イルコモンズ 〈帝国〉のアートと新たな反資本主義の表現者たち

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現代アートの現状について

 僕はこの数年「美術家を廃業したアーティスト」というアノーマリ一なスタンスでアートに関わりながら、主にアクティヴィストとして活動してきました。そのスタンスから現代アートの現状を眺めると、とても「いたたまれない気持ち」になります。たとえば僕は、アクティヴィストとして「テロとの戦い」を口実にした「公共圏の破壊」や「都市のジェントリフィケ−ション」「監視社会」そして「資本主義のグローバル化」「ネオリベラリズム」「経済至上主義」「コピーライトの強化」など、いろんなものに反対し抗議し表現してきました。それを全部あげてゆくと、とても長いリストになってしまいます。そして今そうしたものが渾然ー体となった〈帝国〉が僕らの目の前にその姿を現しています。そういう巨大な力や世界の流れに対して警告を発し、批判や疑問を投げかけていくのが「同時代の芸術」である現代アートの役目だと思うのですが、声をあげるどころか、逆に<帝国〉のシステムに包摂されてしまっているように思えます。最近ネットで「アート」がニュースになるのは、たとえばダミアン・ハーストの作品が史上最高値で落札されたとか、村上隆の作品が何億で売れたとか、そういうマネーゲームの話ばかりです。「ある無名の作家が人知れずものすごい傑作を描いてそれを見た人たちが感動のあまり次々に失禁した」なんてことは全然ニュースになりません。本来アートはそういうものであるはずなのに。実際、「アート」という言葉でネット検索すると、なぜか資産運用のサイトにたどりついて、そこにはこんなことが書いてあるのです。

9.11米国同時多発テロ以降、アートは安全なアセット・クラスと認識され、世界の富裕層のセイフティ・ヘイブンであり、「最後の砦」として機能している。レバレッジを解消し、手仕舞いされた膨大な資金が安全を求めてCASHや債券、特に米政府短期証券に流れ込んでいるのであれば、むしろ資金の一部は、必ずアート市場にも流れ込んでくる可能性はある。


「〈帝国〉の芸術論」と「マルチチュードの芸術論」

 以前、菊地成孔が「CDは株券ではない」と書いてましたが、こういうのを見ると「アートは金融商品ではない」とそう云いたくなります。要するにアートは、グローバルな金融資本の投資対象としてマーケットに完全に捕獲されてしまったわけです。そういえばこないだ、村上隆の『芸術起業論』について日経の記者がこんなふうに書いてました。「この本は紛れもないビジネス書なのだ。いかにマーケットにおいて自社製品を他社製品と差別化するか、いかにブランド価値を高めるかなどに腐心する、マーケティング担当者にとっては、特に参考になる部分が多いのではないだろうか」と。つまり村上隆の芸術論は、今日のマーケティング戦略において有効な「ビジネスモデル」となリ得るというわけです。実際、その本をめくると「ビジネスセンス、アートマネージメント、クライアント、オークションハウス、ルール、アイデンティティ、コンプレックス……」という具合に、芸術論の本では目にすることのないビジネス用語やサクセスストーリーが記されています。そこで語られていることは、いま・そこにある〈帝国〉のシステムとそのニーズに応えるもので、たしかにそれも「同時代芸術」である現代アートの役割の1つかもしれません。それがよいかどうかはひとまず措くとして、ただひとつはっきり云えるのは、それは「〈帝国〉の芸術」だということです。これに対し、アントニオ・ネグリの『芸術とマルチチュード』(月曜社)という本があります。これは80年代末から90年代にかけて書かれたものですが、その本でネグリは、00年代のいまの状況を的確に予見しつつ、「もうひとつの芸術論」を示してくれてますので、抜粋しながらちょっと読んでみましょう。

 ぼくの考えでは、いまやアートほど、つまりアートのプロダクションやマーケットほど、マルクスが「実質的なとりこみ」と呼んだ社会的組織化が進行している例は他にないと思う,生のあらゆるカテゴリーを、社会の資本主義的な再生産に対応する、唯一の形式(つまりお金や商品、市場価値や取引価格のことですね)に還元してしまう支配の発展、つまり「実質的なとりこみ」の発展とその状況の影響をまず最初に受けるのはアートだ。アートは集団的な力の解放を通じて、僕らの存在を乗りこえるものをつくりだすもので、資本主義の支配に対する「拒否」以外のなにものでもありえないんだ。アートは資本主義の指令を甘んじて受け入れることなどできないんだよ。アーティストがそれを受け入れるということが何を意味しているかと云えば、それはただ単に芸術家の自覚の欠如であり、彼の話が形容矛盾を起こしているということなんだ。アートであることの形而上学的な条件とは「叛乱」と「拒否」ということだ。(アントニオ・ネグリ


 これは「〈帝国〉の芸術」に対抗する「マルチチュードの芸術論」です。僕はマルクス主義者でもネグリ主義者でもありませんが、ネグリのこの芸術論に強い共感を覚えます。今のこの〈帝国〉の時代の後に、それにとって代わるものとして、「ポスト帝国アート」というものが登場してくるとするなら、「叛乱」と「拒否」のアートになるでしょうし、すでにバンクシーやゼウスのように〈帝国〉に抗する作家たちが現れはじめています。とはいえ、世界のメインストリームのアート・シーンは今なおく帝国〉の支配のもとにあり、さらに日本のアートは遅ればせながら、〈帝国〉のマーケットに参入したくてウズウズしているように見え、アクティヴィスト・アーティストとしては、「いたたまれない気持ち」です。


反資本主義アートの過去と現在:ハーケとバンクシー

 もっとも「反資本主義のアート」は今に始まったものではなく、いつの時代にもありました。60年代にもあったし70年代にもあった。 80年代で云えば、ハンス・ハーケがそうで、ハーケ(の場合は世界の巨大企業に対する批判という表現をとりました。ハーケは大企業と政治のつながりを作品化してみせたアーティストで、たとえば、カルチエ社とつながあるレンブラント社という鉱山会社が南アフリカの鉱山スト弾圧した事件や、サッチ&サッチ社という大手の広告代理店が南アフリカのアパルトヘイト政策を強化する広告を請け負っていたことなどを綿密に調べあげ、エレガントで大掛かりな展示装置を使って美術館で暴露してみせたのです。さしずめ今なら、スターバックス社とイスラエル軍事政府のつながを作品化するようなものです。また90年代前半には、資本主義経済の根幹をなす紙幣を模写した作品を造り続けたJ・S・Gボッグスや、100万ポンド紙幣を実際に焼却してみせたK・ファウンデーションのような反資本主義のアーティストたちがいました。その後、グローバリゼーションが加速化し、〈帝国〉がついにその姿を現した00年代、9.11ショックの後に登場したのがバンクシーです。


ミッキーマウスと(マクドナルドの)ドナルドが、爆撃されるベトナムの子どもの両手をつかんでどこかへ連れて行こうとしている、バンクシーの最も有名なグラフィティは、〈帝国〉の時代の「新たな反資本主義のアート」のはじまりを告げる、その出発点だったと云ってよいと思います。バンクシーは、ハーケのように美術館やギャラリーではなく、ストリートやビルボードを表現の場とし、ハイ・アートではなく、ローアートのステンシル・グラフィティという手法でそれをやってみせました。また、花束を投げつけるアクティヴィストのグラフィティは、シアトル以降の「反グローバリズム運動」の直接行動やブラックブロックを連想させるアイコンですし、それ以外にも、監視カメラや都市のジェントリフィケーションをモチーフにした多くの社会批評的グラフィティがあり、バンクシーはいま最もアクティヴな現代アートの作家であると同時に、反グローバリズムのアクティヴィストたちが最も共感を寄せているライターだと思います。そういえばこないだ、オークションにかけられたバンクシーの初期のキャンバス画が破格の高値で落札されるということがあったのですが、バンクシーはすぐさま「こんなクズを本当に買う阿呆がいるなんてとても信じられないぜ」という文言のはいったキャンバス画を公開してみせていました。そういうバンクシーを見ていると、希望がわいてくるし、Chim↑pomのようにバンクシーにインスパイアされた新しい世代の作家たちも現れてきています。


〈帝国〉アートの不幸とネオリベラルな美意識

 とはいえ、これはまだアート・シーン全体の中ではムーブメントにはなってないし、それどころかアートのメディアは、次の世代の若い作家たちの手をつかんで〈帝国〉の方へ連れてゆこうとしているかのように見えます。たとえば『美術手帖』という美術批評誌のこの1年間の特集記事をながめてみると、それが分かると思います。それは、「いまアートを買うということ」から始まって、「展覧会のつくりかた・アーティストになる基礎知識」「キュレーターという仕事」といった具合で、そこではアートのマネージメントや企画力、プレゼンテーションのノウハウなどが伝授され、「ファイルで売り込み、ギャラリーアクセスガイド」なんてのまであります。ほかに「新世代コレクター訪問」や「企業のアートコレクション」という記事もあります。これはギャラリーやバイヤー、コレクターやマーケットにとって扱いやすく、お行儀のよい、飼い慣らされたアートを涵養するディシプリンとしか思えないですね。村上隆以後の「〈帝国〉の美術へ」という流れをそこに感じざるを得ません。その背景として、この何年聞か続いている現代アートのバブル景気があります。簡単に云うと、欧米の現代アート作品が「安全なアセット・クラスとして認識され、世界の富裕層のセイフティ・ヘイブン」として買い尽くされた後、さらなる投資の対象を求めてグローバルな資金がアジアに流れてきた。それはまず中国からはじまり、次に韓国、台湾、そして日本という順番で、転売と価格の高騰を見込んだ投機が行われ、現代アートの若い作家たちの作品が青田買いされたわけです。「土地ころがし」ならぬ「芸術ころがし」です。もうピークは過ぎたようですが、「あのバブルよ、もう1度」式に、次のバブルにむけてマーケット向きのアートの在庫準備が進んでいる、なんだかそういう風にみえてしまいます。なので、反資本主義のアート、叛乱のアートということで云えば、日本の現代アートはこれから未来に向かってますます後進してゆくでしょう。あれほど岡本太郎がブームになったというのに、その思想はまったく無視されたようです。岡本太郎はかつてこう云っています。「売れる必要はないんだよ、芸術はね、見てもらえりゃいいんだよ。とにかく絵が商品になるってことは、芸術じゃないってことですよ。本当の芸術は商品じゃないこと。」
 作品を売ること自体は決して悪いことではありません。でも、それも相手次第です。作家なら自分が心血を注いでつくった作品を、1度買ったからには一生手放さないで持っていてほしい、死ぬまでずっと大事に持っていてほしいと願うはずです。しかし、いまは転売目的や富裕層の資産運用のための道具として作品が右から左に買われている。つまり作品が与える感動や美質とは別のところで売買が行われている、これは〈帝国〉の時代のアートの不幸だと思います。そして、こわいのは、ネオリベラリズム的な美意識の蔓延です。つまり「どんな作品でも、それが売れるものであればなんでもいい」「売れる作品こそすばらしい」というのがそれです。こうした流れのなかにあっては、あえて云うまでもないことを改めて云わなければならなくなります。それは「アートは商品ではない」「ARTIS NOT FOR SALE」ということです。こんなことを云わなければならない状況のことを「いたたまれない」とそう云っているわけです。かつてハンス・ハーケは「スケッチやドローイングは紙幣の発行と同じだ」とそう云いましたが、今ならさしずめ「Tシャツやポストカードは紙幣の発行と同じだ」というくらいの意識を持つ必要があるかもしれません。「〈帝国〉のアート」のことを考えると、だんだん気が滅入ってくるので、いったんアートから離れましょう。


「新たな反資本主義」の表現者たち

 反資本主義の表現ということでいえば、アーティストよりもアクティヴィストたちの表現活動の方がずっと先鋭的で豊かです。有名なところでは、カナダの「アドバスターズ」(http://adbusters.org/)がそうです。アドバスターズの過去のデザインワークをまとめた『デザインアナーキー』という本が刊行されていますが、この数年で最も刺激的で、見ごたえのあるコレクションです。またイギリスには、このアドバスターズに影響をうけた「ヴァキュームクリーナー」(http://www.thevacuumcleaner.co.uk/menu.html)や「叛乱の想像力研究所」(http://www.labofii.net/)といったアクティヴィストのグループがいます。彼らは「スターバックスの悪魔祓い」で知られるビリー神父のグループ(http://www.revbilly.com/)などとコラボレーションしながら、一貫して消費社会の問題に取り組んできたグループです。彼らはショッピングモールやスーパーマーケットを「消費の大聖堂」に見立て、そこで商品に対して集団で礼拝を捧げるというアクションや、金に汚れたNYのウォール街を電気掃除機で掃除するといった直接行動を、この数年来、精力的に行っています。こうしたアクションにはハイレッドセンターヨゼフ・ボイスとの親縁性を認めることができますが、それをとりあげるアート批評誌はありません。あと先日、日本でも公開された映画「インサイド/アウトサイド」(アンドレアス・ジョンセン監督 2005年)では、グラフィティ・ライターのKRなどと共に、フランスのゼウスや、アメリカのロン・イングリッシュなどの活動がとりあげられています。いずれもシチュアシオニスト的な手口で、大企業のビルボードや宣伝広告を書き換えてみせる反資本主義の表現者たちです。考えてみれば、作家を廃業した後は、ネットや映像を通じて、こうした〈帝国〉に抗する表現者たちの活動をずっと追いかけてきた気がします。〈帝国〉のもとへ自ら進んで包摂されいったアートよりもむしろ、資本主義の指令を甘んじて受け入れることをせず、資本主義の支配に対して「拒否」を表現し続けるアクティヴィストたちの「叛乱」の方がずっと面白いと思ったからです。バンクシーもふくめ、彼ら表現の場はストリートです。以後のストリートは、テロへの不安と他者への不寛容でますます排他的な空間になり、大企業の広告による都市の占領とジェントリフィケーションがどんどん進んでいます。ネグリは「アートは集団的な力の解放を通じて、僕らの存在を乗りこえるものをつくりだすものだ」と書いていますが、むしろいまその役を担っているのは、アート・マーケットに包摂された正規のアーティストではなく、その周辺やすでにその先にいる「非正規のアーティスト」や「新たな反資本主義」の表現者たちのように思えるのです。


「排除のアートを創作しない国際宣言」

 ここでひとつ日本のストリートの話をします。渋谷駅の246号線沿いの高架下に路上生活者の人たちの居住空間があったのですが、昨年、渋谷の町内会から委託をうけた「日本デザイナー学院」の教職員と学生たちがそこに壁描いてギャラリー化し、アートという名のもとに路上生活者の人たちをしめだすということが起きました。これに対してアーティストたちたちが声をあげ、小川てつオいちむらみさこ武盾一郎を中心に、この問題を問う「246表現者会議」が発足し、いま現在進行形で活動を続ています。この事件のことを最初に知ったときに思ったのは「アートは清掃事業の道具ではない」ということで、アートがジェントリフィケーションの道具に使われてしまったことに愕然としました。僕の表現の原点は岡本太郎の「芸術の3原則」です。「芸術はきれいであってはいけない、うまくあってはいけない、ここちよくあってはいけない」というあれです。それからすれば「アートはジェントリフィケーションの道具ではない」ということなど、改めて云うまでもないことなのですが、そんなことをあえて云わなければならない今の状況はやはりおかしいと云わざるを得ないですね。しかも本来それを云うべき役割であるはず美術批評がまったく機能していない。むしろアートがジェントリフィケーションの道具になってしまっていることに危機感を持っているのはアクティヴィストたちの方です。今年のはじめにヴァキュームクリーナーが起草した国際宣言があるのですが、僕が勝手に訳して、レイアウトしたものがここにあるので、それをみてください。(下図参照)

 通常の宣言文のフォーマットとは逆に「しないことに全力をあげて努力する」というところがいいですね。これはドゥルーズがしばしば言及する「しないですめば、ありがたい」というパートルビ一式の抵抗で、これは重要だと思います。というのも〈帝国〉が遍在化した状況にあっては、非物質的労働としてのアートもまた〈帝国〉の支配のもとに包摂されてゆく可能性があるわけで、そこでは、この「しないことのレジスタンス」が〈帝国〉からのエクソダスの鍵になると思うからです。実際、資本主義というのは本当にしたたかです。去年のことですが、カルヴァン・クライン社のシックな広告看板の上に、大量のピンクのインクが流れ落ちてきて、それがどんどん広がってゆくという事件が米国で起きました。それはグラフィティ・ライターのKRが広めた「ドリップ」という手法を彷彿させるもので、はじめはグラフィティ・ライターの仕業かと思われていたのですが、実はそれは「ドローガ5」という大手の広告店がしかけた別の広告だったのです。こんなふうに資本主義はアクティヴィズムの手法だろうがなんだろうが、それが使えると見れば何でも横領するわけです。他にもまだあります。スパイク・ジョーンズが監督したGAP社のテレビCMなのですが、そのCMではGAPの店員たちが、突然、気がふれたように店舗を破壊しはじめるのです。その様子は99年の夏、世界で最初の大規模な反グローバリゼーション行動の際に、各地でGAPの店舗が破壊された事件を想起させるものですが、最後まで見てゆくと、実はこれはGAPからの「店舗改装工事のお知らせ」だということが分かるのです。はじめてこれを見たときは、1本とられたと思いましたが、逆にこのCMをみて、「したたかさには、さらなるしたたかさを、そして、やられたときはやりかえし、ときには、やらずにすます」、そういう多様な「叛乱」を常に仕掛け続けてゆく戦いが必要だと痛感しました。ネグリは「アートは革命に先んじる」と書いてますが、現時点でのアートは〈帝国〉に完全に捕獲されていて、まったく革命に先んじてなどいないでしょう。それが何と呼ばれるものであるにせよ、結果として〈帝国〉に対する「叛乱」をなしとげたものが、次の時代のシーンをつくりだしていくと思います。そこにはアクティヴィズムもグラフィティもアートもなく、結果として最も見事に、そして最も美しい「叛乱」をつくりだしたものが、後からさかのぼって「アート」と呼ばれるのではないでしょうか。そのためには、いま・そこにある〈帝国〉の後に来る未来を予見し、それを先取りする政治が必要です。「もうひとつの世界」というかたちでそれを先取りし、内在的に生きようとしている反資本主義の表現者たちの方がむしろ、その点ではアートよりも1歩先を行っているように思います。とはいえアートにはアート固有の例外的な強みもあります。


芸術の経済の異例性とコモンアート

 『金と芸術:なぜアーティストは貧乏なのか?』(grambooks)という本をハンス・アビングが書いているのですが、読んで「これはおもしろいな」と思ったのは「芸術の経済の異例性」についての指摘です。たとえばアートの世界では、非商業的であることが尊ばれ、金銭のやりとりはできるだけ人目にふれないように行われます。たしかにレジを置いているギャラリーというのは見たことかありません。かたや作家たちは報酬を第一に考えず、その大多数が低収入・低所得のプレカリアートで、見返りを求めない無償の生産行為に日々従事しています。そして全体としてアートの経済をながめると、そこでは「寄付」や「助成」といった「ギフト」の占める割合がとびぬけて高い、なぜアーティストは貧乏なのか?といえば、それは芸術のなかに貧困があらかじめ組み込まれているからだ、というのがアビングの指摘する「芸術の経済の異例性」なのですが、見方を変えれば、この芸術のアノーマリーな経済は、反-資本主義的な経済シスデムであり、非-市場経済的なシステムです。別の云い方をすれば、芸術のなかにはグローバルな市場経済に対する「もうひとつの可能な経済」である「贈与経済=ギフトエコノミー」が組み込まれているわけです。まさにこれこそがアートの強みで、アートは自らの経済が持つこの異例性を公然と表現し、それを体現してみせることで、「もうひとつの可能な世界」のありかたを示すことができるはずなのです。アートの経済の異例性には〈帝国〉への「叛乱」の可能性が潜んでいるのです。しかしアビングが指摘するように、アートを「ビジネスとして考えるポストモダンな作家たちがこのまま増えてゆけば、この芸術の異例性は次第に減退し、無償の生産行為であるからこそアートが持つ、その尊さや魅力は魔法のように消え失せてしまうでしょう。そうなれば「ネオリベラルな美意識」が支配する「<帝国〉アート」の完成です。そうしないためには、アートを商品に「しないですませること」やアートを安全なアセット・クラスなどにさせない抵抗が必要です。それと平行して、「ギフトエコノミー」としてのアートにできることは「コモン」の創造です。資本主義の遍在化にともなって、コピーライトがますます強化され、資源や発明の私的所有化が進んでいます。ネグリが示唆するように、こうした〈帝国〉のシステムに対抗し、脱構築するのが「コモン」です。ギフトエコノミーから生まれるアートには、誰のものでもないが誰のものでもあり得る「コモン」になり得る条件がそろっています。アートがコピーライトの呪縛から自らを「コモン」として解放し、パブリックアートを超えるコモンアートと呼ばれるようなものになれば、そのときアートは「革命に先んじるもの」として、その輝きをふたたび取り戻しはじめるでしょうし、それを見た人が感動のあまり失禁するような、アート本来のあの魔法のような力をとりもどすかもしれません。


創造と表現にめざめたアクティヴィストとデモクラシーにめざめたアーティストが手をとりあうとき

 最近、エセキエル・アダモフスキが書いた本を翻訳(『まんが反資本主義入門明石書店)で読んだのですが、読んでとても興奮しました。この本でアダモフスキは、ネグリやホロウェイそしてサパティスタに影響を受けた00年代のアンチ・グローバリズム・ムーブメントの思考と実践をとてもわかりやすく紹介してくれているのですが、その本の中でアダモフスキは「伝統的左翼と新しい反資本主義の10の違い」という章を設けて、いわゆる「伝統的左翼」とは異なる、新しい「文化」を生きはじめている新しい世代のアクティヴィストたちの姿を生き生きと描き出しています。この両者の対比にはやや強引なところもあるのですが、ともあれ、アダモフスキが「新しい反資本主義」と呼ぶアクティヴィズムの文化に対して同世代的な共感と親近感を覚え、アクティヴィスムの文化がグローバル化しているのを強く感じました。僕らは1999年のシアトルから始まった「新しい反資本主義」の大きな流れのなかにいます。シアトル以前と以後のアクティヴィズムにおける大きな遠いのひとつは、アクティヴィストたちがこれまで以上に「創造と表現」に目覚めたことだと思います。たとえば、これまでのデモでは大勢の人間を動員することや現場での攻防に力点が置かれてきましたが、「新しい反資本主義」のアクティヴィズムでは、新しいデモのスタイルを創造することや、それを自分たちのメディアを使っていかに効果的に表現するかということに力点がシフトしてきているように思えます。パペット・ブロックやクラウンアーミーなどにそれが見られます。いまその実験が現在進行形で行われているところで、「創造と表現」はアートとアクティヴィズムが出会うプラットフォームです。そこではバンクシーのようなアクティヴィスト・アーティストが両者をつなぐ接点となるでしょう。一方、ストリートを表現の場とするアーティストのなかにも「直接行動のデモクラシー」に関心を持ち、「コモン」の表現を模索しはじめている作家たちもいます。「デモクラシー」と「コモン」がアートとアクティヴィズムをさらに結び付けてくれるでしょう。創造、表現、デモクラシー、コモン、どれも目新しいものではありませんが、それがいま新しく書き換えられようとしているように感じます。たとえ〈帝国〉に外部がないとしても、アノーマリーな境位というのが必ず存在します。マーケットから遠く離れて、アーティストとアクティヴィストが手をとりあうとき、そこに〈帝国〉への叛乱の起点となる「新たな反資本主義の表現者たち」の親密圈が出現すると、僕はそう思っています。