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日常的実践論 序章 日常的実践と〈顔〉のあるつながり

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1.日常的実践と共同性への注目

 本書は、日常的実践においてはたらく思考――「野生の思考」や「実践知」などと呼びうる思考――が、現代社会においてどのような意義をもつのかを明らかにしようとするものである。結論を先取りしていえば、〈顔〉のある関係性という真正な水準を基盤とする「日常的なもののやりかた」は、周囲の環境と関係性から身を離すことで環境を計量化して支配しようとする主体――これを「啓蒙主義的主体」と呼ぼう――なしに、計量化されて条里化された均質空間を、それとは異なる生活の場へと変容させる実践である。そして、本書では、そこにみられる変容こそが、近代の支配のテクノロジーにたいするラディカルな抵抗であることを示したいとおもう。
 そのような「日常的なもののやりかた」は、近代知による思考、たとえば社会の変革をめざす近代的思考からは、ほとんど無視されてきたといってよい。無意識的な反復や模倣を本質とする日常的実践は、現状の秩序を維持するものであり、支配的な体制の再生産にしかならないとみなされてきたからである。けれども、本書では、計量化されて条里化された均質空間における支配とその主体となる啓蒙主義的主体をラディカルに変容させているのは、意識的で未来志向的な変革のプロジェクトではなく、現状の再生産のようにみえる無意識的な反復や模倣による日常的実践であることを述べる。そのような実践はあたりまえの日常的なもののやりかたであるが、それをあえて「抵抗」と呼ぶことで、反復・模倣における変容――快楽や笑いをともなう変容――に注目しようとおもう。
 また、啓蒙主義的主体の確立による支配のテクノロジーは、19世紀から20世紀までの近代にみられるもので、20世紀末からのポストモダン的状況においては、すでにそのような主体化と支配のテクノロジーは崩れ去っているのだから、いまさらそれに対する「抵抗」を称揚したところで意味がないのではという疑問もだされよう。けれども、本書では、ポストモダニズムにおいても啓蒙主義的主体が温存されていること、そして、あたらしい支配のテクノロジーもまた計量化され条里化された空間における区分にもとづいていることから、ポストモダンと呼ばれている現代においても「日常的なもののやりかた」によるラディカルな変容によって、人びとはその空間を自分たちのものにし、生き抜くスペースをつくりだしていく意義にはかわりがないことを示そうとおもう。
 日常的実践において働く実践知は、レヴィ=ストロースのいう「野生の思考」ないし「具体の科学」にしろ、ミシェル・ド・セルトーのいう「日常的なもののやりかた」としての「戦術」にしろ、ピエール・ブルデューのいう「実践感覚」にもとづく「使用の戦略」にしろ、近代のシステムにおいて支配的な知である近代知や科学知・理論知との対比によって位置づけられるものである。けれども、そのことは、実践知を、近代化によって失われたものと実体化してとらえたり、その復権を唱えたりすることにつながるというわけではない*1レヴィ=ストロース、ド・セルトー、ブルデューのあいだには、対立といっても良いようなちがいがあるけれども、実践知と近代知がそれぞれ固有の同一性をもちながらまったく異なるものとして対立しているという見方を批判している点では共通している。いいかえれば、実践知と近代知の区別を二元論的にとらえることに対する批判を共有しているのである。そのことは、日常的実践論を理解するうえでとても重要なことだ。
 その重要性は、カルチュラル・スタディーズの前史とされるレイモンド・ウィリアムズやリチャード・ホガートらの民衆文化のとらえかたと比較すると理解しやすいかもしれない。


 第二次世界大戦前、テクノロジーと経済の発達による大衆文化の発展という状況のなかで、利益ばかりを追求する功利的な商業主義や、大衆向けに大量に印刷される新聞・雑誌や映画やポップ・ミュージックなど、科学技術を用いた複製技術やマスメディアによって「文化」が脅かされていると懸念したケンブリッジ大学の文学者F・R・リーヴィスを中心に集まった学者や批評家たち(リーヴィス派とか、彼らの雑誌の名前からスクルーティニー派と呼ばれる)は、英文学者や批評家の役割は、大衆文化(マスカルチャー)のはびこる中で最高の文学的価値を護ること、いいかえれば、何が「偉大な作品」かという「カノン(canon正典)」を確立し保存すること(つまりミルトンやシェイクスピアやチョーサーといった偉大な作家・作品と、その他の群小な作家・作品とに分けること)だとした。そういった「カノン形成」(カノンを確立させること)の成果のひとつが、イギリスの小説の「偉大な作品」を並べたリーヴィスの『偉大なる伝統』(1948年刊行)である。こうして形成されたカノンは、日本の大学の文学教育(研究)にも最近まで受け継がれてきた。
 労働者階級出身のホガートやウィリアムズが大学で文学や文芸批評を学んだ頃は、そのようなエリート主義的な「カノン防衛」と大衆文化批判がアカデミズムにおいてなされていた時期だった。けれども、戦後になるとそれまで大学に行くことのなかった労働者階級や下層中流階級出身の学生たちが大学に行くようになり、働きながら大学に行くことができるような成人教育(社会人教育)のクラスも大学にできた。ホガートもウィリアムズも最初は成人教育の教師であり、その中で非エリート・非アカデミズム・非カノン主義的な「文化」についての研究と教育を始めた。つまり、アーノルドやリーヴィス派たちのいう「高級文化(ハイカルチャー)」や、白人男性の批評家や研究者、教師などの特権的なエリート集団が決めた「偉大な文化」からは、非白人や下層階級や女性といった非特権的な集団が担ってきた「文化」が「文化」として認められていなかった(実際には非白人や女性たちも白人男性と同じような「芸術作品」を作っていた)状況のなかで、労働者階級出身の教師が労働者階級出身の学生を教える成人教育のクラスで、「文化」というものを教えるとはどういうことなのか、という問題をホガートやウィリアムズは追求し始め、「文化」という概念をエリート主義的な「文化=教養」という意味ではなく、「生活における諸実践の総体」という文化人類学的な「文化」の概念を取り入れ、ポピュラー・カルチャー(民衆文化)としての労働者階級の文化を研究し始めたのである。
 ホガートは、イギリス労働者階級の「伝統的な民俗文化」の没落を指摘する(ホガートが本当の「民衆文化」を語るとき、自分が子どもの頃の個人的な体験を交えながら、ノスタルジックに語っている)一方で、当時のイギリス労働者階級の若者たちがアメリカの大衆文化を受け容れていることに批判的だった。彼は、伝統的な民衆文化(ポピュラー・カルチャー)と大衆文化(マス・カルチャー)とを区別している。ホガートのいう大衆文化(マス・カルチャー)とは、ミルク・バーのジュークボックスやラジオから流れるアメリカのポップスやテレビ番組や、大衆雑誌やセンセーショナルな日曜新聞などに掲載される暴力小説やマンガや犯罪記事などを指しており、それらは、パブや労働者特有の言葉づかいやコミュニティ活動に支えられた労働者の身近な社会的な絆や日常的経験に結びついていた民衆文化を破壊しているとホガートはみなしていた。つまり、ホガートは、イギリスの労働者階級はいまやアメリカの文化帝国主義とマスメディアが大量に流通させている通俗出版物によって「植民地化」されていると考え、労働者階級文化の研究を、そのような「植民地化」を批判するものと捉えていたといえる(それは、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』のなかの「文化産業」による大衆文化批判にも通じている面がある)。
 このような大衆文化と区別された「本物の伝統的な民衆文化(ポピュラー・カルチャー)」というホガートの捉えかたは、最近の文化人類学やポストコロニアル研究などでは、「本質主義」的な文化の捉えかたと批判されるものだろう。そこで批判されている本質主義的な文化の捉えかたというのは、人種や民族や階級などのカテゴリーと、その人びとのもつ文化とが自然な結びつきを持っていて、それは容易に変化しがたい本質をなしており、そこに帰属する人びとの行動や思考がその文化によって一様に規定されていると捉える考え方を指している。たしかに、従来の人類学者は、他民族の文化を研究するときに、それぞれの民族の文化は他の文化と明確に区別しうる境界をもつ「実体」(客観的な実在物)であって、その民族の変わらぬ「本質 essence」としての文化を実体的に把握することによってその人々の本当の姿を客観的に知りうるし、表象しうるとするという立場をとり、近隣の民族から移入された文化や、植民地化や近代化にともなって入ってきた近代文明や欧米の制度や事物を、研究対象とすべき不変の本質から区別して、純粋な伝統文化の「汚染」と見なすがあった。そして、人類学者のジェームズ・クリフォードが批判しているように、その汚染の広がりを前にした人類学者たちの「消滅しつつある伝統文化」という「エントロピックな語り」(消滅の語り)は、人びとが外から入ってきた欧米の文化などを異種混淆化して創造している現在の文化を否定しているといえる。
 たしかに、高級文化や大衆文化と区別された「労働者階級の本物の民衆文化」というホガートの捉えかたは「本質主義」的な捉えかたにみえるし、マスメディアや輸入アメリカ文化に「汚染」されて消滅しつつある「本物の民衆文化」というホガートの言いかたは、「本物の高級文化」を守ろうとしたリーヴィス派の言いかたと同じように、「エントロピックな語り」に聞こえる(ホガートやウィリアムズへのリーヴィス派の影響が指摘されてもいる)。じっさい、ホガートは階級や階級文化を実体的に他から区別できるものとし、イギリス労働者階級文化の「英国性」はアメリカの大衆文化と区別されるべきものだとしているところがある。
 けれども、ホガートによる大衆文化と民衆文化の区別は、リーヴィス派による高級文化と大衆文化の区別を批判するものだった。ホガートは、「いま進行している文化闘争を、まあたとえて言えば、『タイムズ』紙と絵入り大衆紙とがそれぞれ代表している勢力の間の正面闘争、といった風に見なすのは間違いだ」と述べて、人口の大多数がいつか『タイムズ』紙を読む日がくることを期待するのは一種の知的俗物主義で、「品の良い週刊誌を読む能力が、そのままよい生活を送るのに必要欠くべからざるものではない」とし、つぎのようにいう。「真理に触れるには、ほかの道がいくらでもある。より詰まらない大衆娯楽に私が反対する最大の理由は、それが読者を『高級』にさせないからではなく、それが知的な性向をもっていない人びとがかれらなりの道をとおって賢くなるのを邪魔するからだ」[ホガート 1974: 263-264]。そして、ホガートが指摘していたのは、大衆新聞やハリウッド映画が産み出そうとしている「階級のない階級」や「画一的なインターナショナルな人間タイプ」によって、「階級文化」が「階級のない文化」や「顔のない文化」に取って代わられていく危険であった。ホガートによる「植民地化された大衆文化」と民衆文化の区別は、文化人類学やカルチュラル・スタディーズが陥りがちな「異質化の罠」(松田素二氏の用語、第4章を参照)を回避するための手立てとして再評価の余地がある*2

 そして、ホガートの実体的な階級文化の捉えかたを修正していくうえで参照すべきものは、E・P・トムソン[Thompson 1966]による「階級文化」の捉えかたとミシェル・ド・セルトーの「民衆文化」の捉えかただろう。ジャウディン・サルダーが述べているように、トムソンは、労働者階級によるジョン・バニヤンの『天路歴程』やメソジストの宗教活動の受け入れ方を例に挙げて、「労働者階級の文化は、上流階級の文化とはまったく異なる資源からつくりだされているわけではない。ただ労働者たちは、資源に対する独自の関わり方や思考、創造的活動によってまったく新しい特徴的な文化をつくりだしているのだ」[サルダー 2002:34]ということを明らかにした。そして、労働者階級は上流階級との関係の中で自らの社会的位置を認識し、その関係の変革や意味づけのために自分たちの階級文化を創造していったことを指摘している。このように、トムソンは、「階級」や「階級文化」というものを、ある集団が不変的にもっている本質とは無縁な、長期の社会的プロセスのなかから生み出されるアイデンティティと見なした。「労働者階級の文化」の独自性・自律性は、貴族階級やブルジョワ階級との隔絶によるものではなく、それらの階級との社会関係のなかで、同じ資源に対するアプローチの仕方や利用の仕方にあると捉えたのである。
 トムソンのそのような捉えかたは、ド・セルトーの「民衆文化」の捉えかたに通じるものがある。ド・セルトーは、民衆文化というものをエリート文化とは画然と区分されたものとして実体化・固定化するとらえかたを批判して、民衆の実践による文化を「日常的なふつうのやりかた」ととらえ、その独自性は、支配的な秩序・体制が生産したものを日常のなかで用いる際の、「独特のやりかた」に求めている。そして、その独特のやりかたを、支配的な秩序における「戦略」と区別して、「戦術」とよんでいる。ド・セルトーが「戦術」と区別している「戦略」とは、意志と権力の主体が周囲の環境から身をひきはなしてはじめて可能となるような力関係の計算や操作のことで、そこに前提されるのは、目標の相手に対するさまざまな関係を管理できるように境界づけられた「固有の場所」である。自分に固有の場を与える「空間の分割は、ある一定の場所からの一望監視という実践を可能にし、そこから投げかける視線は、自分と異質な諸力を観察し、測定し、コントロールし、したがって自分の視界のなかに『おさめ』うる対象に変えることができる」[ド・セルトー 1987:100]。つまり、この「固有の場所」とは、対話や身体的相互性による自己再帰的な諸関係から切り離されたアルキメデスの点であり、科学知を可能にすると同時に、他者との関係に左右されない自律性をもつ近代の啓蒙主義的な主体がよってたつ仮構の場所にほかならない。それに対して、「戦術」とは、全体を見通すことのできるような境界づけられた自分の固有の場所があるわけでもないのに、なんとか計算をはかることである。それは、「自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地でなんとかやっていかざるをえない」[ド・セルトー 1987:102]。この「戦術」という概念は、「所有者の権力の監視のもとにおかれながら、なにかの情況が隙をあたえてくれたら、ここぞとばかり、すかさず利用する」という、固有の場所をもたないがゆえに融通の利く、臨機応変の実践を指している。
 ド・セルトーのいう、日常的なもののやりかたとしての「戦術」は、普通の人びとがすでに支配的な秩序に包摂され、ことばもモノも自分たちではなく他者が生産したものを使用するしかない状況で「なんとかやっていく」ために日常的に実践している「わざ」を指していた。ド・セルトーは、その「わざ」を「ブリコラージュ」というレヴィ=ストロースの用語でもいいかえている。レヴィ=ストロースのいうブリコラージュは、人類の長い歴史のなかの普遍的な思考=知のありかたとしての「野生の思考」による「もののやりかた」を指していた。「ブリコラージュ」とは、限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを意味する。それらの材料や道具は、設計図にしたがって計画的に作られたものではなく、たいていは以前の仕事の残りものとか、そのうち何かの役にたつかもしれないと思って取って置いたものや、偶然に与えられたものなど、本来の目的や用途とは無関係に集められたものであるため、ブリコルール(ブリコラージュする人)は、それらの形や素材などのさまざまなレヴェルでの細かい差異を利用して、本来の目的や用途とは別の目的や用途のために流用することになる。
 レヴィ=ストロースは、このようなブリコラージュにおいてはたらいている思考を近代以前からあった具体の科学としての「野生の思考」と呼び、それを「栽培された思考」としての近代の思考と対比している。すなわち、「野生の思考」をブリコルールの仕事にたとえる一方で、近代科学(正確には西洋近代に特殊な思考)をエンジニア(技師)の仕事にたとえてながら、つぎのように言っている。

ブリコルールは多種多様な仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の1つ1つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬというようなことはない。彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内容構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。すなわち、いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりしたときの残りもので維持されているのである。したがってブリコルールの使うものの集合は、ある1つの計画によって定義されるものではない。……ブリコルール自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められ、保存された要素でできてい
る。[レヴィ=ストロース 1976:23]

 つまり、エンジニアが、全体的な計画としての設計図に即して考案された、機能や用途が一義的に決められている「部品」を用いるのに対して、ブリコルールは、もとの計画から引き剥がされて一義的に決められた機能を失い、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められた「断片」を、そのときどきの状況にあわせて臨機応変に用いるというわけである。
 このように、ド・セルトーのいう「戦術」とレヴィ=ストロースのいう「ブリコラージュ」は、ほぼ同じような「もののやりかた」を指している。ただ、どういう状況での「もののやりかた」を説明するものかにおいて、両者のあいだには重点の置きかたの違いがある。すなわち、ド・セルトーのほうは、近代化や植民地化や情報化によって近代システムにすでに包摂された現代社会において普通の人びとが言説や制度の生産者ではなく消費者にされた状況で、どのように日常的実践をおこなっているかを説明しようとしたものであるために、「野生の思考」のみがはたらくような状況を強調することなしに、いわばエンジニアの思考によって生産された事物や言説を一方的に受容する側にみられる、エンジニア(生産者)とは異なる「もののやりかた」を説明することに重点が置かれている。そのため、ド・セルトーの議論においては、やりかたの違いが強調される(ド・セルトーは後でみるように、その違いを「戦略」と「戦術」という対比をつかって説明している)だけで、それらを実体化したりそれぞれに固有の場所を与えたりすることによる二元論的な図式をつくりだす余地をあたえてはいないといえよう。
 それに対して、レヴィ=ストロースの議論のほうは、近代化・植民地化以前の文化の作られかたを説明するものであるために、他人の支配している場所で他人の作ったものを受容しながら、それを独自の「もののやりかた」で自分たちのものとして「流用」するというより、もともと「もの」が1つの機能だけに限定されて生産されることがないような文化のありかたにおいて、自分の作ったものであろうと他人の作ったものであろうと、「もの」を臨機応変に使うという創造のしかたの普遍性に重点が置かれていると言っていいだろう。けれども、レヴィ=ストロースの場合も、「野生の思考」を近代科学と同じように合理的であり、かつそれよりも普遍的なものであるとし、さらに近代科学においてもじつは野生の思考がはたらいているとすることにおいて、実体的な二元論とは一線を画している*3
 しかし、それらが同じ「もののやりかた」であるということは、現代社会の「普通の人びと」の日常的実践のありかたを捉えるうえで、大きなヒントになろう。つまり、ド・セルトーのいう日常的なもののやりかたとしての「戦術」は、近代の諸制度やシステムに囲い込まれたバラバラの個人が新しく創りだしたやりかたなのではなくて、人類の文化に普遍的な「野生の思考」という知に支えられたものであり、近代システムに包摂される以前と以後の日常的実践には(非連続性とともに)連続性があるということを示しているからである。いいかえれば、そこには、支配文化とは画然と切り離される実体としてではないにせよ、人びとの日常的なつながりが作りだす独特の場や、他者の生産物を活用する独特のやりかたによって作られるふつうの文化がある。つまり、その「もののやりかた」、活用の独特のしかたには、人類のこれまでの思考のありかたと、関係性のつくりかたという裏打ちがあるのであり、それらはたしかに「野生の思考」とつながっているのである。

 ところで、ド・セルトーの「戦略」と「戦術」、レヴィ=ストロースの「栽培された思考」と「野生の思考」は、ドゥルーズとガタリ[1994]のいう、「条里空間」(区画化された空間)における普遍的思考(王道科学)と、「平滑空間」(なめらかな空間)におけるノマド的思考(マイナー科学)という対比と重ね合わせることができる。ドゥルーズとガタリは、二元論的な図式と批判されることを怖れずに、さまざまな対比によってその区別をしている。支配するための秩序である条里空間では、閉鎖空間を区分してそこに直線的かつ固体的事物を配分するのに対して、平滑空間は流体としての事物が開放空間のなかに配分されるモデルである。ドゥルーズとガタリは、平滑空間について、つぎのように述べる。

平滑空間の等質性は無限に接近する点同士の間にしか存在しないのであり、近傍同士の接合は特定の道筋とは無関係に行なわれる。それはユークリッド的条里空間のように視覚的な空間であるよりも、むしろ触覚的な、つまり手による接触の空間、微細な接触行為の空間なのだ。平滑空間は運河も水路ももたない1つの場、非等質な空間であって、非常に特殊な型の多様体、すなわち非計量的で中心をもたないリゾーム的多様体、空間を「数える」ことなく空間を占める多様体、それを「探険する」には「その上を進んでいく以外にはない」ような多様体に一致するのである。この型の多様体は外部の1点から観察されうるという視覚的条
件を満たしていない。[ドゥルーズ/ガタリ 1994:427]

 ドゥルーズとガタリは、条里空間ではある1点から他の1点への道筋が計量されうるとされているが、平滑空間にはそのような点と点を結ぶ道筋を測定することのできる外部の1点(超越的な高みの足場)はないという。条里空間を一望可能で計量可能なものにしているこの外部の1点がド・セルトーのいう「固有の場所」であることは理解しやすいだろう。そして、ドゥルーズとガタリは、このような条里空間と平滑空間の対比を、さらに思考の形式の対比および人との関係性のありかたの対比と重ね合わせて特徴づける。すなわち、条里空間は、王道科学ないし帝国科学を代表とする「普遍的思考」という形式によってとらえられるものであり、平滑空間は、マイナー科学のような種族的でノマド的な思考の形式によってとらえうるものとする。そして、関係性の形式、すなわち人と人とのつながりのありかたでは、条里空間における関係性の配分はツリー状のモデルにしたがう組織であり、平滑空間において配分されるのはリゾーム的な多様体であるという。
 ドゥルーズとガタリのいう条里空間が、ド・セルトーのいう支配的文化の「戦略」に特徴的な「固有の場所からの一望監視を可能にする空間の分割」によってできる空間であることは理解しやすいだろう。そして、ド・セルトーのいう民衆(ふつうの人びと)による「戦術」は、条里空間に閉じ込められた人びとが自分たちの日常生活の空間を部分的に平滑空間へと変容させる実践、つまり平滑空間を身近な空間にひそかに導入する実践ととらえられるだろう。そのようなことが可能なのは、条里空間に閉じ込められながらも、日常的実践において人びとは、平滑空間に対応する思考の形式や人との関係性のつくりかたを保持しているからである。
 ドゥルーズとガタリは、王道科学に代表される普遍的思考とマイナー科学に代表されるノマド的思考(遊牧的思考)という思考の形式の対比について、つぎのように説明する。

心的空間を条里化する古典的思考像は自分の普遍性を主張する。……「普遍的方法」の指揮下で〈存在〉と〈主体〉という二重の観点から、条里化 された心的空間にあらゆる種類の実在と真理が位置づけられるのである。とすれば、そのような思考像を拒絶して別なやり方で思考しようとする遊牧 的思考を特徴づけるのは容易であろう。つまり遊牧的思考は、普遍的思考主体を要請する代わりに特異な人種を要請するのであり、また、包括的全体 性に根拠を置く代わりに草原、砂漠、海といった平滑空間としての地平なき環境に
展開するのである。[ドゥルーズ/ガタリ 1994:435]

 このような、「主体」と「全体性」を拒絶する1970〜80年代の「ポストモダン理論」は、後で本書でも述べるように、人びとのあいだの連帯や政治的なアイデンティティを否定し、マイノリティの社会運動などを阻害するものとして批判されている。けれども、ここで述べられているような「普遍的思考の主体」(本書では「啓蒙主義的主体」と呼ぶ)や、ツリー構造に規定された「包括的全体性」を拒絶しても、人びとのあいだの連帯や共同性を否定することにはかならずしもつながらない。そこには別の形式の関係性やつながりが生成されているからであり、そのような関係性に支えられているからである。
 ここで重要なことは、平滑空間(およびそこでのノマド的思考)は、それに対応する関係性の形式、すなわち明確な境界線で区切られることなく、地下茎のように延びていくリゾーム的な多様体としての「共同体」において生成され、実践されるということである。いいかえれば、日常的なもののやりかたにみられる実践知は、人と人との〈顔〉のみえる関係とその延長によって作られている「共同体」にささえられているのである。それは、ツリー状構造をモデルとする思考によってはとらえることのできない共同体である。
 つまり、必要とされるのは、栽培された思考と野生の思考、ツリー構造とリゾーム構造、条里空間と平滑空間、戦略と戦術という対比を微細にかつ明確にすることで、ツリー状構造による社会と共同体という二元論によって創られた共同体概念から離れて、共同体という概念を変えることである。そして、栽培された思考と野生の思考とのあいだ、あるいは条里空間と平滑空間とのあいだの水準のちがいを具体的に示すことによって、共同体についての言説を変革することこそ、文化人類学の社会科学への貢献のうちでもっとも重要なものだろう。これまで社会科学が当然のごとく前提としてきた、「社会」――市民社会や「まったくの他者と〈交通〉する空間」――と対比される「共同体」についてのイメージは、日常的な「もののやりかた」とそれが実践されている生活の場をとらえるための障害にしかならないだろう。多様体としての共同体は、何か共通の属性や同一性によって作られているのではなく、一定の期間一緒にいるという隣接性によってつくられるものを指している。そこでは、〈顔〉のある関係性のもつさまざまに異なる局面――この局面は役割関係や主体のポジションには還元されない――が交叉しあってつくられ保持されている錯綜体としての関係性をさまざまな方向に延長してつくられるため、ツリー構造のような明確な境界や全体-部分の包摂関係をもたない。そして、重要なことは、そのような共同体は、19世紀の社会学的想像力が創りだした「失われた共同体」でも、あるいはいまだ実現していない「来るべき共同体」でもなく、人類史をみれば、それがふつうの共同体であったということである。
 哲学者のジャン=リュック・ナンシーは、『無為の共同体』のなかで、近代において発明された「失われた共同体」について、つぎのように言っている。

共同体は実際には生起しなかった。あるいはこう言ったほうがいいかもしれない。人類がわれわれの知っているものとはまったく別の社会的絆を知っていた(あるいは現在も産業社会の外で知っている)というのは確かだとしても、共同体はわれわれがそうした異なる社会性へとそれを投影している原理にしたがって生起したのではない。(中略)社会は共同体の廃墟の上に作られたのではない。それはわれわれが「社会」と呼ぶものとも、「共同体」と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか―部族あるいは帝国―の消滅のうちに、ないしその維持のうちに形成されたのである。[ナンシー 2001:22]

 ナンシーは、「共同体に関して『失われた』もの――合一の内在性と親密性――とは、そのような『喪失』が『共同体』そのものを成り立たせているという意味においてのみ、失われたのである」[ナンシー 2001:23]と述べている*4。このナンシーのことばにまったく賛成であるが、私がここであえて「共同体」とよぼうとしているのは、ツリー構造的な全体性をもたずに関係性が延長される、境界の定まらないつながりである(あとで触れる、大杉高司氏のいう「非同一的な共同体」がおそらく近いものだろう)。すなわち、それは、ナンシーのいう、「われわれの知っている共同体とはまったく別の社会的絆」であり、「われわれが『社会』と呼ぶものとも、『共同体』と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか」である。それに対して、近代になって「社会」と対立するものとして「発明」された共同体のイメージは、サイードの批判したオリエンタリズムとおなじく、啓蒙主義的主体を形成するための「他者化」によるものである。重要なのは、そのような共同体のイメージから脱することなのである。
 ナンシーが、近代の市民社会を共同体が解体された後にできたのではなく、社会/共同体の二元論によって創られた社会や共同体とはまったく異なる「何ものか」の消滅ないし維持のうちに形成されたのだといっていることは重要である。つまり、たんなる社会/共同体の二元論批判ではなく、そのような批判が覆い隠してしまうものを指摘している点で重要であろう。また、バラバラの個の単独性や自由に浮遊する個を肯定し、あらゆる関係性を束縛とみなすようなポストモダン的思考を克服しようとして共同性や連帯にふたたび注目する近年の議論においては、その連帯や共同性が過去の閉じられた共同体とは異なるものだとわざわざ述べられたり、あるいはその「即興性」や「一時性」が強調されたりすることが多いが、ナンシーの上のような指摘は、二元論的に把握された社会や共同体とはまったく別の、非同一的であるが持続的な共同体がつねにすでにあったことを思いおこさせてくれるだろう。
 そして、二元論によって表象された共同体のイメージから脱して、それとはまったく別のすでにつねにある共同体に目を向けるためには、まず、自己が隣接性によって、いいかえれば同一空間にいるという直接性によって他者と相互的身体関係をもつ場としての「前景」を消去してしまわないことからはじめなければならないだろう。この「前景」という用語は、W・シヴェルブシュが『鉄道旅行の歴史』のなかで鉄道をはじめとする近代の交通機関が車窓の外の世界をパノラマ化したと述べ、パノラマ化した車窓の風景の特徴が前景の消滅にあると述べているところから借りてきたものである。シヴェルブシュはつぎのように言っている。

産業革命前の時代の知覚にあった奥行は、速度によって近くにある対象が飛び去ってしまうことで、鉄道では全く文字通り失われる。これは、産業革命前の旅の本質的な体験を構成していたあの前景の終焉を意味する。この前景越しに、昔の旅人は通り過ぎてゆく風景と関係を保っていた。彼らは自分がこの前景の一部であることを自覚していたし、この意識が彼らを風景と結びつけていたし、その風景が遥か彼方まで広がっていようとも、彼らの意識は風景の中に彼らを編みこんでいたのである。……[それに対して]鉄道の速度は、以前は旅人がその一部であった空間から、旅人を分つのである。旅人が抜けてしまった空間は、旅人の目にはタブローになる。……パノラマ的にものを見る目は、知覚される対象ともはや同一空間に属していない。[シヴェルブシュ 1982:80]


 この「前景の消去」によるパノラマ的風景の成立において、ここで注目したい点が2つある。ひとつは、それが前景で接触するはずの具体的な他者との相互交流――それには自分がその具体的な他者との身体的相互関係において傷つくことや軋轢を生じさせる危険性も含まれている――の否認を意味するという点である。その意味で、この「前景の消去」は、安全性の確保でもある。「前景」における危険な接触を避けて、安全性を確保することは、フーコーのいう「生-政治」(生命をまもる政治)という近代の政治の特徴に通じている。
 もうひとつは、この「前景の消去」が全体を一望する特権的なまなざしをつくりだしたという点である。文化人類学においても、フィールドでは隣接性によって結ばれていた人びととの直接的な関係の場としての「前景」を、本国に帰って民族誌を書くというときになると消去していた。それを消去せずに民族誌のなかに書きこもうというのが、1980年代にはじまる「実験的民族誌」の試みであった*5。そこでは、フィールドで遭遇した人びととの対話などを記述することによって、フィールドでの人類学者の自己を周囲から身を引き離した主体としてではなく人びととの相互関係のなかで生成されたものとしたり、人びとの多様な声を人類学者の声と並置したりすることで、民族誌を書く主体の権威をとりのぞこうといった試みがなされていた。しかし、ここで問題にしたいのは、民族誌という完結した風景のなかに「前景」を描きこむためのくふうではない。本国でそのような民族誌を書いている人類学者は、フィールドではできなかった「周囲の環境から身を引き離して自立することで、その環境を操作できる主体となる」ということを、民族誌を書くときに実現させてしまっている。そうではなく、フィールドでの「前景」をいかに持続させ自分の周囲との関係性へと延長するか、ということが問題なのである。
 関根康正氏は、南インドのハリジャン(被差別民)の生活世界についての民族誌である『ケガレの人類学』の序のなかで、つぎのように書いている。

[……]近代理性の立場にたってインドの被差別民の現実を悲惨として嘆き、社会改革の急を訴える「良心的」行為に対して、私はどうしてもひっかかりを持ってしまう。というのは、そういう行為が実にしばしば陥っているのが、「立派で完全な」個人という視点から人間を見下ろして裁断する傾向であり、それが何か人間にとっての本質的な存在論的問題を取りのがしていると、私には感知されるからである。/私の限られたインド体験からでも、不条理に差別されるハリジャンの悲惨を想い描き記述することはできる。しかし、インド体験が私にもたらしたのはそれだけではなかった。というのは、村のハリジャンのAさんBさんという具体的個人に実際に会い話しをしてみる経験を通して、私の中に起こった重大な変化があった。日本を発つ前には、無知ゆえに持ってしまっていた「絶望的に悲惨なハリジャン」というイメージが、自然な形で瓦解したように思えたのである。実に当たり前のこと、彼らも泣き、笑い、怒り、嘘もつき、……したたかに生きていることを眼前にし、私と変わらない不完全な人間がそこにいると実感できたことに何か救いを感じたのである。[関根 1995:2-3]


 関根氏は、ここで、ハリジャンについて事前にもっていた「絶望的に悲惨なハリジャン」というイメージが、具体的な〈顔〉や〈名前〉のある個人に会って話をして、かれらも自分とおなじように立派で完全な個人でありえないということを認めることで、「自然な形で瓦解したように思えた」と語っている。
 このような直接的な関係における「実感」は、フィールドワークをする人類学者にとってとても重要なものだが、社会改革なしには「絶望的に悲惨なハリジャン」のままであると訴える立場からは、「全体を見ることができないゆえの実感主義」とか「素朴な経験第一主義」などと切り捨てられてきたものでもある。しかし、そのような立場は、具体的な関係性から身を引き離し、他者と自分が身体的に相互接触する「前景」を消去して、パノラマ的風景として全体を眺望する超越的な視点にたつという点で、オリエンタリズムとおなじである。つまり、「絶望的に悲惨なハリジャン」というイメージは、「共同体的な因習に縛られた野蛮人」というイメージと同様に、具体的な関係性から自分を切り離して、あたかも「知覚する対象とはもはや同一空間に属していない」かのように前景を消し去り、自分がそこにはいない全体的風景として眺望したときに現われるイメージなのだといえよう。
 他方、被差別民を「自分と変わらない不完全な人間として実感する」などというと、他者と共通する価値観や規範などなく、つねに変動する多様な個をみるべきだとするポストモダニズムの立場からは、「安易な同一化」とか「共通性によって多様性を消去する」ものだという批判があるだろう。これは、あとで述べる反本質主義(構築主義)による批判とおなじ類の批判である。また逆に、階級や人種の違いを見ないで自分と変わらない個しかないという点でポストモダニズム的な相対主義とおなじだという批判もありうる。それは、ポストモダニズム的な反本質主義が支配者と被支配者、抑圧者と被抑圧者といったカテゴリーを解体することで現実の支配-被支配関係の暴力性をあいまいなものにしてしまうという、反-反本質主義(戦略的本質主義)からの批判とおなじものである。
 けれども、関根氏の言っている直接的な対面関係における「実感」は、ポストモダニストが批判するような同一化ではなく、ただおなじ場所にいるという隣接性による関係において生じるものである。それは、自己と他者とが同時にともにいる「前景」を否定した、眺望的なまなざしによって固定された同一性などはなく、〈顔〉のみえる具体的な関係において、自分と似ている部分――たとえば似たような境遇にあったり、職業が似ていたりといったこと――を相手に見出すことによってつくりだされる「仲間」としての親近性であり、それは、おなじ民族だからとか、おなじ女性だからといった、あらかじめ想定された同一性によるものではなく、同一空間において隣接する他者とあらたに〈顔〉のある関係をつくりだす「社交性」によるものである。もちろん、同じ民族であるとか、同じ女性だからといったことが〈顔〉のみえる具体的な関係において自分と似ている部分を見いだすきっかけになることはあるだろうが、そこでつくられる関係がそのような固定された同一性によるものであれば、それは〈顔〉のある関係とはならないだろう。
 そして、それは、ポストモダニズムのように、バラバラの個の単独性や自由に浮遊する個というものを肯定して、あらゆる共同性や持続的なつながりを、個を拘束するものとして否定することへの批判ともなっている。「前景」がそれだけで成立することがないように、そこでの直接的な対面関係は閉ざされたものではなく、たがいの対面的な関係性がまさにその隣接性においてつながっていくのである。ちょうど前景がどこまで前景なのかいえずに遠景とつながっており、しかもたがいの遠景がおなじではないのに似ていて、隣接性によるつながりは個の特異性を保ちながら直接的に対面できない関係まで想像によってつながっている(それを後で「換喩/隠喩的な想像」によるつながりといいかえよう)。重要なのは、ここで「前景」とよんでいる隣接性による直接的な相互関係こそ、そのような〈顔〉のある関係性を延長するという想像にとっての結節点になるということである。そして、そのような想像は、あとで述べるように、個の代替不可能性と比較不可能性による単独性を、関係性のなかの特異性singularityに変換するという、人間存在の基本的な社交性を示すものである。
 そして、市民社会と共同体の二元論およびその二元論への一面的な批判の双方が隠蔽しているのは、ナンシーのいう「われわれが『社会』と呼ぶものとも、『共同体』と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか」としての共同体が、つねに/すでに存在しているという単純な事実なのである。

2.共同体/公共圏/親密圏

 斎藤純一氏は、『公共性』[斎藤 2000]という著書のなかで、公共性と共同体とが対立するものであるとしながら、他方で「セルフヘルプ・グループ」などの「親密圏」を念頭におきながら、「新たに創出される公共圏のほとんどは親密圏が転化する形で生まれる」[斎藤 2000:95]という。斎藤氏は、公共性と共同体の対立をつぎのように述べている。

まず、指摘できるのは、共同体が閉じた領域をつくるのに対して、公共性は誰もがアクセスしうる空間であるという点である。……/第2に、公共性は、共同体のように等質な価値に充たされた空間ではない。共同体は、宗教的価値であれ道徳的・文化的価値であれ、共同体の統合にとって本質的とされる価値を成員が共有することを求める。これに対して、公共性の条件は、人びとのいだく価値が互いに異質なものであるということである。公共性は、複数の価値や意見の〈間〉に生成する空間であり、逆にそうした〈間〉が失われるところに公共性は成立しない。/第3に、共同体では、その成員が内面にいだく情念(愛国心・同胞愛・愛社精神等々)が統合のメディアになるとすれば、公共性においては、それは、人びとの間にある事柄、人びとの間に生起する出来事への関心(interest)……である。公共性のコミュニケーションはそうした共通の関心事をめぐっておこなわれる。公共性は、何らかのアイデンティティが制覇する空間ではなく、差異を条件とする言説の空間である。/最後に、アイデンティティ(同一性)の空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属(belonging)を求めない。公共的なものへの献身、公共的なものへの忠誠といった言葉は明白な語義矛盾である。公共性の空間においては、人びとは複数の集団や組織に多元的にかかわること(affiliations)が可能である。かりに「アイデンティティ」という言葉をつかうなら、この空間におけるアイデンティティは多義的であり、自己のアイデンティティがただひとつの集合的アイデンティティによって構成され、定義されることはない。[斎藤 2000:5-6]


 斎藤氏は、共同体が「等質な価値に充たされた空間」であるのに対して、「公共性の条件は、人びとのいだく価値が互いに異質なものであるということ」だと述べている。このような公共性と共同体との対立は、近代において創られたものであるのはいうまでもない。公共性は、その反対像としての「閉鎖的かつ等質かつ同一的な共同体」というイメージを「発明」することによって――いいかえれば、自己と他者のオリエンタリズム二元論を創りだすことによって――のみ創出され維持されているものである。つまり、市民社会の公共性は、それとはまったく異なる〈他なるもの〉としての「共同体」を他者にたえず投影することによって維持されるのである。
 したがって、齋藤氏の描く「共同体」の成員が「伝統的因習に縛られた未開人」や「他律的・非合理的・受動的な東洋人」といった、オリエンタリズム的な二元論によって描かれた他者によく似ているのはふしぎではない。斎藤氏が述べているような公共性と共同体の対立は、近代社会において創りだされた二元論であり、このような二元論は、第4章であつかうオリエンタリズム二元論とおなじように、自分たちを周囲の人びととの関係にしばられていない理性的な啓蒙主義的主体として自認することを可能にするとともに、それによって他者化された人びとに対する支配と排除を正当化しているということに注意する必要があろう。
 また、「複数の価値や意見の〈間〉に生成する空間」である公共空間に共存する「複数の価値や意見」というときの複数性が計量可能なもの、数えられるものであり、ドゥルーズとガタリの用語をつかえば、人がそこでは「空間を占めるために数える」ような条里空間における計量可能な複数性・多様性であることにも注意すべきだろう。そこでは計量可能・比較可能な個人であれば――すなわち明確な役割をもっていて、それを計量可能なものとして表明できる者ならば、人種や階級や出身やジェンダーや思想・信条などによって排除されることなく、誰でも接近可能となる。つまり、市民社会の公共空間が「開いたもの」とされるのは、その空間で一義的に位置づけられた役割を担う、代替可能で交換可能な個人(すなわち計量できる個人としての「市民」)であれば、誰でもその空間を占めることができるからなのである。いいかえれば、齋藤氏がここでいう公共的空間は、条里空間として開かれているにすぎない。
 それに対して、「われわれが『社会』と呼ぶものとも、『共同体』と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか」としての共同体は、ベクトル的・トポロジー的空間としての平滑空間をなしている。そこでは人は「数えることなく空間を占める」。そこでの「等質性は無限に接近する点同士の間にしか存在しないのであり、近傍同士の接合は特定の道筋とは無関係に行われる」[ドゥルーズ/ガタリ 1994:427]。
 共同体は閉じていると同時に開かれている。つまり、それは閉じているようにみえても、計量可能な「特定の道筋とは無関係に」偶有的な接触や延長によってさまざまな場につながっている。条里空間からみれば計量可能な特定の道筋しかみえないために、それはだれもが接近できるわけではない「閉じた均質の共同体」としてみえるけれども、それは交換不可能で代替不可能な個、接触し合う個に対してつねに/すでに開かれているのである。いいかえれば、計量不可能な個の間の「微細な接触行為の空間」である平滑空間として開かれているのである。

 ところで、斎藤氏は、公共性と共同体とがあいいれないものとするいっぽうで、近代社会において登場した「親密圏」について、それがあらたな公共圏をつくりだすポテンシャルをもつものと評価している。斎藤氏は、ハンナ・アーレントが、公共性が失われた「暗い時代」には人びとはその代償として親密性の暖かさを求めるけれども、その親密圏の希求の意味するところは「できるだけ人びとが論争を避け、抗争が起こりえない人びととだけ関係を取り結ぼうとする」ということだと指摘していることに触れて、親密圏が、「あらゆる多様性をもった人びとの〈間の空間〉にのみ形成されうる世界」である公共圏とは別のものであると述べる。そして、親密圏における人‐間の複数性は、公共圏での「無限の複数性」にくらべればたしかに脆弱だが、アーレントのような議論に対しては、「人びとははたして『無限の複数性』によって特徴づけられる公共的空間に何の媒介もなく加わりうるだろうか、あるいは、親密圏の対話は本当に政治と無縁だろうか、それが政治的な権力(アーレントのいう意味での、『共同の協議』から派生する力)を生みだすことはないだろうか、と反問することもできる」[斎藤 2000:92]という。
 斎藤氏は、公共圏と親密圏を分析的に区別する基準は、「公共圏が人びとの〈間〉にある共通の問題への関心によって成立するのに対して、親密圏は具体的な他者の生/生命への配慮・関心によって形成・維持されるということ」にあるといい、親密圏がかならずしも「家族」とは重ならないと述べ、「具体的な他者の生/生命への配慮・関心をメディアとする観点からすれば、たとえば『セルフヘルプ・グループ』は明らかに親密圏の一つの形である」[斎藤 2000:94]としている。
 ここで齋藤氏が再定義しようとしている「公共圏としての親密圏」は、本書でいう〈顔〉のある関係性による「非同一的な共同体」に重なりあうように思える。ただし、齋藤氏は「共同体」が公共性とあいいれないもの、合一的で内部に差異のないものとしているために、そのような「非同一的な共同体」を具体的に存在していた「村落共同体」や「家族」に見いだすことはない。齋藤氏は、親密圏がいっぽうでは「複数の価値や意見の〈間〉」の差異が払拭されている「共同体」の側面をもつと同時に、他者との差異を維持しながら具体的な生や感情への配慮による「対話の親密性」を起点とする「公共圏」の側面をもつという両義性に注目しているが、前者の側面は「家族」(近代家族)に、後者の側面が「自助グループ」や反公害闘争などの市民運動に見いだされるとしているようにみえる。
 たしかに近代家族は、アーレントのいうように、サロンなどにおける親密な対話による公共性が失われた代償であり、むしろ人と人との具体的な関係性の連鎖を断ち切ることで形成されたものである。ステファニー・クーンツ[1998]がアメリカ合衆国において「家庭」(親密圏としての近代家族)とプライバシーの価値がどのように作られていったのかを明らかにしているように、他人を同居させたり、他人との間に相互扶助の絆を結んだりしている家族を救貧法や福祉の対象から除外するというような政策が、「近代家族」をこえて存在していた人と人とのあいだの親密な関係性を断ち切って「近代家族」およびプライバシーの価値を人びとに押しつけていったのであった*6
 けれども、じっさいには家族は近代家族のイデオロギーが述べるように、あらゆる差異を払拭した合一的なものではない。文化人類学者の大杉高司氏は、「非同一性による共同性へ/において」という論文のなかで、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーのいう「共同体」が、「非充足的で非完結的な〈主体〉が、他の〈主体〉たちと共出現し、決して共約できない各々の特異性の曝し合いをおこなう空間」[大杉 2001:289]を指していることを述べて、そのような共同体を「非同一性による共同性」と言いあらわしている。そして、大杉氏は、そのような共同性の空間が隣接性によってどこにでも成立することを、ディペシュ・チャクラバルティの紹介しているエピソードによって説明している。それは、つぎのような挿話である。シカゴ大学に勤めているチャクラバルティが米国からインドに帰国して両親と従兄弟夫婦と一緒に家族団欒でテレビを見ていたときに、画面のなかで、最近、親戚の男性と結婚した若い女性のベンガル人学者がベンガルの短編小説について論じていた。チャクラバルティはその女性のアカデミックな関心に興味を抱くのだが、両親たちは彼女のサリーの趣味や彼女が良い妻になるかといったことについて熱心に議論していたため、彼女の話をよく聞き取れずいらだちを覚える。けれども、チャクラバルティは、両親が、彼とは違ってその女性が論じていることにまったく興味を向けないにもかかわらず、彼女と自分たちとの「関係づけ」を行なっていることに気づき、いらだちがくつろぎに変わっていったというのである。
 つまり、当初、自分は彼女の研究者という社会的な役割(機能といってもよい)およびその言説に興味をもっているのに対して、両親のほうはその研究者としての彼女の側面には興味をしめさずに、もっぱら最近できたその女性と自分たちとのあいだの親族関係(姻戚関係)というつながりにおける側面にしか興味をもっていないことにいらだっていたチャクラバルティは、両親やたまたまそこに招かれていた従兄弟夫婦と自分との〈顔〉のある関係性のつながりがその空間をつくっていること、その〈顔〉のあるつながりがテレビのなかの研究者にも延長されていること、そして、その同じ空間にいる自分と両親と従兄弟夫婦の興味が「ずれ」ながらも隣接性によってつながること、そのちぐはぐなつながりこそが特異性を保持したままつながる共同性を生み出していることに気づいたとき、そのちくはぐなつながりは「くつろぎ」に変わったというわけである。
 いいかえれば、チャクラバルティが、家族の秩序とはまったく無関係に、テレビのなかの研究者の議論に興味をおぼえていたために、両親たちが彼女を親族関係や家族の秩序のなかに引きこんでいることが、自分の研究者としての興味と対立しあって両立しないことのように感じていらだつのだが、両親たちのつくりだしている〈顔〉のある関係性からなる家族の秩序がそのような「ずれ」をもふくみこんだ空間であることに気づき、その空間においてつくられている関係性が彼女の研究にたいする自分の興味をも排除はしないこと、つまり、その興味と彼女を〈顔〉のある関係性に引きこむこととは両立することに思いいたったとき、そのくつろぎの空間のなかで、チャクラバルティは彼女の研究への興味を保持しながらも、両親たちや姻戚関係にあるその女性との〈顔〉のある関係性をとりもどしたのだといえるかもしれない*7
 大杉氏は、この挿話についてつぎのように述べている。

それ自体が〈断片的〉なチャクラバルティの逸話は、家族の秩序を表象するはずの「両親の寝室」という空間が、決して「全体化」され得ない〈断片〉の寄せ集めによって成り立っていることを描き出していた。両親のベッド上での「インド流」の寛ぎ、テレビ放送、ベンガルの短編小説をめぐる語り、テレビの女性のサリーの風合い、「良い妻」であるかの品定め、偶然招かれていた従兄弟夫婦、そしてチャクラバルティの内省、それぞれがどれか1つに回収されることのない非同一的な〈断片〉として存在し、にもかかわらず多様に関係づけられ、〈断片〉が〈断片〉のままで非一貫的な〈共同空間〉を作り上げていた。[大杉 2001:292]


 このように、家族という共同体ですら、「閉鎖的で等質な価値を共有していて内面にいだく情念によってまとまり、一元的・排他的な帰属をもとめる」ような共同体などとはかけ離れている。にもかかわらず、そこには、隣接性によって「ずれ」ながらもつながることで、非一貫的なまとまりが作られている。そして、そのまとまりは、排他的なものではなく、親戚の女性にたいしてまったく異なる関心を寄せながら、そのような差異を払拭することなく、それぞれ個の特異性=〈顔〉を肯定するかたちで話題の対象となっている女性も含みこんで、関係性の連鎖を拡げていくようなまとまりである。

 ここで、「〈顔〉のある関係性」というときの〈顔〉について、説明しておこう。〈顔〉とは、代替可能で比較可能な特殊性でも、まったく代替不可能で比較不可能な単独性singularityでもない、「関係性のなかの特異性singularity」を指しており、〈顔〉のある関係性とは、なんらかの類似性を自分たちのなかに互いにみいだしながらも、究極的には隣接性のみによって保持される、比較不可能な個としての他者との直接的なつながりを指している*8。実際に顔と顔をあわせている関係であっても、〈顔〉のない関係であることもある。たとえば互いに顔を知っている教員と学生とが顔をあわせて話していても、教員は相手を「学生」というカテゴリーに押し込めて了解し、学生も相手を「教員」というカテゴリーによって了解しているのなら、そこには〈顔〉のある関係性はない(チャクラバルティが姻戚である女性研究者をおなじ「研究者」というカテゴリーによって了解していたように)。いわば目は顔に向けられていても〈顔〉をみないで話しているのである。〈顔〉は、対話のなかで、そのようにカテゴライズされた役割関係を否定し壊すような過剰性として、つまり「学生」というカテゴリーに完全には押し込めることができない過剰なものとして現われる。いいかえれば、〈顔〉とは、分割されたカテゴリーや役割によって計量することのできない過剰な「なにか」のことである。
 したがって、逆に会ったこともなく顔を知らない他者と、人の話や文字などのメディアを介しても〈顔〉のある関係性をもつことができる。そして、〈顔〉のある人と人とのつながりによる共同体というものを考える場合、重要なのは、〈顔〉のあるつながりは、〈顔〉という関係性のなかの特異性を保持したまま、実際には会ったこともない人にまで延長できるということなのである。それは他者との関係を敵とか友人とか親戚といったカテゴリーによってのみ了解するのではなく、直接的に顔をあわせている関係を起点としながら、そこに過剰なものとしての〈顔〉が現われるという事態を会ったことのない他者にも認めるだけで、〈顔〉のあるつながりは延長されうる。
 そのような延長によって、ナンシーのいう「われわれが『社会』と呼ぶものとも、『共同体』と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものか」がつねに/すでにつくられている。そのようなつながりを本書ではあえて「共同体」と呼ぶことにするが、その共同体は、市民社会の言説空間を理念化した公共圏(公共的空間)の逆転像として発明=捏造された「閉じられた共同体」とはまったく別のものである。
 もちろんそのようなつながりとしての共同体は、一時的・創発的な連帯とはちがって持続的なまとまりをもつ以上、「閉じられて」いる。けれども、それは近代の市民社会(あるいは公共的空間)の逆転像として発明された共同体とはちがって、同一性によって閉じられた均質なものではない。それは、閉じられていると同時に開かれている。そのことについて、ストリートという空間においてつくられる共同体を、コート・ジヴォワールの大都市アビジャンにおけるストリート・ボーイたちの文化生成を記述した鈴木裕之氏の民族誌『ストリートの歌』[鈴木裕 2000]に実例をとりながら、明らかにしてみよう。

 近代都市におけるストリート(街路)という空間は、開かれたものとして考えられている。アビジャンの「ストリートを生きている若者たち」の実態をみていく前に、まず、ストリートという空間の両義性について、アンリ・ルフェーブルが述べていることを足がかりにして、現代の都市におけるストリート紹介しておこう。ルフェーブルは『都市革命』[ルフェーブル 1974]の冒頭で、街路(rue(ストリート))を礼賛する意見とそれに対する反論の両方を並べてみせる(ルフェーブル自身はそのどちらにもくみすることなく、両論をならべているのだが)。街路礼賛派は、街路が活気あふれる「出会いの場所」であり、日常的な秩序から解放される場であると、次のように説く。

街路、それは無秩序なのだ。……固定され、冗長な秩序のなかに凍結された都市生活の全要素は、解放され、街路のなかで、街路によって、中枢へと流れ込む。それらは固定的な住居から離れて街路で出会うのである。……街路のなかで、またこの空間によってこそ、ある集団(都市自身)は明らかにされ、姿を現わし、さまざまな場所を占有し、占有した空間‐時間を実現するのである。このような占有は、使用と使用価値とが交換と交換価値とを支配しうることを示すものである。革命的な出来事はだいたい街路で起る。それはまた、無秩序が別の秩序を生み出すことを示してはいないだろうか? 街路という都市空間はパロールの場所、事物と同様に言葉と記号が交換される場所ではないのだろうか? それはパロールが書かれる特権的な場所ではないのだろうか? 壁に書かれた命令や制度から脱して、パロールが《野生に》変化し、書かれうるのは、一体どこだというのか?[ルフェーブル 1974: 29-30]。


 それに対して、反対派は、街路を資本主義的な消費の編制によって支配されている場として描く。

出会いの場所だって? おそらく、そうなのだろう。だが、どんな出会いなのか? それは表面的な出会いにすぎない。街路では、ひとびとは相並んで進み、出会うことはない。……街路? それは商品の陳列場であり、店と店との隘路にすぎない。(刺激的で、魅惑的な)見世物となった商品は、ひとびとを見世物へと変える。なおそのうえ交換と交換価値が使用をしのぎ、それを残り滓に還元してしまうのだ。……もし街路が出会いという意味をもっていたとしても、それは、いまや必然的な還元によってただの通りに還元されつつ、また(追いつめられた)歩行者用と(優先された)自動車用の通りに分割されて、出会いの意味を失い、その喪失でしかありえなくなってしまったのだ。街路は消費のために/によって編制された網目に変わってしまったのである。そこでは、歩行者の往来の速さは、ショーウィンドを眺め、陳列された品物を買う、という可能性によって支配され、測られる。……街路は、時間を売上げ高や利潤と同じシステムに従属させる。街路はもはや、強制労働、おぜん立てされた余暇、消費の場としての居住地、のあいだの強制的移動以外の何ものでもないのだ。/……このように考えることによってはじめて、映像(イメージ)や広告や物品(オブジェ)の見世物――シンボルや見世物と化した《オブジェの体系》――によって、街路のなかで行なわれている都市空間の植民地化について語ることができるのである。古い街路を近代化するなかで明らかになったことだが、環境の画一化は、物品(オブジェ)に効果的な色とかたちをまとわせ、それらをみるからに魅惑的なものにしたてあげる。とはいえ、街中で行列――仮装行列、舞踏会、民俗的祭典――が許されているということは、権力が空間の占有あるいは再占有のカリカチュア的なうわべだけしか認めていない、ということなのだ。だから、本当の占有、つまり実際の《デモ》による占有となると、それは弾圧的な力と衝突し、沈黙と忘却を強いられるのである。[ルフェーブル 1974: 30-32]


 ルフェーブルのいう街路礼賛派は、いわば「解放区としての街路」派であり、反‐街路礼賛派のほうはいわば「支配された空間としての街路」派といえよう。そして、ルフェーブルは、「解放区としての街路」派がいうような「祝祭空間」としての街路=ストリートを単純には認めていない。ルフェーブルの描く反‐街路礼賛派(「支配された空間としての街路」派)は、街路を「歩行者の往来の速さは、ショーウィンドを眺め、陳列された品物を買う、という可能性によって支配され、測られる」ような「条里空間」として描いているのである。そこでの「出会い」や「異種混淆性」や「祝祭性」は、見世物となった商品の出会いであり祝祭であり、商品化され価値を計測された「異種混淆性」である。そして、重要なことは、おそらく街路礼賛派(「解放区としての街路」派)のいうストリート(街路)もまた「条里空間」なのだということである。「解放区としての街路」においては、一時的に支配の区切り線を「境界侵犯」するけれども、その一時的・祝祭的な境界侵犯は、条里空間の区切り線を前提としているのである。
 街路礼賛派にとっても反-街路礼賛派にとっても、この条里空間としての街路は、通過するにしろ多様な人びとが一時的に集まるにしろ、だれにでも「開かれた空間」である*9。しかし、それが「開かれた空間」であることは、それが解放された場であること、雑多な出会いの場であることをかならずしも意味しない。

 それにたいして、街路=ストリートを生活の場としながら条理空間を平滑空間にしているのが、鈴木裕之氏の描いているアビジャンのストリート・ボーイたちだといえるかもしれない。アビジャンのストリート・ボーイたちは、現地で市民たちからは「ヌゥシ」(「ワル」という意味)と呼ばれ、主流社会からは「のけ者」扱いされながら、街で「自動車見張り番」(街に駐車している自動車を勝手に「見張って」お金をもらう仕事)や小型乗合バスの客引き、さらにはスリ、麻薬の売人などの犯罪行為などを生業にしている。
 ストリート・ボーイたちは、アビジャンの共通語のひとつである民衆化・クレオール化したフランス語をベースに独特のスラングをつくっている。それは他の人びとには容易に分からないことばであり、それによって自分たちの「ことば共同体」をつくりあげて、ストリートを「閉じた」コミュニケーション空間としている。けれども、ストリートを「閉じた空間」としているのはスラングだけではない。かれらの一派――ストリート・ボーイたちには、複数のサブカルチャー的な意味での「トライブ」がある――に、「ルバ」と呼ばれる「肉体派」のストリート・ボーイたちがいる。ルバたちは、空手などの武術でからだを鍛え上げ、ディスコの門番やさまざまな用心棒を生業とし、他のストリート・ボーイたちとはちがって、アメリカ黒人のようなバリッとした格好をして、ストリートを闊歩する。暴力性をはらんだかれらの身体技法や肉体誇示は、ストリートを近づきがたいかれらの「閉じた世界」にしているのである。
 このように、鈴木氏は、学校を代表とする主流社会から落ちこぼれたストリート・ボーイたちが、スラングやダンス、暴力を含む身体技法、そして自分たちの遊びのルールによって、ストリートを「閉じた世界」としてつくりあげていることに注目している。つまり、主流社会の視点(つきつめれば西欧近代の「市民社会」の視点)からみれば開かれた公共空間であるストリートをブリコラージュという実践によって自分たちにとって閉じた世界として「再領有」しているというわけである。
 この見方は、近代社会が創りだした「開かれた市民社会/閉じた共同体」というオリエンタリズム的な二元論と似ているようにみえるかもしれないが、まったく異なるものだ。その違いは、ドゥルーズとガタリによる平滑空間と条里空間の区別を援用すると分かりやすいかもしれない。すでに述べたように、条里空間は計量的空間であり、そこでは人は「空間を占めるために数える」のに対して、平滑空間はベクトル的・トポロジー的空間であり、そこでは人は「数えることなく空間を占める」。したがって、市民社会の公共空間が「開いたもの」とされるのは、その空間で一義的に位置づけられた役割を担う、代替可能で交換可能な個人(すなわち計量できる個人としての「市民」)であれば、誰でもその空間を占めることができるからである。いいかえれば、そのような公共空間は、条里空間として開かれているのである。そこでは計量可能・比較可能な個人であれば(すなわち明確な役割をもっていれば)、人種や階級や出身やジェンダーや思想・信条などによって排除されることなく、誰でも接近可能である。
 けれども、ストリート・ボーイ(学校から落ちこぼれたワルとしての「ヌゥシ」)のように、計量できない個、すなわち危険な者や散臭い者たちは、そのような条里空間としての公共空間に場所を占めることができない。彼らは市民的価値を身につけていない「除け者」であるゆえに、セキュリティと治安の名のもとに、いつでも排除されるし、彼らの居住空間である「ゲットー」は公共空間から分離・排除され、そこの住人たちは、「ゲットー」という「計量できないがゆえに見えない空間」封じ込められているのである。
 それに対して、ストリート・ボーイたちが「閉じる」ことで自分たちの空間として再領有しようとしている「ストリート」は、平滑空間をなしている。そこでの「等質性は無限に接近する点同士の間にしか存在しないのであり、近傍同士の接合は特定の道筋とは無関係に行われる」。閉じた世界としての「ストリート」は多様な接合によって「ゲットー」とも「主流社会」ともつながっているが、条里空間に暮らす主流社会の住人たる市民には計量可能な特定の道筋しか見えないために、彼らの共同体たる「ストリート世界」は、誰もが接近できるわけではない「閉じた均質の共同体」としか見えない。しかし、それは交換不可能で代替不可能な個、接触し合う個に対してはつねに/すでに開かれている。その「開かれかた」は、〈顔〉のある関係性による平滑空間をすこしずつ拡張していくかたちで開かれているといえよう。つまり、かれらはそこを条里空間とは異なる平滑空間とするために閉じるのではあるが、計量不可能な個の間の「微細な接触行為の空間」である平滑空間としては開かれているというわけだ。
 重要なことは、同じストリートという物理的空間が、主流社会では条里空間とされ、周縁化されたストリート・ボーイの側からみれば平滑空間として構築されているという点である。条里空間と平滑空間は実体として別々に分けられた空間なのではない。また、ミシェル・ド・セルトー流にいえば、ストリートは、ストリート・ボーイたちにとって他者の法、他者のエコノミー、他者のことばによって支配されている「他者の場所」である。それは主流社会によって作られ、その法によって包摂されている。そこでストリート・ボーイたちが作りだす共同体は、近年、「閉じられた伝統的な共同体」(という誤った概念)に代わって人びとの連帯や共同性を指すものとして唱えられている「創発的な連帯」などとはちがって一時的なものでもないし、「公共的」に開かれたものでもない。それは、主流社会の支配に包摂された「他者の場所」のただなかにおいて、その条里空間としての公共空間から「のけ者」にされたストリート・ボーイたちが、メディアや外部からの素材をブリコラージュして作った自分たちのルールや身体技法や言語使用によって、その空間を自分たちの世界として閉じる(=再領有する)ことで、平滑空間を現出させたものだといえるのではないか。
 本書でいう〈顔〉のある関係とその延長・連鎖からなる「非同一的な共同体」とはこのように「閉じつつ開かれている持続的な共同体」であり、そのようなパラドックスが可能なのは、条里空間として意味づけられ与えられた「他者の場所」である空間を、日常的実践において生活の場としての平滑空間へと変容させているからなのである。

*1:逆に、たとえば斎藤孝氏の『身体感覚を取り戻す』[斎藤 2000]では、身体文化や身体知は実体的なもの、自己完結した調和的なものとしてとらえられており、それが近代の教育などのシステムによって失われたことを問題として、その復権が唱えられている。

*2:この区別は、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」とも重なりあう。「真正性の水準」については、拙著[小田 2000]を参照のこと。

*3:ジャック・デリダ[1983]は、レヴィ=ストロースのいう栽培された思考と野生の思考(ブリコラージュ)という対比を二元論としてとらえてしまい、批判している。すなわち、遺産としてのテクストから諸概念を借用することをブリコラージュと呼ぶのならば、一切の言語表現はブリコラージュとなると述べながら、「レヴィ=ストロースがブリコルールに対比させているエンジニアのほうは、自らの言語を、構文も語彙もひっくるめてその全体を構成しなければならぬことになる」といい、エンジニアというものは一種の神話であり、「一切のブリコラージュ的な作業とは無縁なエンジニアという発想は、したがって、神学的な発想なのであり、……エンジニアというのはブリコルールの生みだした神話だということは、ほぼ確実なのである」[デリダ 1983:224、訳語を一部変更した]と述べている。もちろん、レヴィ=ストロースも、近代科学も実際にはブリコラージュによっていると言っている。デリダが理解していないのは、「自らの言語を、構文も語彙もひっくるめてその全体を構成する」という神話に依拠しているのが、自律的な啓蒙主義的主体を形成しようとする近代知のほうだという点である。デリダは、植民地主義がそのような神学的発想によるものであったことをまったく理解しておらず、また、近代知の(ツリー的)二元論と神話的思考の(リゾーム的)二項対立の違い(レヴィ=ストロースのいう概念と記号の違い)も理解していないために、「エンジニアや学者も一種のブリコルールであることをみとめると、ブリコラージュという発想そのものがたちまち脅かされることになり、それに意味を与えていた相違はただちに解消してしまうことになる」[デリダ 1983:224、訳語を一部変更した]などと見当はずれのことを述べている。もちろん、レヴィ=ストロースがいうように「エンジニアや学者も一種のブリコルールである」のだが、それをみとめると脅かされるのは、それらの区別をツリー状のモデルによって把握し、それによって固有の場所にたつ啓蒙主義的主体を形成しようとしている近代知のほうなのである。そのことについては、本書の第6章を参照のこと。

*4:このような共同体の「発明」は、合一的で道徳的な(利他的な)交換としての贈与の「発明」と重なり合っている。ジョナサン・パリーとモーリス・ブロックは、「多くの人類学者たちが贈与交換を基礎づけている原理と商品交換を基礎づけている原理とのあいだに発見してきた根本的な区別は、われわれのイデオロギーが贈与を市場交換の対照物として構成しているという事実から引きだされたものだと、私たちは考える。純粋に利他的な贈与という観念は、純粋に利害関係による功利的な交換という観念と表裏一体のものであり、非市場社会のイデオロギーがこの種の対立関係を生みだすとは思えない」[Parry and Bloch 1989:9]と述べている。この見解にも賛同するけれども、だからといって、贈与と市場交換とが区別できないものだということではない。重要なことは、非市場社会にはわれわれの知っている交換とは別の贈与交換があったのであり、現在でも、市場社会において発明された贈与交換/市場交換の対立によって規定された「贈与交換」とも「市場交換」とも区別される贈与交換があるということである。ジャン=リュック・ナンシーの言い方を借りれば、市場交換は贈与交換の廃墟の上に作られたのではない。それはわれわれが「市場交換」と呼ぶものとも、「贈与交換」と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものかの消滅のうちに、ないしその維持のうちに形成されたのである。

*5:実験的民族誌については、ジェームズ・クリフォードとジョージ・マーカスの編集した『文化を書く』[Clifford and Marcus 1986]などを参照。

*6:クーンツは、このような「家庭」(近代家族)と「プライバシー」の価値の押しつけが人びとの抵抗にあってなかなか進まず、アメリカ合衆国の白人たちにとっても実現したのが第二次世界大戦後だったと述べている。

*7:チャクラバルティのエピソードが、家族や女性研究者との〈顔〉のある関係性をとりもどしていく話だという解釈は、磯田和秀氏から教えられたものである(もっとも磯田氏はこのエピソードが理に落ちたものであることがひっかかると述べていたが)。ここに記して感謝したい。

*8:この〈顔〉ということばは哲学者のエマニュエル・レヴィナス[1989]から借用したものだが、レヴィナスの議論の全体からはずれて、多分に「流用」して用いている。

*9:多様なポジションの人びとが予測なしにゆるやかな目的のために集まって連帯するような「創発的連帯」(ジュディス・バトラー)といった、あたらしい形の連帯はたいていストリート=街路での集会をモデルとしている。