だめ連宣言 神長恒一

 ダメをこじらせてはいませんか?
 ダメと一口に言っても、その内容、程度はいろいろです。
 どうも仕事が続かない、異(同)性にもてない。これといってとりえがない。人とうまくコミュニケーションができない……。ちょっとダメ入っているなというレベルからかなり厳しい状態まで、人生さまざまのダメ模様があります。
 人は多かれ少なかれ、それぞれのダメを抱えながら暮らしているのでしょうが、このダメを恐れるあまりつい力が入りすぎてしまった、そんな場合にえてしてダメをこじらせてしまいます。
 1つには、自分のダメさ加減を過剰に意識し過ぎてしまう場合。「うー、私はダメだ、ダメだ」と思い込み、人と話しができなくなったりします。そして、ますます状況が煮詰まっていってしまうのです。
 もう1つには、自分のダメを直視できないケース。「ダメだけは避けたい」「人からナメられたくない」というプレッシャーからうだつを上げようと思い、えてして一発逆転を狙ってますますダメにはまっていってしまう。
 こんな具合にダメをこじらせてしまった人たちは大勢いると私は思うのですが、にもかかわらずダメな人というのはえてして1人で部屋に閉じ込もりがちです。
 しかし、ダメな人こそ集うことが重要なのではないでしょうか?
 いたずらにうだつを上げようとするよりも、脱力してまったりと人生についてトークする。「人生は個人の選択の問題である言われているが、過酷な状況を問題として語り合ったり、なんとか変わらないものかと試みるのは可能だ」(ペペ)というわけです。
 ダメな人同士が集まってトークすれば、自分のダメを対象化するきっかけにもなるでしょうし、現代社会の問題が浮き彫りにされ、すわ変革の糸口が見出せるということにもなりかねない。
 だめ連では、ダメな人が集まって、ダメをこじらせないようにいろいろ作戦を練ったり、ダメな人でもダメな人なりに生きていけるようなネットワーク作りを目指しています。
 新輿宗教、自己開発セミナー、蒸発、自殺……ダメをこじらせた人たちの選択肢がこれらのものばかりではキビシすぎます。はたして、ダメな私ばかりが悪いのだろうか。もう少し、他のオルタナティヴな方法を模索してみることは有効なのではないだろうか。
 正直言ってダメ連は、ダメをこじらせた人に対して「これで大方解決だ」というようなものはなにもありませんし、そのような関係を期待されても困ります。だめ連が言うことは「交流しましょう。トークしましょう」ということぐらいなのです。
 「ダメ」を手がかりにトークしていくなかで、人生や現代社会に食い込んでいく。そんなふうに人と議論を交わしながら、あれやこれやとものを考えながら生きていく姿勢こそが、「解決のない解決策」なのかもしれません。


 ところで、だめ連かいわいでは最近「だめ連ダメじゃない説」というのがあります。(笑)
 これは、「だめ連はダメな人の集まりって聞いているけど、だめ連の人たちってちっともダメじゃないわ」というようなものです。私にしても、「神長さんってダメじゃないじゃん。優秀だよ」と言われることもしばしばです(実はけっこう、これが私は嬉しいのですが)。
 実際、本当にダメだったら、だめ連とか言ってる場合じゃないのかもしれません。
 しかし、あんまりダメじゃない人にとっても「ダメ問題」というのは重要なのだと私は思います。
 ほとんど語られることがないように思うのですが、実は私たちの人生において、「ダメな奴にはなりたくない」とか「ハクをつけたい」といった判断が、最初の1歩として大きくあるのではないでしょうか?
 私はここをラジカルにとらえかえしたい。
 例えば就職です。
 どうして人は就職するのでしょうか? それはもちろん正社員になったほうが制度上いろいろ都合のよいことが多い(ナンセンス!)という問題とリンクして、「就職すると決めているから就職する」ということが大きいと思えるのです。
 就職すると決めているから就職する。つまり30すぎて仕事もせずに毎日ブラブラしているというような人生は、最初から選択肢のうちに入っていないということです。
 しかしそのことを、どうしてそうなんだろうとよくよく考えてみると、やはり「ダメな人だとの烙印を押されたくない」ということが大きいように思います。確かに就職しないで生きることと悲惨な人生がセットになって語られることがたいへん多い気がしますが、現実はそうとも限りません。
 仮に就職するとしても、就職すると決めているから就職するのではなく、就職する人生、しない人生どっちも選びうるというなかから就職を選ぶ、という方が面白い(誤解がないように言っときますが、私は就職したらダメと言っているのではありません)。
 これはもちろん、就職に限らず、他のことにもあてはまると思います。
 実は「ハク」や「うだつ」といったものが私たちの人生を大きく限定していて、私たちは想像力や実験精神というものを失いつつあるのではないでしょうか? 「他人と同じ生き方」や「人より優秀な自分」なんて人生ではあまりに寂しすぎるというものです。
 たった1回きりの人生なのですから、「身捨つるほどの祖国」もなければうだつもありません。ハクを捨てて、当たり前だと思い込んでいることを疑ってみる。そんな生き方からこそ何かが起こりうるのではないでしょうか。


 だめ連を名乗っているとたまに、「自分のことをダメなんて言う奴は本当にダメだ」などと言われることがあります。(笑)
 しかし、ここでダメ=オルタナティヴと考えてみてはどうでしょう?
 だめ連もオルタナティヴな人生を模索する人々のつながりと前向きに考えてみると(オルタナティヴ連)、多少勇ましく見えてくるではありませんか? さらにはこのようなグループがあちらこちらにできてきたらと想像すると面白いことになりそうだという気がしてくるのです。
 まあしかし、じゃあ実際にだめ連は前向きに活動しているのか? どんなことをやっているのか? ときかれると口ごもらざるをえません。たいしたことはやっていないのですから。
 だめ連のメインの活動といえば交流とトーク(笑)、それとたまのイベントぐらいです。
 その交流とトークにしてもだめ連のメンバー間で一致した明確な政治的方針があるわけでもない。ただおのおののメンバーが、それぞれの「野望」(笑)を胸にだめ連に参加しているというありさまです(もちろん、とにかく集まればなんでもいいのかという問題もあります)。
 例えばこのマニフェストにしたって、正確には私個人の「だめ連宣言」です。実際にはメンバーの数だけ「だめ連宣言」があると思いますし、その方が面白い。まあ、そもそもマニフェストなんて銘打つ必要もありません(もちろん半ばギャグでつけているのですが)。
 話が少しそれてしまったようなので戻しますが、要するにだめ連の活動といえば、交流、トークぐらいのものです。
 しかし、人に話しかけることがダサいとされている時代(?)こそ、人と積極的に関係を持とうとする愚直な姿勢が重要なのではと私は考えるのです。それも教条的な、あるいは自閉した一方通行的なトーク(直流)ではなくて、お互いが変わっていくようなトーク、そんなトークの中から想像力や批評精神が生まれてくるのではないか。ことばや思想が起こってくるのではないか。退屈な日常から人生を奪い返す手段となりうるのではないでしょうか。
 このあいだ、独り暮らしのアパートでテレビをつけていたら、
 「もうヤだ、こんな生活!」
 「じゃあ、どんな生活がいいの?」
 というコマーシャルが流れてきました。
 私なら、交流生活をおすすめしたい。
 昨日はあっちのイベント、今日はこっちのイベントと出かけていっては人に話しかけ、出会いとトークが絶えない。そんな暮らしもなかなか痛快なものではないですか。
 私は、そんな日々のトークや別れと出会いの繰り返しのなかに、人生や変革の手応えをアツく感じているのです。

 ということで要するに、私たちと交流して下さい! トークしましょう(もちろん、ダメな人でもダメじゃない人でもかまいません。そもそもダメな人、えてして交流が苦手という問題もありますが、まったりと交流できればさいわいです)。

 ヨロシク! しかし、あんまり連絡が殺到すると対応しきれないかもしれません。そのときはすいません。多分ないとは思いますが(笑)。