アートとアクティヴィズムのあいだ───あるいは新しい抵抗運動の領野について 高祖岩三郎

文化はもはやことさら特権化された劇場ではない。転覆的芸術は、日常生活の組織に対する抵抗の形態全体にとって切っても切れない部分に成りえる。
───Raoul vaneigem


 ニューヨークで、東京で、リオデジャネイロで、ケープタウンで、上海で──世界中の大都市で、文化領域全般がかつてない規模で膨張している。ハードもソフトも含めた電脳空間の充溢。グラフィティ、音楽、漫画など、若者文化のグローバリゼーションささやかな印刷物に依っていたミニコミのインターネット上の百花繚乱。ファイン・アート、インテリア、ファッション、建築、グルメ・フードなど、特権的だった文化領域の紛うことなき大衆化。わたし個人が80年代に勤務していたニューヨークのアート業界は、アーティスト、評論家、画廊、美術館、雑誌など、全ての数量について、現在、当時の百倍以上に膨れ上がっている。これは一体どういうことか?これはまず都市部における主要産業のサービス/情報部門への集中的移行に影響されている。またますます強化されていく日常生活全般の商品化の一部である。その結果、一方でかつて特化/保護されていた文化という領域の、拡散あるいは飽和である。だが他方で、既に進行していた知的/文化的に洗練された民衆の形成と社会的関係性の充実の具現化でもある。つまりこれは資本主義経済のより深く広範な支配と、民衆の力能化という両義性を孕んだ状況である。今特集の主題は、そのような際どい状況の中から立ち現れつつあり、その前途を左右するだろう──つまり新しい抵抗運動の範例となるだろう──実践形態である。これにはまだ正式名もなく、充分理論化されていない。この場でそのささやかな先鞭をつけられれば本望である。

 それは「アートとアクティヴィズムのあいだ」でなされている異なったタイプの実践形態を指している。アートの側から見ると、それは先鋭的な作品制作が個人主義化された生産/消費形態と制度化された劇場の殼を打ち破り、それぞれ培ってきたメディウムと技能を全面的に解放し、社会と都市空間の変革に介入し始めることである。これはアートという特権的に閉じていた領域の自己解放である。アクティヴィズムあるいは社会/政治活動の側面から見ると、それはそれらがかねてから暗黙の内にそこに依って立ちながらも意識化してこなかった、あるいは無視してきた人間関係形成(あるいは「情動」)にまつわる戦術の本質性に目覚め、それを全面的に方法化し始めようとする展開であるつまり民衆の社会変革運動の様々な次元における方法的/人間関係的な豊饒化である。この2つの異なった領域の自己変革が、お互いの存在を認知し合い、評価し合い、連帯すること──ここではこうした異種交配が進行している。

 だがこの実践タイプは突然変異的に現れたわけではない。いくつかの歴史的な系譜が交差しこれを準備してきた。第1の系譜は、欧米の前衛芸術運動であった。前衛芸術と前衛政治の歴史的な係り合いと類縁性は、これまでも斟酌されている。まずこの中の1つのタイプとして芸術を革命運動の一契機とみなす「プロレタリア芸術運動」が存在した。たとえば芸術形式をそのまま使い、社会問題を提起する社会主義リアリズムや(たとえばlndustrial Workers of the Worldのフォークソングやポスターなど)運動のためのプロパガンダ・アートである。さらにロマン主義以降、ことに19世紀後半以降に開花した自然主義,印象派表現主義バウハウス、デ・スティル、ロシア・アバンギャルド、シュルレアリズム、ダダなど、ヨーロッパの各芸術運動、そしてそれを新大陸アメリカの巨大空間でさらに拡大したアメリカン・アートのある部分には、産業資本主義社会批判としての「疎外論」と未来への射程としての「ユートピア主義」という二つの問題機制が多かれ少なかれ含まれていた。これらは基本的に政治的前衛の中心的問題系と重なっていた。(本号掲載のデヴィッド・グレーバー論文参照)

 第二の系譜は、60年代の新左翼運動の中から特出した芸術的抵抗運動である。それは右記の政治/芸術間の歴史的関連を全面的に意識化し、より方法的に状況に介入しようとした。パリのシチュアシオニストを筆頭に、オランダのプロヴォスそしてアメリカのイッビーズやブラック・マスクやディガーズ、その他、世界各地に類似した運動が出現した。シチュアシオニストにおいて最も意識的に実践されたが、それらは「舞台としての都市空間」や「パフォーマンス的状況操作」や「スペクタクル的戦術」という、今日範例となっている戦術的集合をもって社会変革を目指したのだった。これらはより広範に出現したヒッピーあるいはフラワー・チルドレン、そしてアングラ文化という幅広い大衆的な趨勢の部分であったとも言えるが、この時点ではあくまでも学生/知識人という社会的枠組み内でなされ、労働者民衆文化とは融合していなかった。

 そこでことさら重要なのが第三の系譜、つまりイタリア60〜70年代のアウトノミアという名称で一括される運動とその理論化であった。労働運動の観点から、それまでの通念と逆に「民衆の抵抗運動が,資本主義を駆動する」という労働者の自律的生産闘争を出発点に据えた。そしてそこから60年代の運動が抱えていた問題をより社会的/民衆的に再構成した。モの延長線上に、フォード主義的工場から脱出し、社会の全領域に拡散したポスト・フォーディズム社会における現代的労働者像を様々な概念化において提起してきたことは周知である。

 われわれが問題にする実践形態は、右記の現代都市労働者(マルチチュード)をめぐる状況において再文脈化された新しい「非前衛主義的前衛」と言える。それは政治的/文化的変革志向が、ポスト・フォーディズム的な社会状況と労働の質的変容の中で、拡張し続ける文化生産の前線をますます柔軟に巻き込み、もはや少数のエリートに導かれた前衛主義を不可能にする新しい社会的統制と配置において再構成され、そこから改めて自らの介入方法を実験している状況である。(本号掲載のブライアン・ホームズ・インタビュー参照)それはあくまでも現代都市的民衆が自律的に先鋭化していく運動形態なのである。これを「少数精鋭主義」ならぬ「無数精鋭主義」と呼ぶことができる。

 この趨勢は今日ますます拡大し、強固になりつつあるが、その運動的魂は、新左翼の時代以降、過去30年余りの各種民衆闘争の経験から受け継がれている。第二次大戦後のポスト・コロニアル時代の文脈において、世界各地のマイノリティ運動として準備され、1994年に蜂起したサパティスタにおいて一つの新しい範例を示すに至る、世界南部の民衆と世界北部のマイノリティの自己表現の獲得という人類史的潮流と無関係ではない。それまで言葉を奪われていた世界各地の無数の民衆が、それぞれ固有の言葉を大声で話し始めるというグローバルな表現主義である。(第四の系譜。)

 その間、アメリカなど先進国においては、フェミニスト活動家たちが、60年代の新左翼運動の男性中心主義的階層序列批判として新しい組織論を構築していた。上から下に向けて人々に命令するエリート的指導者ではなく,人に気を使う調整者的存在の重視、そして直接民主主義的合意形成方法の導入である。これを(第五の系譜として)「情動の組織論」と呼ぶことができる。

 われわれが問題にする「アートとアクティヴィズムとのあいだ」の実践は、以上の系譜と流れによって形成されつつ、これまでにいくつかの新しい文化生産/闘争の「政治的言語」を発明してきた。わたしの考えでは、1987年、AIDS危機において結成されたACT UPがその母型(マトリックス)を提供している。それは既に挙げた三つの戦術的要因──「舞台としての都市空間」、「パフォーマンス的状況操作」、「スペクタクル的戦術」──を軸にして、看護のネットワークからホームレスの居住空間の確保、医療研究、ストリートにおける独特なプロテスト、そしてグラフィック的に高度な情宜活動まで、多元的な戦線を展開した。「友愛」、「嘆き」、「怒り」といった人間のもっとも「傷つきやすい」感情諸領域のリンクを構築することで、独自の組織形態と表現の質(いわば「情動の政治」)を発明した。

 その間ニューヨーク都市空間で進行していたのは、自動車交通の導入(1930年代以降)とその後のジェントリフィケーショソ(1980年代以降)による近隣空間の破壊であった。それを「共同企画」として様々な形式で再構築する試みが行われていた。1970年代から90年代までに一世を風靡した(グラフィティやラップ/DJやブレイクダンスを合む)ヒップホップ文化から、レント・ストライキ、スクワッティング、コミュニティ・ガーデン、そしてコミュニティ・スペース運動まで、実は多くの実践がこの動因によって遂行されていた。これらは(いわゆるパブリック・アート企画のように)権力によって前もって与えられた場所を前提になされる「作品行為」とは峻別される。民衆が係争を孕んだ不安定な状況において、自らの手で公共空間自体を創出する民主主義的闘争であった。(本号掲載のロザリン・ドイッチ論文参照)そしてこうした創造の頂点においては──それがその後、形式的に商品化されるにせよ-一一作者と観衆の区別も、またその素材となる「媒介の存在」も消失してしまう。それは「観衆」より能動的な「群衆の形成」の場なのである。(本号掲載のスティーブン・シュカイティス論文参照)

 都市を舞台にした「空間の政治」には、別の側面が合まれている。「スペクタクルの政治」である。 Redaim the Street、CriticaI Mass、Bmionaire’s for Bush、YesMen、ビリー牧師など、1990年代以降、今日に引き継がれている活動においては、消費主義のスペクタクルに対抗する批判的スペクタクルの創造という志向性が──シチュアシオニストを継承する形で、しかしより切迫した形で一貫かれている。今日われわれは資本が醸成する幻影にどっぷり浸かって生きている。また9・11以降、主要メディアは権力に主導された政治的過程の一部になってしまった。こうした状況においては「文化という領域」はもはや、「無垢な形式」といり理念に頼っていることはできない。そこでは(本号掲載のスティーブン・ダンコム論文が主張するように)変革の側の「夢想の政治」(dreampolitik)が要請されている。

 「スペクタクルの政治」との関連で「情報の政治」の実践を忘れることはできない。まず主要メディアに対抗して、活動側からの情報公開/伝播を目的とする(lndymediaなどの)「メディア=運動」がある。さらに今日「戦術的メディア」と呼ばれている実践領域が拡張されている。オランダでまず栄えたこの系譜は、インターネットの空間を使って新しい民主主義的公共圏の構築を目指し、かつハッキングやイソターネット上の抵抗運動(electronic civil disobedience)を実践してきた。またCriticalArt Ensemble (CAE)は、ここからさらに一歩踏み込んで「テクノロジーの政治」に介入し始めた。つまり遺伝子工学による操作を全面的に取り込み始めた資本が、われわれの身体を内側から変容している様を、民衆の情報/技能獲得(=DIY)の視点から研究し、モの結果を(美術展という形式を使って)批判的に公開していく活動である。──以上はあくまでも、わたしが個人的に知っている二、三の例、氷山の一角でしかない。

 「アートとアクティヴィズムのあいだ」という活動領域形成の土台となっているのは、労働にまつわる状況の変遷である。再びアウトノミア理論を参照すると、「社会関係」を生産する技能を大幅に巻き込む「情動労働」が、ますます非公式雇用形態で就業する都市民衆の主な労働形態となってきた。コンピューター技術、デザイン、(ウエイター/ウエイトレス、看護、接待、販売など)各種サービス業である。今日最も激しい階級闘争が展開されているのは、これら諸産業においてである。そして同時に主要な三つの戦術的領域──舞台としての都市空間」、「パフォーマンス的状況操作」、「スペクタクル的戦術」──を司る技能は、まさにこれらの労働者たちが培ってきたものなのである。だからこそ「アートとアクティヴィズムのあいだ」の実践は、現代における大衆的な闘争の形態なのである。

 とはいえ、今日の文化生産において主要なイデオロギーは、いまだに大作家主義(auteurisn)である。アート、建築、映画、ファッション、その他において、数人のビッグネームの周りに市場が形成されている。ファッション雑誌のグラビアに顕著なように、いわゆる文化的ヒーローはハリウッド・スターに類似したステータスを獲得した。彼らの作品=生産物の価格は上昇する一方である。このエリート主義的生産において主要な技能は、弁護士的「交渉能力」とビジネスマン的「商才」とロマン主義的な天才の「命令」である,この主体はほとんど専制主義としか言いようがない階層序列を形成し、幾多の技術者=労働者の頂点に立っている。このことは工房内に隠蔽された多くの有名建築家アーティストと彼らのアシスタントたちの陰惨な関係に明らかである。この実践は文化の名において特化されてはいるものの、紛うことなき一産業であり、それは疎外された様々な技術=労働に依っている。だがこの事実に関しては「社会科学的特殊問題」とされ「芸術言説」の議論に取り上げられることはほとんどない。

 それに対して「アートとアクティヴィズムのあいだ」の実践においては、それぞれの領域を担う技術とその全面的な開花を中心に出来事が形成されている。そこでは「一人の天才でなく「無数の凡才」が号令する。あるいは言い換えると、ここでは出発点は──天才と凡才の区別が成立しない──万人の単独性以外ではない。そこでは企画、意匠、分業の形態に至るまで、合議制によって実践されている。まさにこの実践領域においてこそ、未来に向けた新たな生産=闘争形態が実験されている。それは異なった社会的技能が交流する場であり、モれらを繋いでいるのは「商品化されない労働」=「解放された労働」への熱い希求である。現今の社会制度においては、この労働は、経済的に真っ当な報酬を与えられていない故に、制度的に「解放」されているわけではない。だがそれを目的因として歴史の終わりに到来するだろう解放の日まで持ち越すのでなく、今ここで押し通すこと──その決定において「自己解放的」なのである。

 労働とアートは歴史的に実に奇妙な関係性を孕んできた。それらは限りなく近く、限りなく遠い。そして限りなく遠く、限りなく近い。現今制度においてはいかにも遠く見えるが、労働の解放を存在論的に予想させるのは、まさにアートなのである。(本号掲載のブルーノ・グーリ論文参照。)その意味でも「アートとアクティヴィズムのあいだ」の実践領域は、現代の反資本主義的闘争に新しい範例を与えているのではないか? 今号に選出された論考や事例は、以上の問題機制において、少なくとも新しい議論の開始となりえるだろう。