民主主義の空隙 ロザリン・ドイッチ(比嘉徹徳=訳) "THE THRESHOLE OF DEMOCRACY" Rosalyn Deutsche

 

他人に施す仏教など私は持ち合わせていない。私は1本の剣を持っているのみである。誰であれ向かって来るなら、私は断り倒す。彼らはそこで命を落とし、暗闇と沈黙だけが残るであろう。
──鄭経


  ブロンクスは、誰もが知っている都市荒廃の象徴である。ブロンクスはまた、多数のパブリック・アート作品の場でもある。いずれにせよ、こういったことは、われわれが1970年代以降に聞かされてきた紋切り型の表現である。『都市の神話学』展が提起した問いは、この2つの命題のあいだの関係とは何か──それがあるとして──というものである。これは悪くない問いかけであるが、別の問いを呼び起こす。すなわち、パブリック・アートとは何か、都市の荒廃とは何かという問いである。しかしながら、これは必ずしも適切な問いではない。というのも、もし都市の荒廃やパブリック・アートといった概念が、自然にではなく、社会的に構成されるのなら──いうなればそれらの概念が様々な使い方を許す修辞的道具であるなら──、われわれはより政治的に問わなければならないのだ。ある芸術活動が「パブリック」と名付けられ、ある都市の状況が「荒廃」と名付けられたのはいつのことなのか、また、これらのレッテルはいかなる機能に役立てられているのか、と。
  私はこの問いに、ブロンクスと窓に関する2つの逸話から接近してみたいと思う。その2つは、芸術、都市、そして民主主義に関してわれわれにちょっとした教訓を与えてくれる、さらに大きなテーマを垣間見させてくれる。最初のものは、現代美術史に関わる。それは、主流の建築機構に対する批判的オルタナティヴとして、1967年マンハッタンに設立されたが既に解散した、建築都市研究所(IAUS)でのことである。1976年、この年はサウス・ブロンクスで何件もの大きな建物火災が起こったのだが、ゴードン・マッタ=クラークという名のアーティストがIAUSでの展覧会に招かれ参加していた。「モデルとしてのアイディア(ldea as Model)」と題されたこの展覧会には、例えば、その数年前にツイン・パークス・ノースイースト──州都市開発機関(UDC)が助成して、サウス・ブロンクスに建てられた公共住宅プロジェクトの一部門──を設計していた建築家リチヤード・マイヤーも含まれていた。このプロジェクトは、市当局がツイン・パークス内に住居を建設すると決定した1966年に発するものであり、『アーキテクチュラル・フォーラム』誌によると、近隣は荒廃した都市のあらゆる古典的兆候を曝け出していた。*1 その後間もなく、ある建築家グループ──都市計画委員会内の都市デザイングループの先駆けを成す──が、後にツイン・パークス・アソシエーション(TPA)を結成するカトリック司祭のグループと出会う。彼らの目標は、非営利的で購入しやすい住宅を建てることであった。。1968年に、TPAは新たに創設されたUDC(州都市開発機構)──ここは大部分の住宅を限定された営利目的の開発会社に売るつもりであった──とその計画を話し合うという条件で、その区域の都市住宅供給の発起人に任命された。都市デザイナーたちは、建物の管理権を失うことをわかっていながら、UDCと共同作業することを決断した。その理由は、このプロジェクトに選ばれる建築家はとりわけ優秀でなければならないというたっての要求にUDCが応えていたからである。*2 同様に、彼らは、設計進行中にツイン・パークス・アソシエーションと非公式に会議してはならないというUDCの条件に応じた。*3 ツイン・パークス計画は、経済的な効率性と既にある物理的な状況(コンテクスト)への順応に力点を置いていた。マイヤーがこのプロジェクトの担当箇所でモデルとして用いたひとつのアイディアは、20世紀初めのモダニズムの画期をなす「輝ける都市(theRadiant City)」に具現化されたル・コルビュジェの都市概念であった。なかでもマイヤーは、「輝ける都市」の住居区域を特微づける高架の「セットバック」ブロックを採用した。この建物の形態を、建築史家のケネス・フランプトンは19世紀終わりの都市計画にあったアンチ・ストリートの論争を拡張するものであると述べている。*4 完成のすぐ後、マイヤーの建物はギャングの暴力の舞台となった。
  マッタ=クラークは、建築の学位を持つ若いアーティストであった。1972年、彼は「ビルディング・カット」と呼ばれる芸術作品の型を生み出した。その名から伺えるように、彼は捨てられた家の壁や床、天井の断面を切り取ったのだった。後でもう1度論じるが、彼の最初の切断は、ブロンクスやブルックリン、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのアパートで制作された、公認されていない作品であった。「モデルとしてのアイディア」展に、彼はIAUS[建築都市研究所]の内装にちよっとした手直しをしようと目論んでいたが、彼はそれを取りやめる。その代わりに、彼は、サウス・ブロンクスの新住宅供給計画(住民たちがその窓が割っていた)の写真を台紙に貼って、同機構の窓に吊り下げた。彼はまた、許可を受けて、既にひび割れていた機構の窓ガラス何枚かを割った。ところが展覧会開催直前の真夜中になって、彼はすべての窓をエアガンで撃ち抜いたのである。同機構の所長は、割れた窓をすぐさま交換し、マッタ=クラークの作品──『窓破砕(Window Blow-Out)』(下図)──を展覧会から撤去した。*5



  2つ目の逸話は、都市の政治学からのものである。1982年、社会科学者のジェイムズ・Q・ウィルソンと犯罪法の教授ジョージ・ケリングという2人の新保守主義の政策専門家が、『アトランティック・ジャーナル』誌に「割れ窓」という論文を発表した。*6 彼らは次のように論じる。都市におけるわれわれの最大の問題は、あるいはより精確には、都市住民が最大の問題であると考えているのは、公共空間(パブリック・スペース)における無秩序である、と。公共における無秩序が、恐怖を生み出し、共同体を破壊し、犯罪に繋がるのだと筆者たちは主張する。例えば、1枚の窓が割られ修繕されずに放っておかれると、残りの窓すべてが間もなく割られることになる。そしてちようど1枚の割れ窓が多くの割れ窓に繋がるように、犯罪は無秩序な振る舞い──泥酔者、娼婦、ポルノグラフィ、物乞い──に続いて起こる。「見過ごされる乞食が、実質上、最初の割れ窓である」とウィルソンとケリングは書いている。*7 割れ窓説を、彼らは1969年のある実験によって裏付けている。その実験で、ナンバープレートのない車が2つの地域──1台はブロンクス、もう1台はカリフオルニアのパロ・アルト──の道路に放置されている。1度窓が割られると(パロ・アルトでは実験進行者が自ら窓を割らねばならなかった)、自動車はたちまち無惨に破壊された。ここから筆者たちは、些事に注意を払うことが、大事に対して尋常ならざる影響を持つと結論づけ、「割れ窓」は次のような政策助言で締め括られる。公共秩序を維持するためには、退廃している区域に警察を配属せねばならない。
  秩序の維持は、ウィルソンとケリングにとって、彼らが言うところの近隣の「顔馴染み(レギュラー)」──この言葉を彼らはニュージャージーのニューアークの警ら警察官から借用している──によって培われてきた共同体のルールを強化することを意味している。ケリングは警らの警官にといっしよに歩いて過ごし、典型的な巡回について書いている。

  住民は「顔馴染み」と「余所者(ストレンジャー)」から成っていた。顔馴染みには「きちんとした者」と酔っぱらいや無宿者も含まれるが、彼らは変わらずそこにいて「自分たちの場所」をわきまえていた。余所者は、まさに余所者であって、疑わしい目で、時には不快な目で眺められた。その警官──ケリーと呼んでおこう──は、誰が顔馴染みか知っており、彼らもまたケリーを知っていた。彼が現場を見るとき、目は余所者に張り付かせねばならず、よからぬ顔馴染みたちが非公式の、しかし遍く理解されているルールを遵守しているかを確かめる。──仮に商店経営者と客との間に諍いが起こったとすると、商店経営者に理があると見なされる。客が余所者ならなおさらである。もし余所者がぶらついていたなら、ケリーは彼がどうやって暮らしているのか、職業は何かを尋ねる。その答えが満足のいかないものだとしたら、彼は追い払われる。非公式のルールを破る人間、とりわけバス停で待っている人々を困らせるような輩は、浮浪罪で逮捕される。──これらのルールは、通りの「顔馴染み」によって決められ、遵守されていた。ケリーのしていることを「法の遵守」と時には呼んでもよかったのだが、それには決まって、地域住民が決定した公共秩序の適切な水準を守る手助けをする、非公式な、法の適用外の手順が含まれていた。彼のしたことのいくつかは、おそらく法的な説明要求には耐ええないものであったろう。


  小さな街の治安維持というモデルにに依拠しながら、ウィルソンとケリングは、秩序の維持と「自然なコミュニティの非公式な社会管理メカニズム」と彼らが呼ぶものの強化とを同一視している。*8
  この2つの話は、ブロンクスと窓の修繕に関する不安を明るみにしている。 どの話もこれで終わりというわけではない。「割れ窓」を取り上げてみよう。1990年代以来、マンハッタンの保守的機関の都市政策の専門家たちは、「都市生活のクオリティ」に関する言説を土台にしながら、少数精鋭の会議や『シティ・ジャーナル』といった雑誌でウィルソンとケリングの主張を奨励してきた。*9 1993年、ルドルフ・ジュリアーニ割れ窓理論を奉じ、最初の市長選のキャンペーンのスローガンとして「生活のクオリティ」という言葉を採用した。その政権はこの言葉を流通させて、権力の行使──警察の残忍行為、検閲、ゲイやセックス・ワーカー、マイノリティの若者、家のない人々への攻撃──を正当化し、かつそれを隠蔽したのだった。ジュリアーニは最初の警察長官に、ケリングの教え子であるウィリアム・ブラットンを任命した。ブラットンは、まずもって為すべきことは脅威を減らすことだと宣言し、車の窓ふきをするホームレスの人々を逮捕することからその職務を開始した。
  割れ窓説は現在[1999年]のところ、ニューヨークにおける政策決定を正当化し、生活のクオリティを向上させるキャンペーンが、公共空間の保全どころか都市生活そのものの生き残りと同一視されるほど幅広く受け入れられている。しかし、その逆こそ真実により近いのではないだろうか。生活のクオリティについての周知の考えは、諸権利や、平等、余所者に対する嫌悪によって特徴づけられており、したがって、都市生活が単に都市地域における生活のあり方を指しているのではなく、より政治的な意味において、都市で他者と共に暮らすわれわれの態度を指しているとき、これは、民主的な都市生活を危ういものにする。生活のクオリティ談義は、道徳運動と結びつけられ、それは、今日の都市問題は社会生活の絶対的基礎である因習的道徳価値への信奉が低下していることに起因するのだという道徳的説教に支配されている。道徳的退廃は、道徳運動家たちが求める品行方正な規範から逸脱し、よって、共同体の、究極的には社会の「外部」の典型として描かれる集団に帰せられる。生活のクオリティ言説は、たびたび、道徳的退廃を貧しいマイノリティ地区の物理的劣化と結びつけ、そして時には道徳的悪化の特徴を近隣住民に投影しさえする。 そうすると、この住民たちが荒廃の源であるように思われてくるのである。このような投影は、明らさまであれ暗黙のうちであれ、都市の言説において長い歴史を持ち、都市的荒廃のレトリックに関してわれわれを慎重にさせずにはおかない。それはどんな議論にでも使うことができるほど、漠然とした用語なのである。
  「割れ窓」は、サウス・ブロンクスのような区域の物理的荒廃の原因について、何も語らない。荒廃を自然化し、犯罪を生むとされる些事に注意を向けるようわれわれに熱心に促しながら、この論文は、都市でこの数十年進行しているそれこそまさに犯罪と呼ばれてしかるべき大きな事態に対してわれわれに目隠しするのである。例えば割れ窓論議は、公共財(金と土地)が、企業と不動産を富ませ、マンハッタンの豪華な飛び地の中心街と区外の貧者とマイノリティーに残された周辺地域に分断された都市を生み出していることを見えなくしている。1940年代以来、エリートのために中心地を確保しておくことは、主流の都市計画によって設計されてきた。 1940年代と1950年代の都市の復興とスラムの一掃(それは非常に多くのアフリカ系アメリカ人とプエルトリコ人の住居をブロンクスに移動させた)、そして、1970年代と1980年代の再開発と高級化(ジェントリフィケイション)とを含む過程がそれである。ロウアー・マンハッタンのバッテリー公園都市という最近の事例を挙げてみよう。市の所有するバッテリー公園都市の土地が、企業や、ほとんどが白人の高所得者向け高級住宅に大規模に委譲された後になってようやく、バッテリー公園都市からの収入によって返還された公債が、ハーレムやサウス・ブロンクスの低・中所得者向け居住者の市所有アパートを修繕するために用いられたのだった。したがってわれわれは、小さな物事の向こう側を思い描かねばならないし、近隣住民との境界を越えて、この政策はサウス・ブロンクスのような地域の住民が「余所者」のように眺められ、「顔馴染み」に疑念をもって扱われる都市としてニューヨークを形成してきたということを理解しなければならない。
  住宅供給プログラムが空間的な不平等を助長してきたと述べることは、住宅供給の重要性を否定することではない。さらにこれは、「いつでも、どのような方法ででも低所得住民が住宅を得ることができるようにしなけれぱならないこと」*10 を、また、低所得住民がずっと住んできた地域に住宅を望むであろうこと、そうすべきであることを否定するものではないのだ。 しかしこれらの熟慮が、割れ窓理論の真実をぼやけさせ、割れ窓理論がその一部を成してるさらに広範な都市言説を曖昧にしてしまうことがあってはならない。貧しい者の住宅、マイノリティの区域を保護せよと訴えながら、この言説は、凶器としての都市的荒廃という言葉を動員して、ニューヨークの社会空間的ヒエラルキーを温存し、余所者と顔馴染みというこの階層秩序が生み出した区別を支持してしまうのである。続々と増えていく新たな非西洋人移民(アジア人、ラテン・アメリカ人、カリブ諸島人)でブロンクスの非白人住民を増大させながら、地球規模での移民の流れがかつてないの異種混交の都市を造ってきたこの十年を通じて、この区別は強化されてきた。1990年には、サウス・ブロンクスの住民のわずか18%が白人で、約50%が貧困のなかで暮らしている。この文脈で見ると、ブロンクスの荒廃を嘆かわしく思っている社会批評は、また州の都市再開発の暴力を非難する批評さえも、トム・ウルフ『虚栄の篝火』のなかでより明け透けに表現された外国人嫌い──そのなかでブロンクスは都市が排除したがっているものを象徴している──を内に秘めている。ウルフの小説は、アフリカ系アメリカ人の10代の少年と、サウス・ブロンクスで道に迷ったマンハッタンの上位中流階級の白人住民が暴力的な鉢合わせをするところから始まる。その地域は、余所者の手に渡ってしまった都市の恐怖を表現しているのだ。
  しかしながら民主的社会のなかでの生活は、反発ではなく、余所者たちに応答することをわれわれに要求している。 それは「私」や「共同体」と和解し得ないものへの敬意を要請する。というのも民主主義は、ラディカル民主主義の理論家クロード・ルフォールが「確実性の標識(マーカー)の消滅」と呼んだものとともに現れるからである。*11ルフォールは、18世紀の民主主義革命が権力の所在を変えたと論じている。絶対君主制国家は、神や最高善といった社会の外部にその権力の源泉があると見なしていたが、1789年の「人間および市民の権利宣言[人権宣言]」は、絶対君主制を打破し、国家権力が人民に由来することを謳ったのだった。権力は社会内部に位置づけられた。しかし権力の超越的な基盤を参照することが断念されると同時に、社会秩序の無条件的基盤もまた消失してしまったのである。社会秩序は不確かなものであり──それは社会の内部にも外部にも固定点を持てなくなった──、それゆえ抗争[争議]の余地が生まれた。ルフォールにとって、民主的抗争は「公共空間」と同じ拡がりを持つものであり、彼はこの言葉を、社会の意味が前もって与えられた基盤を欠いたなかで、構成されると同時に危険に曝される政治的空間を指し示すために用いている。公共空間において、社会的問題はたぶん解決されるであろうし、紛争があるいは決着するだろう──まさに基盤の欠如が意志決定を余儀なくさせる──が、実のところ、いかなる問題も永久に決着することはないのだ。なぜなら、民主的社会であること自体が未解決の問題であり続けるからである。
  基盤の撤退が社会を多様化する。この命題の重要性を明らかにしよう。というのも近年ますます多くの混乱が、多様性の概念を取り巻いているからである。ラディカル民主主義の言説において、多様性は、かつてー体だった社会が独立した、軋轢を生み出す諸集団に断片化される──多くの人が怖れているような──ことを意味しているのではない。それはまた、文化的なそして歴史的な諸差異が同時に賛美され、一つの有機的な社会的全体へと超越していく──多くの人が望んでいるような──ことを意味しているのでもない。多様性に関するこの両方の着想は、実体的基盤が存在しないとき、社会集団や全体としての社会のアイデンティティが排除をする諸操作を通じて形成されることを捉え損なっている。この排除されるものの存在を否認すること──社会を自然化して排除の痕跡を消すこと──は、民主的審問の領域からこれら[排除]を取り除いてしまうことである。社会的アイデンティティは「他者」との関係を通じて生まれるということ、故に、アイデンティティはそれ自身でない何かをまさにその存在の中に書き込むのだから、それが内的に完結していることはあり得ないということを、多様性についてのこの2つの着想は理解できていない。確実性の標識の消滅は、したがって、他者の存在にわれわれを曝すのであり、社会がもはや「私」にでも単体の「われわれ」にも属していないという事実を露呈させる。われわれがこの現実に即して行為するとき、われわれは倫理哲学者のエマニュエル・レヴィナスが「理性ある」人間と呼ぶもの、つまりは「他者に無関心ではない」能力によって定義される存在となる。 *12 割れ窓と生活のクオリティ言説の都市学とは対照的に、言葉のレヴィナス的な意味において理性ある都市学は、余所者に応接する義務をわれわれに負わせ、そうすることで顔馴染みのアイデンティティを疑問に付す。*13 都市における生活の倫理的態度は、諸権利と単ー化した都市とを結びつけようとする道徳に疑いを投げかける。というのもこの結びつきを認めることは、「われわれと同じ諸権利を持たない人々」としての余所者という定義に無関心であり、それを自然化することを意味するからである。 *14 この道徳に対抗して、倫理的都市学は「都市への権利」を宣言する。この言い回しは、社会の都市的形式への、つまりは、異質的なそして非分離的な社会空間への権利を指し示すものとして哲学者アンリ・ルフェーブルが創ったものである。 *15 国家や私的企業による、差別的な、隔離と同質化の企み(それはルフェーブル日く、都市を抑圧せんとすることだ)によって、都市社会から追い払われるのを拒絶すること、これを都市への権利は正当化する。
  都市への権利という概念を手にすることで、われわれはマッタ=クラークの『窓破砕』に戻ることができる。それは、中心(マンハッタン)とそれが服従させ排除しようと躍起になっているもの(ブロンクス)を対峙させ、したがって「割れ窓」によって保守されている空間的ヒエラルキーに異議を唱えることで、分断された都市を象徴的に再構想した作品である。さらに『窓破砕』は、都市を同質化しようとする企図が完全に成功することがあり得ないことを示唆している。 なぜなら、差異を消去しようとするまさにその行為において──一団の人々を退去させて中心から外れた囲い込まれた地域に追いやることによって──、同質化はそれを脅かす差異を作り出してしまうからである。ルフェーブルが書いているように、「富と権力の空間であるところの支配的空間は、周縁の支配される空間を生み出さざるを得ない」*16 さらに「まず第1に、異なっているものは、排除されているものである。すなわち、都市の末端、貧民街、禁じられた遊びとゲリラ戦ならびに戦争の空間」。*17 ルフェーブルによれば、確立された環境は権力によって統治されている。それは、自然で客観的な──抗い得ない──真実のように見える、強制と規則の身体として扱われる。にもかかわらず、それは堅固なものでない。というのも「権力は…空間を統治するが、空間は権力の下で震動している」*18 からであり、この本源的な不安定性が、空間統治を解体することを住人に可能にする。
  『窓破砕』は、展示の空間──「モデルとしてのアイディア」展と、さらに広い意味ではニューヨーク市──をその素材の一部として用いている。1960年代と1970年代の特定の場所に作られた多くの芸術と同様、この作品の目的は、芸術の制度を、この場合は建築と都市計画の制度を展示することである。その社会的諸関係を白日の下に曝すことによって、その閉鎖性に異議を唱えるのである。よってこのアーティストが建築都市研究所の窓を粉々にする前でさえ、この作品は彼がどこかで「破壊と侵入」と呼んだところのものの形式であった。サウス・ブロンクスにおけるモダニスト住宅供給計画の割れ窓の写真を、アメリカ・アヴァンギャルドの旗振り役であり、建築の都市的意味を強調している組織の窓に貼ることで、都市の階層的秩序を再生産し都市生活を抑圧する進歩主義的建築によって演じられている役割をマッタ=クラークは問いに付したのだった。研究所の窓を割ることで、彼は場所を特定した[芸術の]身振りを急進化し、危機に陥った空間──脅かす外部から分離できない空間──としての建築を攻撃し、そして住宅供給計画の窓を粉々にしたブロンクスの若い住人たちの側に立った。写真の中の建物は、そのレンガ壁がリチャード・マイヤーのプロジェクトのそれに似ているものの、ツイン・パークス・ノースイーストのものではない。褐色のレンガは、隣接する建物の石造建築に似ており、ツイン・パークス・ノースイーストと文脈を共にする特徴の1つであった。作家のこの参照は、意図的であったのかもしれないが、おそらくはマッタ=クラーク研究者のパメラ・E・リーが示唆しているように、単に「すぱらしい符号」かもしれない。 *19 いずれにしろ、ブロンクスの割れ窓──それらをマッタ=クラークはこの種の建物の社会的機能に対する抗議であると見なしていた──に注意を促すことで、『窓破砕』は都市空間における異なった種類の非美学的な介入の事例をもたらした──モデルとしての異なったアイディアを。
  しかし『窓破砕』は、「割れ窓」[理論]と同じように、アヴァンギャルド建築/都市論に関するそれよりずっと時宜を得たテーマを成している。それは芸術と都市の関係に関わる。マッタ=クラークが建築・都市研究所の窓を割った時期あたりに、ニューヨークは巨大再開発の時期に突入した。1970年代末から1980年代、再開発計画は、街を「蘇らせる」あるいは「美しくする」という理由で、さらにニューヨーク市民に公共空間を提供するという理由で幅広く賞賛されたが、実のところこの再開発は、大きな、有益とはほど遠い過程の核心であった。つまりは、国際的な社会空間の再構成であり、それは新グローバル経済の圧制的関係を容易ならしめるものであった。ニューヨークにおいて、再開発とその住宅部門である高級化(ジェントリフィケイション)──地域の階級構成を上昇するように変化させること──は、ニューヨークをグローバル金融の中心にする物質的条件作りを助け、しかしその一方で、新経済のもとでもはや必要とされなくなった住宅供給や公共事業を破壊した。雇用パターンの変化は、社会福祉事業の削減と利潤を最大化する不動産の駆使とが組み合わさることで、家を持たない住民の人口を激増させた。
  同じ時期、新しいパブリック・アート産業が現れ、再開発の美学部門として奉仕したのだった。 *20 アーティストたちは再開発された都市を装飾し、その設計を助けただけではな<、パブリック・アートに関するレトリックは、民主主義的とは呼べない代物である都市政策に民主主義的正当性を授けもしたのである──排他的なデザイン、住人の隔離、公に是認されている使用[法]への抵抗を一切認めようとしない公共空間の創造、採算のとれる民営化、監視、産業促進局といった責任を取らなくてよい法人を通じての権力行使、業者や住み込み管理人による公共空間の管理、そして市民権への攻撃。かくしてパブリック・アートは、有無を言わせぬ権力を是認すべく民主主義的諸概念を動員する保守的言説の一要素となった。「パブリック・アート」という言葉に埋め込まれたいくつかの前提が、再開発はすべての都市住人の権利に奉仕するものであるという印象を与えるのに役立っていた。まず初めに、「芸術(アート)」は普遍的な人間的本質を表現し、社会的な区分など飛び越えてしまうと一般に前提されている。加えて、「公共的(パブリック)」という形容詞には、「利用が可能なこと」、「参加」、「国民」に対する説明責任といった含意がある。さらには、パブリック・アートについての言明は、公共空間(パブリック・スペース)についての言明であり──パブリック・アートが「公共空間における芸術」「公共空間を作る芸術」と解釈されるにせよ、あるいは「公益に従事する芸術」と解釈されるにせよ──、公共空間を擁護する者は例外なく、公共空間を民主主義的な理想と結びつけてきた。パブリック・アートに関する議論は、民主主義の意味如何に一重にかかっている。民主主義に関する支配的言説は、公共空間を、差異が解消され社会が「1つ」になる領域であると仮想している。そのために、公共空間の擁護はしばしば抗争[の存在]を当然のこととは認めず、抗争と結びついている社会集団の追放を正当化するのに加担してしまう。例えば、ある都市の公共空間──シティ・パークとしておこう──が基幹となる社会的統合の場所として描かれるとき、家を持たぬ人々は、社会的矛盾から生まれたとは映らず、公共空間の使用に関する話し合いに正式に参加しうる者とも見なされず、外部から忍び込んできて、調和を回復するためには追放せねばならない余所者と見なされるのである。
  もちろん、この10年のパブリック・アートのあらゆる実践と言説が公共空間を浄化し、また排除を自明のこととするのに手を貸してきた訳ではない。上述の経過に異議申し立てをした者も実際いたし、さらに今日、パブリック・アートの隆盛の結果、多くの芸術家と批評家が公共空間を分断する論議に注意を傾けつつある。それにもかかわらず、公共空間を「近隣地域」や「共同体」といった有機的な概念とひとまとめにし、民主主義を矛盾の解消と結びつけ、公共性(パブリックネス)を同質性や全員一致を意味するものと考えて疑わない傾向はまだまだ存在している。多様性と紛争は、厄介な事実であると暗黙の内に見なされている。公的である諸々の物の支持者はそれらを削減させ、消し去るための手続きを探さねばならないのだ。まさに「パブリック・アート」というカテゴリー自体が、そのような安定化する手続きなのであって、というのもそれは、パブリック・アートについての言説が記述していると称するところの差異を塗りつぶし、闘争を解消する歴史的連続性を造り出してしまうのだから。典型的な事例は、1993年のカタログ『パブリック・アート/ブロンクス』である。筆者たちはブロンクスのすべて──過去と現在──のパブリック・アートが、この自治区の豊かな文化的遺産として保存され尊重されるべき、ひとつの集合的作品を形成するのだと夢想している。芸術は一様に有益なものであるという概念を温存させつつ、自治区内の差異を自治区の包含的単一性に組み込んでいる。そして、パブリック・アートの単一性が伝統的な芸術制度──美術館とギャラリー──の壁の外側に広がる敷地にあるのだと、彼らは疑うこともなく当然視している。官僚が公的と定めてきた空間の根拠(アイデンティティ)」を問題にするのではなく、それに値札を貼る定義、なのである。 *21
  パブリック・アートに関する言説が公共空間についての無批判な観念に満ちており、その結果、このような安定化する役割を演じる限り、民主主義を拡張したいと願う者はそれを用心して眺めるのがよいだろう。 なぜなら、民主主義的公共空間──そこでわれわれは社会秩序の意味を構成し同時にそれを問いに付す訳であるが──は、この基盤を問い質し損ねたとき、消滅の危機に瀕することになるからである。しかしパブリック・アートというカテゴリーを断念することは、芸術と公共空間という論点を放棄することを意味するのではない。それが意味するのは、顔馴染みたちの強力なうぬぼれを支えている公共空間の概念から身を引き離すことである。それはまた、公共空間と私的空間──例えば、シティパークと美術館もしくはギャラリー──との間の厳密な区別を作り上げている、あらゆる公的なものの概念を再考することである。この区別は、現存する都市空間は公的なものであるという役人風の主張を是認するぱかりでな<、他の空間を私的なものに押し込みつつ、公共空間の拡張を妨げ、拡張するよりむしろ、民主主義的政治の空間を制限している。
  マッタ=クラークの作品は、都市の諸物を用いて様々な公共空間を育むタイプの芸術実践であり、都市空間は公共的ではなく、むしろ私有化されていると論じるルフェーブルやミシェル・ド・セルトーの考えの近傍にある芸術実践である。私的な儲けという利害関心と国家的管理において組織され、ということは軋練によって作られるからこそ、空間は、客観的もしくは固有な使用法を賦与される。それが軋榛を隠蔽し、空間が排除する諸物からの異議に対し空間を防衛するのである。 *22 となると、この私有空間を公共のものに変えるひとつの方法は、それ固有の意味を剥ぎ取り、その空間が意図していたものとは異なる諸目的のためにそれを配置することである、ということになる。この枠組みの中から見ると、公共空間は使用者のために造られた、あらかじめ構成された実体なのではない。むしろそれは、使用者による日々の営為を通じて浮かび上がってくるものなのだ。
  Blade, Case 2, Crash,Daze, LadyPink, Phase 2といったブロンクスのアーティストたちの作品を含む1970年代と1980年代のニユーヨークのグラフィティ(参考画像)は、公共空間の意味をめぐる論争において何が問題となっていたかを明らかにする。ウィルソンとケリングに代表される都市言説は、公共空間を脅かすものとしてグラフィティを扱う──つまりは割れ窓として。ド・セルトーにとって、グラフィティは、都市空間に押しつけられた固有の意味が置き換わりうる方法を提示するものである。すなわち、グラフィティは「都市のいくつかの部分を消去し、他の部分を拡大[誇張]する」。*23 ド・セルトーの説を敷衍するなら、グラフィティは公共空間に入り込むのではなく、公共空間を造るといってよい。都市における排除が、社会調和という夢のなかで消失するのではな<、民主的異議申し立ての活動地域に入りうる領域を意味する限りにおいてであるが。 窓が光を通すように、グラフィティは、官による都市開発が外部に追放し揉み消そうとする、まさにその都市の一角を可視化する。このような変形する力のある空間的実践は、社会空間に内在する不確実性に依拠し、またそれを曝け出す。それは、空間を活気づけ、表向きの固定性から空間を自由にすることを可能にする不確実性である。パブリック・アートとして持て囃されている大方のものとは対照的に、公共空間を造る芸術は、事物が所与のものであり不可避であるかのように推移することを妨げる、中断する活動である。空間を公共のものにすることは、場所に隷属しない効果のパフォーマンスに依拠した公共空間の概念を扱う方法をもたらしてくれる。



  『窓破砕』の数年前、マッタ=クラークは最初の建築──あるいは彼の言い方では「非建築的(anarchitectual)」[「アナーキー」と掛けられている──訳者]──切断を行なった(参考写真・上図)。彼は、サウス・ブロンクスやマンハッタン、ブルックリンの朽ち果てた建物にあるアパートの敷居(thresholds)を取り除き、3つの構成要素からなる作品を制作してい<中で、その切断技術を発展させていった。その3つとは、以下のものである。建物敷地のいくつもの床を長方形もしくはL宇型に切断すること。切り取ったものの断片(これはマンハッタンにあるアートギャラリーに展示されていた)。そして切断建築の写真。マッタ=クラークはどんな場所で切断をしても、その作品を『ブロンクス・フロア』と名付けた。 おそらく彼は、市当局が排除したがっていた抗争の象徴として、そして建築が抑圧しようとした荒廃の象徴としてブロンクスがあったことをはっきり認識していた。この包括的なタイトルに、彼は種々のサブタイトルを加えている。そのうちのひとつが「Threshole」である。壁や床、天井と戯れるのと同じくらい、彼は言葉遊びが好きで、意味が生産される社会的場所としての言葉と建築環境、この両方にアプローチした。彼の手書きのノートは、これらの空間システムに対する彼の態度を表現している。「システムの中でいかに操作するかが、われわれが活動し生活する空間の大きさと種類とを決定している」。言語も都市も、表象に先立つ固定された意味を運ぶことができないから、われわれが操作する余地が生まれるのである。堅固な基盤を持たないが故に、言語も都市も、他の要素との関係においてのみ意味を獲得し、したがって、恣意的で不完全、崩壊に対して無防備──言い換えれば純粋に社会的──であるところの諸要素から成っている。thresholeという言葉は、この条件の形象[比喩]である。当然のことながら、この言葉は3つの意味を含む「敷居(threshold)」に掛かっている。すなわち、厚板、敷石、ドアの下に横たわる材木もしくは金属。さらに始まりの場所もしくは地点、つまりは入口。そして、効果が生まれ始める突端。 holdをholeに置き換えることで、マッタ=クラークは、建築[学]と社会秩序(それを象徴するもの)が安全な基盤に求めている主張[口実]を切り裂く。何の変哲もない敷居に裂け目(hole)を開けることで、彼は人間=主体をも無効にした。というのも、彼は、見る者の身体も視界も作品の場所を占有しえないようなやり方で、見る者を配置したからである。その代わりに、マッタ=クラークは、われわれを社会空間に導きそれと同時に社会空間を不安定にする「基盤なき基盤」を明るみに出したのだった。
  同様に、thresholeは民主主義の形象でもある。それは、われわれの共通性の基盤についての確実性の消去とともに現れて、ルフォールの言う「空所のイメージ」に結びつく。 *24 民主主義を特徴づける不確実性の概念は、ブロンクスの住人をしばしば襲う住宅供給危機や生き延びることに関する様々な危機とは関係ない。これらの危機は、「割れ窓」を理由に擁護された都市主義の類に由来するもので、他者を顧慮せず、疑う余地のない権威──自然な共同体-──の名の下にものを言う都市主義である。これとは対照的に、社会生活の基盤を取り去ることは、社会空間の所与性からわれわれを引き離し、*25他者に自らを曝し、権力を問いに付すことを可能にする。絶望するよう促しているのではなく、これが民主的都市主義の出発点なのであり、公共空間の敷居にわれわれを位置づける(置き換える)ものなのである。

*1: Myles Weintraub and Reverend MarioZicarelli,“Tale of Twin Parks,” Architectural Forum 138,no.5 (June 1973) : p.54.

*2: Ibid.

*3: Suzanne Stephens, Leaning from Twin Parks,” Architectural Forum 138, no.5 (June 1973) : p.63.

*4: Kenneth Frampton,Twin Parks as Typology,” Architectural Forum 138, no.5 (June 1973) : pp.56-60.

*5: 『窓破砕』は、展覧会の公式記録から完全に消えた訳ではなかった。 リチャード・ポマーは、展覧会の5年後に出版されたカタログの序言で、次のように書いている。「別の展示もすばらしい可能性を持ち得たかもしれなかった。故ゴードン・マッタ=クラーク[1943−1978]は、無惨に割られたニューヨークの窓の写真を、このときに機構で割られた窓ガラスを背景に展示しようとしたのだが、最後の最後になって、冷風が吹き込んできて、彼の展示は取り除かれた。 その理由が何であれ、気の毒であった。 それは、社会的発言を怖れていないといいながら実際にはそれほど行動しない、競合するコンセプトの若いアーティストたちの注意を引いたかもしれなかったのだが。Pommer,“The ldea of ‘ldea as Model,” in Idea as model (Nw York: lnstitute of Architecture and Urban Studies ad Rizzoli,1981),p.9. マッタ=クラークの作品についての興味深い解説は、Thomas Crow, “Site-Specific Art: The Strong and the Weak,”in Modern Art in the Common Culture (New Haven:Yale university Press,1996)

*6: James Q. Wilson and George L. Kelling,“Broken Window,” The Atlantic Monthly, 1982, pp.29-38.

*7:lbid., p.34.

*8:lbid., p.36(強調は引用者)

*9: 例えば以下を参照せよ。George Kelling, “Measuring What Matters: A New May of Thinking about Crime and Public Order,” City Journal 2(Spring 1992) :p.21-33. 「都市生活のクオリティ」 についての特別号で、ケリングは割れ窓論の要点について、それがあたかも新しい発想であるかのように、繰り返し論じている。

*10: Martin Gottlieb 「バッテリー公園は変わりゆく都市の優先事項を映し出す」 (『ニューヨーク・タイムズ』1986年10月18日、p.B2) においてBrian Sullivan (Pratt Center for Community and Environmenta1Development)の発言として引用されている。

*11:Claude Lefort, “The Question of Democracy,” in Democracy and political Theory (MinneaPolis: University of Minnesota Press, 1988) ,p.19.[ルフォール「民主主義という問題」、本郷均訳、『現代思想青土社、1995年11月号。]

*12:Emmanue1 Levinas “The Rights of Man and the Richgts of the other,” in Outside the Subject, trans. Michae1 B. Smith (Palo Alto: Stanford university Press, 1994),p.124.[レヴィナス『外の主体』、合田正人訳、みすず書房、1997年。]

*13:以下所収の拙論 “Reasonable urbanism,” を参照のこと。Joan Copjec and MichaeI Sorkin, eds・, Giving Ground: The Politicus of Propinquity (London: Verso,1999).

*14:Julia Kristeva, Strangers to Ourselves, trans.Leon S.Roudiez (New York: Columbia university Press,1991),p.103.[『外国人:我らの内なるもの』、池田和子訳、法政大学出版局、1990年]クリステヴアは、他者とともに住むことについての倫理的・政治的問題に関わる精神分析の知見を提出している。 われわれがわれわれ自身の奇妙さ[余所者性]──われわれの無意謙──を認識したときに初めて、われわれは余所者を追い出したり彼らをわれわれに変形したりすることなく、ともに暮らすことができると彼女は論じている。この論文は、理想化された自己像としての自己と共同体を精査するよう要求している。

*15: Henri Lefebvre, Le droit a la ville (Paris: AnthroPos 1968),p.100. [ルフェーブル『都市への権利』、森本和夫訳、筑摩書房、1969年。]

*16:Henri Lefebvre, “Space: Social Product and Use Value,” in J. W. Freiberg, ed.,Critical Sociology European Perspectves (New Ybrk: lrvington Publishers, 1979),p.290.

*17:Henri Lefebvre, The Production of Speace,trans. Donald Nicolson Smith (Oxford: Blackwe11,1991),p.373. 原書は、Le production de l'espace Paris Anthoropos: 1974). [ルフェーブル『空間の生産』、斉藤他訳、青木書店、2000年。]

*18:Peter Saunders, Social Theory and the Urban Question (London: Hutchinson, 1981),p.160.における以下の引用。 Henri Lefebvre, The Survival of Capitallisum (London: Allison & Busby, 1976),p.86.

*19:筆者との遣り取りから。私と『窓破砕』について議論してくれたことについて、リー氏に感謝する。

*20:パブリック・アートと都市再開発にまつわる議論に関して、拙著を参照のこと。Evictions: Art and Spatial Politics (Cambridge,Mass.: MIT Press,1996).

*21:Sally Wsbster, “Public Art in the Bronx,” in Webster & Susan Hoeltzel, Public Art in the Bronx exh.cat.(Bronx: Lahman College Art Galery, 1993),p.6.

*22:Lefebvre, Le droits a la ville ならびに The production of space, そしてMichel de Certeau, The Practica of Everyday Life (Berkeley: University of California Press,1984)[ド・セルトー『日常的実践のポエティック』、山田登世子訳、国文社、1987年]を参照せよ。

*23:de Certeau, The Practice of Everyday Life,p.102.

*24:Claude Ldort,“The Logic oF Totalitarianism,” in The Political Forms of Modern Society: Bureaucracy, Democracy, Totalitarianism (Cambridge: MIT Press,1986),p.279.

*25:私は以下のパメラ・M・リーが書いた文章を改変している。Pamela M. Lee,“On the Holes oF History: Gordon Matta-Clafk’s Work in Paris,” October, no.85 (Summer 1998):pp.65-89.マッタ=クラークの建物切断に遭遇した者は「建築空間の自明の所与性から引き離される」とリーは書いている。