情動構成の美学 ──観客を消滅させ、群衆蜂起をうながす  スティーブン・シュカイティス 西川葉澄=訳

 

 まず叫びがあった。現実のショックによってたががはずれた世界は、もはや理解できないものとなる。この突如として実現した知覚の切断によって、宙吊りの状態がつくりだされる。何かが起きたのだ。偶然見出された目印となるものに導れ、周囲のひとびとも動き出す。彼らは世界で進行している血なまぐさいペテンに巻き込まれることを望んでいない。だから抗い闘うのだが、感じているのは禁欲的な情念ではなく蜂起の愉悦である。あなたは覚えているだろうか? おそらくきっかけとなるのは、街路に響くマーチングバンドのリズム、路地の壁に殴り書きされたぱかげたスローガンといったものであり、ほとんど意識されていなかったような、はかなく捉えがたい瞬間である。ちよっとした身振り、わずかな内面の動きとともに、集団的な時間がくっきりと立ち現れる。そしてその瞬間にすべてが変わる。それまで何千もの身体がひしめきあう空間に漂っていたのは、きまりの悪いよそよそしさだった。そこには敵意や不信感はないが、見知らぬ者どうしの薄ら寒い距離があった。だが、その瞬間にたがいを隔てる壁が消え失せる。ドラムの最初の一撃とともに最初に亀裂が走るのは、たがいを隔てる眼差しの壁、パフォーマンスや公演を受動的に享受する観客の眼差しがつくる空間、つまりはスペクタクルである。
 メロディが鼓動のように群衆に伝わるにつれて、われわれはホーンの音色に夢中になる。腕、言葉、記憶、そしてノイズ。それらが時間や欲望をつうじて、ゆるやかに結びつけられていく。熱狂は喜びと混ざり合う。混乱からいくつもの世界が刻ー刻と立ち現れる。たぶん、これを拒絶の美学と呼ぶこともできるだろう。だが、それは美学的な領域の拒絶ではないし、その拒絶を乗り越えて芸術の実現をめざすものでもない。具体化されているのは、むしろ現実の社会の流れから美学を切り離すことの拒絶そのものである。それは強度をはらんだ諸関係の芸術であり、不安定な生存に直面し、その痛みを抑え安定を保つための麻酔(anesthetic)ではない。「病気の症状を隠すだけの」、「苦痛を引き起こす根本原因を治療せず、その根源をたどったり、意味を与えたり、愉悦とともに反撃することもない」*1麻酔ではなく、直接性と情動構成(affectivecomposition)という、より古くラディカルな美学(aesthetics)が実践されているのである。
 こうした捉えがたい瞬間に、ラディカルな想像力の自己定位と運動が生じる。それは美学的な政治における情動構成をつうじて展開されるものであり、その美学の概念がもとづいているのは芸術的な構成の内容よりも、集団的な創造のプロセスから生じる関係や経験である。この美学は生産の諸関係に焦点を合わせるが、そのことが産み出された作品を理解する助けとなるからではなく、そこに明白な自己定立のプロセスがあり、政治的な芸術が可能となる空間が創り出されているからである。集団的な生を可能にするフォーラム──例の間主観的な理解としての政治が芸術をつうじて分節される場一一の存在が想定されているというよりはむしろ、われわれはここで情動の空間の創造を目の当たりにしている。それは共にある空間であり、さまざまな結合、議論、共同性が出現するのに不可欠な前提条件となる結合である。これが美学的な政治であるのは──かならずしもその作品が直接に表現している内容によるものではなく──、それが演じる役割によって、重苦しい日常生活から飛翔する線が描き出され、音と経験の交雑のうちに、新たな諸関係や可能性が創造される空間が出現するからである。


構成的スパイラル

民衆が欠けている  一一一一ドゥルーズ=ガタリ*2


 政治的な芸術が繰り返し試みるのは、陳腐な構成が暗黙の前提としている想定の裏をかくことである。既存の公共圏において、固有の表現に先立つ共通の基盤と枠組みのもとで作品が議論されることを免れようとする。じっさい多くの政治的な芸術作品は、こうした試みをはっきりと意識していなくても、興味深く強力な議論を創り出そうと饒舌なものとなり、メッセージが最小限の干渉しか受けずに届くことを望んでいる。そうした政治的な言説によって情動の共振が引き起こされるためには、必須の条件として、メッセージの受け手がその送り手と同化するのみならず、情動を喚起すると同時に情動化される諸能力をもっていなければならない。この情動構成のプロセスは、多くの場合は何げない瞬間や相互行為からはじまるが、そうした機会をつうじて、さらに新しい関係や相互行為が可能となる民衆の空間が出現する。だから民衆の欠如はもはや嘆くべきことではない。もともとの帰属や立場に制約されることなく、強力な関与をつうじて共にある空間を創造すること、それがまさに政治が担う課題となるのである。
 情動構成という概念は、情動についての特定の考え方と、アウトノミストの階級構成についての考え方を組み合わせたものである。情動の概念については、スピノザからジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリにいたる(それはさらに、アントニオ・ネグリやジュヌヴィエーヴ・ロイドのような思想家たちによって継承されている)哲学史に伏在する流れのなかで展開されてきたが、そこで示されているのは、情動を喚起する、さらには世界によって情動化される諸能力の増大である。ドゥルーズ=ガタリにとって、芸術的創造とは情動の共振する領域であり、そこでは想像力が身体との相互作用をつうじて転移していく。そして「構成」という言葉は、アウトノミストの、マルクス主義的な階級構成についての考え方に由来するものであり、それが示しているのは、社会的抵抗をつうじて世界を変容させる自律的で集団的な諸能力である。こうした集団的な能力と自己組織化の形態は、闘争と思想の循環によって強化されつつ発達するが、資本主義国家はその分断を目論み、その社会的エネルギーを労働力として収奪する方途を捜し求める。それゆえ、闘争の構成、解体、さらに再構成というサイクルができあがる。そしてアウトノミア思想の重要な洞察によれば、資本主義の発達の方向は、闘争それ自体と闘争が産出する社会的協働によって決定されるという。情動構成という観点からストリートアートやパフォーマンスアートを検討することは、それらの芸術活動が諸能力を割り出し、さらにそれらがいかに自己組織化の形態の発達に寄与しているかを検討することにほかならないが、そのことを端的に表現しているのが、「群衆蜂起の自己現働化をうながす」という、インファーナル・ノイズ・ブリゲード(lnfemal Noise Brigade)の言葉だろう。*3
 こうした美学的な政治におけるもろもろの関係や強度の情動構成は、公的な共同の空間が存在する可能性が近年変容したことから差し迫った問題となっている。公共空間が徹底的な商業化をこうむり、メディアが企業支配を垂れ流し、生活のあらゆる場面において恐怖が掻き立てられる傾向のもとで、膨大な情報やデータを使用可能な文化が作り出された。だが、そうしたデータと共振できる公共圈はほとんどない。パオロ・ヴィルノによれば、集団的知性の形態が共通の関心事にふさわしい公共圈で表現されないとき、野放しで根拠のないヒエラルキーが激増するという。ヴィルノはこれを「公共圈なき公共性」*4と呼ぶ。情報とイメージの流れがわれわれをつねに取り巻き、コミュニケーションや主体性の形成にとって新しい可能性をもたらしているが、また同時にこの状況に圧倒され、かならずしも解放的ではない方向へと進んでいくこともある。チャットルームとブログは、浄化された都市の商業的な光景と継ぎ目なく一体となっている。そして1日24時間垂れ流されている「ニュース」は、われわれがつねに「恐れて」いなければならないと、声高に、あるいは執拗に唱えつづける。これらのものによって、集団的に関与する共同の場が活気づけらることはないし、ほかの何よりもまして、国家や資本によって重層的にコード化されていない、共有の空間の出現が妨げられてしまうのである。
 プロパガンダの凡庸な美学に頼るならば、おそらく共振可能なパターンは意外にもかぎられてしまうことになるだろう。政治的な芸術とは、内容が政治的であるだけではなく、方法が政治的であり、その方法において、もろもろの思想やイメージ、諸関係などの慣習的な流通に即して、あるいはその流通に抗して機能するように設定されている。換言すれば、ストリートアートの形態が価値の転倒をはらむのは、たんにそれが路上で生じるからではなく(すでにストリートはウイルス的なあらゆるマーケティングの対象となり、スペクタクルによる回収は日常的なものである)、芸術制度と日用品製造の重層的にコード化された操作に抗う諸関係を開示するからである。焦点化されているのは流通と諸関係のパターンであり、それジョージ・カチアフィカスが「政治を芸術へと、日常生活を美学的な領域へと政治的に変容させるプロセスにおける美学的な合理性への関与」*5として描き出した政治=美学的な活動であり、そこに情動構成のプロセスがやどるのである。


直接主義的な(再)構成

魔法、シャーマニスム、秘教主義、カーニバル、そして〈難解な〉詩は全て社会的に有用な言説の限界を強調し、それが抑圧しているものを証明する。 それは主体とその伝達の構造を超えるプロセスである。──ジュリア・クリステヴア*6


 政治的な美学は諸関係にもとづくと同時にそれらを内包し可能にもするものだが、そうした概念のとりわけ周到な練り上げの試みは、「直接主義(immediatism)」についてのハキム・べイの著作にみることができるだろう。ユートピア的な詩学として、その直接主義が描き出すのは、芸術活動への媒介を相対的に縮減する創造的な協働である。基本的な活動形態は贈与(そしてパフォーマンス)という無償の交換であり、それによって芸術の商品化の論理を回避しようとする。受動的な消費の余地はない。すべての観客が同時に参加しなければならない。直接主義の闘争が目指しているのは、(物としての)芸術作品の制作ではなく、共同体の地下に潜在する創造的な領野を分かち合うひとびとのために、直接的に現在の諸経験を連接させることである。じっさいベイによれば、直接主義の最高のアジプロは、「それによって変えられたひとびとの魂のうち以外には、まったく痕跡を残さず立ち去るだろう」*7という。だから直接主義の実践は、いわゆる典型的な「芸術」におさまらない、幅広いヴァラエティーに富んだ活動をふくむ。たとえば、キルティング・ビー(quilting bee)という、自発的でヒエラルキーのないかたちの実践があるが、それはキルトづくりのサークルのメンバーのために、有用であると同時に美しい何かをつくることである。あるいはその延長として、パーティ、ポトラッチ、祝宴、ハプニング、およびアートイベントをおこなう。それぞれ固有の文脈はあるにしろ、こうした直接主義の核心には、媒介の存在をできるかぎり縮減し、集団的な経験の状況を構築しようとする考え方がある。
 この意味において、ラディカルなマーチングバンドの方法は興味深い。それは通常の空間(ときには諸関係)を切り崩す芸術的パフォーマンスであり、街路に可動的で情動的な空間が創り出され、そこには新たな諸関係が立ち現れる。もっともリリカルに破壊活動をするパンクバンドのパフォーマンスでさえ、一般には何らかのステージでおこなわれる。パフォーマンスの担い手と観客が区別されるという状況に変わりはない。それにたいして、ハングリー・マーチングバンド(Hungry March Band)、インファーナル・ノイズ・ブリゲード、リズムズ・オブ・レジスタンス(Rhythmsof Resistance)などのプロジェクトは、90年代後半の「ストリートを取り戻せ(Reclaim theStreets)」という路上での抗議やパーティーの急激な増加と密接に結びついており、政治的な抗議の陳腐で儀式めいた様式にカーニバル的なエネルギーと刺激をもたらす。ラディカルなマーチングバンドや、その他の戦術的な軽薄さをまとうグループは、強度と情動の諸関係が出現する空間を公共圈に開示する点で重要であり、その諸関係には希望がやどり、日常生活の網の目に血が注ぎ込まれることになるのである。



 当然のことながら、多くのラディカルなマーチングバンドのレパートリーは、スタイル、文化、バックグラウンドが融合する真の堆塙となっている。そこにはジャズやビッグバンドの曲からクレズマーやモロッコ音楽、インドのウェディングソングから、カリプソ、サルサ、レゲエやサンラまで、あらゆるジャンルが混在している。彼らはまた、クラッシュ・ウォーシップ(Crash Worship)や!Tchkung!といった、パンクロックとストリートパフォーマンスのエネルギーを融合したプロジェクトから、じつに多くのインスピレーションをえている。後者のメンバーはその後マーチングバンドを結成している。じっさい政治的マーチングバンドのメンバーは、ストリートアート、パフォーマンスアート、演劇(たとえば多くのマーチングバンドに重要なインスピレーションをもたらしたヴァーモンツ・ブレッド・アンド・パペット・シアター〔Vermont’s Bread&Puppet Theatre〕のように)、さらにはアンダーグラウンドサーカスやヴォードビル劇(たとえばビンドルスティッフ・ファミリー・サーカス〔Bindlestif Family Cirkus〕やサーカス・コントラプション〔Cirus Contraption〕のように)にかかわる者たちと数多く重なり合っている。
 マーチングバンドが状況の構成を変容させた典型的な例として、2006年7月にロードアイランド州プロヴィデンスのAS220フェスティバルでの出来事をあげることができるだろう。そのイベントは地元のアートスペースによって運営され、街のほとんどの地区が何千人もの大出で眠わっていた、ひとびとはさまざまな講演会やワークショップに参加し、食べ歩いたり、本屋の品揃えをあれこれ見て回ったり、フェスティバル会場の端に設置されたステージでのコンサートに足を運んだりした。そしてその日には数回にわたって、地元のマーチングバンドのワット・チアー?・ブリゲード(What Cheer? Brigade)がドラムと甲高いホーンを鳴らして登場した。 たぶん金銭的な理由からユニフォームをあつらえることができなかったのかもしれないが、さまざまな格好で華やいだ雰囲気を醸し出していた。そしてこのマーチングバンドによって、イベントの性質が変容する。マーチングバンドがフェスティバル会場となった空間に登場するやいなや、ひとびとはパフォーマンスの担い手と観客を分断していたステージを見つめることをやめて、マーチングバンドの動きに合わせて踊り騒いだのだ。このように情動化された高揚感によって、ともに踊るひとびとのみならず、マーチングバンドのパフォーマンスを遠巻きにしていたひとびとも、それまで言葉を交わすことのなかった周囲と交流しはじめたのである。

 もともとマーチングバンドは国家形態に付随するものであり、国家が定義する空間をもたらす。その集団は整然と制御された隊列をなし、軍隊の勲章に密接に結びついている。軍隊や市民のパレードやスポーツイベントにおいて、マーチングバンドを見たことがあるだろうが、そこで提供されるのは、行動への刺激をあたえる一種のサウンドトラックである。そしておそらく国家や軍隊との結びつきがあるからこそ、それが抗議の戦略ために遊戯的に転用されて再=領有されるや非常に愉快なものとなるのだろう。マーチ音楽は何より戦争機械(warmachine)として作動するのかもしれないが、ドゥルーズとガタリがわれわれに気づかせてくれているように、戦争機械はけして完全に統治機構の作動に取り込まれることはありえない。戦争機械には、いつも逃れていく何かがある。そこにはいわゆる主体や既存のコミュニケーションの構造を超過するプロセスがある。とはいえ逆説的なことに、そこで創り出される空間において民衆の横断性が可能となる。そして戦争機械が国家の外に位置する空間として理解されているかぎりにおいて、それは変容をもたらす機械であり、可能性の空間を構成するノマド的な流れや策謀(machinations)としても理解されうるものである。
 ステンシルやグラフィティアートは、パフォーマンスと同様に、日常的生活と芸術的活動のあいだに穿たれた隔たりを取り払うのに重要な役割をはたす。なぜなら、そうした形態をとることによって、ひとびとの日常的な経験のよどみない流れのなかに刻み込まれるからである。しかしそれは、その形態がひとびとの期待を新たに導く可能性を本来的にはらんでいるとか、ステンシルやグラフィティアートが具体的な解答をもたらすという意味ではない。それどころか、かつて刷新をもたらした創造的な活動であっても型にはまったものとなり、最初に産出された情動性がもはや強度を失うということはありうるのである。
 構成的で情動的な空間が新しい諸関係を創り出すが、そうした空間が妨害や問題なしに存在すると思ってばならないだろう。一時的自律ゾーンが一時的なものであるのは、それなりの理由がある。すなわち現実には、そうした空間にたいする弾圧や回収は避けがたいものである。したがって、ある空間を創り出しても著しく困難な状況にある場合(時間、エネルギー、費用などがつぎ込まれる場合)は、その維持は戦術的に賢明ではないことが多い。一時的自律ゾーンの時空については、リーズ・メイデイ・グループ(Leeds May Day Group)が「超過の瞬間」*8として詳細に説明しているが、こうした切断の構成的な諸能力は無尽蔵なものではない。なぜなら、それらもまた繰り返しているうちに儀式化されるようになり、固定した循環のパターンヘと後退するからだ。問題は、創り出した空間の情動的な容量を保ちつづけることである。見出されるべきは、スペクタクルヘと回収されてしまう罠を回避し、もろもろの構成的な瞬間や可能性が凝り固まり、構成された形態のもとで生気を失われないようにする方途である。
 だから美学と構成の感覚をもって活動に取り組むことになるだろう。この感覚が根ざしているのは、かならずしも個々の取り組みの活動自体ではなく、情動的な関係や空間や相互作用のもろもろ、さらに芸術的な創造過程における、その強化と深化の可能性にたいする理解である。この芸術的な創造への理解は、かつてジョージ・クブラーが「時のかたち」として語ったものである。すなわち芸術とは、時間をつうじて配される労働と生産の連鎖であり、その時間によって集団的な時間と諸関係の形態の発達が具体化される。それはかならずしも意味の創造に根拠を置くものではなく、諸関係のシステムに入り込むこと、あるいはそのシステムを開くことに根拠があり、既存の諸関係の転調をつうじて変容していく新たなものと接続し、「偉大さよりも諸関係がむしろ探求の主題となる」*9ような時間の領野とトポロジーにもとづくものである。情動の空間や可能性を創り出し、その共同の時空によって、強度をはらんだ政治の形態を基礎づけて可能にすること。これは何か1度かぎりの出来事でおわるものではない(そしてけっしてそうなる可能性もない)。それはラディカルな想像力の自己定位の持続的な取り組みにほかならない。それは絶えざる更新のプロセスであり、公共圈からは可能性の構成的なスパイラルが生じ強化されていく。このような瞬間の情動構成に焦点をあてることは、分かち合われた創造の結果として生じる諸関係から引き出された、集団的な自己創造の可能性に焦点をあてることなのである。

*1:David Levi-Srrauss, "Aesthetics and Anesthetics ", in Btween Dog and Wolf Essays on Art & Politics (Brooklyn, New York, Autonomedia,1999),P.12.

*2:Gilles Ddeuze and Fdlix Guattari,Kafka:Towerd a Minor Litereture, Dana Polan (MinneaPolis,University oF Minnesota Press,1986)P.216.[ドゥルーズ=ガタリカフカ マイナー文学のために』宇波彰訳、法政大学出版局、1978]

*3:lnfernal Noise Brigade, cited in Jennifer Whitney," lnfernal Noise: The Soudtrack to lnsurrection",in We Are Everywhere: The Irresistible Rise of Global Anticapitlis, ed.Notes from Nowhere (London,Verso, 2003) P.219.See also Jean Leason, "Music on the March: How Protest Leamed to Dance "fifth Estate 41, n.41 no.3 (Winter 2007),P.21-24.

*4:Paolo virno、A Grammar of the Multitude : for an Analysis of Contemporary Form of life ,trans. lsabella Bertoletti. James Cascaito and Andrea Casson(New York,Semiotext(e),2004),P.40-41. [パオロ・ヴィルノマルチチュードの文法現代的な生活形式を分析するために』廣瀬純訳、月曜社、2004]

*5:George Katsiaficas, The Suvversion of Politics : European Autonomous Social Movements and the Decolonization of Everyday Life (New Jersey, Humanities Press, 2001), P.310.

*6:Julia kristiva, Revolution in Poetic Language, trans、Margaret Waller(New york,Colombia University Press, 1984) P.16. [ジュリア・クリステヴァ『詩的言語の革命』原田邦夫訳、勁草書房、1991]

*7:Hakim Bay, Immediatism (San Francisco, AK Press, 1994) P.26.

*8:Leeds May Day Group, "Moments of Excess" (2004),availble at httP://www.nadir.org.uk/excess.html

*9:George Kubler, The Shape of Time : Remarks on the Histry of Things (New Haven, Connecticut, Yale university Press, 1962) P.83.