だめ連は何をめざすか 鵜飼哲+小倉虫太郎+神長恒一+ペペ長谷川

なぜ「だめ」なのか

鵜飼 70年代僕は京都にいたんだけど、今90年代になってだめ連の機関誌『にんげんかいほう』を見ていると、当時感じていたよりも東京と関西の違いがなくなっている気がする。だめ連的なものは70年代わりとあったよね。「しなやかな心と体」とか。でもその旗を背負うこと自体がけっこう力がいった。そこに違いがあって、今だめ連で言う「脱力」という方法が、これが新しい生き方だというのじゃなくて、これしかないという感じで今でているんじゃないだろうか。それが小倉さんがいうように、ドゥルーズのいう「消尽」という言葉とシンクロするような感じで。でもそれはたとえば70年代の高田渡の音楽なんかに感じるような、こんなに脱力していいのだろうかという雰囲気には通じるような気もするし。
 それから、社会のしがらみみたいなのからどう脱けられるか。当時はドロップアウトと自己否定の区別がなく、だめな人間が集まってくる、でも次に瞬間にだめにならなくてはだめだ、という組織や運動の回路ができてきて、だめになるには決意がいるみたいなことは70年代にはものすごくあったんだよね。そのあたりはだめ連ではどうなっているんだろう。
 そういうことからすると、今のだめ連にはなつかしい感覚と全然違うところから始まっているんだなあという異質感がある。いま「だめ」というのは具体的にはどんな現実に対応しているんだろう。

神長 僕は今30です。大学をで、休みの多いところをあえて選んで就職したんだけど10カ月しか続かなかったんです。すると回りを見ても遊んでくれる人がいない。みんな働いているんです。そこで、たまたま昼間遊んでくれる人が少数いて、そこからいろいろな人と出会っていく。そのとき、そういう人が集まれる場所がほしいと思ったんです。
 これは自分にとって重要なことで、みんな流れで就職するんだよね。みんな帰属を求めていて、それがないと不安なんです。多くの人はそうやって就職するだろうと思う。そこで、「だめ連」なんかを作るといいかなという思いがあったんです。だめ連の帰属はまあいわば、でっちあげのものなんだけど。就職問題が最初にあったということかな。

鵜飼 超氷河期の裏側ということかな。みんなが就職することを前提にしていて、それを脱構築するとどうなるかということだよね。

神長 就職と正しい人生がセットになってますね。

鵜飼 左翼でも党派の人のこと、東京では「会社の人」って言うじゃない。(笑)関西じゃ聞いたことない。だめ連的発想は東京だからでてきたんだという気がする。でも今は運動の吸引力は極端に落ちていて、嫌だという気分をとっかかりにしないと、どうしようもないところにきているよね。

神長 だめ連の1つの軸として、だめ問題というのがあって、これがあまり語られていないんじゃないか、という思いがありました。判断の軸として、人からだめなやつだと思われたくない、というのがあります。それが基準となっているのが、人生をつまんなくしている、というかそこに「はく・うだつ」の問題を見たいと思うんです。

小倉 そういうので外に出られなくなっている人も多いですね。だめの悪循環。80年代、街とか建物がどんどん清潔にきれいになっていく中で、逆にプレッシャーがきつくなってくるんだよね。それを考えるために、僕の場合はドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』がきっかけになりました。

神長 デモにいってさえも帰属がないんですよ。

鵜飼 だめの悪循環は苦しいよ。フランスなんかでは、離婚するとホームレスになっちゃうというのね。離婚と仕事をやめることがフランス人のメンタリティの中でセットになっている。そういう傾向は日本でも増えているのじゃないだろうか。バラバラにあるんじゃなくて、就職に結びついていて、1つ崩れるとみんな崩れるということが問題だ。

小倉 その中で新保守主義みたいな土壌というか、宗教の土壌というか、一発逆転を狙う、つまり今ある現実から離れて、すばらしい世界にジャンプするみたいなことは、一時期はうまくいくんだけど、それがさらに悪循環になっていくということが80年代にはありましたよね。一気にきれいにしてやりたいという欲望なのかな。


方法としてのトークと交流

鵜飼 一種の原理主義だよね。浄化の運動といっていいかな。歴史的にいって「だめ」というのは子供の頃からの刷り込みだよ。はっきりいって、ヨーロッパなんて公然とだめしている人はいっぱいいると思う。それでは外国人問題が起こったとき、移民がやっているような労働をやるようになるかというと、それはやらないだろう。日本の寄せ場の問題も、そこでやっているような労働を外国人にやらせるということは、資本家にとってチョイスとしてはありうることです。日本の場合はしかし、寄せ場を維持している。アジアのスラムと違うのは、単身男性が主流だということ。そういう資本主義のあり方と、90年代になって、大卒の層までだめの恐怖からのがれるにはだめを受け入れるしかないという追いつめられ方の間にはなにか関係があるのかな。
 考えてみると、大きくなったらああいう人にならないようにしなさいと言われて育てられてるよね。だからだめを自分で受け入れることはすごく恐い。その恐さをどう表現できるかだよね。だめ連でよくいう「トーク」もその表現の1つだと思う。
 トークというのはセラピーでもないし、いわゆる討論を通じて、一致点を見いだすというテロスをもったものでもないよね。一種独特なものだという気がする。自分のだめ性を受け入れるという、受容の恐さとトークの関係はどうだろう。

ぺぺ だめというのはなかなか受け入れられないですよね。

小倉 1人で死んでいくというイメージは恐いですよね。80年代は学生運動が先細りになっていっていく中で、1人ではなくてトークとか交流とかを通じて束の間でもいいから共同性をつくるということになっちゃう。
 僕の中ではドゥルーズなんかとトークが結びついたということもある。彼等は資本主義の陰の部分の隙間ということをいうわけです。だからイベントは僕にとって共産主義なんです。これは学生運動とは別の系譜ですね。たとえば『パーティー・マニア』という雑誌があって、ただパーティーしようぜという雑誌なんだけど、僕が考えていたこととぴったりきますね。でも資本の側もパーティーを回収したがっているんであって、ある種のせめぎあいの場所ではあるんですけど。

ペペ 孤立への恐怖ですね。

鵜飼 自然にそうなっていったんだよね。

ペペ 交流ばっかりしていたんじゃだめで、もっと1人になって、とよく批判はされます。

神長 なんか部屋で1人でタバコでも吸ってるっていうイメージね。(笑)

小倉 単独性というのは実は複数性を前提としているんだけど、そう理解されてないと思う。昔はなにか目的があってトークしてたんだけど、ダメ連ではトーク自体が自己目的化してるよね。(笑)

鵜飼 80年代からの現代思想的なものの流れでもう1ついうと、共同性という場合も、無媒介ではなくて技術的な媒介をたてないといけないという前提があった。今はサイバースペースみたいに顔の見えない共同性をいう人がいるんだけど、だめ連はその逆で、顔の見える関係だよね。その違いはなんだろう。

神長 僕も交流とトーク中心の生活なんですけど、学生の時はいたずらに接触を避けていたんです。もちろん議論もない。

ペペ 僕も学生の時は哲学科にいて、いつも恋愛の話ばかりしていた。教師が他にする話はないのかというんですけど、いえ、ないんですと答えた。(笑)議論がないんですよ。

神長 だけどだめ連は過剰に食い込むんです。それはすごく新鮮でした。いいなあと思った。

小倉 共同性は一時的でもいいと思う。いつも同じ顔だとだめですね。それで交流の場を増やそうと思ったんです。僕はだめなんだけど、ぺぺさんなんてどんな人とでもトークできるよね。

ぺペ トーク・ジャンキーですから。

神長 面と向かって人と話すということがないがしろにされているという気がしますね。アートはわりと好きで、展覧会なんかよく行くんだけど、その後の打ち上げで話し込んでみると、アートとは要はコミュニケーションだというんだけど、あまりつっこんで話し合わないのね。もっと「交流」というジャンルにもスポットが当たってもいいと思う。

ペペ
 僕は左派系の集会によくでるんですけど、集会の後の交流が僕にはメインのイベントですね。それがないときびしい。

神長 映画館なんかも出会いの場として機能するとおもしろいですね。ただ見て終わってしまうのはもったいない。展覧会でも作品を見て終わってしまうのも寂しい。「交流文化」が盛り上がるといいなあと思う。

小倉 共同性にもいろいろあって、家族とか国家とかいうと所属感があるけど、トークの共同性は束の間感ですね。そういうのがあっていいと思う。

鵜飼 特に日本では、その人となりがよくわかってないと口が開けないような雰囲気が小学校の時からあるような気がする。

小倉 外国にいくとつい話しちゃいますよね。

鵜飼 日本くらい見ず知らずの人に話しかけられない国はないよね。

小倉 台湾からきた友達が地下鉄でみんな黙っているといって、びつくりしてました。

鵜飼 その沈黙が国労のストライキを打ち破ったと思う。ストライキでみんな待っているときに黙ってないでトークできたら、迷惑スト論なんか起きないと思う。トーク不在の社会ということは考えられるよね。

神長 それは80年代の学生の雰囲気と同じだよね。

鵜飼 最近じゃ何々君今日は語ったなあ、という表現が排除の言葉として使われているらしい。

神長 人生や世の中についてしゃべることがださいみたいなね。

鵜飼 もともとは自分の言葉なんかないんだから、交流を通じて自分の言葉にしていかないと。トーク不在の社会というのは極端にいえばそれ以外の可能性がまったく見えなくなってる社会だと思う。
 それとだめ連のもう1つのおもしろさは金の問題だよね。お金がないと困るじゃんというリアルな話の一方に、資本主義ここまできたらめちゃくちゃやってもだいじょうぶという話もある。それでもけっこうやっていけるという、励みになるイメージがだめ連の中ででてきたと考えていいんだろうか。

ぺぺ 友人で過剰適応というか、異常にがんばっている人がいて、どういうわけが働けば働くほど借金が増えていって、結局仕事をやめた奴がいるんです。いまどうしているかというと、民衆から金もらって生きているというから、ほっとした記憶がありますね。

小倉 居候ということをやっている人がけっこういて、いろいろなうちを点々としてるんです。

鵜飼 昔はそういう人いっぱいいたよね。食客という言葉もあるくらいで。

ぺぺ 居候、3杯目はそっと出し、というやつね。

鵜飼 逆にいえば3杯目までは食えたわけよ。(笑)2杯目までは堂々と。(笑)

小倉 食客にはおもしろい人が多いですよね。

鵜飼 それはホスピタリティの問題だよね。

小倉 歓待のユートピアですか。(笑)
 加納穂子さんがアパートを1軒借りてしまって共同保育をやってます。ここにいる河地君も参加してる。個室もあるけど、共同スペースもあって、いろんな人がくるんです。このあいだドイツのアウトノミアの活動をやっていた人が来てて同じことを指向しているといってました。

ぺペ ライフスタイルの問題といったい幾らかかるんだろうという問題がリンクしてきますよね。今共同で住んでいるところの私の家賃の分担が2万円なんだけど、庭も風呂もあるんです。ここよりいいところにこれからも住めることはないだろうと思う。(笑)それならば、アルバイトライフスタイルでも維持できる。でもそこで老後はどうするんだろうということになって、いつもそこで混迷に陥るんです。しかし多少の展望もあります。年金制度が十全に機能しなくなれば、一定数の人々は共同生活に向かわざるをえないでしょう。人はいったい一生に幾ら稼がなくてはいけないんだろう、ということですね。

鵜飼 はじめて年金なんて考えたときぞっとした。どうして年とったときのことを今考えなくちゃいけないんだろう。年とったときの自分って、ある意味じゃ他人だよね。それこそ理想的な社会のために今を犠牲にする共産主義運動と似ているところがあって、それは倒錯してる。

神長 そこも視点にいれてるつもりはあるんです。むしろ結婚した老後の方が親を見てるときびしい気はしますね。

鵜飼 男と女の違いはあるね。結婚しても女は老後は1人の確率が高いよね。

神長 むしろこうやっている方が老後は大丈夫だよね、という話しはするんだけど、やっぱりそれはよくわからないです。不安は拭えないところがある。

ペペ だめ系の年金問題をトークするという企画も予定しています。(笑)共同生活の訓練を今からしておくほうがいいのではないか、とかですね。

小倉 人に看取られながら死ぬということに代わるものとして、保険という制度を資本主義は発達させてきたんだろうけど、いまみたいになるとそれだけでは回らなくなって、年金は払えないという人もでてきて、そこで共同性というものが必要になってくると思うんだけど。

鵜飼 単独者の論理はある意味で強者の論理だよね。

小倉 福祉ではなくて自分達で、共同性をつくっていかなければ、というところがありますね。

ぺぺ うちも父親がすこしボケ気味なんです。そこで疑似息子、疑似娘というものを広告を出して募集したら、そこに参加したいという候補が出てきたんです。手作りの福祉という感じですか。

鵜飼 それはいいね。

小倉 そういう知らない人に対したとき、お父さんの反応はどうですか。

ペペ それは大丈夫で、喜んでました。


だめと都市性

鵜飼 親とか世間の目というのは、東京で親から離れてやっている分は大丈夫だけど、地方はきついよね。女性はもっときつい。そこでだめ連の都市性ということが問題になってくると思う。そのへんはどうなんだろうか。

ペペ 地方でだめ連の展開はきついんだけど、基盤はないことはないと思いますね。

鵜飼 田舎でコミューンを作るというのは昔からあったけど、共同性をどうするかという問題は常にある。都市の問題とその共同性が結びつくところに先ほどのホスピタリティの問題があるような気がしてて、ヨーロッパだと中世都市の「都市の空気が自由にする」という伝統と関連する。今の都市自体が失ってしまった機能をこういう形で回復するという位置づけがありうると思う。
 去年からの新宿西口での展開を見ていて思うのは、日本には第三世界的なスラム的共同性はもうないし、他方でヨーロッパのように福祉が発達して野垂れ死にさせないほどでもない。要するにいくところがないということなんだよ。物質的には新宿はそんなに寒くはないんだけど、これから資本主義が人の心の内部にさらに深く浸透していったときに、近代の資本主義の展開の中で1度は放棄されたホスピタリティの伝統を回復しないとシステム自体が持たない。そういう局面にきてると思う。
 フランスだと移民達が教会を占拠して、昔教会が持っていた神の避難所の意味を教会に与えかえす形で運動が起きた。そういう歴史的可能性のある場所が日本は全然ないんだよね。どこを占拠してもすぐ警察がきちゃう。だからこそだめ連の共同性というものは意味を持つんだと思う。

ぺぺ 日本って、すぐ部屋に引きこもるしかなくなりますね。

鵜飼 コンビニだってみんな黙ってるもんね。男だと国家はともかく家族、私有財産を背負って生きていくのが当たり前という社会で、でも俺はだめだという感じのだめの意味。
 60年代、70年代だったらこれは反体制、体制からの離脱なわけです。今は失業ということを含めてシステムから排除する動きがあって、排除とか回収ということも資本主義の段階の違いを反映して意味が変わってきている。ドロップアウトするのにも余り力がいらなくなってきている。だけど抜けたところが必ずしも社会の外じゃないわけ。じゃそこはいったいどんな場所だろう。だめ連の共同性がどこにあるんだろうということだね。

ぺぺ いろいろ交流していると共同性の置き場所もたこ足的でないと、というところはありますね。だめ連おもしろそうだからがんばれよ、という人は多いんだけど、現実に入る人は少ないんです。共同性という点で少しおもしろいかな、と思うのは平日は昼間からかかってくる電話ですね。

鵜飼 60年代、70年代のドロップアウトは倫理的にもシステムの外に出なければいけないという要請なんです。それは決意がいったんだよね。ヨーロッパの80年代の運動には反対に排除はいけないという原理があった。自分達の未来は保証されないんだから、逆に社会に自らを再統合していく、自分達がいられるような社会を作れという要求が出てきたと思うんだけれども、だめ連の今のイメージはどちらでもないんだよね。
 単純に社会の外が想定されて、そこに出ようという運動でもなければ、みんなが統合されるような社会をつくろうという運動でもない。そうではなくて、気がついたらそういう場所にしかいられない、その場所っていったいなんなんだろう、あたりを見回すと同じような人がいっぱいいるね、というところなのかな。マージンなんだけど必ずしも外ではないという独特の雰囲気がトークを通じて感じられるな。

小倉 だめ連は男が主流で、きわめてホモソーシャルなところなんだけど、男が主流なりに学生の頃とは雰囲気がかなり違うな、という感じがする。社会からドロップアウトするという決意主義的な行動も男性原理的な感じがする。
 ぺぺさんは「男女間の友情」という名のバンドをやってて、脱力という意味でいえば、フェミニズムの中で女性らしさということを括弧にいれるということがあったように、男性らしさを括弧にいれているなという気がするんです。男らしさというのを演じられないという雰囲気が強いですね。ジェンダー的なものが強くないですね。そういうことができなくなってるんです。それが共通しています。

ぺぺ 男らしさというのは無理だよね。でもだからこそ男性らしさが大変な人からだめ連ホットラインに昼間から電話が入るということだと思う。まるで働いてない人たちから。

神長 だめな人というのは、1人で部屋に閉じこもっている人が多くて、そうするとだめをこじらせてくるんですね。

鵜飼 だめをこじらせるという言い方も重要だね。いくつかのだめを併発する、とかね。(笑)

神長 それがこじれてくると、そういう人に交流しようと呼びかけても、なかなかだめなんです。もともとだめの定義の中に人と交流できない、というのがあるんです。電話は長電話が多くて、俺はだめだということを延々というわけです。そうするとだんだん煮詰まってきて、だんだんこちらも消耗してきますね。だめ連がだめな人にとって結構ハードルが高いのかなとも思いますね。 セルフヘルプグループというわけでもないんで、そこにふっときたときいろんなことが起こります。ぼくの発言に傷ついたりということもあったりするんです。

ペペ だめ連はだめじゃないじゃないか、という批判もある。交流貴族じゃないかとかね。(笑)

鵜飼 だめ連の文法を身につけないと、ということになってしまうということか。難しいね。

神長 でも、余り期待されても困る、ということもあるよね。やばいよね。(笑)ぺぺさんなんかけっこう人格者だと見られたりして、そうなってくるときびしい。
 運動にかかわっている人はそれなりに優秀であるべしというようなプレッシャーを感じるときもあり、結構だめな人がやってますよ、というのが売りの1つなんだけど、ときどき交流していて揚げ足をとられることがある。たとえばフェミニズムなんかで、フェミニストのくせに結婚して、なんていう批判の仕方があるけど、別にいいじゃないか、と思いますね。だめ連のくせに就職して、とかね。

ペペ このまま一生就職できないかも知れない。どうしてくれるんだというのはあるね。

鵜飼 だめ連に永久就職したりしてね。(笑)

ペペ 本末転倒ですよ。(笑)
 回りにいろんな集団があるんだけど、だめ連自体にはあまり実態はないんです。交流しても話を振っているだけだったりするよね。こういうのを複合的アイデンティティというんでしょうか。

鵜飼 それはアイデンティティが複数あるということだから、そもそもなにもないところには。(笑)でもそれは小倉さんもいうようにパッサージュのイメージに近いかも知れない。

小倉 この中央線沿線のわりと近い範囲で顔の見える範囲で交流しているわけで、かつての党派のイメージとは違います。

ペペ イタリアのユースセンターに近いものがあったらいいと思いますね。そこでもろもろのものが混じっていろいろやっている。それに近いんじゃないかな。しかし私ももう「ユース」では……。

小倉 イタリアの都市的なものがもともと持ってた広場的なものは残ってるよね。アウトノミアの運動にもそういうところがあった。日本では、そういうのがないんだけど、それに対する需要は高まっている気がすごくする。バンドやってる人は近くに住んでなくちゃいけないんで、一緒に住むとかいう知恵があって、ドゥルーズ=ガタリのいうユニットに近いものがあると思う。中野界隈のユースカルチャーはそれに近いのかな。

鵜飼 大学はどうしてもっと利用できないんだろう。

ペペ イベント空間としては使ってるんですけれども。

鵜飼 就職説明会の時を狙って登場するのはどう。反就職とかね。普段そういうことをやってるわけじゃないんだけど。(笑)


やめることの権利

鵜飼 80年代のニューアカ文化といってもそう単純じゃなくて、たとえば浅田彰が「逃走」といったときにもそのコンテクストは、なにも力まなくても逃走といったとたん自然に力が抜けて、それが闘争=逃走じゃないか、ということだったと思う。それでもまだ逃げる主体を残してはいるんだけど、気がつけばシステムの方が逃げちゃってるということかな。その頃、谷川雁が復帰して、おれだって三池から逃げたけど、逃げるというのは基本的人権だね、と言っていた。それっておおきいと思う。
 逆にいえば、いつでも逃げられる環境をこまめに作っていくのが、これからの運動として意味があるんじゃないかな。ぼくだって大学の仕事やめたいと毎日思うわけ。(笑)

ぺぺ 佳境に入ってきましたね。(笑)

鵜飼 そのとき思い浮かべるのは職場の人と学生だよね。と同時に、神経症的に仕事をやりたいという衝動もある。それはやばいんだよ。なぜかというと、いままでどこかで確保してきた自分の中のフリースペースみたいなものが気がつくとなくなっている。そうすると衝動的にやめたいという気がでてくる。
 ふつう教師がやめるといったら自己否定型のやめかたなんだけど、そうじゃなく抜けられる可能性というのはなんなのかと考える。出ていくという関係ではなく、そこをやめてもそこにいるという感じでやめるにはどうしたらいいのか、ということを考えるね。
 ヨーロッパにとって68年前後の文化革命というのはすごく大きなものだった。今の状況は、68年以前に揺り戻したいという勢力と、そこに戻るんだったら俺達は生きられないという人々のきびしいせめぎ合いになっている。

ペペ 大学なんかなくてもいいというのもありますよね。

鵜飼 それは常にあるね。ヨーロッパの大学には68年以降のものをどうやって取り込むかという作業を真剣にやってきた経緯がある。それが日本の場合、政治がらみのものにはアレルギーがすごく強くて、新左翼の内ゲバと69年前後の大学は、日本の近代にはきわめて希な内戦だったんだよ。内戦というのは隣近所の人間が殺しあうわけだから、構造がものすごくねじれてて、ルサンチマンもすごく深い。制度的にも。
 そういう状況をふまえて、今の学生と逃亡志向のある教師がリンクして、なにか魅力的なプログラムがあったら、大きな形で大学を一時的に占拠して何かをやってみることはありうる。局面的にはアジールにもなりうるよね。今までの対立軸ではないところで何かできないかなとも思う。
 いずれにしても、69年をもう1度考え直してみる意味はあると思う。それはアウトノミアにもつながるものだし。だめ連のなかでもみんな気がついていることだけど、だめとはなにかが定義されちゃうと、たとえばトークできなきゃいけないということになると、トークできない人はなかなか行けないということになって、こじらせている人はこれなくなっちゃう。だめ連的なものの定義がとりあえず社会からだめといわれることだとすれば、それをポジティヴにとらえかえそうとしても、ポジティヴにはいえない。そのあたりをどううまく育てられるかということかも知れないね。そこにだめ連固有のチャンスと危険があると思う。だめ連の自然なドロップアウトが、たとえば非合法とか地下になっちゃったと同じように、そんなつもりはなかったのにいつのまにか地下だ、というふうになると、権力も対応できない。そういうプロセスを促進する試みがまず1つあるような気がする。理論があって革命の方法があるとすれば、権力だって学習しちゃうんだよ。権力の匿名性に、自然に脱システム運動してしまう異質な匿名性がどう抵抗していくかということかな。

神長 だめ連の場合、明確な骨子がないんですよね。

ペペ 一応人間解放を掲げてはいるんだけど。(笑)

神長 ある程度あったほうがいいと思うときもあるよね。だめ連の色とか、こういうふうに何となくもっていきたいというのはあるけど、明確なヴィジョンはない。ただ、権力というのは社会のいいイメージばかり強調して、個人もそれにつられて生活のレベルをあげていこうというプレッシャーがあるけど、一定数の人はこぼれざるをえないという現実がある。また、「社会に対して怒るほど不幸というわけではない。それなりにいい暮らしをしています」というようなことはよく耳にするけど、本当にそうなのか。仕事や性の間題など僕たちの日常の生活の中には充分深刻な間題があると思う。きびしい人ほど展望がなくて、だからといって希望があるわけじゃなくて、新興宗教とかにいく人も多いんだけど、もうちょっと他にないのかなとは思う。

ペペ ささやかな活性化がうれしいよね。

鵜飼 今のような時代になってくると、いままでとは違う知恵が必要になってくる。もう1つは地域ということがあるよね。インターネットじゃないんだという方法で問題をたてるとしたら、東京という都市性の問題もあるけど、さらに狭く中央線沿線の運動としよう。地域の行政や他のグループとどんな関係をつくっていくのかというときに、言葉の間題がでてくる。行政とどんな言葉で話すのか、日本語ではそこで同じ言葉が話せない、ということがあると思う。
 結局横断的な運動を目指すと言葉を使い分けるということになる。なんか分裂をはらんでしまうところがある。すると、だめになった人に届く言葉を作れなくなってしまう罠にもなる。その先を考えたとき、言葉の宛先に規定されてしまう力学とだめ連の元にあるこじれた人に届く言葉をトークを通じてという方向性の間のギャップ。そこに課題があるよね。
 思想的課題でいえば、トークということが重要なんだから、そこで使っている言葉の質をいわゆる言語論ではないところでどう掘り下げられるか、というのがおもしろいんじゃないだろうか。なぜトークしてると排除されてしまう人がでてくるんだろう、とかさ。

小倉 グラムシじゃないけれども、なにかを媒介していく機能ということがしたいな、というかなにかを勉強するというよりは、単なる媒介なんだから、ということなのかな。それを自然成長性と呼びたいという気がする。だからだめ連的な言い方というのは、たとえば「だめをこじらせる」、とかいうのはいままでなかった語用だと思う。それは僕にとっても衝撃的だったな。これはみんなに使ってほしいな、という願いも込めてですけど。

鵜飼 運動でなにが一番だめかといったら、運動にはいる前の自分を忘れちゃうことだと思う。1度一線を越えるとそれきりその立場からしか言葉を発せない。でも理想的には活動家というのは何度でも両側を行き来できる、越境のできる人間であるべきなんだけれども、それはほとんど有り得ない。
 でも、だめ連の場合境界というのは、つまりだめ連の中にいる人と外にいる人の境界は暖昧だよね。トークというのはもしかすると越境の経験みたいなこととして方法化されていく可能性はあるんじゃないか。そこにおもしろさがある気がするんだけど。
 だめ連をやる前の自分をどう語れるかととうことが大事なような気がする。そこに語りの問題があるんだけど、どれだけ自由に以後と以前がつながれるか。そこはどうなんだろう。それはだめをこじらせた人の方に力点があるんだけど、もう1つもう少し目標を設定して、という方向もあるよね。

神長 ここからここまでがだめ連のメンバーというのがないから、いろいろに交流しながら、そこに自然に枠があるといえばあるんだよね。

ぺぺ 僕が枠といった場合、さしあたり自分自身に対してであって、だめ連ではないんですよね。

神長 そもそも何のためにやっているのか、ということかな。根源的な問だね。(笑)

小倉 僕は運動はいつでもどこでもある、というふうになればいいなと思うし、それをずっと考えてる。

鵜飼 だめ連の場合はだめじゃなくなろうという運動じゃなくて、ある仕方でだめにとどまろうという運動でもあるよね。それが一番他の運動と違うところで、初発のところから別のステージに変身するのが他の宗教とか政治運動なんだけど、だめ連の場合、だめのステージにとどまろうということがあって、とどまりつつ変わるというところにおもしろさと難しさがあるんじゃないかなという気がする。

ぺぺ 最初はびびってたんですよね。他に道がなかったのかな。そこで内面的に崩れることだけは避けたいというのはありました。それがこじらせない、ということの意味ですね。そういうことはできるだけ表現したいなというのはあります。でも、こういう暮らしは楽しいというのもある。私(達)は何を望み、何を望まないのかということを吟味しながら生きていきたい。

鵜飼 岡林信康みたいだね。(笑)

ぺペ サパティスタですよ。(笑)

神長 さっきからこれをキメようと思って考えてたのか。(笑)

ぺぺ それは結構うまくいっていると言える部分もあります。

鵜飼 上昇しないで、めりこまないで、ぎりぎり低空飛行で、ということかな。

ペペ もうちょっと上昇したいかな。(笑)しのぎの問題かな。でも、今後友達には事欠かないかな、という展望はもてました。普通に働いて、結婚しないと、若いうちはいいけど後がねえ……とよく言われることには半分の真実味と半分の嘘があるようです。

神長 でも、もうちょっとまともな暮らしがしたいんです、といったとき仲間から足を引っ張られる可能性も逆にあるよね。(笑)

ぺぺ そのとき抜けられる権利は確保しときたいね。(笑)僕自身でいえば、就職、結婚、家族コースというのがきびしいだろう、ということで共同性は自然と交流にならざるをえないんです。そのときどういう人とどういうイベントをやるかということを考えざるをえない。そのときどういうことをしゃべっていくのか、ということを考えたとき、枠のようなものを考えざるをえない局面もあります。それから、運動的なものがもうちょっと社会に迫り出してもいいんじゃないかという気もある。そこから枠のようなものを考えたいんです。それを思想と呼ぶかどうかは謎ですが、そのような意味で『現代思想』界にも期待しております。(笑)まあ、長い目でみてやってください。

(うかいさとし・フランス文学)
(おぐらむしたろう・著述業)
(かみながこういち・だめ連)
(ぺぺはせがわ・だめ連)