画家よ生きてくれ! クリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)宣言

「クリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)」という聞き慣れない単語を、最近、現代美術家・藤井光のアート・プロジェクトから知りました。

『アワーストライキ 』

「芸術の労働問題。このアポリアを私たちの切実な問題として脱構築するアクション+映像制作にご参加ください。アーティストやアートプロデューサー、アートNPO、技術者など断続的に雇用されるクリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)が、アサヒビール本社の地下駐車場に数十基のテントを張り、芸術と労働に関する新しい概念/声をあげていきます。

墨田区役所前広場にも、無数のテントが張られ、美術、音楽、映画、アニメ、文学、デザイン、ダンス、演劇、建築関係者が座り込みのアクションを行います。自営でもなく、有期/無期の給与所得者でもなく、産休や労災、失業保障もない芸術労働者たちの生活実態を知る家族やパートナーも参加します。芸術労働者たちのかげがえのない一回性の生が、芸術の条件である事を知る学生やこの社会で多数者となった有期雇用者たちもいます。」

このプロジェクトに興味を持った方はぜひ参加してみてください。

さてそこで、「僕はクリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)です」と宣言した時、感じること、考えたことを書いていこうと思います。「芸術」と「労働」が並んだ時、ちょっとした違和感を持つのは僕だけではないでしょう。

●芸術について

「芸術行為は労働なのか?」まず、パッとこの疑問が思い浮かびます。

1)芸術は好きでやる。(よって労働ではない)
2)芸術は貨幣価値換算出来るものではない。(よって労働ではない)
3)そもそも芸術は産業構造内に入らない。(よって労働という産業構造内の事柄が当てはまらない)

ではこの3点について自分に問いかけてみる。

1)自分は芸術を好きでやってるのか?

絵を描くと手首が痛くなるし、自分のアートについて考えると、もうほとんど可能性は残ってなく絶望的でシビアな現実から、どうやってほとんど妄想のような想像と創造を産み出すのかを考えるしかないのでひどく苦痛だったりする。もう他につぶしもきかないし、引っ込みも付かないし、祈りを続けるより他に選択肢がないというこの狂気じみた信仰のような心境で、好きなことをしているという感覚はもうほとんどない(それはある種の恍惚ではあるかも知れないが)。ただ、「好きではないことが労働である」ワケでもないだろうから、好き嫌いと労働の関係はあとで考えよう。

2)自分は芸術を貨幣価値換算してないのか?

自分で値段つけて絵を売ってるし、自分の絵をイラスト・デザインとして使用する場合はギャラを貰ってるし、絵を描いてと頼まれた場合もギャラを頂いている。断続的ではあるが、これはガッツリと労働だ。コンスタントに繋がりたいものだ。

3)自分の芸術は産業構造の外側なのか?

「マーケット・インとプロダクト・アウトとカスタマー・イン」という産業構造に案外とすんなり当てはめることができる。

「自分の感覚で描いた絵で個展をする」は、要するにプロダクト・アウトである。「あなただけの為に絵を描く注文制作」は、つまるところカスタマー・インである。そして、褒められた作品から画風を展開させて行くのはマーケット・インである。概念的には産業構造から外れないなら、制作を労働と規定しても良いのかも知れない。ただし、すべてが産業構造内でもないけど。

芸術とはなにか。それは身体化に辿り着いた哲学である。身体化によって生じた形式である。
何をもって芸術家というのか。その表現の為に身体が奇形してることによってである。
僕にとって芸術とはなにか。それは仕事である。

〈アートは豊かなところに棲息する〉

芸術があるということは、それを芸術と認識するかは別として、その人やコミュニティが豊かである証しだと思うのです。豊かさとはまことにざっくりした言葉ですが、ひとつ「生命維持行為のみで終始していない時間的精神的余裕がある」、ということでしょう。精神的余裕には信念も含まれると思います。奪われていない心とか。貧乏でも芸術作品を作っている人は、その時点では時間的精神的に余裕があるからです。

例えば、アルタミラの壁画や縄文土器も、それらが作られる背景として(自然や天変地異は容赦なく人間を苦しめ殺めたかも知れませんが)、その社会は人間の生存を保障していたことになると思うのです。

現在に目を向けてみると、幸運にも僕の暮らす日本のインフラは行き届いている。物質的には満たされている。もう生命維持は技術的にクリアされてると思うのです。何気に買い物をしようとした時、「僕はこんなに金にならないアーティストだけど、生きてくのに必要なものはとりあえず揃っている。欲しいものなんてないんだなあ」と思ってしまって、消費の快楽に参画出来ない寂しさを味わうことがしばしばあります。豊かなんですよ、裕福層ではないにしても。運がいいだけかも知れませんが。だからこそ僕は絵を描き続けられてるのです。

ところで、アートとは「需要と供給のバランスがとれてないもの」と云われることがあります。ところが、現代日本はほとんどの商品がアートと同様の「需要なき供給」であり、どう差別化、ブランド化するかだったりしています。

火にかけても底の抜けない「やかん」はすでに誰もが持っているのです。あとは「持ち易過ぎる手触りのやかん」だの「一人用のやかん」だの「有名人がプロデュースしたやかん」だの「伝統の南部鉄やかん」だの「100円のやかん」だの「カラフルなやかん」だの、と付加価値を与えているんです。家電にしろ車にしろ食べ物にしろ服にしろ。

余剰分つまり余裕やクリエイティブが商品価値である事の意味において、それはもはや「アート」なのである。僕らの日常はアート化された日用品や風景に囲まれているのだ。

Art(ist)はもう特別なものではなくなってるのは喜ばしいことかも知れないが、では「アーティスト」として生きてくにはどうしたらよいのだろうか。

a)商品競争と全く同じく、不要な余剰を価値として作り出し、差別化やブランド化を謀る。

例えば「生茶」が売れてるらしいが、それはネーミングだそうだ。生である意味も実質もなく、生という言葉で売れているらしい。これはコンテクストをでっちあげ、プレゼンテクニックだけで数字を盗りに行く今流行の現代アートもまったく同じ構造である。なんとなく、アメリカと中国を足したような下品さが否めないので、個人的には嫌いである。

b)最初からアートでの収入を考えずに賃労働をしながら兼業アーティストとして生きる。

これは割合としてはマジョリティだと思う。一昔前よりすんなりと兼業アーティストをやってる人が増えたのではないでしょうか。20代の頃、僕は兼業アーティストとりわけ先生兼アーティストを忌み嫌っていた。なぜ挑戦者であるアーティストが上から目線の先生になれるんだ? と疑問だったのだ。今の20代は恵まれ過ぎているので、そういう貧乏臭い価値観を持たないのだろう。持続可能性を考えたらこの選択肢が最も正しいと思う。まさに現代の日本っぽい。

c)運を天に任せて何も考えずに制作する。

これを選ぶのはバカである。ひたすら制作することによって身体化し、ひとつ芸の領域まで到達出来たら生き残れるかも知れないという幽かな希望はある。近代以前の日本のようなアナクロなイメージである。

果たして僕は「c」を選んだのであった。そして今回、もうひとつの選択肢が加えられようとしている。

d)自分は芸術労働者(クリエイティヴ・レイバー)であると自覚し、労働者としての権利を訴えて保障を獲得する。

なんとなくヨーロピアンな香りが漂う選択肢である。しかし、そんなうまくいくのであろうか。

●労働について

ところで「労働」ってなんでしょう? wikipediaによると、「労働(ろうどう,英:Labour)とは、人間が肉体や道具を用いて対象にはたらきかけ、人間や動物にとって有用なものをつくりだす行為である」とある。

ここで何が「有用」なのかを問うとややこしくなる。「無用なダム、無用な絵画、無用な戦争、無用な低カロリー食品 vs 有用なダム、有用な絵画、有用な戦争、有用な低カロリー食品」を考えるのはまたの機会にとっておくとして、「肉体や道具を用いて対象にはたらきかけ、(有用無用問わず)何かをつくりだす行為」となると、人間のほとんどの営みは労働ではないだろうかとも思えて来る。

「雇用された賃労働のみが労働である」という、近代に作り上げられた労働価値観は根深く残ってはいるけど、労働ってそれだけではなかったりします。雇用関係も賃金も発生しない労働ってあるし、今まさにそれらの労働が表面化してる最中であるとも言えるでしょう。

それらをざっくりと「近代の崩壊で現れた労働」と呼んでみてプロットすると、

イ)疎外されていた営み
ロ)能動的な営み
のふたつが思い浮かぶ。自分としては、イは「近代によって蓋をされた原始的労働」、ロは「これから労働」、というニュアンスなのだが。順を追ってみよう。

イ)疎外されていた営み

例えば、前近代的な大農家コミュニティ。主に女性が行なった台所仕事、主に子どもが行なった更に小さい子の子守り、主に男性が行なった力仕事、確かに性別年齢によるヒエラルキーはあったかも知れませんが、それらは全てコミュニティを守り維持する為の労働だったと思うのです。専業主婦の家事、町内の掃除、ご近所付き合いも、コミュニティ維持の日常労働と言えるでしょう。

そして、コミュニティ維持の非日常労働としてお祭りがあったんだと思います。芸術の原点はお祭りです。その疎外されてきた根源的な何かこそ芸術に求められる要素だと僕は思ったりしてるのです。

コミュニティ維持労働は、どこか貨幣換算しずらい特徴を持ってます。なので、労働として認識されにくかったのですが、近代の崩壊によりその原初的な営みが立ち現れ、労働の意味を問い直させてるような気がするのです。

ロ)能動的な営み

例えば、フリーソフトを公開してドネーションを得る、絵やマンガを描いて展示会で売るなどのプロダクト・アウト。ひょっとしたらコスプレもそうかもしれません。金銭にならなかった場合、この膨大な営みは「道楽」と呼ばれ、金銭にする目的がない場合は「趣味」と呼ばれます。

どうやら、頼まれてもないのに行なう能動性が高い行為を労働とは呼びたくない心情が働いてそうです。労働には「楽しくないこと」、「出来ればやりたくないこと」、といった感情が含まれてるようなのだ。

僕はこれを仮にこう解釈してみます。雇用された賃労働者の権利を訴える時、不当労働として被害者正義を強く打ち出して組合運動を行ってきた。被害者正義は心情的に昂ると悲劇的ナルシシズムとなる。ハマれば盛り上がりそうだ。確かに被害者で正義な労働は今でもあるだろうが、運動にはナルシシズムが付き纏う。特に悲劇は歓迎されるだろう。しかし、能動性の高い行為にはどこか加害者性が潜んでいるので、悲劇的ナルシシズムが喚起されない。労働者は被害者正義であって欲しい気持ちが、「楽しく見える能動性の高い労働」を認めさせないのではないだろうか。

●クリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)とは

派遣までの労働問題は、言ってみれば雇用問題だと思うのです。派遣という非正規雇用者たちは、経営側と正規雇用組合側のダブルパージを喰らうという悲劇的構図でした。

派遣労働問題が整頓されて来ると、いよいよクリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)問題が浮上すると予測できそうです。

クリエイティヴ・レイバーとは自営業、フリーランス、ひとり親方といった個人事業主以下の労働者だ。現在では無職やニートにカテゴライズされるだろう。

資本家│壁│経営者>雇用者>個人事業主>>>>無職・ニート(クリエイティヴ・レイバーを含む)

こうして見ると、絶望的に酷い。「好きでやってるんでしょう」と死にそうになってもまったく同情されない恐怖、そして本当に孤独のうちにのたれ死ぬ恐怖、のオマケ付きだ。

さて、僕は今日、芸術労働者宣言をする。

僕は普通に生きていきたい。絵を描いて生きていきたい。家庭を持って生きていきたい。幸福でありたい。芸術労働者である僕がこれらを実現したならば、きっとこの社会はとてもステキな社会なのだろう。

売れるか、悟るか、ベーシックインカムになるか。
(つづく