生活の場としてのストリートのために -流動性と恒常性の対立を超えて その1  小田亮

 PDFで読む
 ストリートを日常的な秩序から解放される「出会い」の場とする見方と,それを資本主義的な流通と消費の編成によって支配された場であるとする見方がある。しかし,19世紀前半までのパ リのストリートは,その 2 つのストリート観とは違って,人と人との日常的なつながりが作られる生活の場であり,そのつながりによって騒乱や祝祭の場ともなった。19 世紀におけるパリの変貌は,ストリートが生活の場から切り離され,飼い慣らされた商品のスペクタクルの場となっていく過程だった。その過程で,「日常的な秩序から解放された人々の出会う場」というストリート・ ロマン主義の幻想も作られた。現代の「リクレイム・ザ・ストリート」運動は,そのような幻想の出会いの場,一時的な解放の場を取り戻そうとするもので,ストリートは日常的な生活の場から切り離されたままとなっている。

 本稿*1は,雑多性をもつ生活の場としてのストリートという見方を「取り戻す」ための論考である。 そのために,現代の資本主義経済が消し去ろうとしている関係性の複数性・過剰性に焦点をあて, レヴィ=ストロースのいう真正性の水準においては,それによって,商品のスペクタクルと治安 のための「条里空間」としての都市空間が,「平滑空間」へと変えられていることを示す。


1 はじめに―ストリート礼賛?

 アンリ・ルフェーブルは,『都市革命』(ルフェーブル1974)のなかで,街路(ストリート)(rue) を礼賛する意見とそれに対する反論の両方を並べてみせている。街路賛成派は,街路が活気あふれる「出会いの場所」であり,日常的な秩序から解放される場であると,次のように説く。

 街路? それは出会いの場所(トピー)である。……街路,それは無秩序なのだ。まさに その通りである。固定され,冗長な秩序のなかに凍結された都市生活の全要素は,解放され,街路のなかで,街路によって,中枢へと流れ込む。それらは固定的な住居から離れて街路で出会うのである。この無秩序は生きている。それは無定形である。それは不意を襲う。しかしこの無秩序は上位の秩序を構成する。……街路がなくなった場所は,いたるところで犯罪行為がふえ,組織化されている。街路のなかで,またこの空間によってこそ,ある集団(都市自身)は明らかにされ,姿を現わし,さまざまな場所を占有し,占有した空間―時間を実現するのである。このような占有は,使用と使用価値とが交換と交換価値とを支配しうるこ とを示すものである。革命的な出来事はだいたい街路で起る。それはまた,無秩序が別の秩序を生み出すことを示してはいないだろうか? 街路という都市空間はパロールの場所,事物と同様に言葉と記号が交換される場所ではないのだろうか? それはパロールが書かれる特権的な場所ではないのだろうか? 壁に書かれた命令や制度から脱して,パロールが《野生に》変化し,書かれうるのは,一体どこだというのか?(ルフェーブル 1974: 29–30)。

 それに対して,街路反対派は,ストリートを資本主義的な消費の編制によって支配さ れている場として描く。

 出会いの場所だって? おそらく,そうなのだろう。だが,どんな出会いなのか? それ は表面的な出会いにすぎない。街路では,ひとびとは相並んで進み,出会うことはない。。……街路? それは商品の陳列場であり,店と店との隘路にすぎない。(刺激的で,魅惑的な) 見世物となった商品は,ひとびとを見世物へと変える。なおそのうえ交換と交換価値が使用をしのぎ,それを残り滓に還元してしまうのだ。……権力が威嚇する場合にとる最初の措置は,街路にとどまることと集結することの禁止である。もし街路が出会いという意味をもっていたとしても,それは,いまや必然的な還元によってただの通りに還元されつつ,また(追いつめられた)歩行者用と(優先された)自動車用の通りに分割されて,出会いの意味を失い, その喪失でしかありえなくなってしまったのだ。街路は消費のために/によって編制された 網目に変わってしまったのである。そこでは,歩行者の往来の速さは,ショーウィンドを眺め,陳列された品物を買う,という可能性によって支配され,測られる。……
 新―資本主義的な消費の編成は,街路でその力を発揮している。それは(政治的)権力で あるばかりでなく,(確証されたかあるいは隠されている)弾圧の威力でもある。ショーウィンドの連なり,売らんがための品物の陳列である街路は,どのように商品の論理が,美的で倫理的なよそおいと重要性とをもつ(受身の)まなざしと重なりあうのかということ,を示 している。──このように考えることによってはじめて,映像(イメージ)や広告や物品(オブジェ )の見世物──シンボルや見世物と化した《オブジェの体系》──によって,街路のなかで行なわれている都市空間の植民地化について語ることができるのである。古い街路を近代化するなかで明らかになったことだが,環境の画一化は,物品(オブジェ )に効果的な色とかたちをまとわせ,それらをみるからに魅惑的なものにしたてあげる。とはいえ,街中で行列──仮装行列,舞踏会,民俗的祭典──が許されているということは,権力が空間の占有あるいは再占有のカリカチュア的なうわべだけしか認めていない,ということなのだ。だから,本当の占有,つまり実際の《デモ》による占有となると,それは弾圧的な力と衝突し,沈黙と忘却を強いられるのである(ルフェーブル1974: 30–32)。

 ルフェーブルは,このように,ストリートが固定された住居などの既成の秩序から解放された人々が出会う場であり,無秩序の場なのだという意見をみせたあとで,出会いの場といっても,それは表面的な出会いに過ぎず,自動車が優先された端の歩道を人々は相並んで進むだけで出会うことはなく,そこで人々が出会うのはショーウィンドや広告のなかで見世物(スペクタクル)となった商品でしかないという反対意見を対置させる。ストリートは,もはや資本主義のための流通と消費の場でしかないのだというわけである。
 ルフェーブルの街路反対派によるストリート礼賛への疑義は,「都市やストリートは異質な他者との出会いの場である」といった紋切り型の社会学的言説の再検討を促してくれる。実際,都市での自分の暮らしを振り返れば,ストリートでの「異質な他者との出会い」などないし,現代の都市は,むしろそのような出会いが生じないような装置に充ちている。都市において,人びとは自分とどこか同質なところをもっている「仲間」を選択しながら(逆から言えば異質性を排除しながら)生活しているといっていいだろう。その意味では,現代の都市のストリートは,出会いの場ではなく,自動車による商品や人の流通のためのものであり,都市計画もストリートが流通のための「大動脈」となるように作られている。そして,そこでの「異質な他者」は出会うものではなく,安全を確保した距離から眺める対象であり,都市のスペクタクルの一部でしかない。
 しかし,18 世紀までのヨーロッパでは,ストリート(街路・路地)は,人と人との間にアソシエーションが創出される生活の場でもあった。いまでもチューリッヒのようなヨーロッパの都市の旧市街を歩いていると,自動車の侵入を妨げているかのように,狭い街路にカフェのテーブルや椅子がはみ出していて,そこで出会った顔見知りとながながと語り合っている人々がいたりする。このように,人々の生活の場としての路地をいまでも垣間見ることができる。
 そのような生活の場としての路地は,ルフェーブルが挙げた,相反する 2 つのストリート観のどちらにもあてはまらない。というのも,そこは流通と消費の場にはなっていないけれども,固定された住居や日常的生活から解放されている無秩序の場でもないからである。路地は,出会いと祝祭の場ではあるが,生活の場から切り離されてはいないのである。都市のストリートが,流通と消費のための空間へと造りかえられていったのは,モダニティ(近代性)の世紀である 19 世紀であったが,ストリートが生活の場から切り離されていくその過程で,もう片方の「解放された人々が出会う場」という,いわば 「ストリート・ロマン主義」の幻想も同時に作られたといったほうがよいだろう。


2 モダニティの首都,パリの路上の変遷

 それでは,それ以前のストリートはどのようなものであったのだろうか。「19世紀の首都」(ベンヤミン)であり,「モダニティの首都」(デヴィット・ハーヴェイ)であったパリの例を見ていこう。パリの路地は,19 世紀の前半までは,生活と出会いの場であると同時に,とりわけ 1830 年の 7 月革命から 1848 年の 2 月革命と 6 月蜂起にかけては,民衆による都市騒乱の母胎であり舞台であった。喜安朗(1982; 1994)によれば,この都市騒乱の時代を通して,労働者のストライキのための集会は居酒屋で行われ,居酒屋で出会った人たちによるグループ,たとえば居酒屋に集まってともに労働者詩人のシャンソンを歌う仲間であるゴゲットやさまざまなクラブ・アソシエーションが 2 月革命や 6 月蜂起の基盤となっていたという。また,労働者よりも下層の路上の生活者である呼売り人たちは,革命や蜂起のたびに数が急増して,路上をにぎわせたが,彼ら/彼女らは革命や蜂起の情報を印刷した新聞やビラの呼売り人ともなって,民衆蜂起の媒介者となった。そして,最も活躍したメディアはストリートの壁に貼られたポスターであり,狭く曲がりくねった路地はなによりも民衆たちがバリケードを作るのに適していた。
 アラン・フォール(1991)は,これらの民衆たちによる都市騒乱が民衆文化におけるカーニヴァルなどの形式をとっていたという。たとえば,2 月革命の騒乱のきっかけとなったのは,ブルヴァール(大通り)上で法務大臣の家に対して,シャリバリ(どんちゃん騒ぎによるからかい)の形式で抗議行動をしていた人々の行列行進が徘徊しながら外務省前までいったときに,群集に守備隊が発砲して,死者 52 人が出たという事件だったが,そのとき,人々は,運送会社の馬車を徴発し,死体を馬車に乗せて「復讐だ! 武器を取れ!」と叫びながら行進したという。それは,他ならぬカーニヴァルの山車の形式だった。
 このように,19世紀前半のパリのストリートは,出会いと生活の場であると同時に,革命と祝祭の場であった。重要なことは,都市騒乱と革命と祝祭の場としての路上が,人々の生活の場と切り離されてはいなかったということである。喜安は,フォールが指摘する都市騒乱や蜂起のカーニヴァルあるいはシャリバリの形式や,路地の居酒屋で創られたさまざまなゴゲットやクラブなどのアソシエーション,そしてストリートを生活の場とする下層民衆たちの「路上の権利」という伝統などに見られるように,都市騒乱の祝祭性が一時的・突発的なものではなく,都市の民衆の生活の場に根ざしたものであったということを繰り返し強調している。
 けれども,都市騒乱の時代を経るうちに,路上に変化が起こる。まず,ストリートを生活の場とする呼売り人の声が路上から消えてゆく(喜安 1982: 189)。1820 年代の王政復古時代に,ブルヴァールにおける馬車の往来が激しくなって中流階級の人々がゆっくりブルヴァールの商店をゆっくり見ながら散歩することが困難になったため,ブルヴァールとブルヴァールとを連絡する通路の両側にショーウィンドに商品をきらびやかに並べた商店が並ぶアーケード風のパッサージュがたくさん出現したが,呼売り人たちは,ブルヴァールからもパッサージュからも締め出されたのである。警察は,呼売り人たちを交通の妨げであり,また路上での騒乱を起こす存在と見なして厳しく規制するようになり,大道芸人たちも鑑札による承認がなければ路上にいられなくなった。2 月革命は,それらの人々が「路上の権利」を要求する抗議行動でもあったが,その「路上の権利」に止めをさしたのが,第 2 帝政期の 1860 年代に進められたオスマン知事の都市計画によるパリの改造であった。この都市改造によって,多くのまっすぐなブルヴァール (大通り)が造られるとともにたくさんの路地が整理されていった。それは,リチャード・セネットが指摘しているように,即席のバリケードを作るのにうってつけだった,曲がりくねった路地をなくしていくとともに,見通しのよいブルヴァールを貫通させることで,流通の輸送手段を確保しつつ,集団と集団とを分断するという効果があった(セネット1975)。オスマン知事の都市計画は,まさに,「アーキテクチャによる支配」(レッシグ2001; 東 2007)の始まりだったのである。
  そして,都市計画によるパリの改造は,ストリートを生活の場とする人々の「路上の権利」を消滅させるとともに,パリのカーニヴァルをも変質させた。フォールによれば,2 月革命以降,パリのカーニヴァルは衰退し,世紀転換期に突然復活する。しかし,復活したカーニヴァルはもはや飼いならされたものだった。それは,祭り委員会によって組織され,人々の動作は体系化され,飲酒や野蛮な行為は規制され,新聞社や企業の提供する大掛かりな山車行列やダンスがスペクタクル化された。このようにしてカーニヴァルは,人々にも好評な楽しみとなったが,それは,資本主義のためのスペクタクルとなったのである。


3 「ストリートを取り返せ!」

 ストリートが流通と消費の場,飼いならされたスペクタクルの場になったあとでは,「ストリートを取り返す」という実践は,ストリートが人々の出会いの場であるようにすること,人々の「路上の権利」を取り戻すことを意味するだろう。そのような実践がストリートの人類学にとって重要なテーマのひとつとなるのは,ノスタルジックに過去を再構成するためではなく,現代社会においてもそのような実践が様々な形で見られるからである。そのひとつが,毛利嘉孝(2003)の紹介している,1990年代のロンドンで始まった「ストリートを取り返せ(リクレイム・ザ・ストリート)」という運動である。この運動は,ストリートが自動車に独占されていることへの抗議として,一定の時間道路を封鎖して,そこでぶらぶら歩くデモをしたり,レイブ・パーティを開いたり,自転車で埋め尽くしたりして,そこに祝祭的空間を創り出すというもので,1993 年秋にロンドンのワンステッドとハックニーを結ぶ高速道路M11 のレーン拡張計画に反対して,その拡張計画で取り壊される予定のクレアモント・ロードに残された家と道路を占拠し,そこに塔を立てて,道路でレイブ・パーティを開いたりしながら 1994 年 11 月まで工事を阻止したことで注目された。そのときは最終的には警官隊によって排除されたが,これをきっかけにして,「リクレイム・ザ・ストリート」の運動は,ゲリラ的なストリート・パーティを開いて交通を麻痺させて,一時的にストリートを「自動車による交通や移動の空間」から「日常生活を楽しみ,創造し,繁栄させる場所」へと変容させる運動スタイルを生み出したという。毛利は,この「リクレイム・ザ・ストリート」運動について,次のように言っている。

 彼らにとって,ストリートは単なる交通や移動の空間ではない。むしろ問題は,本来は多様な人間生活の営みの場が,単なる交通や移動の空間として切り詰められていることである。それは,国家と個人,公的な空間と私的な空間が交錯し,互いにせめぎあう政治的な場所であるべきなのだ(毛利2003: 105–106)。

 「リクレイム・ザ・ストリート」運動の他にも,ストリートを取り返す実践として,スケートボーディング(ボーデン 2006)やコミュニティ・ガーデニング(高祖 2006)などが挙げられる。ただし,それらの実践の多くは,ストリートを一時的に祝祭的な出会いの場にするもので,生活の場とするものではない。それらは,ジュディス・バト ラーの言い方を借りれば,ストリートを「創発的連帯」の場とする運動といえるだろう。バトラーは,女性たちのあいだの創発的連帯について,「女というカテゴリーの中身をまえもって定めないような連帯」であり,創発的な連帯の枠組みの中では,「さまざまな立場の女が各々のアイデンティティを表明しうる対話的な出会いの場がもたらされる」(バトラー1999: 41)と述べている。
 しかし,創発的連帯は,バトラー自身が認めているように,連帯を効果のあるものにしようとすれば,それはたとえばマイノリティというアイデンティティやローカルな場所を基盤とする必要があるが,そうなると創発的なものではなくなり,それを創発的なものとしようとすれば祝祭のように一時的なものになるか,あるいは連帯の基盤となるアイデンティティや場所といった基盤を放棄せざるをえなくなってしまうというジレンマを抱えこんでいる。
 それに対して,関根康正(2007)が報告しているインドの大都市チェンナイ市の大通りに建てられた「歩道寺院」は,基盤となる場所としての生活の場と切り離されてはおらず,まさに現代都市のストリートを生活の場として取り返す実践となっているといえるだろう。関根は,花輪売り,屋台,小物売り,路上生活者の居所,果物売り,生ジュース売り,古本売り,牛の飼育,サイクルリキシャ・スタンド,茶店,社交場,トレイやゴミ捨て場,傘直し,靴修理と靴磨き,エロ本隠し売りなど,雑多な活動と機能をもつ歩道空間を,「上からの都市計画の意図をずらして利用,活用されている『ヘテロトピア』的なる場」(関根2007: 210)と呼んでいる。

 このような実践は,ルフェーブルの描く「街路礼賛派」のいうようなストリートの解放区・祝祭空間としての外部性を取り戻すということとは異なり,都市計画による区切られた空間,アーキテクチャによって支配・制御された空間のただなかに「『ヘテロトピア』的なる場」を生み出していくものだ。関根がここで「ヘテロトピア」というフーコーの用語を使って呼んでいる場を,ここでは,ドゥルーズとガタリ(1994)のいう,「条里空間」(区画化された空間)と対比された「平滑空間」(なめらかな空間)と呼びたいと思う。支配するための秩序である条里空間においては,閉鎖空間を区分してそこに直線的かつ固体的事物を配分するのに対して,平滑空間は,流体としての事物が開放空間のなかに配分されるという。ドゥルーズとガタリは,平滑空間について,つぎのように述べている。

 平滑空間の等質性は無限に接近する点同士の間にしか存在しないのであり,近傍同士の接合は特定の道筋とは無関係に行なわれる。それはユークリッド的条里空間のように視覚的な空間であるよりも,むしろ触覚的な,つまり手による接触の空間,微細な接触行為の空間なのだ。平滑空間は運河も水路ももたない一つの場,非等質な空間であって,非常に特殊な型の多様体,すなわち非計量的で中心をもたないリゾーム的多様体,空間を「数える」ことなく空間を占める多様体,それを「探険する」には「その上を進んでいく以外にはない」ような多様体に一致するのである。この型の多様体は外部の一点から観察されうるという視覚的条件を満たしていない(ドゥルーズ・ガタリ 1994: 427)。

 ドゥルーズとガタリは,条里空間ではある 1 点から他の 1 点への道筋が計量されうるのに対して,平滑空間にはそのような点と点を結ぶ道筋を測定することのできる外部の1 点(超越的な高みの足場)はないという*2。条里空間を一望可能で計量可能なものにしているこの外部の 1 点が,サイードのいうオリエンタリズムにおける,オリエントを眺望できる超越的立場と同じであることは理解しやすいだろう。そして,ドゥルーズとガタリは,このような条里空間と平滑空間の対比を,さらに思考の形式の対比および人との関係性のありかたの対比と重ね合わせて特徴づけている。すなわち,条里空間は,王道科学を代表とする「普遍的思考」という形式によってとらえられるものであり,平滑空間は,マイナー科学のような種族的でノマド的な思考の形式によってとらえうるものとしている。そして,関係性の形式,すなわち人と人とのつながりのありかたでは,条里空間における関係性の配分はツリー状のモデルにしたがう組織であり,平滑空間において配分されるのはリゾーム的な多様体であるとされている。
 ドゥルーズとガタリのいう条里空間が,ミシェル・ド・セルトーのいう支配的文化の「戦略」に特徴的な「固有の場所からの一望監視を可能にする空間の分割」によってできる空間であることも理解しやすいだろう。セルトーのいう民衆の「戦術」は,関根が発見したインドの大通りの歩道を不法占拠する「歩道寺院」のように,条里空間に閉込められた人びとが自分たちの日常生活の空間を部分的に平滑空間へと変容させる実践,つまり平滑空間を身近な空間にひそかに導入する実践ととらえられる。そのようなことが可能なのは,人びとは,条里空間に閉じ込められながらも,日常的実践において平滑空間に対応する思考の形式や人との関係性のつくりかたを保持しているからである。 重要なことは,平滑空間は,それに対応する関係性の形式,すなわち明確な境界線で区切られることなく,地下茎のように延びていくリゾーム的な多様体としての「つながり」において生成されるということである。ドゥルーズとガタリは,その平滑空間をポストモダニズム的にノマド的な移動性・速度・流動性によって説明するが,それは実際に移動しなくても創出される。つまり,条里空間の境界を平滑的なものに変容させるには,実際の移動や流動性は必要ないのである。たとえば,リュス・イリガライは,「あなたはわたしに空間を割り当てます。わたしの空間を,わたしに。けれども,この作業のために,あなたはつねにすでに,わたしの場の広がりから,わたしを引き離してしまっています」(イリガライ1989: 63)と述べて,そのように「あなた=男」が「わたし=女」に割り当てた空間を隔てる壁,すなわち,条里空間のように固定された排他的な境界を,皮膚のような浸透的なものに変えてしまう実践として,「愛撫」を挙げている。イリガライは,つぎのように語っている。

 わたしがあなたを愛撫します,あなたがわたしを愛撫します,統一を―あなたのも,わたしのも,わたしたちのも―つくりなすことなく。わたしたちを分離し,分断する外皮は,ごく薄いものとなります。堅固な囲いから,流体に変化するのです。とはいっても,なくなってしまうわけではありません。わたしたちが融合してしまうわけではありません。わたしたちを階層秩序的に差異のあるものとしていた,場への関わりが,性格を変えるのです(イリガライ1989: 83–84)。

 イリガライによれば,「愛撫」は,移動することなく,ただ可動性(身体的な関係性の広がりと揺れ動き)をとりもどすのであり,それは,ドゥルーズ/ガタリの言葉を使えば,割り当てられたツリー状の構造や条里空間のただなかで,それを構成する二項対立を転倒させるのではなく,自分の可動性を取り戻すだけの周りの空間をリゾーム状の構造へ,平滑空間へと変容させる実践である*3。つまり,条里空間として生産された空 間の一部を平滑空間に変容させる実践というとき,その平滑空間は,条里空間の外部にあるものとして語られるわけではない。それは,平滑空間を排除するかたちで生産された条里空間の境界の性格を変容させることではじめて出現するような「場所」なのである。
 したがって,イリガライが強調している女性的なものの可動性は,割り当てられた空間から壁を飛び越えて離れるという,ポストモダニズム的な脱領土化や越境(男に割り当てられた 「彷徨」)を意味するわけではない。そうではなく,生活の場に留まりながら,その場で自分たちの〈顔〉のある関係性の広がりを確保していくための可動性である。その可動性は「形式の枠内にあって硬化しない注意だけが」感じとれるものであり,「たえまのない,しかも理解の範疇とくらべればつかのまの,可動性」(イリガライ1989:134)だとイリガライはいう。それは,「定住/彷徨=女/男」という二項対立の結びつきを転倒も破棄もしないけれども,与えられた「定住」という位置を模倣しながら,定住のなかに移動性を招き入れ,自分の住まいに他者の身体や声を,模倣や歓待を通して浸透させて,「わたしという場の広がり」を取り戻すことなのである。
 このように,条里空間のただなかにありながらそこに平滑空間を生成する実践に必要なのは,そこから逃れる移動性や流動性ではない。必要なのは,後で述べるように,生活の場にみられる関係の複数性や過剰性*4であり,その関係性において働く,日常的なもののやりかたにみられる「野生の思考」である。そして,ここで強調したいのは,滑空間を生成する実践が,人と人との〈顔〉のみえる関係とそれによって作られている「生活の場」ないしは「共同体」にささえられているということなのである。それは,ツリー状構造をモデルとする思考によってはとらえることのできない共同体である。そこでは,〈顔〉のある関係性のもつさまざまに異なる様相 ―それを,私は関係性の複数性・過剰性と呼んでいるが,そのような様相は役割関係や主体のポジションには還元 されない―が交叉しあってつくられ保持されている錯綜体としての関係性をさまざま方向に延長してつくられるため,ツリー構造のような明確な境界や全体―部分の包摂関係をもたないのである。


4 関係の複数性・過剰性とバザール経済論

 19 世紀前半のパリのストリートも現代のインドの「歩道」も,雑多な活動の場となっていたが,その活動の多くが小売り,すなわち商業活動であったことは見てきた。「ストリートを取り返す」という実践の陥りやすい罠は,ストリートのもつ出会いの場・祝祭の場としての側面を,商業活動の場と無関係なものとして観念化してしまったりすることにある。生活の場としてのストリートにおける人びとの「路上の権利」とは,そこで人々が出会い語らい遊歩することというより,そこでさまざまな商売をしたり人とのつながりを作ったりするということだった。重要な区別は,そこに商業活動としての商品化やスペクタクル化が見られるかどうかではなく,その商業活動やスペクタクルが生活の場とつながっているかどうかということなのである。
 ストリブラスとホワイトは,ミハイル・バフチンが祭りやフェア(定期市の祭)の開催される広場を治外法権の場,純粋な外部として描きつつ,祭りを共同体の祝いの場としてしまっているとし,「しかし,祭りは,広場と同様,純粋でもなければ,外部にある場でもない。定期市は,道の交差する場所にあって,経済や文化の諸力,商品や旅人,物産と商業が交通する要所に立つからだ。だから,祭をただ単に共同体の祝いの場とするのは単純すぎる発想だ」(ストリブラス/ホワイト1995: 48)という。そして,「資本主義的合理性を具えた商業活動と,民衆の祝祭とを,切り離そう」というバフチンの発想が,「経済活動を,祭とは別個の領域とすることによって,商業と祝祭行事との多様で密接な絆を断ち切ろう」(ストリブラス/ホワイト1995: 48)としていたブルジョワの思考を引きずっていると批判する。
 ストリブラスとホワイトの議論は,市場と共同体とがどこまでも相容れずに切り離されているという二元論に対する警告として有効である。ただし,注意しなくてはならないのは,吉見俊哉のように,商業活動と結びついた祝祭が共同体の祭りであることを全面的に否定して,「たとえば,18世紀の産業革命の推進者たちは,祭りから祭りへと巡りながら『意識的に大衆の間に新しい趣味や嗜好を植えつけていった』のであり,こうした伝統が,やがて 19 世紀に開花する博覧会や見本市の文化へもつながっていくのである」(吉見1997: 47)などとするのも,また共同体と市場とを対立させてしまう単純な発想だということである。吉見は,商業活動との結びつきや商品とスペクタクル化が同じように見られるからというだけで,18 世紀以前の祝祭と 19 世紀末に生まれた「資本主義のためのスペクタクル化された祝祭」とを連続させてしまっている。けれども,その見方は,18 世紀以前の定期市などに見られる商業活動と民衆の祝祭との結びつきは,市場交換を生活の場に取り入れつつ飼い慣らす民衆の術によるものであることを無視してしまっている。吉見のようなとらえ方はちょうど,市場交換がなされることには変わりがないからといって,クリフォード・ギアツのいう,生活の場としての「バザール経済」(Geertz 1979)と生活の場から切り離された近代の「産業経済」とを連続的に同じものとしてみるようなものだといえよう。
 ところで,安冨歩(2006)は,「マーケットの力が共同体を破壊し,人間を疎外するという見方は神話に過ぎず,われわれが見ている市場はむしろ市場性と共同性の連続体が織り成すバーザールである」(安冨2006)と述べ,ギアツのバザール経済論を,市場/共同体の二元論を相対化する上で重要だと評価している。安冨は,市場/共同体や近代社会/共同体という二項対立と市場による共同体の解体によって近代的個人が成立するという図式を,19 世紀ヨーロッパ近代思想のドグマを反映したものであり,そこでの「共同体」は理念的に構成された「近代社会」の陰画だと指摘している。このような指摘は,私もすでにしたことがあり(小田 2005),賛同したい。また,それは,商業活動としてのフェアと民衆の祝祭という二項対立が,経済活動と民衆の祝祭を切り離そうという 19 世紀のブルジョワ思想の反映だというストリブラスとホワイトの指摘とも重なる。
 けれども,そのことは,共同体的関係を作る贈与交換と,市場で行われる市場交換との区別が否定されることを意味しないし,マルクスの「商品交換は,共同体の果てるところで,共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で始まる」ということばが間違っていたということを意味するわけでもない。贈与交換と市場交換とは原理的に区別されるし,商品交換(市場交換)が,価値体系の地理的・空間的な差異を利用=搾取することで売り手と買い手の双方に利益をもたらすものとして始まった以上,マルクスの言うように,同じ場所を共有し価値体系を共有する者(つまり,同じ共同体の成員)との間ではけっして始まらないこともたしかだろう*5。さらに,原理的な問題だけではなく,市場と共同体の二項対立を全面的に否定してしまうと,市場交換のもつ脱領土化(脱土地化)と非人格化によって,現に共同体が崩壊していっているという事実が説明できなくなるだろう。
 ギアツのバザール経済論の興味深いところは,脱土地化とその場限りの非人格的関係を特徴とする市場交換の行われる場であるはずの市場(バザール)において,その場所が持続的に共有されることで(いいかえれば,「生活の場」として共有されることで),〈顔〉のある関係が作られ,ちょうど贈与交換が作るような共同体的関係が形成されることを示したことにある*6ギアツは,バザール経済を発展段階の未開経済と産業経済の間の段階とすることを退けている。つまり,それはどこでも(いまでも)生じうるものなのである。))。それは,たしかにパラドキシカルなことである。けれども,そのパラドクスを市場交換と贈与交換の区別を否定して連続的なものと捉えたり,市場社会と共同体の二項対立を破棄して解消してしまったりしては,逆に,生活の場において市場交換を飼い慣らすことによって,市場のもつ脱土地化・非人格化の力に抗して持続的な関係を形成してきた人びとの戦術が見えなくなってしまうだろう。そして,生活の場においてそれが可能となるのは,そこにおける持続的な関係に,複数性や過剰性があるからであり,そのようなパラドキシカルな実践も,生活の場における関係の複数性・過剰性によって可能となるのである。
 ギアツのバザール経済論における「常連化(cliantelization)」は,そのような関係の複数性や過剰性の生成についての議論として読み替えることができる。ギアツは,バザール経済の特徴を,売り手と買い手が特定の限られた空間に密集していて同じ場を共有する者同士である,取引の交渉は対面関係において行われる,取引の相手は不特定多数の人びととなるが,取引は個人と個人の間で行われる,商品が標準化されておらず伝達システムも不十分なため,商品の品質や機能についての情報や取引相手の情報が不正確で不均衡になっているといった特徴を挙げている。
 たしかに,バザール経済における取引は,市場交換であり,そこには需要と供給による価格形成のメカニズムも働き,その取引の関係はその場限りでの敵対的な関係だという市場交換の特徴を有している。けれども,バザールで取引する者(バザーリ)*7は,バザールを生活の場にしている者たちであり,そこには取引関係以外の,ただおしゃべりをしたり情報を得たり,一緒にぶらぶらしたりといった,さまざまな関係のネットワークができている。そして,取引の関係においても,交渉を繰り返すうちに,「常連化」が起こるという。ギアツは,バザール経済におけるこの常連化は,ある程度の大きさの規模をもっていながら情報が不正確で不均衡になっていることからくるリスクを軽減するために必要なものだとする。
 安冨は,ギアツのいう「交渉」とその繰り返しによる「常連化」した長期的な関係を「共同体における贈与」による社会関係形成と類似しているという。となると,市場交換の関係,「共同体が果てるところ」にあるはずの市場交換におけるその場限りの敵対的な交渉の関係に,それとは相容れないはずの贈与交換の関係に似た関係が作られているということになる。このことは,市場/共同体(市場交換/贈与交換)という伝統的な二項対立の棄却へとつながるものだと安冨はいう(安冨2006: 197)。
 けれども,すでに述べたように,このことは,市場交換の関係と贈与交換の関係との区別がないということを意味するのではない。その区別は「常連化」においても維持されている。その区別された異なる関係が,生活の場を共有していることで「馴染み」になった相手との関係が日常的な場では同じ 1 つの具体的な〈顔〉のある関係のなかに連結されてその関係が複数化しているということなのである。ギアツは,「常連化」をバザール経済に特徴的な情報の不正確さや不均衡からくるリスクを軽減するためとしているが,そのこと自体は,生活の場において市場経済を「飼い慣らす」ための戦術の一部にすぎない*8。いいかえれば,このような「常連化」による関係の過剰性(すなわち,その場限りの売り手と買い手という関係以上の,それには還元されない過剰性)や複数性は,情報の不正確さや不均衡のあるバザールにおいてではなくても起こる。
 その点を考えるのに,安冨が深尾葉子とのフィールドワークで見出した中国の黄土高原の農村での事例(深尾・安冨 2003)が示唆的だ。陜西省北部の農村では,家屋建設などに際する村人間の労働提供には,親族や友人など関係の近い人による相互扶助的な無償の労働力の提供である〈相夥〉と,現金を代価にした労働力の提供である〈雇〉とがあり,区別されている。しかし,興味深いことに,ある家屋の改修に施主の友人が〈相夥〉に来ていたが,18 日間にわたる友人の労働提供に対して,施主がこれは過大だとして報酬を現金で払う,すなわち〈雇〉に途中で切り替えたという事例があったという。
 この事例は,「〈相夥〉=労働力の贈与交換」と「〈雇〉=労働力の市場交換」とが単純な二者択一ではなく,同じ関係に互いに矛盾をきたすことなく混在していることを示している。しかし,それは,安冨がいうように,〈相夥〉と〈雇〉とが連続していてその間に中間形態があり,区別が明確ではないということを意味しているのではないだろう。同じ相手との関係が贈与交換から市場交換へと転換可能であり,本来両立しない 2つの関係のあいだの相互転換によって,返すことが困難な反対給付の義務(贈与交換は,同じものを返すのが規則となっているので,同じ労働をして返すまで「負い目」が持続する)を反対給付の義務のない市場交換の関係(その場限りで双方とも利益となるから負い目が初めから発生しない)へと転換することで生じないようにすることが可能となり,同時に,異なる関係が同じ相手との関係に重なり合って混在しているという関係の複数性・過剰性によって,友人関係や共同体のなかの関係においてはふつうその関係を壊してしまうからという理由で避けられている市場交換が,それらの関係を破壊しないようなものに飼い慣らされているというわけである。
 安冨の示した〈相夥〉と〈雇〉との相互転換やギアツの示した「常連化」には,ローカルな場での持続的な関係が不可欠である。つまり,これらの転換の意味するところは,生活の場における「馴染んだ」関係には,意味の異なる関係が同じ相手との関係に混在しうるという,関係の複数性や過剰性があるということなのである。そもそも転換であるということ自体が,それらが贈与交換と市場交換の中間形態などではなく,贈与交換と市場交換とが異なるものであるという前提がそこにあり,その違いが認識されていることを示していよう。

その2へつづく

*1:本稿は,『民博通信』116 号の「特集 ストリートの人類学」に掲載された拙稿「ストリートを取り戻す」(小田2007a)と,民博共同研究会「ストリートの人類学」(研究代表者:関根康正)での発表原稿「空間としてのストリート,場所としてのストリート」(小田2006a)に大幅に加筆したものである。

*2:ドゥルーズとガタリは,条里空間での思考形式である王道科学に代表される普遍的思考に対して,平滑空間におけるマイナー科学に代表されるノマド的思考(遊牧的思考)という思考の形式を対比させているが,条里空間での普遍的思考(王道科学)が,ものごとを細かく区切ってそれに一義的な機能=意味を与えて,その分けられた部分=部品の合成が全体をなすという「線形科学」であるのに対して,マイナー科学が科学内部での反省から登場してきた「非線形科学」に対応するといえよう。また,後者の非線形的思考は,全体的な計画や全体から与えられた機能なしに,雑多な来歴の痕跡をのこしたままつくいでいくブリコラージュによる「野生の思考」(レヴィ=ストロース1976)に近いものである。ブリコラージュについては,拙著(小田2000)をも参照されたい。

*3:内田樹(2002)は,イリガライの「女性的エクリチュール」の実践に対して,「女性的エクリチュールは,男性中心主義的な体制が伝統的に女性に割り振ってきた女言葉とどこが違うのか」と述べたあと,そこに「支配/被支配」「定住/彷徨」「拘束/自由」「運動/停止」といった二項対立が見られることを指摘し,つぎのような疑問を投げかけている。「さて,「さまざまな二項対立を作り上げ」その一方に価値のあるものを,他方に価値なきものを配することこそが「いわゆるロゴス中心主義と呼ばれる全体主義的原理」である,というのがイリガライの形式主義批判の考え方だったはずである。この考え方に徴した場合,今イリガライが並べ立てた二項対立図式はどう説明されるのだろう。これは「ロゴス中心主義」の「女性バージョン」とは違うのだろうか(内田2002: 60)。」 しかし,イリガライが行なっていることは,あらたに二項対立を作り上げることでも,あるいは押し付けられた二項対立を破棄することでもそのまま転倒させることでもない。そうではなくて,「あなた=男」が「わたし=女」に割り当てた空間を隔てる壁を,浸透する生者の皮膚にもどすことなのである。イリガライは,それを「愛撫」として語っているのだ。内田が理解していないのは,「女性的エクリチュール」が,「ロゴス中心主義」を「模倣」しながら,その意図をずらして流用することで条里空間を部分的に平滑空間へと変容させる実践なのだということである。

*4:関係の複数性とは(関係の複雑性といいかえてもいいのだが),1 人のひとが「複数の関係」からなる束だというのではなく──それは一義的に決められた役割関係の束にすぎない──,ひとつの関係に,互いに矛盾する意味をもつ複数の関係性が矛盾や対立なしに並存しているという状態を指す。また,関係の過剰性とは,明確にかつ合理的に規定された機能的な役割関係や複数の役割の束には収まりきれない〈顔〉のある関係が生じていることを示す。たとえば,教員と学生という役割関係において,教員としての私は自分の教えている学生の顔を知ってはいるけれども,教員という役割をはたしている限りにおいて,そこに〈顔〉のある関係はない。しかし,そのうち学生のうちの何人かとは教員という役割を超えた,〈顔〉のある関係となることがある。すなわち,学生だからここまで職務としてつきあえばいいという範囲をはみ出した関係の過剰性とでも呼ぶべきつきあいが生じる。場所を共有しあう生活の場における〈顔〉のある関係性は,つねに機能的な役割連関の関係性以上のものとなる(〈顔〉とはそもそも「関係の過剰性」のことである)。関係の複数性も過剰性も,生活の場の関係性が機能的な役割関係という線形的な思考によって把捉しきれないことを示すものである。関係の複数性・過剰性については,拙稿(小田 2003; 2006b; 2007b)をも参照されたい。

*5:贈与交換と市場交換の原理的な区別については,拙著(小田 1994)の第Ⅱ章の議論を参照さ れたい。

*6:近代の市場経済(ギアツのいう「産業経済」)の合理性は,線形科学やセルトーのいう「戦略」と同様に,正確な情報の全体が一望できるというフィクションの上になりたっている。セルトーは,意志と権力の主体が,自分以外の相手のさまざまな関係を測定し監視するために, 周囲から自分を切り離して全体を一望できるような固有の場所を確保していることを前提としてはじめて可能となるような力関係の計算や操作を「戦略」と呼ぶ。「政治的,経済的,科学的な合理性というのは,このような戦略モデルのうえに成りたっている」(セルトー989: 25–26)が,それは,現実には不可能であり,いつでもどこでも情報の不正確さや不均衡はつきまとうため,この戦略モデルは破綻せざるをえない。それに対して,セルトーのいう「戦術」とは,相手の全体を見おさめることのできるような場所をもたず,情報の不正確さや不均衡にもかかわらずなされる計算のことである。戦術としての「もののやりかた」の特徴は,「『監視』の編み目のなかにとらわれつづけながら,そこで発揮する創造性,そこここに散らばり,戦術的でブリコラージュにたけたその創造性」(セルトー1989: 18)にある。ギアツの描くバザール経済における「交渉」と「常連化」は,このようなブリコラージュ的 な戦術のひとつなのである。

*7:ギアツの扱っているモロッコのバザール(スーク suq)では「スーワーク suwwaq」と呼ばれる。

*8:近代の市場経済(ギアツのいう「産業経済」)の合理性は,線形科学やセルトーのいう「戦略」と同様に,正確な情報の全体が一望できるというフィクションの上になりたっている。セルトーは,意志と権力の主体が,自分以外の相手のさまざまな関係を測定し監視するために, 周囲から自分を切り離して全体を一望できるような固有の場所を確保していることを前提としてはじめて可能となるような力関係の計算や操作を「戦略」と呼ぶ。「政治的,経済的,科学的な合理性というのは,このような戦略モデルのうえに成りたっている」(セルトー989: 25–26)が,それは,現実には不可能であり,いつでもどこでも情報の不正確さや不均衡はつきまとうため,この戦略モデルは破綻せざるをえない。それに対して,セルトーのいう「戦術」とは,相手の全体を見おさめることのできるような場所をもたず,情報の不正確さや不均衡にもかかわらずなされる計算のことである。戦術としての「もののやりかた」の特徴は,「『監視』の編み目のなかにとらわれつづけながら,そこで発揮する創造性,そこここに散らばり,戦術的でブリコラージュにたけたその創造性」(セルトー1989: 18)にある。ギアツの描くバザール経済における「交渉」と「常連化」は,このようなブリコラージュ的 な戦術のひとつなのである。 近代の市場経済(ギアツのいう「産業経済」)の合理性は,線形科学やセルトーのいう「戦略」と同様に,正確な情報の全体が一望できるというフィクションの上になりたっている。セルトーは,意志と権力の主体が,自分以外の相手のさまざまな関係を測定し監視するために, 周囲から自分を切り離して全体を一望できるような固有の場所を確保していることを前提としてはじめて可能となるような力関係の計算や操作を「戦略」と呼ぶ。「政治的,経済的,科学的な合理性というのは,このような戦略モデルのうえに成りたっている」(セルトー989: 25–26)が,それは,現実には不可能であり,いつでもどこでも情報の不正確さや不均衡はつきまとうため,この戦略モデルは破綻せざるをえない。それに対して,セルトーのいう「戦術」とは,相手の全体を見おさめることのできるような場所をもたず,情報の不正確さや不均衡にもかかわらずなされる計算のことである。戦術としての「もののやりかた」の特徴は,「『監視』の編み目のなかにとらわれつづけながら,そこで発揮する創造性,そこここに散らばり,戦術的でブリコラージュにたけたその創造性」(セルトー1989: 18)にある。ギアツの描くバザール経済における「交渉」と「常連化」は,このようなブリコラージュ的 な戦術のひとつなのである。