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工藤キキ ポスト・ノー・フューチャーにとって政治とはなにか──シーンなきアートの現場から

──工藤さんは三月に『Post NO Future 未分化のアートピア』(河出書房新社)を上梓されました。まずは、工藤さんが見たアートの現状、について説明していただけますか。


工藤 いま日本のアートにはマーケットはそこそこ存在するけど‘シーン’は無いですね。 アートを媒介にして何か表現をしたいことか、アートという場だからできること、という意識があって活動しているアーティストがものすごく少ないと思います。そこに紙とペンがあったから絵を描いた、で成立する作品やアーティストってものすごく稀な例だと思うんですが、絵を描きたいから絵を描く、ビデオ表現したいからビデオを使う、みたいな何を表現したいかをすっ飛ばして技法から入る人がとても多い。それって、表現の幅をせばめていると思うんです。何かしたい、という欲求自体がアートなのだから、本当は道具なんてなんでもいいはずで、表現したいことを伝えるためのベストな方法として、絵を描くなり、写真を撮るなりなど、表現方法をあみ出せばいいのに。技法に捕われるより、そんなの文房具ぐらいの感覚でいいのでは。そして、どの表現方法が適しているのかを見極めるのがセンスの見せどころなんだと思います。


──はじめに技法ありきになってしまっている、と。


工藤 以前、デヴィッド・グレーバーが「虐げられていることを前提に反抗するのはおかしい」って言っていたけれど、なんか、それに似ている気がする。わたしも、そういう考え方はしたくないから。アゲンイストはするけれど、それが虐げられているという前提からの抵抗になっちゃうのは面白くない。自分の置かれている状況は楽しいし、どうにか楽しもうと思ってるし。むしろそう思っているからこそ楽しい現場をつくれる、と信じているんです。文句からはじまっちゃうのは、もういいかなと。だから、絵を描くために絵を描く、みたいな表現スパイラルのなかで格闘しちゃってるアーティストの人とかよく目にするけど、そんなもの振り払ってまずはもっともっと好奇心に後押しされるようにならないと、なんて思います。


──若いDJ系アクティヴィストなんかも「「○○反対」というような運動なんてやる気がない、自分たちのをつくりだすことにしか興味がない」と言っているんです。共通する部分があるように思います。 とごはいえ、工藤さんの著書によると、アートは90年代後半からむしろ逆の方向に転換してしまったわけですよね、90年代前半までの、「カルチャーの坩堝」だったアートとギャラリーが、売れやすい平面作品を中心にした、アートで商売をするための空間に変質していく。グローバリゼーションの波をモロにかぶって、ギャラリーが欧米化していったというか。この本で繰り返し語られるのは「6畳間にも飾れる平面作品のようなものだけがアートなのではなくて、その外のアートこそが今、支持されるべきだ」ということですね。


工藤 アートで経済が回るようにとグローバリゼーションの波に乗った、というところもあるんだと思います。ギャラリストがアーティストを食べさせることに意識的になったというか。けど、その時、「面白い、馬鹿げたことをやってもお金になるんですよ」というふうにすればよかったのに、「みなさんが好きそうな、日本の住宅事情にも適したサイズの買いやすいものを売ります」みたいな「曲がってないキュウリしか売リません」と同じ状況(笑)。アートは難解だと敬遠してた人も、「アートは買うもの」という商品となったら、ガゼン興味がでてきちゃう。いまは、消費というバカげた側面でしかアートが語られてないんです。もちろん売るのも買うのも別にいいんだけど、アートバブルなんて言われても現場はまったく盛り上がってない!アートみたいなわけのわからないものが、わけのわからないまま流通に乗れば面白かったんだけどね。


──本の中では、「六本木クロッシング」展(森美術館)について、アーティストが、森ビルという「巨大資本」への対抗(?)を意識しすぎているために、かえって身動きが取れなくなっている、という指摘もありました。「森ビルにこんな貧乏くさいものを展示しちゃいました」みたいな。


工藤 別のやり方があるのにね。例えば、1回目の「六本木クロッシング」に会田誠さんが出品したものは、すごく面白かったんです。あそこ、天井が高くて、6メートルもあるんですね。そんな天井高のスペースって東京ではかなリ珍しい。だから、天地6メートルのペインティングの作品を作ったの。しかも、俵を持った女の人の銅像で、足元に「モニュメント・フォー・ナッシング」と描いてある(笑)。そんな巨大な作品は森美術館でしか発表できない、のに‘俵女’描いちゃうんだ……という、不真面目さが好きですね(笑)。アートに限らずだけど、みんな自分のことを意識しすぎている気がする。森ビルVS清貧アーティスト、みたいな発想もプライドに捕われた自意識から生まれるものなんじゃない? 重たい主体なんて要らないなーって思うんですよね。


──工藤さんの本では、会田さんをはじめ、こう言ってよければ、現在のアート市場の主流からずれていったアートについて書かれていますよね。まさに「ポスト・ノー・フューチヤー系Jとでも呼べるような、若いアーティストがどんどん出てきている。


工藤 Chim↑Pomとか岩本愛子さんとか、本当に面白いアーティストが出てきていると思う。彼らって、まず表現したいことがあって、その時に文房具を選ぶように、いろいろな発想と媒体で表現するんです。でもこれって実はあたりまえのことで、会田さんもそうだし、ダミアン・ハーストとかジェフ・クーンズも言われてみればそうでしょう。実は王道的なんだけど、日本でようやくそういう意識で作品を作る人たちが出てきたんだなと。自分の置かれている状況を判断して行動することができる人たち。例えば、岩本さんの作品に、脚がキレイに見える「美肌ストッキング」を全身にまとうパフォーマンスがあるんです。美肌というのは女性にとってあこがれだから、だったら顔に履かせたら美肌になるかな、みたいな発想をする。なんかそこには、他人と比べたりするのとは違う、もっと社会との軋轢みたいなものを感じるわけだし。 Chim↑Pomもそうで、彼らは作品を通じて、自分がどんな場所にいるのか、その状況を俯瞰してレポートしている。例えば、自分というのが一番小さな社会なわけじゃないですか。そこから外の社会を比べて摩擦を感じられる、そういう意味で政治的な人たち。それがボスト・ノー・フューチャー系。なのかな?あと、生半可にアーティストだって思われないほうがバカバカしくて面白いよね。アーティストって名乗ってもいいけど、「だからなんだよ」って思うでしょ(笑)。アーティストって名乗ったからって偉くなくて、むしろ今、表現すること自体のハードルが、ものすごく高くなってる。インターネットでいろいろな情報が集められるし、すでにどこかでやられているとか、すぐにわかっちゃう。ものすごい情報が溢れていることを、アートという表現に向かう人は敏感に感じてほしい。


──工藤さんはニューヨークのギャラリー事情とかにも、やたら詳しいですものね。インターネットを駆使しまくっている(笑)。


工藤 ただのミーハーなんだけどね……日本の端っこで何してるんだろう、わたし(笑)。だけど、『宝島』とかから情報を得て面白そうな展覧会やライヴに通ってた中学生や高校生の頃に比べれば楽だしね。とはいえ、今はなおさら掘るものが多すぎる(笑)。


──今回工藤さんがキュレーションを担当した「Post NO Future」展(hiromi yoshii)で紹介されていたTHE FASHIONRAMONEA.K.A.TFRの展示は、まさにインターネットで世界と結びついたからこそできた表現でしたね。


工藤 彼らも面白いよね。 目白の小さなアパートに、様々な国籍の若い子たちが共同生活してるんだけど、洋服の山だらけのぐっちゃぐちゃな部屋なのに、なぜかWindowsのコンピュータには何ギガも入ってるの。彼らはそこで世界とオンラインで繋がっていて、東京のクラブシーンやストリートのリアルなファッションジャーナリズムを展開している。その世界観はすごく面白い。何というか、偏りすぎてて、鬱屈しすぎてバグった、みたいな(笑)。その貪欲な感じが好きです。


──Chim↑Pomなんかはアクティヴィズムにも接近しているように見えますが。


工藤 Chim↑Pomは、渋谷のセンター街に生息するネズミを捕まえて剥製にしたリ(《スーパーラット》)、東京中のカラスを集めるパフォーマンスをしたり(《BLACK OF DEATH》)、「都市の中の自然」を作品にしているでしょ。なんか、呪術的じゃないですか。カラスもネズミもゴミも、そういうふうにとらえるところが面白いと思う。ジェームス・タレルのアースワークで、死火山を買い取って、てっぺんに巨大な施設を作って、施設の天井にあいている穴から上を見ると、一日かけて空の色が変わっていく、これが作品、というものがあるけれど、そんなふうに自然を使って見え方が変わること自体が作品になる。Chim↑Pomの場合はお金もないから山にも行かないかわりに、発想力で作品をつくる。 そんなふうに目に入るすべてのものが表現の道具になればいいな一、と。「お金がないから、本当はあの色の絵の具を使いたかったんですけど、この安い絵の具にしました」ということではダメなんだよね。それが本当に必要だったら盗んでもいいわけだし(笑)、画材屋さんを説得して手に入れるということがあってもいい。そういうプロセスを楽しめるかどうか。なんか、「○○がないと表現できない」とか、そういう発想がどんくさい。Chim↑Pomの場合は、そこを乗り越えていく過程すらもアート作品にするからね。渋谷のセンター街でネズミを探しているときも、あの通りの居酒屋とかラーメン屋のバイトの人から「何やってるの?」って聞かれて、「ぼくたち、アートやってるんです」って言うんじゃなくて、「これ捕ると、1匹3万円になるんですよ」って言い方をする(笑)。そうしたら「じゃあオレもやる!」みたいになるわけですよ。街は自分たちだ?ナの世界ではないから、街のなにかに沿わなきゃいけない局面があるわけで、そういう状況で生きる知恵を使った街との共存感、みたぃなところがすごく面白い。独りよがりじゃないというか。


──さっきの話になるけど、そういう状況の中で、何かへの反対ではなくて、何をつくっていくかというかたちのアクティヴィズムになる、と。Chim↑Pomのようなアーティストは、なぜ出現したんだと思いますか。


工藤 ていうか、彼らはアートでアートを学んだというよりも、言ってみればサブカルチャーのひとつとしてアートを選んでいると思うし、エクストリーム感を面白がるような「ジャッカス」に近い感覚でやってるんじゃないかと思うんです。とはいえ彼らはアートもすごく好きで、アートという表現だからこそ出来ることをやっているとも思う。そのへんは確信的だとは思うけど、もはやビデオカメラだって特別な機材じゃないし、編集だってMac 1 台あればてきちゃうわけだし。あとはチョイスの問題。むしろ重要なのは、好奇心というか、欲望を持つことができるかの問題なんじゃないかなー、と思います。


──今日はありがとうございました。