新宿人肉工場の聖霊リアリズム シンポジウム(2005・10・8)

ダンボール村とダンボールハウス絵画解説<省略>

池上:今、武さんが言われたのは今から10年前の話です。さっき見ていただいたように、ホームレスの方たちのダンボールハウスに絵が描いてある。これは美術史上の一大快挙なのか、それとも単なる装飾なのか、今からどう考えたらいいだろうということがありまして、当の中心人物である武さん達が立ち上がり、ダンボール絵画研究会というものを立ち上げました。

なぜ新宿だったのか。
当時のホームレスの状況、周りの支援者達のこと、95年とはどういう時代だったのか。
都市と運動とアートという視点で今日の話は進めて行きたいと思います
最初に新宿在住・新宿の思想家である平井玄さんにお話を聞いてみたいと思います。

平井:なぜか新宿の思想家と呼ばれています。生まれたのは新宿の2丁目で、ずっと新宿に住んでいます。この街で起きたことはここ半世紀ぐらいのこの国の歴史においても面白いことがたくさんあったと思います。自分は音楽について書いたり、雑誌をやったりということを70年代中頃からしていて、そういう活動をしながら、同時に高校生ぐらいから、68年に高校に入ったが、音楽と社会的な動きの接点で考えたり動いたりしていました。武くんの絵を発見したのは、山谷での日雇い労働者の運動に70年代終わりから80年代に関わっていて映画の制作などをやっていた時のこと。その流れの中で山谷の人達が新宿のホームレスに関わり始めて、「変な絵を描いているやつがいるぞ」という噂を聞いて見に行ったのがきっかけでした。それ以来武くんとは付き合いがあって、ずっと気になっていたのは、「あの面白さはいったい何だったんだろう?」ということ。みんな当惑しつつ、最初にあの絵が出現したときは、通行人も驚いたかもしれないけど、ホームレスの人達も驚いただろう。僕らのような周りで見てた人間ですらも驚いていた。それからずっとそのこだわりが消えないという感じです。

話の前に、TV番組の映像を見てもらいたい。 70年にNHKが制作した「ドキュメンタリー新宿」というもので、これは非常に面白く、68年の新宿騒乱事件、そして芝居や音楽、学生運動が巻き起こって、フーテンなども出現した。それらが警察の力で徹底的に鎮圧されて行った翌日のような決定的な映像です。

[映像]

本当はこの何倍かある映像で、わかりにくかったと思うので解説します。最初に出てきた柄の悪い白いスーツを着たおじさんはオヅキノスケという人で、アルタ前あたりに闇市を作った張本人でヤクザの親分です。戦後文化史みたいな本を読むとよくわかると思いますが、新宿ではそういう闇の世界の人達が仕切ってマーケットを作っていました。70年代当時にはすっかり引退して、大豪邸を箱根かどこかに構え、そこで自叙伝を綴っているという話です。そこから始まって、新宿西口では69年頃、毎週土曜の夜には集まってギターを弾いて、ベトナム反戦などのフォーク集会が続けられました。最初はそれほど警察の介入はありませんでしたが、最後には広場が通路になり、「立ち止まってはいけません」というような無理な規制がなされ、以後30年間ぐらいはずっと通路のままです。これはNHKが制作しているのでわりあい控えめに、ほのめかすという感じで、はっきりと警察の介入の非を訴えるということはしていません。ですが、画面と色んな人のコメントを追っていくとどうしてもそういうふうに(警察の非を訴えるような形に)読めてしまいます。青山に事務所を構えるサングラスをかけたデザイナーがでてきましたが、あの人は西口全体の再開発計画をデザインした建築デザイナーです。同時に万博の三井パビリオンを作った人でもあります。音声がはっきりしないのでよく分かりませんが、彼は微妙な言い方をずっとしています。「自分は広場を作れとは言われなかった。とにかく人の流れをどうやってコントロールするか、うまく流していくかだけを考えろ」みたいなことを言われてきたんだ、と。だが、それに対してどうもイヤだなという気持ちを彼自身はずっと持っている。ルネサンスとか西欧の都市の広場はどういう役割を果たしてきたのかというと、例えばそこが王のための広場として作られたにも関わらず、民衆が集まって革命が起こるような場所になったり、そういう歴史があるんだということを言っていて、それは結局民衆がつくりだすしかないんだみたいなことを半分は諦めと、立場上は言えないし、自分としてはそういうことがあるだろうなーみたいな、つまり西口フォークゲリラの事件だとか、自分が作った、人を機械のように流れさせるためだけの場所がそういうふうに使われてくるのもしょうがないか、みたいなことを奥歯にモノが挟まったみたいに言うんだけど、この当時羽仁五郎さんという歴史家が生きていて、「都市の論理」という本が確か68年くらいの大ベストセラーになりました。(そういう本がベストセラーになるというのは)今ではちょっと信じられないが、ヨーロッパにおける都市が、民衆の集まる場所として、ヨーロッパの民衆革命みたいなものにおいて舞台になってきたということをずっと追ったもので、彼はルネッサンス研究で戦前から名を成した歴史家でしたが、そういう方向性でヨーロッパ文明の中の民衆史みたいなものを、都市を廻って追った本がベストセラーになりました。この番組はおそらくそういったところからの影響を受けて作られているんだと思います。つまり都市に焦点を当てている、ということです。しかし例えばフォークゲリラの人達が追われた後にステージでひとりで喋っているシーン、あれはフォークゲリラの弾圧に抗議する支援集会で、僕はそれはやっていないと思うけど、その支援集会の様子を流して、同時に西口広場の空調や給水設備を扱っている、僕が知らない地下の更に地下にあるようなインフラを担っている労働者の姿があったりして、結構抽象的なつくりの、単純に表面だけ見た作品ではない、なかなかよくできた作品だと思います。最後に出てくるのは、多分小滝橋方向に少し行った北新宿のあたり、大久保と新宿の間あたりの路地の、戦争中に防空壕というアメリカ軍からの爆撃から逃れるためにつくった竪穴住居みたいなもので、その残ったところにそのまま25年くらい住んでいた90歳の老婆と60歳の息子の話が出てきます。その話と紀伊国屋前あたりで??????と中核派の人達がヘルメットを被った姿とダブらせながら、あるいはフォークゲリラの人達の「tomorrow」を歌う姿を重ねていく。あの90歳の老婆の住んでいる防空壕跡は半地下なわけで、それが今日の話しのテーマとなっている西口地下広場のダンボールハウスに住んでいた人達だとかいろんなものに重なってくると思います。その25年後には西口地下広場でダンボールハウスを作ってなんとか生きるために住もうとした人が出てきて、さらにそこに絵を描く人間達が出てくることになろうとは誰も考えたことがなかった時でしたが、しかし、これはある種そういうものを予感させるような映像だと思います。最初と最後に青森の90歳の老婆の田舎の村祭りの映像が流れてきて、それによって最初と最後が締めくくられ、つまり地方から出てきた人達が農村を離れて都市に集まっていくと、そこで無理やり人が都市で流されて働かされて使われて死んでいく。でもどうしてだか人が集まって抵抗する人間達が現れていろんなことが起こっていく。そういうちょっと寓話みたいなおとぎばなしみたいなのに最初と最後はくくられる、なかなかよくできた作品です。

ここからが本題です。僕が武くんたちの描いたダンボールの絵を見た時に思ったことはいくつかあるんですが、最初はとにかくやはりよく分からない。なんでこういうことができるのか。山谷とかそういうところで労働者と付き合いながら多少の活動をしたことがある人達が見ると面食らっちゃう。大丈夫なのか、と。こちらは警察といろいろやりあってきた経験もあるし、ましては68年69年ごろには今のビデオにでてきたようなことも経験しているし、警察の介入とか、中に住んでいる人達にとってはどうなのか、逆に目だってしまって余計に弾圧を招くのではないかとか。いろんな余計なことを考えてしまうが、絵そのものにわけのわからない揺さぶりをかけられてしまった。僕が最初に出会ったのは、いわゆるドラ絵みたいなもの、幕末とか明治とかに見世物小屋に描かれた絵を思い出したり、そういう延長線上にあると思うけど、僕は新宿2丁目に生まれて歌舞伎町やなんかで仕事をするような実家で育ったもので、歌舞伎町あたりのキャバレーの壁に描かれている絵とか映画館の絵とかポスターとか手書きで描かれたでかい絵とか、そういういかがわしい絵を思い出した。花園神社で毎年暮れになると行われる見世物小屋があって、これもやっぱり江戸時代からの流れでそういうおどろおどろしい絵が描かれている。そういったものを連想しました。人はそういうことが起こると必ずどこかのカテゴリーに当てはめないと気が済まないところがあって、例えばシュールレアリスムだとか、ある程度文化的教養のある人間ほどどこかに当てはめたがるが、どこにも当てはまらない。ところが当てはまらないと言うのが実に不安で、だけど気になってしょうがない。それが日に日に絵が増えていく。新宿に住んでいるのでときどきよく通りかかるわけで、もちろんそこで起きている、ホームレスの人達の生きていく為のいろんな工夫とか、警察との争いとかひどい嫌がらせのこととかそういうことはよく知っているし、そのために僕の友人たちも一生懸命努力しているから、内部事情は他の通行人の人よりも良く知っている。しかしやっぱりあの絵に混乱させられるということはやはり変わらない。それはどこのカテゴリーにも収まりきらないし、にもかかわらずどこかでよくわからない神経を刺激されつづけるということがずっと残っていて、それがいろんなことを書かせたり喋らせたりしているようなことが言えるのではないかと思う。今日話をしたいのは、新宿の街で起こった事柄を見ながら、僕なりに、新宿とは一種のでっかい工場のひとつの大きなポイントというか重要な合流点である、みたいな話をしたいと思います。見てもらったビデオでは西口広場を、人間たちが集まって討論したりする場所ではなく、ただの機械としてつくったんだと、それをニコリともしないで言う。しょうがない、みたいな感じで。つまり最初から人を都心部(当時の都市とはは千代田区や中央区あたり)、へ人を流し込んでいくためのターミナル駅が新宿・渋谷・池袋あたりにだんだん60年代くらいにできてきて郊外に人が住んでいく時代だった。そのターミナル駅の周辺にはレストラン、劇場、クラブに飲み屋とかSEX産業などの娯楽施設ができて、そんな中でも最大のものが新宿だった。そしてそのもっと外側の関東地方の海沿いとか川沿いとか飛行機の止まるエアポートのそばとかに工場とか資源を集める倉庫がいっぱいできた。そしてやはりそこへ人を流していく大きなポイントが新宿だった。作る側にとっても新宿と言うか都市というのは工場の中の大きな通路みたいなものと考えられていたと思う。その“工場“というのを1つのキーワードとして考えていきたい。混乱がないように前提として言っておくが、工場と言うよりはファクトリーといったほうが分かりやすいかもしれないが、必ずしも実際に、つまり19世紀くらいに大きくなっていった巨大な、屋根で囲われた生産現場、流れ作業の生産現場みたいなのがイメージとして強いと思うが、そうではない。ここで示唆する”工場“の中には食堂があるし、社宅やレクレーション施設、通勤している交通ラインがあって、あるいは管理のためのホワイトカラーのいるオフィスなどもあって営業や総務やそういったものもある。生産と流通と消費のシステム全体が都市に配置されている、そういった全体を”工場“と呼んでいる。そんな”工場“の中で起きた事件として考えていきたい。その工場の中では、最近だと、カラーリングとか心理学的なもの(目に優しい色で統一したりなど)とか随分でてきているが、それとは逆に、生産を別の方向に向けていくためにある、工場の中のアートとして武くんたちのダンボールアートを考えるための大枠がある。
 その前に補助線として歴史的背景を説明したい。

ホワイトボード
1) 1952年5月30日
2) 1960〜64年
3) 1966〜75年
4) 1995〜

1)1952年5月30日この日は都市の歴史とか社会史とかそういうのには全く記録されていない日である。新宿西口に地下街ができていない時代に、そこは改札口も非常に情けない2階建ての小さな駅舎で、田舎の駅みたいだったがただ、往来する人はすごく多かった。そこで共産党のある活動家が演説を始めて、人が沢山集まり暴動となった。それは新宿で起こった戦後初めての暴動だった。戦後46年から47年にかけて、新橋や渋谷に闇市ができた。それは敗戦によって生産や流通がぼろぼろになったことが原因で起こった。そこにはヤクザ組織などの介入があった。さっきの(新宿の)オヅキノスケもそんなヤクザの元占めの1人である。新橋・渋谷では、当時第三国人といわれた(日本に連れてこられた)中国人や朝鮮・台湾人が闇市を仕切って経済活動の拠点をつくっていた。その拠点を警察権力とヤクザがつぶそうとしていた。そこで46〜47年にかけて大きな騒動が起きた。なぜその辺だったかというと、東京港(湾岸)に近いからである。新橋は日本で最初に鉄道駅のできたところだし、そのあたりで闇市暴動みたいなのが何度も起こっている。さらにそのもうちょっと南の京浜工業地帯、東京南部と言われる品川区・大田区・川崎市や横浜市のあたり一帯常に労働運動の、しかも中小の工場のストライキがしょっちゅう行われた。さらにもっと東京の中心部を越えて北に行くと、板橋区・北区・江戸川区・台東区・荒川区あたりでも中小工場が多くストライキが行われた。そういう戦後の混乱期、逆に人々の側からすると、言いたいことが言えず押さえつけられている時代の46年か47年頃、221ストという大きなゼネストを起こそうとして中止させられるという事件がおきた。そういうことがいったん収まっていって、朝鮮戦争で多少儲ける、つまり朝鮮の人達の血であがなわれて日本の経済が発展していくと言う時代でもあった。その52年5月30日に湾岸に近い、南でも北の工場地帯でもない新宿の西口で、そこは労働者たちが通過するターミナル駅であるところで、たぶん戦後最初の新宿暴動が起こった。これには、もう亡くなってしまった竹中ドウサンというジャーナリストであり芸能評論家であった人が大きく関与している。多分記録を残しているのは彼しかいないのではないか。このときすでに、新宿というのは、大工場がすぐ近くにあったりしない、川や港も近くにない、という流通と人とモノの物流の交差点であり、そんな場所で事件は起きた。新宿は直接ものを生産するのではなくサービス労働などのひとつの頂点であったといえるのではないか。これは大きなポイントだ。

2)1960〜64年 60年は60年安保闘争、戦後最大の大衆運動があって、日米安保条約改定に反対する人達が国会を取り巻いた。それから一旦押さえつけられて、条約は通された。そのあとしばらく、ネオダダという日本におけるダダイズムの運動を始めるアーティストが出てきた。それから高松次郎、赤瀬川原平中西夏之の3人のアーティストが中心となってハイ・レッド・センターができた。それが64年くらい。日本における前衛芸術運動が都市の中心部で社会的運動に出会うのはこのときが初めてだった。もちろんそれまでにも労働運動や社会運動に参加しているアーティストはたくさんいたが、ネオ・ダダやハイ・レッド・センターの60年代前半という時代は、都市の中心部で前衛的な芸術家達が直接社会運動に関わって、しかもアーティストとして関わるだけではなくアートそのものの中に社会が食い込んでいるというか、社会の中で成立するアートのあり方を模索し始めていた。ただし、彼らの動きと言うのは銀座の画廊とかあるいは九州・福岡の画廊とかが活動拠点だった。つまり、まだ日本の美術界が産業機構の中心部である銀座だったり、丸の内だったり霞ヶ関だったりあるいは地方都市だったら福岡だったりするときだった。むしろこれ以降、60年代後半になると、新宿などのような都市の周辺部、つまり郊外の住宅地が膨張して東京自体が猛烈に膨張しだす。都心部自体も拡大していくそのちょっと前の時期、そのくらいにネオ・ダダ、ハイ・レッド・センターの運動が起こっている。実は1964年に、開高健さんという作家が『ずばり東京』というルポ・ルタージュを週間朝日に連載し始める。この中に新宿をルポした記事がある。東京の裏側の世界に開高健という作家が潜入するというなかなか面白いものだ。最近角田光代さんという直木賞作家が再評価しているので、多分文庫本として復活されるのではないかと思う。この中で新宿について書かれた部分をかいつまんでご紹介します。当時の新宿は、とんかつ屋と朝鮮料理屋が多かったと言う。もうひとつは連れ込み旅館、ラブホテルの類。「新宿を自動車のエンジンにたとえるなら、オイルタンクをとんかつや焼肉で満タンにすると、たちまち顔がテラテラしてきて・・・・旅館に入りドアを閉めるととたんに発火して、ピストンが働き始める。1つ目小僧がでてきてえっさっさえっさっさ・・・・・」というように、自動車のエンジンを性的な比喩として使ったりして、当時のエネルギッシュな、人がたくさん集まってきて猛烈に消費しては吐き出してはさらに生産へ向かっていく姿を描写し、そういう基地としての、機械としての新宿、工場としての新宿を卓抜な文章で描きだしている。またこのルポにおいては、新宿という街を東京の中でも最も白熱した文章で表現している。明かに機械を新宿として表現しており、すでにそういった比喩が成立していた。60年代にはネオ・ダダやハイ・レッド・センターや銀座の画廊、ハプニングアートがあった。奇天烈な格好をして銀座の路上に寝転がる、あるいは東京都衛生局みたいな白衣を着て町中、たとえば歩道の隅っこに立って砂を吐き出す清掃のようなことをすると、人は協力して道を空けたりそそくさとその空間を空けたりする。そうやって都市の管理と公共空間のありかたなどを炙り出した集団アートみたいなものが出現する。しかしそれはまだ銀座や中央区千代田区など都心部だった。そこから爆発的に新宿や渋谷のような地域へ移っていく。

3) 1966〜75年ここら辺から、先ほどのビデオの映像の時代になっていく。あの映像は1970年に弾圧された後の新宿の模様だった。

[地図の投影]

これから見てもらう地図は僕がその当時行ったことのある音楽スポット、劇場、本屋やフーテンの溜まり場、日雇い労働者のいた地区などを書き込んだものです。ここは私的に行った場所だが、その数倍もの文化的スポットや本屋などが当時はたくさんあった。つまり、この当時すでに新宿は人を集めて流すターミナルではなく、それ自体が再生産の工場みたいな、つまり人間をもう一度明日の労働へ駆り立てるための巨大な文化工場のようだった。その頂点がたぶん66年から75年ぐらいじゃないかと思う。普通、学生運動のピークというのは67年くらいから72年くらいの連合赤軍事件あたりまでと言われているが、実はそれ以前のフーテンといわれるような、地方から出てきて、元・工場や中小の商店や大学に行こうとして予備校に通っていたり、ドロップ・アウトしたような人達が東京の浮浪人として遊民と化し集まり始めたのが66年くらいのこと。連合赤軍事件の72年の後の数年間はそんな熱気が残っていて、75年くらいまでは確実にあったと思う。このぐらいの10年くらいは新宿は巨大な文化工場で、開高健が言うように性のエネルギーとSEXを入力して吐き出すような、そしてそれがさらに爆発的に膨張してくような時代だった。寺山修司が当時描いた芝居とか詩とか小説みたいなものは明らかに開高健が描いたプリミティブなというか野蛮なというか下世話なというかスケベなエネルギーが文化生産に転換していく瞬間みたいなものだ。『あぁ荒野』という寺山修司の唯一の長編作品があるが、それを読むとエロ映画館のチラシとアートシアターの映画広告と新左翼政治組織のポスターと、さらにいかがわしいSEX相談のビラなどを並んでいる電柱などが描かれている。それはまさにその時代の混濁したカオスのエネルギーが一番あった時代の新宿の様子であった。それは単に文化と政治の出会いというか僥倖の瞬間と捉えるよりはむしろ、先ほどから言っているように、もっと大きな意味での経済全体での流通と生産と捉えるべきではないかとここ数年ずっと思っている。

4) 1995〜 ここからやっと武君たちの話になる。武君たちの絵を語るための補助線としてデータをいくつか用意した。1986年に埼京線が新宿を通る。1996年に恵比寿。その前に渋谷も通るようになっている。こうしてようやく埼玉県のかなり北の方から新宿・渋谷にストレートにいけるようになるのは80年代後半から90年代のこと。携帯電話のサービスが始まるのは1987年。1995年にPHS、1999年にI−mode。今のように電車の中で漫画ではなく携帯電話をみんなが持っているような時代ではなかった。この頃モバイルコンピューティングが始まり、1990年からカーナビが発売されるが、1995年頃には大して売れいなかった。1991年に都庁が新宿に移転。そういう都市のインフラが大きな建築物をつくる、道路をつくるのではなく、次第に情報や文化設備の構築へと移行していき、それは90年代を通じて行われることになる。その矢先にダンボール村が新宿西口地下に現れる。1995年に、当時まだ存在した日経連という経済団体が『新時代の日本的経営』というレポートを出した。それは経営者の方々のためのガイドラインで、現在小泉さんが推進しているような、どんどん自分のために投資して、働いて、稼げるだけ稼いで、そうでない人はどんどん貧しくなっていって下さいみたいなシステムの始まりのガイドラインを示したようなものだった。またそれはこれまでの会社共同体的な日本的経営から少しずつずらしていこういというようなものでもあった。同時に、都心5区の人口がまた増え始める。5区とは、千代田区・中央区・渋谷区・港区・新宿区のこと。それまでは東京都の人口がだんだん郊外に流出し減って行っていたがどこかでそれは逆転して郊外への流出が止まり、逆に都内の人口が増えていった。2000年くらいから東京は23区全体で人口が増えている。60年代の高度成長期には東京で暮らして財を作って郊外へ出て、そこで生まれた人達がまた都内へ戻っている。10代20代は都心のワンルームマンションに、お金のある人達(ITエリートとか)は超高層マンションの20階とかに暮らしている。そういう上と下の二重の層が都心部に帰りだしている。ビデオに出てきたように、西口広場ではかつて警察と当時のフォーク集会などが行われていたが、その地下では空調の設備を担っている人達がいて、チャップリンの『モダンタイムス』的な地下の世界にいるような状況だった。実は95年ころも同じことがおこったのではないか。もう1点付け加える点として、むしろ95年以降数年にわたって起こってきているのは、コンビニのPOSシステムで、雨の日の売り上げ傾向とかを分析し予測して仕入れを変更したりするもので、そういった流通の変化が90年代には発展した。これは日本でいち早く始まったものであると思われる。他に面白いと思ったのは、原宿・自由が丘などのようなファッション・スポットに監視カメラが設置され、企業がマーケティングのために使うようになったこと。ファッションの傾向などを勝手にモニタリングして、データを分析、アパレル産業に売るということが始まった。それは新しいファッションのトレンドを作り出したりというようなマーケティングリサーチシステムである。さらにもう1つは、これはもっとすごいが、ネット上で普段交わされている掲示板上の言葉をランダムにリサーチしてどのような単語がネットで多く交わされているのか、もしくは文章の傾向やあるいは感覚などを抽出してそれを企業に売るようなマーケティングも現れた。僕はこういうことにも興味を持っていて、先ほどから言っているように、新宿のように消費や流通の場所であるところが実はもう、資本主義が相当発達していて、高度成長期にはでっかい工場の一部であってその中のレクレーション施設であり購買店になっている。そういうふうに考えた方がいいだろう。それがさらにもっと進んで、ただ街を歩いているだけで、ネット上でチャットしているだけで、あるいは家で遊んでいると思っていても、サボっているだけでもそれはある種の労働になっている。それぐらい資本主義のシステムはドラスティックに、リアルに、ものすごい活力であると捉えないことには、そういうシステムに何ら対抗できない。なにかこう、どっか逃げ場所がそんなに簡単に見つかると思っちゃいけないとか、そういうギリギリのところで考えたほうがいいなと思って、そう簡単に文化とかって言葉を使うわけにはいかないと僕は思っているわけです。まあそれは置いておいて、そこから武君の作品を見たときのわけの分からない感じを考えたいなーとなるわけですね。90年代に西口広場を通ってるような人たちは多分学歴相当高かったはずです。勝手な予想ですが。その連中ってのいうは多少モダンアートの見方などは教養として知っていてパルコ的な文化を吸収して育っているんです。営業系サラリーマンや体育会系サラリーマンがそういうことに詳しいかは別として、そういう人達は懸命に何かにカテゴライズして納得しようとしてたり、くだらない、とかいろんな感情を持ったはずです。この人達は何かに刺激され、でもそれを抑圧しようとしている。見ないようにしている。でもあんなにたくさんダンボールハウスが出てきて、絵が増えたのでは見ざるを得ない状況になり、非常に困惑していた。しかもここでは、モダンアートを美術館へ見に行ってひとときの安らぎを得るようなことが全くできない。そうじゃない、なんだか分からないものに刺激されている。それがものすごいドラスティックなエネルギーが渦巻いている西口広場でわけのわからない感情の流れを生み出している。それがなんだったのかっていうのが最大の関心事で、そういう意味で非常に重要で、東京と言うか新宿という巨大な工場で感情を起こして何か別の生産を始めている。つまりつまりダンボールアートの中で寝てた人達は、寝てても病気をしてても何かを消費している。僕はC型肝炎という病気を持っているんですが、ものすごい量の薬を消費している。月に8万とか。これを僕は労働だと思うんだが、つまりアメリカで作った薬を日本でいち早く認可する。治験をして副作用を充分に検分する時間がないので、副作用を見ながら少しずつ投与していく。それは労働であり、むしろ製薬企業にお金をもらいたいくらいだ。そうやって病人は労働している。介護されている人は介護産業に対して労働している。つまり逆転現象が起きている。それぐらい生産と消費は逆転している。そこから考えるとダンボールハウスに寝てる人達は、お前たちいらない、死んでもいい、と企業から言われたようなもの。でも今はゴミを廃棄する事だってお金がいる。これも消費であり、労働である。ゴミを作り出すことは。だからあそこで寝ていることだって生産であり労働である。何かしら福祉の問題として、つまり福祉産業だって労働。これは池上さんに教えていただいたのだが、山下菊次について。戦後1952年の新宿西口騒乱事件とだいたい同じ頃だと思うが、日本共産党が非常に戦闘的になっていて、朝鮮戦争と共に、日本国内の農村部に入り込んで、この方針が正しかったかとは別として農民たちと一緒に地主と戦うという運動を展開した人がいる。山村工作隊と言うのだが、オゴウチダムを作っているときに、地主宅を襲う事件が起こった。惨殺されて結局活動家は殺されたりしている。山下菊次がその曙村の事件を題材にした作品がある。これは直接居合わせたわけではなく、事件直後に行って取材して、現場の証言を元にして描いた絵。

[スライド参照]

1940年代後半から50年代始めてにかけて戦後の労働運動をテーマにした絵を描いているがその絵に似ているところがある。土俗的であるがシュールレアリスムが明らかに入り込んだところ。当時これはあまりにごちゃごちゃしすぎてると言われたけれども、イブ・タンギーなどのような北欧のシュールレアリストを連想させるような、もっと静謐な空間で形而上学的というか、ダリの描くようなシンボリックなものではなく、ごちゃごちゃしていて爆発的で異種混合なハイブリッドでめちゃくちゃで土俗的。キツネ伝説や血の海や鎌を持ったようなモチーフ。これは池上さんにに教わった後知恵なんですが、もちろん武くんは知ってて描いたわけではないと思うけれども。

:「(この作家や作品のことは)知ってましたが、そういう人達はある政治性の中で描いたのかも知れないけれども、 僕はそれを知らないで描いていた。それをまねしようとは思っていなかった。」

平井:「多分真似できないと思う。そんな風に思ったって、そこ(ダンボールハウス)に住んでいる人がいたりするからあてはめることなんかできない。」

そこから、新宿人肉工場というちょっとセンセーショナルな言い方をしたり、人肉工房なんていう舞踏のグループがかつてあったり、そういう肉体的なものと機械的なものをないまぜにして何か面白い発想を見つけようというのが60年代から70年代くらいはけっこうあった。例えば渋谷がシリコンバレーとか90年代の終わりぐらいから言われ出したような、完全な情報工場化を新宿は今でもしていない。あるいは例えば今は六本木ヒルズみたいなエリートの街とも違う。どんなに情報化してもアジア人の人たちが来ちゃうような、いかがわしさを(新宿は)持っている。依然として肉の滴りのようなものが残らざるを得ない場所。そういうところでの、武くんたちが描いているような精霊みたいなものとか霊感とかは、言葉でも肉体そのものでもない何かに触れようとしていた。

:「多分、95年とかってあたりは身体性が残っていたというか、色んな物事でも同時多発的に、例えば、今日来てくださっている究極さんが関わっているダメ連であるとか岡画廊であるとかそういった身体的な連中っていうのかな、そういう人たちがわーっとでてきたんじゃないかと思う。例えば90年代は、海外でも似たようなことがあったんじゃないかと思う。そこらへんの話に移行して究極さんにも聞きたいと思う。」

究極:「今の山下菊次の絵に関連して言うと、これを見た僕の印象は、西八王子にある病院で精神障害者が毎年やっている展示「”癒し”としての自己表現展」に飾られている絵に似ているというものです。妄想的な感じを受けます。僕自身94年2月17日の新宿西口強制撤去以降、95年に掛けてたびたびそこへ赴いていますが、渋谷原宿いのちと権利をかちとる会(略して「いのけん」)というグループが当時あって、そのグループの活動に参加するように、通っていました。そのグループは、もともと原宿ホコ天で89年の天皇代替わり前後から、一連の反天皇制行動を行っていた「秋の嵐」というグループの流れを受けたもので、92,3年ごろは、代々木公園に集まるイラン人たちの労働相談などをしていました。そのうち、イラン人締め出しのため東京都が、代々木公園を封鎖するようにフェンスを張ったり、原宿駅周辺で入管と警察によるイラン人への刈り込みなどが行われた頃には、それに対する抗議行動を毎週のように行っていました。イラン人達が代々木公園に毎週日曜日溜まるようになったのは、91年頃。行政はそれを蝟集(いしゅう)と呼んでいました。ハリネズミの針が密集しているような状態を指したようです。しかも、週を追うごとにだんだん増えていくという現象が面白いと僕は単純に思いました。 92年にはドイツでロストック暴動といって難民収容所が連日に渡って右翼に襲撃される事件が起き、メルンやゾーリンゲンでガストアルバイターのトルコ人一家が,スキンへッズのネオナチ少年たちに放火殺人をされたりするという事件が起きた。92年だけで2000件以上のヘイトクライム事件が起きており、17名もの人が殺されました。93年にドイツ政府は、難民受け入れを是としてきた基本法の改悪をおこないます。ドイツのみならず、やがてフランスでも、パスクワ法ができて、難民の強制国外退去をしやすくします。日本でイラン人たちが置かれていた状況は、そうした世界的な現象とは無縁でないと強く感じていました。そんな時わたしは、ひと月ばかりドイツに行ったのですが、5月に帰ってくるや、わたしのボロアパートに勝手に住みついていた友人2人が、「えらいこっちゃ」と気色ばんで、代々木公園のイラン人締め出しとそれに反対する行動のことをまくし立てました。彼らも、前年にドイツに旅行した時、ロストック暴動に際会し、ネオナチたちと衝突するために、ドイツ各地から集まり現地に乗り込んだアナキスト部隊(アウトノーメ)の行動に参加しています。私は86年に上京してきてから、新大久保駅から徒歩15分ほどのところにアパートを借りていた。当時は大久保通りはもとより、職安通りのあたりに行っても今ほどコリアンタウン化していなかった。極端に変わったのは平成になってからで、マスコミなんかにしきりと「経済難民」という言葉がとりあげられるようになってからです。大久保通りを歩くと、そんな異国人たちが、日をおうごとにみるみる増えていく様子を肌で感じました。増殖する、という感じ。カフカの『万里の長城』という短編にこんな一節があります。「どのようにして彼らが、あんなに国境から離れているのにその首都に入ることができたのか、理解に達することは不可能である。しかしながら彼らはそこにいる。そして毎朝、その数が増えているように見える。彼らと話し合うことは不可能である。彼らは私たちの言語を知らない。彼らの馬たちも肉食である!」。あたかもそんなごときに得体の知れない人々が増えていく。そういうことを私は不安に思うよりも面白いと思った。なにか思いも寄らぬものがうじゃらうじゅらととめどなく沸いてきて、思いもかけなかったそんなやり方で、この保守的な社会が変わって行くという感じ。だめ連は、一番最初の頃、いのけんの運動に参加することによって、イラン人への締め出し反対の行動に参加していた。それから、94年以降の新宿西口の行動に。イラン人たちも、野宿者たちも、日をおうごとに、そこに屯する人々の数を増やして行って、もともとあった風景を変えて行った。だめ連は、そう言う光景のかたわらにいることによって、屯する喜びということをおぼえていき、それを自覚的に行っていたグループですね。定期的に開かれていただめ連集会は、たとえば中野駅や北口の駐輪場の中で一晩集まる。なにをするでもなく、路上でたむろ、交流。あげくのはてには寝ころんだり。武さんの絵も、路上にたむろするという感覚に近いものがあると思った。日をおうごとに、なにやらわけのわからないものが、すこしずつ増えていくという状況。

:「なんか、(究極さんとは)共通の喪失感みたいなものがあったのかもしれない。」

究極:「喪失感と言うか、大学に入ったころはバブルで、自分は4単位くらいしかとらずに大学を辞めて周りから取り残されてしまった。バブルの浮かれた風景から1人ポツンと取り残された感じ。そんな時、バブルに引かれてこの国にきた外国人は、まず私の生活環境の隣人であったし、身近に感じられた存在になった。私が住んでいた安アパートは、早稲田大学のすぐそばにあったので、入居した当時は私以外全員早稲田の学生でした。ところが94年に取り壊しのために立ち退く直前には、わたしともう1人をおいて全員が中国人に入れ替わっていました。なんとなく、ブルックリンとか、アメリカの都会の中心部が、しだいに黒人たちのゲットーになっていくという感じに近かったかも。私自身もそこに、友人の奥さんの兄貴である中国人と半年ほど生活していたし、わりと身近に、そういう現象に対する感受性を共有している日本人の友達たちが多かった。なかには、労働問題を抱えた外国人労働者たちに弁護士を紹介するような、今で言うところのNPOにたずさわりながら、イラン人たちとともに住んだりする友人もいました。労働相談を受けるという名目の救援センターなのに、みんな恋人との関係や悩みなんかを打ち明けてくる人生相談。」

<<後半戦>>

池上:平井さんのお話は新宿の歴史と言うか、新宿の記憶と言うか、そういう話でしたが、同時代に、さっきからダメ連と言う言葉がでてきたけれども、中央線の中野駅を中心に、30歳前後のダメ連という何をやっているかわからない集団がいまして、昼日中からたむろしてトークイベントを繰り返す、そんなことをやっていました。

:僕はダメ連にはすごいシンパシーを感じていました。実は究極さんとかペペさんとか、長い時間話したこはないんだけど、なんだか共感していた。なんて言ったらいいのかなぁ? ダラっとするっていう感覚とか。もし、左翼って言う言葉がある種革新的なことを行うものだと考えたとしたら、今まで左翼と呼ばれていた人達はむしろ左翼じゃなくてレッドっぽい。そこでダメ連の動きって言うのは今までの価値観をひっくり返そうっていう感じがして、僕も価値観をひっくり返したかったから共感したんだと思う。実際ダメ連っていうのはどんな感じだったんですか?

究極:今、池上さんが30代前半とか言ってましたが、ダメ連というのは1992年に当時早稲田大学の2部の学生だったぺぺ長谷川と神長恒一君を中心に結成されたものです。神長君は大学卒業後10ヶ月くらい東武デパートで働いていたんですが、仕事がいやになっちゃって辞めてしまった。そうすると遊ぶ相手がいない。その時たまたま遊んでくれるようになったのが、ぺぺさんとその周辺の学生運動界隈の人たち。今左翼ってことを(武くんが)批判的に言ってたけれど、左翼の中には伝統的に、「就職しないのがよい」というちょっと愚かな、固定観念があって、資本主義に絡め取られてしまうみたいなね、就職しないで活動を続けるのがいいんだという考え方があった。私自身は、自立障害者たちの介護の仕事をもっぱらするようになって、そういうアポリアみたいなのを切りぬけた。現在では、介護支援費制度とかあって、一般に広く重度障害者の介護が募集され,行われているけど、私が始めた時は、一部左翼業界的な仕事のように思われていた。まあ、実は神長君もその後、4年も、わたしが紹介したその仕事をしたりしていたんですけどね。ぺぺさんもやっていました。その仕事は、わりと融通がきくし、それに携わっているひとたちもおおむね、仲間みたいな人たち。だいたい最初の頃だめ連に結集した人たちは、みんな介護をやっていましたね。それは、仕事といっても、資本主義的な効率が求められるようなものではないし、むしろ障害者運動という、「反・資本主義」的なスローガンが掲げられているようなところで行われていたものだから、左翼的な倫理観の辻褄もあわせられる。障害者運動の中で、就職するなということもおおっぴらに言われていたし。つまり学生時代を卒業するとともに,介護から脱落して行く人たちがいて、そういう人たちが差別者よばわりされたりとかね。就職しないということが、そんなふうに倫理的に合理化されるわけです。

:ていうか、就職しないんじゃなくて、できないんじゃないの?

平井:でもそれはそんなに新しくはないよね? 実は68年世代の一番最後とかとかそれ以降にそういう人達はたくさんいた。東大・京大とかの学生運動のリーダークラスじゃない連中で就職したくない人はたくさんいて、だから70年代のかなり長い間は就職しない人が何万人といた。

究極:私がいたサークルは、明大の2部の学生サークルで、バブル当時は、みんな下落合の学生援護会にいって、日雇いの現場仕事をしていました。当時は、日当も高くて、1万円以上は普通に貰えた。私たちは、大学のレジャーランド化などと嘆かれていた時代の学生には似つかわしくないような運動みたいなのをやつていた「ヘンタイ」でした。20代になるかならぬかなのに、山谷の闘争なんかに関心をもって、日雇いのおっさんたちが喋っている隠語(ジャーゴン)なんかを言い合う。給料のことを「デズラ」、途中で仕事サボって帰ることを「トンコ」だとか。

:(山谷の隠語を使うというのは)ノリとしては友だちどうしてしか通じないメールの変な文字とかみたいなやつだよね。仲間意識が楽しい、みたいな。

池上:ダメ連の活動で面白かったのは、中野の駅前で「僕と一緒に夕食を食べませんか?」というビラを配ったのとか。そうするといるんですよね、乗ってくる人が。それで4、5人集まってきて、どうするかというと、ホカホカ弁当を買って神長君のアパートへ行くわけですよ。

究極:それで、神長君がマイクを握るジェスチャーをして「ディナーショーだ」とか言うんです。それは60年代のハプニングアートとかそういう流れですね。

:それは90年代で言うとコンセプチュアルアートじゃないかなと思う。僕から見るとダメ連っていうのは非常に面白いコンセプチュアルアートに見えた。

池上:さっきから左翼って言ってるけど、左翼っていうのはいちおう最初にいろいろ主張がありますよね。60年代なんかだと裏にある生活、例えばバイトしてたりとかそういうのはあまり表に出さないで、割と建前だとかでやっていた。ところが90年代に入ると生活の方が前面に出てくる、そういうことなのかな?

究極:生活っていうか、例えば資本主義の労働現場から疎外されるということに対するその評価っていうか、その仕方が違うと思う。私が知り合いになる人の多くが引きこもりやいわゆるニートで、その数は相当なもの。あかねもアフガンよりも失業率が高いなどと自嘲的にいわれる場所であったし。でもそういう層が、うやむやにされている風土が明らかにある。それはさっき言った得体の知れない外国人労働者みたいで、ただジャンルは違うけど、同じような得たいのしられなさでうごめいている。ただ代々木公園で毎週勝手にバザールをしていたイラン人たちは、光景として迫力があったが、そういう人たちは、そんな迫力をもった一団として現れていない、というだけ。 20年間引き篭もりをやっていたという人がいて、その人は40歳くらいのときにダメ連デビューしたんだけど、いつも持参してきたテープレコーダーかなんかで、音を出してずうっと1人で踊ってる。茶髪にしているから風貌は20代くらいに見える。20年間の凍結時間があったんだなーと。その人のアウラというか、怨念と言うか、その光景の迫力たるや凄いんです。だめ連には、そういう人びとが多く集っていたから、みんなが集まると空間をねじまげるぐらいの凄い光景になる。あるとき、だめ連集会を武蔵野市の野川公園で開くことになって、東小金井駅前に集合することになった。集合時間に遅刻していったら、たまたま駅のホームで同じ電車に乗っていた神長君とぺぺさんと合流。3人で遅れて,駅前に向かったら、駅前にはすでに30人ぐらいの人たちが詰め掛けていたんだけど、そのアウラたるや、主催者の2人が尻込みするほどでしたね。ホームレスの人々のところに行っていろいろ話しを聞いたりしていると、彼らが働けなくなった理由は一様じゃない。精神的に病んだと言うか、そういう形でぽーんとこぼれちゃった人とか、愛の手帖っていう身体障害者の手帳とか持っている人もいる。だから、だめ連なんかに集まる若者たちと、そこには共通の問題があったりする。だめ連も最初の頃は、そういう活動に参加したりして,実際に西口で野宿していた人が、だめ連に合流したと言うこともあったし。そればかりでなく、ライフスタイルなんかでも、テント生活をみずから始めたという若者たちも周辺に居ました。います。

: 90年代のダンボールハウスを描いてる時は、70年代の就職したくない人達みたいに、あるスペースにいっぱい人が集まっていたけど、そういうものがすこーんと80年代に消えたように見える。ダメ連の動きにせよ僕が面白がってやったことにせよ、面白いと思ったのは、人間が実態に合って集まっているということ。そこでしたいことをする、でもそれが生活と直結しているということ。そういう意味で90年代は身体性がもう1度戻ったような気がする。

池上:それはもちろんそうなんだが、平井さんの話によく登場したけど、70年代は学生が広場にいて労働者が地下にいた。90年代はむしろ若者の方がホームレスや外国人のライフスタイルを真似するっていうか、わりとこう、半地下でお互い近づいている感じがして面白い。

:それはある意味出会ったって感じなんですかね。ユルく出会って、なんかしらの空間を共有している。で、それが新宿だったり中野だったり、都市と呼ばれる場所で。

平井: 80年代に僕がどこへ行ってたかっていうと、新宿はつまんないから山谷行っててろ、と。で、究極さんは山谷に憧れたって言ってたけど、やっぱりあそこには人がまだ集まっていた。それで騒ぎを起こしていた。それもだいたい静まってしまってまた新宿に戻ってきた。中野あたりにダメ連が集まっているって聞いて、ようやく郊外から中野まできたかって思った。都心部では騒ぎを起こせない状態になっていたが徐々に帰ってきて中野まで至り、95年に新宿に戻った。

池上:僕は70年代の中頃に東京に来たんだが、さっきのビデオみたいなフォークゲリラとかがあって楽しかったという話を聞きました。それで80年代は平井さんの言ったような状況で、新宿にはもう何も起こらないのかな、と思ってたところにこんなことが思いもかけず起こったわけです。それと、もし冊子があったらご覧になって欲しいんですが、一番最終ページの奥付に、「新宿区1−1−1ダンボールハウス村」っていう郵便受けの写真があって、ダンボール村がほんとに村であり、コミュニティであったという証拠に、郵便を出せば本当に配達されていた。

平井:(郵便局が)民営化されたらどうなるの?

池上:そしたら着かない可能性もありますね(笑)

:郵便というのは、場所に物を運ぶんだそうです。だからその建前上、場所を書けばそこへ配達される。それが人から人にって民営化して変わったとしたら、ひょっとすると同じようなことができなくなるかもしれない。

ここら辺で質問とかればそれを絡めてしゃべっていきたいと思いますが、何かありましたら挙手願います。

客A:私はスープの会というNPOでこの10年新宿で活動している後藤と申します。95年から毎週毎週まさしくこの西口でホームレスに言葉をかけていくという活動をしていて、その過程で武さんの絵をずっと見てきました。正直、(当時は)その絵をまっすぐ見ることができませんでした。武さんにも声をかけられなかった。振り返ってみると、武さんの絵はすごく胸に迫ってくるものがあって、自分の中で、「見ようとしまい、目をそむけ通そう」と思ってているところにグサっと刺さってくる迫力と言うか、すごいものを感じていました。多分武さんと話をするのは今回初めてだと思います。ただ、タイトルを見ると、『ダンボールに描く夢』とあります。どんな夢を描こうとしていたんでしょうか? 10年を振り返る意味もこめてお聞きしてみたいを思いました。何故こういう話しをしたかといいますと、今日ここに来るまでにあるアーティストとの出会いがありました。私はゲイジュツのゲの字も知らない人間ですから、もともとホームレスとアートを絡めようなんて考えてもいませんでした。その方はヨコヤマシゲルという民謡歌手で、戦後シベリア抑留に遭って引揚げた頃の経済的貧困の中で、経済復興だとか言ってる時代にその方は新宿の職安まわりを通して、歌を通しての人とのつながり、そこに社会の息吹を感じたい、そう思って技を磨いていました。その人は今、認知症にかかって日常生活も殆ど成り立たない状態なんですが、今でも歌を続けていて、その横山さんの歌を支える奥様がいて、お客さんが集まってくる。ヨコヤマさんが過去の貧困の中で歌を通して人とのつながりを作ってきたということが私には過去のものとは思えないというか、過去の経済的貧困と今の経済的貧困とは質が違うけれども、今また問われているものがあるのではないかと思います。そんなことを思ったときに、武さんの絵はぐっと静止できないそれぐらいの迫力がありつつ、究極さんが言ってたようにそれをもとめて人が集まってくる。それで、どんな夢を描きたかったのか聞きたかったわけです。

: 10年経ってやっぱりものすごく僕も変わった。当時のことを思い出してみると、絵を通して人と人が出会えたらいいな、いわゆるやさしい感じみたいなのは一切なかった。ムカツキとどうしょうもなく自分の体を壊してまでも溢れ出てしまって制御の着かない自分のエネルギーとを絵に収めて表現するしかない、というかこっちも切羽詰っていた。一軒一軒訪ねていって絵を描かせてもらうのは、向こうは”生き死に“でいるわけだから、ぼくも同じような状態でないといけない。こうするしかなかった、こうしたいというよりはやむにやまれないと言う感じ。今思い返してみると、そういうものってなんか大事だなーと思う。いい人でありたいとか、世界が平和でいてほしいとか、そんなものは思わなくてもいいと思う。とにかく自分が生きるためにこうせざるを得ない、そういう感じでいいと思う。10年も経てばようやく優しい気持ちになれたりとかできるようになった(笑)。これからはもう少し優しく生きていこうかと思ってるところです。

客A:武さんの絵にこめられた迫力とか、そういうのが今伝わってきた感じがします。ありがとうございました。

池上:当時の武さんの言葉が雑誌等に残っているが、冊子の冒頭に96年の時のインタビューがあります。そこで平井さんが「精霊リアリズム」っていうのを書かれましたが、「西口には精霊がいるんだなと思った」ということが書かれています。僕が興味深いと思ったのは、「その場にいて溶け込みたい、芸術なんてトーテンポールがあるように普通にありたい」というような言葉で、それが非常に印象的でした。あとはやはり「同世代の人間の中にも同じような考えを持っている人が(95、96年の時点で)どんどん出ているのではないか」と語っているところが印象的でした。

:この時究極さんが僕の話していることをメモしていたんだけど、振り返って究極さんとの接点とかってあるんですかね?

究極:そのときはテレコを持ってきてなくて、ノートに全部メモしてました。(武さんの話し方の)ディテールというか詳細としてさくっと切らしてしまう部分がけっこう面白いなと思っていた。例えばホームレスの人々と会話している部分で、内容も含めて喋り方とかそういうものに興味を覚えてた部分があって、武さんの絵を見たときに、それは唯一つのダンボールに描かれているというよりはドバっと空間を占拠しているかたちであるのが、圧倒的な感じがして、ギャラリーの壁にかけられたりしているものからは伝わってこない、ド迫力が感じられた。実はその中には人が住んでいて、その人達のひとりひとりっていうのから語りかけてくる言葉っていうのが、エコーになってさらにすごくなる、生い立ちだったり妄想とか。実はJさんっていう、もともとは新宿西口の通路に暮らしていた人がダメ連に合流するんですが、彼の話は民話的だった。彼自身が妄想的な、と言ったら怒られちゃうかもしれないけど、そんな感じでした。例えば新宿の話で、本当かどうか分からないけど「ねずみの恩返し」とか。そんなところっていうのは、基本的に近くにいて耳をそばだてないとちゃんと喋ってくれないもの。一方でそんなのがありながら一方で人々がたくさんいるっていう壮観さというか、武さんの絵が展開している感じとか、そこにいて1対1で耳をそばだてていると「ねずみの恩返し」とか話してたりする。

:究極さんの話を聞いて思い出したんですが、夢って言うと、こういうのが現実じゃないですか、距離があって、“ですます調”で話したりして、トラブルも無く、意味不明なことを僕も言ったりしない。これが当たり前の現実で、意味があって、価値があるとされているけど、本当のことってもっと訳分からないじゃないですか、夢のように。西口の地下道でずっと絵を描いてると、現実なんだけど訳分からない事が現実に起こるわけですよ。善悪とか意識とかそういったもので自分を成り立たせていたらそれが木っ端微塵に吹っ飛んでしまうようなことが起こるわけです。まるで夢のような話。本当のことってものすごいシュールだったりするじゃないですか。でもそれが日常では隠蔽されているわけですよね。ここにいる人達だって家に帰ってひとりぼっちのときに何やってるかっていったらものすごく恐ろしいことしてるかもしれない。それがひとたび現実の世界に現れたらいろんなものがこう、シャッフルされるというか、不快感と同時にものすごい快感がある、というのはありますね。そういうのがきっと描き出されてるんじゃないかと言う感じがします。ダメ連もなんかちょっとありえないじゃないですか(笑)。

平井:西口広場歩いてる人っていうのは、会社に行く途中とか帰りのそういう時間のそのために歩いてるっていうのがはっきりしている。そこから逸脱しちゃうと時間に遅れちゃうとか仕事がだめになるとかいろんなことがある。だからそこに変なものが描かれたり、妄想みたいなものは見たくない。彼(客A)も見たくないって言ったけど、だから評価し難いものがあった。今、夢とか妄想とかって言ったけど、そういう空間って言うのは歌舞伎町に多い。歌舞伎町と靖国通り挟んでこっちはビジネス空間だからそうやって住み分けられている。エロなところ、変なところと。それがぐちゃぐちゃにされてしまう。僕は歌舞伎町で仕事していてそういうものが流れ出していると思ったっていうのは、ひとつはああいう怪しい妄想をつぎこんでる空間があふれ出しているからだったと思う。

:究極さんが言ってたイラン人がドワーっと出てきてしまうっていうのは、人がそれをみたとき面白いと思っちゃう。箱の中に集まりますよって言って集まった空間じゃなんか物足りない。もっと根源的な人の触れ合いを体感してみたいっていうのが、僕もあったと思います。

平井:通行人のサラリーマンでも本当はあると思う。

:だから僕は(仕事とかを)辞めちゃう人がでてきたらいいな、と思ってた。自分たちの絵を見て。

究極:インタビューにも書いてあるよね、「そんなことをしたらこいつらのためになっちゃうじゃないか」って、武さんに捨て台詞を言ったサラリーマンがいるって。警察にも同じようなことを言われたっていうのが他の本にも載っていた。

平井:目を伏せて歩いている通行人がいた。

:そうすると、通りって何のためにあるのか、都市って何のためにあるのか、こういうことが普通に起きることを許容しているのが都市だっていう発想が僕にはある。だから西口の70年代の映像を見たりすると、なんか、おもしろそうだったなーって思うんですよね。

池上:起こそうと思って起こったんじゃなく気がついてたら起こったって感じ。最初は武さんの名前は知らなかったけど、あそこで絵を書いてる人達がいるって聞いて行ってみた。最初思ったのは、絵がなんとかっていうよりも、なんてかっこいいんだ!ってこと。さっき山下菊次の絵が出てきましたが、彼は共産党の活動家で、絵柄が似てるところはありますけど、武くんたちのはクールというか、なんか外から見ると熱くならない感じ、黙って壁に向かって絵を描いている、左官屋さんみたいな目立たない感じ。そういう感じで絵を描いてるっていうのはなんか、かっこいい感じがした。こんな関わり方があるんだなーと思った。ダメ連の活動にもそんなクールな感じがあった。ちょっと本人とは違うかもしれないけど(笑)。

究極:クールというよりは地味って感じ?

平井:主張が無いんですよ。一見分かる主張がない。でもやってる。ダンボール・アートだって日比野克彦がやれば立派な芸術になる。キース・へリングだってそう。でもそうじゃない。なんかわかんない。そういう状態がクールなんだと思う。

:訳がわからないという理由でもう1つあるのは、描き出しから複数で描いていたことだと思う。グラフィティの人達もそうかもしれないけど、グラフィティの人たちは最初からデザインが決まっていて、担当が決まっていてその仕事をこなすわけだけど、僕らのはどうできあがるか分からないけどとにかくワーっとやるっていうのが多かったから、そこに訳の分からなさが生まれる。だから自分たちの描いたものでも「訳わかんないけど面白いからいいや」っていうそういう価値判断を自分たちの中ではしていた。訳なんか分かってほしくない、っていう。だから摩訶不思議って思われたら1番いいし、うれしい。

平井:全員わかんなかったよ。

:もっとひどいのは僕も分かってなかったってこと。ただ、不思議なところでなんか分かりにくいけど、なんか共感、共有感覚があるってこと。

客B:もし警察に止められなかったらどういう形でゴールしたかったですか?

ダンボールハウスがもしあったら一軒残らず描きたかったっていうのはあるけど。突起物が頭にきたんですよ。頭にきただけなんだよねぇ・・・。捕まって思ったことは、闘争だったかっていうとあながちそうでもなく、ほんとにムカついたんです。そのあと捕まるって事は思いつかなかった。とにかく最後まで描かせろ!って言った。だから捕まることはほんと、予定外だった。ダンボール村は意図しないところで消滅してしまった。それは心の中ではかなり煮え切らない、自分で決着付けられないものになってしまった。消滅したときに思ったことは2つあった。1つは「ホッとした。もうキツい思いをして描かなくてもいいんだ」ということ。もう1つは「無くなってしまった・・・」という思い。それがまだずっと尾を引いている。