「差異」の差異──ドゥルーズとデリダ── 檜垣立哉

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1、差異という問題群

 ドゥルーズデリダとのあいだに差異線を引いてみたい。この両者には、60年代という時代をともに生き、それぞれの仕方で西洋哲学の伝統に忠実な道筋を辿りながら、そのロジックを意図的にひっくり返していくという点で、共通項がたくさんある。「差異」という、現代思想を語る上であまりに平凡でありふれた、だけれどもその内実や射程がけっしてクリアにされているとはいいがたい術語も、単純に考えれば、そうした共通項のひとつだろう。
 しかし同時に、この両者の思想の内容は、水と油のように背反している。ドゥルーズデリダのテクストを正面から論じることはなかったし、デリダにとってドゥルーズはいつまでも了解不能な存在にとどまるだろう。地理的にも、時代的にも、そして知的環境においても、あれほど近くに位置しながら、この両者の交錯を提示しようとするのは難しい。 60年代に原理的な著作をあらわし、その後ともに哲学のスタイルや語り方そのものを崩し去るように組み替えつづけ、ある意味で左翼的な政治性に加担する傾向をあらわにする点でもパラレルな存在でありながらも、この両者の軌跡は、実際にはほとんどすれ違うことはない。なぜか。
 私はこの問題を、最終的には、差異と〈無限〉という概念との繋がりにおいて、すなわち、かなり広域の哲学史的射程を背景に想定する仕方で考えてみたい。つまり、ドゥルーズデリダの思考の原理性において、その方向性の対比を浮き彫りにさせるという方法をとって論じてみたい(ようするに言説のスタイルや政治的な嗜好に両者の思想を解消しながら語るのではなく、両者の理論そのものを捉えてみたいのである。だからここでは、デリダについてもドゥルーズについても、さまざま意味で派手派手しさを増す70年代以降ではない、60年代の著作を中心に考察を進めてみる)。こうした試みは、デリダドゥルーズを巡る、それなりに可能なスコラ的詳細さをもった議論に入る〈手前〉で、この2つの思考の展開可能性を見いだすことにつながるだろう。この2つの思考は、控えめにいっても現在われわれにとって可能な物事の考え方の、2つの代表的なケースなのではないか。そうであるならば、なによりもまず、それらの思考が論じている事態そのものの差異を明確にすることが必要とされるのではないか。その際、デリダドゥルーズのどちらが正しいのか、という問いはまったく不毛であるだろう(この問いは、結局のところしばしば趣味の問題にしか落ち着かないものにもみえる)。問題は、この2つの思考がわれわれに差しだしてくる往き道をクリアに設定することではないか。この小論考が、そうした方向での提示に少しでも資する部分があればとおもう。
 さて、両者の共通項から述べよう。「差異」もそこにかかわっている。
 両者ともに、経緯は異なっているとはいえ、「差異」という術語を前面に押しだしながら考察を展開する点では共通する。「差異」とは、なによりも「同一性」に対するアンチテーゼとして意義をもつ術語であるにちがいない。そして「同一性」や、「同一的なもの」に支えられた「表象」をデリダドゥルーズが批判するのは、伝統的な思考が、こうしたかぎりでの「表象」を媒介として展開されてきたからにほかならない。「伝統的な」という形容詞の射程が、17世紀以来であるのか、ギリシヤ以来であるのか、これはいくつかの場面で揺れ動くだろう。しかし「差異」を論じることが、従来の思考に対する批判や突破口としての役割をもち、さらには自身の積極的な理論形成の中心になっているという事情は、両者においてほとんどかわらない。
 では、なぜ「同一性」や「表象」ではダメなのか。この点に関しても、両者はほぼ同様な議論の進め方をしているように読める。そこでの議論は「真理」という審級そのものに関わるだろう。「同一性」や「表象」を掲げる思考は、「真理」という場面を、それら自身の理念的展開がはらむある種のテロスとして保っている。それは哲学という営み自身が、どこかに書き込まれ、刷り込まれた解答を、何らかの仕方で見いだしていくものであるという発想と連関してもいるだろう。たとえ弁証法に依拠しても、純粋直観に依拠しても、還元に依拠しても、「表象」から逃れられない思考は、問いに決着をつけてくれるひとつの審級を想定してしまう。これに対して、存在するのは「差異」でしかない、と述べる思考の戦略は、「表象」を生みだす働きの方が、つまりどこか不調和で齟齬をきたし、それゆえにある決定的な収斂点をもたない力の働きの方が、すべてに先行していることを明らかにする。そこで「表象」とは、差異という働きによって結果として生みだされるものでしかない。だから「表象」は、なにかを論じるための根拠や拠点としては機能しなくなる。
 こうした共通性は、両者がともに「差異」を論じる文脈を、〈私〉という定点や〈現在〉という基準点を批判していく議論に絡ませることからも理解できる。「同一性」や「表象」、そしてそのテロスとしての「真理」への批判は、きまってそれが定位される〈私〉や〈現在〉の解体へと向かっていく。デリダドゥルーズも、自己同一的な中心としての〈私〉とは差異的な力の効果でしかなく、差異の働き自身はこうした自己同一性への回収から免れることをいつも強調する。また〈生ける現在〉なるものも、両者の論理構成において、二次的な役割しか演じえない。ドゥルーズは、『差異と反復』において、第1の時間の位相(第1の受動的綜合)として〈生ける現在〉を設定しはするが、有機的な統合性/身体の豊かな調和を指示するこの位相は、非−有機的な時間としての第3の時間によって乗り越えられていく仕組みになっている。未来の時間である第3の時間が、現在のもつ根拠としての性格を、その調和性に裂け目を入れるかたちで崩していくのである。デリダにおいては、〈生ける現在〉の拒絶は、はじめから明らかだろう。デリダが強調するのは、現在であることにはらまれる〈遅れ〉の方である。事後性( après-coup )という、直接的にはフロイトに由来する(「フロイトエクリチュールの舞台」『エクリチュールと差異』)概念が、デリダの時間の議論ではなによりも中心をなしている。現在とは、現在として捉えられたときに、すでに遅れをはらんでいる。現在が現在であることを述べるためには、そこに遅れとしてのある種の隙間を(差異を)見てとり、そうした隙間の側から語らなければならない。私たちが現在を生きるのは、実際にこうした遅れを被って、事後的にそれを現在として生きるからなのである。結局、ドゥルーズでもデリダでも、拠点となるような〈私〉や、それが定位される〈現在〉とは、その存立そのものが根拠としての役割を保ちえなくなっている。
 こうした方向性を設定しておいて、さらに両者の共通点を列挙することは容易であるだろう。差異への着目は、『差異と反復』の序文で提示されているように、まさに彼らの時代そのものを特徴づけている。ハイデガーの存在論的差異、ソシュール以来の記号論が導入してきた示差的な記号の存在様態、現代芸術や現代文学における差異と反復という問題系。それらへの個々の評価はともあれ、こうしたコンテクストは、両者の記述に深く影を落としている。ニーチェブランショアルトーカフカ、ジョイスなど、言及されるテクストも大きくかさなりあう。また数々のテーマ系も共有する。『差異と反復』の本文冒頭の数ページを見るだけでも、分身、交換不可能なもの、等価既を設定できない贈与、再開不可能性なもののパラドキシカルな再開である祝祭、つまりは普遍や一般に解消しえない特異なもの( singulier )の称揚、これらのテーマがきらびやかに展開されるのだが、それらはそのままデリダの主題であるといってもさほどの違和感はない。オリジナルなものが失われ、真理という定点を欠く現場で何か語りうるのかという方向性において、両者の言説が、すれすれまでに近接していることは認めなければならない。しかしながら、この両者の言説は、ある地点で決定的に噛みあわないだろう。それは何を意味するのか。
 すでに見てきたように、差異を語る両者の議論は、「同一性」や「表象」への批判として同様の方向性をもつものであった。それゆえこの両者において、差異とは、「表象」に回収できない異様な何かとしてしか記述されえない。だから差異とは、正当な意味で「怪物」( monstre )であり、「亡霊」(『声と現象』での記述にそくするならば、エクリチュールの現場ですでに死んでいる〈私〉)である。
 しかし問題はこの先にある。ドゥルーズ的な「表象」を食いちぎる「怪物」と、デリダ的な「表象」につきまといつづける「亡霊」とは、実のところ完全に別物である。この両者は、ともども「表象」の破綻を引き受けるが、その引き受け方がまったく逆なのである。
 それはどのように提示されるのか。ひとつ明快な解答は、両者の哲学史的背景に言及することであるだろう。ドゥルーズの差異概念は、ベルクソンの議論の吟味からとりだされている。つまりこの概念は、流れを強調する生の哲学が、固定された定点に自らを位置づけることを拒絶しながら、それらを生みだす生成の力に着目したことを展開させたものである。そこでドゥルーズが見いだすベルクソンの差異概念のポイントは、何をおいても、それが流れの内的な力とその現実化としての差異の働きを提示することである。だから、このラインでの差異の探求は、弁証法的な統合・矛盾・他性という概念に行き着くことなく、生成変化としての流れを記述しうることになる「 cf. 「ベルクソンにおける差異の概念」)。そして、このように展開されるドゥルーズの差異の概念には、流れにはらまれている微小な差異をきりわける微分( différentiel )と、流れにはらまれる差異が自己展開を遂げて姿をあらわす分化( différenciation )という2つの主題とが、緊密に連関する。ドゥルーズの差異とは、『差異と反復』での différent/ciation (微分/分化)という両義性を含ませた表記によってこそ、十分に表現しうるものなのである。ドゥルーズにおいて差異とは、未決定的な見えない力(潜在性)を示す微分という装置と、未決定的な力が現実化して姿を現す分化において描かれうるのである。未分化な質料として力をはらむ卵細胞が、さまざまな細胞や形態へと多様に生成していく光景が、ドゥルーズの差異概念の根底にある。
 他方、デリダの議論は、系譜的な事情からしてもこれと真っ向から対立する。デリダは、ベルクソンを中心とする生の哲学に対して(ある意味でそれを現象学的に受け継いだメルロ=ポンティに対しても)ほとんど積極的な評価を下すことはない。デリダが自己の議論を鍛え上げる素材は、それ自身生の哲学の素朴さを批判するフッサール現象学、そして(反メルロ=ポンティ的でもある──とりわけテクストの文言への固執という意味において──)その厳密なまでの〈読解〉である。さらに、こうしたデリダ現象学の読解には、絶対的な否定性や死の審級に言及することにおいて、随所にヘーゲルの影が見てとれる(『声と現象』第7章、「差延」論文、『フッサール現象学における発生の問題』序章)。デリダは結局のところ、現象学の理念もヘーゲルの絶対知の構想も解体するのだが、それはあくまでも、それらのテクストの読解を経ることによりなされている。そして、そこで提示されていくデリダの差異(つまりは、待機化( temporisation )と間隔化( espacement )として定式化される差延( différance ))とは、自己における自己ならざるものの必然的な介在、自己ならざるものへのあらかじめの回付、という他性や否定性のニュアンスが強く入り込んでいる。迂回させること、汚染させること、他へと差し向けること。デリダにおける差異概念は、同なるものが、つねに同ではない他を含みこみ、そこを回付することによってしか同が成立しえないというロジックを巡りつづける。だからそこで、差異とは、際限なく位置がずらされつづける彷徨のような言説の形態に到るだろう。
 この両者の対比については、現前という事態を巡って、つぎのように述べることもできる。デリダにおける議論の中心は、改めて論じるまでもなく、現前それ自身の存立不可能性の提示である。現前という生の場面は、いつも決定的に現前することのない何か、つまり生ける主体にとっての〈死〉とも語りうる何かに先立たれている。現前が純粋な現前としては存立しえない〈外〉を包括することが、デリダの議論の向かう先である。しかしドゥルーズにとっては、事情はまったく別だろう。たとえばドゥルーズは、『差異と反復』のなかでっぎのように述べている。「〈理念〉および学ぶことは……[意識ではない]無意識での現前化( presentation )を表現する( Différence et répétition, puf, p248 )。ここで〈理念〉や「学ぶこと」とは、ドゥルーズの存在論の中心的装置である、潜在的な多様体と連関した術語である。問題は、こうした多様体の存立が、「表象」という装置を内から崩すような役割を果たしていることにあるだろう。それは生成の力が、現在という定点を溢れかえるように吹き飛ばす場面を提示すること、つまり現在(見えるもの=現実性)が、自身が〈内〉に含み込む圧倒的な包括力(見えないもの=潜在性)によって、弾け飛ぶように崩壊する姿をあらわにするものである。デリダはこのような仕方での、生成の直接的な現前など認めることはないはずだ。
 これらをさしあたり、つぎのようにまとめることは可能だろう。すなわち「表象」の批判において、デリダが見いだしていたものは〈現前それ自身の不在と外への回付の構造〉である。それに対し、ドゥルーズがとりだすことは、むしろ〈溢れかえるような内の力が現前の場面に充ちること〉と描かれうる事態なのである。ドゥルーズが哲学に求めるものは、概念の新たな創造『哲学とは何か』)にほかならない。生成の奔出力を受けて、哲学者はつぎつぎと新たな言葉を破天荒に創造すればよい。だがデリダにとって、思考そのものが可能になるのは古い名( vieux nom )によってでしかない(『声と現象』)。何かを語りうるのは、すでに廃れ時代遅れになり、それ自身は異様な響きをもたらすような古語を復活させることによってでしかないのである。
 デリダドゥルーズのあいだに横たわる差異線は、いいかえれば「差異」の差異は、ここでさまざまなヴァリアントにおいて提出しうるだろう。〈不可能〉なもののリアリティー/〈過剰な実在〉を生産し続けるリアリティー、〈外〉の侵入と/溢れ出す〈内〉、〈取り戻しえない過去〉へのノスタルジー/〈予見不可能な未来〉への無根拠な信頼。それはさらに(60年代以降の展開も見据えるかたちで)、不在の法および不在の超越(拒絶しがたい否定神学的傾向)/法の不在および超越の不在(徹底した唯物論性)、他への正義/超越項なき友愛、これらの対比へと結びっけられうるだろう。これらに関しては、とりわけ両者のカフカの読解を例としてとりあげることは示唆的であるかもしれない。『掟の門前』を巡る、息の詰まるような到達しえない待機と彷徨の読解。それに対する、ポジティヴに産出をつづけていく文学機械の装置としてのカフカの諸作品の描出。
 しかし、列挙すれぼきりがないこれらの差異線については以上にとどめよう。ここから先は、これらの対比を生みだす原理を明らかにすること、そしてそのなかで、この「差異」の差異がもつ意味を思考すること、これがなされるべきである。


2 、差異と無限に関する議論

 そこで、無限という主題が重要なものにおもえてくる。デリダドゥルーズも、無限というテーマを、議論を詰める核心的な部分でもちだしてくるからである。
 その理由を見いだすことはさして困難ではない。無限という主題とは、17世紀以来の近代哲学が、それを巡って自己展開を遂げてきた問題系のひとつである。そして、有限者と無限者とのパラドキシカルな関係は、フーコーの言説(『言葉と物』第9章)を参照するまでもなく、近代から現代へという哲学のシーンの展開のなかで、その駆動力のような役割を演じてもいる。現代を代表するドゥルーズデリダの思考が、こうした問題系と関わらないはずもない。「表象」とは〈私〉がそれを生きるかぎり有限である。しかし流れる時間、存在する世界、語るべき事象は無限である。「表象」が捉え尽くそうとする無限の方は、「表象」には収まるはずもない。だから無限を思考することは、必然的に「表象」を突破させるような論理に繋がるだろう。すると「表象」を解体する差異の議論も、このような無限の議論と原理的な関わりをもつのではないか。そしてその関わりを見定めることによって、ここまで提示してきた「差異」の差異が、より明瞭になりはしないだろうか。
 デリダから見てみよう。『声と現象』の最後の部分(第7章後半)でデリダは、カント的な理念の無限性(イデア的なるもの)を、〈生ける現在〉に含む込み、基礎づけるというパラドキシカルな事態を巡りながら、差延というテーマに論及していく。これは差延に関して、もっとも原理的な記述のひとつであるように私にはおもえる。なぜならば、そこで描かれる、有限と無限、事実性と理念性との錯綜は、差延そのものの複合的な姿を示すようにみえるからである。この錯綜によって、〈生ける現在〉とは、「事実上」は「無限に差延化(待機化=間隔化)( La voix et le phénomène, puf, p.111 )されると論じられる。無限とのパラドキシカルな連関によって、根拠としての自己自身が引き裂かれるように拡大し、純粋な同一性(触発による直接的な接触)に差延の機制が刻み込まれることになる。絶対的な純粋性は、いつもイデア的なものと非−イデア的なものとの(超越論的なものと経験的なものとの)区別を前提とするが、「無限な差延」としての「現前」において、こうした区別はまさに無限にずらされ、無効化されていくのである。
 先にも述べたようにデリダは、無限にかかわるこうした問題系について、積極的無限を論じる点でヘーゲルの功績を重視する。そこでは無限を巡るヘーゲルのカント批判が、デリダ自身のフッサール批判に重なりあうと主張されもする。デリダは、ヘーゲルもまたそこに足をとられているとされる〈現前の形而上学〉の向こう側で、なおかつヘーゲルのカント批判をフッサールに適応するようにして、「無限な差延」を見いだしていく。では、そのような「無限の差延」においてデリダがとりだす事柄とはなにか。まさにそれは〈生ける現在〉である〈生〉が、無限に引き裂かれることによって、すでに深〈〈死〉にかかわっているという事情である。「ただ、私の死への連関こそが、現前の無限の差延を現れさせうるのである。それと同時に、私の死へのこの関係は、これを積極的無限のイデア性に対比するならば、有限な経験性の付帯性になる。無限な差延の現れは、それ自身有限である( ibid., p.114 )。
 〈無限の差延が有限であること〉、差延そのものである錯綜を提示するこの言明は、さしあたり差延が、有限と無限という区分では語りえないパラドックスを内包する事態であることを明らかにする。しかしこの錯綜が指し示すものは、あくまでも生とは別の場面への横滑りである。パラドックスの内包が向かうことは、その解消というよりも、もともとパラドックスであることの内実を形成するような、死という不在の審級の、生のただなかにおける不可避な機能を提示することなのである。つまりデリダは、ヘーゲルの述べる積極的無限という事情を反転させるかのように、現前における自己を欠いていることの必然性を、差延の錯綜の内容として提示する。「現前の無限の差延」というパラドキシカルな主題は、自己を痕跡としか語りえないような欠落の場面に向かうのである。
 他方、ドゥルーズはどうであろうか。『差異と反復』での「表象」批判の論脈において、〈無限〉というテーマの重要性はうたがいえない。『差異と反復』の第1章で展開される議論では、ヘーゲルライプニッツが、ともに〈無限〉という対象を深く思考しぬくことにより「表象」の存立そのものを揺るがしたことが、一定の評価を込めて論じられる。ヘーゲルは無限大、ライプニッツは無限小という対立する方向においてであるが、両者とも、〈無限〉を導入し「表象」を解体していく議論の先鞭をつけたと記述される。ドゥルーズは、そこで見いだされる「表象」のあり方を、有機的( organique )という言葉をもじったオルジック( orgique )なものと形容する。つまり緊密な連携をもった組織が酔いしれるように軸を失っていくニュアンスを込めて描いていくのである。最終的にドゥルーズは、この2つの思考を、ともに「表象」の枠組みから抜けだせないものとして(その枠内での2つの対照的な事例として)批判し距離をとる。とはいえドゥルーズの考えは、ある意味ではっきりとライプニッツに近い。ドゥルーズは、ヘーゲルの矛盾という思考を批判しながら、逆にライプニッツから見いだした副次的矛盾( vice-diction )や不共可能性( imcompossibilité )の概念に、自身の思考の展開を重ねあわせていく。なによりも、ドゥルーズにとっての差異が、一面において微分という含みをもつことを忘れてはならない。ドゥルーズライプニッツ的発想を枠組みにおいて批判しながら、未決定的なものが無限の裴に織り込まれているイメージそのものは、確かに利用していくのである。
 ここでもデリダドゥルーズの共通点と相違点とを記述することは困難ではない。彼らは、ヘーゲルライプニッツという、無限を思考し「表象」を揺るがせる発想を、差異を論じるためのスプリングボードのように見いだしていく。そして、それと同時に彼らの思考の不十分さ(「表象」へのとらわれ)を指摘し、そのアイデアを捉えなおしていくことにより、有限−無限という対立とは別種の語り方を探るのである。しかしもちろん、両者の着眼点はあくまで対照的である。デリダが注視するものは、無限大を論じるヘーゲルであり、そこでの積極的無限の自己への関わり(とそれが提示する否定性)である。ドゥルーズは、無限小を扱うライプニッツを、なによりも思考の素材として重視する。無限が裴に折り畳まれるように潜在する事情をドゥルーズは描きかえしていく(さらに述べれば、カントの位置も興味深い問題を提示するだろう。『声と現象』では、カント的〈理念〉への批判が現象学批判に繋げられるが、『差異と反復』では、カントの〈理念〉という装置は、潜在性の存在論を描きだすことにとって──ドゥルーズ流の超越論的経験論の構想において──奇妙に高い位置におかれっづけている。)。
 この方向性の違いは決定的である。ドゥルーズは、無限の現前というパラドキシカルな事情を、それ自身パラドックスであるような自己における他の組み込みによって論じていこうとはしない。無限が「表象」にたたき込まれることは不可能なことである。だからドゥルーズも、デリダといささか類似したニュアンスで、こうしたあり方を「解けない問い」と語りもするだろう。しかしドゥルーズは、こうした「解けない問い」をあくまでも肯定的に捉えていく。「解けないこと」そのものが肯定されなければならないのである。ドゥルーズの差異の思考は、むしろ否定性や他性を設定しないような仕方において、つまり否定も死も欠落も、肯定的な生成の充溢が振りまく影にすぎないようなものと論じることによって、有限−無限という配置を越えていく。それがドゥルーズにとって、強度である生成を語る仕方なのだともいえる。「表象」は解体されるが、それは「表象」が包括しえない無限を、内的な推進力として把握することである。だからそこで無限は、「表象」の細部に蠢くように宿りながら、溢れかえるように「表象」を崩し去るだろう。では、このような場面を、無限と有限という問題系に引き戻すのであれば、どのように描けるのか。
 それを具体的に論じるのは、『フーコー』の最終章、有限性と無限性の配置を巡り、未来の形成を思考していく部分だろう。そこでドゥルーズは、ニーチェの言葉を借りながら、人間における生の解放を描きだし、無限への上昇でもない、有限にとどまるのでもない(無際限の有限( fini-illimité )としての〈超襞〉について論じていく。無限を含意するこうした事態を、ドゥルーズは異様に無機質的なイメージを援用しながら提示する(それは、『差異と反復』における順序の時間としての第3の時間、『シネマ』における〈結晶〉としての〈時間−イマージュ〉の記述と直接結びっくだろう)。(生命体を構成する)炭素ではない(コンピューターや人工生命をおもわせる)シリコンの力、有機体ではない遺伝子的な要素の力、シニフィアンではない非文法性の力。つまりは、無際限の組み合わせによって無限の生成の力を発揮する、いたって唯物的に描かれる無機的なものの開在性がそこで記述されていくのである。ドゥルーズはこの意味で、(19世紀的な)生物学の(20世紀的で今世紀的な)分子生物学への展開をまさに肯定的に論じていく。それは有機的な生ける連関を解体し、神秘的な生命の力に言及することを退けながらも、単純な反復としての物理的なものへと回帰するのではない、唯物的な生命の力を見いだしていくような理路をたどるものである。それは無限に開かれた環境と、無限に進んでいく時間とを、連携するように自らの装置に組み込み、予見不可能に自らの姿を変容させ進化していく生命の産出力の肯定である。無限のパラドックスとは、この水準ではむしろ、「解けない問い」をまえに立ち止まるのではなく、それでも新たなかたちを産出し、先へ進むことの肯定的な駆動力として利用されている。ようするにドゥルーズも、「表象」の〈生ける〉根拠性を無限の含意によって破壊するのであるが、そこで見いだされるものは〈死〉の介在ではない。むしろある種の〈なまなましさ(生々しさ)〉を想定させるような、うごめく物質の力、その剥きだしの露呈とも述べるべきものなのである。


3、「差異」の差異は何を導くのか

 ここで、デリダドゥルーズの差異が明確になるだろう。両者ともに無限を〈無限と有限〉という対比とは別種の仕方で思考し、〈生ける現在〉にかかわる「表象」の磁場から逃れるが、逃れ去る方向性がまったく異なっているのである。スローガン的にいえば、デリダでは〈生〉ではない〈死〉の場面が、〈生〉における〈死〉のあらかじめの含意が重要である。エクリチュールとは、私の〈生〉が構成したものではないが、私の〈生〉を語るときにはすでにそこにある何かである。それは〈私〉にとって、到達不可能で知られえないが、そこで機能してしまう空虚である。ドゥルーズでは、〈生〉はむしろ「表象」という枠組みをはずされた、その剥きだしの姿で提示される。それは調和性をおもわせる〈生(生ける)〉という事態であるというよりは、齟齬や破綻を引き受けながら〈なまなましく(生々しく)〉うごめく物質の姿である。生命がパラドックスに直面して、素早く自己のDNAを組み替え、形態も機能もハイブリッドに(ある種のブリコラージュのように)変貌させていく生命の力がそこでの有効なモデルである。他性や絶対的な否定を〈外〉に含意することによってきわだつリアリティーと、剥きだしの肯定性によって〈内〉から溢れる強度のリアリティー、この差異の所在が問われている。
 問題は、この2つの語り方が、現時点でのわれわれの思考を規定する、2つの主題系に届き、なおかつそれを支える論理として機能しえていること、これを考えることではないだろうか。デリダの戦略は、まずはエクリチュールとしてのテクストの錯綜に向けられながら、後年とりわけ他者の他性そのものに、そして到達不可能な他に向けられた正義という論脈に、法や宗教的なものの原論的な位相に強く結びっいていく。それは、デリダの原理的な視線が非自己による自己の介在に向けられている以上、一貫した議論の進展であるだろう。他方ドゥルーズは、とりわけ晩年の『哲学とは何か』で、カオス、部分観測者、自己組織化などの主題にあからさまな興味を示し、自然的生命の能産力を論じることにますます接近していく。確かにドゥルーズも言語について論じてはいるか、それはあくまでも、自然が秩序を産出する創発的作用のひとつの位相としての言語である。ドゥルーズは、世界の解釈の無際限さのなかに入り込むことはない。
 こうした展開をいささか乱暴にまとめるならば、つぎのようにはいえないだろうか。すなわち、デリダドゥルーズのあいだに引かれる差異線とは、文化(人為)と自然(産出力)との差異線を、新たなかたちで定式化することに結びつくのではないか。デリダが論じていく方向は、エクリチュール・他者・正義(宗教)と、明らかに文化的な事態を、ある種の仕方ですくいとる方向性を示している。もちろんそれは、解釈の錯綜のなかを彷徨いつづけ、到達しえない他者の他性を反転させて描かれていく文化(人為)、根拠の不在としてしかその内実が提示されない文化(人為)である。人為的といっても、もちろん主体も意識も意志も(「人間」も)論じえないところで、しかし自然に対し無を穿ち、そこで露呈される不在の根源性を軸に、言語的力能や他者の力を、自然とは別種の秩序として見いだしていく可能性のことである。これに対し、ドゥルーズの示す方向性は、むしろ人間という視点にとって破天荒でもあるような、自然的能産力の放埓な力そのものを引きだし、人間もそこへと解消していくものである。そこで描かれる自然とははじめから、機械的反復のもとに存する自然、予見可能な自然ではない。むしろ進化がそうであるように、剥きだしの生命力であるような未決定性を突き進むカオスの自然と、その力能の率直な肯定であるだろう。理性に依拠しない、不在をバネにした〈文化〉の力と、非創造的反復ではない、自己産出し自己創出する〈自然〉の力。「表象」を無限の力で転覆したのちに提示されてくるものは、これら2つの像である。この二者を安易にクロスさせたり調和させたりすることなく、文化と自然という差異線の新しいかたちとして受け止めること。そしてそれが根拠なき今において与える示唆と拡がりとを考えること。デリダドゥルーズを読むという営為は、こうした仕方でこそ引き継がれていくべきではないか。

『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論(『ストリートの人類学』総括) その3  関根康正

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3 ストリートの2つの見方―デリダ的差異からドゥルーズ的差異へ

ここまで,(1)「冷酷さ」を漂わせる現代のストリートは,写真家の感性に人と街の分離として嗅ぎ取られる,二重に反転した後の姿をさらしていること,したがって,(2)その消去の消去という二重の屈折を意識した系譜学を意識化しないと現代のストリートには正しく接近できないこと,つまり,近代福祉国家的な生・政治と監視管理社会との二層を遡及しなければならないこと,を見てきた。こうして,上記の意味での精緻な考古学,系譜学を可能にするストリート民族誌が急ぎ必要であることが明らかになった。
 では,それを実践することで,一体どんな世界が見えてくるのであろうか。

一言で言うなら,それは〈臨床の知〉が導き出すだろう,新しいリハビリテーションの思想(久保田・宮井 2005)とでも言うべきものである。中村雄二郎は『臨床の知とは何か』でこう述べる。「実践はまた,すぐれて場所的,時間的なものである。われわれが各自,身を以てする実践は,真空のなかのような抽象的なところでおこなわれるのではなく,ある限定された場所において,限定された時間のなかでおこなわれるからである。まず,ある場所のなかでおこなわれるということは,実践が空間的,意味的な限定を受けているということである。先に述べた決断や選択にしても,それらがまったく自由に,なんら拘束されずにおこなわれるわけではない(受動的限定はそのままで拘束を意味しないし,それを作り出す制限に変えていくとき真面目な没頭というホイジンガの言う,文化より古い「遊び」として喝破された自由の場を用意する(ホイジンガ1973(1938)))。個別的な社会や地域のような,ある具体的な意味場のなかで,それからの限定を受けつつ,現実の接点を選び,現実を拓くのである。その上にさらに,時間的な限定を加えれば,実践は,歴史性をもった社会や地域のなかでのわれわれ人間の,現実との凝縮された出会いの行為だということになる」(中村1992: 70)。ここにも,明快に私たちが今まっとうなエスノグラフィーを求められていることが主張されている。中村は〈科学の知〉と〈臨床の知〉とを,表 1 に示すように対照する。この中村の言う臨床の知は,注 4 で示したように,人類学者川喜田二郎はもっと早くに『発想法』(川喜田1967)においてアブダクションを軸にした野外科学の提唱によって主張しており,同じ批判を〈科学の知〉に向けてきた。
 この〈臨床の知〉の方向性は,コネクショニズム(たとえば(戸田山・柴田・服部・美濃共編 2003))とも無関係ではないだろうし,創発性を重視するものである。つまり,実体と機能・意味との癒着を離れて,フローの過程や経路(ルート)重視の関係論の思想である。ギブソンアフォーダンスの思想(身体とは環境にある情報を知覚(探索・発見)するために組織された「知覚システム」,すなわち「基礎的定位」「視る」「聴く」「味わい・嗅ぐ」「接触」であるとの見方)も同じ志の思想であろう。主観―客観図式を脱する現象学的行為空間への視点の転換,すなわちメルロ=ポンティの肉と襞の思想(メルロ=ポンティ1982)も無縁ではあり得ないが,それをも超えて,むしろベルクソンを継承するドゥルーズ器官なき身体や平滑空間の思想に至らなければならないだろう。
 私は,同じ問題を〈都市的なるもの〉として考察した。アンリ・ルフェーブルが『都市革命』で指摘したように産業化(工業化)と都市化は根本的に異なる(ルフェーブル1974)。産業化の進展する都市は条理空間に覆われ,人が生きられる〈都市的なるもの〉はむしろ浸食され衰弱していく。前編著『〈都市的なるもの〉の現在』においては,すでにあったかもしれないもの,あるいは未生の〈都市的なるもの〉を,フーコーのヘテロトピアの概念を援用して考察した(関根2004b)。その思考の延長上に,平滑空間としてのストリートがくるわけであり,それは当然に条理空間的なホーム中心主義の固定的視点を根底から揺るがすものとなる。そして私たちの生にとって,幻想のホームではなくストリートこそに基底があると知る必要がある。
 この主張を根幹に持つ私自身の思考は,南アジア社会の農村と都市での多面的フィールドワークに支持された同じ問題に挑戦してきた波状的な思考の蓄積に由来するものである。その思索の中心点は,主流を形成する西洋近代化を含み込んだブラーマン的な「浄―不浄」イデオロギーと,そこに回収されない基底的な「ケガレ」イデオロギーの相克という実相に迫ったところにある。それはまさに遡及的に考え直せば,条理空間と平滑空間との間での,喰うか喰われるかの浸食と越境の相克であった。今はそれぞれの詳細の説明はできないが(それぞれの項で示す論文に直接当たっていただきたい),自らの研究史を辿ってみると,下記のようになり,各項目の前者が平滑的なもの(被差別的形姿をとった受動的イデオロギー)であり,後者が条理的なもの(主流文化としての支配的なイデオロギー)であることを指摘できる。言うまでもないが,前者と後者の関係は同じ盤上の二項対立でも反対概念でもない。前者は,後者の権力空間の縁辺に宿り,それを食い破る潜在性をもった「例外状態」に根拠をもつ脱支配イデオロギーである。こう見てくると,ストリートの人類学への志向は私の中で徐々に成熟し外化してきた,必然的な帰結に思われる。

  1. 南インド農村の村落空間について,「点で囲う風景」と「線で囲う風景」((関根1993a)参照)
  2. 南インド農村の住居空間について,「一口型住居」と「二口型住居」((関根1993b)参照)
  3. 南インド農村でのケガレ観念をめぐって,「ケガレ」と「不浄」((Sekine 1989, 2002; 関根1995; 関根・新谷2007)など参照)
  4. インド社会の宗教紛争と差別状況の理解と克服の理路に関して,「二者関係の差別」と「三者関係の差別」((関根2006)参照)
  5. 南インド都市のストリートにおける,「縁辺の歩道」と「中央の車道」((関根 2002, 2004b; Sekine 2006)など参照)
  6. 南アジア系移民社会に見るトランスナショナルな生活空間における,「知識資源」と「知識資本」(関根(2007b)参照)

 間違いなく,前者は,後者の近代ないしその徹底としてのポスト近代の作る一元化の方向性を有する強制的秩序を,他者性を含む生の雑多さ,模倣と創造の融合といった下からの思考によって攪乱するものである。後者は前者からその生き血を吸い上げ支配イデオロギー構築の枯渇しないエネルギー源にしていること,他方,前者は後者の疾走する支配イデオロギーの力を一貫性など無視して流用し続けること以外に生き延びられないものであること。そうであるが,前者には生の深み,自然と人間を貫通する生命ゾーエーに届く深みがある。両者の現実の流用関係もその基底なしには始まらない。「不浄」価値の産出も,「ケガレ」の創造性の基底にあるケガレという境界事象なしにはあり得ないということである。
 その意味であくまでの前者の平滑空間的世界が 「生の流れ」の現実の基底であること,これが視点の根本的転換を示唆している。脳と身体機能のツリー的トップダウンの命令関係思考の支配された近代医学の医療的構えに対して,身体部位の機能と脳とのつながりの過程を重視するボトムアップリハビリテーションの思想(脳梗塞で半身不随になっても,不随になった手足を動かし刺激することで脳はバイパスの神経系統を構築していくという,それは同時並行的に相乗効果的に進む)が革新性をもつし,それは考えてみれば当たり前の生や身体の現実なのであった。
 こうしてストリートを考えることは,単に歩く者の眼になるとか,ボトムアップの視点をとるとかだけでなく,その要点はプロセス中心のフローやコネクションの思考に視点を据える構えへの転換のことである。言い替えれば,等身大の人間は特定の時空に限定されながら生きられていることに即応する視点の獲得である。認識中心ではなく身体の動作の側から世界が把握される動態的で生成的な事態である。ストリートは物理的にそこにあるように認識できる。普通はそう思っている。しかし,そうだろうか。そこにストリートがあるのだろうか。そうではないだろう。それをたどって歩かなければストリートにならない。歩く行為がストリートをその都度構築する。「潜在的なものは可能的なものではない」というドゥルーズの言葉は,そういう意味である。ローカルなものも,ストリートと同値できるとしたが,同じことが言える,それはすでに触れたようにアパドゥライの言うとおり,ローカリティは歴史的にコンテクスト化されながら産出されつづけたものである。
 このようなジグザグの思考の経緯を経て,私は「『ストリートの人類学』の提唱」へと向かった。ここに至る議論の主要な理論的基盤は,ケガレ研究である。先にも述べたが,私は以前から,ケガレ現象をめぐって,「不浄」と「ケガレ」との区別の重要性,それは同じ世界平面の二項対立的区別ではなくイデオロギー的な根本的差異(世界のものの見え方,世界平面そのものの差異)であることも繰り返し強調してきた。しかし今,1つの大きな反省に行き当たった。この反省はストリートの人類学において不可避であるので,ここにその変節を正直に記す。この転向ないし改宗以前に書かれた研究会の目標を整理したものが「『ストリートの人類学』の提唱」であり,本書の序論にふさわしいので再録したが,そこでのホームレスへの眼差しの記述はデリダ的な思考を抜けていないものであるが,あえて変更せずにそのままにした。というのは,私としては恥をさらすようなものだが,序論のその部分と総括のこの部分との落差をとどめる方が,誰にもその変節の意義と同時にその困難さをむしろ確かめられ,また共有できると考えたからである。私自身記憶にとどめたいし,その変節の過程を他の人とも議論したいから,上塗りしてしまってその材料を消去したくないのである。死への恐怖を滔々たる生の流れの中に微分してしまえると,簡単には私には言えないできた。しかしそこに留まっていては,やはり中途の思考と言わざるを得ない。だから,背中を押されるように転回に向けて踏み出す。
 それは,私のケガレ論そのものの中心点をゆるがすものではないが,説明過程の一定の変更を要請する。その問題の要点は他者の概念の考え方に関わる。端的に言うならば他者は死に由来するか,生に由来するかという相違に起因する問題に漂着している。これは,目下のところ,デリダ的差異とドゥルーズ的差異との相違問題を梃子にして展望を得ている。というのも,私自身がこの問題に正面から向き合わなければならないと心底気づかされたのはドゥルーズとガタリ(特に,『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』)の読書によってである。以前から,畏友小田亮は,その点を関根は「死を特権化している」と指摘批判してくれていた。その指摘は,ずっと深く受けとめていたのだが,私の中でうまく消化できない問いとして有り続けた。しかし,ようやく見通しが見えてきた。それは,自分のケガレ論の変更ではない。そのフィールドから立ち上がってきたケガレ論の意味するところの理解が今1歩自分の中で深化したということである。多少強弁であるが。
 ケガレ現象が既成秩序の切断による混乱・無秩序の到来であることは間違いない。生の秩序をまさに断ち切る死という出来事が残された生ある者に他界という深淵を覗かせることも疑いない。ケガレ現象のこの否定的傾きは強烈なものであり,それがケガレ現象を否定的「不浄」に傾かせてきた理由でもある。しかしもう1度広く考えてみよう。南インドの村での誕生のケガレの重要性は死のケガレに劣らない迫力を持っている。初潮のケガレも強烈であり,盛大な儀礼が挙行させる。これらは生の推進,生の増大に向かう切断である。ケガレ現象が既成秩序の切断による混乱・無秩序の到来であることという規定を変える必要は全くない。フィールドの記述データは変わらないのだが,改めて考えるべきことは生の増進的切断を私自身が過小評価していた傾きがある点である。他者の極北として,生を越えたものとして死の世界を想定してしまっていた。これはこれでフィールドの死のケガレの実感をもちろん伝えはしている。しかしこれではやはり「不浄」寄りの解釈の尾っぽが切れきれていないというのが,反省点なのである。ケガレ現象が「ケガレ」に向かうベクトルを確かに力強く持っているとフィールドから把握し,それを表現するために「ケガレ」という生成,誕生の志向性を強調したのは私自身であったのに。自分自身が述べていることを,自分が十分に聞き取れていなかったということになる。広く流通している「死と再生」のパラダイムに私の思考が多少なりとも飲み込まれていて,うまく克服できていなかったことは否定しがたい,反省点である。
 未亡人の火葬場での死が,突如して聖女に転換再生することを,サティー習俗における支配的カーストの恣意的解釈の一般化として批判的に指摘していたのに(Sekine 1989; 1999),私自身が人間一般の次元での生と死との関係性において同じ恣意性ととられる議論の運び方をしなかったとは言い切れないからである。私自身の自覚としてはそうした恣意性は脱していると考えて議論していたが,死に対する見方のなかに私の限界が侵入していた。死を大きな滔々たる生の流れの中の微分として見る視野が弱かった。それ故に死は絶対的他者として立ち現れた。この見方は全体的な生の流れという見方に立てば成り立たない。そういえば,村人は後者の見方を私に教えてもいてくれた。たとえば3歳で子供が死んだとき,その子の担ってきたカルマがそこで消尽しきったためであり,それは成就というめでたい出来事であり,カルマを生き尽くしたこの子供は天国に直行していると言うのだ。これは納得できない子供の死への救済的説得という機能はもちろんあるが,それを超えて,ヒンドゥー的イデオロギーの解釈であることもさらに超えて,滔々たる生の流れという見方に触れているものと,今思い返す。子供の死の悲しみは耐え難いほど深い。しかしなおその死を飲み込んで流れる生命の滔々たる流れに身を任せている人間たち,いや生物たちが観相されているのだ。徹底的に生成的に考える。これは私がドゥルーズとガタリに打ちのめされるように学んだことである。なぜこれほど彼らの考え方がリアリティをもって今の私の中に流れ込んで来るのか,自分でも驚いている。これは宗教を信じるような信仰でもないが,科学的立証も不可能な次元の影響力である。要するに,そのように考えることが健全であり,無理な恣意性が低く,そして私たちが直面している現実に対して生産的であるからだ。まさにアブダクションである。そういう思考が彼らと共有できるのである。そこにある種の確信が生まれる実感がある。このようにじっと考え直してみると,自らが提示したケガレ現象から「ケガレ」へのベクトルは,潜在的な滔々とした生の流れ,ドゥルーズの言う器官なき身体からの差異化(ベルクソンならば意識・生命の物質化)と見なすことが,素直に可能と思われる。私自身,イデオロギー的差異だと明確に喝破していたのだけれでも,否定性の色濃い「浄−不浄」イデオロギーと決別する「ケガレ」イデオロギーの堂々たる自己主張の基盤を十分に把握し切れていなかったうらみがあった。
  しかし,今や明らかである。潜在性の生の流れの見方からは,死は,流れにはらまれた微小な差異ないし微分 differentiel であり,それが自己展開を遂げる分化 differenciation が,新たな誕生の形姿ということになろう。

 この反省は何を私のもたらしたかというと,他者の有り様の変更であり,境界の理解の劇的な変更である。このような反省に私を向かわせるのは,それが私の目指す〈地続き〉の人類学により直截に接近できるからである。確かに健康的で開かれていて生産的な思考である。
 社会的空間の縁辺という境界の理解の仕方を,他者としての死から,自己かつ他者としての生の流れへと変更することで,ホーム住人とホームレスとは連続的,相対的な差異でしかないと明瞭に言えることになる。両者の間に死にゆく者としての共同性とそこから見た落差(死ににくさの差異)は依然あるとしても,生ある者としての共同性の方がその底に厚く存在し地続きの基盤になるのである。そこでは,死にやすさ,死ににくさの差異は,生の流れのわずかな分岐の差異となるのである。ホームレスをホームの目から死の隠喩でみるような迂回を経るまでもなく,両者の間には,生の流れにはらまれた微分と分化の相対的ズレであるだけの相違しかないことになる。支配システムの作動する空間が縁辺という出来事の場所を作るのだから,この死の隠喩という否定性をくぐった見方が不在だと言っているわけではない。むしろ,死の隠喩に寄り添いすぎることは,結果的に支配イデオロギーと共犯関係に接近することになりかねない。だからむしろ,(生への転換を噛ませなければならない)死の隠喩よりも,生の提喩に直接言及する説明の方がよりまっすぐと生の増大を指向する「ケガレ」イデオロギーの本意を表現できることになる。ずいぶんと回り道をした後に,ドゥルーズの反弁証法的思考の力を借りて,自らのケガレ理論の真意の表現により接近したのかも知れないと,今は思っている。
 檜垣立哉は,2001 年度の日本現象学会第 23 回研究大会シンポジウム「今日のフランス現象学」において「『差異』の差異──ドゥルーズとデリダ」という意欲的な口頭発表を行っている(檜垣2001)。その中で,デリダドゥルーズの「差異」の差異を,表2に示すようなヴァリアントで表現し対比している。
 議論の結論部分で檜垣は、2人の間に見られる〈「差異」の差異は何を導くか〉と題して,次のようにまとめる。
 「スローガン的にいえば,デリダでは〈生〉ではない〈死〉の場面が,〈生〉における〈死〉のあらかじめの含意が重要である。エクリチュールとは,私の〈生〉が構成したものではないが,私の〈生〉を語るときにはすでにそこにある何かである。それは〈私〉にとって,到達不可能で知られえないが,そこで機能してしまう空虚である。ドゥルーズでは,〈生〉はむしろ「表象」という枠組みをはずされた,その剥きだしの姿で提示される。それは調和性をおもわせる〈生(生ける)〉という事態であるというよりは,齟齬や破綻を引き受けながら〈なまなましく(生々しく)〉うごめく物質の姿である。生命がパラドックスに直面して,素早く自己の DNA を組み替え,形態も機能もハイブリッドに(ある種のブリコラージュのように)変貌させていく生命の力がそこでの有効なモデルである。他性や絶対的な否定を〈外〉に含意することによってきわだつリアリティと,剥きだしの肯定性によって〈内〉から溢れる強度のリアリティ,この差異の所在が問われている。問題は,この2つの語り方が,現時点でのわれわれの思考を規定する,2 つの主題系に届き,なおかつそれを支える論理として機能しえていること,これを考えることではないだろうか。〈中略〉こうした展開をいささか乱暴にまとめるならば,つぎのようにはいえないだろうか。すなわち,デリダドゥルーズのあいだに引かれる差異線とは,文化(人為)と自然(産出力)との差異線を,新たなかたちで定式化することに結びつくのではないか。」
 この檜垣の論に従えば,現前の形而上学/同一性の政治学の乗り越えのために,デリダドゥルーズは2つの異なるベクトルを生ききった2人だということになる。この2つのベクトルは,共に簡単にまとめあげられるようなものではないだろうが,そこに真摯に学ぶべきものがあることだけは間違いない。これは,私たちが生きている現実に立ち向かうときに抱えこまらざるをえない,挑戦的思考の2様相なのではないかと,私にも思われる。
 そうであるが,ここで檜垣の論を引いた理由は,すなわち私自身のケガレ論の再解釈の提示を通じてここで示したかったことは,デリダ的なものからドゥルーズ的なものへと思考様式の重心を移していくことが,ストリートの内在的理解には不可避であろうということである。というのは,デリダ的な見方がホーム権力の思考方法を根底から覆すというよりは原エクリチュールという空虚の存在(到達不可能性)を支えにした脱構築によって差異の場所をずらし続ける逃走的抵抗の形になっているのに対して,ドゥルーズ的な見方はもっとストレートに思考方法の転換によって形而上学の窮状を乗り越えようとしている革新性があり,例外化された「ストリート」の生を描き出す視点転換がそこに見て取れるからである。もっとはっきり言うならば,デリダ的見方では,すなわち主張される「〈外〉の侵入」という見方には,「〈内〉中心主義」の視点が実はへばりついていて,その意図に反して支配イデオロギーと共犯的になってしまって,それを遅延させることはできても根本的には相対化できないことになる(ネグリらのデリダ批判はこの点に触れている(ネグリ/ハート2003; 2005))。逆に,一見脳天気にも見えるドゥルーズの主張「溢れ出す〈内〉」は,その外見に反してきわめてラディカルな支配イデオロギーの逸脱ないし思想的凌駕になっている点が,注目されるのである*1
 これがケガレ論の説明の仕方の転向の理由と経緯であり,ドゥルーズ的転回と呼ぶべき,この反省なしには私自身がストリートの人類学へとうまく歩を進めることができないと感じたのである。檜垣がドゥルーズの差異として取り出した表2に示される6つの特徴と1つの事例は,そのままストリートという場の様相を構成するだろう。これは画期的なことである。社会空間の縁辺という押し込まれた場所,主流社会からみれば劣等で受動的な場所と見えるところに,階層的思考の枠組みが外され,主流と縁辺の間に変わらぬ生の微分と分化を認めるのである。そこでは社会的に押し込まれた受動性を刻印されながらも,しかしその生の営みの本質においては主流も縁辺もなく,そうした差異を横断する滔々たる生の流れがあるだけである。これは,私自身,『ケガレの人類学』において,フィールドワークから実証的に論じた不可蝕民の文化の様態についての結論と,実は全く同じ主張なのであった。
 ドゥルーズは,あたかもストリートの人類学の実践者のように,こう言い切る。「最も条理化された都市さえも平滑空間を出現させるのだ」(ドゥルーズ/ガタリ1994(1980): 556)。さらには,相互に入り組んだ平滑空間と条理空間の説明を重ね書きのように説明する下りでの1節で,「真の遊牧民……彼らは動かない。動かないことによって,移住しないことによって,1 つの平滑空間を保持し,」(ドゥルーズ/ガタリ1994(1980): 538)と,ドゥルーズは喝破する。本書の関根論文で記述されている,歩道空間上に建設され維持される底辺に生きる人々の活動の中核を射抜くような驚異的な指摘の言葉である。だからもちろん,私はこの警句をストリート論の中枢に置くことにする。小田亮はすでに研究会での発表(小田 2004)において,このフレーズに触れ,そこにバトラーとイリガライの攪乱し生産する模倣を経由して愛撫という浸透的変容(移動しない移動変化)に触れていた。表面的な移動と定住の差は本質的ではないことになり,定住の中に移動が,移動の中に定住が浸透しうるのである。平滑的だった場所が都市計画という条理化が進行してストリートが建造されると,今度はそこに平滑化が始まるのである。
 ヘンリー・ダーガーという死後に作家ないし画家として発見された人物は,大都市シカゴの一角で 1 個の驚異的な人生を生き抜いた(マグレガー2000)。掃除夫として働いた病院と教会と自分の部屋を往復するだけの生活の中で長大な小説と膨大な数の挿絵を残した。彼の部屋にはベッドがなかったという。彼の精神世界はドゥルーズ的な意味でノマドであったに違いない。主流社会から見れば彼の圧倒的に受動的な社会的弱者の生活スタイルをとった場で,彼が生きた世界は想像を絶する豊穣さと生産性を生み出していたのである。条理空間の片隅でそこから圧倒的に浸透し踏み越える膨大な平滑空間が構築されていたわけである。移動しない旅の実践者が現にいた。ストリートの聖人のように。この聖人の死後,この大きな「穴ぼこ」「空隙」の縁に中をのぞき込む人が集まるように彼の残した小説と絵画の周りに人が集まり,一種の創発的共同性が誕生する。今や彼の生涯は映画になり,彼の小説は挿絵とともに世界を旅している。それは条理空間に閉塞感を覚えた人々の魂に語りかける出来事を生み出し続ける。ストリートの風,平滑空間の風,プラトーの風を人々に吹き込む。
 ストリートは、2つの見方を背負い込んでいる。1つは,支配的な主流社会の条理化のまなざしが見出す悲惨で劣等な縁辺である。これは再帰的な脱構築の中で,デリダ的な差異において生き延びる面もあろう。しかしそれだけではない。それだけでは人はそこに生きられない。もう 1 つは,縁辺を真に内在的に了解したときに見えてくる,ドゥルーズ的な差異の示唆するところの,主流と縁辺といった条理空間的区別・意味づけが実質的に無効化するような,平滑化を基本とする生の流れに則った見方である。
 ネオリベラリズムに抗するには,後者の見方が不可欠であることは,もうこれ以上繰り返す必要はないであろう。ストリートからの共同性の渦を作り出すことが,求められている。研究会での発表や論文を通じて知った,小馬徹の紹介するシェン語の創出のたくましさにも,鈴木裕之の示すストリートボーイの活力にも驚かされ,ストリート・ノレッジの生々しい展開に勇気づけられた。研究会での松田素二のストリートでの暴力の様相の腑分けと共同性の創発もこうした研究と接点をもつだろう。
 私自身のフィールドであるインドからは少し違った雰囲気ながら,別の意味でのしぶとさが見られた。何度も紹介した事例であるが,チェンナイ市のある歩道寺院の持ち主の女性は,父親の作った小さな寺院のある大通りの歩道で生まれた。70歳を超える彼女は路上を家としてその1地点で生涯を過ごす。大通りの流動の力(多くの患者が通う大病院の目の前に位置することも効果的な立地選択である)を賽銭や寄付という形で寺院に取り込んで生き抜いてきた。自己資本なしにでも身の回りの使える環境条件や社会文化的ハビトゥス*2を駆使しての流用によって,自己が生き延びるためのある種の共同性の渦を歩道寺院のまわりに努力して創出してきたのである。この5年間の間にこの家族は立ち退き命令に抗する裁判もやり抜いて今やトタン屋根の小屋まで作ってしまった(2008 年の観察)。歩道占拠者がその端をさらに歩道に分割する。そうすれば,占拠している部分は自分の敷地のようになる。6mくらいの幅が広い歩道なので専有面積は約60平米を超えていようか。今や,そこに歩道寺院と住まいとしての小屋が堂々と建っているのである。あの6年前に初めて見たときの,アル中の息子に絶望して彼の嫁が自殺した直後の,いかにも悲しげな青いビニールシートの掛け小屋の心許なさはもうない。驚嘆すべきたくましさである。この家族はこの路上に住んで4世代から5世代に入ろうとしている。世代を継いでの1個1個の人生をかけた条理化と平滑化の入り組みの軌道である。ストリートの流動の中に擦れ合うわずかの力をかき集めての共同性の渦を起こし生活の定点を構築する,たゆまぬ努力の人生であった。彼女の孫も路上でもう結婚の年齢に達しつつある。
 フーコーのヘテロピアの説明において究極の事例として示される大海原を渡る船のことが頭をよぎる。この点で,本書では海が支配的な空間に浮かぶ島社会を扱った棚橋訓の論文は,ストリートとしてのストリームをめぐって平滑空間と条理空間の間,ないし島の内部秩序と外部との間の関係付けの文化的マナーを「海続き」と捉え,その見方の内に起きてきた変遷(複視の減衰)を辿ってくれて貴重である。また,松本論文も,海に生きる今日の海峡民たちが,海域をめぐって「上からの眼差し」とは相容れない「下からの眼差し」を保有すること,その眼差しによる翻訳・交渉・抵抗が生きられていることを繊細に描写する。すなわち両論文共に圧倒する条理化する力の中においても平滑の空間を穿つ光景の所在を示唆してくれている。
 とにもかくにも,平滑空間の典型としての海にも条理化の力は働くが,その先でさらなる平滑化が起こる。そんな光景が,雑踏の路上の歩道寺院の向こう側にも見えてくる気がする。果たして,このストリートの達人たちを前にして,私たちは何を思うべきか。もはや他人事でないことだけは確かである。その切迫感をもって,志は異なるわけではないだろうが,本来のものより薄められた流行のカルチュラル・スタディーズの民族誌レベル(日常生活の場の全体記述ではなくサブカルチャーに絞って焦点化してしまう傾向)にとどまらずに*3,社会文化ハビトゥスの襞に分け入るような,全体論的なまっとうなエスノグラフィーの記述に向かうのが,私たち人類学者の役目ではないだろうか。
 とにかく,ホームを有する者も,その幻想に浸っている者も,「ストリート独裁」という問題を真剣に考えることを余儀なくされている時代が到来していることは間違いない。私の定義での意味での縁辺を繋いでいくストリートは,戦術的努力と偶然とともに生起する共同性の渦という〈場所 place〉を創出するだろう。しかし,それは本質化できるような条理的な場所ではなく,平滑化と条理化とのせめぎ合いの中に生まれる渦として存在するのである。アパドゥライならばローカルなハビトゥスという社会文化的ソフトウェアを基盤にして文脈化の中で生成する動的な「近隣」というその都度のハードウェアとして,場所を説明するだろう。
 人は生きる場としてなんらかの〈場所〉を必要としそれを求めるが,それを統一性や本質化の前提を持つものにしないという抑制の効いた機制のなかで獲得するという,微妙な「ストリート独裁」の意義を常に噛みしめつつ,流動だけの過剰なネオリベラリズムの破壊力にへばりつき逆手にとって,上記の意味での 〈場所〉の空隙 (メディオロジーにおける「媒介する行為」の意のメディアシオンさらにはトランスミッションの「物象化された組織」,またドゥルーズならば非──コミュニケーションの空洞や断絶器と呼ぶもの)を切り出すことが大事なのである*4。これを,いつか辿り着けばいい「哲学的な理想論」として述べているではなく,私たちが必ずや緊急に進まなければならない,新たな分裂的な階層社会化に抗する,他者を犠牲にしない方向に進む唯一の現実的な道として記しているのである。その意味で人類学は実学である。ストリートの聖人や達人だけがしていれば良いというような生き方ではない。ストリートで辛うじて生きているように見える人たちの場所感覚を哀れんだり,疎んだりしている暇はもうない。その気構えと身のこなしを真摯に学び,我がものにしていく努力が皆に求められる。
 「ストリートとは疲れるところだ」と,『ストリートの歌』を著した鈴木裕之は研究会でいみじくも語った。そのストリートの緊張と強度は,現代のネオリベラリズムの主流社会が人の固有の生を殺すほどに疲れさせるものであることとポジとネガでバランスしているに違いない。松田素二はそのバランスの現状を,ストリートで勃発する暴力の質を腑分けしていくことで明らかにしようとする。松田によると,ネオリベラリズム状況の進行下で,国家を下敷きにした暴力が圧倒する中にも,これまでの民族化ないし伝統化という戦術による攪乱・抵抗とはまた異なる,スラムという生活場を基礎にした新しい形の共同性の創発を兆候として見届けられるとする。近年の都市暴動の様相は楽観を許されない緊張の走るものであるが,それが秘める可能性を見据えようとしている。
 問題は切り立ち,道は険しいけれど,現実の巨大な矛盾の上に,それを承知で望むことは,ここで検討してきたストリート性が指し示すような,近代を脱臼させるような生き方の構えが一般化し,やがては,このままなら人類全体を疲弊させていくだろうネオリベラリズムの奔流自体が適正化していくことである。そうなれば,私たちはストリートをもっとおおらかに語ることができよう。いや,そこでは,もう「ストリートの人類学」は緊急の課題ではなくなっているはずだ。私は人類学を実学と考えているので,実学の学問とは自己の意義の消失をもって生命を終える,そういうものでよいのだと思っている。そういう日が来るといいのだが。


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*1:ここに示したデリダドゥルーズとの思考の差異は,ベンヤミンの「神的」暴力に対するデリダの否定的な評価とアガンベンの肯定的評価の差異に繰り返され変奏される(檜垣2006:191–192)。

*2:調査のたびにチェンナイで最大のカパーリースワラ(シヴァ)寺院を挨拶代わりに訪問する。寺院は裸足でないと入れない。何度歩いただろうか,この足裏の感触がここの人々の厚い信仰心を何よりも証明する。人の素足が本当に少しずつ石畳に刻みつけた長い年月の床のなめらかさ,その感触こそはハビトゥスの物的証明ではないだろうか,と感動するのだ。この宗教ハビトゥスが歩道寺院の存立を支えている。

*3:小田亮は,本来のカルチュラル・スタディーズの誕生とその後の足取りを辿りながら,文化人類学との交差のポイントを取りだし,民族誌的方法による「変容を促すローカルな文化の創造」注目することによる共闘の可能性を示唆する(小田 2003; 2006)。

*4:この意味での〈場所〉について,重要な哲学者を総動員して集中的に議論している仕事に(Casey 1997)がある。

『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論(『ストリートの人類学』総括) その2  関根康正

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2 「管理社会」化の中のストリートとそのエスノグラフィーに向けて

 ネオリベラリズムは,ドゥルーズの言う管理型権力の社会に対応する(ドゥルーズ 1992。ドゥルーズによれば権力には君主型,規律型,管理型の3つの形態があり,現代はフーコー的な生・政治の規律型の権力社会から管理型の権力社会に移行してきているとする。本書では加藤政洋論文がこの移行を集中的に扱っているので,参照願いたいが,ここでは樫村のコンパクトな説明を便宜上引かせていただく。「仏哲学者ドゥルーズは,社会が『規律社会(均一な労働者や主体を,国家が責任をもって育成する社会)』から 『管理社会(主体の育成を放棄し,少数のエリートのみを必要とする。その上で 「多数となるコンマ以下の主体」を,テクノロジーを駆使した警察権力によって監視して統治する社会)』へと移行していることを指摘する。……『管理型』は『コミュニケーション』を操る権力で,言語や想像力をも支配しようとする。『管理社会は監禁によって機能するのではなく,不断の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている』。ドゥルーズは,瞬時しか存在しない『コミュニケーション』と,長期的時間をもつ『創造』を対立させ,管理を逃れるために『非=コミュニケーション』的な空洞や断続器を作り上げる必要があると指摘する」(樫村2007: 17–18)今は管理社会への移行の指摘が引用の主意であるが,最後のドゥルーズの達意の提言は,レジス・ドブレのコミュニケーションに対立させるトランスミッションの重要性の指摘と重なり,ストリートの人類学の重要な方向付け(新たな共同体論と交差する必然)として記憶されるべきである。
 渋谷望は,5つの視点から新旧権力の対比を次のように整理する(渋谷 2003: 12–15)。新しい権力ゲームの要素:ポストフォーディズム新自由主義,ポスト規律権力,管理社会,消費社会。古いタイプの権力ゲームの要素:フォーディズム福祉国家,規律権力,監禁(規律社会),生産社会。しかし,これらの要素は固定的なものではなく,重層決定的であり,古い要素が新しい要素として接合しなおされることもあるとする。渋谷は新しい権力ゲームが始まった時を 1968 年とする。なぜなら,1968 年とは,世界の闘争サイクルの転換点だと言うのだ。(とはいえ,1968 年は「大局的に見た」転換点ではあるが,たとえば,フォーディズムからポストフォーディズムへの転換リズム,および地政学的差異を視野に入れて,第三世界と先進国の転換リズム,というものは,当然違ってくるとする。)
 その上で,渋谷は管理社会の様相を,ネオリベラリズムコミュニタリアニズムの相補性から生まれるニコラス・ローズの言う「アドヴァンスト・リベラリズム」(Rose 1996)をふまえて、2つのコミュニティからなる格差社会の成り立ちの理路を示す。アクティブな行為主体の上位コミュニティとアンダークラス(新しい貧困層)とされる排除されたコミュニティとの間の隔絶が進む(渋谷 2003: 60–67)。そのことは,ホームレスの増加によってもっともわかりやすく私たちの目に届くが,それだけなくワーキングプアという社会問題の顕在化,いわゆる第一世界における第四世界の出現において把握されてきている。ここでホーム維持可能な人々とストリートの近くへと排除される人々との対比は,この格差社会の事態を表現している。しかもアンダークラスはその例外化の状態が常態化する傾向がはっきりしてきている。ホームとストリートの断絶は,コミュニティ分割という形で深くなってきているというわけである。
国家が弱者を含めて国民を主体化する責任者だった可視的な主権権力の様態から,プライヴァタイゼーションによる間接的な見えにくい支配の様態への移行が起こっている。アガンベンの言う都市(国家)から収容所への移行である(アガンベン2003: 第3部)。言い替えれば,有機的に権力に布置され福祉の対象であった例外が,選別的な過程を内蔵させた複雑な間接的なメディア・コントロールを通じてアンダークラスという常態的な例外として監禁的に放置される。これはかつての異であることを前提にしたレイシズムよりも,同であった者が異として貶められる点で相対的な剥奪感において過酷なレイシズムである。これは,第三者を境界に止め置く三者関係の有機的構造的支配 (かろうじて内に属する被差別者を救済の対象にする)から,第三者を外へ振り落とす遠心力で担保されるというより過酷な三者関係の内閉支配(外に配置された被差別者は搾取のみの対象になる)へ移行しているということであろう。同じ三者関係の差別であっても,前者が少なくとも一体性をもった階層社会(ハイアラーキーの原義),すなわち二元論的階層尺度という余地が言い訳(イデオロギー)の中にあったのに対して,後者では,もはや社会的一体性が保証されない分離的格差社会へと一元的閉塞性を増したもの,つまり収容所化に向かっている。
こうして,今日のストリートは分離した2つのコミュニティの無関係の関係をまさに反映している。ストリートの中央を高級車で疾走するエリートコミュニティの住人とそのストリートの縁辺に生の糧を求める都市下層が社会的に切断的に共在している。その両者が,共在による影響関係はあるけれど,それぞれの世界でのサバイバルに,それぞれのやり方で対処している。
 管理社会化の現実の様相は上記のようであるが,その転換の起点を渋谷は 1968 年とする。そして,そこからの変化が進み,誰の目にも明らかになる顕在的な転換点も指摘できよう。それが 1991 年である。
 1991 年は,実質と象徴の両方の意味を担って,世界のあり方が顕在的に転換した年であった。その転換以降の状況が,ストリートに,またローカルな場に変質をもたらした。モダンからポストモダン(あるいはスーパーモダン)への転換は,1968年を起点に 1970 年代 1980 年代を移行期間としながら1990 年代に誰の目にも明らかなほど顕在化したのである。その分水嶺の象徴になる年が,湾岸戦争勃発からソ連邦崩壊へと辿る 1991 年であった。その後,ネオリベラリズムが大手を振って世界を覆い始めたのだ。
それはまた,それへの表面的な抵抗現象としての,大小さまざまな宗教ナショナリズム・民族ナショナリズムの簇生の時でもある。ストリートはこの変化を映し出す。近代都市はストリートを追放した(Holston 2005(1999))とされるが,その単純近代化の段階では追放されたストリートはその被害者性において,まだ抵抗のサブカルチャー生産の場として意味を持っていた。再帰的近代化を体現するポスト近代都市ではストリートが追放されたことさえも追放しようとしている。消去の消去ないし喪失の喪失の時代に突入している。心理学者南博文は,研究会において都市の記憶を問題にしながら,この今日的な消去の消去の事実を先取りする事例として,広島の平和公園や記念碑の造営がもたらしたこととしてreplace が displace を生んでいると適確に指摘していた。
 研究会に招いた写真家北島敬三は,1991年の転換を,こう語っていた。1991 年までストリートスナップを撮っていたが,それ以降は風景と人間を別々に撮るようになった。なぜなら,1991 年以降,街と人間との関係を中心的な主題にして写真を撮ることにリアリティを感じなくなったからだという。その意味で,1980 年代の終わり頃から東京もニューヨークも街がつまらなくなったと。これ以降,北島は風景と人物を別々に撮り始める(北島 2003)。こうした時期に符合して,野村雅一は,街・ストリートの女性化(関根は街のインテリア化と言ったことがある)を,更にヘブディジが描いたような男性中心的なサブカルチャーがストリートに存立し得なくなっていることなどを,研究会の発表(野村 2004a)で指摘していたし,それ以前からガングロなどストリート・ファッションを牽引する少女・ギャルに注目していた(野村2004b)。玉置育子も若い女性にとってのストリート空間を化粧行為から活写する。流行を流用した模倣と浸透の実践なのだろうか。このような状況があるから,小田亮が研究会の発表(小田 2004)でも本報告書論文でも指摘するように,男性中心主義的な言語や制度を攪乱する「女性的エクリチュール」の実践としての「模倣」に注目するイリガライが評価されるのだろう。システムに包摂されると同時に排除される「女性的なもの」が,その根源的受動性,攪乱的な横断性でシステムの裏をかき,錯乱によって自分たちの独自の経験や身体を語る余地を作り出す,そうした実践がやがてシステムを変える可能性を孕むというのである*1。上杉富之が私たちの研究会のために問題提起してくれたクイア理論の前線が開拓する現代社会理解のためのカテゴリー融解力は,この点に関連しても注目できる。
 以上のような時代の転換としての管理社会化を認識し,そのような統治システムにおいてストリートを考察する自覚を持たなければならない。その上で,ストリートという場所を確定していくことになる。
 先に,ローカル・ノレッジとストリート・ノレッジとを並行的に記した。また,すでに序論でも述べたことでもあるが,ローカルなものとストリートには共通点がある。どちらも主流権力から押し込まれた空間である。ローカルなものは,グローバル権力によって押し込まれ,ストリートはホーム権力によって押し込まれる。その意味でどちらもサバルタンの生きる縁辺空間となる可能性のある場所である。縁辺の場での生活は様々な主流の圧力のかかる受動的状況の中での抗争 contestation であり,不安定で持続しにくいブリコルールの生活構築サバイバルが展開する。このことは,ローカルな場やストリートが縁辺空間として切り取られ別の場所にあると言っているのではない。そういう縁辺空間は主流権力が作り出し,その力が浸透した空間として実現している。そこは,管理する主流権力がその視点からローカリティやストリート性を意味づける取り込みと排除が作動している。この上から取り込まれたローカリティやストリート性によって,取り込まれなかったローカリティやストリート性は隠されることになる。つまり,ローカルな場はグローバル権力によってローカルの意味を,ストリートはホーム権力によってストリートの意味を規定される。そして,その規定によって取り込まれたローカリティやストリート性が,そのような権力への備給を行った基盤的ローカリティやストリートに成り代わってしまうために,廃棄されたローカリティがあったこと自体を隠蔽するのだ*2。これが消去の消去である。そうであるから,私はこのことを明確にするために「勝利するローカリティ」と「敗北したローカリティ」とを区別する必要を説いた。ローカルの場,ストリートの場でのこうした喪失の喪失,消去の消去をこそ問題にしなければならない。これがネオリベラリズム下の,管理社会化するポスト近代下でのストリート問題であり,ローカリティの問題である。この点で,地方市場の急激な変容を内側から記述した鈴木晋介の論考は貴重であるし,トレス海峡民たちの海と国家や研究者たちの海との間の共犯関係と競合関係を問い直す松本博之論文の 2 つの道の相克も共通の軋轢の存在を伝えている。
 要点を先取りして述べたが,少し具体的に辿り直したい。すなわち,ストリートの人類学は,入り口としては文字通りのストリートから入るが,その出口では二重に消去された場所というローカリティにまで至る広義のストリートの発見へと,研究対象を方法化のうちに拡張・展開していくことになる。
 まず,個々の都市スケールでみた場合,しかも近代以降を考えた場合は,都市内交通と都市間交通の体系を構成するストリートが直接的な対象になる。ヨーロッパ中世都市から近代都市への転換におけるストリートの変遷を扱った本書のハラルド・クラインシュミットの論文に,その具体的様相を学べる。さらに,ベルリンのようではない近代都市ミュンヘンの現在のストリートの管理化模様については山田香織が発表で描き出していた。同様に,日本の都市に関しては竹沢尚一郎論文が都市祭礼のあり方の変化に反映する博多のストリートの歴史的変遷を適確に教えてくれている(竹沢の議論は後述の広義のストリートにも連なっていくが)。
 私自身もフィールドにしているインドの都市で直接ストリートを扱って議論している。私がフィールドにしている南インド・チェンナイ市の都市ストリートをイメージした場合,その内容には,少なくともすぐに 3 つのストリートのレベルを想定できる。1)都市と後背地や他の都市とを繋げる都市から放射する幹線道路,2)都市内の環状線や都市内各所を繋ぐ表通 り,3)住宅地などに引き込まれる生活道路,裏通り,路地。道路法によって歩車道の分離すなわち歩道設置が必要なのは,1)と 2)である。1)に当たる幹線道路サーライと,規模を一段下げた 2)に当たるバス道路テルの中でも大きめのものとに歩道が設けられている。3)については道路の幅員の狭さから一般に明瞭な歩道設置は難しい。言うまでもなく,現代は自動車社会である。自動車が 3)まで入り込む場合も今日ではあるが,インドの都市では袋小路が毛細血管のように無数に存在し,そこには依然自動車など持てない層の集まる狭隘な路地も少なくない。
 村で食えずに都市に食い扶持を求めて来たが家がない者は,空き地(都心には少ない),河原,線路際,橋の下,高架道路の下,海岸縁などに向かうが,それ以外ではストリートの歩道しか留まる場所はない。公空間である川,海,線路,道の縁辺は,公私の微妙な隙間であり,たとえ不法であっても社会の縁辺にはじき出された人々が都市で生きるために集う場所になる。歩道は気づいてみれば,まさにその微妙な公私の隙間なのである。しかも,市民の安全な歩行のために設けることが法律で定められているから,近代都市で歩道空間は必ず確保される。インドでは歩道は人が歩かないから余計に自由に流用できる可能性が高い(すこし変化が見られ始めているが)。少なからぬ人が歩道でのびのびと寝ている(ときには,よく見えない夜間に車が歩道へ乗り上げてきて負傷したり亡くなる人もいる)。だから,路上生活者という言い方も実体的にそこで生活している人たちとしてイメージできる。日本の都市では人通りの多いところでは歩道でもそのまた端にしかホームレスはいられない。落ち着いて歩道に暮らせない。それだけ隙間が少ないから,都市の公園がホームレスの住処の中心となって半分形式化した「山狩り」とのおっかけっこになる。そのために東京の公園のベンチは至る所「意地悪ベンチ」(この命名に関しては(関根2007a))にすでになっている。日比谷公園で見た光景だが,2 つのベンチが比較的接近しているので,「意地悪肘掛け」で半分にされたベンチのその半分ずつを使って背を伸ばして寝ているホームレス(野宿者)がいて,感心してしまった。腰のあたりはもちろん空中であるからかわいそうであったが。それとともにインドの地床式世界を知っている私には,もちろん気候の違いは考慮しなければならないが,日本人の床上へのこだわりという文化の力(そうするのがまともな人間であるとことと密接した常識という圧力)をも思い知らされた。地べたに座り込む,寝ることは日本では強い敗北感を伴うのだろうか,横になることを拒否するホームレスもいるという。インドでは普通の家持ちの人も猛暑の 5 月,6 月など道に出て地べたに寝ることがある。だから,インドでは家持ちと野宿者との垣根が低い(今も村だけでなく都市でもベッドにではなく直接アンペラ一枚で床に寝ている人は少なくない)*3
  いずれにせよ,ストリートの人類学が対象にする場所は,都市空間の中に穴ぼこのように散在する縁辺・隙間なのである。家無し宿無しの都市民はそうした隙間を縫って生きる。その意味では,日本の大都市のまんが喫茶インターネットカフェやマクドナルドもまたストリートな場所と言うことができる。いわゆるホームレス(野宿者)だけではなく,ワーキングプア,低賃金で働く増えるばかりの外国人労働移民など,格差社会のアンダークラスに振り分けられる現代のサバルタンプレカリアート)が生を繋ぐ場所が広義のストリート(ストリートな場所)であり,文字通りのストリートだけではない。定義するとすれば,社会空間の縁辺・隙間こそがストリートなストリートということになる。ここでもう一度正確に言っておかなければならないのは,縁辺・隙間は自立した空間ではない。主流空間のすぐ脇に寄生して張り付くように存在する場であり,主流社会の強い空間の意味づけを前提にした流用の所作が見いだせる場所ということである。ストリートな場所はしたがって,主流の流れをすでにエネルギーにしているし,それ無しには成り立たない。そういう縁辺・隙間なのである(たとえば,インドのヒジュラの生活を内在的に理解しようと國弘暁子は主流と縁辺との社会の反照関係を具体的に描出している)。勝利の力のネガのようにへばりつく敗北の位置を元手に生き延びる場所のことである。インドで言えば,幹線道路の中央の車道と端の歩道との両方があってはじめてストリートな場所は生成している。この抗争的な接点がなければ,道であってもここでの議論の対象としてのストリートな場所にはならない。現代日本であれば,歩道も殆ど主流の力で抑えられているから,インドの歩道に当たる接点的な流用空間(ストリートなストリート)が,公園や安いカフェ(100 円コーヒーで夜を過ごせる 24 時間営業のマクドナルド)に見えにくくずれ込むのである。
 このようにストリートが見えにくい場所にずれ込むのは,近代型第三世界的貧困とポスト近代型第四世界的貧困との違いである。現代インド社会の大都市の路上と今日のニューヨークの路上との両極的対比は,程度の差になりつつあるがまだ依然可能だろう。前者の方が路上生活者と社会との関係に血が通ったところがある。日本社会の歴史を遡って考えたときの「ものもらい」ないし乞食(こつじき)を吟味する野村雅一の言い方に従えば,その伝統をわずかに背負った乞食(こじき)はなおも通りに顔を向けているが,ホームレスは通りに背を向けているという(これは,トム・ギルの英国のホームレスについての発表の際の質疑討論での野村雅一発言であるが,この発言に先立って小馬徹は,日本のホームレスには,金の貸し借りはしない,過去は聞かない等の規範があるというその社会構築性との切断を指摘する発言をしている/2006 年 2 月共同研究会)。この社会との接続性についての乞食とホームレスの対比(その間に程度差だけに還元できない質的転換が起こっている)が近代型第三世界的貧困とポスト近代型第四世界的貧困との間にあるということである。だが,インドの路上も後者に向って厳しさを増している(転換の契機を増している)ことも指摘しておかねばならない。つまり,現在のインドの都市の路上生活者の現実には両者の要素が入り交じっているだろう。というのは,農村から都市スラムに流れ込んでくるあり様が,単に量的に増大したというより,経済自由化(構造調整政策)を受け入れた1990 年代以降の社会・経済的構造変化に対応して激化している点で,すでに第四世界的であるし,国内外からの移民への排斥行動の顕在化などでも新たな時代状況に入っていることの証である。たとえば,わずかな教育機会と貧困に苦しみ,クーリーまでした末に南インド映画界のスーパースターにまで上り詰めたラジニカーント(1949年生まれ)のような人物(Sreekanth 2008)が出てくる可能性の余地,つまり主流社会と下層社会とが差別的であれ一定の有機的関係を保持していたのが第三世界的段階であったとしたら,今やそのような関係はより厳しく切断されて管理型社会の特徴となる新たな格差社会化がインドでも進行し固定化し始めている。
 とにかく,上述したようなストリートの定義に則れば,違和感なく,グローバリズムが席巻するグローバル社会空間の縁辺としてのローカルな場所というものに,ストリート概念を敷衍できることが理解できよう。ニューヨーク,ロンドン,パリ,東京など世界都市ないしグローバル都市は,その縁辺に移民集団を含むアンダークラスないし第四世界を抱え込んでいる(パリのマグレブ系移民については植村清加が,チリのサンチャゴの貧困層については内藤順子が,それぞれの日常的実践に注目して縁辺からの視点を提供している。またロサンジェルスカンボジア移民については朝日由実子が彼らの異国での縁辺空間での「ホーム」希求の実践を報告している)。グローバル資本主義が作りだしたトランスナショナル・スペースにおいて,その政治経済中枢のメトロポールからの力にへばりつくように生きる国内下層や下層移民が縁辺空間の住人となっている。このようなグローバルスケールのサバルタンたちが住む場所は,消去の消去という同化政策(その中身は,仏的「統合」や,英国的・米国的な「多文化主義」などいくつかのヴァリエーションがある)の対象であったが,そうした福祉国家的手法が限界を露呈してきて,1990 年代以降明らかに露骨な分離的管理的政策,つまり管理型社会化がかつての宗主国で目立ってきている*4。ここに立ち上がっているのがトランスナショナルな社会空間の縁辺というストリート問題である。それは,本書所収の,モンゴル・ウランバートル市の都市空間にみるストリート性を論じた西垣有や島村一平の論文や,パプアニューギニア華人のトランスナショナルなストリート経験の蓄積をめぐる市川哲の論文などが語り出すとおりであり,そこまでもストリートの人類学は射程に入れている。本書の中でもその議論の幅撮りのスケールで群を抜くのが妹尾達彦の中国を舞台にした壮大なストリートの発展史(誌)である。妹尾は,ミクロな北京の結節に位置する小さな橋(銀錠(ぎんじょう)橋)の歴史(陸路から海路への転換の産物)の中に,「ユーラシア大陸の交通史と世界認識の変遷が凝縮されていることを論じ」,ここでの文脈で言えばストリート性に当たる,前近代,近代,後近代の重層と聖性の可能性を見る。
  具体的に描けるストリートの縁辺からこの大スケールの縁辺というストリートまで,現代社会がかかえる同じ問題が貫いているからである。この問題を解決すべき課題として据えるとき,ストリートの人類学は,ベンヤミンを当然踏まえた渋谷望の言う「敗北者の考古学」と重なる志を有するだろう。二重に消去されたとされるものを,消されたはずのその縁辺での生きられた生活世界において発掘するのである。このストリートの人類学は,まちがいなく,阿部年晴のいう,人間である為に普遍(不変)的に必要な人間再生産の揺籃,つまり「〈後背地〉としての文化」(私の一方的な理解と思い入れだが,〈後背地〉という一見ネガティヴに見える命名に二重に消去された敗北者の面目と奥行きが感じられる)を探究する研究と併走しているものと信じる。
 主流秩序からは無秩序として消去・排除の対象になった様相のなかに,不均質な雑多さを当然視するような「敗北したストリート」の生活世界にあったであろう〈都市的なるもの〉,つまりセネット的な意味での「無秩序の活用」(セネット1975)に再び光を当ててみたいのである。そのときは,主流秩序が取り込んだビオスの生が覆う世界においてもなおある穴ぼこや隙間にゾーエーの野生の生を掘りあて,そこからとって返して生活秩序を組み直すような境界的思考が求められるにちがいない。そこでは,本書所収の,森田良成のインドネシアのゴミ拾いについての内在的理解(計画,効率の価値では測れない生活感覚世界)や,あるいは丸山里美の日本の女性野宿者の生き方についての内在的理解(女性野宿者と支援者などが結果的に構築する一種の「何も共有しない者たちの連帯,共同性」(リンギス2006))などが示唆するように,活用と言えないような活用,streetwise とも言えないstreetwise まで射程に入れる必要があるに違いない。そのために,イデオロギー・レベルでの主流の価値意識・言語の単なる否定や反転ではなく,生活感覚や生活感情という身体性を基盤にした「全体的理解」に基づく根本的反省が必要に違いない。そこに,主流言語が自然化した形で実践されてしまう構造的差別(「三者関係の差別」(関根2006))を無効化するような視点転換への実在的な示唆を見いだせる。そうであるから,ストリートの本格的なエスノグラフィーの集積が待たれる。
 にもかかわらず,現実はそうした生活感覚からの反省どころか,それを蹴散らす悲惨の方向に突き進んでいる。貧困者が解決されるべき異常状態として少なくとも福祉の対象として管理されているとの希望的観測ができた時代が,いまやホモ・サケルの現実化のように殺して構わないという例外の常態化が急激に進行し始めている。今やストリートにはかつてない痛みが走っている。
 なぜ,これほど主流言語への反省は難しいのだろうか。主流言語は,超越的主体による分類によって世界を秩序化する作用を有し,固定化による安定が魅惑的なのである。フーコーを踏まえたオリエンタリズムをめぐるサイードの議論で学んだように,「差別者」と「被差別者」との間に「共犯者」を噛ました「三者関係の差別」は,差別の再生産メカニズムを備えている分,包摂力の高いディスコース空間を構成する。「共犯者」の主流の知のなぞりが権力を再生産させ続ける。流行や扇動まで含めた認識知の次元で事態が推移する。だから,私たちにできることは,この主流の認識知と権力のディスコース空間の外部に出ることではなく,それにへばりつきながら,ベルクソン的な生(命)の流れの全体性に立ち返って〈周辺〉化された空間(ストリート)の有り様を正確に把握し主流の知の差別化作用を機能不全にする空隙を穿ち繋げることである。それには,被差別者の空間と差別者の空間とに共通する基盤を掘り当て,そこに立つことが求められる。
 主流の知という世界の意識を独占する様式は,デカルト的精神―身体二元論を階層化して写し取っている。被差別者は下等な身体の位置に配置される。これに対する抗争的対応は,したがって非デカルト的立場に立脚する必要があるし,デカルト的精神の支配的安定という魅惑・誘惑を振りきって精神−身体二元論を捨て,不安定な場所に見えるが生成的な,上記の意味での共通の基盤に降り立つ努力となる。ここで,デカルトに対して明確な異議申し立てを行ったベルクソンは参照されるべき有力な原点であろう。ドゥルーズにも深い影響を与えたベルクソンである。たとえば,ベルクソンは『精神のエネルギー』(ベルクソン1992)において,個体に限界つけられない,宇宙を通して貫流している生命ないし生という了解を思想基盤にした,意識の緊張と弛緩に関わる「生への注意」あるいは「知的な努力」が必要であると主張する。ベルクソンにおいては,生命とは意識であり自由であり,物質が必然であるのに対し,生命は自由を意味している。しかも,すべての生命体に存在する意識は物質を横断しているのであり,両者は共通の源泉から出てきたとされる。この個体を超え,人間をも超える意識と生命の流れ(持続)の思想は,有力な共通基盤の場所を示唆しているし,ストリートの生に立ち向かう構えを教えていると思われる。この点は次説でドゥルーズ的転回として語られることに引き継がれる。しかしながら,この転回の困難さが,主流言語の跋扈を許してきた。無自覚で,反省が不十分どころか,むしろ隠蔽に荷担する研究が後を絶たないのは,「生の躍動」への「全体的理解」への努力不足なのである。
 一般の人が上からの政策言語に踊らされることはままあるだろう。自己責任を果たせない半人前との隔離的含意を持ったホームレスという言葉もすでにすっかり社会に定着してしまったし,さらにニートという英国から輸入された政策概念も急速に社会的実体のように通用してしまった。そうした隔離的範疇に収まってしまうと,当たり前になってしまい,実は誰もがホームレスやニートの可能性のなかにある社会であることも,またそれが深い社会変化の兆候であることもきちんと吟味することがなされなくなる。だから,こうしたカテゴリーにくくられた人たちは,一方的に社会のお荷物とみなされ,ときには短絡した頭脳の若者によって,「社会のゴミ」すなわち「穢れた罪人」として処刑的な襲撃の対象にされることになる。そのとき,若者の目にはホームレスのおじさん,おばさんが殺しても構わない存在になっているのである。このような襲撃する若者を肯定するわけにはいかないし,糾弾されるべきである。だが,そのことと同時にしなければならない反省がある。それは,襲撃まではしないが,同じような例外化のまなざしを薄められた形であるにせよ一般の人が持っていないかということの問い直しである。まして研究者は,この点を徹底的に吟味する義務がある。自分の研究上の概念操作が主流言語,支配的イデオロギーに汚染されていないかどうかを,細心の注意と努力をもって。
 こう書くのは,私が専門にする南アジア社会研究の世界でも,残念ながらこの種の研究者の怠慢が蔓延しているからである。ルイ・デュモンによって強調された主流言語としてのブラーマン・イデオロギーを適切に相対化できない研究者が依然多勢を占めているし,不可触民差別をあいまいにカースト差別の一部と言い続ける研究者が大半である。
 ブラーマン・イデオロギーでは「穢れた罪人」として被差別民を排除差別する。このようなことは,考えてみればすぐに分かるとおり,南アジアにとどまらない世界各地で「穢れた罪人」として被差別民というのは,社会的差別の常套文句である。その意味で,インドにおいて認められる,ケガレを罪に置き換えるブラーマン的主流思想の言説空間で社会的弱者の不可蝕民が罪人扱いされてきた歴史は,他人事ではない。すぐに世界全体に広げなくても,少なくとも南アジアから東アジアへの広がりの中で「罪ケガレ」などいう言い方が,バラモン教ヒンドゥー教,仏教という兄弟姉妹の宗教文化イデオロギーにのって,インドから日本まで存在してきたことは明記すべきである。そして,それが統治イデオロギーとして機能してきたのである。
 研究者ならば,罪ケガレがこのように支配統治者のイデオロギー言語であることを自覚するのはあまりに当然である。罪とケガレを統合で結ぶ恣意性は権力のなせる技以外の何ものでもない。にもかかわらず,このような相対化のできない研究者が適切な批判も受けずにいることが憂慮すべき事態なのである*5。私の場合は,この種の相対化を,インド研究において問題の多いデュモンのホモ・ヒラルキカスという仕事を批判する形で行ってきた。その成果『ケガレの人類学』(関根1995)において,統治イデオロギーとしてのブラーマン・イデオロギーである「浄−不浄」論を相対化のために,ケガレを「不浄」と「ケガレ」に腑分けすることの不可避の必要性を,フィールドワークを踏まえて理論的に提示した。そこで論じたとおり,支配的な言説空間で流通している罪ケガレとは,正確には罪・「不浄」と言うべき恣意性の所産である。傷つきやすい危機的状況の警鐘としての言葉であるというケガレの本来の意味(「ケガレ」への可能性)を貶めている,この「不浄」という一義的に否定的意味への還元への批判は,今はもうこれ以上繰り返さない。
 ストリート生活者は,言葉の正しい意味でケガレ状況(「不浄」ではない)の場所にある。つまり定住支配社会空間においては,その周辺,縁辺に押し出され,傷つきやすい位置にいる人々であるから(彼らの置かれている場所の関係的性質を言っているのであって,彼らのことではないことを念のために強調し注意しておく)。更に,急いで言っておくが,ケガレ状況は悪でも善でもないし,もちろん罪とは何の関係もない。ところが,自己責任社会は,ブラーマン・イデオロギーが行ったのと同じように,そこに倫理を持ち込む仕掛けを作り入れる。このアンダークラスが「罪ケガレ」を負わされる論理の回路は 『魂の労働』を著した渋谷望が,正しく整理しているとおりである*6。ストリートがケガレ状況を担う場であるとしたら,「ケガレ」と「不浄」とを区別する私のケガレ論からは,「不浄」という否定性の方向へばかりにもって行かれる理由はない。むしろ,それとは真反対の「ケガレ」で表現する創造場に向かう潜在性を社会的に有した豊穣な場であるはずである。この豊穣の場の潜在性を現動化させるには,基本的な態度変更が必要である。それは「ケガレ」の構えに入ること,すなわち,基本的にあるいは存在論的に生ある人間は皆ケガレているし,さらに社会的にも縁辺のケガレの場に置かれれば誰でもケガレの中に置かれる。繰り返すが,ケガレは人の属性ではなく,場所(ポジション)の性質なのである。このことを知れば,常に綺麗な手をもつ人間などいないのである。その認識的構えをもって研究を立ち上げることが肝要である。この存在論的連続性は次節のドゥルーズ的転回に接続される。
 綺麗な手を持っているかのような虚構に立った人類学はもう止めよう。誰の身の上にもケガレをもたらす大他者と向き合う真正性の人類学を構想することが肝要だ(真正性の水準は小田亮が長年注目している主張点である)。そこに向けて寄与するのが,ストリートの人類学の本願となる。ストリートは,ホームにまどろむ自分と切り離された対岸にあるようなロマン的で博物館的な創造場ではない。それどころか,生死のかかったサバイバル抗争の場であるストリートの現実は他人事ではなく,ケガレ現象と同様に事実傍観している気でいる自分のなかにすでに流れ込んできているものであるから,我がこととして語り出す構えを探究者に要求する*7。ストリートの民族誌的探究には,それゆえに探求者自身の身構えの転換を不可欠に求められることが明記されるべきある*8
 ストリートは主流社会の権力行使空間の縁辺に位置すること,したがってその場所の存立は主流社会との関係なしには考えられないことを述べてきた。ここで重ねて注意すべきこと,主流対縁辺という二元論は社会空間のポジションの差異を示しているのであって,それぞれの場所にいる人間の属性であると言っているのではない。すなわち人間の差異が最初からあるわけではない。そうではなくて,主流社会のあり方を突出させながら,しかもそれが裏返るようにねじれ,ずらされた空間がストリートなのである。ホーム空間は保護膜が厚いから,たとえストリート的なものが入り込んでいたとしてもその厳しさは弱められる。それとは対照的に,使える資源・資本が無に近いままストリートにいる者は,それだけ剥き出しの生に近いところで生きなければならない。その分,その生き様は人間の根源の生に接近する糸口を私たちに見せつけてくる。こここそ,開かれた門において見えにくい閉じた扉を探す所である。これは,ドゥルーズとガタリが『アンチ・オイディプス』の中で語ったところの「胚種的流体」に触れるような〈分裂分析〉,言い替えると,資本家や御用経済学者とが隠している資本主義システムの貨幣の二重性(備給しているものを隠しながら増殖する消費社会的シニシズム)を明るみに出すこと(ドゥルーズ/ガタリ2006(1972): 下3章)と同値となる,私にとっての実験であると考えている*9。私はそれを繰り返し〈周辺〉を〈境界〉に読み替えると表現してきたし(関根 2006),「上からのパッケージ化」から区別されるべき「下からのパッケージ化」ないしは「脱パッケージ化」という言い方で模索もしてきた(関根2007)。
 そのようにストリートを理解する視点に立つと,私たちに豊かな刺激を与えてくれているベンヤミンのフラヌールやパサージュをめぐる議論(本書では近森高明が考察を深めている)を,エリート的とだと言って批判し退けないことが大事かもしれない(私は実際それをエリート的と批判的な眼を向けてきたが,そのようにしていても生産的ではないとも考えてきた経緯があるので自戒を込めて今述べている)なぜなら,ベンヤミンの身を挺した境界的思考の深み,彼が非人間的なものにかけた悲痛なまでの重い意図を受け取りたいからである(それは間違いなくホロコーストの重く暗い痛みにつながっているだろう)。それは,主流文化に翻弄されまどろむ群衆ではどうしようもなく,フラヌールは構想されなければならなかったということを正当に評価しなければならないからである。フラヌールは,ストリートでの引き裂かれ,ねじれた全体性を言い抜いていると解すべきだろう。その概念は遊歩者という人の姿を借りた世界の見方の方法的視座の表現なのである。だから,逆に,小田亮が的確に紹介,指摘するように,リチャード・ホガートのようにその方法的視座を大衆文化マス・カルチャーよりも伝統的な民衆文化に託したとしてもその志においては相違はないのである*10。そこに共通する研究の志は,民衆文化とエリート文化との表層の区別を超えていく。その延長上で考えれば,プロレタリアートを考えることも,プレカリアートを考えることも,実は同様の意志に貫かれているはずなのだ。都市の無意識の地層に届くとき結果的に権力構造をも飲み込み機能不全に追い込む。思考の入り口としての権力構造の生産する縁辺という亀裂は,思考の出口において権力構造の向こう側に出て無効化する地平を獲得させてくれる。これこそストリートの創造性である。もちろんそれは権力構造の下層の痛みを軽視,無視することではなく,それこそが彼らの痛みと努力を真に受け取り普遍的な形に展開していく道だと信ずるからの所為である。
 権力構造とは,ツリー状の思考の産物である。そこは思考の端緒になるかもしれないが,終着点ではあり得ない。ストリートは都市計画という条理空間の建設の産物であるのに,面白くも都市計画の意図を裏切る。なぜならストリートは繋ぐという関係樹立の流動という性質を本質的にもつゆえに平滑空間への展開を運命づけられている。都市においてストリートという縁辺空間の道筋を辿る動きは,都市の深層,都市の無意識にいたる可能性を孕んでいる。都市計画が期待するストリートは目的地に到達することだろうが,ストリートはその表だった機能に付随しながら,それを超えた過剰性を移動の過程において産出する。ストリートの縁辺性ないしストリートのストリート性とはこの過剰な脱線性のことである。時空のアレゴリーの展開するベンヤミンのフラヌールはもちろんのこと,植村清加のマグレブ系移民男性のカフェ通い,磯田和孝の道草を喰うこと,南博文のふらふらした屋台ウオークから都市の精神分析まで,どれもプロセスに沈潜し,時空の無意識の層に触れて発現する個性化の営みなのだろう。これは,ベンヤミンが個物そのもののニュアンスを聴き取ると称した営みである。ドゥルーズならば,非−コミュニケーションの断絶的空隙の創出であり,そうした空隙がリゾーム的につながる平滑空間の現出と言うのだろう。小田亮は研究会の発表において,管理された条理空間を平滑空間に変容させるような人々の実践を語ることが,ストリートの人類学の役割だろうと,研究会の早い段階で鋭く,卓見を述べていたことを記しておこう。小田は,「顔のある」ことや「かけがえのなさ」を重視し,それを関係の過剰性として説明しているが(小田2007),そのことは,私が目下「弱い表象ないし表現」を聴くこと,「弱いコミュニケーション」の獲得に注目することと重なると理解している(関根 (2007b)参照)。


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*1:女性的なものがなぜに今注目されるか,ストリートの人類学にとっても重要か,を理論的に理解するために,さらに小田亮の発表での説明を参照しながら議論しておきたい。その要点はこうである。女性的なものは,女性が周辺化されることで備わった「隷属の美徳」と解すべきではなく,女性的なものはより普遍的な基盤を持つ点が重要である。それ故に,野生の思考,ブリコラージュ,他性への配慮などの可能性の基盤になりうる。男性とは,実体としての男性ではなく,ツリー状の秩序感覚のことであり,条理空間を生産するものであるが,それに対して女性も実体ではなく,リゾーム的なるものをさし,それは留まりながらの移動性を体現する。「女性的エクリチュール」の実践とは,貴方=男が私=女に割り当てた空間を隔てる壁を,浸透し流動する生者の皮膚にもどすことなのであり,それが愛撫なのである。その「模倣」ないし「憑依」の実践は,二項対立の転倒でも1への解消でもなく、2のままでただ可動性を取り戻すことなのである。そのことは,ストリートの理解に近づければ,定住という位置を模倣しながらそのなかに移動する他者の声を浸透させてしまう所作である。この事態を,小田は「1つの意味=方向に固定された二元論を,流動的な二項対立へと変容させるもの」と言う。これは私の言い方では〈周辺〉を〈境界〉に読み替えるとなる。すなわち,ここにストリートを方法として考えるべき点が描かれている。それを敷衍すれば,ストリートを歩くとともに住むこと,家に留まりながら流動性を手に入れることという作法を示唆し,それを,すでにベンヤミンは「パサージュは道であり家である」と喝破していたのである。だから,歩く者とは単に低い位置からの視点を担う者のことではない。大事なのは等身大の身体性と接触性にかかわるその浸透性が問題なのであろう。

*2:ここで言うストリートは,私の言い方では三者関係の差別において〈周辺〉が生み出される場であり,〈境界〉としての潜在性を宿す場所である。その事態は,ジョルジョ・アガンベンが『ホモ・サケル』において「剥き出しの生」「例外状態」として捉えられた場所でもあるだろう。そこは,例外という「外に捉えられている」(アガンベン2003: 29)あるいは「包含的排除」(アガンベン2003: 34)という秩序の宙づりから結果する状況のことである。たとえば,アガンベンが例外状態の説明のために言語活動と非言語的なものとの関係を持ち出す。すなわち,非言語的なものは,言語活動による包含的排除,すなわち言語活動が握るヘゲモニー空間において例外として「外に捉えられている」ものなのである。言語活動は語られなかった非言語的なものを排除したと見えるが,非言語とは言語から排除されたという関係においてのみ規定されるという意味で常に捕捉・包含されている。アガンベンはこれを「主権的締め出しの構造」と呼び,「開かれている者に入ることができない」という法や言語活動の主権と例外の相即する存立構造を明らかにする。このことは敷衍すれば,抑圧排除している事実そのものが隠蔽されるという隠蔽の隠蔽という宙づり,すなわち二重の捻れた隠蔽が起きている場所の構造を説明する論理を見て取れる。南博文が研究会の発表(2007 年 2 月)において提出した事例,すなわち広島原爆記念塔の設置と存在は,多様な炸裂分散した原爆被害の記憶を,分かりやすい「平和の祈りの場」という回収された意味づけの下に先取りし, 開かれた法の実現体(カフカの開かれた門)として提示される。そうなると,どの記憶をもとりたてて排除しているわけではないという形で記念塔の思想に対抗する契機を不可能にしている,「開かれたものには入ることができない」という隠蔽の隠蔽がそこで達成されている。フーコーの生政治の衣鉢を継ぐアガンベンは,こう近代を規定する。「ポリスの圏域にゾーエーが入ったということ,つまり剥き出しの生そのものが政治化されたということは,近代の決定的な出来事をなしており,古典的な思考の政治的−哲学的な諸範疇が根源的に変容したことをしるしづけている。」(アガンベン2003: 11)だから,現代社会は国家というよりゾーエーとビオスの区別が一致に近づく「収容所」と化している(アガンベン2003: 231)。近代以降の現代を問題にする私たちは,重なりを強めているゾーエーとポリス(主権的空間)との関係,ないしゾーエーとビオスとの関係を注目しその関係を正確に記述するという課題の前にいる。その課題は,主権による例外化の不分明地帯の再点検である。そのために,上から見ていては重なりの強調に終始するだけであり,そのために下からの視線,ミクロな日常的生活の次元への注視が不可欠になる。そこに重なりの綻びや隙間を発見しこじ開けている実践,言うなれば,開かれた門に本当にそこから入れる閉じた扉はないのかと。探すのである。それは民族誌的記述無しに不可能である。そこにストリートの人類学の課題と方法はある。

*3:蛇足ながら,参考に文化差と言うことで言えば,1980 年代のロンドンでは駅のホームの地べたに直接座っている人がかなりいて驚いたことを覚えている。これはインドの地床式とは違うが,家の中まで土足で生活する習慣,ベットに靴を履いたままひっくり返ることなど思うと,もう 1 つの地床式文化なのではないか思う。

*4:この点に関しては,竹沢尚一郎の今日のフランスの移民問題を通じて改めて「文化」を再焦点化した意欲的な論考「パリ/マルセイユ,2005.10–11 ―文化の名による統合と排除」(竹沢 2007)が参考になる。特に同化政策の変容については,(竹沢2007: 5 節)に詳しい。

*5:この種の類型に属する小谷汪之の本『穢れと規範 賎民差別の歴史的文脈』(1999,明石書店)は,明石書店に何度も足を運び打ち合わせ的な私との長い討論の後に,何ら生産的な理解もなく勝手に出版されたものである。その無礼は置くとしても,ケガレ概念をめぐる議論への全くの初歩的な無理解に基づく批判を加えているのであるから驚くべき厚顔である。私による著者小谷と明石書店への抗議にもかかわらず,その後も同じように閉じた思考を小谷は続けている。南アジア研究において,とりわけ被差別問題において,誠に憂慮すべき不幸な事態である。

*6:渋谷望は,その著書の 3 章「消費社会における恐怖の活用」で,この状況を米国研究からの報告の整理でゼロ・トレランスに向かう「貧困の犯罪化」として把握し,ジクムント・バウマンの論を援用してその状況がヨーロッパや日本にも出現してきていることを示す(渋谷 2003: 95)。

*7:春日直樹が,『ポスト・ユートピアの人類学』(石塚・田沼・冨山2008)の巻頭論文「ユートピアの重さ,ポスト・ユートピアの心地よさ」(春日2008)で,人食い慣行を題材にして,宣教師たちが自らの身体を張って理解の限界を超えて「全体的真実」を真摯に追求した事実は重いとし,本来「全体的理解」を標榜してきた人類学者の方がむしろ生ぬるいという。「部分的真実」への反省はするが,自己自身のコミットメントをかけた「全体性」の追究には甘い人類学研究の嘘っぽさをついて語っている。私にはここでの私の主張,またかつて書いた「部分的真実」をめぐる私の批判(関根2001)と接近し共振する主張として読んだ。

*8:『路上のエスノグラフィー』という本が吉見俊哉北田暁大によって編まれている(吉見・北田 2007)。序文には,「路上のダイナミズム」は,個々の主体による空間の再解釈,領有の営みである以上,客観的に観察できるようなものではなく,都市に内在し身体的に空間へと投企するなかで感じ取られるようなものであるとされ,路上を内在的に理解することが肝要だと説かれる。それに異論はないが,エスノグラフィーと名乗るなら,本文の内容は序文に追いつかない羊頭狗肉と言わざるを得ない。ストリート・アーティスト,ちんどん屋,サウンド・デモ,グラフィティ・ライターだけをそれほど深くなく扱っているだけで,内在的に路上をメディア論的に描いたエスノグラフィーだと言われても説得力はない。結局この本は,すでに批判の多い不十分なカルチュラル・スダディー系の内容にとどまり,何よりも社会空間の境界性が浮かび上がってくるような構造的な対象への吟味もなく,問題への取り組みの深刻さも足りない。そうなるのは,社会調査実習のお勉強のレベルで,誰にとっての問題を語りたいのか,主語が不明だからである。人間よりも都市が主語の若林幹夫を批判したことがあるが(関根 2004a: 11),このどこか超越的な主語無し論は,東京大学社会学の伝統なのであろうか。ジャーナリズムに乗った編者の名を借りて実習報告書を世に公刊するのは,もう少し慎重であるべきであろう。その点からすれば同じ社会学であっても,西澤晃彦の『隠蔽された外部―都市下層のエスノグラフィー』 (西澤1995)の方が気合いが入っている。下層に生きる人間に照準がしっかりと定められているからである。そうすれば都市のエスノグラフィーの書き方も自ずと変わる。

*9:資本主義システムを維持するために資本家や御用経済学者が隠していることとは,貨幣の二重性,その間で蝶番になっている銀行の役割のことである。ドゥルーズとガタリは,貨幣の二重性,異なる二局面を次のように対照する。一方が,サラリーマンのポケットに入る金銭(交換価値の無力な貨幣記号,消費財や使用価値に対する支払手段の流れ,貨幣と生産物の強制された範囲の間の1対1対応関係,私はそれに権利をもっている)で,他方が,企業の収支において登記される金銭(資本の強力な記号,融資の流れ,生産の微分係数システム,将来を予測する力をつまりいまここでは実現されない長期的評価を示し抽象量の公理系として作動する)である。両者は同じものではあり得ないのに,それを変換連続される偽装こそが資本主義の内在野を表現しているという。それによって人々の欲望が全力で資本主義社会野の全体を備給するのである。(ドゥルーズ/ガタリ2006(1972): 下 30–32)

*10:ここでの志とは,〈分裂分析〉に迫ることに相当する都市の無意識への接近といってよい。小田は,カルチュラル・スタディーズを牽引した CCCS の初代所長リチャード・ホガートによる探究に正当な再評価を行う(小田2003)。それは,エリート文化擁護を当然批判しつつ,さらに大衆文化を退ける差異化を厳密に行うための民衆文化の意義を擁護し探究する意図の中心を,「知的な性行をもっていない人びとがかれらなりの道をとおって賢くなるのを邪魔するからだ」に見るところが卓見である。それを取り出す小田も慧眼である。そのポイントと,ベンヤミンが群衆とフラヌールを区別する意図も相似しているものと私は見なす。フラヌールは,こうして,ハイカルチャー中心主義者(もちろんスノッブ)でも,文化産業に盲目に追随するマスでもない,やはり遊歩する者なのだ。

『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論((ベンヤミンの言う意味での「批評」である。まえがきでも触れたように,「芸術批評」あるいは「目覚めた歴史」というベンヤミンの方法,すなわち炎の比喩が結ぶ事実内容と真理内容の関係を意識している。ストリートの人類学は,その意味で芸術人類学であり,批評人類学であるはずである。芸術作品が現存する必然性は,この必然性を証明する批評行為によって達成される。不完全な言語としての芸術作品を完成させるのが批評である。芸術作品は批評を待っている。必然的に現存して

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 本書の各章は,言うまでもないが,研究会の席上での発表と同じではない。各人の発表時の思考と3年半にわたる共同研究会の積み重ねとの交差によって実を結んだそれぞれの成果である。つまり各章は,それぞれの研究会メンバーの総括の意味がすでに込められている。最後に置かれる結章としての本章は,総括という名を名乗るが,本書に収められた各章を統合するという意味での総括ではないことは,予め断っておかなければならない。多人数のメンバーを擁した研究会であり,多岐にわたる各章の意図を受け取って的確に総合することは今少し後にしたいと考える。時間的制約のなかでの安易な総括の総括を今は避け,「ストリートの人類学」をめぐる研究会で折角出てきたいろいろな芽をそのままが開かれた形でもうしばらく伸びるのを見届けたい。そのために各章の成果を寝かす期間を設け,全員でじっくり多角的に味わって行きたい。主宰者ひとりの見解で,この時点でまとめあげてしまうことはかえって豊かな実を摘む行為になりかねないからである。したがって,本章は,本書の論文執筆者が共同研究会で発表した内容に学びつつ,まずもって共同研究を推進した者としての私自身の思考の総括であることを強調しておきたい。まとめるのではなく,膨らんできた議論のアリーナに私の総括的展望を投げ入れるのである。
 まえがきに記したとおり,幸い2006 年度から研究会の同じメンバーが参加した形で、4年間にわたる海外学術調査のための科学研究費補助金を得ているので,研究はさらに継続していける。各人のフィールドワークの進展とともに更なる研究の展開深化が期待できる。2009 年度で科研の調査研究を終えたところで,本書をさらに拡充した形で成果報告書を世に問えることになろう。


 現代世界に追いついていかなければならない「ストリートの人類学」は,そのための未踏の研究領域として設定された。私自身,これをどこまで追究できるかと模索し,格闘している。いろいろな研究上の出会いの過程を経て俎上に載せられることになったこのテーマは,探究する必要が緊急にあるとの確信は揺るがないし深まるばかりだ。その衝迫が支えなのである。
 本書のような報告書を踏み台にして,特に若い研究者が今後も各自の研究のなかでこのテーマを最前線の感覚と確実なフィールドワークによって展開していってもらいたいと切に思っている。そのために,本研究自体が問題視しているネオリベラリズムの奔流に,若い研究者を急激に巻き込み,過度に無用な競争にさらしたり,不安定な職場条件において研究を強いるようなことは止めなければならない。短期の資金提供でなく長期的な生活の安定化と研究環境の保証が枢要である。関係者の緊急にして適切な方向転換をお願いしておきたい。すでに多くの指摘があるように,理工系学問の偏重と人文学や社会科学の軽視が見られる近年の傾向は,研究費の配分の問題よりも安定性の高い研究者のポスト数の確保の問題として是正解決されなければならない。人文学・社会科学系の学問は,事実として人間社会にとっての実学であることを,本研究は身を持って示していきたいと思っているが,是非耳を傾けてもらいたい。大袈裟でなく,社会が分断解体しつつあるのである。私たちの研究はそれに歯止めをかけようというのだ。社会が解体してしまったならば,理工系の学問が力を発揮する場は存立しえないのである。社会は自然に与えられ続けるものでもないし,だからといって偏狭なナショナリストのように上から強権発動と洗脳教育によって強引に囲い込んで保持できるものでもない。そうではなくて,人が生きられる場が確保されさえすれば,そこには社会の健全な共同性が内発的に立ち上がるのである。社会の基本を作る,そういう場のあり方を探究している のが,人文社会系の学問である。大量の資金は要しないが,まっとうな研究には何より も時間がかかることを明記してもらいたい。若い研究者が論文数の生産に追われるので なく,若いときに挑戦的な時代の枢要な課題にじっくり取り組み始められるように安定 した研究の場と生活の保証を用意していかなければならない。


 「ストリートの人類学」という本研究はまさに今述べた生きられる場の探究である。それは容易なテーマではない。しかし,尻込みせずに取り組みたい。そのためにも,取り組む課題の未踏性を確かめておくことは大事だ。その感触を得るために,下に2つの文章を抜粋して紹介しておきたい。1つは加藤典洋の新聞コラムからで,「文学とは何か?」という問いに今日的に答えることの困難さが描かれている。もう1つは,NHKの『視点・論点』での「見えない群衆」と題する港千尋の話からである(港 2007)。生きられる場としてのストリートの探究の光景もこんな風になるのではないかとの印象で,総括の冒頭に少し長すぎるが予兆的に引用させてもらう。そこから,現代状況への「棒立ち」の必然と,その乗り越えの工夫の必要性が課題として見えてくる。また,「待機する群衆」はどこで待機しているのだろうか。広義のストリートなのではないだろうか。

 文学とは,この2冊(筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』,穂村弘『短歌の友人』)の教える「生の1回性」の感覚ではないだろうか。ただ,この間の社会の基盤の激変によってこれをヴィヴィッドに呼び出し,これに素朴に応対することが困難になった。「たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう」(今橋愛)。穂村はこんな若い歌人の歌をあげ,この歌は「殆ど棒立ちという印象」だが,その「過剰な棒立ち感」にいまは「奇妙な切実さや緊迫感」が宿っている,と言う。「棒立ち」とは想いと「うた」のあいだにレベル差がないこと。その背後では世界観が素朴化し,「自己意識そのものがフラット化している」。穂村によれば,「生の1回性」の感覚は先鋭な歌人たちのもとでこの「棒立ち」化を通じ,何とか「生き延び」ようとしている。……〈中略〉……彼(東浩紀)は,彼もまた,むろん文学とは「生の1回性」の感覚に基づくと言っている。ただ,従来の文学的な(自然主義的)イデオロギーを信じている限り,もうその生の1回性の感覚(文学)は回復できないと言う。自分の先行者である大塚英志は,まんが・アニメ的リアリズムでもって一時従来の純文学との対決を試みた(笙野頼子との純文学論争)。しかし大塚自身が「文学」の「生の1回性」をイデオロギーとして信じている分,まだそれでは不徹底である。そこから1歩進め,物語内の読解ではなく,物語外の関係性を含んだ環境的な読解へと進み,ゲーム的リアリズムともいうべき第3の読解のレベルを作り出さなければ今の広義の文学で起こっている「生の1回性」をめぐる先鋭な試みは取り出せない。これが東の言っていることである。むろん彼は,自分では,こうは言わない。「棒立ち」の姿勢つまりキャラクターとしての姿勢を崩さないいまの彼にそれは不可能である。(加藤典洋「文芸時評:生の1回性の感覚」『朝日新聞』 2008 年2月 27 日)

 少なくともベルリンの壁が崩壊するまで,群衆現象はマスメディアと切り離すことの出来ない関係にありました。権力は群衆の中から生まれ,また群衆は権力との緊張関係の中に存在するものですが,その関係をとりもつものとしてマスメディアが,影響力をもってきたのは歴史が教えるところです。……この 20 年間,特に 21 世紀に入ってから私たちは次々と新しい種類のメディアを手に入れることになりました。……それらとともに情報の配信技術も高度化し,映像や音楽をどこでも受信するだけでなく,個人がさまざまな情報を配信することも日常的なことになりました。……家や家庭といった特定の場所に固定されることから解放されています。……その一方で,超小型化したコンピュータが,人間社会のいたるところに入り込み,……そのことがもたらす効率や安全の旗印と引き換えに,私たちが非常に厳しい管理と監視の社会に生きなければならないとしたらどうでしょうか。……私はポスト産業社会ならぬ,ポスト情報化社会に,この地球全体が入りつつあることを実感するのです。そしてこのことが今日の群衆に,新たな性格を与え始めているように思えるのです。その 1 つは,疑似群衆の増大と名付けることが出来るでしょう。……実空間で互いに隔離されているのに,情報空間では互いに影響を与えられる具体的な関係をもっている擬似的な群衆が,実在の群衆を凌駕してしまうという現実です。……もう 1 つは非決定性の増大と呼ぶことが出来ると思います。かつてないほどの多くの情報チャンネルを持った個人は,意思の決定を先延ばしにする傾向があります。……歴史上さまざまな群衆が記録されてきましたが,私はポスト情報化社会を形成する最大の群衆は,目に見えないのではないかと思います。これをひとことで表すならば,待機する群衆と言えるかと思います。……地球上のどこにいても,情報システムを通じてつながっている群衆は,常に何かを待っている。たとえば労働の場において,非正社員や移民労働者の問題が指摘されていますが,それは見かたを変えると,常に待機することを余儀なくされるひとびとが増大している……待つ群衆がいかなる力を潜在させているのか,それが見えてくるかどうかは,芸術にとっても政治にとっても,無視の出来ないテーマになろうかと思っています。(港千尋「見えない群衆」『視点・論点』2007年7月17日放送)


1 ストリートの人類学の目標の画定──脱ネオリベラリズムのための人類学再考

 ストリートの人類学は,「都市の( of であり in である)人類学」ではあるが、「都市人類学」の部分をなすようなプロジェクトではない。「都市の人類学」研究者セタ・ロウは,編著『都市を理論化する』( Theorizing the City )』( Low 2005 (1999))という読本(論文集成)の序論で、こう述べる。人類学的都市研究は、都市とは何かという都市の本質主義を検討するのではなく,都市現象として現れている社会関係・象徴・政治経済などに関心を向けていくものであるとする*1。この見方に私は基本的に同意する。この意味での都市の人類学も,ストリートの人類学も,優れて現代社会全体の人類学そのものを探究するものである。歴史的に遡っても都市は,そして都市のストリートは,各時代の社会全体のあり方を敏感に先端的に反映し体現する場であったろう。その見方に同感するので,再びロウを少し長いが引用させてもらう。

 都市を理論化することは,我々が生きるこの変化するポスト工業化の・発展した,資本主義的・ポストモダン的な世界を理解するのに不可欠の役割を担っている。日常生活実践の場としての都市は,こうしたマクロな過程と,人間的な経験の織り方(肌理,組織)や編み方(合成)との連関に関して様々な洞察を与えてくれる。都市は,これらの連関を研究できる唯一の場であるというのではなく,都市においてこそ,(人間的なもの産出とともに)こうした連関過程が集中的に生起しており,そのことがもっとも良く理解されうるのである。こうして本書で描きだされる「都市」とは,1個の抽象概念の表すものではなく,都市民族誌によって描き出される都市生活や日常的実践の文化的,社会政治的顕現の研究の焦点化した場所のことなのである」( Low 2005 (1999): 2)。


 阿部年晴はこうした都市民族誌の視点とその重要性を,もっと大きな人類史のスケールで,もっと方法意識的で鋭角的に,しかももっと早くに指摘していた(阿部 1989)。関根の主宰した前回の民博共同研究「〈都市的なるもの〉とは何か?」の探究(関根 2004a)も,阿部の理論化ないし方法的自覚から照射すれば,その試みの位置もなおさら明確化できる。阿部は都市と都市的なものとを,都市的世界と非都市的世界という 2つの異なる原理に根ざす社会のあり方の比較(都市の脱親和化の方法)の視野の中で,区別する。その手続きによって,都市的なるものは非都市的世界にも存在することを見通す視座が与えられ,妖術的なものと都市的なるものとのとの相応性を明らかにする。妖術は非都市的世界の都市的なるものを体現し,他方,膨張する現代都市の様相の内に権力中枢と交易の結節という世俗的理解だけに留まらない,専門分化の小宇宙を通じた人工環境への過剰適応状況,言うなれば都市の変化のデーモンに取り付かれた都市世界には,再度宗教や呪術からのアプローチが可能であり必要であると説く。領域国家,市場経済,技術的思考は変化のデーモンを増殖させている。それは非都市的人間にはまさに妖術的なものに見える光景群である。この現実分析の考察の後に阿部はこのように述べて,都市のデーモンの幻惑の足下を見つめる都市民族誌の明確な目的と方向性を示す。

 これらはすべて,栄光であれ悲惨であれ,都市の力のあらわれである。だが幻惑する過剰な光景から目をそらすとき,小宇宙とシステムのすきまに,そして何よりも人々の日常生活に,非都市的人間は,力ない薄暮や草木のそだたない荒地をみて目をみはるだろう。この不毛と豊穣はおなじ楯の異なる面である。民族誌的都市論は,日常生活をこのような全体的構図のなかでみなければならない。都市はコミュニティのそとに,社会的機能の集積の場として成立した。コミュニティの日常生活からみれば,それはもともと外的なものであった。生活物質を後背地に依存していたように,都市の生活は,基層的文化をも後背地から継承したのである。その後都市は文化の後背地を都市空間の内部にとりこんだ。それは都市の内部で基層的な文化をうみだす相対的に自律的なコミュニティであった。ところがこんにち,国家 と市場経済と一体化した都市は,自己の内外で,自己存立の要件である文化的後背地を変質させ失いつつある(阿部1989: 52)。


 本研究における都市への注目,そこでのストリート空間への注目の理由は,ここに良く述べられている。本書ではそのことが阿部論文において後背地論からの眼差しで改めて考察展開されている。そのポイントとは,通常言う意味以上の,阿部氏のような文化概念の長波的理解に基づく鋭角的な意味を込めて「文化(宗教)論的転回」を経た民族誌的方法の実践の要請であると,受け取れる*2。したがって,ここでの私たちの試みであるストリートの人類学には,そのことを踏まえた積極的な目論見を語り出せる。その目論見とは,現代社会についての〈境界の人類学〉に真正面から取り組むことであり,日常生活に照準を合わせた下からの民族誌記述を,社会の全体性の中で(まさに「小宇宙とシステムのすきまに」)徹底することである。それは自ずとネオリベラリズムと闘う現代人類学の要請の中心点を射抜くものとなろう。というのも,人類学は近・現代社会批評として,そもそも境界現象の記述を中心に置く学問であるとの認識が私にはもともとあるからであり,それは人類学者の間である程度共有されたものでもあろう。したがって,ストリートの人類学は,人類学の中枢部に位置する境界の人類学の,そのまた核心に迫る試みと言える。
 ストリートという,交通や移動を引き起こす差異・境界を時空間的に体現している場を,議論の対象に意識的に据え,そこでのフィールドワークとそれに基づく理論的議論を通じて,上記の研究意図の達成を試みた。ベンヤミンのパサージュをめぐる論にも似て,ストリートを「対象」であると同時に「方法」であるとした本研究の,ここに提示される総括は,依然として仮説的なもの(仮説的推論abduction の意味で)*3ではあるが,境界の人類学を深化させるために思い切って前進した地点を示そうと思う。
 それは,後述するように境界論における「ベルクソン的・ドゥルーズ的転回」とでも呼ぶべき議論となる。「潜在的なるもの」を前提にした,運動的で,生成的な視点をストリートの検討から導き出し,現代社会を席巻する思潮である近代主義の新展開としてのネオリベラリズムへの異議申し立てを行うものである。その舞台としてストリートはふさわしい。近代主義の精神,それを体現する近代主義的空間では死を宣告され排除されるストリート*4が,それ故に「抵抗」拠点として期待できる場になる。
 ここで,大澤真幸の,量子力学の宇宙と資本主義の相似性を基盤にアガンベンを触媒にした興味深い議論「独裁という名の民主主義」(大澤2007)を参照しておこう。マルクス主義において革命後になぜ真の民主主義の樹立と言わずに「プロレタリアート独裁」なのか,と問いを提出し,それに対して次のように答えてみせる。人民の統一性という民主主義の基盤(私たちが取り出すべき良い面:関根注釈)を阻む力を有する資本主義(剰余価値というアンバランスをもちこむもの)に抗しながら,しかしナチズムのようにユダヤ人という「統一的なドイツ人民」の敵を創出しないやり方,むしろその排除された他者を民主的な意志の代表(社会的な普遍性に代理人)とみなす「プロレタリアート独裁」という独特の民主主義の基本構想を立てる必要があったと述べる。資本主義体制にも,またそれに対峙して立てられた「民主主義の一形態としてのファシズム」にも抗するものとして,「人民」の共同性,統一性にではなく,それがむしろ排除した他者に基礎づけられた独特の民主主義としての「プロレタリアート独裁」を提示する。
この論を引用したのは,「プロレタリアート独裁」と同じ理論的位置に,流動破綻をもたらすネオリベラリズムという高度資本主義(流動性と再帰性だけを高め,アンバランスに「高度均質化」を進めるネオリベラリズム*5に対して,それへの表面的対抗して出てくる防御的ブロック化としての各種ナショナリズムや新たなレイシズム(ホーム中心主義者のゲイティッド・コミュニティと排除されたストリートに近いアンダークラスとの差別的分離)に陥らないで,抵抗克服していくものとして,「ストリート独裁」を据えたいのである。これは人に注目すれば「プレカリアート独裁」とか「サバルタン独裁」と言ってもいっこうに構わないが,ここでは社会空間の縁辺という物理的な場にこだわっておこう。生きるには場(レジス・ドブレならば,トランスミッションを可能にする,歴史的文化的な蓄積を持った具体的な物と人の配備と組織=〈物象化された組織〉と呼ぶもの(ドブレ 1999, 2000, 2001; 西垣・石田2000)が必要であることの強調が,コミュニケーション中心に偏る現代ではとりわけ重要であるから。非−コミュニケーションないしトランスミッションの場を考察するために(ここで,更にキットラーのメディア論(キットラー2006(1986))を想起するのも的外れではないだろう)。
 もちろんそれはストリートのロマン化なのではない。むしろ逆であって,蒙昧に安易にロマン化したホームに向かう主流に対して,鬼気迫るストリート的な現実を差し出すことが目論見である。人間の生の本源あるいは剥き出しの生(アガンベンのビオスに回収できない他者としてのゾーエーに当たるもの(アガンベン 2003))に感応呼応するストリート性を差し出さねばならいほどに,現代は追い込まれたと言うべきであろうか。ストリートをロマン化している余地(特権的外部)など,もうないのである。
 もう1度言うと,ストリートの人類学は,脱ネオリベラリズムを標榜し,知らぬ間に自分が自分で首を絞めていくような自己監査文化(audit cultures)*6の檻の中に現実生活を閉じこめていく主流傾向に歯止めをかける意図を有している*7。そこにこの人類学的研究の社会的コミットメントの要諦があると自認している。
 したがって,本書は,リスク管理のプライヴァタイゼーションを,すなわち自己責任を語り,それを実践できることをナイーブに信じている人に対しては,その狭い妄想・幻想に反省を迫るものである。真の自己責任ではなく,形式化に堕し逆に無責任を呼び込む説明責任(アカウンタビリティ)のディメリット(まやかし)は,責任が自分にかからないようにリスクを先取りする説明を限りなく肥大させかねない。そのことがまた新たな危険を対象化しリスク化していくという高度化を推し進める*8。責任をとるための説明ではなく責任を回避するための言い訳的説明,つまり先取り説明が跋扈するのである(患者の様態の先行きについて説明はするが,その際にけして確実な言葉では言わない医者の姿を思い起こせばよいし,もっと最悪なのが縦割り世界と保身共同体に身をやつす官僚の言語であろう)。しかも,その自己監査文化の趨勢について行けない者を半人前として排除差別する。こうした横並びの官僚化が組織を蝕み,新自由主義の荒廃した不自由として広く深く私たちの日常に浸潤してきている。蒙昧にも嬉々としてその方向に邁進する者が組織には必ずいるものだから,やっかいである。そういう者の首をもまた絞めているのに気づかない。事態はきわめてやっかいで不穏である。
 私たちの研究プロジェクトは,説明責任を果たしながら自己決定,自己責任を負っていくことを求められる社会の有する問題性を正面に据えたい。この問題の探究は,そうした社会の求めに明らかに応答できないで篩いから落とされる人々の産出を阻むということに留まらず,それが広く私たち自身を息苦しくしている現実なのだということをあぶり出すことにある。できないことをできていると勘違いしている勝ち組意識が,蒙昧なものであり克服されるべき標的である。説明責任による透明性の向上という,一見社会の浄化に見えてしまうオーディット・カルチャーは,それゆえにその導入を阻止できず,次々と普及浸透していく。その結果は,底なし沼の自縄自縛であることは明らかである。明らかであっても反論できない,この歯がゆい現実の展開を,なんとか相対化することが,目標になる。
 オーディット・カルチャーに疑問も抱かず,嬉々として取り組む者には,たとえば,内部存在論としてのメルロ=ポンティの哲学(『知覚の現象学』)に是非耳を傾けてほしい (メルロ=ポンティ1982)。曰く,「〈見えるもの=知覚〉には,〈見えないもの=ゲシュタルト〉の意味が描き込まれている」,また「人間にとって存在は見えない側面を含んだ厚みをもって現れる」。このような奥行きが人間と世界にはあるのである。
 先取りの責任回避で手足を縛られ,閉じられ重くなった自己では,社会は構築できず解体していくだろう。社会は自己に固まり重くなった人間たちの自重で自壊していくことだろう。不透明で簡単には説明できない(言語化できない)他者性を含みえないような自己やホームは,閉塞していく。だから,この現代社会の主流に棹さして,人間が生きられる空間をミクロに切り開き直すことが急がれるのである。流動と自立との間で引き裂かれながらも説明責任主体であることを辛うじて維持し,どうにかホームを保守している者は,そのわずかな恒常性にしがみつくようにますます防御的排他的にならざるをえない。にもかかわらず,現実社会の実相はネオリベラリズムの作り出す自由化という名の流動性と再帰性を激化させるのであるから,オーディット・カルチャーとはまさに手の込んだダブルバインド状況(主体の自立化と主体の流動化の 2 つの命令の間で)を私たちに強いるものなのである。実際には気弱なホーム守護者たちが手近なナショナリズムや排他的なコミュニティに引き寄せられる理がここにあるし,それができない者は散り散りに蹴散らされるし,それすらしらけて見える者,あるいは関われば土壺にはまることが分かる者は引きこもるしかない。
 重ねて言うが,このようなネオリベラリズムの跋扈する社会での,対象化しにくい巧妙な差別と閉塞を,「ストリートの人類学」は明るみに出す意図を明確に持っている。この現代社会で生きられる人間を救い出すために考察する研究は増えてきている。たとえば,社会学と精神分析の間で仕事をする樫原愛子は著書『ネオリベラリズムの精神分析』を世に問うた。ここで,その好著の第 2 章「再帰性のもつ問題」で,きわめて簡潔に取り組みの方向性を見極めるための基礎的整理をしてくれていて,参考になる(樫原 2007)。その重要なポイントは,ギデンズやベックが言うように,省察としての自己再帰性と暴走している社会的(制度的)再帰性との区別を自覚的に行い,マクドナルド的主体に人間を非創造的に縮減してしまうような暴走を,良き自己再帰性を探究することで歯止めをかけることだという点である(Giddens 1991; Beck 1986; Beck, Giddens and Lash 1994)。そのときに社会的再帰性が伝統よりも良いという前提も単純には首肯してはならない。伝統が単なる反省なき固定的な継承物と決めつけるのは安易である。実は1回1回作り上げてきたものの堆積ではないのか,ローカリティとはそういうものではないか,それはアルジュン・アパドゥライの近代性を問い直す仕事の主張のポイントでもあった(アパドゥライ 2004; Appadurai 1996)。伝統もまた再帰性を経て作られていたである。その意味で埋め込まれた固定的な伝統と脱埋め込みの流動的な近代との二元論は理論的に相対化される必要がある。
 そのような固定か流動かの二元論ではなく,日常的な生活世界が保ってきたはずの,正常な自己再帰性の空間を再評価し,現代において確保することが肝要である。そのための要点をこれまでの議論を整理する形で、3点記したい。いずれも現代の生活現場では言い出しにくくなっていることであるが。だからあえてここに述べる。

  1. 人間は自身が生きられる場について,そう簡単に「説明責任」は果たせないというあたりまえの事実に立ち返ること。
  2. 人間は危険(danger)とともに生きているのが常態であったし,あると覚悟すること,つまり有責性を外在化させ,当事者に問いすぎないことでリスク( risk )社会化に歯止めをかけること。
  3. 規則ルールは現場に即応して生成的であるときのみ健全で人間が生きられる場を開拓できるものであること。

 改めてこのような基準点を据え直すことによって,説明責任の履行とリスク化の増大との負のスパイラルに私たちを閉じこめるような,上からの自己点検命令という間接支配的な抑圧政策に抗する方向性だけはまず確認することができるだろう。そして 3)に関わるが,自己責任と外在要因の折り合い,危険とリスクとの折り合いをほどほどに止めるようなまともさを社会が取り戻すには,いつでもどこでも通用するような一般論で思考していては絶対にかなわないことが,重要である。そうしていてはネオリベラリズムの檻から脱出できない。そうではなく,ミクロな生活現場で具体的に身体をもって責任と危険とリスクの折り合いをもたらす解決策を探ることをはずしてはならない。このことが真に肝要である(本書の磯田和秀論文は,「道草」をめぐって,道草を日常実践の中に取り戻すこと論じ,ここでの志と共有するものがある)。
 このミクロな実践は,まさに,アパドゥライが『さまよえる近代』において明確に議論していた,具体的なマテリアルとコンテクストを踏まえたローカリティとネイバーフッド(近接,近隣)の絶えざる生産過程のことである*9。つまり,ローカル・ノレッジやストリート・ノレッジが果たしてきた役割こそが,固有の現実に即したその場に固有の解決策なのである。排他的な「高度均質化」に抗する道は,そうした固有の場を拠点にしなければ拓かれてこない。ついでに公共の場からの葛藤の追放が非人格的な官僚化への後戻りをもたらすとの,セネットの警句を思い起こしておくのも重要だろう(セネット1975; 1991)。しかしあくまでも葛藤は平均化した公共空間においてもはや想定されるべきではなく,ミクロな固有の場において実践されるものとして学ぶのである。


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*1:Fox (1971; 1977),Jackson (1985),Gulick (1989)などの都市人類学の先行レビューにおいては,都市における(in)よりも都市の(of)人類学が強調されてきた傾向があったが,この区別は Gulick の言うように,「微妙なことでも細事にこだわるようなものではない」のであると,Low は整理している。都市の人類学は of であってもそこだけに限定され得ない in において全体社会が考察されることになるのである。

*2:この点は,詳細にしかも説得的に文化地理学者フィリップ・クラングによって行われた,経済と文化との組み合った関係の議論でバランス良く補足できる(Crang 1997)。クラングは,研究の力点の経済から文化への移行が 1990 年をはさんでネオリベラリズムの展開と並行して強まったことが多くの識者によって指摘されていることを引く。地理学ではこの時期にモラル・ジオグラフィーズが経済地理学を凌駕していくという。構造主義的転回というもう少し長い歴史を有するものこそ,本来のカルチュラル・スタディーズの登場と言うべきだが,いわゆるカルチュラル・スタディーズの流布が世界的に起きるのがこの時期である。しかし,カルチュラル・スタディーズの流行,一般化は,本来のそれの有していた民族誌的方法を矮小化する傾向を生み出し,言説中心の戯れに零落する傾向が生じさせて,浅薄な意味での文化への移行に批判もあがることになった。ここでの文化論的転回は,浅薄な意味次元の文化移行を明確に拒否しており,阿部に学び,人類史における文化の存在意義という深い歴史的射程をもった意味での文化からの現代社会再考の必要性を訴えるために,用いられていることを確認したい。文化人類学とカルチュラル・スタディーズとの交差に関しての適確なレビューに,(小田2006)がある。

*3:アリストテレス以来の概念,そしてプラグマティズムの元祖 C. S. パースが重視した概念 abduction は,日本では川喜田二郎が早くに著書『発想法』(川喜田1967: 4–6)において,野外科学すなわち人類学的フィールドワークの中心的役割に据えている。川喜田はこのキーワードを上山春平から聴いたとし,また上山春平の『弁証法の系譜』(上山1963)の 6 章に特に負っていると記している。

*4:たとえば,ブラジルの前近代の都市空間と近代主義の典型的な成果ブラジリアの都市空間との比較検討した(Holston 2005)において,近代的都市におけるストリートの死が論理的に考察されている。

*5:樫村愛子は著書『ネオリベリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか』(樫村2007)の冒頭でネオリベラリズムの時代の特徴を再帰性と恒常性をキーワードにして簡潔に説明している。

*6:マリリン・ストラザーンが編集した『監査文化―説明責任・倫理と学界にについての人類学的研究』(Strathern ed. 2000)は,自らが巻き込まれた現代社会の再帰的な人類学的研究として突出した成果である。これは,ヨーロッパ社会人類学学会(European Association of Social Anthropologists)のコンフェレンス(Conditions of Work, Conditions for Thought)とワークショップ(Auditing Anthropology: the New Accountabilities)での議論をもとにした論文集で,近年のネオリベラリズム的な改革を人類学がどのように見るかという論考や,人類学にとって「アカウンタビリティ」といった倫理がどのように作用するかを問う論考が収められている。日本の人類学界では春日直樹が鋭く反応し興味深い展開をしている(春日 2007)。監査(Audit)とは,もともと民間企業が適正な活動を行なっているかどうかを利害関係者に説明するための証明手続きを指していた。近年の行政改革という名のネオリベラリズム的施策では,公共支出の適正化を図るため,この民間部門における監査の手法が公共部門へと導入されてきている。民間企業のように競争に晒し,効率性を高めることが目指されているとするのだ。この方向は高等教育や研究機関にも及び,監査報告を支えるアカウンタビリティ(説明責任)という倫理的命題を導入することで,業績評価等の自己点検システムを導入するようになっている。これが,社会全体を覆い始める監査文化なるものの成立過程なのである。ここには,狭隘なる近代の科学主義ないし合理主義が貫徹していることを見るのは容易だし,誰にでも分かる言葉や数字で説明できないものは存在の場を失うという短絡した成果主義によって,今や組織はそれ自身の存立基盤をじっくり育てる猶予となる時空を縮小・枯渇させられてきている。その枯渇過程に巣くっているのが,自らの自己点検については先延ばしにし,責任をとらない官僚システムであることもまた良く知られ,空しい自己点検によって人心の荒廃に拍車をかけている。だから,監査文化とは闘うべき対象を意識化するために否定的に名付けられたものなのである。

*7:たとえば,白石嘉治・大野英士編『ネオリベ現代生活批判序説』(白石・大野編2005)などに,私たちの試みに重なるネオリベ傾向の独走への憂慮が容易に見て取れる。この新評論から出版された本の中身の紹介文を引用させてもらう。「2005.9.11 の衆院総選挙は,自民党の地滑り的勝利で終わった。比例制のマジックによる錯覚勝利にすぎないにもかかわらず,小泉政権は“郵政民営化が支持された国民投票”などと公言している。しかし,「郵政民営化」をはじめとする小泉政権の「改革」の中身と終着点を,私たちは本当に理解しているだろうか? たしかに「官」の非効率や不正をなくすためにできる限り民間に委ねようという主張は説得力をもつ。だが小泉流民営化論を基礎づけているのは,市場の万能を唱えるネオリベラリズム新自由主義)の教義であり,それは「市場の原理に従って儲けることができた者だけが生き残る」ことに行き着く。言うまでもなく「民営化」はとうの昔に始まっていた。電電公社=通信,国鉄=交通,大学=教育等々。年金も渦中にある。では,次は医療だろうか? その次は軍事? さらにその先には……こうして公共部門が削られ,市場に委ねられてゆくことで生きてゆけなくなったとしたら,その人は「生きなくてよい者」なのだろうか? 仕事を失い,食べられなくなった時,「市場の原理なのだからやむを得ない」などと納得するだろうか?「市場」に,ある人間が「生き残るべきか否か」を委ねてよいはずがない。小泉政権の「改革」の根底にはネオリベラリズムがあり,その終着点には生の統治がある。本書では,「埼玉大非常勤講師大量解雇事件」を出発点に,たとえば「大学」そのものを「公共空間」として捉えることのできないわれわれの“ネオリベ化した感性”が問い直される。4人の思想家・活動家(入江公康樫村愛子矢部史郎・岡山茂)へのインタヴューによって,ネオリベ的現況がさまざまな角度から浮き彫りにされる。医療,教育,交通,通信=生の普遍的な条件としての公共性が毀損されつつある現在,その毀損への抵抗がいかに可能かを考え,行動しなければならない」(新評論のweb サイトより)。

*8:危険とリスクの相違については,佐古輝人が『畏怖する近代―社会学入門』において,分かりやすく説明している。「ふつうリスクという語は危険(danger)とほとんど同義のように使われている。人はそれを安全(security)と対極にあるものとして捉えようとする。しかしルーマンの指摘によれば,リスクの反対概念は安全ではない。リスクの対極にあるのは,危険である。安全を,望まない結果がもたらされる可能性のない状態,危険を,望まない結果についての責任が当事者ではなく,当事者に外在する非人間的要因に割り当てられている状態,リスクを,望まない結果についての責任が当事者のあいだで分配されなければならない状態としてみると,このことはわかりやすい」(佐古2006: 147)。更に「危険を認識しリスクに置き換えることは危険を減少させるのではなく,以前には考慮する必要のなかった新しい危険を生み出してゆくのだから」(佐古 2006: 148)。

*9:特に,Appadurai (1996: Ch. 9),アパドゥライ(2004: 第 9 章)に詳しい。

永遠の経済的非常事態 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳


 今年*1、ユーロ圈の緊縮策に対して、ギリシア、またそれほどではないにせよアイルランド・イタリア・スペインでも、抗議行動が繰り広げられた。こうした状況のもと、2つの筋書きがその正統性を主張して、顕わとなった*2。その1つである体制側から広汎に流布された筋書きは、危機から政治性を抜き取り、それを自然な状態として一般化するというやり方であり、政治的選択に根拠を据えた意志決定ではなく中立的な財政金融の論理が求める必要性として、調整手段を提示するというものである。経済の安定には苦い薬の服用が必要だ。簡単に言えば、これである。もう1つの筋書きは抗議する労働者や学生そして年金生活者から提示された筋書きであり、それは、緊縮策を国際的な金融資本が福祉国家の最後の残滓を廃止するために繰り出した試みと捉えるというものである。こうした状況でIMFは、前者から言えば、規律と秩序を担う中立的な担い手と見なされ、後者から言えば、世界資本の抑圧的な担い手と見なされることになった。
 これら2つの展望には、ともに、真理をめぐる1箇の契機が存在している。IMFがそのお得意先である国家に対処するやり方に、超自我的次元を看逃すことはできない。つまり、一方で未払い債務を理由にお得意先を叱責し罰しながら、他方では同時に新規の貸付を申し出るという、IMFの対処法がそれである。だが、IMF傘下の国家に既存債務や新規貸付を返済する力がなく、したがって負債がより多くの負債を生み出すという悪循環に嵌ってゆくということは、誰の目にも明らかである。他方で、この超自我戦略が機能する根拠は、本当は負債の全額を返済する必要が決してないことを分かり切っている借入国が、最終的には、そうした状態から利益を回収することを望んでもいる点にある。
 それぞれの筋書きがそれなりの真理を含んでいるとしても、両者は、基本的な過ちを犯している。ヨーロッパの体制側が依拠する筋書きは、巨大な赤字が金融部門の大規模な債務棚上げや不況期における政府の歳入の低落によって脹れ上がるという事実を曖昧にしている。アテネへの大規模な貸付は、ギリシアのフランスやドイツの巨大銀行に対する債務支払のために用いられることになるだろう。欧州連合による債務保証の真の目的は、民間銀行の救済にある。というのも、ユーロ圈の国家の1国でも破綻すれば、ユーロ圏全体が烈しい打撃を被るからである。他方で、抗議する側における筋書きは現代における左派の相も変わらぬ悲惨な状態を証して余りある。既存の福祉国家との妥協を一般的に拒否するにすぎないその要求に、具体的な計画的内容を見出すことはできない。ここに見られるユートピアはシステムの根源的な変更ではなく、福祉国家はシステム内部で維持可能だという思いつきである。ここでもまた、対抗する議論に一抹の真理が存在することを看逃してはならない。つまり、われわれがグローバルな資本主義システムの包囲網の内部に留まる限り、労働者や学生そして年金生活者からより多くの金を搾り取る手段が、実際にも、必要になるのである。
 ユーロ圈の危機が送り出している真のメッセージは、〔通貨としての〕ユーロだけでなく、統一ヨーロッパというプロジェクトそのものもの死滅であるという主張を、しばしば耳にすることがある。しかし、こうした一般的な言い分を承認する前に、この言明にレーニン的な捻りを付け加える必要がある。それはこうだ。確かに、ヨーロッパは死んだ。しかし、どのヨーロッパが死んだのか、と。これへの回答は、以下である。ポスト政治的なヨーロッパの世界市場への組み込み、国民投票で繰り返し拒絶されたヨーロッパ、ブリュッセルのテクノクラットの専門家が描くヨーロッパ──死んだのはそうしたヨーロッパなのだ。ギリシアの情熱と腐敗に対して冷徹なヨーロッパ的理性を代表してみせるヨーロッパ、そうした哀れなギリシアに「統計」数字を対置するヨーロッパが、死んだのだ。しかし、たとえユートピアに見えようとも、この空間は依然としてもう1つのヨーロッパに開かれている。もう1つのヨーロッパ、それは、再政治化されたヨーロッパ、共有された解放プロジェクトにその根拠を据えるヨーロッパ、古代ギリシアの民主制、フランス革命や10月革命を惹き起こしたヨーロッパである。だからこそ、現状の財政金融危機に対応するために、国家同士を対立させ自由に浮游する国際資本の餌食になってしまう、完全なる主権を保持した国民国家へ引き龍もるといった、誘惑に屈してはならないのである。それぞれの危機への対応は、これまで以上に、世界資本の普遍性より国際主義的・普遍的でなければならない。


新たな時代

 1つのことが明らかだ。それは、福祉国家を数10年にわたって享受した後に、相対的に限界がある削減が、事態は急速に正常に戻るだろうという約束とともに、到来している現在、われわれが、ある種の経済的非常事態が永遠のものとなり、生活様式にとって定常状態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の恫喝とともに、到来している。
 左派は以下の点を強調するという困難な任務に直面しているのである。それは、われわれが政治経済学に対処していること、そうした危機に「自然なもの」など一切存在しないこと、現行の世界経済システムは一連の政治的決断に左右されることなどである。他方で同時に、左派は次の点にも自覚的でなければならない。つまり、われわれが資本主義システムに留まる限り、その規則の侵犯は、実質的には、経済的破綻の原因となるということである。というのも、このシステムは、自然を装う資本自身の論理に従っているからである。したがって、われわれが世界市場の諸条件(外部化など)によっていよいよ容易になった搾取の強化という新局面に突入したことが明らかだとしても、同時に胆に銘じておかねばならないのは、こうした事態が、財政と金融の崩壊につねに瀕しているシステムそれ自体の機能によって、圧し付けられているということである。
 したがって、現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは、無益なのだ。実際それは、政治を無為かつ限界的にする状況が続くだろうといった希望がその核芯にある、奇妙な急進政治を要請することになる。そうした論法を背景に、バディウの次のモットーが読まれねばならない。バディウのモットー、それは「何も起きないよりも、厄災が起きた方がマシだ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 」である。〈出来事〉が「済し崩しの厄災」に終わる可能性があっても、この〈出来事〉に忠実であるというリスクを冒してみなければならない。現代の左派が自分への信頼を欠いていることのもっとも顕著な現れは、危機に対する怖れなのだ。真の左派は、いかかる幻想にも囚われることなく、危機を真正面から受け止める。たとえ危機が痛みを伴い危険に充ちたものであっても、危機は避けることができず、闘争の許に置かれ、勝利が克ち獲られねばならない領域である。これが左派の基本的な洞察である。これが、現在、以前にも増して毛沢東の古いモットー──「天の下に混沌、絶好の機会」──が妥当性をもつ所以である。
 今日、資本家批判には事欠かない。環境を汚染する企業、公的資金を使って救済された銀行の重役が巨額のボーナスを貰い続けているといった銀行の腐敗、児童が夜間労働を強いられる労働搾取工場などの報道を溢れんばかりに送り続けている新聞記事やテレビ報道そしてベストセラーを見れば分かるように、われわれは資本主義の恐怖に対する「過剰な」批判を目の当たりにしている。しかし、どんなに冷酷に思われようと、こうした何でもありの批判には策略が仕掛けられていると言わねばならない。総じてこうした批判では、その内部でこうした過剰をめぐる闘いが組織されるであろう自由−民主主義的な枠組み〔そのもの〕が問われることがないのである。そうした批判の目的は、明示的に指摘されているか、あるいは単に含みを残しているだけなのかを措けば、メディアの圧力、議会による調査、より厳格な法制度、誠実な警察による調査などを通じた資本主義の制御〔に留まるの〕であって、ブルジョワ国家法の自由−民主主義的な制度機構「そのもの」が問われることはない。これは神聖不可侵のものとして温存され、「倫理的な反資本主義」というもっとも急進的な形態をとった運動──ポルト・アレグレでの〈世界社会フォーラム〉やシアトル的運動──でさえ決して触れようとしない論点なのだ。


 国家と階級

 マルクスの基本的洞察がこれまで以上にその有効性を保っているのは、この点であろう。マルクスにとって自由という問題は、グローバルな金融制度が1国についての判断を表明するに当たって適用する基準のような、政治的領域そのものに一義的に据えられてはならない問題である。そも、自由な選挙は存在しているだろうか? その判断は独立性を保っているか? 報道は隠然たる圧力をまぬかれているだろうか? 人権は尊重されているか? 実際の自由にとって重要なのは、実効的改善に必要とされる変化が政治的な改良ではなく、生産の社会的諸関係における変化であるような、市場から家族に到る、社会的諸関係の「前政治的な」ネットワークである。われわれは誰が何を所有するかを投票で決めるわけではない。工場における労使関係も投票で決まるわけでもない。こうしたことは、すべて、政治的なことをめぐる領域の外部で決まる過程に委ねられている。例えば「民主的な」銀行を人民のコントロールの下に組織するといったように、民主主義をこうした領域にまで「拡張する」ことで事態を実質的に変化させることができるなどと考えることは、幻想というものだろう。こうした領域における急進−根源的な変化は、法的権利の領域の外部に、存在しているのである。そうした民主的な手続きが肯定的な役割を果たしうることは、言うまでもない。しかし、そうした手続きは、その目的が資本主義的再生産の混乱なき機能を保証することであるような、ブルジョワジーの国家装置の一部分であるに留まっている。こうした厳密な意味から言えば、現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義であるというバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の急進−根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。
 「民主的諸制度」の物神化を脱するこうした必要性に密接に関わっているのは、その否定的な双対物である暴力の脱物神化である。例えば、最近バディウは、(ポーランドにおける初期の「連帯」のように)国家権力の統治から〔みすがらを〕差し引き、距離を採った、自由な領域を打ち立て、これらの「解放された圏域」を粉砕しふたたび領有しようとする国家の企みに暴力的に抵抗することだけをその手段とする、「防衛的な暴力」の行使を提起している。こうした定式が孕む問題は、それが国家装置の「通常―平時の」機能と国家暴力の「過剰な」行使との根底的に問題含みの区別に依拠している点にある。しかし、階級闘争マルクス主義的概念の原則には、次のようなものがある。それは、「平和な」社会生活は、それ自体が、1つの階級──支配階級──の(一時的な)勝利の表現である、というものである。従属階級・被抑圧階級の立場から言えば、国家が階級支配のための1装置として存在すること自体が暴力であるという1箇の事実である。同様にロベスピエールは、弑逆は王による犯罪行使の証明によっては正当化されない、と論じている。王が存在していることそのこと自体が、一箇の犯罪、人民の自由に対する攻撃なのである。こうした厳密な意味から言えば、支配階級とその国家に対する被抑圧者による威力の行使は、最終的にはつねに、「防衛的な」のである。こうした立論を受け容れなければ、われわれは国家を「通常−平時化」し、その暴力を単なる偶発的過剰の現れとして受け容れる他に術がなくなってしまうだろう。標準的な自由主義的モットー、つまり暴力に訴える必要があるときもあるが、それは正統性をもたないというモットーでは、不充分なのだ。急進的−解放的な展望から、そうしたモットーを引っ繰り返さねばならない。被抑圧者にとって暴力はつねに正統──というのも、彼(女)らの地位が暴力の所産に他ならないからである──だが、決して必然ではない。敵に威力を行使するか否かは、つねに、戦略的考察事に属している。
 要するに、暴力という論題から神秘的要素が取り除かれねばならない。20世紀の共産主義が冒した間違いは、暴力に依拠したことそのこと自体──国家権力の奪取、奪取した国家権力を維持するための内乱──にではなく、暴力へのある種の依拠を不可避として正統化した、歴史的必然性の道具としての〈党〉などの、より大きな機能様式にある。ヘンリー・キッシンジャーは、アジェンデ政権をどのように顚覆するかについて助言を与えたCIAへの覚書で、簡潔に、「経済に悲鳴を挙げさせろ」と語っている*3。以前の合衆国高官たちも、現在、ベネズエラでも同様の戦略が適用されていることを明け透けに認めている。前国務長官口ーレンス・イーグルバーガーはFOXニュースでベネズエラ経済について次のように述べている。「それ〔経済〕は、何よりもまず、チェベスに対してわれわれが有している1つの武器である。われわれはこの武器を使わねばならない。つまり、経済をもっと悪化させ、その結果、国民と地域へのチャベスの影響力を殺ぐために、経済的手段を使わねばならない」と*4。現行の経済的非常事態においてもまた、われわれは、盲目的な市場過程ではなく、自分かちの都合の良いように危機を解決しようと目論んでいる国家と金融制度による高度に組織化された戦略的な介入に、直面しているのである。またそうした状況では、いわゆる防衛的な対抗手段が適切ではないのか?。
 こうした考察は、急進的な知識人の脳天気な主観的立ち位置を、彼らが20世紀を通じて非常に好まれたその精神的実践──政治状況を「崩壊的危機に叩き込む」という衝迫──をいまだ信奉していても、粉微塵にする他ない。アドルノとホルクハイマーは、「管理された世界」において「啓蒙の弁証法」がその窮みに達することのなかに、世界の崩壊を看ていた。アガンべンは20世紀の収容所を西洋世界を覆う政治的プロジェクトの「真理」と定義した。しかし、1950年代の西ドイツでホルクハイマーが描いた構図を思い起こして欲しい。ホルクハイマーは、一方で近代西欧の消費社会における「理性の腐蝕」を公然と非難しながらも*5、他方で同時に、この近代西欧消費社会を全体主義と腐敗した独裁制の大海における自由の孤島として擁護してもいるのだ。だが本当は、知識人たちが基本的に安全で居心地がいい生活を送り、またそうした生活を正当化するために急進的な崩壊という筋書きをでっち上げているとしたらどうだろう? 大多数の人びとにとっては、革命が起こっているとしても、それが、キューバ、ニカラグアベネズエラといったように、遠く隔たった場所で起きているがゆえに自分の生活は脅かされず、その結果、遠き彼方での出来事に想いを馳せることで彼らの心がポッと暖かくなりながらも、これまでの仕事(のうてんき)を続けてゆける。しかし、産業を軸とする先進国経済において当然のごとく機能してきた福祉国家の現下における崩壊に直面した知識人たちは、〈自分たちは本当の変化を欲望していた。そして今、この本当の変化を行うことができる〉といった説明をなさねばならない真理の秋(とき)に、近づいて」いるのである。


 イデオロギーとしての経済

 永続する経済的非常事態は、左派が、辛抱強い知的作業を、その直接的な「実践的使用〔法〕」を知ることなく、放棄せねばならないといったことを意味しない。まったく逆だ。いま、以前にも増して銘記せねばならないことは、共産主義の緒点がカントが『啓蒙とは何か』の有名な一節で「自分の理性を公的に使用すること」と呼んだことの裡にあるということである*6。すなわち、思考の平等主義的普遍性が、緒点なのだ。われわれの闘争は、したがって、国民国家を超える開かれた空間を脅かす現下の「再−構造化(リストラ)」が帯びるこれらの側面に、光を当てなければならない。1つの事例を挙げれば、欧州連合で進行している、「ヨーロッパにおける高等教育システムの構造に同一の基盤を与える」ことを目指しながら、じつは、理性の公的使用への断固とした攻撃である、「ボローニャ・プロセス」である。*7
 これらの改革の根底には、高等教育を専門的見解の生産を通じて社会の具体的な諸問題を解決するという任務に就かせるという衝動がある。ここで消え失せていることは、思考することに込められた真の任務である。真の任務とは、「社会」──実際は、国家と資本──が課した諸問題に解決策を提供するだけでなく、これらの問題が帯びる形態そのものを反省し、われわれが問題を知覚する方法そのものに問題を察知するという任務である。高等教育を社会的に有用な専門的知識を生産する任務に切り縮めることは、カントのいわゆる「理性の私的使用」が現代のグローバル資本主義において典型的に帯びる形式、すなわち、偶発的で教条的な前提に制約された「理性の使用」である。カント的表現で言えば、それは、理性の普遍性の次元に棲まう自由な人間存在としてではなく、「未熟な」諸個人としてわれわれが行為することに関わっている。
 それは、高等教育の効率化に向けた圧力──直接的な私有化あるいはビジネスとの結びつきという姿態を採るだけでなく、教育を専門的知識の生産に方向づけるというより一般的な意味で──を知的生産物という共(コモン)の囲い込みと一般的知識の私有化の過程に結びつけるという意味で、きわめて重要である。このプロセスは、それ自体として、イデオロギー的な呼び掛けが採る様式の下でのグローバルな変換の一部を構成している。ここでは、アルチュセールの「イデオロギー的国家諸装置」という考え方を思い起こすことが有用だろう。中世における「イデオロギー的国家諸装置」が、制度としての宗教という意味で、教会だったとすれば、資本主義的近代の夜明けは、学校システムと法的イデオロギーという双子のヘゲモニーをわれわれに課した。諸個人は普通義務教育を通じて法的主体へ変換され、他方で主体は法的秩序の下にある愛国的な自由の主体として呼び掛けられた。ギャップは、したがって、ブルジョワと市民の懸隔、自分の私的利害にかかずらう自己中心的な功利主義的個人と国家の普遍的領域に献身する市民(シトワイヤン)とのギャップとして、維持された。自然発生的なイデオロギー的感覚において、一方で自己中心的な利害関心が「前イデオロギー的」と見なされながらも、イデオロギーが市民の普遍的領域に制限されている限り、イデオロギーと非イデオロギーとのギャップそのものが、したがって、イデオロギーへと転移することになったのである。
 〈68年〉後に起こったことは、経済そのもの──市場と競争の論理──が徐々にみすがらを覇権的なイデオロギーとして課すようになったことである。教育について言えば、われわれは古典的なブルジョワ的「イデオロギー的国家諸装置」が段階的に引っ繰り返されるという事態を目の当たりにしている。学校システムは徐々に義務的なネットワークではなくなり、市場の上部にまで上り詰め、国家によって直接的に組織され、啓蒙的価値──自由、平等、博愛──の担い手になった。「低コスト・高効率性」という神聖にして冒すべがらざる定式のために、学校システムは「公−私提携 public-private partnership 」といった形式に徐々に浸食されている。権力の組織化と正統化においてもまた、選挙システムは徐々に市場競争モデルに基づいて理解されるようになった。選挙は、投票者が社会秩序を維持し、犯罪を起訴するなどといった仕事をより効率的に行うことを謳う選択肢〔商品としての政策〕の「購入」者であるような商業的交換に類似している。
 「低コスト・高効率性」という同様の定式のために、かつては国家権力の領域に専権的であった機能も、刑務所の経営と同じように、いまや民営化可能である。もはや軍隊は徴兵制度に基づくのではなく、傭兵から構成されている。国家官僚制でさえ、ベルルスコーニの場合に明らかになっているように、もはやヘーゲル的な普遍階級ではない。今日のイタリアでは、国家権力は自分の個人的な利害を守るための手段として断固かつ公然と利用する卑しいブルジョワ階級が執権している。
 感情的諸関係に関わる過程でさえ、ますます市場関係の流れに即して組織されるようになっている。そうした手続きは自己の商品化に基づいている。インターネットの出会い系や婚活の代理店にとって、出会いや結婚相手を求める人びとは、その品質を列挙し、写真を掲載することに見られるように、自分自身を商品として提示しているのである。ここで見失われていることは、自分に即座に好意をもってくれるようにしてくれたり、自分以外を即座に嫌いにしてくれる特異な魅力を指す、フロイトのいわゆる1本の線 der einzige Zug である*8。愛は必然性として経験される1箇の選択である。ある点で、人間は、すでに愛しており、他にはどうしようもないという感情に襲われる。定義的に言えば、したがって、それぞれの候補者の品質を比較し、誰と恋に落ちるのかを決意するといったことは、すでに愛ではありえない。だからこそ、出会い系は優れて反−愛の装置である。
 これはイデオロギーの機能におけるどのような類いのシフトを含意しているのだろうか? イデオロギーが諸個人に呼び掛けて諸主体を創り上げる──このようにアルチュセールが主張するとき、この「諸個人」は、イデオロギー的国家諸装置が作動し、諸個人にミクロな実践のネットワークを課すために依拠する、生ける存在を表現している。それとは対照的に、「主体」は生ける存在、すなわち実体の範躊には、含まれない。「主体」はイデオロギー的国家諸装置という装置あるいは機構に搦め捕られているこれらの生ける存在の所産である。きわめて論理的に言えば、経済が非−イデオロギー的な領域と見なされている限り、グローバルな商品化のこの荒々しい新世界は、みすがらをポスト−イデオロギー的と見なしているのである。イデオロギー的国家諸装置は、言うまでもなく、いまだここに存在している。しかもこれまで以上に。しかし、イデオロギーが、それ自身の自己−認識において、前−イデオロギー的な諸個人とは対照的に、諸主体に棲まっている限り、経済的領域のこの覇権はイデオロギーの不在として現れる他ない。これが意味することは、イデオロギーがその土台にとっての上部構造として経済を「反照する」に留まっていることを意味しない。むしろ経済は、ここでは、イデオロギー的なモデルそのものとして機能しているのである。だからこそわれわれは、経済が、「現実の」経済的生活とは対照的に、イデオロギー的国家諸装置として作動していると言うことを許されるのであり、それは理念化された自由な市場のモデルを決してもたらさないのである。


 不可能なこと

 しかしながら、今日、われわれが目の当たりにしていることは、このイデオロギー的な機構の作動における根源的な変化である。アガンベンは、われわれの現代的な「ポスト政治的」あるいは生政治的な社会に対して、多数の装置が新たな主体性を生み出すことなく諸個人を脱主体化する社会、という定義を与えている。

 政治の腐蝕──それは実体を有する主体あるいは(労働者の運動やブルジョワジーなどの)同一性(アイデンティティ)を想定していた──と経済の勝利、つまりそれ自身の再生産だけを追求する統治の純粋な行為の勝利。今日、権力の運営に関しては互いのやり方を追随する左派と右派は、したがって、左派と右派を指示する表現の起源である政治的文脈とは、ほとんど無関係である。今日、こうした表現は、政府という同一機械の二極──平然と脱主体化を目指す一極と民主主義の良き市民という偽善的な仮面で脱主体化を隠蔽しようとする他極──の名称にすぎない*9


「生−政治」は、もはや諸装置が主体を生みださず(諸個人に呼び掛け、諸主体を造りあげず)、諸個人の剥き出しの生を管理制御するだけの布置を指しているのである。
 こうした布置では、根源−急進的な社会変革という考え方そのものが、1箇の不可能な夢として、現れるだろう。またこの「不可能な」という表現がわれわれを立ち止まらせ、そこから思考が始まるのである。今日では、可能なことと不可能なことが不思議なやり方で割り振られ、両者は同時に過剰に向かって爆発している。一方における個的自由と科学的技術の領域では、「不可能なことは何もない」と言い聞かせられている。どんなに変態的なセックスも楽しめるし、音楽・映画・連載テレビものの全記録もダウンロードできる。(金があれば)誰でも宇宙旅行ができるといった具合に。身体能力や精神能力の強化やわれわれの基本的特性を、ゲノムに介入することによって、操作することができるといった展望さえ出てきている。あれこれのハードウェアにダウンロード可能なソフトウェアにわれわれのアイデンティティを取り込むことによって不老不死を達成するといった、テクノ・グノスティックな夢だって見ることができる。
 他方、社会経済的な諸関係の領域は、われわれの時代は、人類が旧き千年王国的な夢を放棄し、あらゆる点で不可能性だけが支配しでいる現実──資本主義的な社会経済的現実と読め──の制約を受け容れる成熟の時代と自己規定している。〈君ニハ不可能ダ〉という掟が、その指令語〔秩序の語 mot d'ordre )である。大規模な集団行動には加われない。それは全体主義的テロルに帰着する他ないから。旧来の福祉国家にしがみつくことはできない。それは競争を阻碍し、経済危機をもたらすから。グローバル市場から身を剥がすことはできない。北朝鮮の主体思想の亡霊の餌食になってしまうから。そのイデオロギー的解釈から言えば、エコロジー「思想」もまた、みすがらを不可能性、「専門的見解」にその根拠を据えるいわゆるギリギリの価値──たかがか気温が2度上がった程度の地球温暖化──をそれ自身のリストに加えるだろう。
 ここでは2つの不可能性を区別することが重要である。社会的敵対関係の〈不可能な−現実的なこと impossible-real 〉と支配的イデオロギーの領域が焦点を絞る「不可能性」である。不可能性は、ここでは、ふたたび二重化される。それは、それ自身の仮面として、機能する。つまり、第2の不可能性のイデオロギー的機能は、第1のそれの現実的なことを曖昧にすることである。今日、支配的イデオロギーは、われわれに根源−急進的な変化の「不可能性」、資本主義の廃絶の「不可能性」、腐敗した議会におけるゲームに切り縮められない民主制の「不可能性」を受け容れさせる努力を払っている。その努力は、資本主義社会を貫いている敵対関係の〈不可能な−現実的なこと〉を見えなくさせてしまうという点に向けられている。この現実的なことは、それが既存の社会秩序、その構成的な敵対性の不可能性であるという意味で、「不可能」である。だからといって、この〈不可能な−現実的なこと〉が直接的に論じ得ない、あるいは根源−急進的に変革し得ないわけではない。
 だからこそ、イデオロギー的な不可能性の超剋のためのラカンの定式は、「あらゆることが可能だ」ではなく、「不可能なことが起こる」なのである。ラカン的な〈不可能な−現実的なこと〉は、現実的に考慮されねばならない先験的な限界ではなく、行為の領域なのである。行為は、可能なことの領域への介入以上のものである。1箇の行為は可能なことの座標軸そのものを変化させ、その結果、それ自身の可能性の条件を遡及的に創出する。だからこそ、共産主義は現実的なことに関わるのである。1人の共産主義者として行為することは現代のグローバル資本主義の根底を支える基本的な敵対関係の現実的なことへの介入を意味している。


 自由?

 しかし、問題が残る。不可能なことを行うことについてのこうした綱領的な言明は、経験的な不可能性、つまり巨大な大衆を動かすことができる1箇の理念としての共産主義の大失敗に直面すると、どのような結果をもたらすのだろうか? 死の2年前、一国社会主義の建設という考え方が無意味であることを知りながらも、ヨーロッパ全体を覆い尽くす革命がもはや望めないことが明らかになったとき、レーニンは次のように書いている。

完全な窮境が、労働者と農民の力を10倍にふやし、西ヨーロッパの他のすべての国家のばあいとは別な行き方で、文明の基本的な前提をつくることに移っていく機会をわれわれにあたえてくれるならば、どうであろうか?〔このために、世界史の発展の一般的方向はかわったであろうか? 世界史の一般的行程に引きこまれようとしている、またすで引きこまれている、それぞれの国家の基本的な諸階級の基本的な相互関係は、このためにかわったであろうか?〕*10


これがボリビアのモラーレス政権、ベネズエラのチャベス政権、ネパールの毛沢東主義者の政権が直面した「窮境」ではなかっただろうか? 彼らは、蜂起ではなく、「公正な」民主的選挙によって権力の座についた。しかし、権力掌握後、彼らは、部分的には、支持者たちを直接的に動員したり、党−国家の代議的ネットワークを迂回するといったように、少なくとも「非−国家的」なやり方で、権力を執行した。彼らが直面した状況は、「客観的には」絶望的である。歴史の全体的な漂流は、基本的には、彼らにとって逆流である。彼らは、自分たちのやり方を押し進めるに当たって、いかなる「客観的な傾向性」にも依拠することができない。彼らにできることと言えば、即興、絶望的な状況の下で為しえることを行うことでしかない。しかし、とはいえ、こうしたことは彼らにきわめて稀な自由を与えはしなかっただろうか? われわれ現代の左派は、まったく同じような状況に置かれてはいないだろうか?
 われわれが置かれている状況は、20世紀初頭の古典的状況の対極にある。20世紀初頭の状況では、左派は何が為されるべきか(プロレタリアートの独裁)を知りながらも、その実行にとっての正しい瞬間を辛抱強く待たねばならなかった。今日、われわれは為すべきことを知らない。だが、いまこそ行為に移らねばならない。なぜなら、行為に移さないことがもたらす結果が破滅をもたらす可能性を孕んでいるからだ。われわれは「あたかも自由であるかのように」生きることを強いられている。われわれは深淵への歩みを踏むというリスクを取らねばならないだろう。しかも、まったく不適切な状況の下で。われわれは新たなことのさまざまな側面をふたたび発明せねばならないだろう。機械を動かし続け、古きにあって良きこと──教育、医療保険、基本的な社会サービス──を維持するためだけに。要するに、われわれが直面している状況はスターリンが原爆について語ったことに似ているのだ。原爆は柔い奴らのためにあるのではない、というスターリンの発言に。あるいはグラムシが第一次世界大戦から始まった時代に特徴を与えるに当たって語ったこと──「旧い世界は死につつある。新しい闘争世界が生まれつつある。いまや怪物の時代なのだ」に*11

*1:訳者──この論文は2010年に執筆されている。なお、この論文の翻訳を許可してくれたスラヴォイ・ジジェクに感謝する。

*2:訳者──ウディ・アロニ、サロイ・ジリ、アレンカ・ジュパンチッチに感謝する。

*3:訳者── Christopher Hitchins, The Trial of Henry Kissinger, London: Verso. 2001. pp.55ff.

*4:Eva Golinger, june 2 2010 ( venezuelanalysis. som )

*5:訳者──ホルクハイマー『理性の腐蝕』山口祐弘訳、せりか書房、1970年。

*6:訳者──カント『啓蒙とは何か 他4篇』篠田英雄訳、岩波文庫、10ページ。

*7:訳者──「ボローニャ協定」とも呼ばれる。

*8:訳者──フロイト『集団心理学と自我の分析』『フロイト著作集』第6巻、人文書院、1970年参照。

*9:Giorgio Agamben, Qu'est-ce qu'un dispositif?. Paris. 2007. pp. 46-7.

*10:レーニン「わが革命について」『レーニン全集』第33巻、498−9ページ。

*11:訳者 ── Antonio Gramsci, Selections From Prison Notebooks, 1971.

マネの新しさ 山中哲夫

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 バタイユはそのすぐれたマネ論の冒頭を次のような書き出しではじめている──くマネの名が絵画史の中でもつ意味は別格である。マネは単にきわめて偉大な画家であるばかりではない、彼は彼以前の画家たちとはっきりと断絶したのである。彼はわれわれが生きている時代を開いた。〉(宮川淳訳)*1確かにマネの絵画はそれまでのどんな絵画とも異なっていた。彼の絵はドラクロワよりもピカソに近いところに位置している。真に「近代絵画」と呼ぶにふさわしい絵画が彼とともにはじまった。彼とともに、主導権がはっきりと絵画それ自体に移った。画家も観衆も二次的存在となったのである。画家の主体は作品のなかに消滅し、見る観衆は逆に作品から〈凝視められる〉存在となったのである。レアリスムが大きく変貌を遂げようとしていたのである。
 1863年の官展はとりわけ審査がきびしく、出品5000点のうち2783点もの作品が落選した。類例のない大量落選であった。前回(1861年)には1289人の画家が受け入れられたのにたいして、今回の入選者は988人にとどまった。ヨンキント、アルピニー、シャントルイユといった年長者も同じ憂き目に遭った。街中に画家たちの不満の声が谺した。デモ隊が組織された。これが当時の皇帝ナポレオン3世の耳に入った。皇帝は落選展を開いたらどうかと示唆した。この気紛れの思いつきが、エドゥワール・マネという無名の画家をパリ全市に知らしめる契機となった。
 これより前、彼は銅版の腐蝕をいつもの職人に頼むため、シテ島の裁判所近くを歩いていたとき、20歳くらいの娘を見かけた。化粧をしない美しい顔、くっきりとしたからだの線、しなやかな手足、赤毛に近い金髪、特にその大きな褐色の目が画家をとらえた。彼はモデルになってくれるよう頼んだ。女優志願の、モンマルトルの丘に生まれた貧しい娘は、すぐに承諾した。名前をヴィクトリーヌ・ムーランといった。彼女をモデルにしてマネが描いた『草上の昼食』(当時は俗に「水浴」と呼ばれた)は落選展に展示され、すさまじいスキャンダルを巻き起こした。理由はその「猥褻性」にあった。当世風の衣服をまとった男2人のなかに、裸の女がいることがブルジョワの顰蹙を買ったのである。ヴィクトリーヌ・ムーランはこれ以上裸になれないほど裸だと言われた。群集はマネの絵を見るためだけに展覧会に殺到した。
 何がこれほどまでに第二帝政期の紳士淑女を刺激し、興奮させたのだろうか。それはマネが表わした人物像の特異なレアリスムのためであった。『草上の昼食』には古典的な下敷きがあった。テーマはジョルジョーネの『田園の奏楽』から、構図はラファエロの『パリスの審判』をマルカントニオ・ライモンディが銅版画に直したものから借りてきたものであった。着衣の男性のなかに裸体の女性がいるのはけしからん、と言うのであれば、ジョルジョーネの作品でもそれは同じことである。マネのスキャンダルは、その人物が当時の人間そのままに,きわめて風俗的に描かれていたことに由来する。そこにはいかなる神話的虚構も施されていなかった。しかもそのポーズ、特に顎に手を当ててこちらを見ている裸の女のポーズがきわめて自然で、むしろポーズを取らないポーズ、制作のためのポーズを終えてくつろいだひとときの姿態そのままといった──しかもそれが裸の、その上実物大の──そのようなあるがままの姿が相当に衝撃的であったと思われる。さらにその裸をことさら強調するかのような、強烈な明暗のコントラスト。裸の女は全身に照明を受けて光り輝いている。この明るい色調もまた、いままで見たことのないものであった。
 マネのスキャンダルは次の1865年の官展に出品された『オランピア』(1863年)によって最高潮に達した。『草上の昼食』騒動に懲りたためかどうか分からないが、審査員はこの作品を人選させた。しかし『オランピア』は絵画史上最大のスキャンダルを巻き起こす結果となった。各紙はこぞって非難した。その口吻には何やら憎悪に似たものすら感じられる。〈このような絵は暴動を引き起こすおそれがある〉(『レポック』誌、〈この黄色い腹のオダリスクは何者か、どこから連れてこられたのか分からないオランピアを表わすこの卑しいモデルは何者か〉(『ラルチスト』紙)、〈彼は……自ら『オランピア』と名づけたこの滑稽な被造物の前に官展の入場者たちを群がらせ、殆どスキャンダラスな笑いを引き起こすことに成功する〉(『ル・コンスティテュショネル』紙)、〈誰もかつて自分の目でこのような、これ以上シニックな効果をもつ見世物を見たことがない。雌のゴリラといったこのオランピアは……〉(『ル・グラン・ジュルナル』紙)、〈マネ氏のことは抛っておこう。嘲笑が彼の絵を裁いたのだ〉(『ル・プチ・ジュルナル』紙)、く群集は死体置場につめかけるように、マネ氏の腐敗した『オランピア』の前につめかける。これほど堕落した芸術は非難するにも値しない〉(『ラ・プレス』紙)等々。出産を間近にひかえた婦人と良家の子女はよろしく避けて通るべしといった忠告もなされた。はじめはABC順に展示されてあったこの絵も、あまりの騒動のため、ついにどんな愚作も掛けられたことのないような、一番最後の部屋の扉の上の暗い壁に掛け直されたが、それでも群集は押し寄せて、警備員を配さなければならない羽目になった。これほど非難が集中した絵画は他にはない。やがて40年後にルーヴル美術館入りになろうなどとは誰が想像し得たろう。ゴーチエも、『オランピア』はいかなる観点からも説明不可能だと断言した*2。「草上の昼食」のときにはこれを支持したクールベですら、今度は”風呂上がりのスペードの女王だ”と非難した。
 しかし『オランピア』は前作同様、これも古典的絵画を下敷きにしたものであった。ティツィアーノ『ウルビノのヴィーナス』のパロディと言っても言いすぎではないほどよく似ているのである。背景の画面構成、両足の組み方(「オランピア」では平面性を強調するためにやや平行に近くなっているが)、右手の腕環、枕やベッドの端が形づくる三角形とその色彩──これはティツィアーノをそのまま踏襲している。異なっている点は次の6点で、まさにここにスキャンダルの原因があると言ってもよい。?優雅なロングヘアー→現代的なショートカット ?髪飾り→耳に挟んだ本物の花飾り ?素足→素足に部屋履き ?うずくまる犬→起き上がった猫?遠景のうしろ向きの下女→前景の花束を持ってくる黒人女 ?オランピアの首に巻かれた黒いリボン──このように、神話的世界を出発点として出来上がった作品は、たんなるオダリスクを越えて、現代の娼婦を赤裸々に描いたまったく新しいものと変わった。オランピアの首の黒いリボンは、好色なブルジョワ紳士に捧げられた贈り物のリボンのようで、このリボンの紐を解く者は、おそらく黒人女が持ってきた花束の贈り主であろう──そのような連想を当時の人々に起こさせるほど、この部屋は第二帝政期の見慣れた娼婦の部屋そっくりであり、横たわるオランピアは神話的存在どころか、前回の「草上の昼食」で顔馴染みの、誰にでもそれと分かる、あの成り上がりの淫売モデル(と言われていた)、ヴィクトリーヌ・ムーランその人であった。“オランピア”という名はまさしくそのような女を呼ぶときの、よく知られた隠語であった*3
 取り澄ましたブルジョワ社会の、その奥に隠された下卑たエロチスムは、神話的な、あるいはアカデミックな体裁を必要とした。『オランピア』と同じ時期に発表され、大成功をおさめたカバネルの『ヴィーナスの誕生』はその代表的なものであった。尻の大きさを強調した18世紀ロココ風のスカート、クリノリーヌの欺瞞に見られる通り、優雅、上品を装いながら、実はそこにあからさまな性的欲望が渦巻いていた。ブーシェなどの18世紀のギャラントな風俗画の流行もそのひとつの表われであろう。マネのオランピアの肢体のあざやかさ、そのくっきりと浮び上がった裸体の明るさは、また観衆に当時流布していたポルノグラフィックな娼婦の写真(名刺代りに使われていた)を連想させもしたろう*4
 しかし観衆がいきり立ったのは、このようになにからなにまで1863年当時の娼婦そっくりに描かれていたためばかりではない。確かにそのシーツの白さは情事以外のものを思い起こさせないほど生々しく、異様ですらあるが、彼らが衝撃を受けたのは、さらにオランピアの、その挑むような眼差しのためでもあった。「挑発的」なのではない、「挑戦的」なのである。ブルジョワの安手のモラルの下に隠されている低俗なエロチスムを、彼女の目は白日の下にあばいてみせているのだ。この女を前にして、彼らはどこにも逃げ場がない。裸にされているのはむしろ観衆の紳士だちなのだ。横たわっていたウルビノのヴィーナスがゆっくりと身を起こし、顔を真正面に向け、その冷たくよそよそしい眼差しで観衆を見下ろしたとき、彼女は偽善の裏側を知りつくした第二帝政期のヴィーナス=娼婦へと変身したのである。また同時に、うずくまっていた犬もおもむろに身を起こし、この動きそのものによって、犬はボードレール的な轟惑の黒猫へと姿を変えたのである。
 『オランピア』騒動の社会的な意味は以上のようなものであったが、しかしこの絵画の価値は、もっと別の面にある。この作品の技法上の問題こそが、マネを現代絵画へと近づけたのである。クールベは『オランピア』を否定して、いみじくもこう言った──“風呂上がりのスペードの女王”。なるほどトランプの絵柄を思わせるほどの単純化がそこでは行われている。単純化は相反する2種類の技法によって成し遂げられる。すなわち、「平塗り」「輪郭線」と「タッチ」である。明暗法を破棄し、色調の微妙な変化のみによって立体感を出し、中間色(ハーフ・トーン)は使われていない。オランピアの肉体はどこまでも平面的に描かれながら、その肌のみずみずしい感触は少しも損なわれていない。不思議なリアリティである。さらに遠近法を無視し、奥行を否定している。また一方で、紙に包まれた花束によく表われているように、斬新なタッチを駆使して花々の存在感を見事に引き出している。(マネのタッチは〈奇蹟的な〉と呼ばれる)また絵画全体を包むすぐれた色調や色階は、彼がコロリストとして一流であったことを証明するばかりでなく、また現代絵画に一歩足を踏み入れたことを示すものでもある。(モチーフおよび形態を無視して、その色彩だけを抽出するならば、この絵は抽象画としても見事なハーモニーを醸し出すだろう)例えば黒人女の肌の色合とミルク色がかった淡いローズのドレスの色との配合の妙、花束を構成する白、青、赤、緑のトーンの新鮮な美しさ(青はそれだけ拡大して見るとむしろ灰色に近い)、バックの暗緑色に浮ぶ2人の人物の色合、そして極めつけは、ポイントとして使われたオランピアの首のリボンの黒。このような画面の平面化、単純化、中間色を捨てた色調の強烈さと調和は、誤解を恐れずにあえて言えば、これは絵画の意匠化、デザイン化に近いものである。マネはここにおいて明白に伝統絵画と手を切った。『オランピア』は当時のブルジョワ社会の否定であったが、また同時に西洋絵画400年の否定でもあった。静物は副次的存在であることをやめ、人物と同じ価値をもつものとしてその存在を主張しはじめる。黒人女の花束のそれぞれの花が、オランピアの目と同じほどの生命力をもって光り輝いている。ゴーチエが「オランピア」はどんな観点からも説明不可能と言ったのは正しかった。これは従来の絵画の概念を越えたものであった。具象と抽象とがせめぎ合う 、不安な均衡の上に成り立った、レアリスムを越えた新しい絵画であった。
 ボードレールがこの絵についてなにも語っていないのは惜しまれる。実は制作当時、マネに官展出品をさかんに勧めたのはこのボードレールであった。しかし彼は病に冒され、美術批評は終りに近づいていた。彼は母国フランスを憎悪してベルギーに逃れる。ボードレールの代りに、勇ましくこの絵を支持したのはゾラであった。マネを擁護するということにある種の計算がなかったわけではあるまい。美術批評家としてジャーナリズムにデビューしたばかりのゾラにとって、パリ中がその絵で持ちきりのマネを,熱烈に賞賛し、全面的に支持することは、自らの存在をアピールするのに絶好の口実であった。もちろん,審美的にマネを支持するに足るだけのものを彼はマネの絵から読み取っていた。マネの絵の新しさは絶対的であり、これから自らが小説において実現してゆこうとする、自然主義的文学表現のヒントをもそこに見出していた。『オランピア』についてソラが語っていること、またのちの『笛吹きの少年』(1866)について言っていることは、当時としてはきわめて前衛的なものであって、誰ひとりとして理解した者はいなかった。しかし、印象派以降の絵画の流れを知っているわれわれから見るならば、これらの評はまことに正鵠を得たものであり、かつ、ゾラの自然主義文学の出発点と言っても過言ではないだろう。(ゾラの自然主義文学の価値は現代生活のその描き方にあった)

〈最初の一瞥でまず見分けられるのは、絵のなかの2つの色調[オランピア・花束──黒人女・背景]、たがいに際立たせ合う強烈な2つの色調だけである。細部は消えてしまっている。若い娘の顔をよく眺めてもらいたい。唇は細い2本の薔薇色の線である。目は数本の黒い輪郭線に還元される。花束を見てもらいたい。それもどうか、近くから。薔薇色や青や緑のプレートである。すべてが単純化されている。もし現実感を取り戻したいとお望みなら、数歩、うしろへ退かなければいけない。〉
                

(『19世紀評論』誌 1867年1月号)*5

〈当代の風景画の一大家は『笛吹きの少年』はまるで“衣装店の看板”と変わらないと言っているが、もし彼の言うのが、この若い楽士の制服が流行のファッション画に見られるような単純な様式で描かれている、ということなら、私は彼の言うことに賛成する。〉 
     

(同)*6


 はじめに引用したバタイユの言葉にもあったように、マネはそれまでの絵画を一新した。絵画が明るくなった。技法が新しくなった。題材が現代風なものに変った。「マネ以前」「マネ以後」という表現が可能になったのである。あれほど“革命家”を自負していたクールベの絵ですら、マネに比べれば、古臭く、田舎じみて、暗すぎる。「革命」と呼ぶに真に値するものはマネの絵のみである。しかし皮肉なことにこの“革命家”は革命を好まず、官展入選と有名になることだけを望んでいた中産階級の都会人であった。マネの悲劇はここにある。

*1:ジョルジュ・バタイユ「沈黙の絵画」二見書房、 1975, p.15.

*2:同書、 p.85.

*3:Manet 1832-1883,Editions de la Réunion des musées nationaux,1983,p.181.

*4:id., p. 179.

*5:Zola, Man Salon Manet, Gamier−Flammarion, 1970. p. 109.

*6:id., p. 110.

2つのマネ論──バタイユとフーコー 吉田裕

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1 共鳴する2つのテキスト

 エドゥアール・マネが近代絵画を開始させる画家であったこと、19世紀の最も重要な画家であることについては、どこからも異論は出ないだろうが、それだけにある種の読み方が既定のものになってしまっているかもしれない。こうした読み方があるとき、違った読み方を示すことは、なかなかあり得ないことだろう。しかし、古典的な作家あるいは作品こそ、間遠ではあるとしても、新たな読み方を誘い出すものでもある。マネに関して言えば、バタイユの『マネ*1』(1955年)と、フーコーの『マネの絵画*2』(2004年)が、そのような例であろう。時間的な関係から言って、フーコーバタイユの著作を読んでいたであろうが、直接のつながりは見えてこない。しかし、2つの読み方を並置するとき、両者の間にある種の共鳴が生じるように、そしてこの共鳴関係がそれぞれの論考が直接には触れることのなかった地平を現れさせるように思われる。
 私は美術史の専門家ではないが、バタイユの『マネ』は、マネ論として、たいへん優れたものと思われる。同時にそれは、バタイユの文脈からしても、単にひとりの画家論であるに留まらず、近代以降、人間の営みのなかで芸術がどんな意義を持つたかを問おうとした、という意味で重要な著作である。他方、フーコーの『マネの絵画』は、1971年にチュニスで行われた講演のテキストであって、近年になってようやく一般の目に触れるようになったのだが、バタイユの論とは多少異なり、作品の構成論であって、フーコー的なと言うほかない精緻な分析が展開され、強い魅力を放っている。
 これら2つの論考を前にすると、私は、両者をつきあわせてみたいという欲望に駆られる。私は、前もってのこころづもりなしに2つを読んだのだが、そのあと、2つの間にある種の反響があるように思え、それを解き明かしてみたいという欲望に駆られる。
 もう少し具体的に、進むべき方向を予測してみる。バタイユのマネ論の中心にあるのは、芸術史上のある断絶という問題である。冒頭で彼は〈マネの名は、絵画史のなかで別格の意味を持っている。マネは単にきわめて偉大な画家であるばかりではなく、彼以前の画家たちとはっきりと断絶した*3〉。これを読むと、背後にバタイユの歴史認識があることがはっきりと感じられる。詳細については後で触れるが、この変化を具現するとバタイユが考え、そのゆえに論考の中心に置かれる作品は、1863年の「オランピア」である。絵画史上でもっとも有名なスキャンダルを引き起こしたこの作品のなかに、バタイユは、神の教会や王の宮殿のうちにあった威厳が消え去ったこと、画家は神話の女神の代わりに現実の女を描くほかなくなったこと、そこに近代芸術の根本的な条件があることを、指摘する。
 これに対して、フーコーの論考も、マネの歴史的な位置についての言及を欠いてはいない。彼によれば、マネの問題とは、15世紀に成立した古典主義絵画の変容である。しかし、論の重心は、美術史の上よりは、「空間」という問題の上にあり、分析はより具体的で実践的である。そのなかで「オランピア」は、取り上げられるものの、必ずしも中心ではない。彼は自分がこの作品について長く語らないのは、それがあまりに難しいからだ、という保留を付けているが、講演全体から見ると、彼の関心がほかの作品により強く向けられているのは、確かである。このほかの作品とは、1882年の「フォリーベルジェールの酒場」である。マネの最後の絵の1枚であるこの作品について、フーコーは、マネの全作品を要約する作品、観る者をもっとも混乱させる作品の1つだと言いつつ、最後に取り上げる。これがフーコーの論述の中心である。
 反対に、バタイユは、「フォリ・ベルジェールの酒場」については、さほど詳細には言及していない。彼はこの作品を〈大きな鏡の戯れが送り返す光の魔法*4〉だと言っている。彼の論旨では、マネがもたらした基本的な変化の1つは、絵画が形を失って色彩が前面に出てくることにあり、光の魔法とはこの変化の到達点であって、したがって、これは高い評価であるのだが、魔法は必ずしも詳細に分析されているわけではない。
 これらの違いがあるにもかかわらず、私には、2人のテキストの間に、ある共鳴が聞き取れるように感じられる。補助線となりそうなのは、1867年の「マクシミリアン皇帝の処刑」に関するバタイユの分析である。この作品は、ナポレオン3世がメキシコに擁立した皇帝マクシミリアンが、叛乱を起こしたメキシコ革命軍によって銃殺されるという、第2帝政の外交政策の失敗を露わにする事件を素材にし、そのためにフランス国内では公開禁止となった作品だが、彼はこの時事的な主題を持った作品に、主題を越える動きを見出し、次のように述べる。〈このタブローからは、拡がってゆく痺れの印象が発散してくる。まるで熟練した臨床医が朝飯前といった調子で、丹念に、「雄弁を捕まえ、その首を折りたまえ」というあの第1の掟を適用したかのように*5〉。
 興味をそそられるのは、「痺れ」というバタイユの指摘である。痺れはどこから来るのか。バタイユはそれを主題に対する無関心からだと言う。それはこのマネ論の範囲内では、正しくかつ十分な指摘である。しかし、「痺れ」は、もっと深いところから来ているように思える。加えるに「痺れ」が、そのあとどうなったかについては、バタイユは追跡していない。他方、この問いに応えるように思えるのが、フーコーのマネ論である。というよりも、バタイユのマネ論の傍らにフーコーのマネ論を置くことで、前者に対してこのような問いかけが、私のうちに生まれた、と言ったほうが正確である。フーコーは、マネの作品の中にもう1つの空間が現れてくるように読むのだが、この空間は、キャンバス上の「痺れ」から来ているように見える。
 反対に、バタイユのマネ論がフーコーのマネ論をより広い視野の内に置くということも起こる。フーコーは冒頭で、前述のように、マネがいかにして古典主義的絵画と断絶したかを述べる。さらに、彼はマネを以後の絵画へも結びつける。〈マネが可能にしたのは、印象派以後のすべての絵画、20世紀絵画のすべて、今もなお現代美術がその内部で発展し続けているような絵画だ*6〉。拡大されるこの見方は、バタイユの分析を傍らに置くことで、もっと明瞭に示されるだろう。ただしそれは、バタイユの分析の背後に、彼のより大きい視野であるところの経済学を想定することによってである。私は、この共鳴関係とそれによって見えてくるより広い視野を確かめたい。そのためには、まずバタイユのマネ論を、彼自身の視野の中に置き直してみることから始めねばならない。


2 バタイユの経済学

 バタイユはマネ論の冒頭で、次のように書く。

 土台がゆっくりと地滑りを遂げてしまった1つの世界の変化にマネは参与した。その世界とはかつて「神」の教会の中や王たちの宮殿のなかで組織されていた世界であったことを、まず述べておこう。それまで芸術は、圧倒的で否定し得ないある威厳、人々を統一していた威厳を表現するつとめを持っていた。しかし今や、群衆の同意を受け、職人が仕えることが出来るような威厳のあるものは、何も残っていなかった。かつて彫像師や絵描きであった──同じく書記役でもあった──職人たちは、結局、自分たちが何者であるかを表現するしかなかった。今度は自分たちが至高なやり方で存在しているということを、である。芸術家という曖昧な名は、この新しい尊厳と、正当化し難い1つの自負とを同時に証言している*7

 これがバタイユによるマネの歴史的な位置づけである。マネは神や祭司、あるいは王侯貴族の権威が消滅した時代の画家、この消滅を初めて意識した画家だとされる。近代に大きな変化が起こって、このような威厳が消滅したという事実を指摘することは、さして目新しくはない。しかし、バタイユを読んできた者には、この記述の背後に、近代や芸術という問題に限られないより大きな視野、経済学(エコノミー)と彼が呼んだ視野があることを見て取ることが出来る。この視野が、近代の意味を単に威厳の消滅だけでないところにまで私たちを連れて行くだろう。
 バタイユを基礎的なところから読み返してみる。彼の著作を読んでいくと、その主題の多様さに圧倒される思いがする。それらは、政治活動、社会学的関心、哲学、美術、文学、文化人類学などであって、もっとも知られているのは、宗教的実践、エロチスムといったところだろう。しかし、もし彼の多様な探求をもっとも根底的に支えるものは何だろうかと問われるなら、私としては、彼の経済学だと答えたい。よく知られていようが、彼の経済学は、通常この言葉で連想される、財政政策とか、景気回復とか、投資とか、利潤とかとはまったく別な世界である。それはもっぱら、人間はエネルギーをどのように創り出しどのように使うか、という問いに関わる。
 最初期のバタイユのテキストは、彼が自分の内部から湧き上がる何か制御し難い力に翻弄されているのを感じさせる。この力は性的な衝動であったり、暴力であったり、宗教的高揚感であったり、社会的な騒擾であったりする。彼はこれらの衝動がどこから来るかを突き止めようとして、『太陽肛門』『松果腺の眼*8』など1920年代の初期のテキストに、特異なイメージを提示する。彼は自分の中の力が太陽のもたらす熱から来ていると考え、次のように推論する。この熱エネルギーは、太陽が自分自身を破壊し、補充も見返りもなしに与えるものであり、したがって、過剰な力 excès であるが、それは地球上においては生命を産み出す。だから生命体は、過剰を隠し持っており、その過剰は、生命の体系の頂点に位置する人間のところに集約される。それは地上では富 richesse となって現れる、と。過剰という言葉が、最初期のバタイユのキーワードである。
 であるからには、人間は、この過剰を実現する責務を負っている。この責務がどのように実現されてきたか、つまり人間は自分自身が産み出す過剰──富──を、どのように使用してきたか、というのがバタイユの経済学(エコノミー)である。実現のさまざまな様態と変遷は、1934年の『消費の概念*9』で初めて統一的な視野のもとに示される。彼の初期の思想を集約するこの論文で、人間の持つ過剰は、過剰という性格を実現するためには、生産と生産のための消費という有効性のサイクルに含まれることのないような仕方で消費されねばならないと考え、そのゆえにそれを非生産的消費 dépense improductitive と名づけた。これは後に蕩尽あるいは焼尽( consommation あるいは consumation )とも呼ばれる。この消費形態の例証として彼が挙げているのは、奢侈、葬儀、戦争、儀礼、壮大な記念物の建造、遊び、見世物、芸術、倒錯的な性行動、などである。そしてこれらの様態のなかでもっとも根底的な実現とバタイユが考えたのは、聖なるものという感情の経験、すなわち宗教であった。なぜなら、宗教は、過剰なエネルギーが、有効性に還元されないまま、集約的に消費されるときの恐怖・驚き・茫然自失から来る脱我的体験に根拠を置いていると考えられたからである。
 これらのエネルギー消費は、しばしば爆発的な形態を取ったが、やみくもな破壊活動ではなかった。過剰分を出現させるためには、まず秩序だった生産と生産のための消費が必要だったし、また過剰なエネルギーの消費のあと、次の機会を可能にするために、生産と消費のサイクルにふたたび戻ることも不可欠だったからだ。この交替は制度的に保証されていた。概略的に言えば、交替は時間的と空間的の2つの相の下で行われ、時間的には、労働の時間と祝祭の時間の交替であり、空間的には、農民と祭司・王侯貴族の間の役割分担だった。それぞれの組み合わせにおいて、前者は生産と生産的消費を、後者は非生産的消費を担当していた。祭司・王侯貴族は、農民を搾取して富を貯えたが、必要な時が来れば──戦争、祭儀、見世物の場合──、それを放出して、悲劇的にであれ、享楽的にであれ、農民や一般大衆の心理を高揚させる義務を負っていた。この役割分担は、社会的な同意を受けており、王侯貴族は、富を提供する能力に応じて、敬意と威厳を得ていた。
 ところが、富の消費に関わるこのような社会システムは大きく変化する。それが近代である。近代という時代を導いた出来事は、論者によって、ルネサンス、地理上の発見、産業革命、アメリカ独立戦争フランス革命、というふうにさまざまだろう。その中でバタイユがもっとも重大な役割を果たしたと考えるのは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)を受けてだが、宗教改革とそれと一体になった資本主義の登場である。
 宗教改革以前、見神体験や恍惚といった心理の宗教的な高揚は、富の共同的集約的な消費のうち実現されていたが、神の純粋性が追求された結果、神の存在はどのような人間の作為からも抜け出て、絶対的な自律性を持つことになる。そこに現れるのがルターの宗教改革とプロテスタンティズムである。同時に富の非生産的な消費によって神を呼び寄せるという方法は、この絶対的な神によって無効とされる。富は別の方向に振り向けられることが可能になる。
 他方で、王侯貴族の傍らに、これまでいなかったタイプの人間が現れる。具体的には、とりわけ絶対王制下で、巨大になった支配機構の中に入り込んで、資産の管理を行う人間が必要とされ始めるのだが、この仕事を請け負った者たちは、貯えた富は、無意味に消費されるのではなく、もっと有用な使い方に振り向けられねばならない、と考える。彼らは神、楽しみ、驚きなどの側に向けられなくなった過剰分を、設備投資などのかたちで、生産のプロセスの中に投入し始める。ブルジョワジーの登場である。こうして宗教改革と資本主義は表裏一体となって新しい時代を開く。バタイユはこれを次のように総括する。〈もし偉大な宗教改革者たちの感情に立ち戻るなら、それは宗教的純粋性の要求に究極的帰結を与えることによって、聖なる世界を、非生産的蕩尽の世界を破壊し、そして地上を生産の人間に、ブルジョワたちに引き渡したといえるだろう〉(『呪われた部分』*10
 この方針転換からどんなことが生じたか。言うまでもないが、1つは生産力の飛躍的な拡大である。これはヨーロッパ近代の輝かしい達成である。しかし、もう1つの面がある。過剰分を生産に投資することは、それを過剰として消費する機会を無くすことであり、そのことによって、当然の結果ながら、非生産的な消費がそれを実践する者たちに与えていた敬意と威厳も、消滅に向かわざるを得なくなる。簡潔に言えば、生産力は増大したが、社会の中から、聖なるものの経験とそれに伴う威厳が失われていった。それが近代という時代であった。


3 マネの時代と「オランピア

 ではそのような時代に直面して、絵を描くという仕事に従事していた者たちは、どのような運命を強いられたのか。威厳が存在していたとき、彼らは農民や一般大衆と同じく、それを賛嘆し、仕えることが出来た。彼らはキリストや使徒や聖者たちの像を、また王侯貴族の武勲や悲劇的な死を、確信をもって描くことが出来た。そのことによって、彼らは非生産的で聖なる領域に所属していた。しかし、非生産的な部分を成り立たせていた根本的な条件は失われる。そのとき画家たちの仕事はどのようなものとなるか? これがバタイユのマネ論のいちばん大きな問である。
 近代以前の時代、威厳を持つ主人があり得た頃、絵を描く人間は、描くべき主題を保証されていて、その意味で職人的と言うべき存在だった。そういう時代から、権威が失われた時、彼らから、主人も主題も失われる。それが芸術家という近代固有の存在だ。ところでバタイユは芸術家という名前を曖昧な名前だと言っている。なぜか?
 芸術家は凋落した王侯貴族と同じかというと、そうではない。なぜなら、王侯貴族は、形骸化した威厳の下で、知らぬふりをして生きていくことが出来るが、画家たちの鋭い自己意識にとっては、そのような生き方は不可能だった。逆に彼らは、失われようとするこの聖なるものの経験を自分の上に引き寄せようとする。そのとき彼らは職人ではあり得なくなる。その聖なるものは、もはや負のかたちでしか存在しない。したがって絵画は、威厳に満ちた主題を持たないまま、聖なるものの経験を描くことを引き受ける。これがもはや職人芸ではあり得なくなったものとしての「芸術」である。バタイユは次のように言う。〈芸術作品はここで、過去において──もっとも遠い過去において──聖なるもの、威厳あるものであったすべてのものの位置を占める*11〉。生産と生産的消費を循環させることで自足し、そのサイクルをいっそう拡大しようとする社会のなかで、芸術家は、過剰さの経験を、誰にも認められないまま担わなければならなくなる。それによって彼は社会から忌避される存在ともなる。彼は、後にヴェルレーヌの言う「呪われた詩人」となるのだ。
 このことから、絵画に、いくつかの変化がもたらされる。ひとつには、聖人や王侯貴族といった神話的主題は空洞化し、描かれるべきものとは信じられなくなる。バタイユはこれを「主題の破壊」だと言う。芸術家となった画家の前にあるのは、神話ではなく、自分自身の存在また彼の目の前にある現実的な出来事、ボードレールの「モデルニテ」である。
 そこから、描き方自体に変化が起こる。たとえば、陰影、ふくらみ、グラデーションを拒否した扁平に見える「平塗り」と呼ばれる描き方である。バタイユはマネの作品が〈トランプの厚みしかない〉と批判されたこと、「雄弁の首を折れ*12」というのがマネのモットーであったことを紹介している。それは描かれたものの背後に、神話や理念などありはしないという主張であり、思わせぶりの拒否だった。
 こうした変容に促されて、マネは1862年の「チュイルリー公園の音楽会」、1863年「草上の昼食」と描き続け、同じく1863年の「オランピア」に到達する。これらの作品は、それぞれスキャンダルを引き起こしたが、「オランピア」はその頂点だった。何か変わったかは、マネが下敷きにした、チチアーノの「ウルビノのヴィーナス」(1538年)と並べてみれば明瞭である。一方は女神で、美を具現するのに対して、他方は現実の女──おそらくは娼婦──であり、生身の肉体である。さらに、ほぼ同時代にあって、同じく横たわる裸婦を主題とするカバネルの「ヴィーナス誕生」(1863年)をその傍らに持ってくると、違いはいっそうはっきりとしてくる。後者は、皇帝買い上げになった作品、ということは当時の美の理念を実現する作品だったが、同じく裸体を、陰影を際だたせ、ふくらみを持たせ、美とはこういうものだ、ということを露わに仄めかしている。これに較べると、「オランピア」は奥行きをなくし、扁平に描かれ、作品自体が与えるイメージのさらに奥に何かがあるとは思わせない。それは見る者を突き刺すようなある強力な存在感を醸し出しているが、それが威厳であるとしても、種類をまったく異にしている。これはキャンバスの上でのみ実現された威厳である。バタイユは次のように言う。

 そこにあるのは、飾りをはぎ取られて再び見出された威厳である。それは誰のものでもない威厳、いやさらに何ものでもないものの威厳である……。それは、それ以上の名分なしに、そこに存在するものに帰属し、絵画の力によってこそ証し立てられる*13

 バタイユによれば、「オランピア」は、聖なるものの失墜をあからさまに示すこの仮借のなさによって、大衆の憤激を買ったのである。そこには時代はかつてと同じではないというはっきりした絵画的認識が働いていた。バタイユが評価するのはこの明敏さである。


4 「オランピア」以後

 ところで以上は、バタイユが述べていることの整理にすぎない。ではこのマネ論をもう少し客観的に見ればどうなるか。私の印象を言えば、バタイユは、マネが「オランピア」によってそれまでの絵画にどのような衝撃を与えたかについては、見事な分析を加えたが、「オランピア」以降──マネの画業はまだ20年以上残っている──についての分析は、必ずしも十分になされてはいない。
 絵画は、主題の保証を失い、あるいは主題の重圧から逃れ、何かを描くということから、どのように描くかということへと、重心を移し替えていく。バタイユの言を借りるなら、〈描くという(芸)術以外の意味作用を持たない絵画、つまり「近代絵画*14」〉 へと変容する。そして、この方向性が、どこに向かうかもはっきりと指摘される。絵画が描くべき主題を拒否したとしたら、それは遅かれ早かれ、何も述べないこと・述べ得ないことに向かうだろう。それは沈黙に向かう。〈外から与えられた因習的な威厳とは別に、何か議論の余地のない現実、その至高さが虚偽によって巨大な功利的機械に従わせられることのできないような現実を、もう1度見出さなければならなかった。このような至高さは、芸術の沈黙の中にしか見出されなかった*15〉。これが原理的な方向である。
 しかしながら、通常の読者からすると、この推測がもう少し具体的に検証されてほしい。それに、個人的な関心ではあるが、芸術のこうした変容がバタイユの言う経済学的(エコノミー)な変容と連動しているならば、前者が沈黙に近づく時、後者はどのような変容を経験しているのか、と問わずにはいられない。当然ながら、後者についてバタイユは明示的には語っていないが、重なり合うこれら2つの問を促すのは、実はフーコーの所論である。後にこれと照らし合わせたいが、そのために読んでおきたいのは、先に示唆しておいたように1867年の「マクシミリアン皇帝の処刑」と1882年の「フォリ・ベルジェールの酒場」への論評である。
 「マクシミリアン」についてバタイユは、マネが近づき得ないものに達したまれなタブローの1つではないが、という保留を付けつつも、兵士たちによる処刑という強烈で時事的な主題を持っているにもかかわらず、否それだけにかえってよく、主題の抹殺という近代絵画の所行をよく実現しているとして、そこに起きている事態を、前に引用した部分を含むが、次のように述べる。

 ア・プリオリに言って、兵士たちによって方法的に、冷酷に与えられる死は、無関心には不向きである。それはずっしりと意味を担わされた主題であり、そこから激しい感情が露呈してくる。しかし、マネはこの主題を無感覚なものとして描いたように見える。鑑賞者はこの深い無関心の中を彼についてゆく。このタブローは、奇妙にも歯の麻酔を思い出させる。このタブローからは、しみ込むような輝れの印象が発散してくる。まるで熟練した臨床医が朝飯前といった調子で、丹念に、「雄弁を捕まえ、その首を折りたまえ」というあの第1の掟を適用したかのように。……残るのは、さまざまな色彩の染みと、ある感情がこの主題から生まれたにちがいないのだが、というとまどわせるような印象である*16

 私か注意を引かれるのは、前述のように〈輝れの印象〉である。私たちはこの作品からたしかに、空間が凝固したような印象を受ける。それからもう1つは、〈残るのは〉以下の最後の部分である。そこでは〈染み〉となって残った色彩と、そのもとになった主題との落差つまり二重性のあることが示されている。「マクシミリアン」に入る以前のところで、バタイユは伏線のように、絵画に passage というものがあることを語っている。絵画は〈物語る言語、言い換えれば「現実のあるいは想像上のスペクタクル」から、絵画の裸形状態すなわち「しみ、色彩、動き」へ推移する*17〉。「マクシミリアン」にあるのはこの推移である。これは重要な指摘である。
 「フォリ・ベルジェールの酒場」については、言及は短く3度であって、その1つで次のように言う。

 最後にもう1度、マネは彼のコンポジションのひとつに空虚という不在を与えた。「フォリ・ベルジェールの酒場」は、大きな鏡のたわむれが送り返す光の魔法である。前景には、酒瓶、果物、花があって、給仕女の両側で光に直接照らされている。彼女はたしかに大柄で、快活だが、しかしどこか火が消えたようで、視線はブロンドの髪の縁のしたで、疲労と倦怠に曇っている。群衆は、実際には彼女の前にいるにもかかわらず、鏡の光に満ちたお伽話の中の反映にすぎない*18

 光と言われているのは、実際の画面上では、色彩のことだ。色彩の重要性は、絵画の関心が、何を描くかではなく、どのように描くかへと変わっていく過程の上に現れる。形態に取って代わって、色彩が前面を占め始める。この変化は、モネを先導する。
 しかし、私を突き動かすのは、もう1つの経済学(エコノミー)的な問の方である。バタイユの立論の背後にあると考えられる、彼の経済学(エコノミー)は、「マクシミリアン」や「フォリ・ベルジェールの酒場」の分析の背後で、どのように作用しているのか。また反対に、彼のマネ論は経済学(エコノミー)に何を示唆したのか。明示的に語られてはいないこの照応関係を、私は問わずにはいられない。
 私たちは先に、それまで非生産的消費という固有の消費の形式を持っていた過剰分が、近代において、生産と消費の循環するサイクルの中に繰り入れられたことを見た。それは生産力を拡大する。事実そうだったが、しかし、起こったのは、そればかりではなかった。この繰り入れは、生産過剰とそれに伴う恐慌を引き起こすこともあり得た。恐慌は、過剰さが十分に吸収されないまま残っていることの徴である。バタイユは、戦争期の『有用性の限界』から戦後まもなくの『呪われた部分』(1949年)にかけては、このような生産と消費のシステムには、なお出現可能な過剰さが残存しており、それが失われた非生産的消費を回復させる機会となり得ると考え、そこに革命や社会的変革の機会を見ようとしていた。
 ところが『至高性』──1953年から56年頃に書かれたが、草稿のまま残された──の、しかもその最後のあたりになると、この考え方に変化が起きているように思われる。この書物は、社会学的な範躊に属し、経済学を直接論じたものではない。しかし、そこで至高性 souverainte と名づけられているのは、聖なるもの sacré と呼ばれていたものにほかならない。それは『マネ』での威厳 majesté のことでもある。したがって、それらを貫いて、根底に経済学(エコノミー)の考えを見ることが出来るはずだ。
 次のような推論が可能ではないだろうか? バタイユはこの書物で、聖なるものの現れ方を古代から辿ってくるのだが、最後の部分で、つまり現代に至って、〈至高性とはなにものでもない〉と述べるに至る*19。なにものでもないとは、無力になったということだろう。暴力的でもあった聖なるものの経験は、無力なものとなるのだ。驚くべき断言だが、理解することは出来る。それは、過剰なものが生産と消費のシステムに目に見えるかたちで障害となり破綻を引き起こすという考えが不可能になったことを意味する。資本主義体制は、システムを巧妙に整備し続け、過剰分をその中に均等に配分することで、過剰生産と恐慌を回避し、集約的で爆発的な現れ方を封じるに至ったのだ。ではそのとき、過剰分はどこにどのように存在しているのか。それはあらゆるところに浸透し、隠されまた自ら進んで隠れることで、その結果不断に作用し続けながら、潜在するものとなる。
 過剰のこのような内在化と潜在化に最初に気づかれたのは、はやくもコジェーヴヘーゲル講義を契機としてであろう。歴史が完了したとき否定性は消滅する、としたコジェーヴに対して、バタイユは、否定性はなお「使い途のない否定性」として残ると主張しているからだ(『有罪者』補遺、1937年)。そして興味深いことに、〈たいていの場合、無能力となった否定性は芸術作品となる。この変貌は、通常現実的であるが、歴史の完了(あるいは完了という考え)にうまくは答えられない。それは回避しつつ答える〉と加えてもいる。
 バタイユが『マネ』で、絵画が沈黙に近づくと言うとき、それは至高性がなにものでもなくなろうとし、過剰が無力なものとなろうとしていることと通じ合っている。過剰のこの潜在化を確かめたことは、『至高性』と同じ時期に書かれた『マネ』に、おそらく作用している。それが一番よく見えるのが「マクシミリアン」についての分析だろう。彼が言っている「痺れ」は、過剰を注ぎ込まれた時に起きる現象、一種の鬱血現象に違いない。それは画面に、ある種の麻輝状態を、次いで目に見えない形でひび割れと浮遊現象を引き起こす。
 もう1つ付け加えよう。バタイユは、「マクシミリアン」をゴヤの「5月3日」と比較していて、後者について、絵画の雄弁がこれ以上遠くまで行ったことはなかった、という感嘆の念を表明し、対比を強調するが、私か引き寄せられるのは、「マクシミリアン」の主題が皇帝すなわち王の処刑であるという点である。この視点からの関心については、バタイユ自身は何も言っていない。だが私は推測を押さえることが出来ない。彼は民族学的な知見を渉猟し、王の処刑が人間に心的な高揚をもたらすこと、そして共同性を再編し強化する作用を持っているのを見ていた。それは過剰のもっとも激烈な実現形態だった。だが、マクシミリアン皇帝の処刑は、このような効果をもたらさない。この処刑は王の処刑の古代的な系譜に連なることは出来ない。なぜか? それは、マクシミリアンが植民地支配のため送り込まれた傀儡的皇帝であり、しかも送り主たるナポレオン3世はすでに、大ナポレオンの甥であることだけを売物にした偽物的な存在であったためではないのか? 近代において、皇帝も王も、過剰を集約し具現する存在ではあり得ない。そのために、この処刑は、心的な高揚ではなく、ただ痺れしかもたらさなかったのだ。
 「フォリ・ベルジェールの酒場」について言えば、彼が給仕女に見た「火の消えたような」様子、また「疲労と倦怠」は、遍在する過剰さに不断に苛まれていることから来ているだろう。バタイユが見るところ、マネの絵画においては、主題が変容するばかりでなく、空間もまたどこか不安定になり始める。そして、実を言うと、この印象が私を、バタイユのマネ論にフーコーのマネ論を近づけてみたいと思わせたのだし、また以上のような推測も、フーコーのマネ論によって示唆されたものである。単純に言えば、バタイユ的経済学(エコノミー)の現代的な帰結のひとつは、マネについてのフーコーの分析の中にもっと明瞭に現れているようにも思える。


5 フーコーのマネ論・もう1つの空間

 フーコーのマネ論は、バタイユのマネ論と趣をかなり異にしている。前者は第一義的には、15世紀以来、本来は2次元的であるのに3次元を表象させられてきた絵画を、マネはキャンバスの物質的特性を再び機能させることで、絵画本来の性質と限界を明らかにした、と評価するものである。〈マネの行ったことは、……いわば、タブローに表象されているものの内部において、キャンバスの物質的な特性、性質、そして限界を浮かび上がらせることでした。これらのものはそれまで、絵画そして絵画の伝統が任務として回避し隠蔽してきたものなのです〉とフーコーは述べる。
 これを読むと、私たちは、その5年前の『言葉と物』を思い出さずにはいられない。この記念碑的な書物で、彼は古典主義時代とは透明な表象の時代であることを明らかにし、そのあと近代に至ってこの透明性が次第に攬乱されていく有様を、博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、一般文法が比較言語学となる3つの人文科学の成立において示した。その際、表象の透明さは、それぞれの領域での内部的な「多元的決定=重層的決定 surdétermination 」の発見によって導かれた。最初の経路においては生命現象への関心によって、2番目の経路では労働の発見によって、3番目の経路においては接頭辞や活用語尾などの内部的な屈折への着目によってである。これらの変容と併置するなら、マネ論が問うているのは、絵画芸術における古典主義時代から近代への変容という問題である。直接の比較を言えば、先に触れた冒頭のヴェラスケスの『侍女たち』からの変容が問題になるだろう。これについては後で触れよう。まず問題を導くのは、キャンバスの物質的特性への着目である。そしてこの特性の作用は、多元的あるいは重層的という表現が遠くから示唆しているように、キャンバスという空間のなかに、もうひとつの空間が現れるという事態を引き起こすのである。
 フーコーは13の作品を「キャンバスという空間」「照明」「鑑賞者の位置」の3つの問題系によって取り上げるが、それらは時間的な系列によっているのでもなければ、単に並置されているのでもない。3つは分析の方向にしたがっている*20。そして「鑑賞者の位置」の唯一の対象となって分析の最後に置かれるのが、「フォリ・ベルジェールの酒場」である。
 フーコーの言っていることのすべてに言及することは出来ない。私は彼が立てた3つの問題系を辿り、その途中で、さきにバタイユのマネ論で取り上げた作品があるならば、それを再度取り上げることで、バタイユの論考との接点を確かめる。幸いなことに、「キャンバスという空間」では「マクシミリアン皇帝の処刑」が、「照明」では「オランピア」が取り上げられ、そして「鑑賞者の位置」では「フォリ・ベルジェールの酒場」が取り上げられる。
 「キャンバスという空間」でフーコーが見届けようとしているのは、キャンバスの中に、もう1つの別な空間が現れ出ようとしているその兆候である。彼は、マネの作品中で、縦の線と横の線が多用され、その上奥行きが塞がれることで、キャンバスの中にもう1つの空間が繰り出されようとしている、と考える。たとえば「チュイルリー公園の音楽会」では、樹木による縦の線と、人物たちの頭による水平線が画面を区切り、同時に前景の人物たちが後ろの様子をほとんど覆い隠してしまう。「オペラ座の仮面舞踏会」でもほぼ同じことが起こっていて、キャンバスは大きなバルコニーの梁と2本の柱によって区切られ、奥は壁で閉じられている。フーコーは〈マネが空間を完全に閉じてしまっ*21〉ていて、〈キャンバスというこの四角形の空間的特性は、こうして、キャンバス自身に描かれているものによつて表象され、明示され、強調される*22〉と指摘する。
 「マクシミリアン」も同じ動きの上に認められる。奥行きは、大きな壁によって塞がれており、その上端の示す横の線と、人物たちによる縦の線がある。そこに〈タブローを二重化する小さな情景*23〉が生まれる。繰り出されたこの空間は、ある圧縮を受ける。画面に銃を構える兵士と銃殺される人々が置かれるのだが、画面の小ささのために、両者の間に距離を置くことが出来ない。ではマネはどのようにして距離を表現したか? 彼は、銃殺される人物が銃口に触れるくらい近くにいるにもかかわらず、縮小して表現するという方法をとる。そこでは〈西欧における絵画的知覚の根本原則のいくつかが……解体し*24〉、そこに〈人物の空間的な位置や隔たりが、ただ絵画の内部でしか意味も機能も持たない記号によって与えられるような、絵画的空間*25〉が現れる。これがフーコーの出発点である。
 フーコーがこれらの作品の中に見た変化は、バタイユが見た変化とつながっているように思われる。奥行きの拒否への注目は、バタイユの場合の平塗りへの注目と同じだろう。「マクシミリアン」の〈痺れの印象〉は、繰り込まれて潜在する過剰さによるものだと考えたが、それと同じことがもっとあらわに、遠近法の変質という絵画的知覚の解体となって現象している。主題から色彩の染みへの移行は、描かれたものが絵画の内部でしか意味も機能も持たないような空間のあらわれと同質の出来事であるにちがいない。
 第2の「照明」という問題系で、フーコーは、古典的な絵画においては、光源はキャンバスの内部かあるいは見えないところにあるにせよ絵画空間の内部にあるのに対して、マネは〈内部の照明を取り除き、それを現実の、外部の正面からの光に置き換える*26〉と述べている。「オランピア」については、オリジナルであった「ウルビノのヴィーナス」が横から来る光源によって慎ましく照らし出されるのに対して、真正面から来る非常に暴力的な光がある、と彼は指摘する。まず重要なのは、光源がキャンバスの外側から来るとされていることだ。これは明らかに、前の問題系で、古典的な絵画空間のなかに、それから分離しようとするもう1つの空間が現れたことを受け継いでいる。この新たな空間は、キャンバスの外に逸脱しようとするのだ。
 重要なのは、この正面からの照明は、単なる照明ではなく、画家のそしてキャンバスを見つめる鑑賞者の視線でもあると指摘されていることだ。われわれの視線と照明は同じものであり、したがってこの視線が、オランピアの裸体の上に注がれ、それを照らし出し、可視のものとする。その結果次のようなことが起こる。

 このような絵においては、作品を見ることとそれを照らし出すことはひとつの同じことでしかないのです。それゆえに私たち──どんな鑑賞者も──は、必然的にその裸体に巻き込まれ、ある程度までそのことに責任を持つことになってしまうのです*27

 スキャンダルは、作品がこのような共犯性を鑑賞者に強いるからだと、とフーコーは考える。同時に、この新たな空間は鑑賞者をキャンバスの内部に引き込むが、キャンバスから出てきた空間でもある。それは内部と外部を通底させるような空間なのだ。このありようは、最後の問題系「鑑賞者の位置」で重大な問題を引き起こす。
 画家あるいは鑑賞者の視点が照明と一体化して、作品内に入り込むことは、リアリズムに落ち着くなどということではない。「鑑賞者の位置」の唯一の対象である「フォリーベルジェールの酒場」は、この位置──それは画家の位置でもある──が極めて不安定なものであることを示すからだ。
 この作品には奇妙なところがある。これは誰も気がつくことで、発表のときから、戯画的に指摘されてもいる。背後に鏡があるが、そこに映っている像と作品に描き出されている人物あるいはオブジェは、どう見ても一致しないのである。先述のように、バタイユはこの作品については紙数を割いてはいず、この奇妙さについては触れていないが、フーコーにとって、この奇妙さは講演の主題そのものである。
 フーコーが絵画において鏡に着目するなら、読者は『言葉と物』の冒頭にエンブレムのようにおかれたヴェラスケスの「侍女たち」(1656年頃)の分析を思い出さないわけにはいかない。古典主義時代を決定づけるこの作品の分析で、フーコーは、鏡のからくりによって表象が自律的となることを明らかにした。彼は近代に属する「フォリ・ベルジェールの酒場」の場合でも、同じく鏡の作用に着目するのだが、マネという画家のとりわけ現代的な画業のおかげで、未完成な講演原稿とはいえ、結末はいっそう前方まで押しやられることになったように思われる。簡単に言えば、フーコーは「侍女たち」においては、鏡による反映が最終的には王と王妃の不在によって不安を抱え込むのを見抜くにしても、この反映は正確であり、古典主義時代の表象の透明なありようをよく代表する、と考える。これに対し、「フォリ・ベルジェール」においては、反映の空間はすでに数多くの矛盾をはらんでいて、それは、近代において、たとえば言語が内部に表象に還元し得ぬ要素を導入し、先に引いたように、重層的な構造を持ち始めると彼が考えるのと呼応している。その結果、マネを見ることにおいて、彼は空間の重複と輻輳にまで導かれるのである。
 フーコーは、「フォリ・ベルジェール」の奇妙さには3つの要因があると指摘する。1つめは、この給仕女が後方の鏡の右方に映るためには、画家あるい鑑賞者は、同じように右方にずれていなければならないが、画家はこの女性を正面から見ているからそれはあり得ない、という点である。2つめは、鏡にはこの女性に話しかけている男が映っている、しかしそうであるなら、この男の影が女性に映るはずだが、そのような影は現れていない、という点である。3つ目は、この男が画家であるとしたら、その視線は、鏡の像の示すところに従えば、給仕女を見下ろす俯瞰的な視線であるはずであるのに、実際の作品の中の画家あるいは鑑賞者の視点は、女の視点と同じかむしろ下にあるという点である。したがって〈三重の不可能性*28〉があることになる。この矛盾が、この絵を見る人に魅惑と不安とが入り交じった気持ちを味わわせる、と述べた上で、フーコーは次のように言う。

 マネは、キャンバスの特性を作動させ、それを、表象作用がそこでは鑑賞者を固定する、あるいは鑑賞者にそこから見つめるべきひとつの地点、唯一の地点を固定するような、一種の規範的な空間ではなくしてしまいます。キャンバスは、その前で、そしてそれとの関係の上で、私たちが位置を変えることのできる空間として現れるのです*29

 先ほどの、絵画的知覚の根本原則の解体の確認の後、今回は1歩進んで、規範的空間の消滅とそれを統御する視線もまた不可能になることが述べられている。フーコーは「キャンバスという空間」「照明」「鑑賞者の位置」という3つの問題系を辿りつつ、おそらくは次のように考える。その内部で縦の線と横の線の組み合わせによって、そして背後が壁によって封鎖されることで空間が複製される。ついで、照明の位置によって、この内部的空間が外部へと引き出される。さらに、この照明の位置すなわち画家あるいは鑑賞者の視線の位置が両義的なものとなることで、あらわれた空間が不可視の不安定な空間であることが明らかにされる。これがフーコーが見るところのマネ的な絵画の経験であろう。


6 相互反響

 2人の思想家は、個々の作品の解釈については、違う視点を持ち、違う解釈を与える。しかし、もう少し読み込むならば、共通するもの、少なくとも触れあおうとするものが見えてくる。2つの解釈は、接続するのではなく、斜めに交差している。
 「マクシミリアン」がひとつの交点をなしている。バタイユは、神話的な威厳の消滅を発端におくことで、「オランピア」を解読したが、それに続くのは、雄弁の否定と主題の意味作用の抹殺である。後者を明らかにするために彼が対象としたのが「マクシミリアン」だった。だからこの作品は、バタイユの論旨にとって、「オランピア」に次ぐ重要さを持つ。彼は根本的な変化と共に、絵画表現上の変化についても、平塗り、痺れの印象、主題から色彩の染みへの移行等、具体的に書き留めている。キャンバスの中にある種の剥離現象が現れる。これは明らかに二重化のひとつの形であろう。たぶんそこで、バタイユの関心とフーコーの関心は、接触する。ただバタイユは、彼のマネ論の範囲では、この動きを追求する方向には進まなかった。彼にとっては、「オランピア」の魅惑があまりにも大きかったのだろう。ただし、マネのキャンバスに何か不思議なことが起こっているという感覚は強く持ち続けたように見える。それが「マクシミリアン」での「痺れ」の感覚そのほかへの着目、また「フォリーベルジェールの酒場」での給仕女の放心の表情への着目である。
 私たちは、バタイユのマネ論を支える基盤というべきその経済学(エコノミー)論まで視野を拡大し、過剰なものが、生産と消費の間でそれまで均衡が取れていた空間に押し込められ、その空間を不安定化するのを見た。そのとき、空間は、内部にもう1つの擬似的な空間を創り出したと考えることが出来るだろう。〈至高性とはなにものでもない〉とバタイユが言ったが、この無力さは、フーコーの言う三重の不可能性によって根拠を欠いたマネの空間に呼応している。
 フーコーも15世紀に成立した古典絵画の変容という視点でマネを読むが、近代全体を対象としようとして、バタイユの経済学(エコノミー)をその背後に置くこと、またフーコーが厳密に捉えて見せた絵画の変容の根底に、あの過剰なものの動きを想定することは、十分可能ではあるまいか。このようにバタイユ的経済学(エコノミー)の視野を背後に置いてフーコーの分析を読むことは、絵画の将来についてフーコーが示唆するにとどめたことを、推測するよう促す。先に引用したが、フーコーは冒頭で、マネが可能にしたのは、今もなお現代美術がその内部で発展し続けているような絵画だ、と言った。マネの絵画にバタイユが見た、主題から色彩の染みへの移行、そしてその延長上に私たちが想定した、フーコー的な空間の逸脱と輻輳は、たとえば後期のセザンヌにおいて次第に顕著になってくる空間の断裂とずれ、いくつもの空間を折りたたんだようなピカソやブラックのキュビスム、また異なった空間の侵入を誘い出すマグリットのコラージュ的構成といった、現代絵画の実験と地続きになっているだろう。そうした道筋は、絵画の動きをバタイユ的でもあればフーコー的でもある視野の中に置くことで、よりよく理解されるように思われる。

*1:『沈黙の絵画』、出口裕弘、二見書房、1872年。Georges Bataille, Manet, CEuvres complètes, tome Ⅸ, Gallimard, 1979. ただし、ここでは標題として原題である『マネ』を使用する。以下引用については、多くの場合既訳を借用させていただいた。訳者の方々に感謝したい。ただ文脈によって変更した部分がある。

*2:『マネの絵画』、阿部崇訳、筑摩書房、2006年。Michel Foucault, La peinture de Manet, Seuil, 2004.

*3:『沈黙の絵画』、前出、15ページ。op. cit., p .155.

*4:同上、145ページ。ibid., p .154.

*5:同上、73ページ。ibid., p .133.

*6:『マネの絵画』、前出、4ページ。op. cit., p .22.

*7:『沈黙の絵画』、前出、26ページ。op. cit., p .120.

*8:『太陽肛門』『松果腺の眼』とも、『眼球譚』、生田耕作訳、二見書房、1971年、に収録。

*9:邦訳では、『呪われた部分』、生田耕作訳、二見書房、1973年、に収録。

*10:『呪われた部分』、同上、170ページ。CEuvres complètes, tome Ⅶ, Gallimard, 1976, p . 122.

*11:『沈黙の絵画』、前出、89ページ。op. cit., p .141. ただし、この代替がある種の実効性を失わざるを得ないことを、バタイユは次のように書いている。〈こうした諸状況にあって、極限の状態は芸術の領野に移ったが、そのことは不都合なしには進まない。かつての信仰生活に文学(虚構)が、現実の恍惚状態に詩(言葉の無秩序)が取って代わった。芸術は行動の外部に小さな自由の領域を作ったが、その自由とひきかえに現実の世界を放棄した。この代償は甚大である……〉。『ニーチェについて』、「序文」、1945年、酒井健訳、現代思潮社、36ページ。

*12:ヴェルレーヌの「詩法」の一節。

*13:『沈黙の絵画』、前出、124ページ。op. cit., p .147.

*14:同上、69ページ。ibid., p .131.

*15:同上、77ページ。ibid., p .135.

*16:『沈黙の絵画』、同上、73ページ。ibid., p .133.

*17:『沈黙の絵画』、同上、69ページ。ibid., p .131.

*18:『沈黙の絵画』、同上、146ページ。ibid., p .154.

*19:『至高性』、湯浅博雄、中地義和、酒井健訳、人文書院、1999年、357ページ。Georges Bataille La Souvreinté, CEuvres complètes, tome Ⅷ, Gallimard, 1976, p .456.

*20:『マネの絵画』はマリイヴォンヌ・セゾンによって編集されていて、いくつかの論考が収められているが、フーコーの論証の3つの問題系は、並置されていると見る論者が多いようだ。「マネ、あるいは鑑賞者の戸惑い」のキャロル・タロン=ユゴンは、〈フーコーの講演は、マネがこうした絵画の条件を明るみに出す3つの方法を分析している〉(原著73ページ、邦訳79ページ)と述べていて、並置的に言及しているに過ぎない。また「表/裏、あるいは運動状態の鑑賞者」のダヴィッド・マリーは、鑑賞者の位置については興味深い指摘をしている(『言葉と物』における「侍女たち」との比較)が、3つの問題系については、〈チュニスでの講演では、フーコーは、マネの芸術の3つの特徴点を順に論じている。すなわち並置している。3つの特徴は同じレベルにある〉(原著83ページ、邦訳94ページ)と言っている。他方、「イメージの権利」のクロード・アンベールは、階梯があることを見てとっている。〈15世紀以来用いられてきた遠近法からマネがいかに遠ざかったかを述べながら、結論に向かって3つの段階が設定されている〉(原著149ページ、同190ページ)が、彼がこの配列に読み取っていることは、私たちがこれから見ることと、かなり異なる。

*21:『マネの絵画』、前出、11ページ。op. cit., p .27.

*22:同上、11ページ。ibid., p .27.

*23:同上、12ページ。ibid., p .27.

*24:同上、14ページ。ibid., p .29.

*25:同上、14ページ。ibid., p .29.

*26:同上、26ページ。ibid., p .37.

*27:同上、32ページ。ibid., p .40.

*28:同上、43ページ。ibid., p .46.

*29:同上、44ページ。ibid., p .47.