イタリアの熱い日々――街路と個室を結ぶメディアヘ(『メディアの牢獄』)

オリジナルテクスト  

 1979年4月9日、街で買ったばかりの『ニューヨーク・タイムズ』を開くと、4月7日にイタリアの各地で「アウトノミア運動」の活動家や理論家が多数逮捕されたという700語ほどの記事が目についた。これは、わたしが「アウトノミア」(自律、自治)という言葉に接する最初の機会だった。5月になって、小説家のソル・ユーリックから「イタリアの弾圧に反対する委員会」の結成集会があるので行かないかという誘いの電話があった。当日、会場に行ってみると、この会の実行委員長はシルヴィァ・フェデリッチで、彼女は『ティロス』の創立者の1人であり、ポール・ピッコーネからも会うようにすすめられていた人物だった。
 この集会については『日本読書新聞』(1979年7月16号)に通信を送ったが、だんだんわかってきたことは、「アウトノミア運動」の層の深さと質的な新しさであった。以前からイタリアの現代文化には少なからず関心をもっていたのだが、ユーロコミュニズムのニュースとともに日本に入ってきた情報のなかにはわたしの知るかぎりこの運動のことは出てこなかった。ただし、日本に帰ってきてから、たまたま古い切抜を見ていると、『図書新聞』の1973年2月17日号に野田茂徳がイタリアから「現代イタリアの暗黒裁判」という一文を寄稿しており、そこで「アウトノミア」という言葉は使っていないが――事実上この運動と関連のある出来事や組織に言及し、それらが日本の一般紙ではいかに歪曲された形で伝えられているかを実例をあげて批判しているのを発見した。
 そういえば野田茂徳はこの頃は、『現代の眼』や『流動』にイタリアの新左翼の動向を適確に伝える文章を書いていたように記憶する。『図書新聞』の記事のなかで野田は、日本の一般紙におけるイタリア情報が、「イタリアのファシスト系日刊商業紙『イル・テンポ』やブルジョワ右派の『メッサジェロ』紙のコピーであること」を指摘しながら、「私が滞在しているイタリアでは当然のことながら、日刊商業新聞は各々に政治的立場を明確にしており、日本の新聞のような『政治的中立・不偏不党』という不可能なタテマエを振りかざしてはいないのである」と言っているが、結果的には日本の一般紙がとった姿勢は、国内的・国際的な支配の力量にみあっていたのである。構造的なレベルからみれば、イタリアの状況に関する日本的報道の偏向は、決して錯誤によるものではなく、一貫したものなのであって、本性上「アウトノミア」的をものを認めることのできないシステムの一機構としては当然の帰結なのである。従って、イタリア共産党が「ユーロコミュニズム」と「歴史的妥協」政策によって最終的に体制内化すると、それらの情報だけがマス・メディアのイタリア情報の回路を独占し、共産党の批判・対抗勢力である「アウトノミア」について報道される可能性はますますなくなってしまったのである。
 「アウトノミア」についての無関心と同じことだが、「アウトノミア」を無視する構造的な「言論操作」がいかに徹底したものであるかは、「アウトノミア運動」の全盛期に日本で出版されたイタリア関係の一般書をパラパラめくってみればすぐわかるだろう。1975年に出た塩野七生『イタリアだより』――皆無! 柳沢修『イタリアとイタリア人』(1977年)――この著者は1972年から76年までローマでNHKの特派員をしていたようだが、NHKの人間でありながら(あるいは、それだから)、「アウトノミア運動」との関連でも、また文化一般の問題としても重要な事件であった自由放送のことにはただの一行もふれていないし、共産党の「躍進」については言及していても「アウトノミア運動」の躍進については言及を避けている。1980年に訳出されたインタヴュー集『モラヴィア 不機嫌な作家』の場合も結果的に「アウトノミア」を抹殺することになっているが、それは決して偶然ではない。「1978年の造反者たちのことに移りますが、この10年問にあなたの熱中はいくらか弱くなったと思います」という問いかけに対してモラヴィアが次のように答えている個所の訳文に注意してほしい。

モラヴィア すっかり消え去りました。2つの世代の造反者には似ているところは何もありません。現在の造反者――分りやすく、《自立派》と呼びましょう――は思想をはっきりと表明することができないように見えます。むしろ、そんなことには無頓着なのでしょう。彼らはスローガンのために語りますが、これはつまり何も語らないことなのです。」(大久保昭男訳、傍点引用者)

 ここで《自立派》と訳されている原語は、「アウトノミア」ではないだろうか? 原文を調べたわけではないのだが、文脈からして「アウトノミア」を指すことはまちがいなく、また、モラヴィア共産党の路線の支持者であることを考えれば、彼が「アウトノミア」をこのように批判するのもうなずける。いずれにしても、この訳書においても、また「アウトノミア」の時代と状況を直接あつかっている『深層生活』(千種堅訳)においても、「アウトノミア」についての注や解説は全くなく、イタリアの事情を知らない者には、イタリアの新左翼はみなテロリズム志向なのかという風にみえてくる。
 フェリックス・ガタリは、アウトノミア運動から決定的な影響を受け、彼の言う「分子革命」の具体的現象をこの運動のなかに発見している(『分子革命』改訂版参照)が、すでにみたように、日本のマス・メディアのなかでは「アウトノミア」はほとんど無に等しく、またパリの「五月革命」ですら、それを「ミドル・クラス出身の青年層による口唇期的反抗」などとみなす倭小化が定着しつつある現実では、「68年」のなかで顕在化したものが決してそこで解消してしまったのではなく、アウトノミア運動へ発展していったこと、そして今日この運動が国家権力によって暴力的に抑止されているとしてもそれが示した方向は確実に未来的な新しさをもっていること――を明らかにすることが急務だろう。むろんそのような作業はわたしの手に余るのだが、さいわいここに、アウトノミア運動におけるスポークスマンの一人とも言うべきビフォー(フランコ・ベラルディの仮名)が、獄中から『セミオテクスト』誌(1980年第3巻第3号)に寄稿した論文「アウトノミアの解剖学」があるので、これに従ってアウトノミアの活動と歴史を紹介してみよう。
 ビフォーによれば、イタリアの状況を理解するうえで重要なのは、(1) 60年代に労働者の闘争に伴って生じた資本主義の危機とイタリア国家の危機、(2) こうした危機をのり越え、革命運動を壊滅させようとする試みとしての「歴史的妥協」政策、(3) 歴史上の社会主義・マルクス主義運動を顧慮した自律(アウトノミア)のための革命運動の新しさ、その理論的独自性、そしてこの運動の――1977年にみられたよう――な政治的実践、(4) 「内乱」とくに「赤い旅団」の問題、である。

 1968年から1979年にかけてイタリアで行なわれた革命運動が、西欧の資本主義圏内における最も豊かな、最も重要な経験を与えたことは疑いえないが、この経験に含まれている全く新しい要素を理解するためには、1973年までポテーレ・オペライオのなかで醸成され、やがてアウトノミア・オペライアの内部のさまざまな組織形態に分岐していった流れを、理論の面と組織の面とからみてみなければならない。
 最初の闘争は、1968年に、各地の大学やポルトマルゲロのモントエディソン、ローマのファトム、トリノフィアットなどの工場ではじまった。そしてそれは、翌年の「騒乱の秋」に受けつがれ、イタリアの労働者階級全体をストライキ、デモ、占拠、サボタージュへとまきこんでいった。が、この間に、左翼内部に亀裂が生じ、イタリア共産党の左翼とは別のさまざまな組織が、地域レベルや工場、学校の内部に形成された。ポテーレ・オペライオが全国組織として形成されたのも同じ1960年代末期のことであるが、この組織は、ポルトマルゲラの労働者委員会、パドヴァやエミリアの労働者権力集団、ローマやフローレンスの学生運動組織の一部といった、既存の小集団からなっている。1969年9月、ポテーレ・オペライオは結束を強化し、同名の新聞を発行しはじめた。
 1968年の闘争は、他の国々も同様に、大学にきわめて大きな衝撃を与えたが、イタリアの場合、それ以上に、キリスト教民主主義者と社会主義者とが連合した中道派の政策を決定的に危機に陥れた。とりわけ、この闘争に固有の反権威主義的傾向は、ブルジョワジーの特権、教会への依存などを擁護するキリスト教民主党の政策の攻撃と非難をまきおこしていった。その間、イタリア共産党は、若者と学生を主体とするこの運動に対し、あいまいな態度をとりつづけ、その急進主義を非難したが、にもかかわらず共産党は、68年の出来事のなかで、キリスト教民主党ヘゲモニーをつきくずし、政治的なバランスを 左翼の方へ転ずる機会をつかんだのだった。
 しかし、工場内に組織された戦闘的労働者集団の前衛のねらいは、学生や若者たちの戦闘グループの反権威主義にも、また既成左翼の陣取り競争にもなく、もっと実際的な問題、すなわち平等な昇給、断片的作業、給与差、実績による昇進やボーナスの撤廃、生産ペースの加速の拒否等に向けられていた。このため、労働者のこうした要求は、やがて、イタリアの工業的発展をささえてきた経済的バランスに累積的な危機をおよぼすことになるのである。
 イタリアでは、それまで、低賃金と強度の労働搾取とのあいだの経済的バランスは、高い失業率と労働力の大きな供給率によって維持されてきた。労働運動の歴史からみてこの時期に南部からの労働者のあいだに組合的連帯の動きが生じたことは注目に値する。南部出身の労働者たちはそれまでは、経営者側が組合の圧力を規制する際の「勢力」の役割をはたしてきたのだったが、68年から69年にかけてそれが逆転し、とりわけトリノにおいて彼らは組合闘争の「前線基地」になっていった。その結果、工場労働者は賃金の引き上げに成功したが、労働コストは1969年でもすでに20パーセント以上増加し、翌年には早くも体制は経済システムの生産サイクルを政治的にコントロールできなくなって経済危機を招いてしまうのである。
 こうした危機を回避するためにキリスト教民主党は、「緊張の戦略」(stategia della tensione)と呼ばれる政策を導入した。これは、「ファシスト・グループや多くの場合政府の情報機関と直接結びついた機関の職員が事件をでっちあげるというような手段を用いて極度の緊張を人工的につくり出すやり方」である。労働者の闘争が頂点に達した1969年12月12日に起ったミラノ農業銀行爆破事件は、この戦略を大規模に用いた最初のものであった。14人の死者を出したこの事件が、情報機関と接触があり、キリスト教民主党の有力者を黒幕とするファシスト・グループのしわざであることは、民主的な勢力やラディカル・グループによる調査によって明らかとなっている。しかしながら、作戦は成功し、この事件はアナーキストのしわざだという流言が定着したため、アウトノミア運動はジャーナリズムと法廷から猛烈な攻撃を受けることになる。以後、この種の作戦はたびたびくりかえされ、そのたびに犯罪の責任はアウトノミアの左翼に転嫁されるのであった。なお、ダリオ・フォと劇団「ラ・コムーネ」による『一アナーキストの死』は、ミラノ農業銀行爆破事件の「犯人」に仕立てあげられ、警察で不可解な死をとげたジュゼッペ・ピネリという鉄道労働者を暗黙のモデルにし、権力によるでっちあげを風刺したものである。
 しかし、「緊張の戦略」は、少なくともこの時期にはまだ運動を破壊することも後退させることもできなかった。1970年になると運動は、若者や学生たちの新しいセクターのなかにも浸透してゆき、また、「全国的規模で生じた革命組織との連続性を獲得した」。人々を動員するキャパシティが急速に高まり、68年の学生運動の「生きのこり」も再結集された。そうした活動組織のなかでは、とりわけ、フィアットの労働者を主力とする「ロッタ・コンティヌア」、ミラノの工場労働者と学生による「アヴァングァルディア・オペライオ」、そしてパドヴァを根拠地とするほか、ポルトマルゲラの工場やローマ大学にも拠点をもつ「ポテーレ・オペライオ」の活動がめざましく、工場、学校、地域レベルで、政治ストライキ、学校の占拠、政府に反対する学生デモ、家のないプロレタリアートによる――とくにローマとミラノにおける――空家の占拠等の活動を組織した。
 やがて、1973年3月には注目すべき進展がみられた。すなわち、何千もの若い労働者によるフィアット工場の占拠である。このストライキのユニークさは、「彼らが、組合の指導方針から完全に自律した活動によって工場占拠を決定し、バリケードを築いた」点である。「ロッタ・コンティヌア」や「ポテーレ・オペライオ」のような革命的集団もこの活動の中心にはいなかったのであり、ここには権威主義的な指導にもとづく伝統的なタイプの労働運動を越える新しい可能性が出現したわけである。自己を自律的に組織するこのような傾向は、このストライキを契機として急速にひろまっていった。また、この時期に、訓練されたガードマンの暴力に対抗する必要から、はじめはミラノに、それからトリノジェノヴァに武装細胞――のちの「赤い旅団」――がつくられるようになった。
 労働者が対抗権力を形成するにつれて権力そのものの問題への関心がたかまった。すなわち、賃金労働のシステムそのものの拒否、「人々の生命を賃金とひきかえに売りわたすことを強制し、人間の生命を信用貸しの労働死に変換する搾取の拒否」が闘争の主題になった。それはさまざまな形態をとって現われたが、そのなかにはたとえば、労働時間を週40時間に削減する要求、休憩時間の権利と生産活動の時間を管理できる権利、工場内部に対抗権力組織を組みこむこと、生産のイデオロギーの拒否、搾取の方法論の批判がある。そしてこれらの問題は、理論的にアントニオ・ネグリやマリオ・トロンティによって、抑圧された労働者の解放の問題、すなわち生産と消費の社会的なサイクル全体と生産過程そのものを労働者が白已組織する可能性にまで発展された。
 労働者の解放という理念は、この時期における巨大な推進力となっていったが、その際伝統的なマルクス主義イデオロギーは、依然維持されはしたものの、この時期の運動が示したラディカリズムにはついてゆくことができなくなってきた。かくして、革命的な左翼集団は、自分たちが身につけていた「装飾」から脱皮し、「改良志向の公式の労働運動」をその付属物とする冷酷な官僚組織そのものの告発におもむいた。が、運動のこうした動きに正しく対応して1973年5月に「組織」を解除し、全国の委員会、活動集団、下部組織に自己を拡散させ、それらがみずからアウトノミアの広範囲のネットワークを構成する、という方向をとったのはポテーレ・オペライオだけであった。
 しかし、1973年9月にチリーのアジェンデ政権が軍事クーデターで倒されたことによって、イタリアでは「歴史的妥協」の政策がはじまる。共産党とキリスト教民主党とのあいだの合意を制度化するこの「転向」は、すでにイタリアの社会主義の流れのなかに潜在しており、それはイタリア社会主義の論理的な帰結とも言うべき点がないではないが、この結果、公式的な労働運動と自律をめざす工場や大都市の新しい集団による運動とのあいだの断絶は激化していった。
 1975年、アウトノミアが、青年労働者、失業者、学生、社会の周辺部に生きるその他の人々を結合する本当の大衆運動として姿を現わしたとき、共産党とアウトノミア運動とのあいだの対立は1つの頂点に達した。同年の春、共産党の中央委員がローマでファシストと警察をだきこんでアウトノミアつぶしに出たことを契機として、両者の抗争はミラノに波及し、ここで若いファシストと「秘密警察官」が殺された。何千人もの若い労働者が学生や失業青年層と結びつき、街路を攻囲し、デモと街頭闘争をくりかえした。そしてこれは、すぐさまボローニャ、フローレンス(ここで1人の青年が警察に殺された)、トリノ(ここでもフィアットの労働者が武装したガードマンに殺された)、ナポリヘと波及した。これらは、アウトノミアが大衆のなかではじめて経験する熱い日々であった。
 アウトノミアが新しい社会組織として台頭し、それがもはや公式の組合の伸介や共産党の路線を受けいれないことがあきらかになったとき、国家はそこに第一の敵を発見した。そして国家は、きわめて苛酷なやり方でアウトノミアの抑圧にのり出した。1975年5月、キリスト教民主党とその同調者たちは、議会において「現実法」(Legge Reale)と呼ばれる法案を通過させた。これによって警官は、「公的秩序」をおびやかすおそれがあるとみなされた者に対しではいつでも発砲できるようになり、火焔ビン、デモで使用されるハンカチ(イタリアでは色とりどりの大きなハンカチで鼻から下をおおう)、スキー・マスク、ヘルメットなどを所有する者に対しては厳罰を課すことができるようになった。共産党はこの法案を支持しなかったが、大勢のまえではその棄権投票はあまりに無力であった。
 イタリアの階級闘争は、この法案の通過によって、狂暴で血なまぐさい様相を呈しはじめた。デモ隊のなかに多数の死傷者が出はじめた。警官の阻止をきかずに立ちどまらなかった市民、デモにまきこまれた通りがかりの人たちも、「公的秩序を守るための」この法律によって殺されなければならなかった。革命的左翼とアウトノミアの犠牲はいよいよたかまっていった。
 1975年の5月から76年の12月のあいだに150名の活動家たちが「現実法」の犠牲者となった。もしこの法律が制定されなかったなら、イタリアにおける「テロリズム」の台頭、戦闘的組織の形成、権力に対する武力的対抗手段の採用といった悲劇的局面がエスカレートされることはなかったにちがいない。また、共産党系の公式の組合組織がキリスト教民主党の諸決定に完全に従属し、アウトノミアの運動を抑圧するとともに、その運動を分断し孤立させたことも、そうした局面の要因をなしている。
 ところで、この間、共産党とキリスト教民主党による体制白身も、危機的な状態に向かっていた。議会や党はもはや、とりわけ若い世代の国民の利害を代理しえなくなり、両者のあいだの距離はますますひろがっていった。1976年の選挙で、共産党はかなりの票をのばし、キリスト教民主党は、共産党の合意または中立をとりつけることなしには中逝派と協力しても議会で過半数を得ることができなくなった。これは皮肉な状況であった。というのも、大衆は、これこそラディカルな変革を促進する最上の方法だと任じて共産党を支持したのに、「歴史的妥協」の政策がぐらついているキリスト教民主党の勢力をささえる結果となったからである。
 すでに1973年の石油危機以来、経済状勢は悪化の一途をたどっていたが、共産党と公式の組合の労働政策は、労働者階級に犠牲を強い、レイ・オフを奨励し、消費を削減させ、公共サービスの低下を受けいれさせようとするものにすぎなかった。総選挙から数ケ月たった1976年の秋、アンドレオッティ内閣は、ガソリン、パン、パスタ、その他の公共サービス費等の基本物価をあげることによって、労働者の給与に直撃を与えたが、共産党と組合はそれを是認したのだった。これに対して、北部の大きな工業中心地の労働者たちは、組合の方針に送って自律的に抗議運動をおこした。アルファ・ロメオ、フィアット、イタリジデールなどの工場で、組合から独立したストライキが続々と起った。いまや、労働者たちの組合信仰は崩壊した。それもそのはずである。1977年の初頭には、失業率はすでに、公式発表で170万人、実際には200万人に達していたのである。
 しかしながら、1977年は、68年に学生によって、そして69年に労働者によってはじめられたイタリアの階級闘争の到達点でもあった。ビフォーは次のように書いている。

 「革命運動は、その最も熟成した表現形態をつくり出し、そのなかで、外的ないしイデオロギー的な組織を何ら必要とせずにプロレタリア社会を直接ひきうつした共産主義社会への十分に分節された欲求が表現された。77年の運動は、あらゆる点――社会、政治、文化――からみても、イタリアにおける階級闘争のうねりが最高潮に達する瞬間であった。」

 イタリア社会は、10年問にわたってとだえることのない社会闘争の試練を受けてきたわけだが、この闘争を通じて大衆は、公式の労働運動や改良や妥協によるポリティックスの幻想から目覚め、新しい政治機構、資本主義を超克する徹底的に新しい立場を期待するようになった。すでに大都市の青年プロレタリア層には、人生を賃金労働にささげることを拒否し、さらにはいかなる種類の労働をも拒否する者がふえつつあった。また、高度の科学技術的知識をもちながら学校や大学からはじき出され、せっかくの生産的潜在力を浪費したり、使うことができないでいたりする失業老たちがいた。こうした「新しいプロレタリア層」は、独特の社会行動や文化をつくり出しており、政治的伝統からは距離を置き、いわばみずから「周辺化」(emarginazione)する傾向があった。こうした傾向は、すでに68年の「文化革命」のなかにみられるものであり、そこでは行動形態、価値、人間関係、性関係が転倒され、賃金労働、定住、安定した職場や地位といったものに反抗する姿勢がつくられていたのである。
  こうした「新しいプロレタリア層」によるアウトノミア運動の主要テーマは、文化的変革、大衆的創造性、労働の拒否であるが、この運動が表現する豊かさが大きくなればなるほど、それはますます既成の組織に依存することができなくなっていった。アウトノミアと結びついて一九七六年代にすでに形成されはじめていた新しい組織は、集団的生活や文化的アイデンティティのあらゆる側面と結びつき、とりわけ伝統的な家族主義や個人主義をしりぞけながら、「プロレタリア青年層の仲間たちの経験のなかに新しい組織形態を見い出した」。
 そうした組織形態のうち、大都市の空家を占拠する「スクウォッター」たちによるコミューンは最も注目すべきものの1つである。また、猛烈な勢いでひろまったフェミ二ストの運助やホモセクシャルズの集団の台頭によって新しいテリトリーが形成され、男女関係や日常生活、睡眠、食事、喫煙などの習慣が再考されはじめた。
 こうした可視的なテリトリーに加えて、「77年の運動」は、従来とは全く質のちがうテリトリーを作り出した。すなわち、自由ラジオのネットワークである。他のあらゆる分野と同様に電波もまた階級闘争の舞台の例外ではなく、国家による電波の独占に反対する動きはとみに高まりつつあったが、1974年7月、憲法裁判所は、それまで放送を完全に政府の独占下に置くことを許してきた放送憲章が憲法違反であることを部分的に認めざるをえなくなった。
 イタリアの憲法第21条では、「各人は、その思想を言語、文字、その他のあらゆる伝達手段によって表現する権利がある」とされており、憲法のいかなる個所にも、国家が電波を独占できる権利は記されてはおらず、イタリア国営放送(RAI)が国家によって管理されているのは、1952年に調印された協約にもとづいているにすぎなかった。1975年4月、事態はさらに進展し、RAIの管理が政府から議員によって構成された委員会の手にまかされる法律が制定され、実際上放送の管理は諸党の力関係によって決定されるようになった。むろんこうした変化は、議会内におけるキリスト教民主党の一枚岩的権力が後退したことと関係があり、それは、放送を国家から解放するといった民主主義の理念からというよりも、むしろ放送をそれぞれに独占しようとする各党の利害と野望から発したものだった。ところが、おもしろいことは、この間に、こうした上からの変化に呼応した形で下からのドラスティックな変化が起ったことである。すなわち、おびただしい数の海賊放送局の出現である。これは事実上、放送の、国家による独占を虚構化してしまい、結局、1976年7月、15キロメートルを越えず、視聴者が10万人以内であるような「ローカル放送」に関してはFMの電波を白由化する法案が成立した。
 すでにこの頃には、イタリアの各市、その近郊、村々にラジオ局が出現し、「小さな」山猫「放送局のネットワーク」を形成しつつあり、ボローニャの「ラディオ・アリチェ」、ミラノの「ラディオ・ポポラーレ」、ローマの「ラディオ・チッタ・フトゥーラ」、「ラディオ=オンダ・ロッサ」、「ラディオ・ラディカーレ」といった「運動の放送局」が活動をはじめていたが、自由放送の認可とともにそれは急速にひろまった。
 「運動の放送局」の大半は上記のものを除き大半はひじょうに小規模のものだったが、それは、台頭する新しいプロレタリアートに対して組織とコミュニケイションの欲求をみたす新しいテリトリーを提供した。ビフォーはこの点について次のように書いている。

 「これは真に革命的な現実であった。自由ラジオによって、革命的組織や下部組織の決定や取り決めを即時に伝送することができた。このチャンネルを通じて、とめどなく音楽と言葉が、象徴的、知覚的、想像的レベルでのありとあらゆる変革の試みが流れ出た。こうした流れはすべての家々に入ってゆき、聴取者は誰でもこの流れに、批判を加えたり電話をかけたり局に出向いたりすることによって直接介入することができた。芸術的なコミュニケイションと革命的変革ないしは破壊的実践とのあいだの分裂に橋をかける芸術的アヴァンギャルドの夢と構想がこの経験のなかで現実となった。」

 とりわけ1976年2月に放送を開始したボローニャの「ラディオ・アリチェ」局は、「運動のラジオ局」の象徴的存在となったが、この活動に加わり、フランスにおけるラジオ運動の推進者の1人となるフェリックス・ガタリは、「無数の潜在的アリチェ」という一文のなかで次のように言っている。

「ラディオ・アリチェは文化的台風――言語の破壊、雑誌『ア/トラヴェルソ(横断して)』の発行――の眼にまきこまれるが、それが「横断」しようとする政治活動のなかに直接没入しもする。
 アリチェ、ア/トラヴェルソ、アウトノミアによる雑誌、ポテーレ・オぺライオ、ロッソ、運動の新聞――言表の集団的仕組(アジャンスマン)。理論――技術――ポエジー――空想――暗号――集団――性――孤独――喜び――絶望――歴史――意味――無意味。」
 自由ラジオを通じて形成された「横断的なネットワークは、それまで孤立し分散させられていた個々人を巨大な「集団」として連帯させる触媒となり、各地で大きな集会を実現させた。ロックやポピュラー=ミュージックのコンサートが数多く開かれ、アメリカやイギリスのパンク・ロックは青年プロレタリア層にアッピールし、大衆文化の一要素となった。1978年、ミラノのランブロ公園には1万8千人の青年プロレタリアートが集まり、大規模なインディアン・ダンスを演じ、やがてこの前代末聞の集会を規制しに来た警官隊と数時問にわたってもみあった。
 「アウトレデツィオーネ」という運動も、この時期に爆発的にひろまった新しい運動形態である。これは、商品価値を決定する主体は生産者にではなく消費者の側にあるという戦略的な観点から、自主的に価格を値下してものを買う――3分の1から4分の1の価格で買うのが普通だが、ゼロ価格で「買う」こともある――運動である。題名を忘れたが、ゴダールの映画にも、フランスの若者の一団がスーパーマーケットでこの「アウトレデツィオーネ」を行なうシーンがあった。この戦術は、レストランや劇場でも行なわれ、最後には大抵警官隊との衝突で終るのを常とした。1976年12月7日に、ミラノのスカラ座で起った衝突は300人以上の逮捕者と7人の重傷者を出した。これは、ミラノのブルジョワたちが1枚8万リラの切符を買ってくりひろげる祝祭を阻止しようとしてミラノの青年プロレタリアートがブルジョワジーにいどんだ闘いであった。
 さて、以上のようなさまざまな階級闘争のネットワークと戦術を展開しながら1977年をむかえる。77年の闘争は、キリスト教民主党による「改良」に反対する小さなキャンペーンに加わっていたローマ大学の1人の学生がファシストにおそわれたことに端を発する。抗議運動は大学の占拠にエスカレートし、これがやがてパレルモ、ナポリ、フローレンス、トリノボローニャの各大学にまでひろがっていった。が、この闘争は、従来のものとはちがい、単に学生たちだけではなく、小工場で働く若い労働者、市の周辺部に住む失業者、非行少年・少女、公民権喪失者といった人々が、いかなる組織の指示も受けずにこの闘争に加わったことである。かくして大学は、資本主義的労働組織を拒否し、搾取と失業をひきおこすシステムを拒否する社会闘争の拠点となり、「働く権利」に代って「より少なく働く」がそのスローガンとなった。労働は、われわれが最終的に集団的な力によってのりこえることになる過渡期の「必要悪」なのだという合意が一般化した。
 2月17日の事件も象徴的な出来事である。この日、ローマ大学の講堂でルチアーノ・ラマの講演が行なわれたが、イタリア労働界における最も重要な指導者の1人と目されてきたこの人物が、講演なかばで7千人の青年プロレタリアによって場外に追い出されたのだった。共産党はこのような「暴挙」に出た青年プロレタリアたちを「労働者階級の敵」として攻撃し、彼らを工場労働者から分断しようとしたが、工場はこの「偉大なる指導者」を支持せず、逆に彼を追い出した青年たちへの同情と連帯を表明した。共産党とプロレタリア運動との全く和解不能の決裂はもはや明らかだった。その意味では、ローマの2月17日は、イタリアの大衆プロレタリアートがスターリニスト的あるいは改良主義的な伝統と完全に手を切り、自律への方向を明確化する記念すべき日となった。
 3月2日、青年プロレタリアートによって完全に占拠されたボローニャ大学の構内で1人の青年が警官に殺害された。ボローニャ共産党の勢力が強い都市であり、いわば「歴史的妥協」の政策を最も現実化している都市である。それゆえこの事件は、アウトノミア運動と共産党との関係を明確な敵対関係ヘエスカレートさせることになり、この日から10日間にわたってボローニャで、そして――すでに共産党への敵意が普遍化していたローマで、激しい抗争がくりひろげられた。3月12日、ローマでは10万人のデモ隊が街に出、街は6時間以上も闘争の舞台と化した。同じことがボローニャでもくりかえされた。ボローニャにはコミューンが形成され、ラディオ・アリチェはその「声」となった。ジュリアン・ベックとともに「リヴィング・シアター」を率いて「ボローニャ・コミューン」を訪れたジェティス・マリーナはその目記のなかでこう書いている。

「彼らは最近の都市の出来事を報じ、いっどこで衝突が起ったかを分きざみで報道した。警官隊との対決の現場から入る電話は直接電波にのせて放送された。このためデモの参加者たちはたがいに緊密な連絡をとりあい、助けあうことができた。」

 こうした事態を重くみたイタリアのブルジョワジーは、共産党の「仲介」の可能性に見切りをつけ、野蛮な弾圧に訴えはじめた。イタリア全土で大規模の逮捕と捜索が行なわれ、自由ラジオ局、新聞、出版社、書店がそのターゲットとなった。ラディオ・アリチェも家宅捜索を受け、関係者が逮捕された。しかし、アウトノミア運動は依然前進を続け、ボローニャとローマはもとより、ミラノ、トリノでも激しいデモやハンガー・ストライキがくりかえされた。国外、とりわけフランスの知識人もイタリアの反動的な状況を抗議し、署名やアッピールが寄せられた。
 ガタリは彼の編集する雑誌『ルシェルシェ』の9月号(第30号)をイタリアのアウトノミア運動の紹介と論評にあて、あわせて彼白身の起草になる「イタリアの抑圧に反対するフランス知識人のアッピール」を掲載した。ちなみに、このアッピールに署名をした主な知識人は以下の通りである――ロラン・バルト、ジャン・ポール・サルトル、ミッシェル・フーコー、アンドレ・グリュックスマン、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジェラール・クロマンジュ、M=A・マキオッキ、ジャン・ピエール・ファイユ、ジェローム・リンドン、クリスチャン・ブールジョワ、フランソワ・シャテレ、デイヴィッド・クーパー、ダニェル・ゲラン、O・ルボール・ダローネ、デニス・ロッシュ、フィリップ・ソレイユ、クロード・モーリアック、フランソワ・ヴァール。
 1977年は、また、既存の社会主義に対する理論的な批判と分析の要求が高まった年だった。共産党の公式的な分析では、1968年以降の状況は、社会民主主義と改良主義の躍進によって特徴づけられるのだが、いまや誰の目にも明らかなことは、そのほかならぬ社会民主主義が、最も全体主義的で暴力的なスターリニズムと変らぬ相貌を呈しはじめているという矛盾である。こうした問題を論議するために、ボローニャのアウトノミアは、全国大会の開催を提案した。9月末に開かれた大会には、全国各地から7万人の活動家や知識人がボローニャに集結し、イタリアのすべてのプロレタリアートだけではなく、全ヨーロッパの知識人たちがこの大会のなりゆきに注目した。この大会では、「国家に反対する真の社会の自律的な組織、賃金労働の生活からの漸進的な解放を可能にするかもしれぬ社会的、知的、生産的なエネルギーをもった自律的組織」(ビフォー)について論議されるはずであった。しかし、大会は理論的な論議の場であるよりも、むしろ「抑圧に反対する親睦会」に終ってしまった。今にして思えば、これは、アウトノミア運動の危機のはじまりを示唆していた。
 まさにこうした状況を反映するかのように、1977年の9月頃からデモから武闘へのエスカレーションが激しくなっていった。そうした路線を最も過激に推進したのは「赤い旅団」であるが、この組織は1970年代の初頭にミラノ、トリノジェノヴァの大工場内で――はじめは武装したガードマンの暴カへの対抗上――生まれた。が、1972年頃を契機として「赤い旅団」は、「武装した党」としての傾向を強化し、国家権力との直接的対決をめざして大衆闘争から少数精鋭「部隊」による武装闘争に入ってゆく。それゆえ、党を拒否し、自発的に増殖する自律的な運動体であろうとするアウトノミア運動との方向のちがいは決定的であったが、1977年9月の「全国大会」の失敗の後、この運動に危機の影がさしはじめ、弾圧の強化に対応して全般的に武闘がエスカレートしてゆくと、そうした悲劇的な状況のなかでにわかに「赤い旅団」の路線がクローズアップされてきたのである。
 1978年3月18日に起ったモーロ首相の誘拐は、マス・コミのセンセーショナルな反応とアウトノミア運動の後退とのために、あたかも「赤い旅団」的な戦略がアウトノミアの戦略そのものであるかのような印象をまきちらすきっかけともなった。それゆえ、ビフォーが言うように、「赤い旅団の強化は、アウトノミア運動の弱体化に正比例している。そのため、体制の抑圧がアウトノミア運動に重くのしかかればかかるほど、武装組織の力は強まるのである。」これは、国家権力にとってもっけのさいわいである。実際、イタリアの国家権力は、モー口事件を契機として、「テロリズム」に対する「国民的団結」を訴えることによって、さらにまた、アウトノミア運動に対する暴力的な弾圧を抵抗なく強化することによって支配の安定をとりもどすのである。この皮肉な弁証法について、『セミオテクスト』のアウトノミア特集号の序文のなかでクリスチャン・マラッツィは次のように言っている。

 「赤い旅団の暴力が徹底的に批判されなければならないのは、それが「暴力的」であるからではなくて、それが十分に暴力的ではないからなのだ!そして、赤い旅団が十分に暴力的でないのは、それが国家の暴力に対応しているからにすぎない。赤い旅団は、彼らの活動のなかで国家=権力を生み出す。しかし、今日われわれが求めているのは、国家からの解放なのである。」

  しかし、「赤い旅団」はアウトノミアの外部からやってきたのではなく、同じ根から川た「異分子」であるから、モーロ事件の前後から、アウトノミアの内部では「赤い旅団」の路線をめぐって深刻な論議が闘わされた。ボローニャのアウトノミアははっきりと自己の路線をそれから区別し、ローマのアウトノミアは、「赤い旅団」の路線を公然と批判したが、他方では、「派閥批判」を越えて「テロリズム」そのものを止揚する方針の検討、「階級闘争の自律的な条件の再構築」にとりかかる方向も出てきた。
 1978年末から79年にかけてオレステ・スカルツォーネとフランコ・ピペルノによってローマで創刊された『メトロポリ』、アントニオ・ネグリによってパドヴァで創刊された『マガッィノ』は、ともにこうした方向をめざす理論的・情報的拠点となり、「テロリズム」の止揚の第一条件として国家が政治犯の釈放、政治犯収容所の撤廃、反テロリスト部隊の隊長ダラ・キェザの罷免を行なうことを要求した。が、「赤い旅団」の責任を自己総括しようとするこうした姿勢は、権力がアウトノミアを「赤い旅団」と同一化し、「テロリズム」の廃棄の代案を国家に対する新たな挑戦として曲解する格好のチャンスを与えてしまい、かくしてここからあの――1979年4月7日の大弾圧がはじまるのである。
 1979年4月7日にパドヴァ、ローマ、ミラノ、トリノの各地で一斉に行なわれた検挙で、22名の活動家と知識人が逮捕されたが、そのなかには、当然、アントニオ・ネグリ、オレステ・スカルツォーネ、フラソコ・ピペルノが含まれていた。警察は、彼らがアルド・モーロ首相の誘拐・暗殺に関与したというのだが、その証拠は全く脆弱なものである。ネグリの場合、「証拠」は彼が「赤い旅団」としてモーロ夫人に「取引」の電話をしたと称する録音テープであるが、逮捕当時このテープは全く、声紋検査を受けてはおらず、しかも(イタリアでは声紋検査はできなくて)その分析を依頼されたアメリカのメリーランド大学の検査では、テープの声をネグリの声と同一視するのは「不可能」という結果が出ているのである。にもかかわらず、ネグリは今日にいたるまで依然獄中に拘束されており、その後も「アウトノミア」の加担者の逮捕は続き、今日では3千人もの知識人や活動家が投獄されているのである。ガタリは、わたしとのインタヴューのなかで、イタリアのこうした状況を「アウトノミア」に対する「ブルジョワジーの復讐」と呼び、「この事件にくらべれば、ドレフュス事件などとるにたりないだろう」(『日本読書新聞』81年7月6日号)と言っている。
 この全く不可解な状況をビフォーは、ボードリヤールが好む「シミュレイション」という概念によって説明し、イタリアの国家権力の戦略は、「無限の数の戦争のシナリオをシミュレイトし、それを大衆的想像力のスクリーンのうえに投与すること」なのだと言う。「すべては虚偽であり、権力はそれを知っていて、自分から虚偽だと宣言しさえもする。権力構造にとっては、何かが真実であるかどうかは重要ではないのである。これは、政府の操作活動の背後にある精神だ。その操作活動の抑止力は、過剰な規模の暴力的キャンペーン、つまりシミュレイションにもとづくキャンペーンにはけ口を与える能力のなかに存する。攻撃を本当に操作しているのは、裁判官ではなくて、新聞でありTVであり、パーフォーマンスなのである。だから、攻撃は政治を越えており、最終的に真実とのいかなる持続的なつながりにもとらわれず、現実とのいかなる対応からも自由なのである。」
 形式的に言って、闘争がもっていた新しい形態と質の度合に応じて、支配と抑圧の形態も、従来のものとはちがったものになる。アウトノミア運動が決して伝統的な意味での労働運動ではなく、資本主義の高度化の1つの臨界点において突出した新しい運動であったということに対応して、それを抑止する支配は、従来の――たとえば「ファシスト」的――な暴力支配とは全くちがう形態と質の抑圧様式を生み出した。
 このことは、資本主義システムの高度化がすべてアウトノミア運動――つまり労動と国家の拒否――の可能性をもっているとすれば、すべての高度資本主義システムは、アウトノミア運動に対してイタリアの国家権力がとったような抑圧的操作の可能性をもっているということである。現に、日本ではソフトなシミュレイションは普遍化しており、だからこそ「アウトノミア運動」の出現はほぼ「完壁」に抑止されているわけである。が、シミュレイションにもとづく支配のおそろしさは、たとえかってのナチズムに相当するような暴力的な支配が行なわれても、それはただのシミュレイション化されたもの――つまりは「幻想」――としか映じないことである。
 しかし、ボードリヤールが、「シミュレイション化された秩序はわれわれからあらゆる否定を奪いとる」(『リベラシオン』、81年9月30日号)と言っているにもかかわらず、シミュレイションはあくまでも支配の一様式であることを強調しなければならない。シミュレイションが昂進する現実のなかには、すべてを「幻想」だ「幻想」だとわめきたてて支配としてのシミュレイションを抵抗なく迎えいれる準備をしている知識人、意味作用の記号学ではなく効果の記号学を実践する文化産業と文化ビジネス、そして現実を攻囲し、さらにそれを越えて網状的に増殖する情報のネットワークがあるのであって、それは決して、運命的な出来事ではなく、あくまでも、歴史的、階級闘争的な出来事なのである。従ってこうした支配の高度化は、必ずしも絶望的な事態を意味するのではなく、まさにマルクスが「ブルジョワ経済の体制が今日の時代にはじめてしだいに発展しつつあるとすれば、同様にこの体制の最後の結果である体制それ白身の否定もまた発展しつつある」(『経済学批判要綱』)と言っているように、むしろ現状の支配システムがドラスティックに変換する潜勢力の昂進でもあるのである。