事を開始するときに祈ると恩寵がありうまくいくという神であるから,人々がどこか行きがけに祈れたら便利というのも良く理解できる。通常のヒンドゥー寺院でのガネーシャ神は,寺院の境内に入ってから最初に礼拝する神としてシヴァ神のような主宰神の取り巻きの神の位置を占めているのだが,路傍においては,主役であり圧倒的な人気を誇っていることは明記されるべき庶民信仰の実態である。言い替えれば,歩道寺院建設は,この神のポピュラリティーを意識的,無意識的に利用しているに相違ない。つまり,タミル民衆の文化的嗜好に取り入ることが通行人の信仰感情にも訴えられるし近隣住民の寛容と受容を引き出せるとの戦術がそこに読み取れるのである。
 都市の歩道空間をめぐっては,すでに述べたように,2つのアクターが両極を占める。一方の極には,都市空間整備を推進する行政権力あるいは都市計画家があり,歩道空間を通行者の為に確保することを建前にして行動する。他方,反対の極には最下層の路上生活者があって,歩道空間を不法占拠し,追い立ての圧力の中で辛うじて生活空間を構築し続けている。言うまでもないが,両者の立場は相容れないし,力の格差も歴然としているから,対等な拮抗ではない。この 2つのアクターの体現する立場と姿勢は,文字通りド・セルトーの言う強者の上からの「戦略」と弱者の下からの「戦術」との相違という対照を示すものとなろう(de Certeau 1984: 29–42)。社会的権力空間から自由な場所というものはないので,その点で都市空間を権力関係の反映した濃密な抗争空間と見なすことは自然である。ゾーニングに基づく機能空間を組織し整序することを目指す行政権力は当然ながら路上生活者を不純分子として追い立てるが,路上に暮らす以外に道の無い者たちはさまざまな手段を援用・流用して闘い,空間占拠を持続する。1990年代の後半以降,チェンナイ市の都市改造や改変が急速に進展し始める。特に2つの実践が都市景観を変えてきた。1つが,チェンナイ市美化計画であり,もう1つは主要道路の立体交差化の推進である。これらの都市改変は,市内のあちこちで路上生活者を直撃することになった。なぜなら,立体交差建設で歩道が削られ,大通り美化は道端での占拠・滞留を許さない方向に締め付けを強めて,路上生活者は居場所を大幅に失ったからである。都市の近代化に向けてのこうした政策実践は都市行政の推進するものであるが,都市にホームを構える中産階層以上の市民たちの支持も得ていることを指摘しておくべきであろう。近代的思考で整序された空間が正しい空間なのであるという考えが上から浸透していく今日の傾向は,路上生活者には厳しいものであり,彼らは追い詰められる。公的空間の不法占拠への眼差しも変化し,それまでの不法占拠をそれほど抵抗無く受け入れてきたような曖昧なままの寛容性は減じてくる。本稿では,このような状況変化の中で追い詰められる弱者の側に身を寄せて,もう少し事態の詳細を下から語り出すことが目指される。下層に身を沈め社会的周辺に追いやられた人々が,歩道という空間的縁辺でいかに生存の場を切り出すために闘っているかを理解することに議論の焦点がある。下層民が生きる場としての歩道空間は,一見すると混乱し,汚く,不快な場のように見える。しかしそこはまた人々がエネルギッシュに生きている活気あふれる場所でもある。言い替えれば,歩道上で展開する生存競争の現実は,行政権力の都市計画的視点からは社会的に整序された空間を脅かす病根のように見なされるであろうが,それだけでは終わらない。そこには問われるべき何かが疼いている。それを正当に取り出したい。チェンナイ市の歩道空間は,ベンヤミン的な意味で,不規則で受動的な場所,すなわち敗者の場所として把握できるような典型的事例を提供してくれる。このベンヤミンの視座に学びながら,社会的弱者が展開する歩道上での,一見すると否定的で希望無きものに見える活動のうちに,日常的実践の有する創造性を,あるいはその芽を析出させること,それがここでなされるべきことなのである。


5 弱者の抵抗―聖化という戦術

 上記の目的に向けて,多くの歩道寺院の事例(関根 2002)が実際には踏まえられているが,3 例だけ取りだし具体的な歩道空間での生活実践活動として歩道寺院の建設と維持の様態を紹介しておきたい。


事例1


 Dr. Radhakrishnan Salai とRoyapettah High Road との交差点に近いところの東向きに位置する Sakthi Muniswarar 寺院。この寺院は経年的に見ていて,毎年某かの発展・変化が見られ,小祠から石造の寺院への変貌を見定めるよい例を提供してくれている。もともと神像が交差点の歩道の端にあったので,もっと良い場所にとすこし内側の今の所に2人の男性が据えなおした。しかし,この神は非常に力が強いので,2人とも神像に触ったために入院するほど体調を悪くした。2人はその後しばらくして治ったが,人々はその神の力に動かされて,祠を立派にし,祀り始めた。神はそれに満足し,その強力な力で人々に利益も大いに与えている。寺院の建物の発展と比例して,歩道が境内に見立てられ,通行人も履き物を脱いで祈るようになる。この寺院も背後に大きな菩提樹を認める。1988年コンクリートの寺院建設,1999年大理石のタイル張 り,2000年ライト付きの看板設置と都市計画の提供の産物である道路の柵を境内を囲うフェンスのように流用,ベルの取り付け,と進んできた。この寺院の発展の基盤に,位置がTNEB(Tamil Nadu Electoricity Board)の入り口の目の前ということで,この組織の支持がある。個人管理で委員会はない。ブラーマン司祭には Tai 月と Adi 月の祭礼の時だけ来てもらっている。


事例2


 Venkatanarayana Road と の 交 差 点 に 近 いAnna Salai に 面 す る Nandanan 地 区 の Nagathamman 寺院は,霊験あらたかな寺院としての評判を確立した有名な「歩道寺院」である。寺院建設者,所有者は近くに住む Vanniar カーストの人である。この寺院の力は,Anna Salai の車線拡張による歩道削減にもかかわらず,この寺院のあるところだけは元の歩道幅を保っていることから推し量れる。人々は車道からこの女神に祈る。Nagathamman は文字通り蛇女神であり,寺院に向かってすぐ左手横に大きな菩提樹の木があって,そこには蟻塚があり蛇(インドコブラ)が棲むという(コブラは実際向かいの養鶏センターからやってくるのではないかと言われる)。木のほぼ東側の根元が祈願の際の正面であり,今も小さい祠がそこに残る。つまり,その根元が神誕生の場所そこに神の気配が感じられ,やがて現在のような小さいが立派な大理石張りの寺院がその前に建てられるまでに発達した。そこで働く雇われブラーマン司祭の話では,この寺院は60年くらい前からあるという。私の友人の記憶でも40年は裕に遡れるという。この寺院の近くに,50年も前から大きなスラムがあること,映画関係者の住宅があること,電話局があることなどがあって,安定した信者基盤を得る好条件の場所である。そのことは今日までの寺院発展にとって大きな力だったし,実際小さいながら,由緒ある「歩道寺院」にすでになっている。実際,市内でも有名な「歩道寺院」なので,徒歩で,自転車で,オートバイで,車でと広範囲から信者が訪れる。話を聞いた人の中に,新興宗教パラーシャクティ運動で有名なメールマルワットゥール(チェンナイ市の南西80キロメートル)で知り合った人にこの寺院の威力を教えられて初めて来たという信者がいた。このような現世の悩みをかかえた信仰者同士がかわす口コミが信者拡大の強力なメディアになっている。こうして,この小さな寺院でさえも今日では近隣地域だけでなく,流動拡大する広範な社会空間からの支持を集めることによって成立している様子がみてとれる。参拝者は見ていると,礼拝のほとんどの時間を菩提樹の根元での誓願行為(糸を9回巻き付けたり,卵を割らずに置いたり……)に使われ,総仕上げに寺院の女神に祈り,そこでブラーマン司祭から聖灰とシンドゥール(紅)をいただく。この寺院は1998年から行政(HR&CE 局)の管理下に入っており,合法的に賽銭箱を置けるようになった。寺院の看板には局任命の寺院執行官の名が記されている。早朝と夕方の2回のプージャーが雇われブラーマン司祭によって行われている。金曜日,満月の日は混み合う。特に女神であるからAdi 月(8月ころ)は誓願のためにとりわけ多くの女性参拝者が訪れる。こんな時は,花売り,供物売りも大々的に店開きをする。


事例3


 Royapettah Hospital に近い交差点の角に造られた東向きのYoga Muniswarar 寺院。主祭神は悪霊の首領 Muni がシヴァ神に同一化した両義性を漂わせるものである。この寺院が建つT. T. K. Road 沿いの歩道は幅が4m を超えるほど広く,この不法占拠の歩道を寺院の境内として占有して,少なくとも4世代が経過した。現在ここに住みこの寺院を管理しているのは60歳代の未亡人で,彼女の父親から寺院を引き継いだという。彼女自身この歩道で産まれ,結婚し2人の息子と2人の娘をもうけた。その子供たちも皆結婚し,全部で8人の孫がいる。皆ここで暮らしている。次男はアル中で,私が昼間訪ねたときも小屋の中で泥酔状態で横たわっていた。次男の妻は夫が酒をやめないことを苦にして2001年の始めに自殺してしまった。歩道上の青いビニールシート掛けの小屋部分は市当局の圧力で以前より縮小させられた。そして,歩道からの退去を求められているが,訴訟を起こして闘っている。そういう場合も,「歩道寺院」としてはすでに十分発達して,人々の信仰を集めているこの寺院の存在が闘争の支えである。この3世代が一緒に暮らす家族は,市からの追い立てや貧しさからの悲惨を抱えながらも肩を寄せ合って生きている。その点で,ハウスレスであるがホームレスとは言えないという表現も可能だろう。孫たちはこの歩道のホームから学校に通っている。リキシャを引いたり,イスを編んだり,細々といろいろなことをして生き抜いてきた。その生活の基盤にいつもこの寺院があり続けた。寺院は宗教施設であるが,それがまた経済的基盤にもなっている。この寺院の場所の良さは大病院の近くという点にある。インタビューの間にも綺麗に着飾った都会の中間層の娘さんたちなどがお参りに来ていた。日常的に入る賽銭と年祭の時に近隣から集める献金は寺院が産み出す収入である。それはもちろん祭礼の挙行,寺院の維持管理に使うが,それだけでなく生活の糧にもなってきた。寺院は軌道に乗って評判が良くなれば,実際かなりの安定した収入を産むことになるので,大きな財産価値をもつようになる。そのため維持できないことになった場合などは,小さい「歩道寺院」でも何千ルピーかで新しい管理者へと売買される不動産になる。それだけではない。寺院は激しい雨の時などは逃げ込む場所にもなる。多様な意味で,この寺院は家族にとってハウスの役割を担っている。いずれにせよ,寺院の存在を介して,この社会の宗教ハビトゥスと人々の現世の生の苦悩に支えられつつ,この家族の孤立無援の闘いは続く。


6 結び

 これらの事例が明確に示すのは,歩道上に招来し顕現させた神の存在が生み出す聖性ないし超自然的な力が,圧倒的に強い世俗権力をもって追い立てにかかる行政への最終的な「弱者の武器」として流用されている模様である。もちろんこの歩道寺院にみる聖化の効果は,この対象社会に共有された宗教ハビトゥスという前提的土壌において可能になることである。この宗教的ユートピアがヘテロトピアを可能にしたのである(関根 2004)。
 都市社会学者イライジャ・アンダーソンは,アメリカ合衆国の大都市におけるストリート模様を詳細に記述し深く考察した上で,人々のストリートを生き抜く戦術的な知識をストリート・ウィスダムとして明らかにした(Anderson 1990)。このストリート・ウィスダムとは,一般のホーム市民世界で基準とされている「良識のコード」とは対照をなすところの「暴力のコード」に基礎づけられているとアンダーソンは喝破する。アンダーソンは,これまでの通常の大都市(メトロポリタン・シティ)が「グローバル・シティ」へと変貌する時期に綿密な調査を実施し,都市のCBDのすぐ外側に位置する労働者階層の住居地区がジェントリフィケーションによって変異する移行の前後を比較する形でそこでのストリート状況の変貌を描き出したのであった。
 インドとアメリカ合衆国とでは社会文化的状況や人々のハビトゥスに大きな相違があるけれど,アンダーソンのこのような研究とこの小論での議論にはどちらもグローバル化の影響下での変化であるという並行現象であるとの共通点が見いだせる。そこには,外部性・他性を勘案したストリート文化ないしストリート・ウィスダムが以前よりも社会の中で遙かに重要度を増してきているという同時代現象が認められる。アメリカの大都市のストリートが暴力という他性を,インドの都市ストリートでは神性という他性を繰り込んだ知恵が活用されている。実際,外部への逸脱スタイルを信条にするストリト・ファッションは現在のファッション業界でニューファッションの創出に不可欠の重要性を持つし,事実パリやニューヨークでのメジャー・コレクションに取り込まれ時代を牽引している。このように,今日では,ストリートで展開する生存競争の為の創造性(他性の取り込み)が,逆説的にきわめて重要な意味を持ってきている。この実験的な比較の視野から受け取れる示唆とはそういうことである。その示唆の中では,インドの歩道寺院をめぐる実践も,現代社会が同時代的に経験しているストリート・ウィスダムの重要性の高まりのまた 1 つの展開であったということである。
 そのような広い視野に立つとき,歩道にくらす路上生活者,あるいは歩道空間を舞台に展開する絶え間ない生き残り闘争の現実は,むしろ通常のホーム生活者の内部で実は進行しているストリート化現象を先取り的に先鋭的に表現しているものと見なせるのである(関根 2007)。現代を生きる者たちは,ホーム住人であろうが路上生活者であろうが,もはや「ストリート・ウィスダム」に無関心でいられるわけではない。つまり,カステルが述べた意味での「第四世界」(Castells 1998: Ch.2)が第一世界の身近で不可欠な現実の一部にすでになっていることから眼をそらすことはできない。この意味で,グローバル・シティは「デュアル・シティ」(Mollenkopf and Castells 1992)なのである。このように考えてくると,下から生み出される「ストリート・ウィスダム」は,「帝国」的なグローバル化のもたらす流動的で再帰的な世界を生き抜くために,マルティチュードの保持しなければならない重要な知恵であるということになろう。そうであるから,支配イデオロギーの作り出す社会空間の縁辺で,他性とともに生きざるを得なかった時代に培った伝統的な文化「遺産」を流用していくような下からの「翻訳」の創造性に注意を向けることは,これからの社会に向けて可能性を秘めた研究領域であるにちがいない(Duneier 1999)。
 ようやく,聖性とか聖化という概念を再把握できる地点に至った。ここで検討した民族誌的事例は聖なるものという動態的な概念の生成に関して重要な理論的意義を有している。すなわち,支配イデオロギーの作り出す社会空間の縁辺あるいは順法空間と不法空間との境界こそが,聖性を生み出す潜在力を胚胎させているという事実が明らかになる。これは,ヴェイコ・アントネンの宗教へのカテゴリー理論的アプローチの立場に接近するものである(Anttonen 2005)。というのは,そこでは聖なるものという概念が地域トポグラフィーの分野において再考され,認識的カテゴリー化の地図における境界現象として再定義されていることと符合しているからである。私をそのことを以前に垂直的な点の思考として取り出してもいた(関根 1993)。


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