メガロポリスの予言者 ──現代都市における所有と占有について──  酒井隆史

 
 スクワティングという言葉かある。空き家占拠と訳されもするが、このスクワティングという問題は、いま世界のなかで、都市と公共性を考えるときに欠かすことのできない現象といえる。
 ごく最近、あるジャーナリストリストによるスクワティングについての著作か出版された(Neuwirth,2004)。著者は、リオデジャネイロ、イスタンブール、ムンバイ、ナイロビの4つの都市のなかのスクワッターによる近隣住区で実際に生活し、そこで生きる人ぴとや彼らの構成するコミュニティを詳細に描きだしている。彼の発見したものは、崩壊し無法の蔓延するおそるべきスラムという、メディアをはじめとした外部の生みだすイメージとはかけ離れた、勤勉でモラル心にあふれた人たちと彼らかつくりだした活気あるコミュニティだった。
 この著作は、さらにスクワットの歴史をたどり、そしてニューヨークなど先進国のスクワットについてもかなりのスペースを割いている。そのようなフィールドワークの経験と事例の検討から,この著作では、次のような考察が加えられる。世界の人口のうち6人に1人がスクワッターである(Neuwirth,p.9)とされるいま、すでにスクワティングは、本来なら許されざる異例の無法現象ではなく.膨大な人びとの事実上の生活のスタイルとなっている。決して好みの問題ではなく,スクワットは、それがなければ生存できない人々が必要とする生活形態なのである。そして著者は哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉──「存在に住まいが先立つ」──を引用しながら居住という問題を資本主義的所有の観念にとらわれることなく捉えかえすべきである、と提案し、そしてそれが未来のより公正な都市づくりの基礎となる結論している。
 そこで彼がとりあげるのが、占有(possesion)という観念である。「私たちは彼ら[スクワッタ一]のコミュニティーを、所有権という頑迷な概念によって押しつぶす必要はない。そのかわりに私たちは、彼らから学ふべきなのだ、いかに占有が所有に優先されるのか、を」(p.306)
 私的財産としての所有と、事実上使用しているという占有──そのあいだの亀裂は、公共住宅サーヴィスが世界レべルで沈下しつつあり、しかもそれと併行して貧富の格差の拡大しつつある世界において、深まっていく一方である。そしてそれにともなって、所有の権利は高まり占有の権利は縮小していきつつある(日本でも、ここ数年の借地借家法の改正は、家主の権利を高め、事実上の居住者、借家人の権利を低下させるものである)。
 たとえ所有というレベルでは違法でも、事実上の占有のもつ権利を捉えかえし、練り上げていく作業は、これからの都市と人間の生存のあり方を考察するときに、きわめて重要な意義を帯びるだろう。
 以下の文章は、私が2004年にニューヨ一クでめぐりあった1つの事例、1人の人物へのこれまでの取材から、このような問題について導きだした中間報告である。


 1. Casa Del Sol(太陽の家)

 ニュ一ヨーク市はマンハッタン、クイーンズ、ブルックリン、ブロンクス、そしてスタテン島の5つの区(borough)で構成されている。そのなかのブロンクス地区にCasa Del Solというスクワット空間があった。マンハッタンからハーレム・リヴァーを超え、ブロンクスに入ってすぐの、川に面した地域にある大きなアバートメント全体がCasa del Solだ。Casa Del Solはそう呼ばれはじめてからは10年ほどたっているが、そのアパ一トメント自体は、所有主にそれが放棄されスクワットがはじまってから約20年の歴史をもつ、私はニューヨーク在住の友人だちと、11月の終わりごろにそこを訪ねてみたのである。さまざまな壁画がいたるところに書きつけられている建物のその広大な内部は.居住はもちろん会議場、集会場、そして宿泊所、コミュニティの子どもたちむけのアート学校(Art for Everyoneという言葉がアート講座の部屋のドアに掲げられていた)、そしてガーデニング、ライヴ空間などとして活用されでいた。取材してわかったことは、このスペースがコミュニティに奉仕する指向性を強くもっていたことである。後述するように、立ち退きのあと、ある住民は次のように述べている。「私たちはコミュニティにポジティヴなやり方でインパクトを与えようとしているのです」。Casa Del Solは毎年おこなわれる近隣住区のストリート・フェアやハロウィン・パーティを主催し、さらに地域のコミュニティー・ガーデン(後で説明する)を財政面をはじめ多面的にサポートするNPOであるCherry Tree Associationに事務所を提供していた。
 さまざまな作物が植え付けられている庭で野良仕事をおこなうこのスクワット空間のリーダーであるラファエル・ブエノ──50代中盤の男性──に、あいさつをして、中に足をふみいれると、さっそくカルロス・エデン(Carlos Eden)というアルゼンチン出身の男性のお年寄りが話しかけてきた。アルゼンチン最南端の先住民コミュニティ(Kawesgar people)出身であり、その先住民コミュニティの代表として国連の会議に出席していた彼は、自分たちのおかれた苦境とみずからの役割をしみじみと語った。その彼によるとCasa Del Solは、南北アメリカ大陸から集まってくる先住民がニューヨークに来たときに宿泊をしたり、会議をとりおこなったりする場所である。つまりCasa Del Solは、コミュニティに密着したスベースであると同時に、南北アメリカ大陸の先住民による社会運動のニューヨークにおける拠点として機能していたのである。
 私たちは、またいく度か訪ねるつもりだったので、野良作業に精を出すラァエル・ブエノヘのインタビューはこの次に、ということにしてCasaに出入りする人間の多くを占める、パンクあるいはそれと密接にむすびついたアナーキズム文化に属する、と、一応定義できるだろう若者たちの1人に案内と説明をおねがいして、その日は引き上げた.私たちが帰るときに.地域のアフリカ系の子どもたちが、コミュニティのアート講座に絵をならいにやってきたのが目にとまった。
 ところが、その訪間の数日後の11月30日に.Casa Del Solのアパートを「ACORANに譲渡せよ、との高度に論議をよぶ裁判所の命令にしたがった」(The New York Rat,issue#2 Winter 2004-05,p、1)警察によって、Casa Del Solの加入の住民は10分で追い立てられ、建物は封鎖さtれる。ACORNとは、Association of Community Organizers for Refome Nowの略であり、低所得者向けのアパートを開発するという旗を掲げる「リベラル」NPOである。ラファエル・ブエノのいうところでは、Casa Del Solは長年、市当局とこのACORNというNPOのデペロッバーと格闘してきた。居住問題に取り組むアクティヴィストの一部には、この組織は厳しい目でみられている。「(ACORNは)最低生活賃金の支払いを拒絶し、その労働者たちの組合を破壊している、さらに票の買収で捜索を受け続けてきてもいる腐敗した組織」(ibid.)。ACORNについて情報がとぼしいために、Casa Del Solやそれに同情的な人ぴとの見方しか紹介できないが、少なくとも、ブエノをはじめ多くの人びとが指摘するように、低所得者向けアパートにふさわしい空きスペースは、近辺に豊富にあるにもかかわらず、とくにCasa Del Solがねらわれたのは単純に低家賃アパ一トを確保したいという題目とはべつの意図なしにはありえないことは確実だ。これはいくつかの事例に接した私の印象になるが、コミュニティの人びとか空きスペ一スを居住やアート・ギャラリー、ガーデンとしてスクワットし、利用している活動を排除するときに、このような低所得者向け住宅の開発を請け負うNPOりが先頭にたつ、あるいは先頭にたてられるケースはこの事例にかぎらないように見受けられる。
 ところで、住民が強制排除された直後に、アバートから出火し5時間あまりACORNはそれに対処せず火災を放置するというかなりショッキングな事件が起きる。住民は次のように語っている。「状況はきわめて疑わしい。彼らの目のまえで火災は起きた。彼らの無視かあるいは悪意を私は非難する。いずれにしても、これは彼らの過失だ」(http:info.interactivist.net/article.pl?sid04/12/02/2351257&mode=nested&tid=1)Casa Del Solは、実のところ、1998年にも強制排除にあっている,そのときは建物のなかにはほんの数名しかいないにもかかわらず、300人の瞥官隊、機動隊に囲まれ.周囲のビルにはヒットマンが並んだ。にもかかわらずなぜそれからも使用されていたか、というと、しばらく出て、また戻って使い続けたというだけのことである。それだけ立ち退きに力をそそいで、と日本の感覚からすると不思議な感じがするが、そんなことかあるので、もう燃やしてしまって、戻ろうにも使えないようにしようという意図が働いていたように推測されている。



2.アヴァン−ガーデニング(Avant-gardening)

 ところで,先述したように、このCasa Del Solには、Cherry Tree Assosiationという、プロンクスの近隣住区のコミュニティ・ガーデンを財政的な面などでサポートしているグループの事務所があった。少し迂回をして、このコミュニティー・ガーデンについて触れてみたい。
 私にとってのニューヨークでの発見の1つは、ニュ一ヨークのある地域にとっての、ガーデニングの重要性である。コミュニティ・ガ一デンが活発である地区として、実のところプロンクスよりも、マンハッタンのイースト・ヴィレッジ、ロワー・イーストサイド*1が有名だ。
 ロワー・イ一ストサイド(そしてイースト・ヴィレッジ)*2は、1970年代に消防予算のカットがおこなわれた結果、地域的な小規模の消防署の多くを失い、それがもとで1度、火事での甚大な被害にあったことがあり、その結果、放置された空きスペースがたくさんできたとされる。さらに、大きな背景として、ロワー・イ一ストサイドは投資の引き揚げ(deinvestment)
、地主によるアパ一トの放棄などによって、その空間は殺伐としたものとなっていた。そのスペースを地域住民たちが利用して、花や作物を植えはじめ、コミュニティに共有されるガーデンにするのである。「瓦礫にあふれた荒れた地は、ロワー・マンハッタンにおけるもっともきれいで、もっとも青々としたスペースに変わった」(The Rough Guide
to New York City, p.105)。しかし市当局は、こうした活用を許さず、不動産として利益のあがる空間にそれを転換する計画をたてる。1991年には600以上あったガーデンのなかの100近くの維持については市の公園局による同意が確認されたにもかかわらず、ジュリアーニ市長の強硬な政策のもとで、ガーデン撤去の紛争は激しくなり、2000年2月にB番街とC番街7丁目*3のEl jardin de la Esperanza(希望の庭)が、強制的にブルドーザーをかけられたときにピークを迎えたとされている。このときの撤去作業はきわめて迅速なものであり、裁判所は撤去作業を中止せよとの命令を出すが、その命令の出される40分前には撤去は完了していた。30名近くの住民が抗議活動をおこなうなかで逮捕されている。80年代終わりか90年代前半にかけて、一息ついたジェントリフィケーションの波が、日本でいうところの「地上げ」の波が、90年代後半からふたたび席巻しはじめ、かつてはマンハッタンにおけるハーレム以南の唯一の「貧民街」であり、低家賃アパートや放置されスクワットされたビル、そして家族営業の小商店、小さな本屋などであふれていたロワー・イ一ストサイドをも大きく変貌させていくなかでの出来事である(Sites,2003, pp.69-135)。
 とはいえ、いまでもロワー・イーストサイド、イースト・ヴィレッジのあたりを歩いているとガーデンはしばしば目につく。ブロンクス、ロワー・イーストサイドのガーデンとイベントの告知がコミュニティ運動関連のミニコミによく出ているところをみると、まだガーデニングの運動は生きているといえるだろう。ブロンクス出身の社会学者マーシャル・バーマンは、最近、プロンクスにおける犯罪率の低下の要因の1つとしてコミュニティ・ガーデンを挙げている。その理由を詳しく分析しているわけではないものの、おそらくコミュニティ・ガーデンが、放置されて朽ちている空間をコミュニティの交流の空間に変えることがその理由だと思われる。たとえばロワー・イーストサイドの事例であるが、リトル・プエルトリコと名づけられたコミュニティ・ガーデンについての記録がある(Ferguson,1999a, pp.60-79)。それによると、80年代にはいまだ、ロワー・イーストサイドの「アルファベット・シティ」では、ヘロインや、この時期流行をみせていたクラック(コカインの一種)が出回り、売人も出没していた。その取引の場所として、遺棄された車の影がよく利用されていたとされる。80年代の終わり、さまざまなエスニシティのその近辺の住民たちは、協力しあいながら、その荒れた区域を整理し、ドラッグの売人たちを追い払いながら、工夫をこらしてトマトやコショウ、キャベツ、にんにくなどを植えはじめた。こうしてどんどん華やかになっていったガーデンは、その近隣ブロックー帯に深いインパクトを与えた。近隣の人びとは、結婚式、葬式、ミーティング、ブロック・パーティ、近くの建物をスクリ一ンにした映画の上映会などなどのコミュニティ・スベ一スに活用しはじめたのである。そうしたイベントにホールを借りる余裕もない人たちにとっては、きわめて貴重なスペ一スともなったのだ。
 しかし,このリトル・プエルトリコと呼ばれたガーデンも、「地上げ」の波をこうむり、近隣佳民たちはさまざまな手を尽くすものの撤去されてしまった。ハーレムの、コミュニティ・ガーデンの運動のリーダーの1人は、コミュニティ・ガーデンについて次のよぅに述べている。

1990年代のあいだに、ニューヨーク市公園局は500エーカーのあらたな公園用地を確保している。この土地の95%は富裕な白人地域にあり、すでに1人当たりのオーブン・スペースはおもに有色人の住む貧困地域よりもたくさんある,こうした現実からして、なぜニューヨ一ク市は市の最貧困地域の地域──コニー・アイランド、ハーレム、ロワー・イーストサイド、ブルックリン、サウス・プロンクスをふくむ──の多くのコミュニティ・ガーデンを撤去する計画をたてるのか?(Ferguson,1999ab p.37)


3.ラファエル・ブエノ

 さて、私たちはCasa Del Solの封鎖のあと、ホームレスのシェルターに入ったラファエル・ブエノに弁護士を介して連絡をつけ、ブロンクスにある市の裁判所の近辺でインタビューをおこなった。
 ブエノはインディオ,ドミニカ生まれ。スペインの支配から独立を果たしたとたん、ハイチに占領され、1844年にようやく独立を達成したドミニカは、それ以後も内政の混乱をつづけていたが、20世紀のはじめ、そこに介入し占領した米国の統治下において、大統領(R・L・トルヒーヨ)か選出される。しかしこの大統領は独裁政治をしき、反対派に対する徹底的な弾圧とアメリカ資本への従属によって民衆の不満をかう。トルヒーヨ大統領が死去したあと、63年に選挙によって当選した大統領(ファン・ポッシュ)は、民主的憲法の制定のほか、キューバとの国交回復など、自主的政策を展開し、それを危険視したCIAの介入で大統領は失脚、そして内戦に突入するという情勢のなかで、政治活動を開始。しかし政治情勢の悪化のなかで1969年16歳のときにプエルトリコに脱出。そしてプエルトリコでは民族解放闘争に参加、そのリーダーのボディ・ガードとなる。このリーダーからブエノは政治的な教育を受けたという,ところが、プエルトリコ滞在中、ブエルトリカンによるドミニカ人差別などにあい、幻滅は高まり、1973年20歳のときに父親がブルックリンにビルディングをもっていたこともありニューヨークヘと移住する。
 彼は建設労働者として働きなから、1980年代には南北アメリカの先住民の運動(先住民たちによる反コロンブス500年祭運動など)と、同時に、ニューヨークのホームレス問題、住居問題にも活動家(アクティヴィスト)として積極的に関与する。
 とりわけ彼が重要な役割を担ったのは、マンハッタンにおけるロワー・イーストサイドにおける80年代から90年代の、住宅、公団、ホームレス問題をめぐる社会運動だった。彼は、1987年からすでに、のちにCasa Del Solとなるプロンクスの建物に居住していたのだが、そこからロワー・イーストサイドに出向きなから、80年代から90年代はじめの、よく知られているロワ一・イーストサイドの住民運動、ホームレス運動のオーガナイザーとして活躍する。実際に、彼がこの運動に果たした役割は、この運動をあるアーティストがコミックにして記録した著作の最初の方に、彼の文章が記されていることであきらかである。その文章はまた後で引用するが、そこには以下のようなブエノの紹介が付されている。「ラファエル・ブエノは30年間にわたってニューヨーク地域でのスクワッターである。彼は哲学者であり、多くの住居アクティヴィストを育ててきた教師である」。
 このロワー・イーストサイドの運動は、ジェントリフィケ一ションによる地価や家賃の値上がり、住民たちが占拠して利用していた放置アパートの撤去などを通して、低所得層の住民が次々と追い出しを余儀なくされていた情勢のなかで、ロワー・イーストサイド住民たちが、さまざまなエスニシティや信条において差異をはらみながらも、連帯して戦われたものである。その過程で、この運動にとって、物理的にもシンボリックにも、重要な焦点となったのがトンプキンズ・スクエア公園である。すでに100年以上、集会場として使われ、60年代にはヒッピーの聖地となり、つねに界隈の住民たちの交流の場でもあり、80年代以降、ホームレスの急増した、トンプキンズ・スクエア公園で、彼らを排除したい行政当局との対峙のなかで、2度の警官暴動(police riot)──警察官が公園に集まった人びととの競り合いのなかで多大な暴力をふるい問題となったのでこう呼ばれている──を経ながら、88年から数年間、自主管理的状況が生まれたが、91年に激しい攻防の未、公園の一時閉鎖という事態において、この運動は収束に向かう。
 ブエノによって、このニューヨーク論においてひんばんに参照される社会運動の、なかなか活字ばかりではみえてこない現場での経験を生き生きとみえてきた。3年間の自主管理状況のなかで、ブエノは日曜日ごとに公園でおこなわれるミーティングのコーディネーターの役割も担い、ホームレスのみならず、スクワッタ一、バンクス、借家人、アーティスト、そしてガーデナーといった多種多様な人びとのオーガナイズとそれにまつわる苦心を語ってくれた。なかでもホームレスの「たき火の権利」についての話は興味をそそるものだ。ニューヨークの厳しい冬をホームレスが乗りこえるのは至難の業だが、そのホームレスたちか冬にたき火をすることをめぐってホームレスやアクティヴィストたちは市当局とやりあった。その際に、「たき火の権利」の根拠をブエノたちは「火を守る人(fire keeper)」に重きをおいた先住民の伝統に求めたのである。
 Casa Del Solがその名を冠したのは1995年なのだか、この命名も、当のアパートがアメリカ圏レベルでの先住民の運動のニューヨークでの拠点として位置づけられたがためなのである,
 私たちがとても啓発されたのは、マンハッタンやブロンクスのように、現代メトロポリスの先端で、そしてグローバリゼーション下における現代都市の先端の問題に取り組んでいる社会運動に、こうした先住民とアメリカ圏の、歴史的にも空間的にも幅広いし奥深いレベルの層が重なっていたことだ。プエノの独特のスクワットの根拠づけも、現代にまで通ずる酉洋的な法概念を彼なりに発展させたものであるが、以下に引用する文章では触れられてないものの、インタビューの際に、ブエノはハムラビ法典にまでさかのぼり、さらに先住民の伝統と交わらせるという壮大な構想を示唆していた。いずれにしても、彼のスクワットにまつわる法的な根拠づけの構想のなかでも、所有に対抗する占有(possession)という概念がカギとなる。彼の場合それはとりわけadverse possessionとして焦点化される、この概念は長い伝統をもつ法律用語であり、日本語ではふつう不法占拠と訳されているようだ。しかし、adverseという、実際に使用している権利(占有)を、書類上での権利(所有)に対抗させるというニュアンスを、illegalの対応語で訳すことは大きな問題かある。逆占有、反対占有、あるいは当事者占有のように、よりふさわしい訳語を考えるべきであるが、ここではひとまず不法占有と訳しておく。不法占有という語にはこのような含意があることに注意をしてほしい。

人々は生まれて、土地を利用して、そして死ぬ、多くの人々が土地に生まれつき、彼らは1つのネーションを立ちあげる。そのネーションか消失すると、新しいネーションがあらわれる。この土地への権利を彼らに授けるものはなんだろぅか? 聖書のように、神がユダヤの民にパレスチナを与えた、というようなものではない。占有(possession)が、人々に土地への権利を与えるのだ、そして占有は利用によって確立されるのだ,だから、もしあなたが、その生(活)を支える方法として土地の一片でも活用すれば、それを剥奪されることはあってはならない。なぜならそれは生(活)を奪うことに等しいからだ。これがコモンロ一による土地の所有のとらえ方だ。コモンローは自然法だ。人間の手によるものではない。それは習慣と伝統によって蓄えられてきた法だから、なにものも「私か作った」と主張することはできないのだ。コモンローは、ローマ人からそれを受け継いだイギリスから、さらにアメリ力の植民地に手渡されたものだ。アメリカ合衆国は、いまだある程度、コモンローの影響下におかれている。ある人間たちが土地の一片の権利証書をもっているが、その土地を去って、利用していないとしよう。そこにべつの人間がたちかやつてきて、その土地を利用しはじめた。すると権利証書を携えた人間が戻ってきて、宣言する、「これは私の土地だ」。しかしそこで生活している人々は「ノー」という、なぜなら、私たちはあなたの資格に異議を唱えるからだ。コモンローのもとで、これは不法占有(adverse possession)として知られている。ある年月のあいだいくらかの土地を権利に反してでも(adversarily)もっていたのなら、その人は不法占有を主張する権利をもっている。州によって法定期間はさまざまである。ニューヨーク市では、10年たてぱ、あなたはその資格権限を有すると想定される,私たちは10年以上このビルにいる。市がここに300人の警官とヘリコプターをともなってやってきて、周囲のビルの屋上に狙撃者を配備した.連中はハイウェイを封鎖し、戦車のような武装車両でやってきた,連中は私たちを追いだし、4人を逮捕した。しかし私たちはまた舞い戻り.不法占有の権利を主張している。(Bueno, 1999, p.29)

 べつの機会にブエノはこの不法占有(adverse possession)について、それが認められる場合として次の4つの条件をあげている。(1)当事者かそこに明らかに(openly)存在すること。(2)そこに近隣者の悪評判がないこと。(3)当事者は、そこに継続して(continuously)存在すること、(4)また当事者はそこに全面的に(exclusively)存在すること。その場合、当事者の権限は90%で、書類上の所有者の権限は10%となる。
 ブエノはチェ・ゲバラを「最後の予言者」という。彼にとって、ゲバラは先住民にとっての予言者の1人なのだ.その予言とは「先住民はいつか平和裡に土地を取り戻すだろう」というものである。ブエノは、予言者はみなこれまで殺害されてきた.という。ゲバラもしかり。そしてブエノは、先住民たちは自分のことを「予言者」と呼ぶ、という。さらに、しかしゲバラは、武装した予言者だった、自分は武装なき予言者だ、と付け加える。ブエノによれば、2012年は重要な転換の年である。なぜかというと.それは地球の暦、太陽の暦、そして土星の暦のすぺてにおいて、1サイクルが終わり、新しいサイクルがはじまるからだ。彼はこの年をめざしているのだ。このように荒唐無稽にみえる発想は、彼が一方で、先住民文化のスピリチュアルな文化に足場をふかくおいていることを示している。
 ブエノは、マンハッタンは入植者が来た時には、開墾によるものでない野生栽培のネギの豊富な地帯で、北からも南からも多くの異なった先住民か来て交流する場だった、という。それを入植者は.未開の地と表象し、所有し、そして開拓して行ったのだ。つまりマンハッタン以前のマンハッタンは、現代とおなじ交易の土地だったことが浮かび上かってくるが、それはまたマーケットの論理とは異なる交通の存在を過去と現代のなかにかいまみせてくれる。
 長年にわたるみずからの住居と運動の拠点を失ったにもかかわらず、まったく意気消沈せず、ホームレスのシェルターでもオーガナイズを活発にやっていると語るブエノから、先住民の交流と現代人の交流が編み込まれていたCasa Del Solの光景が浮かび上がってきた。

*1:実はイースト・ヴィレッジはもともとはロワ一・イ一ストサイドに属していた。そのロワー・イーストサイドの北部にあたる半分がなぜイースト・ヴィレッジと呼ばれるようになったかには、実は60年代以降の都市の変遷と結びついた重大な意味がひそんでいる(Mele,2000)。その呼び名の起源は、ウエスト・ヴィレッジ、グリニッジ・ヴィレッジが、かつてのボヘミアン・カルチャ一のラディカリズムを喪失し、ハイソサイエティな空間になりつつあることに反撥した、アーティストやヒッピ一たちが対抗的意味をこめてロワー・イーストサイドの一部をそう対抗的に呼んだことにある。しかし70年代からは、ロワー・イーストサイドのはらむ「ゲットー的」ニュアンスを払拭して、イースト・ヴィレッジのもつ「ヒップ」なイメージを活用したい不動産業者によってイースト・ヴィレッジの呼び名が流布されるという逆説的な経路をたどった。ここでは、ロワー・イーストサイドという地域名によっではとんどの場合、イースト・ヴィレッジをもふくめている。

*2:マンハッタンのロワー・イ−ストサイドはウォール街をふくむビジネス地区であるロワー・マンハッタンとミッド・ウエストの狭間に位置している。アメリカ合衆国への移民のゲ一トであるロワ一・マンハッタンの海岸から近接した地理的場所のために、ロワ一・イーストサイドは、19世紀の前半から、アイルランド系、ドイツ系、ユダヤ系、ラティ一ノ、中国系と次々と移民の居住地となった場所であり、そして、貧困と搾取の蔓延するゲットーでもあった。スウエット・ショップとテネメントという劣悪な条件の低家賃アパートメントが集中したこの地域において、とりわけ19世紀の終わりから20世紀はじめにかけてイタリア系移民やロシア出身のユダヤ人たちによって、地域コミュニティのネットワークの形成とそれを活かした労働運動や住宅をめぐる闘争のもっとも活発な地域の1つとなる。70年代以降、このハーレム以南では唯一のゲット一地域でもあったこの街も都市再開発、すなわちジェントリフィケーションの波にさらされ、不動産業者のターゲットとなり、地価や家賃は急激に上昇した。それにともない、この地域の主要な住民であった、プエルトリカン、中国系、アフリカ系、高齢のヨーロッバ系らによって構成される労働者階級や低賃金層の人々はこの地を離れざるをえず、それにかわって高給取りの若い独身者や専門家が流入してくる。それによって、歴史のなかで蓄積されてきた移民による社会的絆にもとづく界隈の生活スタイルが衰退していった。

*3:ABCとアルファベットのついたアベニューはロワー・イー-ストサイドを縦断している通りで、とくにこのあたりにプエルトリカンの移民が集住し、いわゆるスパニッシュ・ハーレムと並ぶラティーノ文化の拠点でもあった。アルファべット・シティともいわれる。